制服




水無月の朔日。

衣更え。

厚く重い冬服は、薄く軽やかな夏服へ。

そして、季節は穏かな春から烈しい夏へと推し移る。





「室井さ〜ん」
青島は、台所の入り口に掛けてある和風の暖簾を片手で持ち上げ、
もう片方の手はエプロンのポケットに突っ込んだまま、同居人の名前を呼んでみた。
今朝は遅番の青島が朝食を作っていたらしい。
「朝飯、出来ましたよ〜」
キョロキョロと廊下の左右を見遣ったが、目当ての人の姿は無い。
「っかしいな〜?」
ペタペタと玄関の方へ行ってみる。
毎朝、門の新聞受けから朝刊を取ってくるのは室井の役目だった。
ひょっとすると、調度取りに行っている所で、自分が呼ぶ声が聞こえなかったのかもしれないと思って。
だが、通勤用のピカピカに磨き上げられた室井の革靴は勿論、
普段履きのサンダルも、キチンと揃えられて其処に有った。
「ん〜じゃ、洗面所かな?」
元来た廊下を戻りながら、今度は途中の洗面所に寄ってみた。
「室〜井さん?」
開け放したままの入り口から覗いてみる。
たいして広くない洗面所兼脱衣場にも室井の姿は無い。
「何処だ?
 あ、もしかしてトイレとか??」
ひょいと、今度は顔だけを手洗いの方に向けてみる。
どうしたものかと思いつつ、手洗いの方へ行き掛けた青島だったが、
フッと室井の使いつけの整髪料の匂いが横切った気がして立ち止まった。
「あれ?」
よくよく注意してみると、廊下の突き当たりの室井の部屋の手前に在る青島自身の部屋の方から、
微かに人の居る気配がした。
洗面所同様、此方の入り口も開け放してあった。
目的の主は入り口からは死角になる所に居るらしく、青島は入り口の戸の所で一旦立ち止まり、
控えめに、けれどしっかりと2度、扉をノックした。
そうして、同居人の名前を呼ぶ。
「室井さん、居るんですか?」
ドアに入って直ぐ右側。
青島はやっと目当ての人の姿を見付けた。


目の前の人は、すんなりと真っ直ぐに伸びた綺麗な背中の持ち主で、
ほっそりと華奢に見えるが、その実、余計な物を削ぎ落とした、見惚れる程の鍛えた筋肉の持ち主で、
今は青島には見えないその面に、強くて、硬い、そのくせ何処か脆くて、儚い、
黒々と濡れた、大きな瞳が耀いている筈だった。
その人は、青島に背を向けたまま、両の手で肘を抱くようにしてジッと何かに見入っていた。
何をそんなに見ているのかと、青島は怪訝に思って近付いてみる。
其処には、今日青島が出勤時に持って出ようと思って昨夜から用意しておいた、
夏の半袖の制服が掛けてあった。
「制服・・・今日から[衣更え]なもんで」
室井は、青島の空色の制服から目を離さない。
「夏の制服、珍しいですか?」
言ってしまってから、青島は何故だか言わなければよかったと思った。
端正な室井の横顔が、心なしか僅かに歪んだ気がしたのだ。
「私は・・・殆ど、この制服に袖を通した記憶が無くてな」
ふぅと大きく息を吐いて、室井が言った。
「あ・・・そうか。そうですよね、室井さんたち、殆どが三つ揃いのスーツか、
 じゃなきゃ庁舎の中での制服姿ばっかでしたもんね?」
「君は・・・これ着て、炎天下を走り回ったりしたんだろ?」
「仕事っすから」
「交番勤務は、暑かっただろう?」
「いや、流石にあんま暑い時にはエアコン点けてましたから。
 ただ・・・パトロールに出かける時がね、暑さ倍増って感じで、地獄でした」
ハハハと、青島が白い歯をみせて朗らかに笑った。
「そっか」
少しだけ室井の横顔も笑った気がした。


