夕蛍



まるでゴミ屑のように打ち捨てられた虫籠。
竹で出来た古びた虫籠の片隅で、露草の草陰にひっそりと幻のように小さく瞬く蛍二匹。
 
なぜ、私だけが気付いたのだろう・・・
 
 
鬱陶しい季節が、もう目の前まで来ていた。
『風薫る頃』とは言え暑さは日々増していて、
北国育ちの私は、考えただけで大きな溜息を洩らさずにはいられなかった。
 
そんなある日の事。
 
夕方のラッシュアワー。
乗降客が一段落した後のベンチ脇、それはポツンと置き去りにされていた。
ひょっとすると忘れ物で、持ち主が置き忘れた事に気付いて大急ぎで引き返して来やしないかと、
しばらくの間、駅の改札口の側で待ってみていたけれど、
それらしい人はいつまでたっても現れなかった。
やはり邪魔にでもなって捨てていったのだろう。
夕闇に包まれた小さな駅の構内を人々は、或いは家路を急ぎ、
或いはこれから向かう先への事で頭がいっぱいという面もちで、
その存在にも気付かず足早に通り過ぎ、去ってゆく。
 
まるでゴミ屑のように打ち捨てられた虫籠。
竹で出来た古びた虫籠の片隅で、露草の草陰にひっそりと幻のように小さく瞬く蛍二匹。
 
どうしてだろう?
趣深い風情だからだろうか?
その名前を想うだけで、心細げに見えてくるから不思議だ。
ただでさえ儚げなその姿が、
こうして放り出された駅の片隅で今にも消えて無くなってしまいそうだ。
 
「・・・もう、我慢ならん・・・」
私は低く唸るように呟くと、真っ直ぐにそれに向かって歩きだした。
ベンチまでは数メートル。
辿り着くまでの僅かな時間も人々と擦れ違うけれど、
誰も私の目的の物へ注意を払う者はいなかった。
目当ての物を取り上げた時、人々のその無関心なさまが酷く淋しくもあったが、
一方で、自分が手にする事が出来た事が嬉しくもあった。
 
先程の駅での乗降客と同様かそれ以上の足取りで家路を急ぐ。
日頃、同居人や同僚、同期の者達から「速い」と言われる私の歩く速度だけれど、
そのいつもの何割増しかで通い慣れた道を歩く。
家への最後の角を曲がった。
今までの最短記録だと思う。
手にした小さな生き物を傷付けないよう、
驚かさないようにと走りたいのを我慢して、早足で帰ってきた。
そのせいと日が落ちてもなかなかに下がってはくれない気温のせいで、僅かだが息が上がっている。
「少し身体もなまったか?」
運動不足に成らざるをえない仕事と、職場環境を思い出して、自嘲気味に笑う。
 
外玄関の外灯には灯りが点っていた。
一瞬、同居人の顔が浮かんだが、時間になると自動的に点くようにと設定していた事を思い出した。
外灯が灯っているということだけでは、同居人が先に帰っているのかどうか定かではなかった。
ぬか喜びになるのが嫌で、あまり期待しないようにと自分に言い聞かせながら歩を進め、
外玄関に辿り着いた私を家の中にも灯っていた灯りが迎えてくれた。
件の同居人は帰っているらしい。
私は内玄関には向かわず、外玄関を入って直ぐ脇の庭へと続く木戸を潜った。
 
