驟雨(しゅうう) |
暑い。 茹だるように暑い夏が訪れていた。 例年よりも雨の多い梅雨らしい梅雨が終わった途端、 雨続きで何処か肌寒い初夏が去り、 待ちかねた様に猛暑がやってきた。 警備局の課長に復職して以来、 余程の事が無い限り予定が狂う事も無く、 今日も定時の退庁となった。 以前から、なるべく緊急の場合以外、 公用車での送迎を辞退している室井だった。 今日もいつものとおり電車と徒歩での帰宅となっている。 電車を降りて、一歩ホームに足を踏み出したと同時に、 正面から、頭上から、そして車体の下から 息の詰まりそうな熱風が押し寄せてきて 室井の躰を押し包んだ。 それまで何とか掻かずに済んでいた汗が、一気に吹き出しそうになる。 精神力でそれを押さえようとするが、 余りの熱気に当たったのか、視界がクラリと揺れる。 改札を抜け、流されるように歩いていた人波を何とか抜け出すと、 それをやり過ごす為、自販機の所に出来た小さな影の中に逃げ込んだ。 北国育ちの室井には、都会特有の夏の暑さに 慣れているはずの人間でも堪えるこの暑さが、 毎年、どうにも堪えてならなかった。 間を挟んだとはいえ、東京にきてから10年以上たった今でも、 慣れることが出来ない。 少し落ち着いた室井は、やっと何とか躰が隠れる位の、 申し訳程度の影の中から歩き出した。 庁内では空調設備も整っているし、 傍から見れば何の事はないのであろうが、 キャリアとしてのプライドと見てくれ上、上着を脱ぐことはおろか、 ネクタイを緩めるのさえ憚られている。 室井は帰宅の途上いつも、 やっとここら辺りまで来ると上着を脱いで手に掛け、 堅く結んでいたネクタイを心もち緩めていた。 大きく息を吐いて、駅舎から陽の残る駅前の通りを歩いてゆく。 ほんの数分歩いただけで、もう我慢も限界だった。 背中を一筋、汗が滑り落ちてゆくのがわかった。 それが合図のように、一気に汗が噴き出してくる。 チラと恨めしげに雲一つ無い空を見上げた。 駅から10分。 急に周りが暗くなったような気がした室井は、再び空を見上げた。 さっきまでは雲一つ無かった空に、何処から湧いて出てきたのか、 一面に低い黒雲が垂れ込めていた。 「これは・・・来るな・・・」 呟いた室井は、普段の早足を更に早めた。 今にも一雨来そうな空模様に、帰宅を急ぐ。 いつの間にか、気の遠くなりそうな暑さの事は頭の隅に押しやっていた。 ここの角を曲がれば家が見えるという所まで来た。 角を曲がった室井は、格子戸を潜って家から出てきた青島を見付けた。 手には二本、傘を持っている。 格子戸を閉めている青島は、室井にはまだ気付いていないらしい。 室井は青島が気付くより早く、先に声を掛けた。 「青島!」 「あ、室井さん。お帰りなさい♪」 室井を見て、ぱぁと青島に笑顔が広がる。 そんな青島を見て、室井の顔にも笑顔が昇る。 急いで青島は室井の所まで駆けてきた。 「晩メシ作ってたら、な〜んか急に暗くなったんで、外見たンすよ。 そしたら今にも降り出しそうでしょう? 室井さんの帰ってくる時間だったから、 傘持って迎えに行かなきゃと思って。 で、今・・・」 「そっか」 青島の気遣いが、何とも言えず嬉しかった。 俯き加減にひっそりとだが、確かに嬉しげに笑う室井に、 それまでの笑顔に代わって、 にやけ気味の笑いが口の端に昇り掛けた青島だった。 こんな室井を知っているのは、きっと自分だけだと思って。 それに気付いた室井は下唇を噛んで笑みを押さえたつもりだったが、 完璧とはいかなかった。 入庁以来、一人きりの生活だった。 自分以外の他人が、自分の事を気遣って何かをしてくれる。 勿論自分の方も相手のために、 自分が出来る事を、出来る範囲でやっている。 ほんの些細なことでいい。 それが室井のささくれて乾ききった心に、 安らぎと潤いを与えてくれていた。 二人で暮らし始めて、数ヶ月が過ぎていた。 何故、今まで一人きりで居られたのかと思う。 