バックナンバー15・高僧部

高僧部

徳 一

今回は、掲示板でリクエストがありました、徳一さんについてお話いたします。同じく、掲示板にありました、「真言宗未決文」についてのことも触れておきます。なお、詳しくは書きません。詳しく描いても分からないからです。それよりも、なぜお大師さんが徳一さんの質問に答えなかったのか、ということに触れておきます。

徳一さんは、「とくいち、とくいつ」と読み方が二通りあります。密教辞典では「とくいち」と統一しておりますが、一般的には「とくいつ」と読むほうが多いようです。生没年月日は、一般的には不詳となっておりますが、これも密教辞典には749〜824年となっています。平安初期の高僧であることには間違いはありません。
宗派は、当時の南都仏教・・・法相宗・・・・ですね。その南都仏教のグループでは、最も優れた僧という評判でした。
生まれは、藤原仲麻呂の4番目の子という説がありますが、どうもこれは怪しいという説もあります。いずれにせよ、そのあたりは正確には伝わってはいないようです。幼少のころの事柄も正確には伝わっておりません。なので、子供の頃のことや出家した年齢などは、よくわかっていないようです。

興福寺の修円という僧に弟子入りし、法相を学びます。唯識学ですね。が、修円という僧は、単なる唯識学の僧ではなかったようです。元来の法相宗にはない、山岳宗教的な要素を取り入れて弟子を導いていました。それは、自然に溶け込むことにより悟りを得る・・・・という自然智宗(じねんちしゅう)とも言われていたそうです(今では、もうない宗派だと思います)。ですので、徳一も山などを歩き、自然と親しんだようです。
興福寺で学んだあと、東大寺に入りますが、東国に旅に出ます(一説には、父・仲麻呂が失脚したため、東国に流された)。当時の南都仏教は、貴族に取り入った僧が出世をするという、いわば僧侶が腐敗した状態でした(だからこそ、のちに最澄やお大師さんのような高僧が生まれたのですが・・・・)。徳一はそれに嫌気がさして東国に旅に出たのだと言われております。

徳一が訪れた先は、会津磐梯山のふもとだったそうです。当時の磐梯山付近は、天候不順で作物ができず、人々は飲まず食わずのような生活をしていたそうです。そこへ現れた徳一、小さなお堂を建て、一心に御祈祷をしたそうです。すると、天候不順は治まり、作物が次第に取れるようになり、人々は飢饉から救われたそうです。徳一は、そのまま磐梯山のふもとに滞在し、小さなお堂は恵日寺(えにちじ)という名の寺になったのだそうです(地元の伝説では、磐梯山に住む手長・足長という悪い妖怪を徳一が御祈祷でやっつけた・・・となっているそうですよ)。
で、恵日寺を拠点に人々を救うための教えを説いたのです。
徳一を慕うものは大変多く、大勢の弟子ができるようになりました。また、その評判は他の国へも伝わり、徳一は布教の旅に出たようです。晩年には筑波山に中禅寺も開きます。それだけではなく、福島・群馬・栃木・茨城などに数多くの寺を開くのです。その数、33か所にも及んだ、と言われています。当時としては、精力的に布教の旅に出ていた僧侶であるといえるでしょう。その当時のお坊さんと言えば、多くは大寺に住まい、威張っていた・・・・という存在でしたから。
そのため、大変多くの弟子ができ、一時は恵日寺だけでも300人近くの僧侶がいた・・・とも言われていたくらいでした。

さて、徳一といえば、最澄との論戦が有名です。唐から帰って来て、飛ぶ鳥も落とす勢いの最澄に真っ向から論戦を挑んだのです。最澄さんは、南都仏教の僧をことごとく論破していました。しかも、南都仏教では人々は救われぬ、と主張し、南都仏教を低い教えと位置付けていました。その最澄さんに負けなかったのが徳一さんなのです。
その論争は大変激しいもので(論争と言っても、手紙のやり取りです。書簡により、論争を繰り広げていたのです)、それは最後まで続きます。
何を言い争っていたのか、といえば、たとえば例をあげれば、最澄さんはすべての者が救われるとしたのに対し、徳一さんは人によっては救われない者もいる、ということを主張していたのですね。最澄さんは法華経をもとに、徳一さんは現実を直視して論争を繰り広げていたのです。いわば、最澄さんは理想論を、徳一さんは現実論を・・・というわけです。
なので、論点や立場がずれている以上、それはかみ合わないのです。どっちも間違ったことを言っているわけではありません。見る方向が異なっているだけなのです。それに気がつくことなく、二人は戦っていたのですね。どちらも正しいのですよ。言い争うほうがおかしいのです。

徳一さんは、最澄さんにしたのと同じようにお大師さん(空海)にも論戦を挑みます。それが「真言宗未決文」と言われるものです。しかし、お大師さんは徳一さんの質問状に答えませんでした。それどころか、お大師さんは徳一さんを菩薩とまで呼び、弟子を送ったりしたりもしていました。お大師さんは、徳一さんが人々のために尽くしていることを尊敬していたようです。なので、論戦などしたくなかったのでしょう。それに、やはり立場が違う以上、それは論じてはいけないのだ、と思っていたのではないかと思います。たとえば、真言宗未決文にある徳一さんの質問に、
「即身成仏と言うが、それは疑わしい。なぜなら、六波羅蜜(布施・戒律・忍耐・精進・禅定・智慧)を修行してこそ成仏できるからだ。真言の教えでは六波羅蜜を無視しているのか。どうとらえているのか?」
というものがあります。お大師さんにしてみれば、これはナンセンスでしょう。密教の立場を全く理解していない質問です。密教は、六波羅蜜などという大乗の修行は関係ないのです。初めから悟っているのですからね。身体と口と心を如来と同じすれば、おのずから悟ってしまう、というのが密教です。山登りで例えれば、ヘリコプターで一気に頂上へ行くようなものです。六波羅蜜を修行しながら、下からせっせと歩いてくるわけではありません。いきなり頂上ですから、六波羅蜜の修行がしたければ、頂上から下りていけばいいのです。六波羅蜜を修行しなければ悟れないではないか、という質問自体が密教ではありえないのです。
もし、お大師さんがそれを徳一さんに説明いていたならば、徳一さんはどう思ったでしょうか?。
「質問自体がずれてますよ、徳一さん、あなた密教が分かっていないですよ」
などと言えば、徳一さんはどう思ったでしょうか?。お大師さんは、尊敬していた徳一さんに対し、非礼なことはしたくなかったのではないかと思うのです。密教とは、それほど理解するのに難しい教えです。なので、それを徳一さんに告げるのは、「あなたは理解力がないんですよ」というようなものでしょう。なので、あえて答えなかったのではないでしょうか。それが優しさなのではないかと思います。
後々、お大師さんの弟子たちが徳一さんの質問状に答えを出しますが、そんなことをする必要などなかったのですよ。答えを出した弟子たちも、仕方がなく(当時の風潮により)、書いたものなのでしょう。本来は、答えるべきものではないのです。

