家路


寄り掛かった乗降口側の壁。
その壁から、終電間近の電車の振動が伝わってくる。
一日の仕事がやっと終わり、家路へと向かう電車に揺られながら
ボンヤリと車窓の景色に視線を泳がせていた。
12月に入ったこの時期、窓の外は遙か昔に、既に日も落ち、
見えるものと言えば暗闇に浮かぶ、いつもの高層ビル群の窓の明かりと、
十日近く後に迫ったクリスマスのイルミネーション。
疲れのせいで眠気を催してきた眼差しで、それでも暗闇を見つめてみる。
まるで何かを探してでもいるかのように。
軽い疲労感を引きずったまま電車を降り、駅の出口から外へと踏み出す。
電車の中、むしろ利きすぎな程の暖房で暖められていた身体の、
剥き出しの頬が、
師走の寒風に吹かれキュッと一瞬に引き締まる。
思わず首を竦め、白い息を吐きながら夜空を見上げる。
何時しか駅前の雑踏の音も消え、ぽつんと立ち尽くす。
自分だけが一人取り残されたような、そんなワケもない寂しさを感じながら
もう一つ溜め息を吐く。
 
「何をしてる?」
驚いてビクッと身体が小さく飛び上がるほど近くで、急に声を掛けられた。
慌てて振り向いたのは、間違えようもない位聞き覚えのある声だったから。
「室井さん!!」
それまでのボンヤリした気分はアッと言う間に吹き飛んだ。
俺のすぐ後ろで室井さんは微笑みながら立っていた。
「今(帰り)か?」
「あ、ハイ♪室井さんも?」
「今日は珍しく早く(その日のうちに)帰れた」
「そっか、今忙しいんですよね?警備局の方も」
「ああ。年末年始はどうしてもな」
「よかったですね、早く帰れて」
「明日は、またどうなるか分からないけどな」
「室井さん、夕飯は?」
「済ませてきた。お前は?」
「あ、俺も。途中で」
「そっか・・・」
「にしても・・・。ホント、ヨカッタですね♪
 今日、こうして一緒に帰れるなんて。ね?」
小首を傾げるようにして室井さんの顔を覗き込んだ俺に、室井さんも微笑みを返す。
一緒に暮らし始めて何ヶ月も経ったというのに、俺は未だにこの室井さんの微笑みに慣れずにいる。
今もそうだ。
ついボケッと見とれてしまった。
そんなアホ面の俺を置いて、室井さんが駅舎を後に一歩踏み出した。
我に返った俺も、慌てて後を追う。
 
2人で辿る家路の、なんて幸せなことだろう。
仕事柄のせいか、同じ家で暮らしているとはいっても殆ど帰りが一緒になることはない。
職場も違えば、役職も違う。
そんな2人が偶然にも同じ時間に帰れるなんて事は、まず無いと言ってよかった。
だからこそ、こうして一緒に帰れるなんて事は奇跡に近く、
室井さんと俺の2人きり、ただ黙って家への道を歩いているだけで、
俺はとても嬉しく、ほのぼのとした気分だった。
今だけは、室井さんと一緒に同じ道の上を肩を並べてて歩いているんだ。
2人の約束を遂げるために、俺も室井さんも日々歩き続けている。
時には駆け足で・・・・・。
だけど俺達は同じ道の上を進んでいるわけではなく、
室井さんは室井さんの、俺には俺の、目の前に何処までも果て無き如く伸びている、
それぞれの行くべき道を歩き続けている。
どれほど俺が室井さんの傍らを歩いているつもりでいようとも、
それは決して同じ道を歩いているってわけじゃない。
誰よりも室井さんに近しい道を進みながら、彼がふと辺りを見回した時に
すぐ隣のレーンを、例え速度は恐ろしく違っていようとも必ず俺が進んでいる。
そんなポジションだ。
俺が自分自身で選んだポジション。
だけど・・・たまに今日みたいに淋しく思える時がある。
淋しいっていうより、もどかしいような感じかな?
今のところ、2人で交わした約束のために進んでいる道程で、
いつも俺が見ているのは、室井さんの頑張ってる背中ばかりだから。
一日でも、一時間でも早く、あの背中に近づいて
いつか肩を並べて歩けるようになるのかなぁ・・・なんて思っちゃったりするわけで。
 
