恋におちて




「ソレ」は・・・、ある日。
前触れもなく訪れた。

いつものように、今日も深夜の帰宅となった。
入庁以来ただひたすら、がむしゃらに日々を送ってきた室井だったが、
余程疲れていたのか、今日に限って普段は考えもしない事を、
フッと考え始めてしまった。
そういえば最後にこの部屋を、自分以外の他人が訪れたのはいつだったか?
「恋人」と呼べるような特別な人さえいなかった室井には、
生き馬の目を抜くと言われる程の凄まじいキャリアの世界に、
気を許して部屋に招くような友人も知人も無かった。
この職業に就くと父親に宣言し、強硬に反対され、大学を卒業以来、勘当同然だったので、
家長の父に対する手前、母も年に数度、
田舎の近況報告を兼ねた電話をかけてくる位の事しか出来ないらしかった。
毎日疲れ果てて、この部屋には寝るだけに帰ってくるのだとしても、室井も人の子。
真っ暗な、誰もいない部屋がどうしようもなく堪える時がある。
時にはその日の事を(仕事柄、口に出来ない事ばかりとはいえ)
話せるような人がいればと思ってしまう。
しかし・・・現実は。
今の状況では考えるだけ無駄だと解っているので、
そんな甘えた気持ちもだんだんと失っていった。
このままでは、いつかはそんな人に出会えるとしても、遙か遠い事だと思っていた。

そんなある日、不思議な事に「ソレ」は、前触れもなく訪れた。

「アッ、室井さん!チョット待って下さい」
湾岸署での要件が早めに終わった帰り道。
車で送らせるという署長達の申し出を丁重に断り、玄関を出て、
駅への道をいつもの早足で歩き始めた室井を呼び止める声がした。
「君か・・・」
警視庁、いや警察庁一の問題児が駆け寄ってきた。
「いらしてたんですね?」
青島が長身をチョット屈めたように話しかけるのはいつもの事。
そんな青島に対して、ホンの少し彼を見上げて返事らしい返事もしないのが、
いつもの室井だった。
「・・・・・」
青島の方も慣れたもので、無言の室井に構わず勝手に話し続ける。
「署長達、敷地内の桜がいい具合になってきたからって
 『花見だ!宴会だ!!』って朝から大騒ぎしてたから・・・なんか・・・ありました?」
思い当たる事があったのか、室井の眉間の皺がますます深くなった。
それを見た途端、何となく察した青島は「あちゃ〜」とでも言うように顔を顰めた。
と、その顔が「あれっ?」と急に変化した。
(何なんだ、コイツは!!)
コロコロと変化する、青島のその豊かな表情に、
いつの間にか知らず知らず感心し始めた室井だったが、次の瞬間、力一杯後ずさっていた。
「何するッ!!」
思いがけず突然の事に、室井はらしくもなく、ついつい我知らず大声を出してしまった。
感心して青島の表情に見入っていた室井の目に、
急に自分に伸ばされてくる青島の手が映ったのだ。

今にも届きそうだった手を、
室井のあまりの剣幕にどうしてよいか解らなくなった青島だった。
室井の黒目がちの大きな瞳に睨み付けられたまま、
青島はワキワキと手を動かしながら言った。
「や、変な事しませんって!」
「変な事ってナンだッ!!」
さっきの余韻で、まだ室井の声はちょっと大きめだった。
その声に心なしシュンとなって腕を降ろした青島が、傷ついたような口調で言った。
「署長達が無理矢理宴会の席に引っ張って行ったんじゃないスか?」
「・・・・・それが・・・どうした・・・・・」
間があって、室井が答えた。
途端に、青島の表情が再びパッと変わった。
ニカッと笑うと、また室井の方へ手を伸ばしてくる。
「だから!!ナンダと言ってる!!」
室井の方も再び後ろへ飛び退くが、構わず青島がさらに手を伸ばしてきた。

三度(みたび)室井が逃げる前に、青島の手は目的の場所から目標をつまみ終えていた。
「ホラッ!これですよ、コレ!!」
室井の目の前に差し出された指先に摘まれていたのは、
ほんのりと薄桃色の桜の花びらだった。
「!!」
室井は右の眉が、グッと吊り上がるのが自分でも解った。
「ネッ!?」
もう一度青島が笑い掛けてきた。
自分の勘違いに、今までの緊張がホッと溶けるのがわかった室井だったが、
次の瞬間一気に恥ずかしさが押し寄せてきた。
恐ろしいほどの精神力で、カッと赤く染まりそうな頬を何とか平常に保ち、
トーンの高くなりそうな声を必死に押さえ込んだ。
「・・・桜か・・・」
やっとの思いでそれだけをボソリと呟いた。
気恥ずかしくて、とても青島の顔が見られず、足下を睨むように立つ。
「そうです。桜です」
微笑みながら青島は、そんな室井の前に差し出していた花びらをと吹き飛ばす。
暗に自分の勘違いを指摘されているようで、その言い方が室井の気に障る。
「失礼する」
それだけ言うと、室井はサッサとその場を後にする。
「あの〜ぉ、お送りしましょうかぁ?」
呑気な青島の声が追いかけてくる。
「結構だ」
立ち止まる事もなく、勿論振り返りもせず歩き続ける室井の背中に、
青島が最後の挨拶を送る。
「わっかりました〜。そいじゃ、お気を付けて〜 」
室井が振り返る筈の無いのは判っていたが、
それでもその後ろ姿が消えるまで片手をポケットに突っ込み、
ヒラヒラと手を振りながら見送り続ける青島だった。

