タバコとベビーパウダー |
「いやだ・・・なんかタバコの臭いする」
徹夜明け。
帰ってきた俺を玄関で出迎えるなり、荷物を受け取りながら嫁さんが心底嫌そうな顔をして言った。
愛娘の誕生以降、俺はタバコを止めていた。
もう2年くらいになるだろうか?
そんな俺からタバコの臭いを嗅ぎ付けたと言う嫁さん。
瞬間、俺は凍りついた。
「もう・・・!!
こんなじゃ駄目よ。
パパの友達や知り合いって、みん〜な揃ってヘビースモーカーなんだから!!
いくらパパがタバコを止めたって一緒じゃない。
周り中でスパスパ・スパスパ吸ってたんじゃ。
うちの『お姫様』に何かあったら、みんな承知しないから!!」
「は・・・はは・・・・・☆
みんなにそう言っとく」
「それから」
「へ?
まだナンカあんの?」
「もう一個が大事なの!
パパ!!」
「は、はいっ!!」
「ど〜んなに欲しかろうが、勧められようが、ダメですからね!!」
「なに?何をぉ??」
「『貰いタバコ』」
「!!
も・・・貰わねぇよ!!
俺、止めたじゃねぇか。
さっぱり、きっぱり!!
今更、吸ったりしねぇよ」
「ど〜だか・・・。
ま、そういう事にしときましょう。
でもね、冗談で言ってるんじゃないわよ。
本気なんだから。
周りの人達にも言っておいてね。
『俺の周りじゃ、タバコ吸うな』って」
「判った。
俺もマジで言っとく」
「OK。
じゃ、朝食の用意出来てる。
すぐにシャワー使ってきて♪
あ!シャワー使ってからじゃなきゃ、『お姫様』には触らないでね。
タバコの臭いが付くと、『お姫様』が可哀想だから(にっこり)」
「へい、へい」
「お返事は一回。
将来、『お姫様』が真似するようになっちゃう」
「へ〜〜〜い☆」
暢気な口振りで会話しながらも、俺の心の一部分は未だに凍りついていた。
心当たりがあった。
『タバコの臭い』
俺に纏わりついているというタバコの臭い。
あいつだ。
あいつの使い付けのタバコの臭い。
タバコの臭いは、あいつの体臭みたいなもんだ。
ついさっきまで一緒にいた、あいつの臭い。
真夜中過ぎまでかかった撮影の後。
勿論、身体は疲れていたけれど構わなかった。
もう、何ヶ月も逢っていない。
スタジオで、たまたま共演者の一人が吸っていたタバコがあいつのと同じヤツだったから。
その臭いを嗅いだ俺はどうしても逢わずにはいられなくなって、
マネージャーと別れた途端、車をあいつの部屋へと走らせた。
待ってでもいたかのように、ドアを開けたあいつに玄関先でいきなり抱き竦められ、
俺もすぐさまあいつの存在を確かめるように抱き返した。
少しの時間さえ惜しむように、部屋に入った俺達はドアの鍵さえ掛けたかどうか・・・。
その時の俺たちにはどうでもよかった。
とにかく、目の前の相手の存在だけが互いの全てだったから。
「くん」とシャワーを浴びる直前、自分の二の腕の辺りを嗅いでみた。
覚えのある、あいつの臭いがした。
もう少しだけ、このまま『あいつに抱かれていたかった』けれど、吹っ切るようにシャワーのコックに手を伸ばす。
勢いよく迸り、降り注ぐシャワーに流されて、俺が手にした石鹸の匂いに紛れ、
今しがたまで『俺を抱いていた』あいつはゆっくりと消えていった。
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「いやだ・・・なんか赤ちゃんの匂いするっていうか・・・これって、ベビーパウダーの匂い?」
早朝からの写真撮影の控え室で、ヘアメイクさんが心底意外そうな顔をして言った。
何のことなんだか分かんなかった。
34歳になった今も、独身生活を謳歌している俺だ。
そんな独身男の部屋の何処をどう探したって、ベビーパウダーなぞという可愛らしい品物は見つからないし、
そんなもの付けてるような愛らしい生き物は居やしない。
なのに彼女は俺から、その匂いを嗅ぎ付けたと言う。
「へ?」
「赤ちゃんの匂いって言うか、ベビーパウダーの匂い。
織田さんとベビーパウダーなんて・・・ナンカ変な感じ」
「え?え?俺??」
「(こっくりと頷きながら)私ほら、今ちょうど育児の真っ最中でしょう?」
「あ!!確か去年。
女の子だったっけ?」
「そう。
だからかな、敏感になってる?
