果実
約半年ぶりに俺の目の前に現れたあの人は、俺の気持ちに気付かずに通り過ぎる。
俺さえも、つい最近やっと確信した、この人への想い。
だけど気付いた時、この人には既に未来を約束した人がいて、
俺も、自分はそのうちこの人のことも、自分の想いも、
やがてほろ苦い懐かしさを伴う思い出として、心の何処かへしまい込めるものだと思っていた。
それが、今またこの人を目の前にして、到底出来はしない事だと思い知らされた。
手を伸ばせば触れられるほど側に居るのに、あの人は俺の気持ちに気付かずに通り過ぎて行く。
夜も更け、あの人が合流して最初の撮影が終了したのは午前も1時を過ぎた頃。
撮影中、ずっと目が離せずにいた。
そんな俺の目の前を、あの人は何も知らずに通り過ぎる。
「お疲れさまでした」
出来るだけ、何気ない振りを装いながら、
もう一方でこの想いに気付いてはくれないかとも思いながら、俺は挨拶する。
「お疲れ」
なのに、返ってくるのは素っ気ないほどの一言。
チラと一瞥をくれただけで、隣を歩くスタッフとの会話に意識を戻す。
いや、最初ッから俺の方には注意を寄こしてもいなかったのかもしれない。
話に夢中で、挨拶されたから無意識に返しただけ。
そんな風だったあの人の態度。
チリッと胸が痛む。
見送る俺の瞳は、どんな色をしていただろう。
追っていたのは、きっと、闇い・・・闇い色の瞳。
誰にも気付かれたくなくて、瞼を閉じて、その色を隠す。
瞬間、あの人の残り香が香っているのに気付く。
あの人は、俺の気持ちに気付いてもくれなかったのに、俺の方はこんなにも簡単に
あの人の残り香に気付いてしまえる。
半年前と変わらない、いつもの整髪料の香り。
そして、何故か瑞々しい柑橘系の果物の香り。
あの人から?
もう一度、目を開けてあの人の後ろ姿を追う。
撮影所の入り口で、話し込んでいた。
目を凝らして、そうして解った。
あの人の片方の手に握られたオレンジ。
「あの、いかがですか?貰い物なんですけど」
スタッフの一人が、俺にもオレンジを差しだした。
「あ、ありがとう」
籠ごと差し出されたオレンジの中から一個だけ取り、後は「いい」と礼を言って断る。
入り口では、まだあの人が話している。
その姿をまた、さっきの闇い色の瞳で見つめながらふっと考えてしまう。
あの人に、噛み付いてみたら
あの人は、どんな香りで俺を包んでくれるだろう
そう、こんな風に噛み付いてみたら・・・
俺は、オレンジに歯をたててみる。
「馬鹿な事を考えて」というように、香りだけは爽やかに、口中にオレンジの皮の苦味が広がる。
それでも気にせず、歯で囓り取るようにして皮を剥いてゆく。
やがて、辿り着いた果肉は、滴る果汁で甘く俺を迎える。
あの人に、噛み付いてみたら
あの人は、どんな果汁で俺の乾きを癒してくれるだろう
そう、こんな風に噛み付いてみたら・・・
噛み付く度に、瑞々しい果肉が音をたてる。
果汁は顎を伝い、手を濡らし、地面へと滴り落ちる。
視線の先、あの人はまだ居る。
俺の、こんな闇い想いにも気付かないまま。
俺がオレンジを食べ終わるのを待っていたかのように。
最後の一口を飲み下したと同時に、あの人は出ていった。
後に残るのは、どこかねっとりと甘くまとわりつくような香りと手の平に残骸。
あの人が扉の向こうに姿を消した途端、俺の興味も失せ、それは手近のゴミ箱へと投げ込まれた。
俺のあの人への想いも、こんな風に、簡単に、投げ捨てられればいいのに。
なんて出来っこないことを考える。
明日もまた、あの人は俺の気持ちに気付かず通り過ぎるだろう。
闇い目をした俺の前を。
見送った俺は、今度はどんな果実で渇きを癒すのだろう?
一番欲しい果実が手にはいることは無いのに・・・・・
2000.11.15up |