室井は駅への夜道を一人歩きながら、思い出していた。
今の一瞬の出来事を。
確かに青島の指は、室井の髪に触れていった。

青島は署のロビーを横切りながら、思い出していた。
思いがけない出来事を。
確かにこの指が、室井の髪に触れたのだという事を。

瞬きする間の出来事が、妙に心を騒がせる。
嘗てこんな感じを、二人とも知っていたように思う。
一体いつの頃の事だったろうか。
ずうっと以前の事かもしれない。
そう思える位、二人にとって懐かしく、
それでいて切なく些細な出来事だった。

室井が見えなくなるまで見送った青島は、
ロビー奥の階段を登りかけて立ち止まった。
そして、たった今室井が帰っていった方向を見る。
見える筈のない、夜道をいつものように一人きりで帰って行く室井の姿を探すように。
まるでそうすれば見えるとでも言うように、青島の長身がさらに伸び上がる。
見える筈はなかった。
その代わりに、青島の目には先程の光景が浮かんでいた。
久しぶりに会った室井は相変わらずで、安心した反面、
青島はそんな室井が気になって仕方がなかった。
たった今別れた室井の後ろ姿は、思いがけず小さくなかったか?
逸らされる際の室井の瞳の中に、言いしれぬ不安の陰が見えなかったか?
青島にとって、初めて見る室井の姿だった。
青島は室井の髪に触れた指先を、静かに口元に寄せてみた。
その青島の指先には僅かに、しかし確かに触れた室井の髪の感触が、
まるで時を止めたかのように、いつまでもいつまでも鮮明に残っていた。

「ーッもうッ!!やっぱ無理にでも送ってきゃよかったんだよー」
急にガシガシと頭を掻いた青島は、何かを思い切るように身を翻し、
二段飛びに階段を駆け登った。

駅のホームに着いてみると、たった今電車が出たようで、
室井の他に人影は無かった。
室井は振り返ってみた。
誰もいるはずはなかった。
室井は、その事にガッカリする自分が不思議でならなかった。
自分は誰を待っているのか?
誰に追ってきて欲しいというのか?
入ってきた電車のヘッドライトに、眩しくて目が眩む。
ヘッドライトの残光に、ただ一人の姿が浮かんで消えた。

相変わらず調子が良くて、図々しい。
キャリアで上司である室井に対して、臆する事も無く話しかけてくる。
その上、馴れ馴れしい態度で無理難題を吹っ掛けてきた。
そのクセ、次の瞬間には自信なさげにお伺いをたててくる。
あいつのお陰でと、何度思ったかしれなかった。
そんな青島が、何故こんなにも心に引かかるのか。
室井は自分でも「確信」のないこの気持ちに、戸惑うばかりだった。

電車の巻き上げる風が、キッチリと整えられていた筈の室井の髪を一筋乱した。
反射的に押さえた指先に、何かが触れる。
「・・・これは・・・」
青島が取り去ってくれた筈の桜の花びらが、
頼りなさそうに室井の掌で震えている。
ホームに止まった電車のドアが開いた。
その瞬間にも風が巻き起こる。
フワリと室井の掌から浮き上がった花びらを、
鞄も構わずもう片方の手で押さえる。
室井の他に降りる人も乗り込む人もいないホームに、
鞄のドサリと落ちる音がやけに大きく響いた気がした。
発車のアナウンスが聞こえても、
室井は鞄もそのままに立ち尽くしていた。
目をつむり、頭を垂れ、胸の前でその両手を重ね合わせて。

電車は室井を乗せないまま発車した。
駅のホームには室井一人。
シンと何の音も聞こえない。
ホンの僅かの風でさえ、掌の中のものを飛ばしてしまうかもしれない。
風がないのを確かめて、そうっと右手を除けてみる。
確かに青島が見せた花びらが、室井の掌の中にあった。
もう一度右手を重ねると、室井は目を閉じゆっくりとその手の甲に唇を寄せた。
室井の周りの時が、静かに止まった。

室井は戸惑いながらも、この気持ちを「確信」した。
青島は訳の解らない苛立ちと共に、この気持ちを「確信」した。

前触れはあったのかもしれない。
日常に追われ、疲れ果て、気の休まる暇もない日々の中で、
互いに自分の気持ちに気付く余裕は無かった。
しかし・・・・・。
片方の限界間近の、本人ですら自覚のない声なき悲鳴に気付いてしまった瞬間。
片方の凍え、諦め、全てを求める気持ちを失い掛けていた心を、
その暖かな両の手で包んでもらえたらと望む気持ちに気付いた瞬間。
「ソレ」は互いが互いを想う気持ちを知らないまま、
室井と青島の元に突然のように訪れた。
そして二人は「ソレ」におちた。

二人の「恋」が・・・・・始まった。

1999.5.30 UP
2005.1.23 再UP