このように、徳一さんは、自分の信念に基づいて、当時の新人僧侶であった最澄さんやお大師さんに論戦を挑んだのですが、徳一さんにしてみれば、寂しかったのかもしれませんねぇ。時代の流れ、法相宗の教えの衰退が、辛かったのかも知れません。論戦をすることで、自分を奮い立たせていたのかもしれません。
なので、亡くなるまで徳一さんは論戦を繰り広げていたそうです。

なお、徳一さんのご廟は恵日寺にあります。最後は、座ったまま瞑想しているかのように亡くなったそうです。また、恵日寺は、伊達正宗により焼失しましたが、その後再建され、一度は天台宗寺院となったのですが、現在では真言宗寺院となってます。皮肉なものですね・・・・。
でも、それが世の中なのだよ、と思ってらっしゃるかも知れません。

以上で徳一さんのお話は終わります。徳一さんについての詳しい資料が手元にはありません。また、あまり多くの逸話などが残っているようではありません。なので、この程度になってしまいました。詳しく知りたい方は、専門書が出ていますし、また会津には資料館もあるそうです。恵日寺に行けばわかるそうです。地元では、高僧・名僧と言われているようです。機械があったら、訪れてみたいですね。合掌。



慈 雲

この「仏像がわかる」のページも、今回の慈雲さんの話で最後にしようかと思っています。高僧と言えば、ほかにもいっぱいいますが、まあ、この辺りがちょうどいいかな、と思いまして、で、最後に、思い出深い慈雲さんを、ということにしました。

なぜ慈雲さんが思いで深いのか。それは、実は高野山大学の卒論のテーマが「慈雲尊者の研究」だったのです。あのころは、ただただ卒業したいだけで、いい加減な卒論を書いてしまいました。原稿用紙の規定枚数が50枚以上で、私が書いた卒論は確か52枚。表紙を入れて・・・・。なんとまあ、いい加減な・・・(一応、内容は濃かったですけどね。文章もよかったようで、評価は高めでした。ある教授は、「卒論にしては軽いな。これは読みものだ」とおっしゃいましたが、確かにその通りです。否定はしません)。
まあ、ともあれ、思い入れの深い慈雲尊者で最終回を迎えるのがいいだろう、とかねがね思っていたのです。
ですから、今回の慈雲さんの話で最後になります。ご了承ください。

さて、慈雲さん(1718〜1804)、この方は、江戸時代後期の高僧です。実は、多くの僧侶がこの方のお世話になっています。なぜなら、梵字を学びやすくまとめた方なのです。また、なんといっても、袈裟の作り方を、お釈迦様時代にまでさかのぼって研究され、それまでバラバラだった袈裟の裁ち方を統一し、今の袈裟の原型を造られた方なのです。なので、多くのお坊さんが世話になっているのですよ。どんな坊さんも袈裟をつけますからね。どの宗派の袈裟も、基本は慈雲さんが提唱した裁ち方に従っているのですよ。

そんな慈雲さん、生まれは大坂(大阪)です。親は浪人でしたが、裕福な浪人でした。父親は上月安範(こうげつやすのり)といい、播州(現兵庫県)で仕官をしていた下級武士でした。しかし、宮仕えが肌に合わず、武士をやめて大坂に出てきて浪人生活を始めます。浪人と言っても、TVの時代劇のような貧乏浪人ではなく、お金も商才もあったのでしょう。家を何軒か買い取り、それを借家として生活を立て始めたのです。また、学問に明るく、周囲の人や子供たちに学問を教えたり、儒学者が訪れては長期に滞在するなど、多くの人が絶えず出入りする家だったそうです(武士があわなかったんでしょうね。武士よりも商売や学問が好きだったのでしょう)。ですので、家計は裕福だったようです。
そうした環境の中、慈雲さんは七男一女の末っ子として生まれました。幼名を平次郎といいました。

