それは、その男にしては大変に珍しい類の溜息だった。 余りに珍しいモノだったので、その男の副官は 思わず三歩ばかし前を歩く上官の背中をシゲシゲと見詰めてしまった。 あからさま過ぎる視線だったのか、 上官は直ぐ様振り向いて己の副官を見遣った。 「何だ、何か言いてぇ事でもあんのか?」 「い、いえっ!?」 副官は、慌てて視線を明後日の方へと彷徨わせた。 「ケッ!!」 おおよそ『洗練』が売りの海軍には不似合いなヤクザ地味た態度をみせた男は、 オドオドと自分から視線を逸らす副官にだけという訳でもなさそうな、 あらゆる物に対しての不快さを滲ませた歩調は変えず、 目的に向かって近付いてゆく。 広い港の中、先方も此方に気付いて歩き始めてはいたが、 まだまだ双方の間に距離はあった。 唐突に、男が唸った。 「クソッ!!」 歩みは相変わらずだった。 「ちゅ、中佐?」 再びの事に、中野は恐る恐る声を掛けてみた。 背後から伺う上官の背中は、大層恐ろし気な雰囲気を醸し出していて、 随分と長い事男の部下として勤めてきた中野でさえ、 今直ぐに回れ右をして帰りたい程の恐怖を感じていたのだが、 其処に、恐ろしいだけではない何かを感じて、 それで何とかその場に踏み止まる。 「俺ぁ一体、何やってんだ!」 大湊が、今度は小さく吼えた。 中野は、上官の大湊が何を指して言っているのか分からず、 黙って後ろを歩きながら、続く言葉を待つ。 「次が有るか分からねぇご時世だからと、急に決まった任務に、 せめて一目なりとと思ったんだが・・・不味い事になっちまった。 要らん気をまわし過ぎた。 あのままとっとと高宮を船に乗せてりゃよかったんだな」 大湊は、中野に聞かせるつもりの『独り言』をブツブツと呟き続ける。 「高宮は、間違いなく気付いただろうなぁ・・・。 木崎なら、態々此処に連れて来んでも、どうせ軍令部で再会出来たんだ、 そうしてりゃ、高宮も命掛けの任務を前に、 不要な不安を抱えて出発させずに済んだろうに・・・・・」 ここで漸く中野にも、上官の珍しい溜息の訳を理解する事が出来たのだった。 この非常時に、大事を前に恋だの愛だのと惰弱な事をとは大湊は思わない。 寧ろそれこそが大義で、戦地で戦う同胞の誰も彼もがそれを糧に生きて、 生き抜いて、還ってくる事が出来るのであれば、 大変に宜しい事だとさえ思っている。 「人は、生きていてこそだ。死んでは何にもならん」 大湊が、時と人前を憚らず、何時も部下達に言って聞かせている言葉だった。 ふとらしくも無い愚痴めいた独り言を呟いていた大湊の脳裏を、 俯いた白い相貌が横切った。 甲太郎に対しては、任務に加えての更なる不安を抱えさせてしまう事に なってしまったが、兄を想って俯く人にとっては、 定かではない数少ない好機を与えてやれたのかも知れない。 随分と己より歳の離れた少女の面影の人の幸せを 願わずにはいられない大湊は、そうも考えてしまうのだった。 大湊は出合ったばかりの頃、既に、木崎の嘗ての上官絹見への、 度を過ぎた上官に対する敬愛というより、思慕の情に近い其れに気付いていた。 そして、そんな木崎の絹見に対する想いを知りつつ、 木崎を求める甲太郎の想いにも。 木崎の想いの向いている先を知りつつ寄せられる甲太郎の、 (恐らく初めての)他人を請う事で生まれたのであろう、対価を求めぬ、 陰日なたの無い、一心に我が身さえ省みずに差し出すいじらしい程の恋情を。 甲太郎の事は、甲太郎が軍人になる以前、まだ学生の頃から、 大湊の側が知っているという一方的なものながら、面識があった。 可も無く不可も無い、適度な人との付き合い方、距離の保ち方。 差しさわりの無い程度の人当たりの良さだったが、 格別に親しい友人や上官、或いは特に目に掛ける後輩が いるかといえばそうでもなく、 結局のところはやはり独りでいるのが常の甲太郎だった。 そんな甲太郎に、大湊が密かに感じていたのは『危さ』だった。 切っ掛けがあれば、見え隠れしたその心の内の奥底に広がる 寂寥とした荒れ野に一人きり佇む後ろ姿。 親を、家族を、自分に関わりのある者達全てを、 受け入れていない訳ではないけれど、それでもとどの詰まり、 自分は独りなのだと向けられる背中。 自分から望む孤独。 甲太郎の心の内の心寂しい風景を一転させる程の存在は、 未だ誰一人いないのだと、例え其れが自分であろうと無かろうと、 気付かされる度に何故か歯痒い気がして、 面識が出来てからというものは鬱陶しがられ、苦手とされても、 殊更に構い倒していた様に思う。 