〜白い闇〜 |
「待ってて。
きっと逢いに行くから」
春はどこだろう?
先日耳にした、今年初めての桜の開花宣言。
巷には、春の到来を喜ぶ人々の歓声が満ちている。
なのに俺だけは、未だに深い冬の中に取り残されたまま・・・・・。
しんとした雪原を、俺の吐いた大きな白い息が遮って一瞬見えなくした。
雪の白さと、俺の息の白さ。
天と地を分ける地平線の彼方に続く山の峰々。
その上方に広がる澄んだ夜空に煌めくのは、普段住み慣れた都心では到底見ることの出来ない零れそうなほどの星々。
山の天気は変わり易い。
今回の数ヶ月間にわたった映画の撮影で、身体と頭に嫌と言うほど教えられた事だ。
もしもを考え、ホテルの建物から余り離れず、それでいて一人きりになれそうな所まで歩いてきた俺は、
そうして調度いい具合の岩を見つけ、 その上に積もっていた雪を軽く払い落として腰を降ろした。 いろいろと考えたい事があったから、一人になりたかったんだ。
映画の撮影の事。
これからの仕事の事。
それから・・・・・
どれくらいの時間、こんな風に座り込んでいたんだろう?
俺は不意に、雪の上をサクサクと音を立てながら近づいてくる足音に気が付いた。
振り返ると佐藤さんがいた。
「何してんの?こんなトコで」
「佐藤さん」
歩いて距離を縮めながら、佐藤さんが近づいてくる。
「ちょっと、考え事を」
佐藤さんこそ、どうしたんですか?こんな時間に?」
「おいおい、その『佐藤さん』ってのはナシにしようや。
随分と他人行儀に聞こえるぜ。
前みたいにさ、『浩市さん』って呼んでくれないのか?」
「『浩市さん』は・・・少し、今の俺達には親密すぎるでしょ」
そう言って俺は笑った。
「じゃぁ俺も『裕二』じゃなく、『織田君』って呼ばなきゃな」
「俺の方は『織田』でいいですよ。
『佐藤さん』」
「撮影、今度こそ終わりだな」
俺の隣に腰を降ろした佐藤さんが、今回の撮影の事を話し出した。
今、俺達は黒部にいる。
本来ならば既に終わった撮影だったが、どうしても納得のいかないシーンがあって
俺や監督、それから佐藤さんを含む必要最小限の人員で、もう二度とは来たくなかった筈の真冬の山へ、再びの入山を果たしていた。
次の仕事に入る準備を始めようとしていた佐藤さんを掴まえて、例の独特のヘァスタイルもカット直前に「チョット待ったぁ!!」と、
なんとかセーフでストップしてもらった。 その佐藤さんの髪をチラッと見て言った。
「すいません、ご迷惑をお掛けして。
やっとその髪、さっぱりできるって言ってらしたのに」
佐藤さんも前髪の辺りを引っ張って自分の目の前に持ってくると、しげしげと眺め、摘んでいた部分をフッと一吹きして笑った。
「ここまできたんだ、今更だ。
とことん付き合うって。
この髪だってな、役作りの為にって結構苦労したんだぜ。
ま、今回が『最後のご奉公』ってトコだな。
もう、二度とネェだろうしな。
こんな事。
だからさ、織田。
せいぜい、イイ映画にしような」
「はい」
「今回の仕事は、久々にいろんな意味で楽しかった。
・・・寒さは・・・置いといてな」
「ははは・・・ホントに。
寒さは、もう『ごめんなさい』って感じでしたもんね」
撮影の真っ最中の寒さは、今のこの寒さを遙かに凌ぐ、極限の寒さだった事を思い出す。
「今回の仕事。
・・・俺もです。
佐藤さんに宇津木役、お願いできて 本当によかったと思ってます。
ありがとうございました」
「こっちこそ、イイ仕事だったぜ。
またいつか、仕事がしたいな。
お前さんと」
「佐藤さんにそう言ってもらえるなんて、光栄です。
次にご一緒できるまでに、頑張んないと。
ガッカリさせないようにね。
しっかり勉強しときます」
「ウンウン。
頼むな」
「はい」
それからしばらくの間、今回の仕事が数年前のTVドラマでの共演以来の仕事だった俺達は、
久々の共演までの互いの話を、そんな調子で、深々とした夜気の中、話し込んでいた。 何気ない調子で、佐藤さんが言った。
「織田。
お前、柔らかくなったな」
「はい?」
「顔合わせの時に、久しぶりにお前に会えると思って。
なんかこう、恥ずかしい話しなんだけど、ドキドキしながら出掛けてきたワケよ。
俺」
「さ・・・佐藤さんが?」
「うん」
「ど、どういう意味なんだろう?」
俺は曖昧に笑ってみた。
「『あれから、どう変わっただろう?』とか。
そりゃ、イロイロ考えてたからさ。
俺の知ってた、あの頃のお前さんと比べて」
「で?どうでした?
