雲間から差し込む玲瓏たる光は[白の塔]を照らし、
[白の塔]は金と銀の光芒の中で眩耀する。



TOWER


白い山脈の東の端。
その山麓に聳立する都の名は[ミナス・ティリス]。
[白の塔]とも[守護の塔]とも呼ばれる都は、その名の示す通り、
つい先日、終結を迎えたばかりの[指輪戦争]の時代には
悪しき力が全力を注いだ攻撃にも陥落する事無く、
[ペレンノール野の戦]に勝利し、遂には再統一王国に措いての新しい王都となった。


新しき時代が始まり、同時に新王エレスサールも誕生した。
荒廃し、焦土と化した王国は、この偉大なる指導者の下、
永きに亘る繁栄の時代への第一歩を踏み出し始めていた。
そうしてその傍らには、常に、今は亡き最愛なる者の志を引き継いだ男が、
ひっそりと影の如く佇んでいた。


世界では復興の為の、多事多端な毎日が続いており、
新王同様、この新なる大将の日々も多忙を極めていた。
或る時は[再統一王国初代執政]として剣を白き杖へと持ち替え采配を揮い、
そしてまた或る時は[ゴンドールの庭]と呼ばれるイシリアンの太守として、
領民の為に骨身を惜しまず勤仕し、領民達は彼を敬慕した。


その様な中で、指輪戦争が終結したとはいえ、その後も悪しき力の残党や、
それに組していた輩達の脅威は未だ其処彼処で聞かれ、
新王は我が身を以ってしてその掃討に当たっていた。
しかし今回の作戦に限っては、戦後、稀に見る大規模なもので、
先の戦争で可也な数の兵士を失っていた同国では、
普段ならば執政として留守を任せるべきファラミアに対しても、
随従するよう命を下さねばならなかった。
その作戦で勝利を収めた帰途に措いて、
隊列の先頭で馬に揺られていた新王の姿は今、
帰還した自国の兵士が、他国の使者や旅人が、永い旅路の果て、
最初にこの美しい王都の全貌を目の当たりにする
ベレンノール野の入り口たる小高い丘の頂上に在った。
王の帰還を伝えるべく、王都を目指して先触れが走って行く。
それを見送った新王は、直ぐ傍に控えていた側近の近衛兵に、
皆を率いて先に行く様にと身振りで示した。
まだ短期間ではあったが、新王の下、その人となりを熟知し終えた近衛兵は
異議を唱える事も無く、隊列を率いて王都へ向かう。
殿に在る筈の人の影が、最後の兵士が過ぎようとしても見えてこない。
その事に新王は微かな不安を覚えた。
(ファラミア?)
と其処へ、見覚えのあるファラミア付きのレンジャーが一人、
隊列を抜け出し、新王の下へと近付いて来た。
レンジャーは急いで馬から飛び降りると、新王の愛馬の足元へ膝を折り、
頭を垂れた。
「王よ」
俯いたまま、レンジャーは新王に告げる。
「王の御探しの御方は、あちらに」
レンジャーの指差す彼方に、ぽつりと騎乗の人影が在った。
「実は・・・ファラミア様が、ああしてお一人で都を眺められるのは、
 今回ばかりの事ではございません」
僅かに新王の眉が顰められた。
「何時の頃からでしょう。
 都に還る度、ファラミア様は私達に先に行く様にと仰り、
 いつもお一人でああして暫しの時を、
 都を臨みながら過ごされるようになられたのです」
「何故?あれは、何の為にその様な事を・・・?」
「私共にも確かとは・・・・・」
困惑とファラミアに対する憂色の漂うその声音に、新王は言った。
「もうよい。
 そなたはこのまま皆と行くがよい。
 私はあれと還るとしよう」
レンジャーの強張っていた背が、安堵に緩む。
「では、私めは仰せの通りに」
深く一礼をすると、レンジャーは隊列を追い、駆け去った。
暫しその背を見送り、新王は視線をファラミアへと戻した。