只々黙って歩くだけの家路。
それだけでも充分俺は幸せになってしまった。
さっきのワケもない寂しさ混じりの溜め息とはまるで違う、
今度は満ち足り過ぎたあまりの、満足感の滲んだ息を、
寒さに悴んだ素手の両手を口に当て、ホウッと吐き出した。
途端に室井さんの足が止まる。
俺も立ち止まって室井さんを見下ろす。
今度は俺が尋ねた。
「どうしました?」
室井さんが尋ね返す。
「手・・・どうした?」
「え?手??」
「手袋、持ってないのか?」
「ああ、手袋。や〜持ってます。持ってますけど、署に忘れちゃったみたいで。
 今朝、ちゃんとしてきましたし、今日も出先では填めたり外したりしましたから。
 帰りの電車の中で忘れてきたのに気付いちゃいました。ヘヘヘ」
「何をやってる。しょうがないヤツだな」
室井さんはそう言いたげな視線で俺を見上げる。
眉間には見慣れた皺が刻まれていたが、それはいつものとはちょっとニュアンスが違っていたようだ。
何故なら皺は薄かったし、口元には柔らかな微笑みが浮かんだままでいたから。
 
突然、室井さんが片手を差し出してきた。
上質の柔らかな皮の手袋を俺の目の前で外した、その手を。
「手を・・・」
「へ?」
「両手を繋いでいては歩けないから、せめて片手だけでも・・・暖かくして帰らないか?」
「・・・エッ!!手ッ!!手ェ繋いでもいいんスか?!」
室井さんの思い掛けない行動と言葉に、俺は思わず勢い込んで、もう一度確認すべく聞き返した。
その勢いに、室井さんはちょっと後じさりながら
「少しは暖かいかと思ったんだが。嫌なら・・・」と呟きかけたが、
全部は言わさなかった。
直ぐさま俺は室井さんの差し出された手に飛び付いた。
ギュッと握り締めた室井さんの手は、悴んだままの俺の手にさえスッポリと収まった。
「暖かい手ッスね」
この時本当のことを言うと、悴んでいた手には、室井さんの手の温かさはまだ感じられてはいなかった。
だけど室井さんの心が暖かくって、こんな言葉が自然と口から出ていた。
「そっか?こんなモンだろう?」
暖かいと言う俺の言葉に、室井さんは小首を傾げる。
「や、全然暖かいッスよ〜♪やっぱ、『北国育ち』だからッスかね?」
俺がニッと笑って尋ねると、逡巡した室井さんはあっさりと
「さあ?」とだけ言って、また歩き出した。
軽く引っ張られるようにして、俺も後に続く。
 
歩幅を数歩分大きくして室井さんと肩を並べて歩いていたら、どうしても言いたくなって
俺はさっきからのこの体中を満たしてくれている暖かさを言葉にした。
「う〜ん♪俺今、スッゴイ幸せッス」
立ち止まりそうになる室井さんを、俺が引っ張りながら言葉を続ける。
「誰よりも、ひょっとすると自分よりも大切な人と、
 こうして一緒に歩いて行けてるんですもん。
 そんな大切な人がいてくれてるって、これってスッゴイ幸せだと思うんですよ。
 いろ〜んなヤな事、辛い事、哀しい事、淋しい事・・・何もかんもが
 こうしてその人の手の温もりを感じられただけで、消えちゃうなんて。
 『この人が居てくれるから、大丈夫』みたいにね、思えちゃう。
 室井さん、側に居てくれて、居させてくれてありがとう」
ニッコと俺が笑いかけた室井さんは、残念ながらコッチの方を見てくれてはいなくて
キュッと下唇を噛んで、冷たいアスファルトを見つめていた。
なんだかそれ以上話をするのも憚られ、俺達は黙って帰り道を辿っていった。
 