もう、今更一人に戻ることは出来ないかもしれないと思う室井だった。 いや、そうではなかった。 一緒に暮らす相手が、他の誰かだったらこんな事は思わない。 室井は、これが相手が青島だからこそ、 一人には戻れなかもしれないと思っていた。 これから先、何がどうなるのか? 室井にはまるで予想がつかないが、青島と居られるこの時を、 何物にも代え難く、大切なものとして一日一日を過ごしていた。 いつかは別々の場所で暮らす日々が訪れるのだとしても・・・・・。 「あ・・・?」 青島が、キョロキョロと周りを見回す。 「どした?」 「いや、今なんか」 そこまで言った時だった。 一粒、二粒と降り始めた雨は、その一粒一粒が大粒な上に、 恐ろしいほどの勢いだった。 「まるでバケツをひっくり返した」様なというのは、 こんな降り方に違いないという様な降り方で、 室井の薄い夏用のワイシャツ越しや、 青島のTシャツから出ているむき出しの腕、 それから互いの顔などに当たる雨は痛い程だ。 水煙にすぐ前さえ見えなくなってゆく。 「わッ!わッ!!」 青島は急いで持っていた傘の一本を広げると、室井の方に差し掛けた。 「ハイッ、室井さん」 差し出される傘を青島の腕ごと引っ張って、室井は青島を傘の中に入れた。 「お前が濡れる」 そう言う室井に、青島はパチパチと目をしばたいた。 「あ〜、スイマセン。 ってでも、これじゃお互い・・・」 我に返ってお互い見ると、今更傘の必要は無さそうな位、 既に二人はびしょ濡れだった。 室井の代わりに傘を受け取った青島は、ジッと肩の所から胸、 視線を落としていって最後はつま先まで、自分の格好を見下ろして、 視線だけ上目使いに青島の方に向けてくる室井を見下ろす。 視線が合った途端、どちらからともなく笑いが漏れる。 「室井さんの格好!」 「お前こそ!」 一頻り笑った二人は、ほんの2〜3メートル先の家へ、 一つの傘でやっと帰り着いた。 雨はまだ降り続いている。 夕立なので、もうそう長くないうちに止むだろう。 今まで互いが住んでいたマンションやアパートの玄関とは違って、 広々とした玄関の上がり口に、用意良くタオルが置いてあった。 「それで、今更でしょうけどザッと拭いちゃって下さい」 玄関の土間に濡れた傘を広げて乾かしながら、 青島が笑って室井を振り返る。 「ああ、もう使ってる」 室井は青島に背を向ける格好で、頭からスッポリとバスタオルを被り、 ワイシャツの袖のカフスを外すのに神経を集中させていた。 少し前屈みで一心に利き腕ではない左手で右のカフスを外している。 雨に濡れて、透けてしまったワイシャツは、 バスタオルの下から覗く室井の首筋から、肩胛骨、 そしてウエストの辺りまで、 覆っている事で却ってその無駄の無い美しい肢体を、 妙に引き立てていた。 濡れて張り付いたワイシャツの下で、 しなやかに筋肉が動いているのがわかる。 ゴクリと青島が喉を鳴らした時だった。 クルリと室井が振り返った。 「君は・・・いいのか?」 もう一枚置いてあったタオルを取り上げると、 それを青島に差し出しながら尋ねた。 慌てて今度は、青島が室井に背を向けた。 振り向いた室井の瞳に、邪な考えに浸り掛けた自分の心の内を 見透かされそうだったから。 「・・・青島?」 訝しげに問いかける室井の方は見ないで、 青島は後ろに手を差し出して、そのタオルを受け取った。 「やー、俺もビショビショだぁ!! もう脱いじゃえ!!」 ばつの悪さに、赤くなった顔を隠すためにも、 青島は室井に背を向けたまま、急いでTシャツを脱いだ。 濡れたTシャツを上がり口に放ると、 ガシガシと頭をタオルで拭き始めた青島だったが、 全身を耳にして、背中越しに室井の動向を伺った。 頭を適当に拭き終え、そのタオルで首筋や腕、胸元を拭いていった。 しかし、肝心の室井の方は何故か、身動きする気配が無かった。 不思議に思いながらも、まだ室井の方が見れない青島は、 そのまま室井に言った。 