仏様神様、よもやばなし

ばっくなんばぁ〜13

第二十六話 経典の中の?なところA
お経の中の?なところを紹介する第二回目でございます。今回は、お釈迦様が覚ったあとの?な話をいたします。
まず一つ目。
お釈迦様、覚った後、ガンジス川を渡ろうとします。で、ガンジス川の船乗り場に行きますな。船頭に言います。
「向こう岸へ渡りたいのだが、船に乗せてもらえないか」
お釈迦様の頼みに、その船頭は「金さえくれればな」といいます。当然、お釈迦様は、お金なんて持っていませんな。で、そう答えると、船頭は「じゃあダメだ」と冷たく言いますな。お釈迦様は、二度三度と頼みます。しかし、船頭の答えはNO。するとお釈迦様、「仕方がない。じゃあ飛ぶか」と言って、神通力で向こう岸へ跳んでしまいますな。ガンジス川を飛んで渡ったのですよ。
もちろん、そんなことはあり得ませんな。どういうつもりでこんなことを書いたのかわかりませんが、現実にはあり得ない話です。まともに解釈してはいけませんな。そのまま受け止めてしまうと、空中浮遊ができる!、なんていう変な宗教と同じになってしまいます。もちろん、人間にはできません、ガンジス川を飛んで渡るなどということは。どんなに修行しても、空中に浮くなんてことは不可能ですな。
では、一体何を言いたくて、こんなあり得ないことを書いたのか。
お釈迦様はすごいんだぞ、これが一つの理由でしょう。こんなこともできたお釈迦様はすごいからお釈迦様の教えは真実なのだ、すごいんだ・・・、まあ布教には役立ちますよね、昔ならば。今、こんなことを言ったら
「だから宗教って、胡散臭いんだよねぇ」
となりますな。なので、このエピソードについて現代的な解釈をいたしましょう。
ガンジス川を一人で飛んで渡った・・・ということは、迷いの世界(此岸)から一人で修行して、覚りの世界(彼岸)へ渡った・・・ということを意味しているのですな。しかも、一般の者は、外見だけで判断して大きなチャンスを逃がすという愚かな者だ、ということも意味しておりますな。実際、経典では、お釈迦様がガンジス川を渡った後、船頭が「しまった、あの方は尊いお方だったんだ、徳を積む機会を逃した!」と嘆きますな。さらに、このことをマガダ国のビンビサーラ王に報告し、
「凡夫はうわべだけで判断してしまう愚かさを持っている。浅はかな考え、見た目だけの判断、それがどれほど愚かなことかわかったであろう」
と叱られますな。
つまり、お釈迦様がガンジス川を飛んで渡ったというエピソードは、
此岸にいる愚かな者は、見た目だけで判断し、真実を知ろうとしないから、迷いの世界にいるのだ
仏陀(覚った者)は、迷いの世界である此岸から、覚りの世界である彼岸へと自力で渡った者だ
お釈迦様は、まさに仏陀である。
ということを教えているのですな。深読みすれば、いいたとえ話ですよね。が、愚かな凡夫は、「神通力が使えるってすごい、私も修行すれば使えるようになれるかも」なんて思ってしまうわけです。で、インチキな宗教に引っかかってしまうんですよね。神通力も超能力も霊能力も、そんなものはありませんな。お経に出てくる話は、たとえ話ですからね。そのまま鵜呑みにしないでくださいね。