今の俺は、佐藤さんの期待を裏切りませんでしたか?」
「お前さんの仕事の事とかは、TVやら雑誌とかからも入ってきてたから。
でも、実際目の前にしたら・・・」
「したら?」
佐藤さんは、そこで一呼吸置いて俺をジッと見つめてきた。
「あの時、お前さんを行かせてよかったって思ったよ。
・・・少し、勿体なかったかなとも思ったけどな」
「何ですか?その『勿体なかった』って」
「お前さんの手を離しちまった事さ」
「俺の?」
「今度の仕事を一緒にやってみて、俺の決断は正しかったんだって思えたよ」
「・・・」
「そりゃぁ俺だって、最初の頃は、何度お前さんに『寄りを戻そう』って電話、掛けようと思ったか。
けどな、もうお前さんは前を見てたから・・・
もう、同じ場所にはいなかったから・・・」
「・・・佐藤さん」
「もしももう一度、俺がお前さんに手を伸ばしてみても、お前さんが俺の手をまた取るなんて事はなかったろうよ。
お前さんのその手は、自分自身の全てで、新しい世界への手掛かりを掴もうと必死だったからな」
その頃の事を思い出しているように、佐藤さんはどこか遠くを見ている。
俺もその横顔を、ただ黙って見つめていた。
「その後もお前さんが何かと叩かれたりしてると、ひょっとしたら今ならって。
ちょいと卑怯だけどな。 どうだ?
そんな時、俺が連絡取ってたら・・・
もう一度始まってたって思うか? 俺達」 『そんな時』って・・・俺は考えてみた。
いろいろあった、佐藤さんと別れてからのこの数年間の事を。
もしもそんな時、佐藤さんの気持ちに甘えていたらって。
今の俺はいないな。
瞬時にそう思った。
俺は言葉の代わりに、黙って首を振った。
「はは・・・やっぱ、そうか」
わかっていたとばかりに、佐藤さんが笑う。
「だからこそ、今の『織田裕二』がいるんだもんな」
何も言えなくて、俺は佐藤さんに向かって小さく微笑んだ。
それからどれくらいの時間が経っただろう。
そのまま黙って二人は雪景色を眺めていた。
夜の雪山だ。
何といって見る物があるわけではない。
見渡す限りの雪と、夜空に瞬く星と、後は俺達二人の吐く白い息と微かな息使い。
佐藤さんが、視線は前方に据えたまま、またポツリと聞いてきた。
「今、想っている人がいるみたいだな」
「!!」
俺は、反射的に佐藤さんの方を見た。
ギョッとしたような俺の表情とは対照的に、佐藤さんは穏やかな笑顔を返してきた。
あの頃からよく知る佐藤さんの優しい笑顔に、俺の中で張りつめていたものが消えてゆく。
そうして、いつか俺は、同じように笑顔を返す。
「で?上手くいってる?」
何の気無しに尋ねてくる佐藤さんに、俺は返事を返す。
「ついこの間、別れました」
「!!」
今度は佐藤さんが驚く番だった。
「エッ!!」って感じで俺を見る。
そうして直ぐに視線を逸らすと、明後日の方を向いたり、座り心地が悪そうに、
二人で並んで腰掛けていた岩の上でモゾモゾと動いてみたりした。 「そんな・・・すまなそうな顔しないで下さいよ」
佐藤さんの、余りに狼狽えて可哀相な様子に、努めてというワケでもなく、俺は明るい調子で言った。
「最初っから、いろいろと無理なことばっかりだったんですよね。