幼いころから儒学者が多く訪れ、儒学について喧々諤々討論し合う家で育ったためか、平次郎君、儒学に早くから目覚めます。また、当時の儒学者は、仏教を目の敵にしていたせいもあり、平次郎君もすっかり仏教嫌いになっていました。やることなすこと小生意気な、理屈っぽい嫌な子供だったそうです。しかも、坊さんを見ると、
「ありもしない地獄や極楽を説いて、人心をたぶらかす、悪い奴。クソ坊主め!」
とののしっていたのですから、分からないものです。毎日、儒学に明け暮れ、少年のころにはコチコチの儒学者になりかけていたくらいでした。
そんな儒学者然とした平次郎君13歳のとき、父親が亡くなってしまいます。平次郎君、父の死に大きなショックを受けますが、もっと大きなショックが待ち受けていました。それは父の遺言でした。
父親がなくなってしばらくしてからのこと、平次郎君、母親に呼ばれます。何かと思って母のもとに行くと、
「平次郎、父の御遺言です。あなたは、田辺(現大阪市住吉区田辺)の法楽寺に行き、僧となるのです」
坊さんが大っきらいだった平次郎君にとってはまさに青天の霹靂。
「それだけは勘弁してください!。私は坊主が大嫌いなのです。あんなものにはなりたくない!。それは父上も母上もよくご存じのはず!」
と声を大にして拒否するのですが、父親の遺言ですから逆らえません。儒学を学ぶ者ですから、平次郎君、父親の言葉には従わねばならないのですね。父に逆らうことは、儒学ではいけないこととなっているのです。
父親も儒学が好きでしたから、仏教は敬遠していました。もちろん、坊さんも好きではありません。しかし、父親にはただ一人だけ、尊敬していた僧がいたのです。それが法楽寺の住職・洪善普摂(こうぜんふしょう)とその弟子・忍綱貞紀(にんこうていき)でした。この法楽寺の僧たちは、当時腐敗していた仏教界を何とかしようと、正しい仏教を復興しようとしていたグループの僧たちだったのです。そんな僧たちだったので、父親も親交があったのです。
で、儒学に凝り固まった息子の将来を心配して、法楽寺に放り込むことにしたのです。荒療治ですね。大変いい父親ですよね。なかなか人を見る目、先を読む目を持っていたと思われます。
しかし、儒学にどっぷりつかっていた平次郎君にとっては、これは地獄の苦しみです。よりによってお寺ですからね。もっとも嫌いなところですからね。が、しかし、平次郎君は頭がよかったのですね。このように考えたのです。
(そういうことなら仕方がない。ならば、徹底的に仏教を学んでやろう。で、仏教が大うそつきのとんでもない教えだということを証明してやろう。)
向こうっ気が強いというか、小生意気というか、そんな少年だったのです。で、母親にきっぱり言います。
「わかりました。父の遺言ならば仕方がありません。法楽寺に行き、僧となりましょう。しかし、10年です。10年間、坊主になり、仏教を学びます。そして、10年たったら還俗して、仏教の教えが嘘であることを世間に公表しましょう。望むらくは、この国から仏教を追いだしてやります。そのつもりで坊主になります!。明日、早速向かいます!」
と宣言したのです。お母様もびっくり。
「そ、そんな、あわてて・・・・」
というのが精いっぱい。平次郎が、言いだしたきかないという頑固者だということはよく知っていたので、平次郎の言う通り、翌日には法楽寺へ出発したのです。
とんでもないお子さんだったようですね。後の慈雲さんからは想像できないような、なんと小生意気な、いやなお子さんだったのでしょうか。これが将来、高僧となるのですから、人の一生というものはわからないものです。

さて、法楽寺についた平次郎。忍綱さんの弟子となります。最初の挨拶が
「今日から仏法を学び、その誤りを知るためにここに来ました。私を10年間だけ弟子にしてください」
というものだったそうです。そういわれた忍綱も流石です。怒ることなく、
「ほうそうかい、そうかい。よしよし、では学ぶがよい」
とにこやかに言い放ったのです。いやはや、なんと豪快な。
平次郎は一生懸命に学びました。また、寺の掃除や庭掃除などの下座行も進んでしました。いつの間にやら、先輩の僧を抜いて、率先してテキパキと動いていたほどでした。何事も、きっちりやらないと、気が済まない性格だったのでしょう。一切手を抜くということはなかったそうです。
寺に入って1年。平次郎君、忍綱さんに呼ばれます。
「そろそろ悉曇(しったん)を教えてやろう。その前に正式に出家したほうがいいな」
「悉曇?ですか?、悉曇とはいったい・・・」
「悉曇とは、お釈迦様が生まれた国の言葉じゃ。しかも、お釈迦様が使っていたと思われる言葉なのじゃ。お経は、元々は悉曇で書かれておる。それを漢訳したのだな。本当の仏法を学びたいのなら、悉曇を学び、お釈迦様に最も近い言葉でお経を読んだ方がよかろう」
そういわれた平次郎、がぜん学習意欲が燃えだしますな。
「わかりました。そういうことでしたら、私は悉曇を学びたいです」
ということで、インドの古語、梵字である悉曇に初めて触れることになったのです。これが、のちの慈雲さんに大きく影響を与えるのです。
こうして、平次郎君、名前を慈雲飲光(じうんおんこう)と改名します。慈雲さんの誕生です。

慈雲さん、悉曇を学び、仏法を学べば学ぶほど、その教えの深さに驚きます。儒教とは比較にならぬほど、奥が深いのです。
「仏法とは、これほど深い教えだったのか・・・・。しかし、どこが必ずや非があるに違いない・・・」
そう思い、仏教の非を探すべく、昼夜を問わず勉学に励んだのでした。そのおかげで、法楽寺の誰よりも、仏教に精通してしまったのです。皮肉なものですね。

それから1年がたって、また慈雲さん忍綱さんに呼ばれます。
「どうじゃ学問は進んでいるか」
「はい進んでいます。仏教とはなかなか深い教えであることが分かりました。しかし、まだまだです」
「ふむそうかそうか。しかしな、学問だけでは本当の仏法は分からぬぞ。体験をせねばな」
「体験ですか?」
「そうじゃ。ここは真言宗の寺じゃ。密教じゃな。お前さんもそろそろ、密教の修行をするがいいころじゃ。四度加行(しどけぎょう)を受けるがいい」
「はぁ・・・行ですか・・・」
慈雲さんは今一つ乗り気ではなかったようです。仏法の教えの深さには感銘はしましたが、それは宗教的な意味合いではなく、あくまでも学問として感銘を受けただけなので、信仰が必要となる行はできればしたくありませんでした。
しかし、師の命令に逆らうことができないのは儒者であっても、お寺の小僧であっても同じです。また、他の修行僧からすれば、四度加行を受けよ、と言われることは、認められたことであり、羨ましく思われることでもあります。ですので、しぶしぶ慈雲さん、命令に従います。
こうして、厭々ながら四度加行をするのですが、厭々なのですから当然なのですが、行に身が入りません。ただただ、次第に書いてある通りに機械的に行をこなしていたのです。しかし、そんな行の仕方でも、素質がある人というもは違うのですね。否、仏縁がある人と言った方がいいでしょうか。あるいは、仏が認めた者、と言った方がいいのでしょうか。機械的な行の最中に、不思議な体験をすることになるのです。