それこそ恋だの愛だの以前の、純粋な人と人との繋がりさえも、 スッパリと甲太郎に断ち切られている気がして、我慢がならなかったのだ。 その甲太郎があの日、大湊を頼ってきた。 直接、甲太郎が大湊の元を訪れた訳ではなかったし、 浅倉からも甲太郎に頼まれたとは告げられられはしなかったが、 大湊には、不思議とこれが甲太郎が自ら望んで 浅倉に無理を承知で請うた事だと気付いたのであった。 浅倉を介して、人を一人助けてはくれないかと言ってきたのだと。 戦時中に、尉官程度移動とはいえ個人の申し出を受けて配置換えをするなど、 通常有り得ない辞令である。 しかもその場での即決など、皆無に等しかった。 破格の扱いの要求であった。 平素ならば受け入れ難い要求。 しかし、である。 同期の出世頭、官位で言っても上官の、 あの浅倉本人が態々出向いて来たのだ。それだけでも驚きであるのに、 重ねて是非とも引き受けてくれと頭まで下げていったのだ。 これで大湊としても、何が何でも木崎を引き受けざるを得なくなった。 よっての速やかなる辞令の発令。 (流石浅倉というか・・・関連部署への手配りもぬかりなく、 辞令はすんなりと受理された) 大湊が木崎を引き受けたのには、『翠山』での前夜の騒動の事もあった。 (木崎が上官に無体の限りを受けていた件である) 普段から自軍の軍人達の素行についても調べている 諜報部長の大湊の耳にも横田とその取り巻き達の特定の部下に対しての、 目に余る常日頃の扱いに関しての彼是が入っていたのだ。 そこへ態々出向いてきた浅倉が、 自分の部下でもない一兵士の配置換えを頼みたいと願う。 浅倉の告げた、『木崎』と言う名を聞いて直ぐに浮んだのは、 高宮親子が庇ったのが、確か『木崎』という名の男ではなかったかという事。 調度、件の騒動を耳にしたばかりだったせいもあるだろうが、 『木崎』という名前に気が引かれたのだった。 そういえば浅倉の許には甲太郎がいたのだったと 遅れ馳せながらに思い至った大湊は、 時に人を寄せ付けない横顔を見せる甲太郎を思い出してみたが、 その時は甲太郎の想いの先に誰が居るのか等知るわけもなく、 それよりも、面識も無いのであろう浅倉が、 何故『木崎』という男を助ける事にしたのか、 そちらの方が不思議でならなかった。 やがて疑問の答えには軍令部の階段で、 俯きがちに昇ってくる甲太郎を見た途端、 直感というのだろうか、唐突に思い至った。 まさか・・・あの甲太郎が、と。 それでもまだその時はそれが、甲太郎の生まれて初めてであろう 恋情からのものだとは、思ってもみない大湊であったが、 甲太郎の心の変わり様に目を細めた。 自分の事ではなく、他人の為に此処まで無理を通す甲太郎等、 今までに無かった事で、 これほどまでに甲太郎を変えた木崎という稀有な人物が 自分の元へやって来るのを、大湊は興味深く思いながら待ったのだった。 その後、大湊は早い内に甲太郎の木崎に寄せる想いに改めて気付かされ、 暫くの後には木崎の甲太郎に対する心情の変化も窺い知る事が出来た。 しかしそんな二人の様子に、大湊が不快感や嫌悪感を持つ事は無く、 勿論邪魔立てする事等も無く、寧ろ後押しをしてやりたいとさえ思い、 実際にあれこれと手を変え品を変えては、互いの想いが重なり合う様に、 二人で居られる時間を都合してやったりしたのだった。 「気付いているぞ」と言葉にはせずとも、大湊が二人の関係に気付いている事を、 甲太郎も早々に感付いた様子だったが、こちらからも格別、 何を言って来るでもなかった。 ただ時々、要らぬお節介をとは思われていた様だが、 兄弟のいない大湊にとっては、いつの間にか身内とも、 歳の離れた弟とも思う様になっていた甲太郎に対しての、 兄としてのささやかな心遣いのつもりだった。 恋の言葉を、愛の囁きを交わす相手も居ないでは、 明日をも知らぬ時代(とき)に生まれた、歳若い青年の人生は、 余りに寂しすぎる気がしてならなかったのだ。 それが・・・・・今回の、この自分でも不可解な行動はどうした事なのかと、 大湊は自身に尋ねずにはいられなかった。 するともう一度、俯いた白い相貌が、大湊の脳裏を横切った。 〜2の第13週〜 |
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