鬼灯(ホオズキ)市
気付けば、季節はいつも自分の周りを、知らぬ間に駆け抜け、そして過ぎていった。〜言い訳〜
室井の日常に、「季節」という物を感じるのは暑さ寒さにコートの要不要や、スーツの素材を変化させる時、
後は自宅のエアコンの設定を変える時位では無かったかと思う。
他は・・・交通機関を麻痺させるほどの大雪の時だとか。
それが、今年は違っていた。
一緒に暮らし始めたのは、桜の咲く頃。
桜が咲いているのを気付かせてくれたのは、青島だった。
今まで、ギリギリ精一杯の日々を過ごしていた室井だった。
一人きりの、精神的にも肉体的にも余裕の無い生活。
青島との生活の中でのほんの些細な事の一つ一つが、季節を感じれていた頃の室井を思い出させてくれていた。
気分的に余裕があると、ちょっとした時に感じる季節が酷く新鮮で心が浮き立った。
こんな日々を送れる事を、室井は心の中で密かに感謝していた。
そろそろ、名ばかりだった「梅雨」が本格的になろうとする頃。
珍しく室井と青島の非番の日が重なった。
その日はここの所の雨も一休みなのか、久しぶりの晴天だった。
眩しさに、先に目を覚ましたのは室井だった。
躰のそこここに前夜の余韻を微かに残しながらも、柱に掛かる時計を見上げると、いつも出勤するのと同じ時間だった。
つい苦笑が漏れる。
ゆっくりと視線を戻すと、額と額がくっつき合わんばかりの間近に、まだ眠っている青島の寝顔があった。
その子供のように邪気の無い寝顔を見ていると、室井の口元に微笑みが自然と浮かんでくる。
が、いつまでもこうしていると目を覚ました青島に捕まってしまい、また暫くは寝床から離れられない状態へと持ち込まれ兼ねないので、
青島が目を覚まさない程軽く、青島の額に自分の額をコッと付けた。
そしてもう一度青島の寝顔を見て、そろりと寝床を後にした。
もぞもぞと青島は寝床で、躰の上のタオルケットを煩わしそうに引っ張った。
初夏とはいえ日が出てしまうと、みるみる気温は上昇し、寝苦しくなってくる。
室井が気を利かせて、青島に掛けていたタオルケットだったが、どうにも暑くなってきたらしく、とうとう自分の躰から引き剥がしてしまった。
同時に、いつもの慢性的な寝不足を少しでも補おうと足掻いていたのを諦めて、嫌々目を開いた。
「ふわ〜、アッチィ」
天井を見上げ、呟いた。
ハッとして隣を見たが、相変わらず彼の人の姿は無かった。
たまにはゆっくりと、寝床の中でいろんな話をしたり、室井さえ許してくれればそれ以上の事もと考えては大きく溜め息を付いた。
と、その顔がホワ〜ンと幸せそうに緩む。
昨夜の室井の事でも思い出したのかもしれない。
その時、台所の方で音がするのに気付いた。
途端、いつもの寝汚さは忘れ、サッサと起き上がって布団を畳み始めた。
青島はTシャツにハーフ丈のパンツという格好で、台所に顔を出した。
暖簾(のれん)を片手で押し上げながら入ってくる。
「おっはようございま〜す」
流しの所に立っていた室井が振り返る。
「おはよう。もう、起きたのか?」
「はい!!今日は一日、せっかく二人でいられるのに勿体なくって」
微笑む室井に青島もニッコリ笑い返す。
「で、今日の味噌汁、具は何なんスか?」
壁に掛けてあった自分のエプロンを取り、紐を結びながら室井の隣に立った。
「玉葱とジャガ芋にしようと思ってる。あ、いいぞ、私がやるから」
洗って置いてあったジャガ芋を青島が取り上げて、剥き始めた。
「俺にもやらして下さい。二人で並んで台所に立つなんて。こんな事、滅多に無いんだから。」
そう言って、鼻歌混じりに器用に剥いていく。
室井も後は玉葱を切れば朝食の用意は整うので、そちらに手を伸ばす。
サッサと皮を剥いて天辺を落とすと、半分にして切り始める。
たった一個の玉葱だったが思いの外の刺激だった。
もうそろそろ切り終わるなぁと思う頃には、その刺激に、とうとう人並み外れた室井の大きな目の涙腺が音をあげた。
何とか大急ぎで残りを切り終えようとした時、青島が気付いた。
「あれ、室井さん・・・泣いてンの?」
