その後、元伊16艦長絹見真一少佐は
広島は大竹に在る潜水学校の教官へと更迭され、残る乗員達も、
下士官を中心に次々と艦を後に其々の新しい任地へと赴かされた。
航海長として乗艦していた副官が、木崎という名だとそれから暫くして知った。
彼も絹見同様、海から陸へと追い上げられているらしく、
一度司令部近くを歩いているのを見て以来、度々見掛けるようになった。
暫く見ない間に、明らかにその質量を減らしたらしい元から小柄だった身体は、
軍人というには余りに線細くなり果てて、
尚一層甲太郎の興味を引かずにはいなかった。
情報部の資料を密かに閲覧し、木崎の事を調べてみた甲太郎は、
木崎にとって家族と呼べる存在は妻と娘が一人だけだと知った。
三人きりの家族だからだろうか?
近所でも評判の、仲の良い家族だそうだ。
妻と娘は、肉親として持ち得る愛情の全てで
夫であり父親である木崎を愛していたし、
木崎自身も妻と娘を愛していたのだろう・・・・・
そう、あの男に出会うまでは。
あの男に出会った事によって、木崎の愛情のどれ程が男に向かい、
どれ程が妻子へと残っていたのか?
考えようによっては、愛情の[質]が違うのならば
家族としての愛情には今も何の変化も無く、
100%が妻子に注がれているであろうし、
あの男に対する愛情もまた100%、あの男に注がれていたのに違いない。
けれど結局、傍観者のまま木崎を見ているばかりの甲太郎には、
それを木崎に問う事が出来る筈もなく、分かる筈もなかった。



木崎は、甲太郎が思う以上に不器用な男だったらしい。
つい先日、偶然見掛けた木崎の様子を一見しただけで分かってしまった。
未だに木崎の待ち人はこの横須賀から遠く離れた広島の地に在り、
戦時下という緊迫した状況では、
木崎もあの男も明日をも知れぬ身に変わりはない。
今この時にも、前線への軍令が下らないとも限らないのだ。
そう思えばこそ、木崎の男に対する想いの吹っ切れなさが
容易く甲太郎にも想像出来た。
明日をも知れぬ身だからこそ、後一目だけでも会いたい、言葉を交わしたい、
昔の様にその傍らの定位置に在りたいと。
だからこそ妻子と男の双方に引き裂かれてゆく心が、
身体をも道連れに急速に加速しながら摩耗していっているのだと。
間違いなく自分の心の内にある妻子への愛情と、男に対する愛情の
どちらか一方などと器用な真似が出来ない男だったのだろう。
その不器用さにさえ、甲太郎は好感を抱かずにはいられない。
だからこそ、時に我慢が効かなくなりそうになる。
どうしたのだと、何を思っているのかと、
傍に駆け寄り聞いてみたいという衝動が不意に湧き上がって
仕方がない事が在るのだ。
その度毎にそれを抑え付け、遠目に見掛けた姿にさえも、
ただただ以前魅せられた力強い眼差しが戻ってはいないかと様子を伺い、
もしもいまだに癒えぬ悲しみに沈んだままの眼差しであったならば、
それが一日も早く、元の通りに戻るようにと擦れ違いざま心の中で祈る事で
本当にささやかな充足感を得る甲太郎だった。



自分でも、可笑しいほどに臆病な想いだった。



声を掛けたくとも、官位は向こうが上であったし、
何より自分は憎まれているに違いないと、
何故だか甲太郎は漠然と思っていた。
それで声を掛けるのを戸惑っている間に、木崎は・・・・・。
木崎の枕元で、これまでの事を思い返していた甲太郎は
キリリとその唇を噛み締めた。
こんな事になっていたのならば、
たとえ呪詛の言葉を投げ付けられると分かっていても
只でさえ小柄だった身体が、依り一層、一周りも二周りも小さくなる前に、
身体中に大小色とりどりの内出血の痕等をこさえさす前に、
何故自分は行動を起こさなかったのかと、自分で自分が許せず、
甲太郎は固く目を瞑り項垂れた。