「そうだ!! 室井さん、こんまんまじゃ気持ち悪いでしょ? もう風呂、沸かしときましたから、 メシの前に入っちゃいませんか?」 返事はなかった。 青島はそのまま続けた。 「着替えも用意しときましたから・・・」 相変わらず無言で、気配も無い。 かなり室井の機嫌を損ねてしまったらしい。 「・・・・・?? ・・・・・室井さん??」 拭けるところを拭くだけ拭き終わった青島は、 いよいよ仕方ないと室井の方を振り返った。 室井は、さっきの自分の邪な考えに気付いたのだ。 だからきっと、不快気に冷たい瞳で自分を見ているのに違いないと、 ビクビクしながら。 しかし、そこにあったのは青島の思っていた様な冷たい、 蔑みにも似た眼差しではなかった。 ビックリした様に、ただでさえ大きな瞳が、一層大きく見開かれている。 青島が振り向いた瞬間、ハッとしたように見開かれたのだ。 「あ・・・ああ、そうする」 それだけ言うと、 室井は急いで上がり口に置いた上着と鞄を取って廊下に上がり、 突き当たりに在る、自分の書斎へと歩いて行った。 そんな室井の後ろ姿を、青島は無言で見送った。 室井が書斎に向かうのを見届けた青島は、 そのまま濡れた室井の革靴の手入れを済ませると、 廊下に放ってあった二人分のバスタオルと自分のTシャツを取り上げた。 纏めると、それを持って洗濯機の置いてある脱衣場に向かった。 ガラリと引き戸を開けると室井が居て、飛び上がらんばかりに驚いた。 バッと振り向く室井を見て、青島は言った。 「あんた、何やってんスか!!」 青島が室井の(自分では余りよく判っていないらしいのだが) 高価な革靴を手入れした時間は、 それ相応に丁寧にやったので、かなりな時間だったはずだった。 それなのに、上着と鞄だけは書斎に置いてきたらしいが、 室井はまだ先程の格好のまま脱衣場に立っていた。 「いくら夏だからってね、濡れた服は身体に悪いんスよ」 何やってンだとばかりに小言じみたことを言う青島に、 室井は脱衣かごの中身を指さして聞いた。 「着替えって・・・コレか?」 アンティークにも竹を丸く編んだ脱衣籠の中には、 これまたアンティークに「浴衣」が一揃い置いてあった。 「そうっすよ♪いいっしょ?」 当たり前じゃないですかとでも言う様な顔で青島は頷いた。 室井は知らず、眉間に皺が寄ってしまった。 「???」 意味が判らず、表情にまでもが「困惑」を刻んでいる。 「ホラ、憶えてませんか? ここのおばあちゃんの引っ越し手伝ってた時に、 沢山浴衣が出てきたじゃないですか」 「!!」 「そうです、思い出しました? アレですよぉ」 「だが、あれは・・・」 あの時、確かに沢山の浴衣が押入の中から出てきたのだ。 室井もそれを思い出していた。 老婦人の亡くなったご主人が、殆ど手を通していなかったり、 手さえ通さずにいたもの等が、綺麗に洗い張りされたりして、 畳んで大切に仕舞ってあったのだ。 「あの時代の人にしては、おじいちゃん。 イレギュラーサイズだったらしくて、 俺と同じ位だったでしょ?」 「ああ」 確かに大きいというか、室井にとっては長い浴衣だった。 あの時代で目の前の青島と同じサイズならば、 かなりのイレギュラーだっただろう。 「だから、俺の分はおばあちゃんがそのままくれたんですよ。 で、室井さんの分もって」 「しかし・・・」 「あの箱の中に反物のままの浴衣地、 かなりあったんだそうです。 それで俺に室井さんのサイズを聞いて、 縫ってくれたんですよ。 このまんまじゃ、勿体ないからって」 「私のサイズ?」 「ハイ、俺がしっかり教えました♪ 実寸、知ってますから」 ニヤニヤと笑う青島をキョトンと見ていた室井は、 青島の言わんとするところが解って、いきなりカッと頬を染めた。 キッと睨み付ける室井に、青島は笑いながら言った。 「さあ、室井さん。 