そう言われて室井は無意識に目元を拭った。
「アアッ、室井さん!ダメッ!!」
青島が言ったときには遅かった。
益々刺激は強くなり、今度こそ涙がボロボロと溢れ出てきた。
両手をまな板の上に置いたままで、顔ごと室井は青島の方を向かされた。
両手で室井の頬を包む格好で、こちらを向かせた青島は躊躇することなく室井の真っ赤に潤んで濡れている瞳を自分の舌で舐めた。
反射的に閉じようとする室井の瞼を、舌先で止める。
片方の瞼は閉じてしまったが、もう片方の瞼は青島に止められて、その下の瞳は青島の成すがままにされる。
そして片方が解放されたと思ったら、もう片方を。
瞑ったままの室井に、開けるのを促す様に涙で濡れている睫毛の辺りをゆっくりと舐めてくる。
くすぐったさと気恥ずかしさに、絶えきれず室井はもう片方の瞼を開いて、青島の舌を受け入れた。
片方と同様に、丁寧に青島が室井の瞳を舐め上げる。
やっと、終わったかと思ったらそのまま頬を伝っていた涙を拭ってゆく。
青島は右、左と頬を拭い最後は顎の先に小さく音を立てるキスをして、やっと室井を解放した。
まだ赤いままの目で睨み付ける室井に、青島は「へへ」と笑うとまたジャガ芋の方に注意を戻してしまった。
ちょっと赤い顔で鼻歌を再開する。
そんな青島を睨み続けるのもバカらしく思えて、室井も残り僅かの玉葱を切ってしまうことにした。
ワイワイと賑やかな(殆ど青島が一人で騒いでいたのだが)朝食の準備、そして食事が終わる頃。
食後のお茶を二人で啜っていた。
「室井さん。今日なんか予定あります?」
急にそれまでの話題を変え、青島が室井に聞いてきた。
「・・・いや、別に何もなかったはずだが・・・」
ほんの少し室井は考える。
頭の中で書斎の卓上カレンダーの書き込みや、手帳のスケジュール欄などを思い出してみたが、珍しくこれといってなかったようだった。
「ああ、何もない」
それが?という風に青島に向かって首を小さく傾げてみせる。
喜々とした表情で青島は室井の方に身を乗り出して言った。
「じゃ、出掛けましょう!!」
「何処へ?」
反対に室井はトレードマークの皺を眉間に作って尋ねる。
「浅草ッス!!」
「・・・???」
相変わらず、いきなり突拍子も無い事を言い出す青島に、室井は盛大な溜め息を付いた。
身を乗り出した格好のままの青島を、下から覗き込む様にして室井は言った。
「一体、今度は何なんだ?」
「今日ね、浅草寺で『鬼灯市』やってるはずなんです」
「『鬼灯市』?」
「そう、『鬼灯市』です!行きましょう!決ーまりッ!!」
室井に異論を唱えるスキさえ与えないような勢いで、青島は宣言した。
地下鉄で最寄りの駅に降り立った二人は、下駄を鳴らしながら地上への階段を登った。
地上に出ると浅草寺への道をぶらぶらと歩き出す。
今日の二人は先日の貰い物の浴衣の中から、余所行き用にと選んだものを着ていた。
帯もいつも家でくつろいでいる時とは違い、角帯を「貝の口」の形に結んでいる。
二人ともチョット粋にわざと帯は真ん中より心もちずらして結んであって、なかなかに着慣れた印象だった。
両手を袖口に突っ込んで、カラカラと下駄の音を楽しみながら歩いてゆく。
さすがに今日の浅草寺への道は、いつも以上の人混みだった。
浴衣姿は目立つのではという室井の心配も、沢山の老若男女の浴衣姿に杞憂に終わった。
二人はにこやかに談笑しながら、四萬六千日のお参りでごった返す浅草寺の山門を潜ろうとしていた。
新城賢太郎は今日も山程抱えている事件の特捜本部を、次から次へと飛び回っている。
所轄の用意した車を、同じく用意された運転手に任せて、自分は後部座席で書類の束を片付けていた。
読んでも読んでも終わらない、報告書の束にウンザリしていたのもあるが、それ以上に寝不足や眼精疲労から来る頭痛に
どうにも我慢が出来なくなった新城は、両の目頭をグイと押さえた。
暫くそのまま目を瞑っていたが、頭痛は酷くなってゆく。
頭痛に気を取られていた新城は、ふと車が止まっているのに気付いた。
(何をやってるんだ、この忙しい時に!!)