思えば不思議だった。
何故自分は、今眼の前に横たわる人にこうまで拘るのか?
忙しく不在がちの父親や、病床に伏してばかりの母親は、一人息子に対して、
せめてもとその出来うる限りの愛情を注いで貰っていたと思う。
国民小学校に上がるまで身の回りの一切を面倒見てくれていた乳母にしても、
過剰なほどに構い、育ててくれたと思う。
別れの時の涙は、今も祖母としての其れと同じだと甲太郎は思っている。
継母の胡蝶にしても、甲太郎は何一つ自分が蔑ろにされたり、
邪魔者扱いされた記憶などまるで無かった。
かといって、胡蝶が甲太郎に対して自分自身を卑下したりしていた訳でもなく、
世間からは酷く掛け離れて見えても、母親と息子として、
自分にとって何の不満もない良好な家族関係を築いていたのだ。
それだけ自分は愛され、構われてきたというのに、
甲太郎は自分の心に克服しがたい[傷]が在るのを知っていた。



両親は、当時にしては珍しく大恋愛の末の結婚だと聞いていた。
その仲睦まじさは見世の妓達の夢憧れ、
そして妬み嫉みの対称となるほどだったという。
妓として、望めぬ女の幸せが、廊下を何本か渡った先、直ぐ眼の前に在るのだ。
無理もない。
そのうち母は病床に伏した。
元々丈夫ではなかった母だったが、妓達の声には成らない想いが、
殊更早くに母を弱らせてしまったのかもしれない。
やがて父と胡蝶の事が暗黙の内に奥はおろか、見世中に広まった。
あれほど仲睦まじく暮らしていたのに。



[愛]とは其れ程までに脆いものなのか?



見世の妓達にしてもそうだった。
見世を訪れる客と只ならぬ仲になっても、結局は待つだけの身。
訪れる度、身体を重ねる度に交わした約束も口約束。
口から出た瞬間に、妓の中では永遠となっても、相手にとっては其の場凌ぎ、
見世の廊下に出る頃には、綺麗サッパリ消え果る。
或る日、ぷっつりと訪れる事が無くなり、
最初は届いていた事訳の手紙さえも数える程で届かなくなる。
相手の不実とそんな相手を信じていた自分を愚かさを嘆く余り、
時には自死を選ぶ妓を、甲太郎は何度も見てきた。



[愛]とは其れ程までに儚いものなのか?



どんなに隠そうとしても、聡い甲太郎には最初は朧気、やがてははっきりと
妓達の哀しみと、彼女達の血の涙で営まれている、
見世と己の暮らしとを理解していった。
それに伴う様に、甲太郎は心から人を請うる事をせずに生きてきた。
生まれ育ちのせいにするつもりはないけれど、
これまで見てきたどれもこれもが、甲太郎が自分以外の特別な存在へと
想いを膨らませ、手を差し伸べる事を躊躇させるのだった。
余りにも脆く、儚い[愛]を、
甲太郎は多く見すぎてしまったのかもしれなかった。



そうして今、戦時下に軍人となる事を選んだ。
甲太郎は生涯を独りで終えようと固く心に誓っていた。



では、何故?
と、最初の疑問に戻る。
何故自分は、今眼の前に横たわる人にこうまで拘るのか?
自分には出来ないから。
この強い瞳の持ち主ならばきっと叶うと。
せめてこの人の為に、何かしら出来やしないかと。
それで自分も満たされるのではないかと。
いよいよ歩を並べてきた[死]。
その日は、そう先の事ではないだろう。
独りで在ると決めたのだから、きっと旅立ちも独り。
けれど、一度たりとも[愛する事]を知らずに旅立つ自分の代わりにこの人を。
それが、ささやかな甲太郎のたった一つの願いだった。



夜は更けた。
喧騒も引き、気の早い夏虫だけが時々思い出したように鳴くばかり。
甲太郎は漸く目を開けると、両の手を開いて
包んでいた木崎の小振りな手を見詰めた。
そうして徐にその手を己の額へと押し頂く。
やがてゆっくりと額から離した手を、もう一度両の手で包んで、
その上から唇を寄せる。
直に唇で触れてはいけない。
そんな気がした。
夏掛けを、少し捲って包んでいた手をそっと戻し、元の通りに掛け直す。
穏かな寝息を確認すると、甲太郎は二人の枕元に据えられた
行灯の明かりを吹き消した。
明日の朝、自分が起きた時にもしもまだ木崎が目覚めていなければ、
後は胡蝶に任せ、自分は黙って出かけ様と思いながら、
甲太郎も木崎の隣に延べてあった自分の布団へと身を横たえ目を閉じた。
傍らから聞こえる、規則正しい寝息は耳に心地良く、
甲太郎も間も無く眠りの中の住人となった。


