そっと壁に耳を寄せて伺い聞いていた小夜の頭に、
[木崎]という名が届いた途端、先程中庭から甲太郎が連れ去った
男性にしては幾分小柄だった男の姿が浮かんだ。
あの時は、咄嗟の事だったのに加え、
小夜自身も酷く驚いて相手から顔を背けてしまったせいで
男の様子を詳しく見知る事は出来なかった。
それなのに、小夜には壁の向こう側で話している男達の言っている[木崎]が
先程の男と同一人物だという事に気付いてしまった。
そして、小夜の中の[女]が告げた甲太郎の想い人がきっと、違わず、
[木崎]その人の事なのだという事にも気付いてしまった。



不思議と、[木崎]という同性を想っている甲太郎に対して、
小夜が可笑しい、汚らわしい等と思う気持ちを抱く事は無かった。
それどころか、自分が好ましいと想いを寄せている甲太郎が想っているであろう
[木崎]に対しても、今はまだ顔さえもよく知らない相手として、
小夜は何の感情も抱く事はなかった。
「どんな方なのかしら・・・・・」
独り小部屋で囁く様に呟いた小夜の声が聞こえでもしたのだろうか?
タイミングよく廊下で話していた上官と部下の2人が言った。
「さて、そろそろお開きとするか。
 明日も休みって訳じゃねぇんだ。
 軍務の最中、二日酔いで青い顔したのが部屋ん中ゴロゴロってんじゃ
 流石に俺も上から睨まれかねねぇ。
 ぽん太も他に行っちまったらしいしな、
 今晩はコレで帰るぜ」
「そうですね、そろそろ・・・・・」
部下が懐中時計ででも時間を確認しているのだろう、一旦声を途切らせた。
しかし直ぐに、また声が聞こえてくる。
「ああ・・・もう、本当にこんな時間だ。
 じゃあ、まずは座敷に帰って、仲居さんに言って・・・・・」
「お〜い、俺は先に戻ってるぞ〜」
「え?あっ、中佐!!
 待って下さい、待って下さいよぅ!!」
重たい足音と、それを追いかけるバタバタいう足音が遠ざかり、
やがて元の通りの静けさが戻ってきた。
そぉと小部屋の引き戸が細く開いて、白い指先が覗く。
引き戸の隙間を、その白い指が更に押し開いて、
小夜が廊下へと姿を現した。
僅かに2人が立ち去ったであろう先を見遣っていたが、
今度こそくるりと踵を返すと、足音も密やかに内所の方へと戻って行った。



「女将、世話になったな」
上機嫌の大湊が、胡蝶と話しながら見世の大廊下を、
部下の面々を引き連れて渡って行く。
大湊の後に続く部下の中には、
赤い顔の者に混じって些か酒が過ぎたのだろう、既に青い顔をして、
仲間の軍人や見世の者達に肩を貸してもらって
辛うじて歩いてくる者もいる。
その様な具合でも、どうやらこうやら何とか全体に賑やかに、
概ね満足気な表情の一団は玄関の上がり口へと到着した。
「おんや?」
上がり口の脇に、見慣れぬ人影を見た大湊が声を上げた。
「おい女将、新顔か?」
人影に目を置いたまま、直ぐ後ろから来ていた胡蝶へと問い掛ける。
「はい?」
慌てて前に出てきた胡蝶が見たのは、
これまでは箪笥の中に仕舞い込んであった
自分の持ち物の中でも一番上物の衣装を身に纏って、
[初見草]として座る小夜の姿だった。
流石に時間が無かった上に、自分一人で着付けるだけでも大変だったのだろう、
薄っすらと施された化粧程度では、
まだまだ素人娘の域から脱しきれてはいなかった。
けれども、それがかえって小夜の楚々とした少女めいた美しさを引き立てている。
「さ・・・小夜・・・・・」
そんな小夜の姿に思わずといった態で呟いた胡蝶の言葉を、
大湊は聞き逃す事無く問い直す。
「小夜?」
「大湊さま、この子は新顔と申しますか・・・・・」
いつもの胡蝶にしては、酷く歯切れの悪い物言いに、
後から来た者達も上がり口の小夜を物珍し気に眺めている。