そうクチに出そうと、目元から手を除け視線を前に向けた。
目の前には恐ろしい程の車の列が、ピクリとも動く隙間がないほどに連なっていた。
「何なんだ・・・これは・・・」
思わず洩れた呟きに、ビクビクと運転手を勤めていた所轄の警察官が恐る恐る答えた。
「今日は浅草寺の『鬼灯市』でして。この渋滞が一日中続くんです」
自分にはどうする事も出来ない事と、渋滞の理由を言うだけ言った運転手は少し気が楽になったようだった。
その様子が気にくわなかったのか、新城はジロリとバックミラー越しに運転手を一睨みして、
思い出したように再び始まった頭痛に、手にしていた書類をわざとバサリと大きな音を立てて横の席に叩き付けた。
書類も読めない程の頭痛に気を逸らそうと、新城は視線を歩道の方に向けた。
普段の生活ではどちらを向いてもダークスーツばかりで、単一的な色彩の中で生活をしている。
そのせいか道行く人々の浴衣姿の色鮮やかな装いに、知らず新城は目を奪われていた。
人々の手にはオレンジ色の実と真っ青な葉も美しいホオズキの鉢が揺れている。
毎日がエアコンディショナーに管理された環境では感じられず、忘れていた「季節」が目の前にあった。
窓の枠に肘を乗せて、頬杖を付くような格好で新城は外の景色に見入っている。
特別に何を見ているという訳ではなかったが、アチラコチラと興味のままに視線を動かしていた新城の視線が止まった。
頬杖を解いた新城は、手探りでドアにあるパワーウインドウのスイッチを探した。
動揺しているのかなかなかスイッチが見つからない。
視線を外したら、この人込みでは見失ってしまいそうで目が離せない。
そうしている間に目標はドンドンと遠くなる。
「チッ!!」
舌打ちした新城は、しょうがなく視線を一瞬外してスイッチの位置を確認した。
急いでスイッチを押して視線を戻したが、やっと開いた窓からは、
既に新城の探していた目標は人混みの中に消えてしまって確認することは出来なかった。
「あれは・・・青島と・・・室井・・さん?」
思い掛けないところで、とんでもないモノを見たとでもいうような表情で、新城は呟いた。
二人で歩いているところを新城に見られたとも知らず、室井と青島は浅草寺の境内に入って行く。
平日にも関わらず、大変な人混みの中を本堂に向かって歩く。
途中途中で、威勢のいい呼び声が二人に「寄って行け」と掛けられる。
「ゴメン〜、お参りすんだらね」
生まれて初めての「鬼灯市」で、物珍しさと、戸惑いに、掛けられる声にもじっと視線を向け
曖昧な笑みしか向ける事の出来ない室井に比べ、青島は慣れた風で返事を返す。
「楽しいですか?室井さん」
軽く霧吹きを掛けられ、一際鮮やかに輝くホオズキに目を奪われ、足を止めて見入る室井に青島が静かに声を掛ける。
自分の後ろに立つ青島を振り仰いで、室井は微笑みながら小さく頷いた。
「そっすか・・・ヨカッタァ」
室井の笑顔にホッとしたように、青島も笑い返す。
と、その時。
ドンッと、室井の太股の辺りに何かがぶつかったような衝撃があった。
不意のことで、ほんの少しヨロリと揺らぐ室井の躰を、とっさに青島は室井の躰に腕を回して支えた。
「大丈夫ですか?室井さん」
室井の顔を覗き込む。
「あ・・・ああ、だ・大丈夫だ」
ふと上げた視線の先、存外の近さにある青島の顔に、気恥ずかしさを感じて、知らず室井の言葉がつっかえた。
そんな自分に、室井は慌てて、今の衝撃の元が何なのか確かめるべく視線を落とした。
ビックリ眼(まなこ)の小さな女の子が、室井の腿の辺りにしがみつくようにして見上げていた。
その表情が、あまりに可愛らしくて、室井は自分でも驚くほど優しい声で話し掛けた。
「大丈夫かな?」
その声色に女の子も安心したのか、ニコリと笑う。
「ごめんなさい」
きちんと躾けられているようで、ハッキリとした声で室井に謝った。
「どうしたの?気を付けないと危ないよぉ」
側で見ていた青島も、女の子に話しかける。
青島の方にもニコリと笑うと、もう一度「ごめんなさい」と女の子は言った。