新王の居る丘の頂から、もう一つ隔てた隣の丘の上にファラミアは居た。
遠征の疲れも感じさせない程の軽やかな足取りで、
新王の愛馬はファラミアの元へと主を運んだ。
厚い草のクッションのせいか、蹄の音は吸収され、
レンジャーとして慣らしたファラミアでさえも、
新王がかなり間近に来るまで、その存在にまるで気付く事が出来なかった。
けれども、遂にファラミアが振り返った。
この新王は、ファラミアが自分を見詰める、
その見開かれた眼の闇い色に気付かない程、愚鈍な王ではなかった。


「ファラミア・・・・・。
 いや、降りずともよい。
 そのままで。
 一体、どうしたのだね?」


馬の歩調を緩め、ゆっくりとファラミアの元へと近付きながら、
新王は労る様に尋ねた。
相手が新王だと判ると、ファラミアは一旦馬から降り様としたが
王の言葉に従い馬上に残った。
そうして小さく頭を振り、視線を都の方へと戻して話し始めた。
新王は、ファラミアの隣に並ぶと馬を止め、
後はファラミアが話を終えるまで静かにその話に耳を傾ける事にした。


「 私(わたくし)が物心付いた頃には、
 既に悪しき力に世界は覆われ始めておりました。
 そのせいでしょう。
 父のデネソール2世は、幼いボロミアと私が城壁の外の世界に興味を持つ事を
 好みませんでした。
 その様な中でも、月日は流れてまいります。
 父の好むと好まざるとに関わらず、
 私達兄弟は外の世界へと足を踏み出さねばならない歳となりました。
 成長した兄は執政の長子として、
 父と共に外来の使者との謁見に立ち合ったり、
 時には父の名代として、
 近隣の国々や領地への使者として旅立つ事も屡でございましたし、
 やがては初陣となり、以来、戦いの毎日を生きたのです。
 そして私も・・・。
 けれども私が初めて城門を潜ったのは、
 選りにも選って・・・・・初陣の時が初めてでございました」


何処か投げ遣りに笑い、ファラミアは話を続ける。


「本来ならば、私の初陣は、以前より兄が父に願い出てくれておりましたので、
 必ず兄と共に出陣するという事になっておりましたが、
 実際あの頃、戦火は日に日に拡大する一方で、
 戦死者、行方不明者は数知れず。
 兵力と人材の不足に、我ら兄弟でさえも
 我が儘が通せる状態ではございませんでした。
 兄は兄で他所へと出陣せねばならず、
 結局、私は・・・一人、初陣の戦場(いくさば)へと参ったのです」


新王の脳裏に、健気にも真新しい鎧を着けた、
まだ少年の面影を残す青年騎士が、
悲壮な決意の元、青褪めた面を真っ直ぐに上げ、
嘗て一度も潜った事の無かった城門を出て、
ただ一人、戦場へと赴いて行く様が浮かび、痛ましささえ憶えた。
新王は、無言のまま僅かに眉を顰めた。


「[王還ります時まで]。
 ご存知の通り、我が執政家は、
 王御不在の長い年月、臣民達を支えてまいりましたし、
 臣民達もまた我らを慕い、敬ってくれました。
 そんな彼等が、永遠に思われる程の戦いの果て、悲しみに打ち拉がれ、
 絶望に押し潰されんとしていたのです。
 兵士達は、友人や兄弟等、同胞達の死臭が重く濃く漂う戦場で。
 残った家族や恋人達は城門の出来うる限りの近くで。
 ・・・何故、残った者達が城門の近くに居たがったのか、
 お解かりになりますか?
 還ってきた兵士達の中に、少しでも早く、 
 待ち侘びた自分の家族や恋人の無事な姿を見付ける為でございます。
 例え・・・愛しい者達が、物言わぬ骸と成り果て、
 或いは、骸としてさえ戻れず、魂のみとなって還ってきたのだとしても。
 それでも・・・・・一時でも早く、会いたかったのでございましょう。
 そんな彼等が、
 その名と立場に相応しい戦果と人望を集めていた兄のボロミアは勿論、
 若輩者で、まだ海の者とも山の者とも分からない私如きの事でさえも、
 仰望し、その名を大呼するのです。
 私は・・・行かねばなりませんでした。
 例え、城門の外が想像を絶する程の[地獄]で在ろうとも」


