後姿 3月の雨は、降る度毎に暖かさを連れて来る。 午後も遅くから降り出した雨は霧雨で、黄昏時の今、 街を行く人達も、この程度の雨ならと傘も差さずに歩く人達と、 用意良く持ち合わせていた傘を差しながら歩く人達、 そしてその中の一部分は僅かでさえも濡れるのは嫌なのか、 わざわざビニールの傘を買ってまで差しているのかもしれない人達等が ほぼ同等の割合で歩いていた。 この日、出先からの直帰を指示されていた青島は、最寄の駅に向かう帰宅の人込みの中に、 見覚えのあるコート姿を見つけた気がして、思わず急いでいた足を止めた。 キャリア、ノンキャリアの枠を超え、全国の警察官の間で、 今やあらゆる意味で、[伝説の警察官]となりつつある青島が無事に退院してまだ数日。 入院の期間は、思いの外長く掛かってしまい半年。 現在の青島は、退院後暫くはデスクワークに勤しむ様にとの主治医の指示に 厭々ながらも忠実に従って一日一日を過ごしていた。 流石の彼も、長い入院の期間中、今回の一件に於いて自分が与えた周りへの影響の彼是を 我が身が負った怪我や処分以上に、反省すべきは反省し、考えなければならない事は考えたらしい。 この先、何時まで今の状態が続くのか怪しいところだが、今の所は大人しく、黙々と仕事をこなしている。 今も以前の青島ならば数時間もせずにデスクワークに音を上げていたはずだったろうが、 彼の机の上には休職中の溜まりに溜まっていた書類も山の様に積み上げられていたし、 それを一山一山片付けて、何よりも貴重なブレイクタイムの為のタバコと灰皿の置き場位は 確保しなければと、兎に角遮二無二書類とパソコンを相手に仕事をこなしていた。 そんな青島に「うん、うん」と満足そうに頷いているのは課長の袴田だった。 「青島君、ちょっと」 課長の声に、書類の山の天辺越しにヒョイと青島が顔を覗かせて袴田のデスクの方を見遣る。 人差し指で自分を指しながら、声には出さず「俺っすか?」という感じでちょっと首を動かす。 袴田はニコニコと笑いながら、こちらも声に出さず「そうそう」と頷いた。 一緒に、手招きも付けて・・・。 「ちぇっ、やっと調子出てきたのにな〜★」 小声で呟いて、青島はバリバリと髪を掻き毟り、仕方なく課長の元へ行くべく立ち上がった。 無意識に腰を庇って立ち上がった青島に、背中合わせの後ろの席で仕事をしていた 同僚のすみれが気遣わしげに声を掛けた。 「青島君、大丈夫?痛むの?」 以前の彼女なら、「青島君〜年じゃな〜い?(キャハハハ♪)」なぞと少々辛辣な事を言ってきただろうが 彼女なりに青島の身体の事を心配してくれているらしい。 「ああ、大丈夫。ついね。最近、癖になっちゃって」 青島は苦笑しながら、すみれに向かってヒラヒラと手を振って行ってしまった。 「・・・なら、いいけど」 呟いたすみれは、その後姿をほんの一瞬気遣わしげに見送って、 自分もまた目の前の書類の山へと戻っていった。 「なんですか?休んでた間の『始末書』とかなら、今せっせと書いてますけど」 ニ〜ッと歯を剥き出して無理やりな笑みを作りつつ、青島は袴田のデスクの前に立つなり言った。 「そんな、何時終わるか分かんない仕事、待ってる暇無いのよ、青島君。『警察』ってトコは忙しいんだよ」 青島に負けず劣らずの笑顔を貼り付けて、袴田も言った。 「ちょっとね、書類の届け物を頼まれて欲しいんだよね。みんな忙しいみたいだからさ、君にね、頼みたいんだ」 「えぇ〜っ?!(俺がヒマこいてるってんですか?)」 心底嫌そうな青島の声に、笑顔の袴田の額の辺りに青筋が一つ浮いた。 それを見て、慌てて青島が口を押さえる。 「い・・・行かせて頂きますぅ、課長」 それ以上青筋が増えないように、必死で機嫌を取ってみる。 「今すぐ行って来ます♪」 揉み手まで付けて、にっこり笑いながら。 「分かってるじゃないか、青島君。最初っから、そういう風にでてくれればねぇ、こっちだって・・・」 とでも言っているかのように、また、袴田課長が頷いた。 