「私も、ボオッとしていたからな・・・」
そう言いながらハッと気付いて、室井は女の子に聞いた。「お父さんや、お母さんは?」
「一緒じゃないの?」
殆ど同時に、青島も同じようなことを聞いていた。
二人で顔を見合わせて、すぐに女の子に視線を戻す。
少しおませな感じで物怖じもせず、二人に向かって女の子は答えた。
「おかあ様と一緒」
そう答えていたところに、女性の声がした。
「サーヤ!!」
声のする方に三人は顔を向けた。
人混みの中から、一人の女性がこちらに向かって、小走りに近付いてくる。
「おかあ様!!」
『サーヤ』と呼ばれた女の子が、そちらに向かって駆け寄って行く。
「急に居なくなるんですもの、おかあ様、びっくりしたのよ」
「ごめんなさい」
シュンと、屈んで自分を見る母親に、申し訳なさそうに女の子は謝っている。
苦笑混じりに、室井と青島はその光景を見ていた。
娘と一言二言言葉を交わして、パッと女性が二人の方に視線を向けた。
すぐに立ち上がると、娘の手を引いて二人の前に来た。
知識の無い男二人にも何とはなしにそれと判る、仕立ての良さそうな、品の良いパステルカラーのワンピース姿の
なかなか美しい女性だった。
良いとこの若奥様という感じの女性は、深々と頭を下げた。
「娘が、ご迷惑をお掛けしましたそうで。申し訳ございません」
心からすまなそうに頭を下げる女性の傍らで、女の子がが室井を見上げて言った。
「あのね、おかあ様。このお兄ちゃまにサーヤ、ぶつかっちゃったの」
そして、ちゃっかりと室井の手を握って、嬉しそうに室井に笑い掛けた。
女の子に気に入られてしまったらしい室井は、その笑顔に自分も笑顔を返し、母親に言った。
「いえ、私の方こそ注意がたりませんで。ね?」
女の子にもう一度笑顔を向ける。
そのやり取りを端で見ていた青島は、大人げなくも、この親子から室井を、一分でも一秒でも早く引き離す事にした。
「や〜、こっちはもう全ッ然ヘーキですから。ご心配なく。って事で、そろそろ俺達、行きましょっか?」
そう言って、サッサと話を終わらせようとした。
「もう・・・だから一緒に手を繋いでましょうって言ったのに。本当にご迷惑をお掛けしまして・・・アラ?」
「は?」
もう一度頭を下げた女性は、改めて見た室井の顔を、しげしげと見つめ始めた。
見つめられる室井は、訳が解らない。
「・・・何処かで・・・?・・・」
言いかけて女性は考えている。
「お知り合いですか?」
ボソッと青島が室井に小さな声で尋ねる。
青島の心中はかなり複雑だった。
「え?いや・・・私の知り合いでは・・・」
室井がいくら考えても、自分の知り合いの中に、この目の前の女性は居なかった。
女性の方もチョット小首を傾げながら、まだ考えていたが、「あ!」と小さく声を挙げると室井に言った。
「失礼ですけど・・・。もしかして『室井様』では、いらっしゃいませんか?」
面食らった室井は、もう一度記憶の中にこの女性のことを捜してみたが、やはり分からない。
「『正和さん』のお友だちの?」
『正和』で、やっと室井の記憶に何かが引っ掛かった。
「どうした?」
そこに、人混みの中から声がした。
一斉に声の方に視線が動く。
人混みの中に、人より頭一つ大きい体があった。
すぐにソレだと判った。
人混みを抜けて来た男共々、青島と室井もその場に固まってしまった。
一時、気まずい沈黙が三人を捕らえていた。
「正和おじちゃま!!」
そんな雰囲気を、サーヤの一声が一掃する。
室井の手を握ったまま、サーヤが喜々として一倉に今し方のことを報告する。
目の前の二人からサーヤに視線を移し、一倉は静かに話を聞いた。
浴衣姿の室井と青島。
官庁の中では想像もつかない、ポロシャツに麻のパンツというラフな格好の一倉。
三人が同時に大きなタメ息をついた。
居たたまれずにいる大人の気持ちは知らぬ事と、サーヤは嬉しそうに室井から離れずにいた。
とうとう一倉が口を開いた。
「サーヤ、随分とお気に入りだな?そのお兄ちゃま」
「サーヤ、お兄ちゃまが好き!!」
ニコニコと笑いながらサーヤは答える。
