自分は、此れほど激し易い性格だったろうか。 思いながら、木崎は甲太郎に掴まれたままで動かせない腕とは反対の手の甲で ぐいぐいと自分の両の目元を拭った。 年端もいかない子供でもあるまいしと思った途端に、 恥ずかしさで頬が熱くなった。 それに加えて、四十も目前の男に対するにしてはどうかと思えるほどの 直ぐ傍にいる高宮の、今し方の驚くほど優し気な仕草に、頬の熱さが募る。 そんな己に戸惑いを隠せず瞬けば、じわりと滲んでいた涙がまた零れて困った。 泣きたくも、泣くつもりもなかったのに・・・・・。 この歳になると、子供の頃みたいな[優しくされるということ]を 久しく経験していなくて、きれいにさっぱりと忘れ去っていた。 そこに高宮の[身勝手な自己犠牲]に基づいているとはいえ、、 感謝するには充分な優しさと思いやりを高宮の[本意ではなくとも]、 木崎は知らされ、受け取らされようとしていた。 件の涙は、このところ随分と長い間、 [優しくする側]であって[優しくされる側]でなかった自身が、 高宮の行いに対して、驚き、戸惑った挙句の、 自身でも予想外の反応だったのだと思う事にした。 後は、一刻も早く普段の自分に戻ればいい事だった。 そこで、そうなるには、二の腕に残ったままの高宮の手を 如何にかしなければならなかった。 どうしても、其処にある其れが気になって仕方がなく、 自分の態度が普段と格別変わっていたりしませんようにと、 祈りながら木崎は言った。 「・・・・・手を離してくれないか」 今度は、甲太郎の方が驚く番だった。 けれどもそれは、一見、大して驚いたように見えるものではなく、 微かに眉が持ち上げられる位の微々たる表情の変化でしかなかった。 「すみません、無礼な事をしました」 「・・・いや、俺の方こそみっともない所をみせた」 暫しの沈黙の後、木崎が言った。 「やはり、今回の件は納得がいかない」 自分の横顔に、甲太郎の視線が向けられ、留められるのを木崎は感じたが、 廊下に置かれた灯りを見詰めたまま、話を続けた。 「私の為を思っての事と、勝手に自惚れているのだとしても、 多分私は自分の身の安全と、安寧を感じる度に 君を思い出し、居た堪れない気持ちになるだろう。 だから・・・本当に、君に感謝している。 しているからこそ、一日も早く浅倉大佐に面会を申し込み、 君との約束を反故にしていただく」 言うだけ言って、木崎は黙って甲太郎の出方を待った。 「どれだけの事を申し上げても、信じてはいただけないようですが、 敢えて言わせていただくなら、今回の移動命令は、タイミングが良かった。 ただ、それだけの事なんです」 木崎が甲太郎へと視線を戻す。 「ずっと、幼い頃から、私には思うことが有って、 今回の任務は他の候補が中々決まらないまま期日は迫り、 浅倉大佐の目に留まったのが私だったのです。 調度良かったと思う序に、僭越にも貴方の部署替えを尋ねてみたのですが、 案外簡単に、大佐は許可を下さったのです。 始めに、大尉の部署替えを願っての志願ではありません」 どうしても、そうもってくるかと木崎が小さく溜息を付いたのを聞き逃さず、 甲太郎が続けた。 「納得、いただけない様ですが・・・大佐の下で働くという事は、 遅かれ早かれ、今回の様な任務に就かねばならないという事です。 しかも、頻繁に。 拒否も許されません。 これが、私の職務ですから」 どうしても納得し兼ねるという思いがある一方で、 何処までも自分の為にしてくれた事だと思い続ける事は、 とんでもなく自意識過剰で、勝手な思い込みかも知れないとも思えてくる。 考えてみれば、可笑しな話だった。 何故、目の前の青年が、こうまで自分に良くしてくれるのか? 「この傷を、気にしていらっしゃるようですが・・・」 知らずに甲太郎を見詰めながら思いに浸り掛けていた木崎を、 どう思ったのか甲太郎が包帯に手を遣りながら言ってきた。 「今回の任務が原因で負った傷ではないんです。 嘘だとお思いなら、昼間、大湊中佐にもお会いしましたので、 お尋ねになってみて下さい。 包帯なんぞしていなかったと仰る筈です。 任務が終わって、気が緩んでいたんでしょうね。 ちょっとした不注意で、こさえた傷です」 薄く笑う甲太郎に、触れる程に近づいた木崎が問い掛けた。 「本当だな?」 「本当です」 「後で嘘だと分かったら・・・」 「承知しない、ですか?」 「ああ」 「大丈夫です、本当の事ですから」 無意識に、木崎は包帯に被さった甲太郎の前髪を梳き上げた。 痛々しい包帯の白さに、僅かに眉を顰め、 「大事にしろ」と一言言い置き、大湊等の居る座敷へと、 最初に甲太郎が教えた廊下を辿って、木崎は一人帰っていった。 小柄な後ろ姿が廊下の突き当りを曲がって消えるまで、 甲太郎は微動だにせず見送っていたが、 完全に姿が消えたと同時に、肩から大きく息を吐くような溜息を付いた。 その拍子にピリと痛んだ傷を抑える為に上げた手は、 そのまま木崎が梳いた跡を、違わずなぞる様に動いた。 自分の髪を梳いていた手の感触を思い出しながら。 ふと思い出したのは、木崎を内所に泊めた夜の事。 昏々と眠る木崎の片方の手を自分の手で掬い上げ、 包む様に両の手で握り込んだ。 あの時の、自分より遙かに小振りな手の感触が蘇る。 