師にいわれ仕方がなく四度加行(しどけぎょう)という行を始めた慈雲さん、初めうちは厭々、しぶしぶ行をしておりました。しかし、厭々が淡々と、に変化していきます。
「まあいいや、次第通りにこなしていくか」
ということでしょう。四度加行はそのやり方が決まっていて、すべて次第(しだい、という経本。修行法が順に書いてある。その通りにこなしていけば修行はできるようになっている)に従っていけば、何も考えることなく、修行は終わっていきます。なので慈雲さん、淡々と次第通りにやるべきことをこなしていく、という気持ちになったのです。厭々やっていても、淡々とこなしていってもやることは同じ、ならば厭々やるよりは・・・・ということですね。これは我々も見習わないと・・・と思います。仕事にしても楽しい仕事もあれば嫌な仕事もあります。しかし、いずれやらねばならないのならば、イヤな仕事でもやらねばなりません。その時に、厭々やっていては身が入らないでしょう。厭々やっても同じ、喜んでやっても同じ、淡々とこなしていっても同じ、やることは同じなのです。ならば、厭々やることはありません。どうせ同じことをするのなら、楽しくやったほうが楽しいですよね。どうしても楽しめないことならば、淡々とこなしていけばいいのです。慈雲さんもそういう境地だったのでしょう。四度加行を淡々とこなしていったのです。

行をしていたある日の夜明けのこと。その時、慈雲さんは如意輪観音の行をしていました。手に印を結び、口に真言を唱え、心に如意輪観音の姿を描くという行をしていたのです。
妙に静かだったそうです。そのためか小声で唱えているはずの真言の声が、妙に大きく響いていたそうです。目はあいているのに何も見えていなかったそうです。つまり、深い深い瞑想状態に入っていたのでしょう。
ふと気付くと、己の周囲に無数の小さな如来や菩薩の姿があったのだそうです。数多くの仏様が、自分を取り囲んでいるのですね。で、一緒に御真言を唱えているのです。慈雲さんの小声は、いつの間にか大勢の人たちで唱えている声へと変化していったのです。その声は堂内にわんわんと響き渡ります。
「こ、これは・・・・幻覚か?」
と一瞬思ったそうです。しかし、その思いを打ち消すかのように大勢の声で唱える御真言は、益々大きな音へと変化していったのです。
慈雲さんは驚きました。気がつくと、全身から汗がどっと噴き出て、びっしょりになってしまったほどでした。とめどなく涙が流れ、得も言えぬ感動の中に埋もれていたのです。
「あぁ、なんと私は愚かだったことか・・・・。仏教を批判してやろう、そのために仏教を学んでやろうなどと・・・何と思いあがった心を持っていたことか・・・・。仏教とは学問ではない。何か・・・うまくは言えぬが、揺るぎのない真理に貫かれている教えなのだ。世間の僧どもが説いている教えは、仏教そのものではない。自分たちの都合のよい仏教になっているのだ。いま、それを確信した。しかし、これをどう説けばよいのか、どう伝えればよいのか・・・」
行での体験は仏教への確信をもたらしましたが、新たなる課題も与えたのです。

四度加行を終えた慈雲さん、なんとか自分の体験した真理を伝えるべく方法はないか模索します。真実の仏教をどう説けばよいのか悩むんですね。当時は儒学が主流でした。人々は儒教をもとにして、生活習慣として仏教や神道の教えを取り入れていました。僧侶もそうした状態に甘んじていました。なぜなら、楽だったからです。葬式をし、法事をし、人寄せのお遊びのような儀式をし、楽な生活を得る・・・・。それは本当の仏教の姿ではありません。仏教は真理を説く宗教です。なのに、誰もそれをしようとはしません。大変だからです。日々の規律や教えは儒教に任せ、死者に関する儀式だけを行えばいいというのが当時の寺院の姿でした。慈雲さんはそこを変えたいと思ったのです。
「そのためには、もう一度、儒教を学びなおす必要があるのかもしれぬ」
そう思い始めた時のことでした。師の忍綱は慈雲さんに
「京都に行って本格的に儒学を学んでみよ」
と勧めました。この忍綱さんと言う方、なかなか鋭い方です。的確に慈雲さんに指示を出しています。先を読む力がすごいと思います。いや、そうではなくて、その人が何を考え、何を求めているのかを的確に判断し、その人に今最も必要なことは何であるかを見極め、指図しているのです。この師があったればこその慈雲さんでしょう。この師にあわなければ、慈雲さんという高僧は生まれなかったかもしれませんね。
ということで、慈雲さん京に出て儒学を学ぶことになったのです。慈雲さん16歳のことでした。

16歳から18歳にかけて慈雲さん、儒学を大いに学びます。京都に集まる儒学者を相手に論争まで張れるほどの儒者となっていきます。それだけでなく、老荘思想の道教も学びます。学べることはすべて学ぶ、読める本はすべて読む、ほどの勢いで勉学に励みました。しかし・・・・。
学べば学ぶほど、どうもしっくりこない自分がいました。儒学を学んでも、論争をしても、それで勝っても、道教を学んでも、どうも腑に落ちないというか、しっくりこないのです。何かが違うのだ、と心の中で叫んでいる自分がいるのですね。そんなとき、慈雲さんは決まって修行中の体験を思い出したそうです。あの充実感、あの境地はいくら学んでも得られないのです。あの境地を自分のものにしようとしてもできないのです。
そんなもどかしい日々を送っていた慈雲さんのもとに、師の忍綱さんが病に倒れたという知らせが入ります。慈雲さんはこれはいい機会かもしれぬと思い、京を去ることにしました。大坂の法楽寺に戻って師の看病に専念することにしたのです。