一瞬の間の後、室井がポツリポツリと話し始めた。
「入庁して直ぐの、ほんの短い交番勤務以外、
 式典等を除くと、君の云う通り、私は殆どスーツばかりだった」
眩しそうに青島の制服を見詰めたまま。
「田舎育ちで、父親も教師だったから、国家公務員のキャリアが
 どんな物で身の回りの物を用意すればいいのかなんて、
 まるで分からなかった。
 第一、自分が馬鹿にされているのにも気付いて無かったしな。
 服装や、持ち物で仕事をする訳じゃなし、
 『着れればいい』『使えればいい』だったんだ、私は」
「俺もそうですよ。
 ・・・ってか、『自分が良いと思ったらそれが良いんだ』ってヤツですね、俺の場合は」
青島も、室井の横に並んで自分の制服を見ながら二ッと笑う。
「ある日、直属の上司に呼ばれた。
 この人はノンキャリの叩き上げだったんだが、私を煙たがりもせず、
 かといって持ち上げもせずでな、適所適所で、その時々に一番いいアドバイスなんかを
 さり気なく送って寄越してくれたんだ。
 心底、有り難かった・・・。
 でも、この人は定年直前でな。
 間も無く退職という或る日、いきなり呼ばれた。
 何事かと思いながら近付くと、仕事帰りに付き合えって云うんだ。
 残り僅かな時間、色々と教えてもらいたい事も有ると思って、私は頷いた。
 そうして連れて行かれたのが・・・何処だと思う?」
「さぁ?」
「飲みに行く前にって、銀座の高級オーダーの紳士服の店さ」
「え?あの、『英国屋』とか『田屋』とか?」
「お、よく知ってんな?」
思わず、チラッと室井が青島を見た。
自分より小さな室井を、首を傾げ、心もち見下ろす格好で青島も視線を送る。
「サラリーマン時代に、ちょっと・・・。
 あ、でもね、自分のモンじゃなくって、お得意さん用にね」
「そりゃ、大変だったな」
「必ず、『領収書下さい!!』って支払いの時に店員さんに小声で叫んでました。
 で?室井さんは?」
「うん、その人にな、言われた。
 『何日も泊り込みの時、皺だらけのシャツじゃ、部下も言う事聞かんよ』ってな。
 『キャリアは<完全無欠>じゃなきゃ。
 この人に任せておけば事件は、必ず解決するって思わせなきゃならないんだ。
 たとえ張ったりでもいいんだ、格好だけでも』ってな。
 見るに見兼ねてだったんだろうな。
 その場で、新しいワイシャツの生地選びをして、採寸して、デザイン決めて、
 挙句はそれに合わせてネクタイやらも片っ端に買ったな。
 実際、な〜んも持ってなかったから仕方ない。
 そんな私を見て、彼は言ったよ。
 『私がこれまで見てきたキャリアん中じゃ、アンタが最悪だ』。
 大袈裟な位な溜息付きで言われた。
 流石に私も少し傷ついた」
室井は片頬に苦笑いを浮かべた。
「その人な、捜査一課きっての切れ者課長でな、今じゃ伝説になってる。
 思い返してみると、長引いた事件で泊り込みが連夜で続いても、
 いつもパリッと折り目の付いたシャツで、ネクタイだって、
 普段の君みたいなヨレヨレのネクタイ、ブラブラぶら提げてなんかいなかった」
「ヨレヨレのブラブラ?!ひでぇ・・・!!室井さんの俺のイメージってナニ?そんななんスか??」
「本当じゃないか」
「・・・・・(怒)」
室井はクスリと笑って、ポンポンと青島の二の腕の辺りを軽く叩いた。
「そう、剥れるな。
 君の仕事ッぷりは、私が一番良く知ってる」
現金なもので、相手が室井だと、この程度のフォローでも、青島の機嫌はイキナリ良くなってしまう。
「ありがとうございます♪」
返答の代わりに、室井は少しだけ肩を竦めてみせた。
「とにかく・・・それ以来だな。
 結局は仕事ばかりの毎日だ。
 何処かに出かける訳でもなく、恋人を作る暇さえ無かったから、デートにも出掛けなかったしな」
「おかげで俺は今、こうして居られるんですけどね」
途中で青島が自分の話の腰を折るのを、室井が視線で押さえ、
睨まれた青島はペロリと舌を出した。
「職場と部屋を往復するだけだ。
 毎月の給料だって、賞与だって使う暇も有りゃしない。
 嫌味じゃなく、実家に多少送ったって溜まる一方だ。
 だから、彼の言う通りにした。
 上質のシャツに、ネクタイ。
 それから、着心地の良いスーツ。
 必要と思ったモンを次々と。
 色んなモンを揃えていった・・・」
「そうだったんですか」
「さっき、身支度を整えて、君の部屋の前を通り掛かった時に、
 ガラス窓に制服が映っているのが見えた。
 勝手に入って悪いと思ったんだが・・・何だか妙に新鮮に思えてな。
 こうやって暫く、眺めさせてもらってた」
眩し気に目を細める室井の様子に、入庁以来ずっと、たった一人で闘ってきた
室井のこれまでの日々を思い、青島の胸は痛んだ。
青島は、オズオズとその男性にしては小振りな室井の肩に手を伸ばす。
そっと自分の方へ引き寄せてみながら内心で
「何する気だ?!」
なんて怒らせてしまうのではないかと思ったが、
けれど思いがけず、室井は素直に青島の肩に頭を凭せ掛ける様にして寄り掛かってきた。
普段ストイックな室井が、青島に対して極稀に見せる甘えを含んだ仕草が、
たとえどんなに些細なものでも、青島をこの上も無く幸せな気分にさせてくれた。