二つ目。
ウルベーラカッサパが率いる火の神を祀る宗教団体にお釈迦様が訪問した時の話。
ウルベーラの森には、カッサパ三兄弟という火の神を祀る宗教者が住んでいました。お釈迦様は、そこを訪れ「泊めてほしい」と頼みますな。ウルベーラカッサパも宗教者ですから、修行者の姿をしたお釈迦様を歓迎します。お釈迦様は、その宗教団体の中心的なお堂・・・火の神を祀ったお堂・・・で休ませてくれと頼みます。しかし、そのお堂は呪われていて、火を吹く毒竜が住んでいるのですな。その毒竜はものすごく荒くれで、誰もそのお堂には近づけないほどです。なので、ウルベーラカッサパは
「そこはダメだ。毒竜が住んでいて殺されてしまう。ちゃんとした庵があるから、そこで休んでいきなされ」
とお釈迦様に言います。が、お釈迦様「そんなの怖くないから、その火の神のお堂に泊まらせてくれ」と頼みますな。再三の頼みに、ウルベーラカッサパも「じゃあ、どうなっても知らないからな。勝手に泊まれば」となります。で、お釈迦様、その呪われたお堂に泊まりますな。
その晩、そのお堂では「毒竜VSお釈迦様」の戦いが始まります。毒竜、お釈迦様に炎を吹きかけますな。お釈迦様も負けじと炎を吹きかけます。お互いに猛火を吹き出しあって、戦いますな。その炎は、お堂を燃やし尽くすほどの勢いだったのです。
お釈迦様は「私の炎は強すぎるから、このままでは毒竜を殺してしまう。だから、殺さないようにしてあげよう」と考え、様々な色の光の炎を放ち始めますな。しかも、その炎は、毒竜を包み込むだけで毒竜を焼こうとはしません。が、外から見ていると、お堂は猛火に包まれていますな。ウルベーラカッサパの弟子たちは、必死に水をかけて炎を消そうとしますが、全く効果なし。ウルベーラカッサパも
「あぁ、あの修行者も毒竜に焼き殺されたな。明日の朝、ねんごろに弔ってやろう」
などと考えて炎に包まれるお堂を眺めていますな。
翌朝のこと、炎は消えます。が、お堂は焼け落ちてはいません。さらに驚くべきことに、お釈迦様が手にした鉢に入った毒竜を持って、お堂から出てきますな。ウルベーラカッサパ、超驚きます。しかし、ウルベーラカッサパ、お釈迦様を認めようとしません。なので、その後も、お釈迦様は様々な神通力を示しますな。それでも、ウルベーラカッサパ、お釈迦様を自分より下だと思い込もうとしております。で、お釈迦様、そのウルベーラカッサパの愚かな心を指摘して改心させるのですが、この時示した様々な神通力も、もちろんたとえ話ですな。これをそのまま鵜呑みにすると、
「呪われた家や呪っている者を私の霊能力で鎮めてあげよう」
なんていう胡散臭い霊能者や拝み屋に騙されてしまいますな。
もちろん、呪いだの恨みだの・・・ということはあり得ます。まあ、あるでしょう。恨んだ者がこの世に居続けて恨みを晴らそうとする、ということはある話です。お大師さんだって、乙訓寺に滞在したときは、そこで餓死した親王の霊にちょっと悩まされた、ということがありましたからね。
が、しかし、お釈迦様ならいざ知らず、怨念や恨みというのは、そう簡単に消えませんな。ましてや、神通力で炎を放つなど、あり得ませんな。お堂を焼く尽くしそうなほどの炎を神通力で出すなんてことは、無い、話です。これもたとえ話ですな。大袈裟なたとえ話です。
しかし、よくこのエピソードを読んでほしいですな。そうすれば気が付くことがあるはずです。大事なことが隠されているんですね。いや、隠されているわけではありません。はっきりと言っておりますから、お釈迦様が。それはどんな言葉か。
「このままでは焼き殺してしまう。殺さないようにしてあげよう」
これですな。つまり、優しく炎で包み込んだのですな。これは、優しさで包み込んだ、という意味ですね。すなわち、「慈悲心」ですな。
恨みや呪いを鎮めるには、「慈悲の心」が大事なのですよ。呪っている相手、恨んでいる相手に対し、慈悲の心で臨むのですな。戦うのではないのです。慈悲の心で包み込むのです。
まあ、なかなかそんなことはできませんよね。ついつい、戦って抑え込もうとしますな、一般人は。相手をやっつけようとします。しかし、お釈迦様は違いますな。恨んでいる相手、呪っている相手を慈悲の心で包み込もうとするのです。そんな人に、恨みも呪いも通用しませんな。初めから、戦いになりません。しかし、向かってくる相手に対し、
「いらっしゃ〜い、辛かったなぁ、大変だったなぁ、でももう大丈夫だよ、ここにいれば安心さぁ」
なんて言えませんよね。ここが、凡夫と仏陀の違いですね。
お大師さんは、親王の御供養をしてその呪いや恨みを鎮めましたな。供養も慈悲の心がなければできませんよね。
「恨んでいても仕方がない、呪っていても何も解決しない。ただただ、仏をすがって、心を鎮めてはどうか・・・。そのためならば、私はいくらでもお経をお唱えよう。あなたの心が鎮まるまで、お経を唱え続けようではないか・・・」
まさしく、慈悲の心ですよね。
ウルベーラカッサパでの毒竜との戦いの話は、
「恨みも呪いも慈悲の心で鎮まる。慈悲心は、何よりも勝る。お釈迦様はそれを教えている」
ということを教えたかったのでしょうな。上っ面だけを読んでいてはいけませんよね。

三つ目。
ウルベーラカッサパは、お釈迦様の教えに感銘し、弟子となりますな。弟のナディーカッサパ、ガヤーカッサパも弟子になってしまいます。当時、カッサパ三兄弟として名をはせた宗教者もお釈迦様の弟子になってしまったのです。自動的に、カッサパ三兄弟の弟子だった者たちもお釈迦様の弟子になりますな。その数、千人。彼らを引き連れ、象頭山(ぞうずせん)に行きますな。そこで、お釈迦様は様々な神通力を示します。
このエピソードには、いろいろな話がありまして、カッサパ三兄弟を従えるために、空中を飛んでみたり、炎を身体から放ってみたり、噴水を身体から放出してみたりしてますな。また、カッサパ三兄弟が象頭山の周りに放った炎を一瞬で消すという神通力を示した、と書いてあるお経もありますな。まあ、ともかく、ありとあらゆる神通力を示したのですよ、お釈迦様は。
よく仏伝でこのシーンを強調するものがありますが、それはちょっと違いますな。この象頭山での神通力のシーンは、そんなに重要ではないですね。重要なのは、そのあとに続くお話・・・法話・・・ですな。様々な神通力を示したのは、お釈迦様の威力を示したかったからなのでしょうが、ちょっとやり過ぎですよね。この様々な神通力を示したシーンは、はっきり言っていらないですな。なので、もし仏伝を読んでいて、この神通力のシーンをやたら強調するものがあったら、それはお勧めいたしませんな。大事なのは、そのあとに続くお話なのですよ。それはどんな話かというと、
「世界は燃えている・・・・」
という話ですな。お釈迦様はカッサパ三兄弟をはじめ、その千人もの弟子たちに言いますな。
「世界は燃えている。我々は、見る(眼)ことによって、聞く(耳)ことによって、嗅ぐ(鼻)ことによって、味わう(舌)ことによって、触れる(身)ことによって、心の働き(意)によって、燃えているのだ。それら・・・眼耳鼻舌身意・・・の作用によって、欲の炎によって燃えているのだ。この欲の炎によって、我々は苦しんでいるのだ。もし、この欲の炎を消すことができたならば、我々は苦しみから解放されるであろう。その道を私は説くのである。欲の炎を消し、執着を捨て、真実を見て、そこから清らかなる智慧を得て、彼岸に至るのだ」
この話こそ大事な部分なのですな。
「世界は、欲望で燃えている。この欲の炎を消さないと大変なことになるぞ」
その通りですな。この話の前にも後にも、神通力を示すようなシーンはいりませんな。空中を飛んだだの、身体から炎を放っただの、噴水を放っただの、神々が舞い降りただの、まったくもって不要な話です。なので、新しい仏伝には、このシーンを省くものが多いようですね。