「そうか」
少し恨めしげに自分を見る室井に、一倉は苦笑混じりに言った。
「だそうだゾ。色男」
思わず眉間にいつもの皺を刻み、室井は目を瞑った。
室井を横目で見て、やっと青島は一倉に挨拶をした。
「どーも。お久しぶりです」
そう言って、ニカッと笑う。
「なんだ居たのか」とでも言いたげな顔で、一倉は青島を見た。
返事は返さない。
「ま、いいけど・・・」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で、青島は呟くと、当たり障りのないことを、一倉に話しかけた。
室井も交え、三人は僅かな時間、当たり障りのない立ち話をした。
次の用がある一倉達に、別れの挨拶をする。
「お兄ちゃま達も、一緒にいいでしょう?」
我が儘を言うサーヤを「メッ!」と小さく叱って、母親が先を促す。
嫌々、サーヤは室井の手を離した。
「ねぇ、お兄ちゃまわたしのおウチに、遊びに来てくれる?」
そう言うサーヤの小さな手を両手で包みながら、室井はサーヤの視線に合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。
「いつかお邪魔しよう」
「本当?」
「ああ、約束する」
子供相手に、堅い言い方だったが、ソレがいかにも室井らしくて、青島も一倉もそんな二人を微笑みながら黙って見ていた。
「じゃあ、またな」
ニヤリと笑って手を挙げると、名残惜しげに何度も室井の方を振り返りながら、
一足先に母親に手を引かれ境内を抜けていったサーヤ達を追って、一倉も人混みの中に消えていった。
人混みを、大柄な割に器用にぶつかりもせず抜けながら、一倉は今の光景を思い返した。
「あんな室井は・・・初めてだな。あいつのあんな顔(表情)は・・・」
気付けば、初めて見た室井の表情を思い返して、嬉しいような哀しいような、
何とも複雑な感情が一倉の心の片隅の部分を占め始めていた。
やっと本堂でお参りを済ませた二人は、今来た道をゆっくりと立ち戻っていた。
歩きながら、先程思い掛けず一倉と会ってしまって、益々無口になった室井の横顔を見つめながら、青島は問い掛けてみた。
「何を・・・お参りしたんですか?」
さっき、本堂の前で一心に手を合わせていた室井を思い出しての問いだった。
室井は俯き加減の視線を青島に向けることもなく、ひっそりと笑って答えなかった。
自分より頭一つ分小さな躰を見下ろして、青島は言い様のない切なさを感じていた。
「・・・一鉢、買ってかえろうか?」
急に室井が青島の方を見た。
穏やかな眼差しで自分を見上げる室井に、今感じている切なさが益々青島を追いつめる。
「どした?」
青島が覗き込んだ室井の大きな瞳には、口をへの字に結んだ、今にも泣き出しそうな自分が映っている。
「何でもナイです」
そんな返事で納得する室井ではないと知りながら、青島はそう答えた。
案の定、心配げな室井は尚も続ける。
「それが、『何でもナイ』って顔か?」
室井の眉間に、いつもの皺が刻まれる。
仕方がないので、青島は一応もっともらしい答えを返しておく。
「俺が無理に誘ったのがマズかったかなって。まさか一倉さんに会うなんて。俺は平気ですけど、室井さんは・・・」
みるみる室井の眉間の皺が、青島の目の前で消えてゆく。
ホッとしたように微笑むと、室井は通行人の邪魔にならないように「歩きながら話そう」と言う感じで視線をツイと動かした。
「室井さんの立場ってものもあるだろうし・・・」
「心配するな」
人混みの中、何とか青島の耳に届くほどの大きさではあったが、ハッキリと、間髪入れずに室井は答えた。
先程とは違い、真っ直ぐに視線を前に向けて室井は続けた。
「あいつは・・・、一倉は大丈夫だ。それに、私は構わない。そう思っている」
「室井さん・・・」
また立ち止まってしまった青島を、室井が腕をとって引っ張る。
「『私の立場』なら、心配するな。君に心配される程、落ちぶれちゃいない」
そう言って、今度はニヤリと片頬だけをあげて笑って見せた。