俺が強引に押し切って始めたんです」
「そうか」
「はい」
「・・・」
それっきり、何も言わない佐藤さんに、俺は独り言を呟くように話を続けた。
佐藤さんになら、話を聞いてもらってもかまわない気がして。
「(佐藤さんには)失礼な話ですけど・・・。
あんな風に人を欲しいと思った事は、生まれて初めてで。
何度もやめよう、諦めようと思いました。
だけど・・・ものの何分と保たないんですよ。
気付くと、あの人の事を考えてる。
何を思い返してみても、全く違うんです。
これまでのどれとも違う。
誰とも違う。
今までの事が、何の役にも立たないんですよ。
全部。
自分で自分の気持ちがコントロール出来ないんです。
あの人を手に入れる為ならって・・・色んな事考えましたよ。
自分でも反吐が出そうな、正気かって事だって考えた。
あの人の家庭を、壊してしまえって。
そうすれば、あの人は俺だけのものになるって。
浅ましいもんですよね」
「か、家庭持ちか・・・」
隣同士に座る俺にさえ聞こえるか聞こえないかの、佐藤さんの呟きが聞こえた気がしたけれど気のせいにして続ける。
「でも・・・結局は出来なかった。
出来っこない!
あの人の泣き顔を見るのは耐えられない!
あの人の涙を見る位ならって。
あの人が泣くのはわかってたから」
俺は、細く長いタメ息をつく。
「その人、『自分には家庭がある』って。
だけど俺は、それでもいいって。
それでも構わないって。
少しでも俺を、あなたが想ってくれるんならそれでいいって。
そうして踏み出したんです。
・・・けど、所詮きれい事ばかり。
口ではそう言ってても、やっぱりどうにもならない時もあって。
一番見たくなかったはずのあの人の涙を、事ある毎に見なくちゃならなくて。
俺のせいで泣かせてるなんて・・・。
俺のために泣いてるなんて・・・。
耐えられなかった。
だけど・・・・・離したくなかった!
一度抱き締めて知ってしまったあの人の温もりを、手放す事が出来なかったんです。
家庭と俺との間で苦しんでるあの人の気持ちを知ってて」
佐藤さんは、黙って聞いている。
「佐藤さん。
神さまって、居るんですね」
「?」
急に、自分に向かって話しかける俺に、尋ね返すように佐藤さんの片方の眉が上がる。
「俺の、浅ましい独り善がりなこんな想いに、神さまが気付かないワケがなかったんですよね。
あの人、ずっと言えなかったみたいなんですよ。
『今日言わなくちゃ』『明日こそ言わなくちゃ』って。
結局は言えなかったんですけどね、あの人。
で、本人からは聞けなくて他人から聞かされました。
子供がね、生まれたって」
「はっ」と、俺の口から自分への嘲笑が洩れる。
「ね?
バチが当たったって感じでしょう?
バカですよね。
結婚してるんですもん、あの人。
子供が産まれたって、ちっとも不思議じゃないのに。
その当たり前の事がすごいショックでね。
どの位ショックだったかっていうとね、もうワケがわからない位」
無意識に、俺は何度も首を小さく振った。
かつて感じたショックを振り払うみたいに。
「子供が産まれたことがショックなんだか?
それとも、俺に言ってくれなかった事がショックなのか?
直に聞けず、他人に知らされた事がショックなのか?