甲太郎は、まるで今も自分の両の手の中に、木崎の手が有るかの如く、 己の手を握り合わせ、その上からそっと唇を寄せてみた。 胸の奥にはまた、[愛しい]という言葉が一欠片積み重なった。 木崎の事を想いながら立ち尽くす甲太郎を、 自分の部屋へと帰りかけていた小夜が見付けたが、 先程の今ではどうにも気が引けて、声を掛けることが出来ずにいた。 先程一緒に、此方の方に来た筈の人の姿は既に其処には無かった。 けれども何時までも立ち去ろうとはしない甲太郎を、 自分も庭から縁に伸びてきた草木の葉陰から、 立ち去れないままそっと見詰め続けた。 そうして小夜は思い至る。 形(なり)は少女のそれでも、身体の中の[女]が小夜に告げた。 「甲太郎兄さまは、誰ぞ好いた方がいらっしゃるのだ」と。 目の前の甲太郎の姿は、小夜の考えを、残酷にも肯定して見えた。 宴も酣となった頃。 座敷から廊下に出た突き当たりを右に曲がったそのまた突き当たりに、 目立たぬ様に客用の厠の一つが在った。 その厠は当時にしては珍しく、一度に複数の人間が入って行け、 今も調度、閉じた扉の中から辺りも憚らぬ、大声とはいかないまでも かなりの大きさの声が漏れ聞こえていた。 そして厠の扉の傍には、用を足した者が手水を使った後に 手を拭く為にであろう手拭を手にしてひっそりと控えている人影が在る。 「何だってオメェまで付いて来やがったんだ、中野!! ぽん太と二人っきりになる絶好の機会だと思って 座敷を抜け出して来たってのに!!」 「申し訳ありません。 ですが自分だって、厠には行きます。 たまたまそれが中佐と同じ頃に催したってだけであって、 これは生理現象です。 中佐に如何こう言われても、 我慢できないものは仕方がないではありませんか。 第一、我慢は身体に良くありません!!」 「チッ!! 上官に向かって、生意気に口答えしていやがる。 テメェ、考えてもみろ。 野郎と[連れション]なんて、楽しいか? 嬉しいか?え?どうだ?」 「そりゃ・・・自分だって・・・・・・」 「そ〜だろ、そ〜だろ。 そう思ってんなら、思ってる様な態度を見せろって言ってんだ。 オメェもそう思うよなぁ、ぽん太?」 ガラリと厠の引き戸が引き開けられた。 「なぁ? ・・・・・・・・・・・・・って、おい中野。 見てみろ、流石[翠山]の妓だ。 [ぽん太]の名前は伊達じゃねぇぞ。 見事に化けやがった」 短い沈黙の後、先に出たものの 扉の前から動こうとしない上官の肩越しに前を覗こうとして、 上官より少々背の足りない中野中尉は、 精一杯に背伸びをしても見えないと諦め、 代わりに上官の二の腕の横の辺りからひょっこり顔を覗かせ、 やっとの事で大湊中佐の言っている事の意味を目視で理解する事が出来た。 確かに、[ぽん太]が化けていた。 厠に入る前に見たのは元は深川の芸者上がりだという変り種の妓の艶姿。 なのに今、目の前に居るのは[ぽん太]とは全く違った外見をしている。 [性別]からしてまるで違っていた。 目の前に居るのは見間違えようもない[男]で、この見世の息子・・・・・ つまり、何処から如何見ても[高宮甲太郎]その人だった。 「・・・・・高宮中尉・・・・・」 2度、3度と眼を瞬かせて、中野は甲太郎の名を呟いた。 しかし、甲太郎は中野の呟きを無視する格好で、 まずは上官の大湊に向かって 用意していた手水の水を柄杓に梳くって差し出す。 「どうぞ」 「ぽん太はどうした?」 縁の外に差し出した大湊の両の掌に柄杓の水が掛けられ、 その下で擦り合わされ、揉み合わされた掌は、 待ち兼ねた様に用意された手拭に一粒残さず水気を拭い取られた。 大湊がそうやって手を拭っている間に、 続けて中野も同じ様に柄杓に水が汲まれ、 その水で手を洗わされていた。 自分の使った手拭を、大湊は当然とばかりにぽいと中野に放り投げる。 中野は慌ててそれを受け取って手を拭い始めた。 「生憎、あれには他の座敷からも声が掛かっておりまして。 調度通り掛かった私に、どうしたらいいかと泣き付いてきましたので、 私が代わってあげようと申し出ました」 「ふん」 未だに廊下に正座をして 大湊達を見上げる格好のままで控えている甲太郎を 忌々しげに見下ろしていた大湊だったが、 決して本気で気分を害している訳ではなく、 視線を外して縁の近くに広がる小ぢんまりした中庭を腕を組んで眺め始め、 中野の方は恐縮しつつ甲太郎へと几帳面に折畳んだ手拭を返してきた。 それを軽く会釈しながら受け取って、甲太郎は大湊の次の言葉を待った。 「で?」 簡潔に、大湊は甲太郎に問い掛けてきた。 「木崎さん・・・大尉に、お話になったんですか?」 何の感情も窺わせない、静かな声だった。 「さぁ・・・俺はしゃべったつもりはなかったがなぁ。 どうだった、中野? 俺は木崎に今度の一件、話したかぁ? 話してねぇよなぁ?」 大湊と同時に、甲太郎も中野の方を見遣る。 「えっ?! ええ・・・・・」 挙動不審気味に、中野の視線がキョロキョロと、 見詰めてくる二人の視線を避けて動き回る。 「話した憶えはないが、木崎のこった。 聡いからな、察しちまったんだろうよ。 オメェが絡んでるに違いねぇって」 甲太郎は、大湊の言葉を黙って聞いているだけだった。 〜第30週〜 |
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