青島も暫し呆然とそんな室井を見ていたが、自分もニヤリと笑うと、引っ張られていた手で今度は自分が室井の腕を取り直し、
引っ張り返すようにして歩き出しながら言った。
「そうでした。俺達『名コンビ』でした!イロイロ、ありましたもんね?」
「何度言わす!『腐れ縁』だ!!」
二人は込み合う参道を、笑いながら歩いて行く。
「アーーーーーッ!!」
人混みの中、いきなり声がした。
「キャッ!!ナニ?どうしたの?すみれさん」
先頭を歩いていたすみれが急に立ち止まったせいで、すぐ後ろを歩いていた雪乃が、すみれの小さな背中にぶつかった。
「痛ッ!!どうしたんでか?雪乃さん!!すみれさん??」
雪乃のそのまた後ろを沢山の荷物を持たされて付いて歩いていた真下が、こちらも雪乃の背中にぶつかった。
「痛い!!真下さん」
雪乃がジロリと後ろの真下を睨んだ。
「あ・・・ごめんなさい・・・(ボクが悪いの?)」
つい謝ってしまう気弱な真下だったが、元凶はすみれだと気付くと、少し恨めしそうに言った。
「もぉ〜、すみれさぁん。なんなんですかぁ?すみれさんが急に止まるから、僕が雪乃さんから怒られちゃったじゃないですかぁ」
そんな真下には目もくれず、すみれは先程から一点を凝視したまま立ち止まっていた。
「アレ・・・じゃない?」
すみれは小さな声で呟いた。
「何です?」
「え、ナニ?ナニ?」
聞き取りづらい程の小さな声で呟くすみれを覗き込んでいた雪乃と真下が、すみれの視線の先へと自分達の視線も動かした。
「青島さん!」
「あ、先輩!!」
彼等の視線の先には見慣れた同僚の姿が、人混みの途切れ途切れに見え隠れしている。
「わ、青島さんったら、浴衣着てる♪」
「ホントだ」
「ね、アッチに行きましょうよ。すみれさん」
「そうしましょうよぅ、すみれさん!!」
騒ぐ二人にすみれがボソリと言った。
「青島君、一人じゃない・・・」
「え?」
「エッ、ウソッ!!誰??」
「もしかして・・・」
「もしかすると!!」
雪乃と真下は互いに顔を見合わせて同時に言った。
「彼女?!」
「『彼女』とはチョット違うかも・・・」
続けて呟いたすみれの言葉は、キャアキャアとはしゃぐ二人にはまるで聞こえてはいなかった。
その時、ホオズキを持ってきている出店の一件に掴まった青島と室井の二人は、
すみれ達の数メートル先で、あの鉢この鉢と物色していた。
まるで三人には気付いていない。
「イヤ〜ン、見えない!!」
「ホント、見えそうで見えませんねぇ。すみれさん、見えますか?」
今にも見えそうなのに見えない青島の連れに、雪乃と真下が焦れったそうにすみれに尋ねる。
「見えない方がイイかもね」
すみれの答えに、二人が怪訝そうに頭を傾げた。
偶然に、漸く人並みが途切れ、とうとう青島の連れが見えた。
「あ、見えた!!」
「え?男の人??」
すみれを押し潰さんばかりに身を乗り出していた二人は、それだけ言うと絶句してしまった。
どちらのモノか、ゴクリと喉が鳴る。
「む・・・室井さん?」
ようやっと二人が青島の連れの名を口にしたのは、それからどの位の時間がたってからのことだったろうか。
「だから、見えない方がいいんじゃない?って言ったのに」
惚けながら、目の前の光景に見入っている二人の横で、(一見)割と平然と立っていたすみれが言った。
「だって、全然雰囲気が違ぁ〜う!!室井さんったら」
「トレードマークの、オールバックじゃないし・・・第一、室井さんって言えば、ダークスーツって感じだし!!それが、よりによって」
「浴衣よ!!」
「浴衣ですよ!!」
雪乃と真下はまたまた同時に叫んでいた。
三人に見つかったのも知らず、青島と室井は買ったホオズキの鉢を手に、再び人混みの中に歩き出そうとしていた。
「行くわよ」
すみれはボソリと言うと、その小さな身体で人混みに向かって突っ込んでいく。
「すみれさん、待ってェ!!」
「エエッ!!行くんですかァッ!?」
「逃がすもんですか!!」
何だか意味ありげなセリフを呟きながら、ニヤリと笑ってすみれはズンズン進む。
「ホラッ、真下さん!!早くっ!ナニしてんの!!」