どれが、何がショックなんだか・・・
まるでわからなくなっちゃっいました。
暫くしてからですよ。
少し落ち着いて、ものが考えられるようになったのは。
『裏切られたワケじゃない』
『最初ッからわかってた事じゃないか』
『嬉しくてたまらない筈なのに、きっとあの人は同じくらい苦しんでる』
考えてる合間に、あの人の泣き顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えするんですよ。
あの人の泣き顔。
俺が一番、見たくなかったはずのものなのに・・・」
そこまで言って、俺はほんの数分黙り込んだ。
その間も、佐藤さんは相変わらず隣に座っている。
「思い返すと・・・俺達がこんな関係になってから、あの人、泣いてばかりだった気がします。
俺と自分の家族の間で、いつもいつも泣いてばかり。
俺との関係を続ける限り、あの人はこれから、もっともっと泣かなきゃならない。
その事に、やっと気付いたんですよ。
今度のこれが、最後のチャンスだって事にね、気付いたんです。
今しかないって」
「ねぇ、佐藤さん」
俺は、とうとう身体ごと佐藤さんの方に向き直る。
「俺の思ってる人ってね、すごく優しい人なんですよ。
優しすぎる位の人なんです。
俺が可哀相だって。
淋しいだろうって思っちゃう人。
だからね、傲慢な考えだとは思ったんですけど・・・だけどこうしないとあの人、きっと無理だから。
だから、俺の方から『さよなら』って。
あの人からじゃ、絶対に言えっこないってわかってたから。
俺から言わなきゃって。
・・・その代わり、面と向かってってのは無理でした。
俺って、意気地無くって。
あの人を目の前にして、な〜んてとこまでまだ到達してなかったから。
俺の気持ちの整理もね。
でね、手紙をね、書いたんです。
出来るだけ見栄を張って。
大人の振りしてね。
あ、笑ってますね。
30過ぎの男が、『大人の振り』かよって思ったんでしょう?
ひっどいなぁ。
書いたんですよ。
なんでもわかっちゃってるような手紙をね。
アレ読んで、多分あの人、カンカンだったと思います。
『何を勝手なことばっかり』って。
一方的な手紙だったから。
ははは・・・マジで怒りまくっただろうなぁ。
って、今そん時のあの人、想像しちゃった」
俺は一人でバカみたいにゲラゲラ笑い、佐藤さんはそんな俺を黙って見ていたが、
その眉が俺には僅かに顰められている気がした。 「は〜。
笑いすぎて、涙が出ちゃった」
目尻に浮かんだ涙をそんな風に誤魔化して、俺はグイと袖で目元を拭った。
佐藤さんの目に、痛々しいものを見るような色が浮かんでくるのが耐えられない。
勢いを付け、岩から降りて立ち上がる。
「明日の撮影。
肝心の俺達が『風邪ひいた〜☆』なんてシャレにもなりませんからね。
そろそろホテルに帰りましょう」
佐藤さんの方は、殊更ゆっくりと立ち上がった。
軽く、身体についた雪を払いながら。
最後の雪を手袋から払い終わった佐藤さんが聞いてきた。
「本当に、いいの?」
「え?」
「その人の事、まだ好きなんだろう?」
「佐藤さん・・・」
「このまんま、それで終わっちゃっていいのか?」
「・・・」
「今の織田君の話。
聞いてて思ったんだけど。
織田君さ、その人の事、前よりももっともっと大切になっちゃってるんじゃないの?
それなのに、いいのか?」
「・・・今更、どうしろっていうんですか」
「その人、なんて?
手紙だけ一方的に押し付けて、『はい、おしまい』ってやっちゃったんだろう?
それじゃ、相手の気持ちはほったらかしじゃないか」
「だって!!」
俺はちょっと言葉に詰まった。
「あの人、きっと『うん』って言わない。
本当に、優しい人なんです。
だから、これでよかったんです」
「よくない!!」
珍しく佐藤さんの大声。
シンとした夜気を震わせる。
「例えば、俺とお前さんだけど。
ちゃんと二人で話し合っただろう?
