夏の影




「見せて」

部屋に入ってきた織田は、唐突に言った。
無表情に柳葉を見つめる織田の瞳には、せめて何を考えてそんなことを言っているのか、
少しでも解らないかと覗き込む柳葉の姿が、映っていた。
柳葉が訳も解らないままじっと見つめる、いつもなら織田の日本人にしては少し明るめの瞳は、
今は暗く沈み何の感情も見付けることは出来なかった。



6月8日、柳葉が大阪でライブを終えて、一息つく間もなく関西国際空港へ駆けつけ、
織田を出迎えて、2ヶ月ぶりに二人は再会を果たした。
二人して人気のない空港のロビーを並んで歩いた。
何となく二人とも黙ったまま、ゆっくりとした歩調で、
相手の存在を一歩一歩確かめながら歩いた。
2ヶ月間、日本とアメリカで離ればなれになっていた分の、時間と、
二人の距離を取り戻すかのように。

「荷物・・・それだけかぁ?」
柳葉は再会の時に、少ぅしづり下げたままのサングラス越しに、
自分より頭一つ大きな織田を上目使いに見て尋ねた。
コクと小さく頷く織田に、柳葉が手を差し出す。
「・・・持っちゃる・・・」
織田の足が、ピタリと止まる。
躰ごと柳葉の方に向き直ると、自分も掛けていたサングラスを指で押し下げて柳葉をマジマジと見た。
「どうしちゃったの?柳葉さん」
織田のリアクションに、差し出した手もそのままに、柳葉は固まってしまった。
見る間に顔も耳もカッと赤くなって、首までも真っ赤になってしまう。
柳葉は確か自分より7つも年上の筈なのに、とてもそうとは思えない織田だった。
時々、どうしようもなく可愛らしく思えてしまう。
大の男を掴まえて、可愛らしいもないのだけれど。

自分で取った行動に、身動きできないほど恥ずかしくなった柳葉は、次の行動がとれずにいた。
自分からではどうしていいのか解らなくて、
早く織田が何か言ってくれるなり何なりしてくれないかと真っ赤なままで織田を見ていた。
このままにしておいたらどうなるだろうとイタズラ心が疼き掛けたのだが、
見上げてくる大きな瞳が気のせいかウルウルと潤んできたようで、
勿体ないような気もしたが、ホイと右手に持っていたノートパソコンを渡した。
「じゃ、コッチ持ってくれます?」
相手のホッとしたのが、手に取るように解る。
柳葉は受け取ったパソコンを、しっかりと両手で胸の所に抱え直した。
「そっちは?」
織田が肩に掛けているバッグの方を見ながら、小首を傾げて尋ねる。
「こっちは、大丈夫。服が少しと、後は大したモノ入ってないから」
「そっか」
「そっかってね、そっちの方がよっぽど大事なんだからしっかり持ってくんなきゃ」
「ぅ・・・解ってるって!!」
今度はムキになったせいで、せっかく元に戻り掛けていたのにまた僅かに赤くなった。
そんな柳葉に、たまんないなぁと心の中呟いて微笑む織田だった。



あの日以来、柳葉は残りのライブツアーや新ドラマの番宣等で忙しく、
織田の方も2ヶ月の休暇の後の忙しさは半端ではなく、
売れっ子俳優同士同じ東京に居ても会うのはなかなか難しいようだった。
秋田から11日に帰ると、会えるはずもないと思ってはいたが、織田のケータイに留守電を入れておいた。
ライブ最終地の秋田から帰ってきた柳葉の元に、
織田から時間がとれたと連絡が入ったのは帰京後2日目の事だった。

待ち合わせの時間より30分も早く着いてしまった。
オートロックの暗証番号も聞いていたし、地下の駐車場から直接エレベーターで最上階まで上がった。
織田から預かっている鍵で、彼のマンションの部屋に入る。
まだ帰ってきていないのか、部屋には灯り一つ無く真っ暗で、
まだ数える程しか来たことのない柳葉にとっては、酷く心許なかった。
玄関、廊下、リビング・・・次々に灯りを点けて歩く。
明るくなってなんとか人心地ついた気がする。
それからやっとリビングを見渡した。
航空貨物のタグの着いた段ボールが幾つも、部屋の隅に積み重ねてある。
家庭持ちの自分とは違って、一人で暮らす織田は帰国後の荷物の整理も、
今の彼の忙しさではいつになれば終わることか。
「こりゃ、たいへんだわぁ」
一山はあるそれを見ながら、柳葉は大きなタメ息をついた。