サッサと濡れたモン脱いで、お風呂入っちゃわないと、 今ここで、もう一回、採寸しちゃいますよ」 そう言いながら、洗濯物を抱えていない、 空いた方の手を室井の方に伸ばしかけた。 室井は一歩後ずさると、 中途半端なホールドアップのように両手を途中まで挙げて、 フルフルと首を振った。 「じゃ、入っちゃって下さいね。 晩酌の用意しときますから」 青島は苦笑しながら、横に置いてある洗濯機の蓋を開けると、 持っていた洗濯物をポイと投げ込んで脱衣場を後にした。 脱衣場に一人残った室井は、 ホッとしながら脱衣籠の中の浴衣を取り上げる。 バサッと一振りで広げ、自分にあててみた。 脱衣場の等身大の鏡にその姿を映して、しげしげと見て呟いた。 「これを着るのか・・・ホントに?」 自室に戻った青島は、自分も用意していた浴衣に着替える事にした。 一番簡単な着方を教えてもらっていたので、 それを思い出して何とか自分で着てみる。 グレーがかった白地に、藍色の矢羽根の柄の浴衣だった。 例の老婦人が青島用の浴衣を選ぶ時に言っていた。 「ウチの亡くなった主人は、青島さんとお〜んなじ。 背が高くてネェ〜、それに浅黒くってネ。 だからこれなんか似合いそうよ」 そう言って選んでくれたうちの一枚だった。 家庭で着るのだからと、これまた教わっていた 兵児帯(へこおび)を結んで出来上がりだ。 出来具合を確認するのも兼ねて姿見を見る為に、 再び脱衣場へ今脱いだ濡れたジーンズなどを持って部屋を出た。 脱衣場の戸の前で耳を澄ましてみる。 室井が湯を使う音がするのを確かめて、一応声を掛けて戸を開く。 「入りまーす」 今度は室井の姿は脱衣場には無く、 浴場に居るのが磨りガラス越しに伺えた。 「室井さ〜ん。 湯加減どうッすか?」 磨りガラスにピッタリと耳を付けて返事を待つ。 浴室に反響した声音で、すぐに返事が返ってきた。 「調度いい湯加減だ」 「そうッすか、よかったぁ。 そうだ!! 晩飯、座敷の方に用意しますね」 「分かった」 青島は手に持っていた残りの洗濯物を、 開きっぱなしだった洗濯機に投げ込んだ。 それから振り向くと、壁の鏡に全身を映して 自分の浴衣姿に変な所がないか素早くチェックし、 小さくOKマークを手で作ると脱衣場を後にした。 そのまま台所に入った青島は、 殆ど用意の出来ていた夕食の仕上げに取りかかった。 まず手を洗おうと流しに立ち、 その時袖がどうにも邪魔なことに気付いた。 「そうそう、そうだったっけ」 青島は袂に手を入れると、ごそごそと一本の紐を引っ張りだした。 「きっと、これも要るわよ」 老婦人にそう言って渡されていた、襷(たすき)掛け用の紐だった。 着物や浴衣を着ての家事の時には、必ず必要だからと教えられていた。 「・・・ッと、ヨッ・・・」 結構器用に襷を掛けた青島はやっと手を洗え、続きに取りかかる。 後もう一回煮返せば出来上がりの夏野菜の煮物や、 夏バテ防止にビタミンBがたっぷりの豚肉のクワ焼き、 他にもあっさりとした酢の物など、 今日一日、掃除や洗濯、献立作りから始まって、 買い物、調理と非番をフルに使っての夕飯だった。 クワ焼きの最後の仕上げの手が放せない時に、 脱衣場の戸の開け閉めする音がした。 ヒタヒタと廊下を歩く室井の足音が、 台所の入り口に背を向けている青島の耳にも、 料理中のジュージューいう音の隙間に聞こえた。 室井の足音が入り口を通り過ぎる。 通り過ぎながら青島に向かって一言声を掛けていった。 「ありがとう、いいお湯だった」 すぐにでも振り向いて室井の浴衣姿を拝みたかったが、 きっと自分は見とれてしまって、 せっかく室井の為に作っている料理を 台無しにするのが分かっていたので、 御馳走は最後のお楽しみと今は我慢の青島だった。 いよいよ夕食の用意が調った。 まずは一杯飲んでからと、 お酒と肴を2〜3品載せた盆を持って座敷に行くことにした。 冷酒はちゃんと、今の今まで冷蔵庫でしっかりと冷やしてあった。 これを見た室井の反応が楽しみで、つい頬が緩んでしまう。 