Rose de Sable [砂漠の薔薇]



終わりのない闇
















何故だろう・・・
 
理由(わけ)もなく夜の海が見たかった。
尽きることなく寄せては返す波を、いつまでも眺めていたかった。
 
 
六本木の官舎まで、考えたい事もあるからと、途中で公用車を返した室井は一人夜道を歩いていた。
空には月が出ていて、室井の背中を明々と照らしている。
肩越しに見上げてみると、明るさの割には細く長い新月で、室井はその姿に自分の心情を重ね合わせた。
 
今にも折れそうな月。
 
顔を前に戻し再び歩き出す室井の前には、長く長く己の影が伸びている。
ゆうらりゆうらりと揺れる黒い影が、室井の足元から伸びている。
 
不安定に揺れる影。
 
影を見つめて歩く室井は、シニカルな笑みを口元に刻んだ。
自分の影さえもが室井を追い詰める。
 
官舎のエントランスを抜け、いつものようにエレベーターは使わずに階段へと向かう。
日頃の運動不足がこの程度で解消されるはずはないが、せめてもと自室までの6階分の階段を登ってゆく。
息切れすることもなく辿り着くと、廊下の際奥にある自室へと歩を向ける。
シンと静まり返った官舎の廊下に、室井の足音だけが響いてゆく。
いつものキビキビとした足音とは程遠い、引きずってでもいるような重たげな足音だった。
 
自室のドアの前まで来ると、やっと思い出したように鍵を取り出す。
ジャラジャラと鳴るキーホルダーから目当ての鍵を選んで鍵穴に差し込むと、ガチャリと思い掛けず大きな音がして鍵が開いた。
大きくドアを開けて中に入り、靴箱の上にキーホルダーを放り投げ靴を脱ぐ。
玄関の登り口に鞄を置いて上がると、次に出る時の事を考えて、キチンと靴を揃えておく。
こんな気分の時にも習慣を忘れない自分に、室井はますます気分が重くなる。
廊下の電気を点け、コートを脱いで玄関のコート掛けに掛けようとハンガーに手を伸ばす。
ふと逡巡するかのように、その手が止まった。
おもむろに、もう一度脱いだばかりのコートに袖を通すと、置いたばかりのキーホルダーを掴み、揃えたばかりの靴を履き、

室井は帰ってきたばかりの部屋を後にした。
先程とは明らかに違う足取りで、廊下を抜け階段を降りる。
そのままエントランスのある階を通り過ぎ、地下の駐車場へと向かった。
 
地下では、滅多に使用されることのない室井の車が、久しぶりのオーナーの来訪を、薄暗い駐車場の一画で静かに待っ

ていた。
メタリックのダークブルーの車体が、取り去られたカバーの下から現れる。
簡単にカバーを畳むと、急いでトランクに放り込む。
運転席側のドアを開けて乗り込もうとしたが、コートが運転に邪魔かと思い脱いで助手席に放る。
座ったと同時に、ゆっくりとイグニッションキーを捻る。
微かに車体が震えたかと思うと、聞き覚えのある低い唸りと共にエンジンが回転し始める。。
ONにしたままだったのだろう、室井に向かってエアコンから長い間使われなかった当て付けのような、少し埃っぽい風が

吹き付けてきた。
一つ咳をして風向を助手席側に向け、シートベルトを締めた室井は最後にライトを点け、ゆっくりと駐車場を走り出た。
 
普段は全く運転する必要がない室井だったが、キャリアとは言えまだまだ下っ端の部類に入れられる事も多く、上司達の

運転手を勤めなければならないということも無いとはとは言えなかったので、もしもの時の事も考慮に入れて、一応自分の

車という物を用意していた。
購入時、自分の年代にはどうかとも思ったが、運転の仕易さ安全性もあって、乗り慣れているセダンタイプの公用車と同じ

車種のスポーツタイプで落ち着いた。
そんな風にして購入した車だったが、今までに何度こうして走らせてやれただろうか。
構ってやれなかった割に、車は機嫌よさそうに、室井を目的地へと運んでくれる。
 
 
室井の目的地は砂浜の在る、水平線の見える海。
少し遠出をしても構わなかった。
どうしても、果てしなく広がる海が見たかった。
 
 
車窓にボンヤリ白く砂浜が見え始め、室井は海辺へと続く道へと車を乗り入れた。
路肩には盛りを過ぎたコスモスの花達が海風に揺れているのが、ライトの光源に引っ掛かっては見え隠れする。
車が入れるギリギリの所に車を停めて、室井は秋風の冷たい車外へと降り立った。
 
 
コートを肩から羽織っただけで、室井は浜辺を歩く。
大気は澄みわたり、見上げた夜空は何処までも広がっている。
遠く水平線には、遠ざかっていく船の煌めきまでもが見える。
瞬間、どうしようもない程の寂寥感が室井を捕らえて、堪らず目を閉じる。
 
 
遠ざけたのは自分。
つい先日の光景がたった今のことのように、甦る。
有明コロシアムでの光景。
そして、一時は自分も彼等と共に在ると室井が錯覚した程、暑い季節。
 
その場所から遠く・・・遠く離れたかった。
思い出から、もっともっと遠くへ離れていたかった。
 
忘れようとした思い出は、しかしどう足掻いても室井を離してはくれなかった。
 
 
彼の、彼女の言葉に傷付いた室井がいる。
同時に、室井の言葉が傷付けた彼等がいる。
室井には、この世界で生き抜いていくと言う意味が、解っていたつもりだった。
なのに今回、結局自分は何も解っていないに等しかったのだという事を、今更ながらに気付かされた。
彼等への憧れや戸惑いに、意味も知らないうちに室井の心は揺れ続け、そして全てを理解できないままに壊れてしまった。
 
 
自分で選んだ道に、後悔はない。
 
そう言えればいいのに・・・と室井は思う。
ずっと続くはずと信じていた。
彼等との関係は、終わる事など無いと思っていた。
 
室井の手に残っているのは「孤独」と言う哀しさだけ。
それだけが、何時までも室井の胸に漂っている。
 
 
足元では波が寄せては返す。
永遠に。
水平線に目を遣ると、波の果てに、折れてしまった月が墜ちようとしていた。
室井は佇んで、その様を眺める。
 
夜明けまではまだかなりある。
折れてしまった月は、夜中には西の空に沈んで溺れてしまい、闇は暗くその色を増す。
目を閉じれば、室井の瞼の裏には暑い季節に見た思い出の青空が、何処までも何処までも哀しい程に広がっているのに。
 
潮風が一度、立ち尽くす室井のコートを大きくはためかせた。
幸いな事に室井は明日は非番だった。
今の官職なら、緊急の呼び出しも無いだろう。
登庁の時間を気にする必要のない室井は、もう暫く、この寄せては返す波を見てゆく事にした。
 
月は、折れて海へと墜ちてしまった。
室井は「孤独」と言う名の影に追い詰められる。
言えない言葉がタメ息に変わる。
 
そして室井は、終わりのない暗い闇の中に一人取り残される。
 
             2000・03・24UP




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