心の中のもやもやをよそにおいて、慈雲さんは師の看病に明け暮れました。おかげで何も考えることなく、悩むこともなく時は過ぎていきます。
やがて師は快復し、慈雲さんにも余裕が出てきました。慈雲さんふらっと法楽寺の経蔵に入ります。たくさんの経典が保管されています。
「思えばよくこうした経典を読みあさっていたなぁ・・・・」
経典のひとつを手に取り、開きます。経を読み始めます。しかし、文字を目では追っているのですが内容が頭に入ってこない。そのうちにただぼんやりと経を眺めているだけになってしまいました。
「ううん、いかん、いったい自分は何をやっているのだ」
と自分を叱咤し、経を読み始めるのですが、やはり文字は目にすら入ってこなくなってしまいました。その時ふと、言葉が浮かびました。
「多聞(たもん)は生死(しょうじ)を度(ど)せず、仏意(ぶっち)とははるかに隔たれり」
心に浮かんだ言葉を声に出してみました。
「あぁ、そうか、そうだ、わかった!。なるほどその通りだ。いくら多くの書物や経典を読みあさっても、結局それは言葉の上だけでのことなのだ。生死を越えることはできない。それはお釈迦様の教えとは大きく隔たりのあるものなのだ。仏教とは、本来生死を超越するための教えなのだから。そうだ、言葉や知識では何にもならない。お釈迦様が目指した方向へ自ら歩まねば意味のないことなのだ」
一種の悟りを得た瞬間ですね。このとき慈雲さんはまだ18歳だったのです。
こうした経験は私にもあります。自慢やうぬぼれではありませんが、私は高野山大学では成績はいい方でした。というか、上の方だったのです。
大いに学びました。仏教書も数多く読みました。お大師さんの書かれたものもよく読みました。で、どうだったか、それが役に立ったか・・・・。
役に立ってないとは言いません。今でもHP作成に大いに役立っています。しかし、それで人は救えるか、となると話は別です。何よりも経験がないと話にならないのです。社会生活を通して、いろいろ経験をして、その経験と仏教や密教の教えを照らし合わせて初めて学んだことが生きてくるのです。知識や学問だけでは、実際には意味を為さないのです。いくら難しい理論や言葉を学んでも、いくら高度な仏教学や密教学を学んでも、実際に役立てることができなければ、何の意味もないことなのです。ましてや、世間で悩みを抱えている人、迷っている人、救いを求めている人は、知識を求めているのではありません。難しい言葉で説教されても何の意味もなさないのです。それは食事を求めている人に小難しい本を渡すようなものなのです。読むわけはないし、それで救われるわけはないのですね。ですから、私は今は仏教書は読まないのです。むしろ、もっと世の中のドロドロした状況、人が苦しむさまを描いた内容の本を読むのです。そのほうが役に立つんですね。そう気がついたのは、私の場合は30歳くらいでしたかねぇ・・・・。余談でしたが。

さて、いくら知識を得ても、難しい本や経典を読んでも、それはお釈迦様の本意ではないとわかった慈雲さん、すっかりよくなった師の忍綱さんに
「もっと行がしたいです」
と申し出ます。忍綱さん、「ほう、ついに至ったか」とでも思ったのでしょう、にこやかに
「野中寺(やちゅうじ)へ行くがよかろう」
と即答します。野中寺は忍綱さんが修行した寺でした。戒律に厳しく、本格的な修行にはもってこいの寺でした。慈雲さんは早速野中寺に向かいました。
野中寺の住職は秀岩といい、忍綱さんの兄弟子に当たる人でした。秀岩さんは慈雲さんにすぐさま沙弥戒(しゃみかい)という見習い僧の戒律を授けます。そして
「お前の優秀さは忍綱から聞いておる。しかし、その優秀さに溺れてはならぬ。少を得て十分と思うな。人と比較してはならぬ。そんなところに仏法はないことを肝に銘じておけ」
ときつく言われるのです。
優秀な人間は、ついついうぬぼれてしまいます。さらに、出来が悪いものを卑下してしまうんですね。人と比較してはならない、ちょっと優秀だからと言ってうぬぼれるな、油断すれば、学べることも学べなくなる、と注意をしたのですね。
これは、できる者が陥ってしまう罠なのです。その罠に落ちれば、折角の才能も開花せずに終わってしまうことがあります。慈雲さんがそうならないように注意したのです。
その言葉をしっかり心に刻みつけ、慈雲さん修行に入りました。それは18歳から22歳に至るまで続いたのです。