そういう赤ちゃんとかベビー用品関係とかに」
「ホント、俺かなぁ?」
「ええ、もうしっかり匂います」
「本当に、本当?」
「・・・って、そう言われちゃうと・・・・・」
「実は俺が匂ってんじゃなくって、(相手を指差しながら)そっちからのじゃ?」
「えっ?!そ・・・そうかなぁ??」
「だってさ、俺、全然関係ないよ。
ベビーパウダーとかさ。
ま、隠し子でも居るってんなら話は別だけど。
ベビーパウダー片手にオムツ替えてるとか☆
でも、笑えないでしょ?コレ?」
「はは・・・・・笑えませんね。
改めて、ナンなんですけど。
私、匂います?」 「チョット失礼。
・・・あ、匂う。
赤ちゃんの匂い、するよ」
「やっぱ、私?」
「そう、あなた」
「キャーーーッ!!
ごめんなさーーーいッ!!
そうですよね。
織田さんから赤ちゃんの匂いなんてね、あるわけありませんよね。
ホント、ごめんなさい!!」
何度も何度も頭を下げて謝る彼女に、俺も笑って「大丈夫」と繰り返した。
やっと『匂いの素』に気づいた俺の笑顔の変化に、多分彼女は気付いてはいないだろう。
俺の笑顔は、『苦笑』へと変わっていたんだけれど・・・。
『赤ちゃんの匂い』
俺を包んでるっていうベビーパウダーの匂い。
あの人だ。
あの人の大切な宝物の匂い。
ベビーパウダーの匂いは、今ではすっかりあの人の体臭みたいになっちゃってる。
ついさっきまで一緒にいた、あの人の匂い。
そんな匂いさせてる人なんて、あの人しか居ない。
なのに、直ぐにそれに気付かないなんて・・・。
『匂い』にだって、まるで気が付かなかった。
それだけしっくりきてたって事か?
俺の身体をすっぽりと包み込んで、まるで自分の体臭の一部のように思えていたってことか?
『違和感』ってものを感じないほどに?
このところずっと、あの人からはあの『匂い』が漂っている。
ずっと逢っていなかったっていうのに、あの人の匂いって変わってなかったから。
玄関のドアを開けると、そこにはお約束の匂いのあの人がびっくりしたような大きな目で立っていた。
思わず抱き締めて、抱き締め返されて。
後はもう、これまでの一人っきりの時間を埋め合わせるのに必死になった。
次は、いつなら逢えるって確証も約束も出来ないって分かってたから。
「はい、お疲れ様でした」
鏡の中の俺に、ヘアメイクさんが笑う。
鏡の中の俺も、笑い返す。
化粧台の上や周りに広げられた化粧品やドライヤー等を片付け始めた彼女が動く度に、
今朝方のあの人を思い出させる匂いがふんわりと香る。
「じゃ、またよろしく」
椅子から立ち上がった俺は、彼女に手を振ってスタジオへ。
部屋を出て、廊下を歩きながら撮影衣装の白いシャツの袖口を引っ張って嗅いでみた。
いつの間にかあの人の『匂い』は消え、残っていたのは嗅ぎなれた、いつものタバコの臭いだけ。
2002・01・14UP
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