「おい、誰だって?」
「いや、分からねぇ」
大湊の部下達までもが小夜を見ては囁き交わしている。
「私の妹です」
そこへ、後ろから良く通る声が聞こえた。
皆が一斉に振り返ってみれば、甲太郎が立っていた。
「甲太郎・・・」
助けを求める様に、胡蝶が甲太郎の名を呼んだ。
「すみません、失礼します」
大湊の部下達の間を会釈しながら抜けてきた甲太郎が小夜の前に立った。
「小夜、立ちなさい」
ピクリと小夜の薄い肩が震えた。
「お前がそこに居ては御客様がお帰りになるのにお邪魔になってしまう」
「は・・・はい」
小夜は返事の声すらも震え、俯くしかなかった。
「さぁ、小夜」
もう一度、甲太郎が小夜に立つ様に促す。
その声に従い小夜は立ち上がろうとしたが叶わなかった。
[木崎]という名の男を、どうしても、どんな事をしても間近に見てみたいという、
昂ぶる感情に任せて仕出かしてしまった事だったが、
今更ながら自分の正気とは思えない行動に後悔と羞恥心が加わり、
止まらなくなった震えが今となっては小夜の全身に広がって、
立つ事すらも儘ならなくなっていたのだった。
どうしよう?どうしたらいいのか?と気ばかりが焦る小夜の俯いた目の前に
白い影が落ちてきた。
思わず上げた小夜の目の前に、しゃがんで自分を覗き込んでくる
夏の白い軍衣を纏った大湊の顔が在った。
「立てねぇのかい?ん?」
柔らかな問い掛けに、小夜の蒼褪めて見える程だった頬が
ほんのりと血の気を取り戻す。
「おい、兄貴。
 オメェの言い方じゃ、怖くって腰が抜けて立てねぇってよ」
小夜から視線を逸らす事無く、大湊が隣に立つ甲太郎を見遣りもしないで言った。
「こんな時は、こう言うもんだ。
 『お嬢さん、お手をどうぞ』ってな」
そう言って、実際に大湊は小夜に対して手を差し出してきた。
小夜はといえば、面食らったのか呆然と大湊を見ている。
視線が重なった時、大湊がにこりと笑って一つ頷いた。
それが合図だった。
小夜は恐る恐る差し出された大湊の手に、自分の手を預けてみた。
きゅと握られた瞬間、不思議と震えも止まり、立てそうな気がしてきた。
恐る恐る力を込めた小夜の両足は、今度こそ願ったとおりの動きをみせた。
小夜が立とうとするのに合わせて、大湊も手助けしながら立ち上がる。
しっかりと立ち上がった小夜は、自分より遙かに上背の有る大湊を見上げ、
ありがとうございましたと丁寧に礼を言った。
小さく小首を傾げながらのその仕草が、どうにも可愛らしく、
見惚れる様に立ち尽くす上官を、周りの酔っ払いどもが一斉に囃し立てた。
「うぇぇ!!見ろ、中佐を!!」
「なんか、自分達は滅多に見れないモノを見ているような」
「信じられん、中佐が惚けてるぞ!!」
ハッと大湊が我に返ったのと、
腹心の部下が聞こえよがしにボソリと呟いたのは同時だった。
「何時まで、手を握ってるおつもりですか」
「え?うわっ?!」
慌てて握りこんだままだった小夜の手を、大湊は振り離した。
「す、すまなかった」
大柄な身体を屈めて詫びる大湊を、再びの野次が襲う。
「お〜お〜必死だ」
「必死だな」
「さっきまで『ぽん太』を追っかけ廻していた御方と同一人物とは思えんな」
「実は、少女みたいのが御趣味だったとは・・・・・」
中野が高宮の隣に来て言った。
「高宮中尉、お気を付けにならないと御妹君が」
「ありがとうございます。
 大丈夫でしょう、僕が付いていますから」
「いやいや、あの人はこういう事には恐ろしく素早いですから。
 油断は禁物です」
そーだ、そーだと一斉に周りも相槌を打つ。
「・・・・・お、おまっ、おまっ、お前らぁぁぁ!!」
ブルブルと拳を震わせていた大湊が叫んだ。
「くそっ!!帰るぞ!!