野中寺には数多くの修行僧がいましたが、慈雲さんはすぐに目立つ存在となってしまいます。多くの若い修行僧が掃除や食事の用意といった下働き(作務・・・さむ・・・といいます)を嫌がりますが、慈雲さんは黙々とこなしていったのです。初めはそうした態度が生意気だとか、いい子ぶっているなどと陰口を叩かれたり意地悪をされたりもしたようですが、そういた雑音には一切お構いなしに、淡々と作務をこなしていったのです。やがて、他の修行僧からも頼りにされるようになり、いつのまにか修行僧の中のトップに立つようになっていました。しかし、秀岩さんに言われた言葉
「優秀さに溺れるな。他人と比較するな」
という言葉を常に頭においていたので、決してうぬぼれることなく、いつも一番下の修行僧であるつもりで修業をしていたのです。
しかし、中にはどうしても相容れぬものもいたし、慈雲さんの姿勢を批判する者もいました。その批判は修行に関してや修行の態度ではなく、慈雲さんの考え方への批判でした。
野中寺は真言律宗のお寺です。師の忍綱さんの寺も真言宗です。したがって、慈雲さん自身も真言宗の僧侶です。宗派に属してしますと、どうしても自分の宗派が一番良い宗派だと思い込みがちです。いわゆる
「宗旨固まり祖師びいき」
というもので、自分の宗派が一番だ、自分の宗派の開祖が一番偉いんだ、という考えの凝り固まってしまいがちです。それは、他宗派の勉強をあまりしないので当然と言えば当然なのです。が、「おらが宗派が一番だ」という考え方は、やはり偏った思想を生んでしまうのです。
私も真言宗のお寺なので、宗派でいえば真言宗が最も教えが深いと思っています。お大師様が最も仏教を深く理解されていたのだ、と思っています。他の宗派の祖師なんぞ、比較にならないでしょう。そう思っています。お大師様の行ってきたこと、思想を少しでも理化すれば、それは当然なんですけどね。平安後期から鎌倉時代にかけて生まれた各宗派の祖師さんも弘法大師だけは特別だと思っていたようです。ですから、ほとんどの祖師が高野山を参拝し、弘法大師を礼拝しているのです。多くの祖師が比叡山から飛び出て、高野山に参拝している、というのは、まぎれもない事実ですからね。弘法大師だけは別格なのでしょう。
また、真言宗を批判する宗派もありますが、それは密教が理解できていないだけのことです。真言宗=密教を批判すれば、それは自分の宗派を批判することと同じ、ということに気付いていないんですね。密教は、すべての教えを包括する教えです。なので、どんな宗派の教えも密教の中、なのですが、これが理解できないのですね。
とはいえ、私自身も、他の宗派が嫌いなわけではありません。各宗派の祖師さんの教えは素晴らしいものだと思っています。どのような宗派も、すべてはお釈迦様の教えなのですから。慈雲さんも、ここを強調したかったのです。そう、
「どんな教えも、仏教であり、お釈迦様の教えではないか。ならば、宗派間で争うのはおかしい。おらが宗派が一番だ、というのはおかしい」
と言っているのです。これが理解できないものもいるから困るのです。

慈雲さんは、真言宗の僧でありながら、他宗派の教えも分け隔てなく学びました。それは
「お釈迦様の教えはなにか。お釈迦様が目指していたものは何か」
ということをいつも見つめていた結果によるものです。それを気に入らない僧侶もいたのですね。そうした僧侶は、慈雲さんに対して批判的であったのです。
「真言宗の寺にいながら、他宗派の教えを学ぶ不届きなヤツ」
となるのです。
が、結局はそうした批判は、妬みからおこるものです。やっかみですね。慈雲さんも、そこのところは分かっていたようで、批判に対しては意に介さないようでした。また、忍綱さんや秀岩さんなどの修行のできている僧たちは、慈雲さんのことをよく理解し、正当に評価していたようです。その証拠に、若干22歳で忍綱さんから伝法灌頂を受け、野中寺の流派である西大寺流の作法を受け継ぐこととなったのです。すなわち、正式な後継者になったのです。
今では、四度加行の修行を全うできれば、どなたでも伝法灌頂を受けることができます。選ばれた者だけが受けられるというものではありません。しかし、当時は誰もが伝法灌頂を受けられるというものではなかったのです。しかも、22歳という若さでは珍しいことだったのでしょう。大抜擢・・・・ですね。
ちなみに、真言宗の流派にはいろいろありまして、高野山真言宗は中院流です。そのほかには三宝院流とか理性院流とか西院流とか伝法院流とか・・・いろいろあります。違いは、ちょっとした作法の違い、印の違い、真言の違い、であって、その本質には違いはありません。長い歴史の中で、伝わり方が変わっていった、というだけのことです。

伝法灌頂を受けた慈雲さん、もう野中寺にいる必要はなくなったので、法楽寺にに呼び戻されます。で、師の忍綱さんのあとを継いで、法楽寺の住職になります。が、住職になったからといって、安寧な生活を送ることはありませんでした。あくまでも学びたい!と思っていたのです。
そのころ慈雲さんは禅に興味を持っていました。一日中、堂に籠り座禅をしている日もあったそうです。
禅に対する思いは日増しに強くなり、ついに慈雲さん禅の修行に出ることを決心します。なんと、法楽寺の住職を放棄して、です。
これには流石の忍綱さんも大反対をしました。もちろん、他の弟子たちも反対です。慈雲さんにいていただかないと・・・と言って皆が止めたのです。にもかかわらず、慈雲さん、法楽寺を弟弟子(おとうとでし、自分んすぐ下の弟子)に
「いずれ帰ってくるから」
と言って預け、信州は正安寺(長野県佐久市)の大梅禅師(1682〜1757、白隠さんと並んで賞される禅僧)を訪ねていったのです。
慈雲さん、大梅禅師のもとで参禅修行に励みました。座禅三昧ですね。その結果、約一年半の参禅により開悟し、なんと、大梅禅師より印可を与えられたのです。このとき、慈雲さん26歳でした。
才能とは恐ろしいものです。いや、選ばれた人物とでもいうべきでしょうか。たった1年半で、しかも他宗派の僧侶が、さらには若干26歳で、悟りの証である印可を受けることができたとは、周囲の修行僧もさぞや驚いたことでしょう。
慈雲さんは、大きな土産を持って法楽寺に戻ったのです。

