朝日のあたる家 |
溶けた蝋みたいに熱い肌を知ってる。
抱き締める、強い力を知ってる。
涙を流す、清冽な眼を知ってる。
名前を呼ばれると、疼くように俺の身体は反応して、もっともっとあの人を奪いたくなる。
その存在の確かさと、時間の儚さに泣きたいような気持ちになる。
出かけるときにはすっかり冷ますその身体に、俺の刻印を刻みたい。
俺があの人を想うように、あの人の身体の一部に俺がいてくれたらと思う。
ゆっくりと意識は浮上した。
少し肌寒さを覚えて首をすくめると、青島はシーツをたぐりながら無意識にぬくもりを求めて、隣のスペースに腕を伸ばした。 愛しい人の眠るその場所に――――。
「‥‥‥‥?」
青島の指に冷たいシーツが触る。
ごそごそとまさぐって、一気に目は開いた。
「むろいさ‥‥っ」
文字通り飛び起きて、カラになったシーツにギクリとする。一瞬考えて、認めた目覚まし時計の示す時間に愕然とした。
――――7:25
家中探し回るまでもなく、室井は出勤のために部屋を出た後である。
「あ‥‥」
青島はまだ半寝ぼけの頭で事態を察知すると、知らずに詰めていた息をゆるゆると吐き落とした。全身の力と一緒に。
‥‥‥‥行っちゃったか
無性に悲しくなって、ベッドの上で枕を抱えてうずくまる。
今頃、もう室井は駅に着いているだろう。いや、電車に乗ってるか。――――どちらにせよ、追いつけるはずもない。
自分の鈍くささに、悪態をつく気力もないほど落胆した。
室井は青島の眠りを妨げることを気遣ったのだろう。声を掛けずに、出て行ってしまった。
湿度を含んだ薄ら寒い空気が、重たく青島を包む。けだるさが痺れのようになって全身を覆っている。
この部屋から室井を送り出したことは、初めてではなかった。
ピシリとネクタイを締め、三つ揃いをきちんと着込んだ室井は、前夜の甘さをかけらも見せないほどストイックで、厳格なまでに一分の乱れもない。「行って来る」と、わずかに凄みのある笑みを浮かべて迷いなく出ていく背中が、青島には圧倒されるほど格好良くて、切なかった。
これでまたしばらくは、あの人と顔を合わすこともないのだろう。逢いたくて、逢えない日々がまた始まる。
大きく息を吐いて、ベッドの下に足を下ろした。
目なんか瞑らなくても、ありありと鮮やかにその姿を思い浮かべることが出来る。なのに、その名前を呼んでも声が返ることはない。
薄暗い部屋は、青島だけを残して、寂しく虚ろだった。遠くで、自動車が水を跳ねる音がする。
静寂。
――――起きたら室井が居なかった。たったそれだけのことで、子供のように青島の心はぼんやりと立ちつくしてしまっている。
どうかしていると、自分でも思う。
こんな当たり前で、どうしようもないことに今更ブルーになっている自分が情けない奴だとも自覚している。
分かっているのに、胸の底が寂しい。
‥‥‥‥何だってんだ。
昨日の夜が激しすぎたからだろうか。
昨夜、珍しく不意打ちに部屋で待っていた室井に驚かされた。驚いて、その衝動のままに室井の身体を掻き抱いた。自分より少しだけ小柄な引き締まった身体が、その腕が、しっかりと青島の身体を引き寄せた――――そのまま。
「ああ‥‥」
青島は、自分が昨日ひどく疲れていたのだと気がついた。誰も居ないはずの自分の部屋に、灯りがついていたのにも気がつかないほどに。
どっと倍増しされた自己嫌悪が襲いかかる。
昨日、いったい自分はどれだけ室井を思いやれただろうか? 疲れにまかせて、自分勝手に欲望を吐き出したんじゃないだろうか? あんなふうに室井が訪れたのは、何か青島に話したいことでもあったのかも知れない。――――なのに、まともに話もできないで‥‥‥‥。
ベッドに腰掛けたまま、最低な恋人だったかも知れない昨日の自分を思って、深く溜息をつく。
――――低くかすれた声で名前を呼ばれたの覚えている。同時に爪を立てられた痛みも鮮明に‥‥。
思い出すと奥底で叫び声をあげるのに、身体は木偶のように動かなかった。‥‥‥‥ただ、口の中でその人の名前を呼ぶと、甘く暖かく、灯がともる。――――――星が瞬くように、小さく。
重い体を引きずるようにして、青島は部屋を出た。熱いシャワーでも被れば、少しはまともな思考が出来るに違いない。
ゆらゆらと壁にぶつかるようにして通り過ぎようとしたダイニングに、ふと違和感を感じた。
――――ん?
霞がかかっている頭をガシガシ掻いて、まだ開こうとしない目を引き上げるようにして様子を窺う。
キッチンが、妙に明るかった。
いつも雑然としていて、物が積み重なった棚が整理されて、窓からの光が真っ直ぐにダイニングに差し込んでいたのだった。
昨日、どころか一昨日から漬けっぱなしになっていたシンクの食器類がキレイに隣の籠に並んでいる。
――――片づいてら‥‥。
ぽかんとそれらを見渡して、すぐに考えついた答えに慌てて見直すと、片づけられたテーブルの真ん中に、手帳を千切った紙片があった。
『味噌汁が余ったから、よかったら食ってくれ。 室井』
側に転がったボールペン。
室井らしい簡素な文句に苦笑して、その小さな紙を手に取る。「室井」と書かれた上に指を這わせた。いとおしい、やるせない文字。サインなんかしなくても、他に誰も居ないだろうに‥‥その妙な律儀さが、また青島を堪らなくさせる。
好きだ。
馬鹿馬鹿しいほど単純に、だが強烈に室井への気持ちを再認識した。
笑いたいのか泣き出したいのか分からない、苦しいほどの興奮が青島の目の奥を熱くさせた。
今すぐに。
あの人に‥‥‥‥
カチャリ
気遣うような小さなドアノブの軋み。
誰何するのを待たず、少し遠慮がちに、静かに滑り込む黒っぽい影。
――――まさかと思う。
「なんだ、起きてたのか」
呆然とした青島を見るなり、室井は意外そうに目を見開いてそう言う。
瞬きも出来ずに、その姿を視界に収めながら、なんで、という言葉が喉にひっかかっている。――――それを確かめると、夢は覚めてしまいそうで。
「どうした、まだ寝惚けてるのか?」
ちょっと不審そうにしながらも室井はテーブルに歩み寄ると、転がっていたボールペンを胸のポケットに突き刺す。自分の目と頭が信じられないまま、ただ室井の行動を見つめる青島の前に立って、室井はそっと頬に触れた。
「まだ疲れが残ってるな。顔色がよくないぞ」
少し固い掌の感触。心の中に真っ直ぐ入る眼差し。
すべてこの人が‥‥‥‥。
「あおしま?」
嘘のような本当の声が、驚いたように自分の名を呼ぶのを、抱き締めた身体の心地いい振動に聞いた。
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