いそいそと盆を持つと、室井の待つ座敷へ向かった。 盆の上からは料理の美味しそうな臭いと共に、 冷酒の持つ独特の芳しい夏の香りが漂っている。 「室井さ〜ん、お待たせしましたー」 この茹だるような夏の暑さと湿気を少しでもやわらげようと、 日本家屋の利点を生かして、部屋と部屋を仕切ってある襖や障子を、 他に訪れる人も無い時はどこもかしこも開け放してあった。 台所から盆を運ぶ青島は、いちいち戸を開けたり閉めたりする事も無く、 最短距離を盆の上の物を落とさないように気を付けて歩くだけで済んだ。 足下や戸に気を回さないでいい分、口の方に注意がいっている。 「今日ね〜3丁目の『魚源』に行ったら、 親父さんに薦められちゃって。 いい鰺が入ってるから持ってけって。 でね、胡瓜と合わせて酢の物作ったんですけど、 さっきチョット味見したら、凄く旨かったンすよね。 室井さん、食べてみて下さい・・・って、 あれ?室井さん??」 座敷にいるはずの室井の姿はそこにはなかった。 盆を手に持ったまま、青島は部屋を見回す。 とは言っても、日本家屋の座敷。 隠れる所など無いし、 第一あの室井がそんなイタズラをするとは思えなかった。 「・・・・・」 青島は、座敷に置かれた机の前で立ち尽くした。 カラリ。 その音は、途方にくれかけた青島の耳にハッキリと届いた。 青島は盆を机の上に置くのも忘れ、 座敷から縁側へと、今音のした方に出てみた。 亡くなったこの家のご主人の趣味で造られたという庭は、 屋敷同様純和風のなかなかに凝った作りの庭だった。 飛び石や石灯籠、 木々に隠れるように手水鉢(ちょうずばち)が配してある。 四季を通じて花々の絶える事も無いらしい。 今も夏の日差しに濃い緑に代わった木々に紛れ、 夏椿(沙羅の花)や夏梅(またたびの花)、 花合歓(はなねむ)等が庭木とはいえ花を付けているし、 視線を下に落とせば花擬宝珠(はなえぼし)や 日の沈むのに合わせ純白から夜半には淡い桃色、 そして朝にはしぼんでしまう月見草が 調度その可憐な花を開こうとしていた。 縁側に出た青島の視線の先には、庭歩き用の下駄置きの石がある。 何時も室井の分と青島の分が揃えて置いてあったが、 見ると僅かに小振りな室井の下駄が無い事に気付いた。 薄暗くなってきた庭を、もう一度目を凝らして見てみると、 下生えの間に下駄を履いた真っ白なつま先が見えた。 「室井さん」 青島はこぼしたりしないようにそっと盆を縁側に置くと、 庭の一画に向かって声を掛けてみる。 「ああ、ここだ・・・」 カサリと枝を揺らして、室井が木陰から姿を現した。 ほぅと青島の口から感嘆の溜め息が洩れた。 たった今降り止んだ雨に、庭の植物という植物が、 石や地面の土でさえも生き生きと雨露を湛えて 残陽にキラキラと輝いていた。 その中に室井は立って、青島の方をじっと見ている。 室井は青島の選んでおいた浴衣をスッキリと着こなしていた。 帯は青島と同様、 自宅でくつろぐ為にと青島が出しておいた兵児帯を結んである。 浴衣の方は青島とは反対にわざとくすんだ、 濃い藍色の地に淡い灰色で波と兎が描かれていた。 濃い地の浴衣のせいで、 雪国育ちで色白の室井の肌が尚更透き通るように白く見える。 緩く両の手をそれぞれの袖口に入れて、 ゆったりと立つ姿に青島は心の底から酔った。 辺りには、土や木や葉の雨に濡れた臭いと共に、 盛りの山梔子(くちなし)の強く芳しい香りが漂っている。 青島は自分が今、見て、感じている 全ての物に誘われる様に庭へと降り立ち、 室井の元へと歩み寄っていった。 敷石の上を歩く青島の下駄の音だけが、カラカラと聞こえる。 4〜5メートル先にいる室井の所へは、ほんの数歩だった。 目の前に立った青島に、 室井は青島を見上げる様にしてふぅわりと微笑んだ。 その笑顔が余りにも穏やかで、 青島はどうしようもなく胸が苦しくなった。 何時も、どんな時も、こんな風に微笑んでいて欲しいと思った。 