 オメェ等、明日はタップリ仕事だ!!」
「えぇぇ?!」
酔っ払い故の大きかった気が、見る見る萎んでゆく。
明日を考えただけで、気分が萎えてゆく。
「それから・・・貴様、甲太郎!!」
ビシと甲太郎には指まで指してきた。
「俺の部下じゃないからって余裕こいてんじゃねぇぞ!!
 その内、憶えとけ!!
 絶対ナンか仕事やらせるからな!!」
甲太郎は、黙って大湊を見返すだけだった。
意気消沈する部下達を鼻息一つでフンと吹き飛ばし、大湊が中野を呼ぶ。
「皆揃ったんなら、帰るぞ」
「はい、全員揃って・・・・・あれ?」
「どうした?」
「木崎さんがいません」
「木崎が?」
中野の言葉に、木崎の同僚達は互いに隣に居るのが誰かを確認し合う。
胡蝶や見送りに出てきていた妓達、
仲居に下足番の若い衆も顔を見合わせる。
甲太郎も、急いで周りを見渡してみた。
確かに木崎の姿だけが無い。



「すみません、お待たせしました」
その声に一番最初に反応したのは、やはり甲太郎だった。
それから甲太郎の傍近くにいた小夜が、甲太郎につられる様に振り返る。
「木崎さん、何処行ってたんですか?」
中野が声のした方に向かって問い掛ける。
一団の後ろの方から木崎が人垣を掻き分けて前方へと顔を出して答えた。
「つい、昔の癖がでてしまって・・・・・」
「昔の癖ェ?」
直前までの不機嫌さを、ホンの少しだけ残した声音で大湊が尋ねる。
「はい、ドンガメ乗りだった頃の癖がでました」
木崎が苦笑する。
「何の事だか、全然話が見えねぇな」
「潜水艦での自分の職務は航海長でした」
「ふむ・・・確かそうだったな」
「航海長というのは、艦長の女房役であると同時に」
[艦長の女房役]の件で、甲太郎が手がピクリと動き、
その拍子に小夜の手に触れた。
小夜が弾かれる様にして見上げた甲太郎は、調度包帯が邪魔をして
その表情までを窺い知る事は出来なかった。
けれども小夜には甲太郎のその微かな反応が、
何故かしら甲太郎が心に痛みを覚えての反応だったのではないかと思えた。
小夜は、だからこそ甲太郎の心情が少しでも理解できないものかと、
せめてその小振りな両の手でもって、
俯いた拍子に目に入った甲太郎の手をそっと包んでみた。
先程の庭での遣り取りを思い出し、手を振り払われるかも知れないと、
恐る恐る差し出した手は、小夜の予想に反して、
振り払われる事も、かといって握り返される事も無かった。
甲太郎の手は、もう一度、小さくピクリと反応しただけだった。
それだけの反応しか返してはくれない甲太郎に、
小夜の胸を安堵とも寂寥ともつかない思いが覆う。
振り払われなかった事は嬉しかったが、
より以上に、返してはもらえない事が辛く、哀しかった。



哀しみに沈み掛けた小夜を、ドッと弾けた笑いが引き止めた。
「何だ、そりゃ?」
大湊がつくづく呆れたような声を上げている。
「ですから、習慣なんです。
 航海長なんて、乗組員全員にとってのお袋さんみたいなとこもありまして、
 常に、平時であろうと非常時であろうと人員の確認(安否確認まで)やら、
 精神、肉体の健康状態だとか、悩み事の相談やら、
 果ては宴会後の後始末まで請け負ってたわけです。
 特に宴会後の後始末は大変で・・・結構忘れ物やらも多くて。
 なんせ皆、普段の職場が海ですから、
 陸に上がって酒が入りだすともう最悪で、
 行く所まで行ってしまうと言うか・・・・・察して下さい」
クスクス、ゲラゲラと其処此処でその場を想像したらしい笑いが湧き上がる。
「それで、わざわざ確認してきて下さったんですか?