これからの事とかさ。
そうして出した結論が、或る意味『別れ』って事で、俺達は別々に歩きだした。
数年後、再会してみてどうだ?
あの時の結論は間違ってなかった。
少なくとも俺は間違いじゃなかったって思ってる」
「俺も!!
・・・俺もです」
「そうか・・・お前さんもそう思ってるんなら、よかった。
あの時間は、二人で創ってた時間だったからな。
俺だけがよかったと思ってたんじゃ意味無い。
お前さんもよかったと思っていてこそなんだから」
「・・・でも、いいんでしょうか?」
佐藤さんに、俺は聞いてみた。
「うん?」
「今更、俺がノコノコ会いに行って。
もう、あの人の方こそ、ちゃんと想いに区切りをつけてるかもしれない。
それを俺がまた『会いたい』だとか『話を』とかって」
「いいさ」
「だって俺、あの人の事『忘れる』って。
『知らなかった頃に戻る』って。
そんな勝手な手紙を置いてきたんですよ」
「だから今度こそ、会って話をするんだろう?」
「・・・会ってくれないかもしれない」
「そうか?」
「『もう忘れた』って言われるかも。
いや、それより『誰だっけ?』『知らない』って言われる。
そうだ。
そうに決まってる」
そもそも自分があの人に放り投げたくせに、俺はその言葉の残酷さを、今頃になって我が身で味わう。
「たとえ、二人の関係が終わるとしても。
せめてもう少しいい形で。
終わりに『いい形』も何もないかもしれないけどな。
それでも、互いが後々思い出した時に、いい意味での胸の痛みを感じたいじゃない。
俺は、もう一度お前さんとお前さんの想い人が会って、話をすべきだと思うね。
お前さんの想い人はそれだけの価値のある人だと思うぜ、俺は。
お前さんの話を聞いて、お前さんの表情を見てそう思う。
良かれ悪しかれ、これからのお前さん達には大事な事だと思うね」
以前に付き合っていた頃の佐藤さんは、その当時の俺から見れば、所謂『大人の男』ってヤツだった。
ひよっ子の俺なんかじゃ、逆立ちしたって敵いっこない。
そんな大人の匂いのプンプンする人だった。
少しでも近付こうとジタバタする俺を、余裕の態度で見てたっけ。
その眼差しが、時には歯痒く、時には何よりも心地よかった。
世間に認められようと、尖ってた頃だったから。
今、あの頃の佐藤さんに、少しは近付いていた気がしていたのに、実際に近付いていたのは年齢だけだったみたいだ。
俺があの人を思いやる気持ちなんて、まだまだあの頃の俺のままか、それどころかもっと退行しているかもしれない。
やっぱり、佐藤さんには敵わない。
「織田?」
一人で考えに耽っていた俺を、少し心配そうな佐藤さんが覗き込む。
「あ、ありがとうございました」
慌てて俺は、佐藤さんに礼を言った。
深々と一つ、お辞儀も付けて。
顔を上げた俺を、佐藤さんが俺の大好きだった優しい笑顔で見つめてくれる。
つられるようにして、俺の顔にも笑みが浮かぶ。
「佐藤さんと今夜、話せてよかった」
「俺なんかでよかったか?」
「もちろん!!」
「そっか」
佐藤さんにしては珍しい『そっか』って言葉遣いに、あの人を想う。
あの人の口癖。
いい年したオッサンのくせに、必ず『そうか』じゃなくって『そっか』だった。
久しぶりに会えるはずが、急な仕事でキャンセル。
その連絡に、電話の向こうで『そっか』。
忙しない再会の合間。
「好きですから」
そう言うと、くすぐったそうに小さく首を竦めて『そっか』。
嬉しい事があった時、それを告げる俺に、我が事のように『そっか』って喜んでくれた。
抱き締め、抱き締めながら「もう絶対に離れない」。
呻くように呟く俺に、たとえ無理だとわかっていても『そっか』って。
いつも哀しそうに笑って言ったっけ。
会いたい。
会ってどうなるのか、想像もつかないけれど。
だけど、あの人に会いたい。
あの人に会わない限り、この胸の、刺すような痛みは消えそうもないから。
このままじゃ、佐藤さんとの、後で心が軽く、優しくなるような痛みにはなりそうもないから。
あの人に会って話したい。
チラチラと、視界に白い物が舞い始めた。
「別れ雪だ」
佐藤さんが空を見上げて言った。
「『別れ雪』?」
「俳句の季語で、『別れ霜』ってんだけどな、ホントは。
だけどコレは、『別れ雪』って感じだろう?