仏伝・・・お釈迦様の伝記ですな。それには、様々な神通力の話が出てきます。今回紹介した話のほかにも、いっぱい出てきますな。しかし、それらは、お釈迦様の教えの何かを例えて言っている話が多いです。ま、たまに余計な話もありますが、そうした余計な神通力の話は、「お釈迦様はすごいんだ」ということを示したものですな。まあ、不要と言えば不要な話です。しかし、それは現代では、ということですな。経典が編纂されたころには必要なことだったのでしょう。
しかし、多くの神通力関連の話は、別の大事な話を喩えて語っているものだと知ってください。よくよく読んでみて、一体何を語っているのか、それを探るのが面白いですよね。
皆さんも、経典でこんな?な話をみつけてみてください。で、それが何を意味しているのか、よく考えてください。そうすれば、経典の中の?な話も、「あぁ、なるほど、そういうことか」とわかると思います。
お経もそういう読み方をすると、案外面白い読み物になるかも・・・知れませんよね。

次回は、私がどうしてもこれだけは納得できない話を二つ紹介いたします。どうもこの話だけは、私は嫌いだし、納得できないんですよね。一般では、いい話として通っている話なんですけどね。
どんな話かは、次回をお楽しみに。
合掌。


第二十六話 経典の中の?なところB
前回、「どうしても納得できない話が二つあります」と言いました。今回は、その納得できない二つの話を紹介いたします。
その話は、ジャータカに収録されております。ジャータカとは、お釈迦様の前世の物語を集めたお経です。これは、読まないお経ですね。お釈迦様が前世でどのような善行を行ったか、という内容ですな。このジャータカそのものが、私は好きではないですな。このジャータカが編纂された意味は、
「こんなに過去世に善行を積んだのだ。だから仏陀になれたのだ。仏陀になりたければ、これくらい善行を積みなさい」
ということなのでしょう。ということは、このジャータカができたころのお釈迦様の弟子は、出来が悪かった、ということになりますな。お釈迦様のようにはなれない、どうしても覚りが得られない、それはきっと前世が違うんだ、あぁそういえば、お釈迦様は自分の前世を語っていたな、あれをまとめてみよう・・・。
きっと、お釈迦様は、たとえ話として自分の前世の話をされたのでしょう。それを自分たちが覚れない理由にしてしまうのは、どうかと思いますな。まあ、初めはそうじゃなかったかもしれませんが・・・。
いずれにせよ、お釈迦様は違うんだ、我々とは全く違うんだ、ということを強調するためにこの世の話だけでなく、前世まで手を付けたわけです。お経が編纂されたのは、お釈迦様から数えれば、弟子のその弟子のその弟子の弟子・・・くらいでしょう。お釈迦様直接の弟子のひ孫弟子くらいに相当しますな。それくらいになれば、覚りを得られない修行者も多くいたことでしょう。そうなると、きっと民衆に責められますな。
「先代の修行僧たちはもっと立派だったのに・・・。お釈迦様はもっと素晴らしかったと聞いているのに・・・」
などとね。それは覚れない修行僧にとっては辛い言葉だったでしょうな。まあ、自分の責任だから仕方がないのですが。で、その言い訳のために、お釈迦様はすごいんだぞ経典が多く編纂されたのでしょうな。ジャータカもその一部ですな。
「お釈迦様はすごい?。そりゃそうさ、だって前世が違うもん」
ということなのです。まあ、こうした経典や教えがあまりにも救いになっていない、ということで大乗経典が編纂されるようになったのですけどね。そういう意味では、こうした言い訳系の経典も役には立ったわけですな。
ま、それはともかく。ジャータカの中にある、二つの納得できないお話です。まずは、道に迷った仙人の話からです。

ある冬の夜。立派な仙人さんが、とある山中で道に迷っておりました。仙人なんだから道に迷わないだろう、という突っ込みは今はなしです。まあ、ともかく冬の寒い夜にとある山中で仙人が道に迷っていたのですよ。その仙人さん、もう何日も食べ物をとっていませんでした。雪を食べてみたり、湧水を飲んだりして過ごしていました。もうよろよろですな。そんな仙人さんを山のサルとウサギと・・・もう一匹なんだか忘れてしまいましたが、もう一匹の動物が見つけたんですな。で、その三匹の動物たちは、仙人さんを助けようと話しあいます。それにはどうすればいいか?。一匹が言いますな。「まずは火を起こそう。そうすれば暖もとれる」。別の一匹が言いますな。「食べ物を探してこよう。木の実でも何でもいいから食べられそうなものを探してこよう」。話はまとまって、火が着きそうな木を拾ってくるもの、食べ物を探してくるもの、と別れました。サルは木をたくさん拾ってきて火をおこしました。他の一匹も木の実やキノコなど、食べられそうなものをたくさん取ってきました。仙人さんは動物達の好意を喜び、彼らに感謝しますな。ありがとう・・・と。しかし、ウサギがなかなか帰ってきません。ウサギはいくら探しても食べ物を見つけられなかったのです。なにも見つけられず、肩を落として申し訳なさそうにウサギは帰ってきました。そのウサギをサルたちは責めますな。仙人さんは、まあよいではないか、もう十分だよ、と言っております。が、サルたちはしつこくウサギを責めます。ノロマ、バカモノ、ぐーたら、さぼってんじゃねぇぞ・・・と。ウサギは、辛くなりますな。で、自ら火の中に飛び込みます。私を焼いて食べてくださいと・・・。仙人さんは焼けただれたウサギを火の中から取り出し、天に向かって掲げますな。すると、ウサギは輝きだし、天へ昇って行ったのです。仙人さんも輝きを放って天へ飛んでいきますな。実はその仙人は帝釈天だったのです。ウサギはお釈迦様の前世ですな。菩薩と呼ばれております。帝釈天が言いますな。
「菩薩よ、また一つよい修行ができましたね。これで徳が一つ積めました。ですが、仏陀への道はまだまだですぞ」
これで話は終わるのですが、突っ込みどころ満載ですよね。此れのどこが教訓になっているのか、さっぱりわかりませんな。
そもそも、この話は、帝釈天が菩薩を試している話です。菩薩と帝釈天の関係は、帝釈天の方が遥かに下でしょう。ここは、「菩薩様、試してすみません」でしょう。まあ、そのように書いてある本もありますけどね。帝釈天が上から目線過ぎですな。後の大乗仏教ではあり得ませんな。これじゃあ、帝釈天の方が菩薩より上となってしまいますからね。
内容に関して。言いたいことはわかります。自己犠牲ですな。他人を助けるために、自己を犠牲にしましょう、ということです。それはわかります。わかりますが、極端すぎるでしょう。それに、こんな自己犠牲は推奨できませんな。
サルたちの態度も悪いですな。こんな話をしたら、いじめを認めることになります。これ、完全にいじめですよね。できない者を徹底的にいじめて死に追い込む。怖い話ですな。仙人も仙人で、止めなよ、と思いますな。で、火の中に飛び込んだウサギをすぐに救いなよ、と思いますな。火に飛び込んですぐなら、火傷も大したことないでしょうに。たかが仙人の命を救うために、お前が犠牲になることはない、というのが仙人の立場でしょう。話に無理があり過ぎですな。
ですが、この話が自己犠牲の美しい話として紹介されたりするんですな。バカげていると私は思います。こんな話、美しくとも何ともありません。こんな自己犠牲は正しいとは思えませんな。こんな話を素晴らしいと思ってしまうから、会社の犠牲になって自殺をしてしまう人が出てくるんですよ。それは正しくないことです。
この話を編纂した修行僧に言いたいですな。「間違っていますよ」と。こんな話を説いたら、会社のために犠牲になることを受け入れる人を造ってしまいます。命というものは、もっと大切にするものです。仙人であろうが、そのために死を選んではいけませんな。ウサギは、仙人の懐の中に入って、仙人を温めればいいのですよ。それがウサギの仕事でしょう。自分にできる範囲の仕事でいいのです。それ以上の犠牲は強いてはいけないのですよ。
ホント、むちゃくちゃな話だと思いますな。