柳葉のタメ息の理由は他にもあった。

自分がたった今考えた事に、チクリと胸が痛んだから。
「家庭」。
織田との慌ただしくも密やかな逢瀬が終わったら、
自分はいつもの様に何もなかった様な顔をして、
当たり前の様に妻の待つ自宅へと帰って行く。
妻は何も知らず、帰ってきた自分の為に、
準備していた食事を温め直そうか、それとも今帰るか今帰るかと待ちながら、
いつでも入れるようにと用意していた暖かな風呂を勧めるかするのだろう。
いつもの、あの明るく優しげな笑顔を浮かべながら。

しかし、妻への裏切りよりも自分が胸を痛めたのは・・・。
この部屋で自分が帰った後、一人になる織田の事が気になって仕方なかった。
妻よりも織田の事を気にする自分。
あの日、織田に手を差し伸べた時から、
もう戻れない道を歩き始めてしまったのかもしれなかった。

そんな事を考えていた柳葉の耳に、
微かに玄関の方から鍵を開ける音が聞こえてきた。
ハッとして、躰ごとリビングの入り口を振り返った。
閉めていたドアのノブが廻り、音もなく開いてゆく。
つい今し方まで胸を痛めていた筈なのに、
ドアが開いたらそこに立っているであろう織田の姿を確認もしないうちに、
自然と笑みが浮かんできた柳葉だった。
が、その笑みは途中で消えてしまった。

入ってくるなりの一言だった。
たった一言。

開ききったドアの所に立つ男は、
いつもの柳葉が知っている織田ではないようで。
ユラリと一歩、また一歩と柳葉の方へ歩いてくる織田は、
明らかにいつもの彼とは様子が違っている。
10日前に空港で会った、彼とは余りにも雰囲気が違いすぎた。
知らず知らず柳葉の足は反対に、
織田が踏み出す毎に後ろへと引いていった。
リビングの正面にある大きな出窓の縁に突き当たり、
初めて柳葉は自分が、織田から逃げるように後ずさっている事に気付いた。
思わず両手の後ろ手で縁を掴んで、じっと織田の目を見つめた。
織田の顔の表情以上に、無表情な瞳にゴクリと柳葉の喉が鳴った。

とうとう目の前に織田が立った。
柳葉は、真上から見下ろす様に織田から見られていた。
ズイともう一歩織田が踏み込んできたので、
柳葉は半分腰を乗り上げる感じで出窓の縁に寄り掛かった。
自然と顔も上向きになってゆく。
柳葉の生来の負けん気が、織田から目を逸らすのを、何とか引き留めていた。
だが限界だった。
これ以上耐えられないと思った途端、バッと顔を伏せた柳葉だった。
ドキドキと心臓の音だけが聞こえる。
落ち着こうと、その音を一つ、二つと数え始めたが、
柳葉が落ち着く間もなくこう言われた。
「聞こえなかったの?見せて」
柳葉の伏せた頭上から降ってきた言葉に、ビクリと肩が跳ねる。
一体何の事を言っているのか解らず、ギュッと窓の縁を握り直す柳葉だった。

仕様がないとでも言いたげなタメ息を吐くと、
織田は俯いたままこちらを見ようとしない柳葉の顎を片手で掴まえた。
織田の指が柳葉に触れた途端、またビクリと柳葉の肩が跳ねた。
殊更ゆっくりと上向かされてゆく。
目を瞑ってしまいたかったが、それではこの理不尽な扱いに屈してしまう事の様で、
いつもの柳葉の力強い光を宿す瞳とは程遠かったが、
目を開き、再び織田の目を見つめた。
頭の中では相変わらず、訳が解らず疑問符だけが渦巻いている。
クイッと顎を持ち上げられたまま、右を向かされた。
自然と左の首筋が顕わになって、織田の視線に晒される事になる。
そして次は左側。

「・・・コレ・・・ね」
伏し目がちの何処か醒めたような視線で柳葉を見下ろしながら、
ボソリと織田が呟いた。
そこでやっと柳葉は思い当たった。
「オイッ!!お前・・・」
無理矢理横を向かされていた柳葉が頭を振って、
顎に掛けられている織田の手を解こうとしたが、
かえって尚更ガッチリと掴まれてしまった。
後ろ手に窓の縁を掴んでいた手を離し、織田の手を引き剥がそうと思った柳葉だったが、
気付けば自分の躰と柳葉の躰毎窓の縁に押し付けるように立っている織田のせいで、
両手の自由が利かなくなっていた。
ゾクと悪寒が背筋を這い登る。
どうすることも出来ず、悔し紛れに柳葉に出来ることと言えば、
織田を睨み付けることだけだった。