この笑顔を守る為なら、自分はどんな事でもするだろうという確信が、 青島にはある。 この微笑みを室井が浮かべていられるのなら、 自分がどうなろうとも構わない。 その覚悟は出来ていた。 ただし、この事は絶対に、 自分以外の人間に知られてはならないと青島は思っていた。 なかでも室井にだけは、気付かれるわけにはいかない。 こうして一緒に暮らし始めて、室井という人間の事を知れば知るほど、 この人にだけはと心に誓う青島だった。 「?」 何も言わず自分を見つめる青島に、 室井の顔から微笑みが消えかけた、その時。 「・・・あおし・・・ま?」 室井の、その小振りな面を、青島の大きな掌が静かに覆った。 両頬を、少しでも力を入れすぎれば室井が壊れてしまうとでも言う様に。 そしてゆっくりと室井の額に、唇を寄せた。 室井は目も閉じずに、青島の口づけを受けた。 青島の、室井の額に軽く押し付けられた唇と、 頬を柔らかく包む手がどちらも微かに震えているような気がした。 押し付けられた時と同じように、 離れる時もゆっくりと唇は離れていった。 室井の問いかけるような視線に、 青島は思わず今の心の内を吐露してしまいそうになる。 今の青島は、こうして黙って室井に見つめられているだけで、 子供のように大声で泣き出してしまいそうな気がする。 切なさで一杯で、苦しいほどの胸の内を少しでも軽くしたくて・・・。 勿論そんな事は、できっこなかった。 微かに自分が震えているのに、青島は気付いていた。 震えを室井に気付かせない様にニッコリと笑うつもりが、失敗した。 でも、有り難い事に室井には青島が笑ったように見えたらしい。 ホッとした様な表情になった。 今度こそニッコリと笑った青島は室井から一歩離れて、 頬を包んでいた手も離すと、室井の全身を何度か眺めた。 「いやー、あんまり室井さんの浴衣姿が綺麗なもんで、 震えがきちゃいました」 腕組みをして、一人でウンウンと頷きながら青島は言った。 「やっぱり、似合うなー。 絶対いいと思ってたンすよね、俺」 青島の言葉に、室井の白い肌がほんのりと桜色に染まった。 「そっちこそ、本当によく似合ってる」 室井も青島の浴衣姿を見て微笑んだ。 「そうっすかねー、あんま自信無いんですけど。 どっか可笑しくありませんか?」 奴(やっこ)の様に両手を伸ばし、袖口を持ってピンと張って見せる。 それからクルリと、室井の前で一回転。 どう?という感じで室井の方を見る。 「初めてか?浴衣着たの」 「え?ハァ、初めてです。 ヤッパ、変すかねー?」 「そんな事無いゾ。なかなかの男前だ」 室井の誉め言葉に気をよくする青島だった。 「惚れ直しちゃうでしょ?室井さん 」 図に乗った青島は腕組みをして、室井にウインクを投げる。 赤くなって、反論しようとする室井を青島が遮る。 「ま、俺に見惚れるのは後にして。 晩飯、喰っちゃいましょう、ネ?」 あははと笑いながら踵を返した青島は、家の方へと歩き出した。 カラカラと下駄を鳴らして歩く青島の後ろ姿を、室井は見ていた。 縁側に上がろうと下駄を脱ぎかけた青島の背中の方から、 カタカタカタと小走りに駆け寄る下駄の音がした。 したと思ったら、ドスンといきなり背中が重くなった。 同時に背中から手が廻され、気付けば室井に抱き付かれていた。 「オワッ!! 何?ナンなの?室井さん」 青島の調度腹の鳩尾の辺りに廻された手を引き剥がそうとしながら、 慌てて振り返ろうとするが、室井がしがみ付いているので叶わない。 訳が解らずドキドキしながら、もう一度尋ねる。 「あの〜、室井さん?」 暫しの沈黙の後、ボソリと室井の声がした。 「・・・さっき、玄関で・・・」 やっぱりさっきの自分の邪な気持ちは見抜かれていたのかと、 青島は思わず天を仰いだ。 「スイマセンでした」 この場は潔くサッサと謝ってしまった方が良いと思い、 そう言おうとした青島を、今度は室井が遮った。 「見とれていたんだ・・・私は」 「はいぃ??」 