 本来ならその仕事、私がしなければなりませんでした。
 申し訳ありません」
心底すまなそうに中野が言う。
「いや、本当にこれは癖みたいなものなので」
木崎の答えに、ガハハと一際大きな笑い声は大湊だ。
「いや、イイのがウチに来てくれたもんだ。
 中野如きじゃ此処まで気が回らんだろうからな。
 コイツは俺の世話で精一杯だし。
 で?何かめっかったか?」
「えぇっと、この眼鏡・・・どなたのでしょう?」
「あ?!俺んだ!!」
山下という兵士が手を上げる。
「す、すいません。
 どうりで視界がぶれると・・・
 久々の酒に酔ってるせいかと思ってたんですが、
 眼鏡をしていなかったんですね、自分は」
また、一同がドッと沸く。
「それから・・・この軍衣は?」
「わーーーっ!!」
大慌てで人を掻き分け、
一人の兵士が木崎の差し上げていた軍衣をひっ攫いにきた。
「テメェ・・・沼田・・・・・」
大湊が、今度は笑いもせずに睨み付ける。
「は、はいっ!!」
「他の物は許せるが、選りにも選って軍衣を忘れるたぁどういう了見だ、え?」
「も・・・申し訳、申し訳ありません!!」
「明日から、残業だ・・・・・」
ボソリと呟く大湊を、沼田が涙目で凝視するが、
上司の大湊は知らん振りで木崎に促す。
「まだ何か残ってたか?」
無意識に、その場に居た部下達全員が
己や隣に居る同僚の頭の先から爪先までを
木崎の答えの間に、一斉に見遣った。
「いえ、以上でした」
一同がホッと息を吐く。
「よし!!」
部下達の緊張を知ってか知らずか、大湊は大きく頷くと胡蝶へと向き直る。
「じゃ、世話んなったな。
 また近いうち、寄らせてもらう」
「ありがとうございました。
 次のお越し、お待ち申しております」
下足番の並べた軍靴に次々と足を通し、一同は玄関を出てゆく。
「木崎さま」
胡蝶が最後の方で靴を履いていた木崎を呼び止めた。
「女将さん、お世話になりました」
頭を下げて挨拶をする木崎に、胡蝶もその場に正座してお辞儀をした。
「お楽しみいただけましたか?」
「はい、充分に」
「それはようございました」
「美味しい酒に食事、目にも麗しい女性達の話術や芸の一つ一つを
 堪能させていただきました。
 ありがとうございました」
「おいおい、礼はこっちにも言ってくれよ」
まだ残っていた大湊が割り込んできた。
「俺が連れて来たんだからよ」
「あ、すいません。
 ありがとうございました、中佐」
「なんだよ、その取って付けたような礼の言い方はよ」
「や、スイマセン」
2人の遣り取りを聞いていた胡蝶が笑う。
「ほほほ・・・可笑しい。
 そうでした、木崎様」
「はい?」
「先程の事、本来ならば此方が気を付けねばならない事。
 お気遣いいただきまして、ありがとうございました」
「何です?」
「お客様のお忘れ物です」
「ああ・・・アレは・・・・・」
「いえ、本当に私共の落ち度でございます」
そう言って胡蝶は、また深々と頭を下げた。
「いや、そんな・・・・・」
「皆にも、もう一度厳しく言っておきます。
 お客様に忘れ物をお持ちいただくなんて・・・・・」
「いや・・・・・そうだ!!
 忘れ物といえば、私だってまだお返ししていない物が。
 明日にでも、お返しにあがりますので」
木崎が必死に話しの方向を変えようとしているのを、
甲太郎と小夜は並んで見ていた。
「中佐、そろそろ・・・」
一旦、先に玄関の外に出ていた中野が、大湊を呼びに戻ってきた。
「おお!!