春に降る、最後の雪の事さ。
もう、春なんだからな」
「そう言えば、下の方じゃもうとっくに『春』なんですよね」
「おう。
ついこの間聞いた桜の開花宣言。
そろそろここらの麓の辺りにも届くんじゃないか?」
『桜』って言葉に、ドキッと、ほんの少し反応してしまう。
あの人の、新しいもう一つの宝物。
「そうですね。
今年の桜。
こうして死にそうな撮影ばかり続いた後で見ると、いつも以上に綺麗に思えるでしょうねぇ」
「そうだな」
「なんか、すっごい楽しみ」
「オッと、そろそろ本降りになってきたぞ。
こりゃ、マジで『別れ雪』になりそうだ。
凍えないうちに帰ろうぜ」
足元に新しく積もり始めた雪を踏む音を残しながら、ホテルへと佐藤さんが駆けて行く。
その後ろ姿に俺は叫んだ。
「春が来たら・・・!!」
佐藤さんが足を止めて振り返る。
「春・・・明日の撮影が終わって、山を下りたら!!
会いにいきます!!
あの人に!!」
俺が白い息と共に吐き出した言葉に、佐藤さんはその場でガッツポーズを返すと、また直ぐにホテルへと駆けだす。
「お前さんも、早く帰れよ。
凍え死ぬぞ〜」
そう言い残して。
一人後に残った俺は、次々に落ちてくる雪を見上げる。
暗い筈の夜空から落ちてくる雪が、何故だか昼日中に見る雪のように白く見える。
視界一杯、どこを見ても白、白、白。
白い闇に、俺だけがスッポリと呑み込まれたみたいだ。
白い・・・どこもかしこも真っ白な闇の幻影に包まれる。
翌日。
山は快晴。
撮影場所への移動には、スノーモービルを使う。
最小限の撮影スタッフと、最小限の撮影機材。
残すはワンシーンのみ。
これが、正真正銘。
最後の撮影だ。 (この撮影が終わったら・・・・・)
俺の思考が、一斉に唸り始めたスノーモービルのエンジンのスタート音で途切れる。
「出発だ」
「織田ーッ!!」
佐藤さんが、叫ぶように俺を呼ぶ声が聞こえた。
声の方を見ると、また佐藤さんが叫ぶ。
「こっちだ!!
早く!!
こっちへ来い!!」
「織田さん!!」
「逃げろーッ!!」
スタッフの声も、佐藤さんの叫び声の後を追うようについてくる。
スノーモービルに跨ったまま、今度はみんなの視線の先を見遣る。
佐藤さんを始め、スタッフ達の叫び声、その他の全ての物音が消えた。
静かに、信じられないほどの早さで、真っ白な闇が近付いていた。
〜白い闇〜
認識した後はそれまでのスピードは嘘だったかのように、今度は特別にスロースピードで、
闇が俺を呑み込もうと近付いてくる。 闇に呑み込まれる瞬間、俺の見たものは・・・。
白い闇の中、あの人が笑っていた。
思い出のホテルで交わしたあの人の笑顔。
幸せそうな、いつも何処かちょっとはにかんだような。
それでいて哀しみとも、寂しさともつかない何かを滲ませた、見覚えのある笑顔だった。
そう、俺の何よりも大切で大好きなあの人の笑顔。
懐かしい、その笑顔に囁いた。 「待ってて。
きっと逢いに行くから」
2001.07.17UP
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