見えっこなかったが、思わず肩越しに背中の室井を見た。 尚更しがみ付いてきた室井は、くぐもりがちの声で続けた。 「この背中に!!」 殆どヤケのように言って、室井は言葉を切った。 「あ!?」 青島の目の前に、さっき玄関で、 青島が振り返ったときの室井の表情が思い出された。 そう言えばあの時の室井は、らしくなく慌てていた様な・・・。 思い当たってしまった。 知らず、何故か青島まで赤くなる。 お互い赤くなったまま立ち尽くしていたが、 今度はドンと前に突き飛ばされた。 とっさに縁側に両手を付いて、無様に転ぶのを凌いだ青島だった。 その背中越しにカタカタカタと、今度は下駄の音が離れて行く。 ガバッと起きあがった青島は、直ぐさま振り向いた。 「室井さんっ!!」 室井も青島の方を振り向いた。 「何すんですかっ!!」 そう言う青島をキッと一睨みして、 室井はまたさっきの木陰の辺りに潜り込んだ。 「知るか!!」 捨て台詞を一つ残して。 「なぁ〜んでこうなったかな〜?」 青島は頭を掻きながら呟いた。 一度臍を曲げてしまった室井はなかなか手強い。 チラッと縁に置いたままの盆を眺める。 なかなか一緒に食事が出来ない二人なので、 せめてこんな風に時間と都合が合えば、 なるべく互いに相手の事を思いやりながら、 揃って食事をするようにしている。 今日の場合は非番だったので、青島が食事の用意をした。 「室井さんの好きそうなモンばっかり作ったんだけどナ〜」 こうしている間にも、せっかく冷たい物は冷たく、 暖かい物は暖かくと用意しておいた料理が・・・・・。 青島は室井がいるであろう茂みの方に視線を戻した。 「・・・行きますか・・・」 溜め息混じりに独り言を言うと、青島は室井の元へ向かった。 青島の背丈ほどに伸びている山梔子の木。 その側に室井は立っていた。 「室井さん」 室井の背中に呼び掛けてみた。 返事はないが、躰の脇に置かれた両手がグッと拳の形に握られた。 顔は見えなくても青島には、 室井がどんな表情でいるのかは手に取るようにわかった。 キュッと下唇を噛み締めて、 眉間にはいつもの皺が刻まれているはずだった。 大きな目は、きっと瞬きもせずに一点を見つめている。 青島は、そんな室井を知っている。 だから室井に近付くと、両手ごと背中からギュウッと抱き締めた。 青島の腕の中で、室井の小柄な躰が逃げようと足掻く。 それを抱え込むように抱き締めて、肩口に顎を乗せ、そっと囁いた。 「室井さんだけじゃありません」 え?というように室井の動きが一瞬止まる。 「玄関で・・・あれ、俺も同じでした」 室井はすっかり大人しくなっている。 その頬に頬を付け、青島は続けた。 「さっき室井さん、言わせてくれなかったけど、 室井さんのずぶ濡れのシャツの後ろ姿見て、 『けしからん!!』って室井さんに怒られそうな事、 いろいろと考えてました」 前を向いていた室井が、青島の方を見る。 「だって、仕様がないッすよ。 ホラ、俺すっごい長かったじゃないッすか、『片思い』」 首を傾げ気味にして、青島が室井を覗き込む。 「だから、時々こんな風に我慢が利かなくなっちゃうンすよね」 室井が顔を背ける間もなく、青島の唇が室井のそれを捕らえる。 青島の唇を自分の唇に感じた時、 しっとりとしたその感触に思わず室井は目を閉じた。 いつの間にか青島の室井への戒めは解かれ、 両腕とも室井の二の腕の辺りからゆっくりと その形をなぞるようにすべり降り、 最後には互いに手を握り、指を絡め合った。 縁側では、今夜の為にと納戸から探しだされたガラス鉢の中の氷の海で、 同じガラスで作られた酒器に入った冷酒が せっかくの飲み頃を逃されはしないかと、 冷や汗を掻きながら二人が戻ってくるのを待っている。 そして、まるで二人を呼ぶ様に、 氷が溶ける音がカラリカラリと鳴り続けていた。 1999.7.19 UP 2005.3.13 再UP *驟雨(しゅうう):にわか雨、夕立。夏の季語。 |