「はぁ・・・人使い、荒いんだから・・・・・」 某警察署の玄関で青島は、書類とは名ばかりの、今月末のゴルフコンペの仔細の入った書類入れを 恨めしそうに一睨みしてからピンと指で弾いた。 「こん位、電話でも済むんじゃないのぉ?」 相変わらずぶぅぶぅと文句を垂れながらも、一応は鞄の中へと袋を仕舞い込む。 仕舞い終わって顔を上げた青島は、やっと雨に気付いた。 「あちゃ〜雨かぁ★」 どうりで、さっきから例の傷がジンジンと痺れる様に痛んだ筈だ。 軽く腰を抑えて、そして思い出す。 「そうだ、青島君。帰りはねそのまま真っ直ぐ、帰っちゃっていいから」 チョッピリの良心は残っていたらしい袴田が、署を出る青島に言った言葉を。 ふぅと溜息を付いて低い空を睨んでみても、雨が止むはずもなく、 仕方なしに青島は近くの地下鉄の入り口まで走る事にした。 通りを伺うと、そう遠くない所に入り口が見えた。 幸い、雨は霧雨なので、これならそれほど酷く濡れはしないだろう。 地下鉄まで走る距離と、腰の痛み。 双方を比べてみて、まぁこれなら大丈夫とホッと息を漏らし、青島は立ち番の警官に「お疲れ様です」と声を掛け 玄関前の階段を、無理をしない程度に駆け下りた。 雨は青島が思ったとおりの降り方で、この距離なら髪や衣服がしっとりと湿る程度で着けるだろう。 調度、真下が見付けてくれた腕の良いクリーニング屋が 青島の入院中に血痕を跡形もなく消し去って、その上、職人気質の主人が 見事にあの時裂けた所まで直してくれたというトレードマークのモスグリーンのコートを身に着けていた。 「このコートさえあれば、どうって事無いな」とポケットに手を突っ込んで、 無理はせずに歩いて入り口の所まで行く事にした。 身に馴染んだコートの感触を確かめながら歩いていた青島は、 目的の入り口に入ってゆく見覚えのある後姿に、 それが階段を降りて消えてしまう直前に気が付いた。 「あれって・・・・・」 「室井さん・・・降格になっちまってなぁ・・・・・」 見舞いに来てくれた、和久さんの言葉が思い出された。 結局、入院中の青島の元に、室井は一度も顔を出さなかった。 退院後、直ぐに会いに行こうと思っていた青島を見透かすように、 「室井さん、今は微妙な立場の時なんだから・・・解かってるよね、青島君」 一度だけ見舞いに訪れたスリーアミーゴスの面々に声を揃えて牽制されてしまって今に至っていた。 反感を覚えつつも、3人の言っている事は、至極もっともな事で 3人も3人為りに、室井の事を気遣っての言葉だという事が分かるだけに、 青島としても、これ以上の無理を重ねる訳にはいかず、時が過ぎるのを大人しく待つしかないと思っていた。 第一、あの情の深い室井が、負傷して、一時は生死の境を彷徨った程の部下の元を一度も訪れないとは、 それだけで、今措かれている室井の立場が伺えた。 会いに行きたくても、会いに行けない。 会っちゃいけない。 時期を待とう・・・そう思っていた青島は、先程から気にしていた腰の事も忘れ、 大急ぎで、たった今視界から消えた後姿に追いつこうと駆け出した。 階段を降り切った先、真っ直ぐに伸びた地下鉄の駅への通路を 今や見紛う事の無い、良く知った後姿が歩いて行く。 黒いロングコートの裾が、いつもの早い足取りに合わせてスローモーションの様にはためく。 きっちりと後ろに撫で付けられた、真っ黒な髪。 和久が言っていたように降格はしたものの、仕事が彼を放ってはおかないらしい。 厚くて頑丈そうな鞄も相変わらずで、あの小柄な体躯には酷く重そうに見える。 けれどそれを持つ彼こそが、仕事一途な彼らしい。 「変わってないなぁ、室井さん」 たった半年会わなかっただけなのにも関わらず、 青島の胸は言い様の無い懐かしさに震えた。 自分が自分なりに、一日も早い復帰を願って耐えた入院生活やリハビリ同様、 室井もまた、彼なりにこの半年間を過ごしてきたのであろう事が伺えた。 たとえ降格しても、腐る事無く、諦めず、彼は変わらず居てくれたのだと。 