お気楽!!

仏教講座

バックナンバー15

76回のテーマは

仏教への疑問

その17 仏教は何を与えてくれるのか、仏教に何を求めるべきか?
ご質問のメールを紹介いたします。
「仏教は結局のところ、私たちに何を与えてくれるのでしょうか?。そして、私たちは仏教・・・・お寺や住職さん・・・に何を求めていけばいいのでしょうか?」
というメールでした。もちろん、このような端的な質問ではなく、前後に文章はくっついてはいるのですが、省略させていただきました。
大変いい質問だと思います。ここを理解していただかなければ、私たちもお話しする意味がありません。最も根本的で、最も重要な質問ですよね。

現世利益(げんせりやく)という言葉があります。お寺や神社で御祈願をし、実際にその祈願が叶うことのことですね。「現実に、この世において、求める利益が得られる」という意味です。
現世利益には、恋愛成就もあれば、商売繁盛、事業繁栄、試験合格、病気平癒、無病息災、開運厄除、身体健全、家内安全、交通安全、恋愛成就、良縁成就・・・・・などいろいろな祈願があります。皆さんの中にも、お寺や神社に行って、こうした祈願をしたことがある方がいらっしゃると思います。そういう方は「現世利益」を求めているわけですね。
こうした現世利益を与えることは、本来のお寺の仕事ではありません。これはあくまでも「方便」です。人を招き寄せるための手段なのです。
何のために招き寄せるのか?。
それは仏教に、です。仏教・・・すなわち、お釈迦様の教えに引き入れるための方便として、現世利益を施すのですね。したがって、現世利益は、あくまでも方便、手段なのです。「牛にひかれて善光寺参り」の「牛」にあたることです。真の目的は、仏教を学ぶこと、なのですね。

現在のお寺の多くは、「檀家専用のお寺」、「祈願寺」、「檀家と祈願者の両方のお寺」のいずれかにわかれます。檀家専用のお寺は主に葬式や法事を中心とした活動を行っています。祈願寺は現世利益を与えることを中心に活動しています。檀家を持ちながら、祈願も行っているお寺は、その双方の活動をしています。
実は葬式も現世利益の一種です。葬式をすることにより、死者をお釈迦様の弟子としてあの世に送るのですから、死者にとっては葬式を行うことは利益なのです。遺族においては、死者と別れなければならないというけじめをつけさせる、重要な機会を得ています。つまり、遺族にとっても利益になっているわけです。死とは悲しいものです。愛する人、親しい人と死別するということは、辛く悲しいことです。なかなかけじめがつかないこともあります。人は、生と死の間に一線を引きたがるものです。そうでないと、心が立ちいかなくなるからです。けじめをつけたいのですね。そのけじめをつけるという意味でも、葬式は現世利益をもたらしていることになるのです。何も葬式は死者のためだけにあるものではありません。
また、法事の席では亡くなった方を思い出し、偲びます。その席では、お坊さんはお話をされます。法話ですね。法事を通じて、生き方を説くのです(こういう法話をさぼる僧侶がいるから、葬式や法事が不要だという暴論がまかり通るようになるのですね。僧侶の怠慢が原因ともいえます)。
すなわち、檀家寺は葬式や法事という行為を通して、お釈迦様の教えを説いているのです。つまり、葬式や法事という方便を用いて、仏教を説いているのです。否、そうでなくては葬式や法事は意味をなさなくなります。真の目的を忘れ、手段が目的となってしまっては本末転倒です。まあ、こうしたことを忘れている寺が増えているからこそ、葬式はいらないなどということが言われるのでしょうけど・・・・。僧侶は大いに自戒しなければいけないですよね。
話を戻します。
祈願寺は先に話しました通り、現世利益をもって人々を仏教に引き入れています。

さて、ここからが重要です。仏教は葬式や法事、現世利益を通じて、仏教に人々を引き入れるのですが、そのあと何をしてくれるのでしょうか?。仏教は、私たちに何を与えてくれるのでしょう?。
折角、仏教に引き入れたはいいのですが、そのあとがなければ何にもなりません。単なる葬式、法事、御利益、で終わってしまいます。
「あの寺、よく願い事が叶うよ」
で終わりですよね。それで終わってしまえば、一種の見世物小屋と同じです。それではいけないんですね。ちゃんと教えを説かなければ。
そう、仏教は「教え」を与えてくれるのです。それはどんな教えなのでしょうか?。それはひとことで言えば、
「安楽な生き方」
です。仏教の説くところ、教えは最終的には「安楽な生き方、楽な生き方、心が安定した生き方」を与えてくれるのです。
お釈迦様が説いたことは、出家者に対しては「悟りを得よ」ということであり、在家者に対しては「安楽な生き方」なのです。これが仏教の究極的な目的なのです。お大師様はそれを「即身成仏」と呼び、「この世でこの身のまま仏となる」と説きました。それは、一般の人々においては「この世でこの身のまま、安楽な精神状態を得られる」ということなのです。なぜならば、仏とは、もっとも精神が安定した状態・・・・悟りの状態・・・・にあるからです。それが生きている間に得られないのならば、何のための仏教か、とまで言い放っています。まさしくその通りです。仏教は、心の安定状態を人々に与える宗教なのです。