新王が、大きく息を吐く。
呼応する様に、王の愛馬も2度、3度と大きく首を上下に振った。


「直ぐに私は、城壁の内と外ではこうも違うものかと思い知らされました。
 それまでも、療養院や城内は元より、
 町の其処此処で目を覆う様な傷を負い、
 四肢を奪われ、不自由な生活を余儀無くされた者達を
 眼にしていなかった訳ではございません。
 勿論・・・死者の骸も・・・・・。
 城壁の外の世界。
 其処は・・・まさに[地獄]でございました。 
 一瞬感じた、恐怖も、狂気も、怒りも、哀しみも、
 目の前で、傍らで、同胞の頭が身体から吹き飛び、
 次の獲物をと巡らせた敵の視線が自分に据えられたと感じ、
 訳も判らぬまま剣を振るい、今度は私がその者の首を切り落とし、
 頭から返り血を浴びた途端、夥しい血潮で滑った大地に、
 抑え切れなかった嘔吐と共に吐き捨てましてございます。
 後に残ったのは、
 [絶望]と云う名の底知れぬ闇い深淵だけでございました」


びょぉと風が音を起てて通り過ぎる。
ファラミアの細くしなやかな髪を巻き上げながら。


「そうして命は勿論の事、奇跡的に大きな怪我一つする事無く、
 私の初めての戦いは終わり、帰途に至りました。
 肉体的にも、精神的にも・・・・・。
 いいえ。
 とにかく、何より精神的に痛手を被っていた私は、
 その時もこうして、還り着いたこの丘から、
 あの[白の塔]の姿を臨んだのです。
 敵の物とも味方の物ともつかぬ血と肉片と、涙と、汗と・・・
 有りとあらゆる物に汚れ、草臥れ果てた私の目に、
 其れは何と清らかに、気高く映りました事か。
 一粒零れ落ちた涙は、後はもう次から次へと溢れ、
 零れ落ちるばかりで・・・」


また、一陣の風が二人の周りを通り過ぎ、
傍らを伺い見た新王の目には、今もまた、
その灰色がかった青い瞳から零れ始めた涙を
溢れるに任せたファラミアの横顔が映る。


「それ以来なのです。
 私は、朝に、夕に、晩に、彼方から此処へ還って来る度、
 この丘から都を臨んでは涙して居ります。
 一国の将が、何を女々しいと御笑い下さいませ。
 還る度、塔は朝日に煌き、夕日に照り映え、
 晩の早い時間には暖かな市井の灯りが至る所から塔を包み、
 人々の寝静まった深夜でさえ、
 月や星々に抱かれてその姿を輝かせております。
 悪しき力に、太陽も月も星屑でさえもその身を厚い雲に覆われ、
 人々が息を潜めて暮らしていた時でさえ、
 厳かな程に、その身は光り輝き、私を迎えてくれました。
 その真白き姿を目の当たりにして漸く、
 無事に生き残って還って来れたという
 歓喜と安堵の涙を流した事もございましたし、
 逆に、自分は生き残ってしまったという還れなかった同胞達に対する、
 後悔と懺悔の涙を流しも致しました」


ふいに頬を伝う涙もそのままに、ファラミアが新王に面を向けた。
今も深淵を見ているのだろう。
変わらず闇い色を湛えた瞳ではあったが、
濡れた瞳は新王でさえも息を呑む程に美しかった。


「ですが遅蒔きながら、気付いたのです」


徐に、ファラミアの声の調子が心持ち明るい方へと変わった。


「部下を率いる身としては、如何なものかと。
 大将と呼ばれる私が、毎度、帰還の度に滂沱の涙を流すのでは、
 流石に部下にも示しが付きませんし、
 兵士達の士気も低落するばかりでしょう。
 第一に、私自身が居た堪れませんので・・・。
 それで、今ではこうして隊列を離れ、
 心ゆくまで[白の塔]を目の当たりにしながら涙していると云う次第なのです。
 本当に・・・どうそ御笑い下さい」


ファラミアは辛うじて笑顔を作ると、
手に嵌めていた皮のグローブで面を濡らし続けていた涙を拭い始めた。
俯く儚げな笑顔は見る間に消えてしまいそうだった。
涙で赤くなった瞳と、僅かに腫れた瞼が痛々しく、
新王は咄嗟にその手を掴んだ。
新王の行動に驚きはしたものの、
ファラミアは身じろぎ一つせず主君を見詰め返した。
片方の手でファラミアの手を掴んだまま、
もう片方の手のグローブを口に銜えて外すと、
新王は己が手をゆっくりとファラミアの頬へ持っていき、
丁寧に涙の痕を拭っていった。
最後の痕を消し去ると、
新王は伸び上がる様にしてファラミアの額へと口付けを落とした。