彼は彼の、今在る場所で、理想に向かって歩き続けて居てくれたのだ。 一言だけでいい、言葉を交わしたくて後を追う。 呼び止めて、何と言おう。 出来るだけさり気なく呼び止めて、「俺は元気ですから」とだけ告げようか? 青島の予想以上の速さで、室井は改札口を通り抜けた。 雨の為に家路を急ぐ人の波は、改札口付近にきて青島の足を鈍らせる。 人の割りに数の少ない改札機に、思うように前に進めない。 苛立ちを隠しながら、なるべく早く通り抜けられそうな列の後ろに付く。 そうしてやっと通り抜けた青島の耳に、入ってきた電車のアナウンスが聞こえた。 自分の乗る方向の電車のホームに、室井が居るかどうかは判らなかったが、 取り敢えずそちらに向かって走る事にした。 電車は既に到着していて、乗り降りの乗客も、大方が乗降を終えていて、 何時出発しても可笑しくはなかった。 今にもドアが閉まってしまうかもしれない。 発車のベルが鳴る。 注意のアナウンスと共に、ドアが閉まる前のエァの漏れる音がする。 瞬間、青島は迷った。 チラリと反対側のホームを見遣る。 次の瞬間、視線を戻した青島の前でドアは閉じてしまった。 白線までの数歩を後ろに下がった青島の彷徨わせた視線の先に、 突然追い掛けていた後姿が飛び込んできた。 青島が乗り損ねた車両の隣の車両の、入り口近く。 重なっていたドアに邪魔され、今の今まで見えなかったらしい。 酷くゆっくりと電車が動き出す。 身動き一つせず見詰める青島の目に、吊り輪に掴まって俯く室井の姿が映る。 自分が知っていた室井は、こんなにも小さかったろうか? 室井の俯く姿が、余りに痛々しく思えて、青島は思わず叫びそうになった。 「室井さん!!」と。 「貴方の、あの力強く真っ直ぐな眼差しは、変わらずに在りますか?」と。 「二人で交わした約束は、今も貴方の胸の何処かに活きているんですよね?」と。 「俺は、貴方を信じて、自分を信じて歩いていけばいいんですよね?」と。 ・・・・・声にはならなかったけれど。 目の前を通り過ぎるその時に、室井が顔を上げた。 果たして青島を認識できたのかは判らない。 けれど、真っ直ぐに前を見詰めるその眼差しは、 確かに青島の知っている、誰よりも『明日の警察』を胸に抱く、 室井慎二の眼差しに、間違いはなかった。 遠ざかって行く地下鉄の車影を見送りながら、 「やっぱり、きちんと室井さんに会わなけりゃなんないなぁ」と、 改めて思う青島だった。 会って、侘びの一つも言わせて貰う位いいんじゃないかと思った。 話したい事、聞きたい事だって山ほどあった。 思い返せば、これまでの二人の間には思い出すのさえ辛い出来事もあったし、 その出来事の中で室井が一人、どんな思いで居たか、それを理解しようともせずに一方的に糾弾し、 思い込みで彼を追い詰めたりもした苦い日々も在った。 それらの何一つとして、二人が心ゆくまで話し合った事があっただろうか。 今なら、その時々の室井の気持ちが少し也とも解かる様な気がするから。 でも今は、まずは自分が元気で、変わりなく、無事に仕事に復帰したという事だけでも伝えたかった。 誰でもない、自分の口から。 目を凝らした暗闇に、地下鉄の車影が消えてゆく。 同じ暗闇に、先程の室井の後姿も浮かんで消えた。 あの小さな後姿が、何だか酷く哀しく思えて、青島の胸には微かな痛みが残った。 この痛みを取り去る為にも、今一度、青島は室井に会う決心をした。 けれど、二人の再会までにはもう暫くの日々が必要となる。 この翌日、室井は辞令を受ける。 [ 移動通達 ] □月□日付けをもって、 下記の通り組織変更及び人事異動を実施する。 免 警視庁刑事部参事官(注1) 命 北海道警察本部美幌警察署署長 室井 慎次 20030325 UP 注1:この時点では『事後処理させられてた』って事で、敢えてこのポストにしました。 哀しき中間管理職ですね。「最後までちゃんとやってけ」って・・・可愛そう、室井さん!!(号泣) |