「・・・その目・・・」
そう言って、睨み付ける柳葉の目に臆する事もなく、
織田の方も柳葉の目を見返していた
が、柳葉は見てしまった。
今まで気が動転していて、無表情だとばかり思い込んでいた織田の瞳の中に、
僅かに見え隠れしている感情を。
柳葉に横を向かせたまま、織田がその首筋にゆっくりと顔を寄せてきた。
そのせいで、それまで互いに目を逸らさずにいた二人だったが、
織田の方から視線をずらすことになる。

柳葉の予想は当たっていた。
ヒタリと押し付けられた唇が、極々軽く吸い上げている場所。
先程の悪寒とは、全く別質の、
けれども悪寒にも似た感覚がゾワゾワと躰の隅々にまで広がってゆく。
その感覚に堪らなくなった柳葉が、細く漏らし掛けたタメ息よりも早く、
切なげにタメ息を漏らしたのは、織田の方だった。
首筋に顔を埋めたまま、グイグイと躰毎その頭を押し付けてくる。
その力に、自然と柳葉の背も後ろの方へと撓っていった。
ウットリと目を閉じて柳葉が織田に話しかけた。
「やっぱ、コレか?」
「・・・・・」
織田は答えない。
「『ヤキモチ』ってヤツかぁ?」
撓っていった躰は、頭が窓に当たってやっと止まった。
「・・・・・ヤだったんだ・・・・・」
柳葉の肩口から聞こえた織田の声からは、
ついさっきまでの、柳葉が思わず震え上がるほどの威圧感は、
ウソの様に何処かへ消え去っていた。
拗ねて、いじけきった、まるで子供のような言い方だった。
目は閉じたまま、口元に笑みが浮かぶ。
「笑わないでよ・・・」
くぐもった声で、気配を感じたのか織田が抗議する。
「なんだぁ?お前らしくもねぇ」
そう柳葉が口にした途端、ガバッと織田が躰を起こして、
驚いて目を開いた柳葉を覗き込んできた。
「俺らしいって何だよ!!」
傷ついたような顔をして織田は言った。
「2ヶ月振りに会えたって言っても、
 あの後も直ぐにお互い仕事の都合でろくに一緒にもいれなかった」
柳葉は、黙って唇を噛んで織田の言葉を聞いていた。
「俺達のこと考えると・・・・・不安なんだ。
 ただでさえ不安な事ばっかなのに!!」
そこで言葉をとぎらせ掛けた織田に、視線で先を促す柳葉だった。
「そしたら、誰かが柳葉さんが秋田のライブでギャラリー相手に・・・・・。
 で、その揚げ句に怪我したって」
いつもなら、自信と情熱に溢れ、
前を、未来を見つめてキラキラと輝いているはずの織田の瞳が、
心細げに見つめてくる。
そんな織田の表情に、柳葉の眉がギュッと八の字に寄せられた。
グイと躰を起こして、自分の表情を織田から隠したいのか、
目の前の胸元にコトリと頭を預けた。
織田から柳葉の表情は見えなくなった。
「・・・すまねぇ、はしゃぎすぎた。」
言い訳のように織田の胸元から呟きが漏れる。
「あんな近くで、お客さん達の反応、ダイレクトに伝わるライブなんて、
 久しぶりだったもんだから・・・・・ごめんなぁ〜」
「ちょ!!何で柳葉さんが謝ンの!!」
すかさずそう言った織田は、
俯く柳葉の顔を両手ですくい上げ、自分の方を向かせた。
申し訳なさそうに寄せられた眉と、揺れる瞳に、
思わず頭ごと抱えるように抱き締めた。
「謝ンのは俺の方です!変なヤキモチなんか妬いたりして」
織田が自分の方に抱き寄せた事で、やっと両手の自由を取り戻した柳葉は、
オズオズとその手を織田の躰に廻した。
「『ヤキモチ』なら、俺だって・・・」
そう言った柳葉は、その後の情けない顔を見られたくなくて、
ギュッと織田の躰に廻していた腕に力を込めた。
「えっ?えっ?なんてったの、柳葉さん??」
慌てて自分から柳葉を引き離して、覗き込もうとする織田の気配に、
ますます柳葉はしがみつく。
こんな時は、やっぱり自分が年上なんだと改めて確認してしまう。
いつもは織田の方が柳葉をリードするような所が目立つが、
時にはこんな風な事もあって。
「ねぇ、柳葉さんってば〜」
やっといつもの二人に戻れたようで、しがみついた織田の胸元で、
いつまでもクスクスと笑い続ける柳葉だった。



笑う柳葉の耳には、自分の笑い声に重なる聞き慣れた「妻」の笑い声が聞こえたような気がしたが、
今はただ目の前のこの男の事だけを考えようと、思い切って顔を上げ、
自分の方から伸び上がり口付けをした。

                     1999.6.29 UP(2005.01.29再UP)