もう一つ。これもジャータカですな。有名な話です。捨身居士と題名が付いている場合がありますな。
昔々、インドのある国に立派な王子様がいました。その王子様は見目麗しく、また人々にも好かれる、将来を期待された王子様でした。その王子様、ある日ある時、鹿狩りに出かけます。鹿を追い、王子様は山中深く入っていきますな。お付きの者たちもそれに続きます。王子様、ふと鹿が逃げた方向とは違う方に馬を向けますな。そちらは崖になっておりました。お付きの者も心配になり、ついていきます。中には止める者もいました。そっちは崖です、危険ですよと。王子様、それに構うことなく、崖下をのぞきますな。すると、そこには、腹をすかせた虎の親子がいたのです。母虎は、もう腹ペコだったのでしょう、ぐったりと横たわっております。子供虎たちも母虎の周りに力なく倒れ込んでおりますな。王子様、それを見てこう言います。
「ふむ、どうやらあの親子の虎たちは、腹がすきすぎて動けないようだ。このまま放っておけば、あの親子の虎たちは死んでしまうなぁ。さて、どうしたのものか・・・」
王子様、考え込みますな。お付きの者たちは、「これが自然のおきてです。さぁ、帰りましょう」などと王子様を促しますな。しかし、王子様、考え込んでその場を動きません。そして、
「うん、これしか方法はないな」
というと、馬を下りて、崖をするすると下りていきますな。お付きの者が止める間もなく、王子様は、崖下にいる親子虎の前に立ちますな。そして、
「さぁ、我を食え」
と母虎のすぐ近くに横たわります。が、母虎は、王子様を襲う気力すらないようで、王子様に噛みつこうともしません。上では、お付きの者たちが「王子様、上がってきてください、危険です」と叫んでいますな。中には、恐る恐る崖を下りようとする者もいますな。王子様は、「こっちに来るな」と叫んで、それから
「なんだ、そんなに弱っているのか。仕方がない。これなら食えるだろう」
と言いますな。そして、自分の腹を持っていた短刀で刺します。王子様の腹から血が流れだしますな。その血の匂いを嗅いで、母虎はようやく王子様に食らいつきますな。こうして虎の親子は、王子様を食べて元気を取り戻しますな。すると、半分ほど食われた王子様が急に輝きだし、天へと昇っていくのですな。その姿を母虎は眺めています。王子様が天へと消えると、母虎も輝きだし、天へと昇っていきますな。そして、
「菩薩よ、最後の試練を汝は乗り越えた。菩薩であることもこれで終わりだ。長い間、菩薩の試練をすべて乗り越えた汝は、仏陀となるであろう」
と言います。それは、帝釈天だったのです。帝釈天は、菩薩が試練に打ち勝つかどうかを見届ける役割だったのです。こうして、菩薩は、すべての試練を乗り越え、釈迦牟尼仏として仏陀になったのです・・・。
とまあ、このような話です。細かいところは、多少の違いはあるかも知れませんが、概ねこのような話ですな。この話を捨身居士の話と言います。
この話を初めて読んだとき、全くナンセンスだと私は思いました。こんなことを言っているから、仏教は誤解されるのだ、とね。その感想は、今でも変わりません。あまりにもバカバカしい内容だとしか思えないですな。
この話も自己犠牲です。確かに、自己犠牲は、いかにも日本人が好きそうな話ですな。この話は、もう古くから語り継がれておりますな。江戸時代以前から武士の間では、美談として語り継がれております。
まあ、自己犠牲ですから、ある意味美談かも知れません。ですが、たとえ話が悪すぎますよね。だいたい、馬で行ける距離に飢えた親子虎がいるのです。さっさと王宮に戻り、肉を持ってくれば済む話ですな。そんな時間はない、その間に親子虎は死んでしまう、というのなら、自分が犠牲にならずに、まずは馬を与えるべきでしょう。
王子様、自分の立場わかっているのかい?と問いかけたいですな。あなたが生きていれば、一体どれだけの人々を救えたであろうか?。虎の親子を救うどころの話ではないでしょうに。その心意気があれば、その国の貧しい人々をたくさん救うことができるでしょう。王子様のやるべきことは、飢えた虎の親子の救済どころじゃないでしょう。国には、きっともっと大勢の貧しい人々がいるでしょう。その人たちを救うことの方が先ではありませんか?。
皆さん、そう思いません?。これのどこが美談なのでしょうか?
この話は、こうすべきですな。
飢えた親子の虎を見た王子様は、
「わが国にも今日の食を得られない貧しい人々が住んでいる。彼らのために私ができることは何であろうか?。この国から貧困をなくすにはどうすべきか?。いや、もし戦争がはじまって、わが国が負けてしまえば、わが国の人々は、すべてあの飢えた虎のようになってしまうであろう。そうだ、戦争がなく、平和で貧困のない社会にしなければいけないのだ。私の役目はそこにある!」
と決意すべきでしょうな。で、その間に、お付きの者にお城へ行って肉を持ってこさせ、その肉を崖下に放り投げる・・・べきでしょうな。だいたい、お釈迦様は、四門出遊の際に、この世の無常を覚るではありませんか。ならば、崖下の飢えた虎みたら、「あぁ、この世は無常だな」と悟るべきでしょう。そのように話をもっていかないと、前世が立派にならないですな。これだから、小乗と揶揄されるようになるのですよ。目の前の困っている者だけが、困っている人ではないのです。もっと大勢が救われるような、そんな教えでなければならないのですな。目の前の虎を救えばいい、そのために自己を犠牲にしなさい・・・そんな教えは、ダメです。そんなことを教えたら、会社のために犠牲になれ、社長のために犠牲になれ、勝利のために犠牲になれ、俺たちの快楽のために犠牲になれ、私のために犠牲になれ・・・という考え方が身についてしまいますな。いや、日本人の中には、こうした考え方が根強く残っているのは否定できませんよね。それを助長したのは、この捨身居士の話でもあるのです。