縁側にいつもの鞄を置いて、それからやっとの事でこの季節、
普段ならば駅を出た途端片手に掛けて帰ってくるはずの上着を脱ぐ事にした。
その為には鞄とは反対の、空いていた方の手に抱えていた虫籠も降ろさなければならない。
私はそれをそうっと鞄の隣に、注意して降ろした。
庭の静けさの中では「コトリ」鳴った音が、思わぬ大きな音な気がして、
同居人の彼に気付かれやしなかったかと廊下に身を乗り入れて奥を窺った。
幸い、気付かれなかったらしく、彼がこちらに来る気配は無かった。
ホッと息を吐いて、上着を脱ぐ。
ただでさえの暑さと急いだせいで、上着の下は思った以上に汗をかいていたらしく、
上着を脱いだ途端、すぅっと涼風でも通ったような気持ちよさを感じた。
その涼しさをもっと感じたくて、
私は喉元の、一部の隙も無いほどに固く締めてあったネクタイを緩めると、一気に引き抜いた。
いっその事と同居人の真似をして靴下も脱いで下駄に履き替えると、
まとめて鞄の向こう側に放り投げた。
持ち帰った物はといえば、その間もじっと音もなく傍らに控えている。
私はとうとう袖口さえ捲り上げながら、それにこう声を掛けた。
「さぁ、おいで・・・」
 
「青島っ!青島っ!!」
用意が調い、私はそれまでの家の中を窺っての慎重さを捨て、正反対の大胆な行動に出た。
大声で同居人の名前を連呼したのだ。
「ハイッ!!ハイッ!!ハイッ!!」
瞬き程の間を置いて、直ぐに聞き慣れた声が返事を返してきた。
次にはバタバタと足音がして、廊下の角からいつものように彼が姿を現す。
「室井さん♪帰ってたんですかぁ♪♪」
「たった今」
「おかえんなさい」
「ただいま」
これだけの会話を交わしただけだけれど、
一日の疲れにガチガチだった身体や心さえもがやんわりとほぐれてゆく気がする。
「もうご飯も出来てますよ」
「そっか」
「たった今出来たとこなんで、調度良かったっすね♪」
「すまないな」
「な〜にいってんですか、お互い様ですって。
俺が遅い時は、室井さんやってくれてるじゃないっスか」
彼がニコニコと全開で笑う。
 
 
「さ、行きましょう。夕〜飯だ♪夕飯だ〜♪♪久しぶりに、二人で一緒に食べれる夕飯だ〜♪♪♪」
彼は鼻歌混じりで、私が縁側に置いておいた上着や鞄を拾い上げようとする。
「その前に!」
例の物をすっかり忘れそうになって慌ててしまった私が、
彼の行動を止めようとして出した少々大きめの声に、青島はビックリしたみたいに動きを止めた。
「む・・・室井さん?」
「あ・・いや、ちょっと庭に降りて来ないか?・・・っと思って」
パチパチと目をしばたいた彼だったが、直ぐにまたニッコリと笑顔に戻ると、
「なぜ?」とも「どうして?」とも聞かず、黙って私の言う通りにしてくれた。
もう一足の庭用の下駄を突っ掛けると、カラリと音を立てて庭に降り立つ。
私は彼の前を歩きだす。
チラリと彼の方を見遣ると、それに促されたように彼も歩きだし、私の後を付いてくる。
 
我が家の庭は元の住人の趣味で、そこここに手水鉢などが置かれていて、『水』が豊富な庭だった。
その中の一番大きな手水鉢の側。
溢れ出た水のせいで、鉢の周りには苔が一面に柔らかく広がっている。
庭の中でも、どちらかと言うと一年を通じていつも湿り気のあるその場所に、私は彼を誘った。
聞こえているのはちょろちょろという水の音。
とっくに日の落ちた中で、灯りといえば空に浮かぶ細い月の光と庭の木々越しの隣家の灯り。
それから・・・
 
「こっちへ来ないか」
私が呼ぶと、後ろに控えていた青島が黙って私の隣に並んだ。
並んで立つと、私はいつも彼を見上げなければならない。
男としては、少々コンプレックスを刺激されるはずなのだが、
彼と私の場合に限っては、私はこうして彼を見上げるという行為がいたく気に入っていた。
そんな私を、彼もいつものように首を僅かに傾げて見下ろしてくる。
目と目が合う。
笑みが浮かぶ。
「どうしたんですか?」
周りの静けさを壊さないように、声を落として彼が尋ねてくる。
子供の頃に憶えのある、他愛もないいたずらをしかける前の、
あのわくわくと胸の躍るような高揚感が私を包んでいた。
(どんな顔をするだろう?)
さっき縁側の所で彼を呼んだ時から注意深く合わせた両の手の平を、彼の目の前に差し出した。
「え?何です?」
不思議そうに、彼が目の前の私の手を見つめる。
彼の問いには答えず、私は少しずつ少しずつ合わせていた手の片方を、
まるで大切な宝物が入った宝石箱の蓋でも開くように慎重に開いていった。
 