「ファラミアよ・・・」


新王は、握り込んだ手に一層の力を込めた。


「私は誓ったのだ。
 あの[白の塔]の頂で。
 臣下、臣民にだけではない。
 誰よりも、そなたの幸せを切望しながら逝った者達に。
 そなたは幸せに為らねばならぬ。
 今は亡き父君と、そなたの最愛なる兄上の分も健やかに。
 さすれば、そなたの、その闇き色の瞳も必ずや、
 何時か見た、何処までも澄み渡る夏の晴天の空、
 天頂の青の如き晴々と強い色を取り戻すであろう。
 この国の復興と繁栄を望みつつ、散っていった者達の願いを叶える為にも、
 そなたには余や臣民達の力と為って貰いたいのだ。
 我等ばかりではない。
 ローハンを始め、諸所方々そなたを知る全ての者がそう望んでおろう。
 それだけそなたは、我々にとって唯一、掛け替えの無い存在なのだ」


一言一言を、
諭し、言い含めるように言って聞かせる新王の顔を見詰めていたファラミアの瞳は、
段々と大きく見開かれてゆき、遂には耐え切れず、又も涙を溢れさせた。


「・・・陛下・・・陛下・・・・・我が王よ。
 我が身に過ぎるお言葉でございます。
 私如きの身に、如何程の事が出来ましょう。
 けれども、この身が倒れ、朽ち果てましょうとも、
 この国を想い、王をお慕い申し上げる心情だけは、
 何時何時までも消え去る事は有り得ませぬと、
 今此処で、お誓い申し上げます」



白の大将は、主君に掴まれたままの腕を自らの胸に据えると、
先にも一度口にした誓約の言葉を口にする代わりに、
改めてもう一度、深く深く黙礼した。
俯いた拍子に零れ落ちてゆく涙の雫が夕日の残照を受け、
宝玉の欠片の様に煌いた。


「ファラミア・・・・。
 もう泣いては為らぬ、ファラミア。
 見よ」


新王は指差した。


「そなたの言っていた、市井の灯りが燈り始めた。
 あの灯りの一つ一つの元で、人々の暮らしが営まれておる。
 二度とあの灯りが消える事の無きよう。
 二度と再び、絶望と恐怖の暗闇に人々が閉じ込められる事の無きよう。
 都の名の通り、何物にも穢されず、臣民を護持せねばならぬ。
 我等、共に往こうではないか。
 ファラミア・・・」


今一度、ファラミアは[白の塔]を見遣った。
闇の瞳が沈み行く夕日に照り映える塔を映し出す。
昔日へと思いを馳せた瞳は、懐かしむように細められた。


慈しまれていた頃の記憶が、蘇る。


名前を想うだけで愛おしさと慕わしさの余り、
震えだしてしまいそうな人々の姿が見える。
身に覚えの有る薫りに、身体ごと包み込まれる。
温みさえ感じる程の心優しい声が、己の名を呼ぶ。


(今暫く・・・今暫く・・・・・。


 其方へ参るまでに、私に幾ばかりかのご猶予を。
 貴方方の元へ参るには、
 私はもう暫くのお時間を頂かねば為りません。
 漸く御目に掛かれたその時に、
 御二人に対して不面目な事の無き様に、
 此の世に別れを告げるその時に、
 思いが残る事の無き様に。
 [白の塔]に還るが如く、貴方方の元へ還りましょう。
 ですから・・・・・。


どうか・・・どうか・・・今暫くの御時間を・・・・・)


「ファラミア」


耳元で名を呼ばれ、ファラミアの思考は断たれた。
ファラミアを引き戻した主の言葉に、
今度こそファラミアは頷いた。


「我等の都へ!!
 [白の塔]へ、いざ還りなん!!」
「御意」


[白の塔]を目指し、二騎は肩を並べ、
丘から眼前に広がる大平原へと駆け下りていった。


2004/06/05UP