あまりにも単純な美談を創り上げてしまった当時の修行僧たち。彼らは、自分たちが仏陀になれないから、お釈迦様は自分たちとは違うんだ、という言い訳のために、本来の仏教の精神を歪めてしまったのです。だからこそ、小乗仏教と揶揄されたのでしょうし、大乗仏教が誕生したのでしょう。自分が犠牲になればいい、といって一人それに酔っている・・・それは、本来の救いとは全く異なることですな。誰も犠牲にならずに、誰も犠牲にせずに何とかしようと考える・・・、それが大事なことでしょう。それこそが本当の救いでしょう。
どうも日本人は、犠牲心が好きすぎますな。自分が犠牲になって誰かを助ける・・・ということに快感を覚えるというか、それこそがヒーローだ、みたいなところがありますな。そんなのは、本当は全くヒーローじゃないですな。ヒーローは、誰も犠牲にせずに、誰も傷つけることなく、丸く収める・・・それでしょう。それが理想のヒーローですな。
自己犠牲をカッコイイなんて思ってはいけません。自分が犠牲になればいい、なんて思ってはいけません。そんなのは、カッコよくもないし、褒められたことでもありません。
君が犠牲になればいい、あなたが犠牲になって導くべきだ、なんて他人に犠牲を押し付けるようなことはしてはいけません。犠牲者なんて、一人も出しちゃだめだ、というスタンスにたって話をするべきでしょう。
自己犠牲なんて美談でも何でもありませんな。

だからこそ、ジャータカに載っているこの二つの話は、美談でもありませんし、仏教の精神にも反するものなのですよ。こんな話を未だに仏教の美談だと言って紹介する方がいますが、そういう方は、仏教を知らない方なのですよ。
仏教には、このように、「あれ?おかしいぞ」、「納得できない」という話がたくさんあります。そうした話を全て鵜?みにせず、おかしいことはおかしいというべきでしょうし、納得できないことは納得できるまで考えるべきですな。お経にあるからと言って、何でもかんでも信じてしまうような、そんは愚かなことはダメですよね。
気を付けないと、お経のとんでもない話を持ちだして、騙そうとするインチキ宗教家に、まんまと引っかかってしまうかもしれません。何でもかんでもありがたがってはいけませんよね。
合掌。



第二十七話 仏壇について
先日のこと。とある通夜の際にこんな話が出ました。最近は、葬儀を行わない家庭が増えている・・・と。
以前、どこかで葬式は必要だ、という話はしました。あの世へ送る儀式として必要ですし、その内容は仏様の弟子となるための儀式を行ってもいるのだ、と。それが、最近では、葬儀を行わず、直接火葬場へ送ってしまう直葬が増えているのだそうです。悲しいことだと思います。亡くなった方は、その生のけじめもつけらず、放り出されてしまうのです。いくら費用がかさむとはいえ、亡くなった方の身にもなって欲しいですね。また、費用がかさむような葬儀をしなきゃいいのです。高額な葬儀を提案する葬儀屋は断固断ればいいのだし、高額なお布施を要求するお寺は、辞めてしまえばいいのです。檀家寺なんぞ、変えてもバチは当たりません。エラそうな物言いの坊主や高額なお布施を要求するような坊主のお寺なら、違うお寺に変わってしまえばいいのです。同じ宗派なら何も問題はありません。違う宗派でも、仏教内なら問題はありませんからね。費用なんぞできるだけかけないで、質素でいいから、葬儀はすべきですな。

こんな話も出ました。葬儀はしました。しかし、「仏壇は置きたくない」と言って、仏壇を置かない家も増えているそうで。そういう方は、
「家の雰囲気に仏壇が似合わない」
「和室がないから、仏壇は置きたくない」
「陰気クサイから仏壇は置きたくない」
と主張しているのですな。まあ、何とも悲しいことだと私は思います。最近では、昔ながらの仏壇ではなく、洋風の仏壇もあります。そういう仏壇ならば、洋室にも合うと思うんですけどねぇ。まあ、陰気クサイと言われればそうかもしれませんが、明るい仏壇もあるといえばありますしねぇ。まあ、結局のところ、本音を言えば、
「あんたのお父様やお母様の仏壇を置くなんて、絶対いや!」
ということなのでしょうな。その家の奥様の本音は、そういうことなんでしょう。
しかも、仏壇があると、毎朝ご飯をお供えしなきゃいけなし、お水とかもあげなきゃいけないし、お花もお供えしなきゃいけないし、ローソクだって火が危ないし、線香なんてたいたら部屋が臭くなるし、煤で黒ずむし、火事になったら怖いし・・・などなど、いろいろ理由があって、面倒くさいんでしょうな。皆さん働いておりますしね。専業主婦じゃなきゃ、仏壇のお世話も大変かもしれませんな。