しかし、そんな慈雲さんを待ちうけていたのは、相も変らぬ堕落した僧侶たちでした。彼らは名誉と金銭の欲を追い求めることに終始し、贅沢で自堕落な生活を送っていたのです。
「あぁ、何も変わらぬのか・・・。なんという情けない姿よ・・・・」
慈雲さんは嘆きました。そんな中、大坂では富永仲基(1715〜1746)という儒学者が大乗仏教を批判し始めたいたのです。富永は「出定後語(しゅつじょうごうご)」という著書をだし、大乗仏教はお釈迦様の本当の教えではなく、創られたものである、という「大乗非仏教論」を展開し、当時の仏教界を痛烈に批判したのです。これは、腐敗していた仏教界には大きな痛手となりました。当時の仏教界は大混乱し、誰もまともにその批判に対抗できないような状態だったのです。もちろん、一部の僧侶には、そうした批判の対象にはならない優れた僧侶もいましたが、そうした僧侶は自分の寺や山中にてひっそりと修行の生活をしていたり、地域の人々にために活動し、都会に出て目立とうとか名誉を得ようとか、考えるような者はいませんでした。ですから、腐敗した都会の仏教界など縁のないもの、言いたいものには言わせておけ、それよりも人々を救うのが大事、と思っていたようです。
それはそれで大変いいことなのですが、慈雲さんにとっては、都会の多くの代表的な僧侶が「大乗仏教は仏教にあらず」という批判に対抗できなかったことは大きなショックなようでした。慈雲さんも
「あぁ、なんと愚かなことか・・・。あのような僧たちにいくら仏法の本質を説いたところで、理解はできぬだろう。こんなことならば、山中深く入り、座禅三昧で過ごし死を迎えたほうがいい」
と思うようになっていたのです。
大乗仏教が、お釈迦様本来の教えとは異なる、大乗仏教は本当の仏教ではない、大乗経典は創られたものである、という批判は現代でもあることはあります。それは仕方がないことなのです。事実、経典類はお釈迦様が涅槃に入られてからず〜っとあとに書かれたものです。しかし、それは大乗経典だけに限らず、初期仏教を説く経典類も同じことですね。批判されたのは、経典ではなく、僧侶の生き方、生活なのでしょう。
大乗経典は決して偽の経典ではありません。出家者だけではなく、誰もが悟れる、誰もが救われる、それにはどうすればよいか、ということを説いたのが大乗経典です。在家の人々を救う目的で編纂されているのが大乗経典です。それはお釈迦様が意図したこと、目指していたことと何ら異なるものではありません。ただ、大乗経典の説くおおらかさが、出家者の心も緩めてしまい、自堕落な僧侶にしてしまったということは否定できないでしょう。しかし、世間の批判はそこにあるのであって、決して経典にあるのではないのです。大乗仏教の僧侶たちが、正しい生活を送っていれば、大乗経典が批判されることはないのですからね。道具は間違ってはいないのです。道具を使うものが間違うのです。間違った道具の使い方をするから、その道具その者が批判されてしまうのです。本当は、道具を使うものが悪いのですが・・・・。それと同じことで、経典は間違ってはいないのですが、それを使う僧侶が間違っているのですね。
慈雲さんは、そこを嘆いていたのです。

「山に籠りたい。修行三昧の日々を送りたい」
そう願い、そのような態度が日増しに強くなっていく慈雲さんを止めたのは、慈雲さんの弟子の愚黙(1751、24歳で没。このとき20歳ころ)でした。愚黙は
「師よ、お願いです。せめてあと3年だけでも世間に留まってください。人々に教えを説いてください」
愚黙はそういって、慈雲さんに縋りつきました。慈雲さんはまだ27歳くらい、愚黙は20歳程度。いかにも若い師と弟子でした。

弟子・愚黙の願いを聞き入れた慈雲さん、高井田の長栄寺(現大阪府東大阪市高井田)に移り、長栄寺の住職となります。この寺は、真言宗の寺で開祖は聖徳太子と言われておりますが、度重なる火災などで没落しておりました。それを師の忍綱が再興し、あとを慈雲さんが引き受けたわけです。そして・・・・ここから慈雲さんの怒涛の如き活躍が始まるのです。
慈雲さんは長栄寺を拠点とし、腐敗した仏教界に
「戒律復興、釈尊に帰れ!」
と投げかけたのです。正しい戒律に戻れ、ということですね。あまりにも乱れた仏教界、僧侶の姿に戒律の復興を目指したのです。慈雲さんはこれを「正法律(しょうぼうりつ)」とし、新しい一派を立てたのです。
慈雲さんの考えは、その時点での仏教や僧侶の姿をいったんリセットし、お釈迦様時代・・・すなわち仏教の原点に戻ろうじゃないか、というものでした。
慈雲さんのいた時代の僧侶は現代の僧侶のように結婚は許されていません。お寺も世襲式ではありません。その点では、見た目はお釈迦様時代の戒律を守っているようには見えています。しかし、実体はそうではありません。街の有力者や権力者と結びつき、贅沢に溺れ、色街を徘徊し、財と名誉を求め、法を説くことを忘れていたのです。まるで、今の坊さんと同じような・・・・と思う方もいらっしゃるでしょう。政治家と同じで、宗教家も腐敗する時代があるのですね。
そうした腐敗した仏教界に慈雲さんは、
「ダメだろ、お前たち。お釈迦様時代の戒律を守らねばいかんだろ!」
と一石を投じたわけです。若干30歳程度の若僧が、です。さらに、
「宗派にこだわるなよ。お釈迦様のころは宗派なんてなかっただろ。仏教は一つだろう」
と宗派にこだわっている僧侶を批判したのですね。
しかし、若いんですよ慈雲さん。いくら声高に叫んでも、
「はっ、若僧が!」
で終わってしまうんですね。そう、叫ぶだけでは誰もついてこないし、多くの者の心に響かないのです。
もちろん、慈雲さんの叫びを理解し、腐敗した仏教界に挑戦しようという僧侶もいました。しかし、そうした僧は皆若いのです。今でもそうです。宗教界や政治を批判し、変えていこうとするのは若い勢力なんですね。人は年齢を重ねるごとに正義感が失われ、長いものに巻かれていくのですな。