髪の、指の、爪先の一本一本。
つまりは体中を言い様の無い気だるさが包んでいた。
けれど其れは決して不快なものではなく、もうずっと忘れていた
深い、深い眠りの齎す気だるさだと、夢現に木崎は知っていた。



何時から、自分がこんな風に眠れなくなっていたのか。
知っている、分かっている。
眼の前からあの人が居なくなってしまえば、やがて忘れられると思っていた。
けれど会えない事で、想いは深まった。
思い出の日々さえ愛しくて、木崎は一人で泣いた。
大切なものが増えすぎて、木崎は涙脆くなった。
当直の仮眠室で眠りに付いても、浅い眠りは木崎を労わってはくれなかった。
陸に上がって、以前より頻繁に自宅に帰れるようになった。
このご時世に罰が当たりそうな程、大切な家族と一緒に過ごせた。
三人っきりの家族。
自分と妻と一人娘。
二人が愛しくて、木崎は一人で泣いた。
大切なものが多すぎて、木崎は涙脆くなった。
親子三人が、川の字になって眠りに付いても、
浅い眠りは木崎を憩わせてはくれなかった。
すっと、ずっと、そんな日々の繰り返しだった。
[愛]に焦がれ過ぎた木崎は、身を守る術は知らなかった。
知らないまま、裸足で駆け寄った。



人を愛する事の、容易さと、険しさと、眩しさと、哀しさと、喜びと・・・・・
全てと木崎は戦った。



草臥れ果てた木崎は、やがて居た堪れなさから
自宅を時に避けるようになった。
家族が愛しい余りの行動ではあった。
愛しいからこそ、自分が裏切り者に思えて。
無心の愛を向けてくれる家族を前に、時に叫びだしそうになるのだ。
お前達の他に、愛を請いたい人が居るのだと。
お前達がくれる愛情だけでは足りないのだと。
お前達の愛情が、自分から離れるのは耐えられないのだと。
卑怯で身勝手な自分は、言えずに、こうして嘘を付いて
お前達の眼差しから逃げていると。



その頃からだったろうか、新しい上官とその取り巻き達の
木崎に対する無体が始まったのは。
最初は寝不足からきた誤字程度のミスだったと記憶している。
それでもそれは、彼らにとって格好の機会となったらしい。
移動当初から、木崎は自分に対する新しい部署の心証の悪さは感じていた。
無理も無い。
自分の嘗ての上司は特攻を、人間魚雷を「愚かの極み」と糾弾した男である。
自分達もそれを知って尚、彼に従っていたのだ。
それに対して今度の上司は、武勲で上がってきたのは勿論だったが、
もう一つ、強行に人間魚雷の必要性を唱え、計画を推進し、
僅かの期間ではあったが実行を指揮し、上へと上がってきた男だった。
元伊16の乗員達の上官に対する敬愛度は、
海軍内にもそこそこ知れ渡っていたらしい。
選りにも選って、その右腕たる副官を務めていた男が
自分達の部署に配属されてきた。
後は、安物の読み物でも読んでいるような毎日だ。
ミスはないかと粗捜しされ、無いなら無いで仕事の量を増やされた。
擦り付け同様のミスを見つけ、容赦の無い鉄拳が、直ぐに其れとは分からぬ様、
服で隠れた場所へと飛んでくる。
軍部で上官は絶対だった。
言い訳など許されない。
ましてやそれを避けたりなど・・・益々相手方を怒り狂わすばかりだと、
いつの間にか知った木崎は、出来るだけの用心を重ね、
ミスをしない様気を配り、それでも駄目だった時には、
ただただ黙って、嵐が過ぎるのを待つ様になった。
そう、深海の底で敵艦が通り過ぎるのを、息を潜めて待っていた時の様に。
何時かは過ぎると、心で念じながら。

                                       〜第20週〜