グズグズしている真下が焦れったくて、雪乃は真下の手を掴んですみれの後を追った。
(うわ♪雪乃さん)
一瞬、そんな(きっと雪乃に取ってはなんて事無い)些細なことに、ちょっと幸せを感じながら、
引っ張られるままに真下も張り切る女性陣の後に続いた。
すみれはこれからの食生活の充実のため、雪乃は飽くなき好奇心を満たすため、
真下もなんだかんだ言いつつ、実は他の室井シンパ達を出し抜ける絶好のチャンスと、三人が三様の思惑で
前方を歩く二人を追いかけた。
しかし・・・。
三人の必死の追跡も、こう人が多くてはどうにも思うようにはいなかった。
「ちょっとぉ、どこいったのよ?青島君達」
小柄なすみれが、飛び上がって辺りを見渡すが、それらしい二人の姿は見えない。
「真下さんもしっかり探して!!」
雪乃にガミガミ言われながら、真下もキョロキョロと二人の姿を探す。
「本当に、声掛けるつもりですか?すみれさん」
「なによ?」
ジロリとすみれが真下を下の方から睨み付ける。
(コワッ・・・)
あまりのその目つきの悪さに、真下は慌ててもう一度周りを見渡した。
「アッ!!」
「いたのッ?!」
「ドコッ?!」
「あそこ・・・」
人混みの中、真下がやっと上げた沢山の荷物を持たされたままの手で指し示した方向を、すみれと雪乃が見てみると、
思い掛けず三人は探し求めていた二人の近くにいたことが判った。
先程、遠目で見た二人とは違い、今度はかなり近い距離で表情もよく見える。
「・・・なんか、本当に雰囲気、違いますね」
ポツリと真下が言った。
「うん」
後の二人も頷く。
いつも見かける、全身に鎧を纏って見えない何かと戦っているような、独特の雰囲気を持つ室井とは、まるで違う姿。
穏やかな表情で、微笑みさえ浮かべながら青島と話をしている。
見ているコチラさえも、余分な程に緊張してしまうような、何処か張りつめた眼差しも、今は柔らかく周りに注がれている。
ほんの、数メートル先。
三人の今まで見たことのない、知らない室井が居た。
そんな室井を見て、声が掛けづらくなってしまった三人だったが、意を決してすみれが声を掛けようとした時だった。
いつも他人に優しい眼差しを向ける青島が、より以上に優しげな眼差しで話をする室井を見ていたが、
その室井が何かに気を取られそちらに注意を払った途端、まるで三人が居ることに気付いていたかのようにこちらを捕らえた。
周りの騒がしさと、思ったよりも近くに居たとはいえやはりある程度の距離はあって、
三人の話が聞こえて気付いていたのだとは思えない。
なのに、青島は三人がいるのに気付いていたらしい。
そんなことより、静かに三人を見る青島のその眼差しの中に込められている気持ちを、三人は突然に察してしまった。
そんな三人に、青島は側の室井には気付かれないように注意しながら、見逃しそうな程の一瞬の間に
「ゴメン」と言葉の代わりにさり気なく片手を上げた。
とうとう、声を掛けるタイミングを失ってしまった三人。
その場に立ち尽くしている三人を残して、青島と室井の二人は人波に少しずつ紛れていく。
「あ・・・」
「行っちゃう・・・」
雪乃と真下がその姿を目で追う。
「真下君!お昼奢って!!」
「はぁ?」
いきなりな言葉に振り向いた真下と雪乃が見たすみれは、消えてゆく二人など最初っから見なかったかのように、
もういつもの調子に戻っていた。
「浅草まで来たからには、どーしても食べたいのあるんだ♪」
「・・・でも・・・」
「ねぇ?いいんですか?すみれさん!!行っちゃいますよ、先輩と室井さん」
未だに二人のことが気になっている雪乃と真下は、すみれに食い下がった。
「まあ、今日のトコは青島君のあの顔に免じて、知らぬ振りしてあげよう。さ、お腹空いたし。行こう!!」
こうなったすみれには、もう何を言ってもどうにも出来ないことを同僚として充分知っていた二人は、後ろ髪を引かれながらも、
仕方が無いとすみれに引っ張られながら、室井と青島の消えた方とは正反対の、彼女のお目当ての店のある方向へと歩きだした。