さて、声高に叫んでも一向に変わろうとしない仏教界に、これではいけないと慈雲さん、方法を変えます。仏教のすべてをお釈迦様時代に戻そう、と考えたのですね。そこでまず、僧侶の外見から取り組みました。お釈迦様時代の袈裟は如何なるものか、研究し始めたのです。
研究すること数年。その当時、慈雲さんは長栄寺のほかに有馬の桂林寺を兼務しておりました。その桂林寺で袈裟の裁ち方の研究書を発表したのです。ここにまず、袈裟がお釈迦様時代と同じになったわけです。
こうした活動をしているうちに、慈雲さんに協力する者や弟子にして欲しいという者も多く現れるようになりました。
「他の坊さんのように怠けない、贅沢を言わない、ちゃんと教えを説いてくれる」
というので、あちこちの寺から住職になって欲しいという声がかかるのです。世間は何が正しいのか、ちゃんとわかっているのですね。おかげで慈雲さん、大忙しとなるのです。
大坂の長栄寺、有馬の桂林寺、奈良は生駒山中の双竜庵、京都阿弥陀寺・・・・じっとしてられないという状態でした。
しかし、やがて41歳のころ、双竜庵に籠り始めます。ここは生駒山中にあり、静かに過ごせる場所だったようです。ここで、多くの著作を書きあげるんですね。そして、梵字や梵学(インド哲学)の研究を始めるのです。これは、その後10年をかけて完成するのですが、書き上げた量は1千巻というもので、当時の梵学としては驚異的なものであり、今でも梵学の研究に役立っています。
それだけではありません。双竜庵に籠り始めたころ、根来寺の座主から地蔵院流の奥義を受けています。真言宗の各派の作法もしっかりと学んでいたのです。
梵学の研究書「梵学津梁(ぼんがくしんりょう)」1千巻を書き上げた慈雲さん、しばらくして京都の阿弥陀寺に移ります。ここを拠点に人々に十善戒を説き始めたのです。これは、梵学とともに慈雲さんのライフワークとなるものです。慈雲さんは、ともかく十善を守ろう、十善を実行しよう、と説いたのです。そして、人々にもわかるように、仮名文字で書いた優しい仏教書である「十善法語」12巻を書き上げます。慈雲さんは、多くの人々に、
「十善は、人の人たる道」
と説いて回ったのです。

55歳のとき、河内の高貴寺(こうきじ)に移ります。慈雲さん、この寺を大いに気に入ります。人里離れた山の中にあり、静かなところです。自分にぴったりだと思ったのでしょう。ここを新たな拠点としました。しかし、まだ僧房の認可は下りてませんでした。したがって、多くの弟子を入れることはできません。幕府に対し、僧房を設けることを願い出て、その傍ら、十善を説いて回ったのです。
68歳のとき、高貴寺の僧房の認可が出ます。そこで慈雲さん、高貴寺を正法律の根本道場とし、一派を立てます。その6年後には戒壇院も設けます。

慈雲さんを突き動かしていたものは、「原点に帰れ」でした。宗派びいきする僧侶、贅沢にふける僧侶、戒律を忘れた僧侶、同じ宗派内で主導権争いをする僧侶・・・・。そうした原点を忘れてしまった僧侶に対し、「元へ戻ろう、お釈迦さまに戻ろう」と説いて回ったのです。また、一般の人々には、「十善さえ守ればいいのだ」と説いたのです。それが、在家の修行の原点であるから、と。
原点回帰は、いつの時代でも、どのような分野でも興る運動です。それは閉そく感を打破するためや行き詰った状態になった時、とても有効ですね。慈雲さんがいたころの宗教界は、まさに行き詰まりの状態だったわけです。

ともかく原点を目指した慈雲さんは、仏教において原点に戻れ、と説いただけでなく、密教に関しても「弘法大師に戻れ」と説きました。慈雲さんは、一応、真言宗の僧侶です。密教の修行もしています。真言宗の各派の流派の伝授も受けていました。その結果、
「古義真言宗だの新義真言宗だの、言い争うのはやめよう。元は一つ、弘法大師ではないか」
と説き始めたのですね。
さらには、梵本のない(サンスクリットで書かれた原典が見つかっていなかった)理趣経をサンスクリットに逆翻訳をしようとしたりもしたのです。こういうところは、研究熱心というか、ともかく原点はどうなっているのか、と言うことを知りたかったのでしょうね。
慈雲さんの活動は仏教のみにとどまりませんでした。元々は儒教を学んだ人ですから、儒学の研究もしました。さらにさらに、神道の研究もし、「雲伝神道」も創設してしまったのです。慈雲流の神道ですね。
それだけではありません。書においても慈雲さんは極めます。江戸後期を代表する書道家としても名を知られるようになったのです。

晩年は主に京都は阿弥陀寺に滞在し、多くの著作に励み、また人々に十善を説きまわり、さらには出家得度をさせたのです。亡くなってからお釈迦様の弟子になる(これが葬式の意味ですね)のではなく、生きているうちにお釈迦様の弟子になっておこう、とうわけです。
87歳の年、阿弥陀寺にて静かに亡くなります。弟子の数は数百人を超え、著作は200種類を超えています。それは一般仏教から密教、神道、儒教など広い範囲の内容でした。また、それは専門的な内容から一般の人々にもわかるような易しい内容のものでした。
これだけマルチに活躍した方なのですが、あまり世には知られていません。まじめ過ぎて、面白みに欠ける・・・・と言うことなのでしょうねぇ。本当は、今の世の中には、慈雲さんのような「原点回帰」を説く高僧が必要なのではないかと思うのですが、きっと痛いところを突かれるので、慈雲さんのような僧侶は現れて欲しくない、と言うのが本音なのでしょうね。

なお、慈雲さんの遺骨は高貴寺に埋葬されています。大きな五輪塔が建っています。私も卒論の関係上、参拝に訪れたことがあります。山の中、なにもないようなちょっと辺鄙な場所に高貴寺はあります。慈雲さんらしい、華美でなく質素なごくごく普通のお寺でした。懐かしいですね。また機会があったら参拝したいですね。

さて、「十善」についてお話しようかと思いましたが、これはいずれ「お気楽 仏教講座」で解説したいと思います。
以上、ながながと連載してきました「仏像がわかる」ですが・・・・途中から高僧伝になってしまいましたが・・・・、今回をもちましていったん終了させていただきます。
あらたに仏像について書きたくなったら、もしくは仏像について教えて欲しいというリクエストがありましたら、再スタートしようかなと考えています。それまでは、しばらくこのコーナーはお休みさせていただきます。ご了承ください。

長い間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。またいつか、仏像について話ができる日がくればいいですね。
合掌。
―― 完 ――





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