どの位経っただろう、もうすぐウチだって頃。
何か聞こえた気がして、俺はそちらの方に視線を動かした。
視線の先には、室井さんが居る。
「あの、何か・・・言いました?」
室井さんは立ち止まり、自然と一緒に手を繋いでいる俺も立ち止まった。
「終電間近い電車に乗って・・・」
室井さんが俯いたまま話し始めた。
「気付いたんだ、やっと。忙しさにかまけて、まるで忘れていた。
 だから、何も出来なかった。用意すらしていないんだ。
 せめて夕飯ぐらいと思ったが、私も既に済ませたし、君も聞けば済ませたと言う。
 第一、この時間だ。店も気の利いたところが開いているはずもない」
「え?ちょ、室井さん。何言って・・・」
室井さんの言っている事に訳が解らず、戸惑う俺。
だけど室井さんは構わず続けた。
「このまま、君が気付かずにいたら・・・後日埋め合わせをしよう。後でキチンと用意しよう。
 それから伝えればいいと、だから忘れた振り、知らぬ振りをしようと、そう思っていたんだ。
 だが、君はこうして、2人で家路を辿るだけで幸せだと。ありがとうと言ってくれる。
 だから、私も今言わせて貰う」
そこまで言うと室井さんは、頭を上げて、真っ正面から俺を見つめた。
「誕生日、おめでとう」
佇む俺達を、車のヘッドライトが照らし、追い越し、消えてゆく。
「君が、33年前のこの日にこの世に生を受け、そして今、私の目の前に居る。
 私の方こそ、今この特別な日に君の傍らに居られて、心から幸せだと思っている。
 本当に、側に居てくれてありがとう」
静かに俺を見つめる室井さんの瞳が、穏やかな色で俺を映している。
「・・・俺。今日、俺の誕生日?」
室井さんは繋いだ手の温もりを消さないように、そのままそっと持ち上げると
鞄を持った方の手でコートと上着の袖口を引いて、自分の時計を見た。
じっと文字盤を見て、口元だけもう一度新しく笑顔を刻む。
「大丈夫だ。
 午前0時前だから、確かにまだ今は12月13日。
 お前の誕生日だ」
「そんな・・・俺でさえ忘れてたのに・・・・・」
ツンと鼻の奥が痛んだ。
それを隠すこともなかったけれど、急いで俺はグスッと一つ鼻を啜った。
気を回しすぎるくらいの人だから、俺の態度に何か勝手に妙なこと考えたりしかねない。
せっかくのこの人の笑顔を曇らせるわけにはいかないから。
「室井さん、憶えててくれて嬉しいです」
「いや、さっき言ったように、私も忘れていたんだ。
 ほんの少し前まで、すっかり忘れていた」
「それでも、俺に思い出させてくれたでしょう?
 本当に・・・ありがとうございます」
「・・・・・」
「でね、室井さん。俺、考えたんスけど。
 『何の用意も無い』って言ったでしょう?
 確かね、今度ユックリできる日にとっとこうって言って、
 冷蔵庫にワインが2本ばかり入ってると思うんですよ」
「あ!」という感じで、室井さんが小さく口を開く。
「そう言えば、この間。一倉のトコから届け物があったな。
 年末の・・・歳暮だったか・・・・・」
「紀伊国屋の中でも、最高級の詰め合わせ。
 キャビアに生ハム。
 それからご近所からのお裾分けに、チーズも有りますよ。
 こんだけ有ったら、ワインの肴には充分でしょ」
「そだな」
「よ〜し、そうと決まれば♪」
黙って微笑む室井さんの優しい笑顔が、俺の全身を包んでくれる。
繋いだ片手をスッポリと包んでいるのは俺の方なのに。
この人が俺の『大切な人』で、本当によかった。
 
いつまでも、いつまでも・・・この手を離さずに歩いて行けたらいいと思う。
一緒に歩いていけるだけで幸せなんだから。
日々の何気ない出来事を、2人で見つめていたい。
そうしていつかそれを、2人で懐かしんでみたりして。
そんな日が来るまで、2人は歩き続ける。
こんな風に・・・ずっと・・・ずっと・・・・・
 
「さあ、室井さん。家へ帰りましょう」
 
2000・12・13UP
青島君のB・Dayに寄せて