(また、気を使って・・・)
自分に気付かれまいと、出来るだけさり気なく同僚達を追い返した青島に、実は室井は気付いていた。
通りすがりに覗いた食べ物を扱っている露店の撥ねよけのアクリル板に、見知った顔が3つ映ったのを見逃さなかったのだ。
声を掛けられたら掛けられたで、室井自身はどうと言うこともなかったのだが、先程の一倉とのこともあるのだろう、
室井を気を使う青島の気持ちを考えて室井からはその事には触れず、青島が言い出さない限りは知らぬ振りをすることにした。
こんな時くらい、青島の気遣いに甘えておこうと思ったから・・・。
「何を・・・お参りしてたんですか?」
先程の青島の問い。
あの時に室井が願ったこと。
こんな風にいつまでも穏やかに過ごせる時間が、自分達が思うままに続けられないことは、「一緒に暮らしましょう」と青島が言い、
その帰り道に自分が承諾する事を決心した時からわかっていることだった。
室井は胸の中で、密かに覚悟していた。
この居心地のいい世界から、いつかは歩き出さなくてはならない。
別れの時は、そう遠くない未来に必ず来る。
どんなに願っても、時間が止まることはないし、戻せるものでもない。
その時はきっと来る。
室井は自分がその時に、青島の前で見苦しく取り乱すことのないようにと祈った。
例え別々に歩き出したとしても、交わした「約束」は薄れることなく、むしろこの大切な想い出の日々によって
一層鮮やかに互いの心の奥深くで輝き続けることだろう。
同じ思いを胸に抱いていれば、一人でも歩き出せる。
青島を愛する気持ちを知らなかった頃の、室井ではないから。
そして、なによりも願ったことは青島のこと。
四萬六千日分の功徳が得られるといわれる今日。
自分が得られるという功徳の全てを、彼へと祈る。
何よりも他人の為にと駆けている彼を、守って欲しいと願う。
これからも、あの秋深い日のように自分の命を削られる方がどれだけいいかということがあるはずだった。
自分が少しでも上に昇ることだけでは、彼を守れない。
明日にでもまた、血溜まりの中に青島は横たわっているかもしれない。
同期の中では一二を争う出世の速さを誇る室井でさえ、自分の歩みの速さがもどかしくてならない。
(もっと早く!出来るだけ早く、彼等を守れる場所まで昇らなくては!!)
気ばかりが焦るが、室井の力ではどうにもならない。
せめて自分に得られるはずの四萬六千日分の功徳で青島を守って欲しいと、今はただ気休めでも、
神仏に祈ることより他に思い付かない室井だった。
この先も青島の問いに、応える気はなかった。
尋ねられる度に、室井は黙って微笑むだけ。
梅雨の中休み。
鬼灯市は今年もその一瞬の晴れ間を待ち望んでいた、大勢の人で溢れている。
久しぶりに顔を出した太陽に、参道沿いの店先で買い手を待つホオズキのオレンジ色が、その太陽の色を吸って鮮やかに輝いている。
負けじと室井と青島が一緒に買い求めた鉢植えのホオズキも、抱える青島の腕の中で、一層輝く。
太陽がオレンジ色に見えるほどの暑い夏は、もうすぐそこまで来ていた。
2000・02・22UP
makke印の「ペシミスト室井さん」、本領発揮!!という感じで終わってしまいましたが・・・シュン〜☆
幸せな「一緒に暮らしてます編」を書くつもりが、どうしてこんなコトになっちゃうんでしょう?>毎回毎回
たまには、笑顔全開の二人ってモノを書いてみたいです。(><)
このお話は、昨年「ホオズキ市」をニュースで見た時にネタとして書き留めておいたモノを引っぱり出してきました。
ちょっと凹んでいたので、リハビリを兼ねて書き出すと、いつの間にやらほぼオールスター並みの登場人物が出てきて
セリフの言い回しなど、自分なりに考えてみたんですが。少しはイメージが画像として浮かんできましたでしょうか?
いつも、そんなお話が書きたいと思ってがんばってんですけど・・・>イメージ画像が浮かぶ文章
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