仏教は空を説きます。空とは大変難しい思想ですが、簡単に言ってしまえば「こだわらない」ということです。難しくしているのは、仏教学者であり、実践的にいえば、それは空を意識した生き方になるのですが、実にシンプルなのです。こだわりのない生き方、さらっとした生き方、それをすればいいだけです。まあ、言うは易し行うは難し、なのですが・・・・。
この「こだわりのない生き方」ができれば、心は安定します。精神は安定状態になるんですね。安楽な生き方ができるわけです。
つまり・・・。仏教を学べば、こだわりのない生き方を少しずつではありますが、手に入れらるのです。こだわりのない生き方を手に入れられれば、それは安楽な生き方へとつながっていきます。安穏な人生を送れるようになるわけですね。
それはたとえ不幸な目にあっても、病気をしても、怪我をしても、災難にあっても、辛い思いをしても、いつまでもその状態にいることなく、深い悲しみから救ってくれるのです。なぜなら、悲しみや辛さに対しても「こだわらない」からです。
どんな目に遭おうとも、どんな喜びにあおうとも、一喜一憂せず、淡々と過ごせる、そんな安定した状態・・・・周囲からみれば冷めているように見えるけれども・・・・にいつも保っていられるように導くのが仏教なのです。
ですから、
「仏教は何を与えてくれるのか」
と問われれば、それは
「心の安定、精神の安定」
であり、
「苦のない生き方」
でしょう。仏教は、そうした世界へ導いてくれる教えなのです。
また、何を求めるべきか?、と問われても、答えは同じになります。仏教に求めるものは、精神の安定、苦のない生き方、です。決して、現世利益だけを求めてはいけません。それは単なる入口にしか過ぎないのですから。
ですから、お坊さんには「教え」を求めてください。苦のない生き方をするにはどうすればいいのか、それを教えてもらうことです。

極端な言い方をすれば、仏教に関わる行事や儀式は、すべて方便です。それは人々を仏教に導くための手段にすぎません。大きな法会も、様々な御祈願も、滝修行も、葬式も、法事も、供養も、すべては「こだわらない生き方、精神の安定、苦のない生き方」を得てもらいたいからこその方便なのです。
ですから、お寺で御祈願をされる方は、祈願が叶ったことだけを喜んでいてはいけません。その奥にある教えをちゃんと説いてもらわねばならないのです。願いがかなったことは、縁によるものであるとか、それがまた次の縁を生んでいくのだとかいう、教えを説いてもらうべきなのです。
葬式をして死者を送ってもらうだけではいけません。ちゃんと生と死についての仏教の考え方を教えてもらわねばいけないのです。死への恐怖や、生きることの辛さをどう乗り越えるかを説いてもらわねばいけないのです。
御供養のあとや法事の後には、やはり仏教的生き方を教えてもらうべきなのです。
仏教の目的は、
「苦のない、安楽な、安定した生き方ができるようになる」
ことだからです。それが仏教に求めるものであり、仏教が与えてくれるものなのです。
以上、ご質問のお答えです。合掌。

そうそう、余談ではありますが、あの「葬式はいらない」の第2弾で「戒名は自分でつける(題名は正確ではありません。多分間違っていると思いますが、こんなような本)」というような本が出てます。著者は島田先生ですが、この本の新聞広告を見て確信しました。
「著者の島田先生は戒名の意味を理解していない」
戒名は自分でつけるものではありません。師が弟子に与えるものです。葬式は、前回にも書きましたが、出家作法を行うものです。死者に対し、出家させ、お釈迦様の弟子としてあの世に送る、というのが葬式の意味です。戒名は、お釈迦様の弟子となった証として、師である僧侶(葬式の導師をする僧侶)が、死者に対し「授ける」ものなのです。
従って、「自分でつけていいもの」ではありません。それは私たち僧侶が、出家をするとき、自分で僧名をつけるようなものです。出家者名は師が与えてくれるものなのです(例外としてお大師様は自分で僧名をつけられました。それはお大師様のような方だからこそできることです。一凡人である我々が自分に出家名をつけることなどおこがましいものです)。
もちろん、こうしたことも方便ではあるのですが、いくら方便だからと言ってもルールがないわけではありません。そこには、規律があるものです。でなければ、方便ならば何でもいいのか、ということになってしまいます。それは暴論ですよね。いくら方便であっても、ルールは存在するのです。
戒名を自分でつける、ということは、出家名を自分でつける、ということと同じ意味になります。これは、仏教の伝統を否定することとなります。方便のルールを無視することになるのですね。そこを何でもいいや、にするのは、仏教に対する理解が浅いのではないか、と疑ってしまいます。いやいや、この一点で、島田先生は、仏教を根本的に理解していない、宗教学者でありながら、仏教がわかっていらっしゃらない、ということがわかってしまいます。
こんな本が出るなんて・・・・それが宗教学者が書いているなんて・・・・・。
世も末ですねぇ。皆さん、振り回されないようにしてください。余談でした。
合掌。