しかし、私は仏壇もあったほうがいいと思います。葬儀が終わったら、四九日までには、お位牌を造り、仏壇を用意して、仏様を祀るのは、必要なことだと思いますな。それは、省略するべきことではないと、私は思いますな。仏壇は亡くなった方の家でもありますし、またあの世とこの世を結ぶ装置でもあります。仏壇を通じ、御先祖や仏様とつながっていくのですな。

基本的に、あなたのお父様やお母様、あるいはご家族のどなたかが亡くなった場合、お葬式をおこないます。まあ、今ではたいていは病院で亡くなることが多いですな。知っている葬儀屋さんがあればいいのですが、無い場合は、こっそり病院が紹介してくれますな。檀家寺がある場合は、ご遺族の方はすぐにお寺に連絡を入れますな。檀家寺がない場合は、葬儀屋さんが、その家の宗派を聞き、宗派が分かれば、同じ宗派のお寺さんを紹介いたします。宗派が分からなければ、適当な宗派を選び・・・遺族の方の好みの宗派があればそれに合わせて・・・お寺さんを紹介してくれますな。こうして、葬儀へ向けて、あれよあれよという間に進んでいきます。
葬儀が終わると、火葬場に行き、お骨にいたします。戻ってきて、初七日を行いますな。で、その後は、丁寧なお寺さんなら、7日ごとの御供養をいたします。ご遺族の方、これをさぼってはいけませんよ。7日ごとの御供養は必要なjことですから。
「え〜、そうやってお金を取るんでしょう」
などとうがった見方をしてはいけません。亡くなった方は、7日ごとに裁判があるのですから、その裁判が有利になるように供養は必要なのです。「7日ごとの供養なんてしなくていいよ」というお坊さんならば、あの世のことを知らない勉強不足の坊さんですので、信頼はできません。お気を付けください。7日ごとの供養を頼んでもやってくれないようなお坊さんなら、その場でそのお寺とは縁を切りましょう。で、信頼できるお寺さんにその後の供養を頼んだ方がいいですな。
で、49日がやってきます。49日が終われば生まれ変わり先が決まりますので、49日は大事な法要ですな。絶対にやってください。49日もやらない家庭が増えているそうですが、これはやらなければダメです。7日ごとの供養をすっ飛ばしても、49日だけはやらなきゃいけません。何度も言いますが、「お金儲け」のためにやっているのではありません。亡くなった方が、生まれ変わるための儀式でもあり、またその方がいいところへ生まれ変われるように祈るための儀式でもあるのです。なので、49日は、絶対にしましょう。

さて、49日には、用意するものがあります。それは仏壇とお位牌です。もともと仏壇がある家ならば、用意するものは亡くなった方のお位牌のみです。
仏壇がない場合は、すべて初めから用意しなければなりません。まず、仏壇をどういうタイプにするか、から始まります。
一般的には、宗派によって様式が異なります。浄土真宗は、キンキラキンの派手な仏壇ですな。これは阿弥陀様の極楽浄土の再現なのです。なので、金ぴかなんですな。他の宗派は、割合黒っぽい仏壇です。浄土真宗が特殊なんですな。
で、葬式をしたお寺さんの宗派にあわせて仏壇を選びます。仏壇は、仏壇屋さんへ行けば売っておりますな。葬儀屋さんが売っている場合もあります。どこで購入されてもかまいませんが、アフターケアがあるところがいいですね。値段も多少、仏壇屋さんによって異なるので、いろいろ尋ねてみるのもいいでしょう。
なお、仏壇の大きさですが、そんなに大きくなくてもかまいません。家のサイズに合わせて購入すすべきでしょう。昔は、大きな仏壇を持つことがステイタスだ、なんていう時代もありまして、特大な仏壇(いわゆる一間仏壇)が置いてあるお宅がありますが、全くそんな必要はありませんな。あれは、はっきり言ってお荷物になります。仏壇は、小さくても構いません。
仏壇選びは、一応、宗派にのっとった仏壇を選びますが、最近ではモダンな仏壇も出ております。そういう仏壇でも私は構わないと思います。なので、シックな仏壇や洋風の仏壇であっても構いませんな。ただし、本尊さんをお忘れないようにしてほしいですね。
仏壇には、本尊様が必要です。以前、都会の方の家の仏壇をお参りに行ったとき、その家の仏壇には本尊様がいなかったということがありました。普通は、仏壇に本尊様の掛け軸をかけますな。仏像を置く場合もあります。いずれにせよ、その宗派の本尊様が仏壇の中にはいらっしゃるのです。それがない、というのはダメですな。仏壇の意味がありません。
仏壇は、ミニお寺です。お寺さんへショッチュウお参りに行けないので、家でお参りするためにミニお寺として仏壇を置くのです。なので、菩提寺の宗派に合わせた本尊様を仏壇にも祀るのですよ。
まあ、たいていの場合、仏壇を購入した際に、仏壇屋さんは宗派を尋ねてきまして、その宗派の本尊様や脇侍の掛け軸を用意してくださいます。ついでに、必要な道具類・・・ローソク立て、線香立て、お花を入れる花瓶、仏飯器、御湯呑み、お鈴など・・・を用意してくれます。まあ、必要最低限は、今書いたもの(五具足と仏飯器と言えば大丈夫です)ですが、そのほかにも、経見台だの、経机だのを勧めてくる場合もありますので、必要最低限のものだけにしておきましょう。あとからだって買えますからね。