「室井さん。
 俺の部屋、何時でも気にせず入っちゃっていいですよ。
 全然、遠慮なんかいりませんから。
 ね?」
幸せな気分で微笑を浮かべながら覗き込んできた青島に、室井は即答せず、一拍の後こう言った。
「・・・もう少し、部屋を片してあったらな」
「!!」
どうも青島は、又自分で墓穴を掘ってしまったらしい。
青島は、思わず天を仰いだ。
堪らず、室井は声を上げて笑い出した。
そうして漸く室井の笑いが収まってきた頃、何気無く視界に入った時計を見て室井が青島に言った。
「おっと!!
 私を呼びに来たんだろう?
 朝食、出来たのか?」
互いに多忙な身故、久しぶりに朝からそこはかとなく幸せな時間を過ごしていた二人だったが、
室井はそうゆっくり青島とじゃれている訳にもいかなくなってきたらしい。
「あ、そーだった!!
 味噌汁、冷めちゃう!!
 室井さん、卵どうします?
 目玉焼き?スクランブルエッグ??
 それとも卵焼き??」
「君の一番得意なんでいい」
「えーっ!!
 そんな事言うと、お膳の上に生卵がそのまんま出てきちゃうかもしれませんよ」
「それは・・・構わんが・・・・・」
「嘘、嘘ッ!!
 ちゃ〜んと作りますって。
 そ〜だな〜、卵焼きにしましょうか?
 で?甘いのとしょっぱいのどっちにします?
 いっその事、出し巻きにしちゃいます?」
「・・・あのな、青島。
 気持ちは、本当に有り難いんだ。
 有り難いんだが・・・・・頼む。
 電車の時間に間に合うヤツにしてくれ」
「あ!!」
大慌てで台所へと引き返す、騒がしい青島の裸足の足音の後を、
ゆっくりと室井の立てるスリッパの音が追い掛けていった。



窓から入ってきた初夏の風に、真夏の空の色の制服がふわりと揺れた。