 
見え易いようにと覗き込んでくる彼の方に身を寄せて、私も一緒に自分の手の内を覗き込む。
私の手を間に挟んで、私と彼の額が触れそうなほどに近づいた。
その次の瞬間。
宝石箱の中で、『宝石』が輝いた。
宵闇に、ぽぅと柔らかな光が灯る。
彼がはっと息を呑むと、それを合図に羽を持った『宝石』は次々に私の手から飛び立った。
「・・・蛍が!」
慌てて掴まえようとする彼の手を押さえ、私は静かに首を横に振った。
「飛んでっちゃいますよ」
ふわふわと舞う蛍の灯を目で追いながら、私はもう一度、静かに首を振った。
 
二匹の蛍は、私たちの目の前を音もなく飛び交っている。
着いては離れ、離れては寄り添う。
初夏を運ぶ微かな風と、その風にさらさらと揺れる木々。
足元の夏草とふっくらと柔らかな苔に跳ねた水滴。
その水滴の一つ一つにさえ蛍の灯が映って、沢山の蛍がいるような錯覚に陥る。
幻のような光景を、私たちもまた言葉さえも忘れ見詰めていた。
 
〜なぜ、私だけが気付いたのだろう・・・〜
 
駅のベンチの虫籠の蛍に、私は何を見たのだろう。
最後の陽の名残と構内の蛍光灯の明かりに見過ごしそうな命の灯。
辛うじて、籠の中に据えられた草木の陰で瞬いたのが目にとまった。
ただ、それだけの事かもしれない。
或いは・・・・・
故郷の風景を思い出したのだろうか?
子供の頃に蛍を追って、どこまでもどこまでも走っていった頃の事を。
それとも・・・
闇に舞う蛍。
暗闇でこそ、己(おの)が輝きが存在を示す。
昼日中の、人の作った灯りの中での存在は?
なんて不確かで、脆いものなのかと思う。
 
私たちの、この生活のように?
 
「室井さん?」
いつの間にか誘われるまま、私の心は蛍と一緒に辺りを漂っていたらしい。
我に返ると、心配そうに彼が私を見下ろしていた。
「あまり、綺麗だったものだから・・・」
私の答えに、まだどことなく気になってはいるようだったが彼もまた、直ぐに蛍に目を戻した。
並んで眺めていた私達の方に、二匹の蛍が寄ってきた。
身動き一つせずに、その姿を私達は目で追った。
そのうちに二匹は私の肩に留まってぽぅと光る。
「もしかして、さっきの驚き方からすると蛍を見るのは初めて・・・か・・・・・」
蛍を間近で見た私は、そう彼に尋ねようと振り仰ぎかけた。
と、彼は蛍と同じくらい近くに顔を寄せていた。
思い掛けない事に驚いて、つい身体を引きかけた私を彼が押さえる。
目の前一杯に、普段なら明るい鳶色の(今は宵闇に黒々と染まっている)瞳が広がる。
 
「動かないで」
言われなくとも私は動けなかった。
 
見慣れない色の瞳。
まだ少しだけ聞き慣れない色に染まった声。
どこか現実離れした他人の手の感触。
密度を増したような甘い大気。
 
私は動けなかった。
 
「蛍・・・逃げちゃいますから」
言いながら尚も近付いてくる彼の瞳を見つめる。
唇に触れた暖かさ。
目を閉じた私は、夏はもうそこまで来ているというのに、一つ、小さく震えた。
 
瞼の裏では二匹の蛍が、古びた虫籠の中でいつまでもひっそりと寄り添っていた。
 
2001・06・22UP


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