お仏壇のほかに必要なものは、お位牌です。亡くなった方の戒名を記したお位牌ですな。それとともに、その家の先祖代々のお位牌も作ったほうがいいですな。「〇〇家先祖代々之霊位」などと書かれている位牌ですね。やはり御先祖あっての我々ですから、先祖の位牌はないといけませんな。で、このご先祖のお位牌を仏壇の中央に置きますな。亡くなった方のお位牌は、そのわきに置きます。ローソク立て、線香立て、花瓶を置き、仏飯をお供えすればOKですな。まあ、わからないことは、49日の法要に来られた和尚様に尋ねてください。
ちなみに、ローソクですが、法要の際にはローソクのほうがいいですが、普段は電球タイプのローソクでも構いません。あれは、光が大事なのです。なので、炎でなければならない、というわけではありません。炎でなければならない、というのであれば、よくお寺さんに掛かっている灯篭の光も灯明にしなければなりませんな。お寺さんに掛かっている灯篭の明かりは電球ですからね。仏壇も同じです。お寺さんがお参りに来るときはローソクのほうがいいでしょうが、普段はローソク型の電球でOKです。
ただし、線香はお線香をたいたほうがいいです。これも、最近では煙が出ないだの匂いがしないだの、という線香がありますが、こういう線香はいけませんな。お線香はいい香りで、煙が出る線香がいいですね。お線香の煙や香りは、亡くなった方の食事でもありますから(食香・・・じきこう・・・といいます)。
また、お線香を折って使ってはいけないというお坊さんがいますが、それはウソです。お線香は折って使っても大丈夫です。なんで、そんな根拠のないことを言うのか、私にはわかりませんな。
仏飯ですが、これも毎日となると大変ですね。毎朝、ご飯を炊く家はいいでしょうが、そうでない家庭も多いですね。パン食の家もありますから。なので、毎日ご飯をお供えしなければいけない、ということもありません。何か食べ物をお供えすればいいのです。菓子パンだっていいし、お菓子類でも構いません。故人の好きだったものならば更にいいでしょう。洗米でも構いません。食べられるものなら、問題はないですな。
それと、たまに仏壇の扉を閉めてしまっている家庭がありますが、扉は開けておいたほうがいいですな。何も怖いものではありませんからね。「先祖が子孫にたたる」なんてことはありませんから。仏壇の扉は開けておきましょう。

日本人は、固く考える癖がありますよね。昔ながらのことだから、といって、頑なに昔の作法を引き継いでいます。それも確かに必要なことですが、中には迷信的なこともあります。意味のないことや、代わりがあるじゃないか、ということもあります。なので、昔ながらの伝統にこだわらず、無意味なことや迷信的なことは、どんどん排除していったほうがいいでしょう。代用品があるなら、それでもかまわないでしょう。何も、頑なに昔ながらのやり方を守っていかねばならない、ということはないのです。そのあたりは、柔軟に考えたほうがいいと思いますな。
そう思えば、仏壇の面倒を見ることも億劫ではないと思います。ローソクだって電球型でいいし、線香だって折って使えば数分くらいしか燃えてません。火事の心配もないですな。お供えだって、菓子パンを備えれば、2〜3日はお供えしなくてもいいですし。まあ、お茶とかお水くらいは、毎日でも億劫ではないでしょう。で、時々、ハンディーモップでホコリを取ればいいのですから。そうたいしたことではないですよね。なので、仏壇を嫌わないでほしいですな。

家に仏壇があり、手を合わす姿を子供に見せるのは、いい教育だと思います。人間よりも優れた存在があり、その存在に感謝をする姿は、美しいものです。何かに手を合わす、祈る、頭を下げる・・・そうした姿を幼いころから見ていたお子さんは、宗教心が育っていますな。なので、他人にも親切だし、人の意見も聞けるようになりますな。威張ってばかりいる家庭に育つお子さんとは、どこか違いますよね。祈る姿を見せることは大事な教育ですな。
なお、仏壇にお願いをしてはいけない、ということをよく言いますが、まあ、その通りですな。願うなら、家内安全ですね。家族のことを見守ってくださいね、程度でしょう。まあ、御先祖様は、その家の守護霊なのですから、その家を見守る義務がありますからね。ですから、「見守ってください」くらいは願ってもいいですな。その他の願い事は、NGですな。願い事がある場合は、お寺か神社へ行ってください。

以上、人が亡くなってからの流れと仏壇についてお話いたしましたが、もし分からないようなことがあれば、お寺さんに聞くか、当方にご質問のメールをください。
葬式なんて意味がない、必要ない、仏壇なんていらない・・・などと根拠のないまま言わないで、葬式の意味や仏壇の意味を知ってから、葬式にしても仏壇にしてもどうするかを決めてほしいですな。決して、お金がもったいないから、という基準では決めてほしくないですな。節約しようと思えば、費用は節約できるのですから・・・。金銭ばかりではなく、心のことも考えてほしいですね。
合掌。


第二十九話 最終回です
山川草木悉有仏性という言葉があります。意味は、「山や川、草木にいたるまで、すべてに仏性が存在する」ということです。仏性とは、仏になれる素質のことです。つまり、ブッダと同じ悟りを得られる素質を誰もが持っている、人だけでなく、動物も山や川も草木もすべての存在が悟りを得られる素質を持っている・・・ということですね。
山や川、草木に至るまで、それらは悟りを得られるのか?、と思われるでしょう。この説によれば、そこら辺の石ころにだって仏性がある、ということになり、悟ることができる、ということになってしまいます。その辺にある石ころが?、と疑問に思うのは当然ですな。ですが、お経には、そう書かれているんですなぁ。

人には仏性があります。それは理解できると思います。どんな人でも、どんな悪人でも仏性が備わっておりますな。しかし、その仏性は、なかなか表に出てきてくれません。深い闇の中に潜んでいることもあります。あるいは、仏性にたくさんのゴミや欲望などが張り付き、仏性に至るまで相当な心の掃除をしなければいけない場合もあります。また、ほんのちょっと掃除をしただけで仏性が現れることもあります。悪人は、仏性がほこりまみれでゴミまみれで泥まみれ、ということですな。善人は、仏性にうっすらと汚れがついている程度でしょう。
しかし、どんな人であっても、自分に仏性がある、と気が付けば、その仏性を表面に出すチャンスはあるのですな。仏性があることに気が付き、ゴミや汚れを取る努力をすれば、自分の仏性を見つけることができるのです。どんな人であっても。ま、ゴミや汚れを取る努力が大変なんですけどね。それを機能的にできるようにしたのが、お坊さんの修行ですな。

