くちづけ


−3月の雨は、春と想い出を連れてくる−
 
街は霧雨に濡れ、黄昏にけむっている。
3月に入ると、雨も日に日にどこか暖かく、優しささえ含み、春の訪れを実感させる。
夜目にも、街路樹の木々の枝先には膨らんだ花や葉の蕾が見えた。
こんな夜は、タクシーに乗るのも勿体ない気がするし、
傘さえ必要ないように思われ、二人は濡れるに任せて歩き続けていた。
 
 
「なんか、あの時を思い出しませんか?」
二人はそれまでの雰囲気が、余りに居心地良くて、何を話すでもなく黙ったまま歩いていた。
その沈黙を破って、急に青島が室井に話しかけてきた。
歩みを止めることなく、室井は街路樹を眺めていた視線を青島の方に向けた。
「あの時?」
いつものように(それでいていつもよりは格段に柔らかく)眉間に皺を寄せ尋ねる室井に、
青島が照れ臭そうに鼻の頭を、カリカリと掻きながら言った。
「室井さんと、始めて『くちづけ』をした時」
片方の手を、暖かいとは言えやはりまだまだ必需品の、こちらもトレードマークの
モスグリーンのアーミーコートの中に突っ込んでいる青島を、
一瞬呆けたように見つめた室井だったが、直ぐに俯き加減に顔を逸らし、それからクスリと笑った。
その笑い方に、青島は子供扱いされたような気がして、チョット頬を膨らます。
「やだな、その笑い。何なんスか!」
その言い方に、堪えきれずもう一度笑いを漏らし、室井が視線を青島に戻した。
「らしくない言葉を持ち出してきたもんだと思って、笑った」
「らしくないって?」
「『くちづけ』。普段なら『キス』とか言いそうなのに」
「え〜っ!そうかなぁ?」
 
 
不満げに口をへの字にしてブツブツ言っている青島の耳に、
室井が最初の質問の答えを、遠くを見るような目つきになって呟くのが聞こえた。
「憶えてる」
「はい?」
「さっき聞いたろ?忘れっこない」
「あ!ああ・・・」
「確か・・・あの日も、こんな雨の夜だったな」
「はい」
二人は互いに、互いの記憶を辿り始めた。
 
 
あれは、ちょうど一年前。
その日も、こんな霧雨の降る、暖かい夜だった。
互いに、想いを伝え合った二人。
けれど、どちらも同性相手の恋愛など始めてで、
互いに想い合っているとわかった段階から、何をどう進んでいけばいいのかわからず
まるで初めて恋愛を始めた時のように、相手の一挙手一投足にドキドキし、
ふとした言葉や眼差しに不安になったり喜んだりしてオロオロするという、初々しくももどかしい時間が、
ただただ過ぎていっていた頃。
その頃のデジャビュでも見ているような今(現在)。
 
 
考え込むと、普段の官庁内での歩調で歩いてしまう室井を、
数歩遅れて青島が追うように歩く。
歩調を大きくして、追い付いた青島の手が室井の手を取る。
ビクリと竦んで立ち止まる室井の傍らに立つと、
青島はゆっくり、自分の手に取った室井の手を口元に運ぶ。
青島に持ち上げられる自分の手を、その速度と同じ速度で室井の視線も追い掛ける。
いつの間にか、室井の手は青島の両手で包まれていた。
その手が青島の口元に届きそうになる。
 
 
胸が締め付けられる。
心が大きく呼吸する。
 
 
やっと、青島が『至宝』に触れるように
室井の長い指の先の整えられた爪の先に、唇で触れる。
青島の長めの前髪の先から、室井の手の甲に雨の雫が一粒、落ちてきた。
唇は室井の指先に付けたまま、青島が視線を合わせてくる。
その眼差しの先に、青島を映していた室井の瞳が潤んで見えた。
霧雨に睫まで濡れて、室井の瞳には青島がぼやけて見える。
 
 
−愛しい人の姿がぼやけて見えたのは、雨のせい?それとも・・・−
 
 
『過去』と『現在』が交差する。
 
 
「室井さん・・・?」
ホンの僅かに指先から唇を離すと、心配そうに青島が声を掛ける。
「あの・・・ごめんなさい。
 こんなコトしちゃって、その・・・」
無言の室井に、青島は勝手に室井が機嫌を損ねていると思ったらしい。
「お、怒ってます?ご、ごめんなさい」
 
 
−違うと、言えばいいのに。
 怒っているのではないと。
 ただ、こんな気持ちに慣れていないのだと
 正直に言えばいいのに。
 言えない−
 
 
返事の代わりに、室井はコトリと青島の肩に頭を預けた。
「え?」
驚いて、室井の手を包んでいた片方の手を離して
代わりにその手で小柄な身体を抱き止める。
(室井さん?!)
驚きは、声にしなかった。
あの室井が、こうして抱き止めでもしない限り気付かなかっただろう程に
小刻みに震えていた。
最初は自分の思い違いかとも思ったが、
互いの厚いコートの肩に、静かに降りかかり続けていた銀色の小さな雨が
室井が小さく震える事で、雫になってゆく。
その様を見つめていた青島は、掴んでいた手を引いて、
街路樹の並木の陰に室井と身を隠す。
「青島!!」
半ば引きずられる恰好で、車道から死角になった街路樹の陰に引っ張り込まれた室井が
驚いて声を上げる。
が、次の瞬間、青島がまた室井の手にくちづけた。
室井は瞬き一つ、出来なくなる。
強く押し付けられた暖かな青島の唇からは、先程の静かなくちづけも勿論だが、
より以上に、室井に対する想いが流れ込んでくる気がして・・・。
 
 
室井は、鞄を持っていた手からゆるゆると力を抜いた。
山ほどの書類でいつものように膨らんでいた鞄は、倒れもせずに、
室井の手から滑り落ちても、重い音を残し路面に立つ。
その音が合図のように、目を閉じ一心に室井の手にくちづけていた青島が、
ハッと唇を離して顔を上げる。
室井も鞄の落ちた音を合図に、行動を起こす。
青島の頬に、空いた手を添えると顔を近づけていった。
 
 
自然だった。
初めて触れてきた、室井の唇は暖かく、そして・・・
 
 
「あの時の、室井さんの唇。
 濡れてました」
「そうだったか?」
「勿論、髪も服も全部濡れてましたけど、
 俺にはやっぱり、室井さんの濡れた唇の感触が強烈で」
青島がニヤリと笑う。
「じゃあ、今夜はどうだ?」
室井は言うと、青島の手を取って、
あの夜のように街路樹の木陰に入り込み、青島が呆然と自分の為すがままな間に
素早く唇を重ねた。
慌てて我に返る青島とタッチの差で室井は唇を離す。
けれど、相変わらずの至近距離で囁いた。
「今夜も、雨に濡れてたろ?」
「あんまり急にくっついて離れてっちゃったから、わかりませんでした」
「ホントか?」
「ホントに!」
「なら、しょうがない。これでわかるだろう?」
もう一度、室井の唇が青島の唇に重なってゆく。
「はい、きっと・・・」
 
 
あれから幾度、こうしてくちづけを交わしただろう。
その度毎に想い出は増えてゆく。
これから幾度、こうしてくちづけを交わすだろう。
その度毎に想い出は鮮やかさを増してゆく。
 
 
二人は思い出す
初めてのくちづけ
二人だけの想い出
初めてのくちづけ
 
 
2001・02・04UP