 そんじゃ木崎、行くぞ」
「あ、はい」
慌てて木崎も大湊の後を追おうとするが、その大湊が立ち止まったせいで
木崎も自ずと立ち止まざるをえない。
甲太郎達の前で立ち止まった大湊が、甲太郎にも挨拶を寄越した。
「じゃ、またな」
「ありがとうございました」
「世話になった」
「いえ、また是非」
2人が挨拶を交わすのを、後ろに控えて見るともなしに見ていた木崎が、
首筋の辺りにチリチリと違和感を感じて視線を動かすと、
其処にはじっと自分を見詰めてくる色素の薄い明るい色の瞳が在った。
真正面から見詰めてくる瞳は探る様で、
何故自分が目の前の娘からそんな風に見詰められるのかが分からない木崎は、
自分も黙って娘を見詰め返すしかなかった。
「おい」
大湊に呼ばれるまでその状態は続いた。
「は、はい」
「行くぞ」という風に、大湊が顎をしゃくる。
木崎はもう一度、小夜へと視線を戻し軽く会釈した。
そうして隣に居る甲太郎へと視線を動かし、
包帯をまた眼にして一瞬だけ顔を顰めた。
しかしそれは本当に瞬きの間程度で、直ぐに木崎は姿勢を正し、
甲太郎に向かって「お世話になりました」との一言だけを残し、
大湊の後に続いて翠山の玄関を後にした。



見世の者の中でも女将である胡蝶と、仲居頭のお時、
それに若衆頭の政次と数名が、門の外まで大湊達一行を送りに外へ出た。
すると、それまで甲太郎の手を取ったままだった小夜が、
突然何を思ったのか、自分も下駄を突っ掛け後を追った。
「小夜!」
自分の名を呼ぶ甲太郎の声も聞こえない振りをして。
長い裾を片手で摘み、小走りで後を追う。
カタカタと飛び石に響く下駄の音に、最初に振り向いたのは
見世の者達に囲まれて帰っていた大湊に付き従っていた木崎だった。
振り向いた先に小夜を認めた木崎には、先程の娘が自分を追ってきたのだと
漠然とではあったが気付いて立ち止まった。
直ぐに木崎の元へと辿り着いた小夜は、
慣れぬ運動に忙しなく息を継いでいたが、
どうにかそれが落ち着き、息が整うと先程の探るような視線ではなく、
今度は一向(ひたぶ)る視線を向けてきた。
「兄様の怪我は貴方のせいです。
 貴方の為に、兄様に何かあったら私は・・・・・」
囁きほどの声だった事と、思いもかけない娘の言葉とに
木崎が空耳か、或いは聞き違いかと口を開こうとした時、
別の声が被さってきた。
「おや、わざわざ見送りに来てくれたのかい?
 嬉しいねぇ」
木崎と小夜がハッと振り返れば、其処には大湊が立っていた。
そのままツカツカと小夜に近付いた大湊は、
避ける仕草で視線を外した小夜の手を
もう一度玄関での時の様にもう一度取った。
「また今度来た時には、話し相手位は頼めるかい?」
握られた手の力の強さも、話し掛けてくる声の具合も、覗き込んでくる瞳にも、
無理強いする所は微塵もなく、気付けば小夜は素直に頷いていた。
「はい」
「小夜」
もう一つ、別の声が近付いてきた。
どうやら甲太郎も後を追って来たらしい。
「さ、兄貴が心配してる。
 今夜はもう帰んな」
ポンポンと手の中の小夜の手を軽く叩くと、
その肩に手を移し、くるりと小夜を回れ右させ、
大湊は小夜を此方に駆けて来る甲太郎の方へとそっと押し遣った。
トトトと蹈鞴を踏むみたいに前に進んだ小夜を、
漸く追い付いた甲太郎が抱き止めた。
「小夜」
「兄様」
心配げに一旦小夜へと落とされた甲太郎の視線が、
冷ややかな色を湛えて大湊へと注がれる。
「そう怖ぇぇ顔すんなよ。
 心配性な兄貴だなぁ・・・・・。
 小夜ちゃんだっけ?
 また会おうな」
小夜に向かって軽く手を上げた大湊は、
その手で今度は横に居た木崎の背を押す。
「怖い兄貴にぶっ飛ばされないうちに、
 帰(けぇ)ろう、帰ろう」



「兄様の怪我は貴方のせい」
小夜という名の娘の言葉は空耳でも、聞き違いでもなかったのだろう。
やはりという気持ちと、本当に?という気持ちを再び抱え直して、
木崎は上司に背を押されて翠山を後にする。
門を潜り出る最後にもう一度だけ振り向けば、
残された片方の眼で、自分を真っ直ぐに見詰めてくる甲太郎の視線が
木崎の視線と絡まった。
自分を見詰める甲太郎の瞳の色が僅かに色を変えた事に、
その時木崎はまだ気付かずにいた。

                                        〜第32週〜