しかし、この修行も宗派によって異なります。真言・天台・禅・法華などは、結構厳しい修行がありますな。浄土もまあまあの修行があります。ところが、浄土真宗だけは、修行がありません。たぶん、浄土真宗では仏性にこびりついた汚れは落とせないんじゃないかな、と思いますな。
とはいえ、既定の修行をすれば仏性は現れるのか、と言われれば、答えはNOですな。既定の修行をして、仏性が垣間見える、ちょこっと顔を出す、という人はいるでしょう。しかし、仏性が顕わになり悟りを得る・・・という人はいませんね。なので、既定の修行が終わってからの修行が大切ですな。仏性が現れ、悟りを得るまで修行は終わりませんな。いや、悟りを得たとしても修行は終わりにならないのです。
では、仏性を顕わにするためには出家しなければいけないのか、在家のままでは悟れないのか・・・と言われると、それも答えはNOですな。在家のままでも悟れる人はいるでしょう。自分の仏性に気が付き、欲を抑え、感情をコントロールし、周囲には親切で、何に対しても冷静で責任感もあり、いつも穏やかでニコニコしている・・・。そういう人になれないことないですからね。そうなるためには、自分にも仏性があると信じ、信仰を続けて、仏様に近付こうと努力をすれば、仏性が表に出てきてくれますな。なので、在家でも悟ることは可能です。

さて、人には仏性があるといううことは、ご理解いただけたと思います。その仏性の見つけ方も・・・難しいですが。では、動物はどうなのでしょうか?。
動物は、まず自分に仏性があることに気が付きませんな。なので、悟ることはできません。仏性がない、訳ではありませんな。あるのだけれど気が付いていないだけです。あるけどない、ということですな。もし、動物が自分にも仏性があるのではないか、と気が付けば、悟ることは可能ですな。門前の小僧ならぬ、門前の犬がお経を覚え、そのリズムを「わんわんむにゃむにゃ」というかもしれません。そうなれば、次に生まれ変わった時は、そのお寺の小僧になれるでしょう。そうなれば、前世は犬だった者でも、仏性があることに気が付き悟ることはできますな。
ということで、動物であっても、自分に仏性があることに気が付きさえすれば、悟ることはできるのですよ。動物は、気が付かないだけですね。

では、山や川、草木はどうなのでしょうか?。仏性は本当にあるのでしょうか?
木や草はあるかも知れません。命がありますから。山や川は?・・・どうなんでしょうかねぇ。でもね、お経に書いてある以上、仏性があるはずです。
私は思います。山や川、草木などの自然にあるのは、神々であるのだと。実際、山の神は存在していますな。古くからそう言われております。川の神だっています。弁財天さんがそうですな。木の神だっています。樹神(じゅしん)と言いますな。となれば草だって、小さな神様がいるかもしれません。いや、きっといると思います。ならば、その辺の石ころにだって、小さな神が宿っている可能性がありますな。山からとった石ならば、山の神の分身が宿っているかもしれませんし。
ということは、そこら中に神様がいる、ということですな。
神様は、当然仏性があるでしょう。人間の上の存在ですからね。仏性がない・・・なんてことはあり得ませんな。そこら中に神様が存在してるのですから、そこら中に仏性だらけ、ということになりますな。よって、山川草木悉有仏性、となるわけです。

神様がそこら中にいるならば、仏様はどうなんでしょうか?。山川草木悉有仏性とは、そこらじゅう仏性だらけという意味ですな。ということは、そこら中仏様だらけ、とも言えますな。この世のすべての存在に仏性が宿っているのです。仏性は仏様の卵のようなものですな。ということは、そこら中に仏様の卵・・・まだ仏様になっていない状態のもの・・・がある、ということです。
つまり、そこらじゅう、仏様だらけ、ということですな。

この世は、目に見える現実世界と並行して、精神世界・・・魂の世界・・・が存在しております。目に見えないだけでね。つまり、普通に幽霊や妖怪が存在している世界が現実世界と並行して存在しているのですよ。信じ難いかもしれませんが。それに気付いた人だけが、その存在を知ることができるんですな。たとえば、故水木しげる先生のように。
そう、あなたの周りにも見えないだけ、感じないだけで、精神世界に生きるものが存在しているのです。あなたの周りには、神様や仏様が存在しているのです。もちろん、悪魔も妖怪も幽霊も存在しているのです。だから、精神力の弱いものには悪魔がささやくんですな。「悪いことしちゃおうぜ」って。精神力が弱いと幽霊が「その身体、乗っ取ってやろうかしらん」と狙われるのです。さらに、妖怪にもからかわれますな。精神力が弱く、我がままばかり言っていると悪魔や幽霊、妖怪に狙われてしまいますな。
反面、神仏を信じ、自分の周りには神様や仏様、御先祖様がいて、自分を守ってくれているのだと信じ、信仰厚く、先祖を敬い仏教を聞くことがあれば、幽霊も妖怪も悪魔も近付きませんな。むしろ、自分の仏性についた汚れを落とすことができます。

神様や仏様、御先祖様はすぐそばにいます。そこら中にいます。周りを見れば、神様や仏様だらけです。さぁ、皆さん、信心の眼をもって世間を見渡してみましょう。そうすれば、
「山川草木悉有仏性」・・・そこら中、神様仏様だらけ
ということが理解できるでしょう。それが分かれば、自分の仏性も磨くことができるのですよ。
どうか、皆さん、自らの仏性を磨き、悟りに近付いてくださいね。かくいう私も日々・・・たまに怠りますが・・努力しております。修行に終わりはないですからね。

ということで、この「仏様神様、よもやばなし」はこれにて終了とさせていただきます。今まで、ありがとうございました。
合掌。



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