77回のテーマは

仏教への疑問

その18 最終回 今後の仏教のありかた
今回は、ご質問のメールではありません。このコーナーの最後のまとめとして
「今後の仏教のありかた」ということで話を進めたいと主ます。

これまで、仏教についていろいろな話をしてきました。仏教に対する質問にも答えてきました。御質問をくださった皆さんには本当に感謝しています。おかげで、話が膨らみましたし、
「あぁ、こういう疑問もあるんだ」
と気付かせていただきました。こちら側から眺めているだけではわからないことはたくさんありますね。
さて、そんな仏教ですが、現在、その仏教を説くお寺や僧侶に様々な問題があることは否定できません。それは、皆さんもよくご存じのことでしょう。

「坊主丸儲け」
「坊さんは贅沢をしている」
「不当に寄付金を求める」
「税金も払ってないくせに・・・・」
「葬式で儲ける坊主」
批判は数多くあります。どの批判も正確とは言いません。その通り!、と思う批判もあれば、それは誤解ですよ、という批判もあります。しかし、こうした批判が出ること自体、問題があるのではないかと思います。僧侶側も説明をすべき点はあるのだし、誤解をそのまま放っておくのもよくはないでしょう。まずは、こうした誤解から解いていきたいと思います。

批判の多くは金銭に関わることでしょう。それはひとえに「葬式の値段の高さ」が原因の一つだと思います。また、「お寺への寄付金」ですね。これも問題があるのでしょう。さらには「非課税」のことに関して、でしょうね。優遇されているので、批判の目にさらされるのは仕方がないことだとは思いますが・・・。
まずは、葬式の値段に関して、です。
葬式の値段・・・費用ですね・・・・その中で、僧侶が受け取るのは、いわゆる導師料と戒名料のお布施ですね。あとは、葬儀社の利益となっています。多くの方が勘違いをしていると思うのですが、葬式の費用の半分も僧侶は受け取ってはいない場合がほとんどです。また、これは地域差もあります。地方に行けば、極端に費用がかからない場合もあるのです。一概に僧侶は葬式費用をとり過ぎだ、という批判は当たらないと思っています。一部地域に、一部の僧侶が、極端に高いお布施を要求したり、高い戒名料を要求したりする、というだけで、多くの僧侶はそんなことはないと思います。
もし、僧侶のお布施が不服ならば、それは言えばいいのですよ。
「そんなに払えません」
とね。ですので、前もって葬儀社の方と話し合うことです、
「うちは葬式にこれだけしか予算がありません。この範囲内で葬儀を行ってください。お坊さんも、この程度のお布施で葬式をしてくださる方を紹介してください」
とね。また、檀家ならば、その寺の和尚さんに日頃から
「高い戒名料は払えません。高いお布施も無理です」
と宣言しておくことですね。それでその寺の和尚さんが怒れば、よその寺に移ればいいのです。お布施が少ないと言って怒る坊さんが間違っているのです。そこは檀家さんが正すべきですね。檀家さんは、お寺に対し、意見をいう権利をもっているんですから。
檀家とお寺の関係は持ちつ持たれつです。檀家の暴走もいけませんが、住職の独裁もいけません。檀家と住職は日頃からよく話し合うことが大切だと思います。
檀家さんは、面倒だからとか、わからないからとかいった理由で、寺と距離を置きすぎたと思うのです。もっと、お寺と関わり合うべきでしょう。住職側も檀家と積極的に関わる方がいいと思います。檀家さんが集まって、いろいろ活動できる寺、それが理想の檀家寺だと思うのです。檀家寺は、そのように檀家が集いやすい場所を提供し、教えを説いていくという姿をとるべきでしょう。そこから、仏教を広めるのですね。それが本来の檀家寺のあるべき姿だと思うのです。
そうすれば、葬式が高いなどという不満は生じることはないのだし、葬式や戒名の必要性も檀家さんに理解してもらえるでしょう。となれば、くだらない本が売れることもないのです。これは、檀家も僧侶も、双方さぼってきた結果によるものだと思います。

さて、お寺に入ったお金です。僧侶が受け取ったお布施は僧侶の懐に入るものではありません。お寺は宗教法人という法人になっています。会社と同じですね。宗教法人法でいろいろな決まり事が定められています。収入に関しても決まりがあります。入った収入は、すべてお寺のものなのです。
住職だ、と威張ってはいますが、実は雇われです。檀家がこぞって住職罷免を申し立てれば、罷免することが可能なのです。住職はお寺という会社の雇われ社長をやっているにすぎません。ですから、クビにすることもできるのです。
ですから、収入も寺に入るのであって、住職個人の収入となるのではありません。
住職は、お寺から給料を貰っているのです。サラリーマンと同じです。源泉徴収もします。ちゃんと税金も払っているんですよ。もちろん、その土地の住民ですから、所得税だけでなく、住民税も払っています。坊さんは税金も払わない、というのは嘘なんですね。
ただし、宗教活動に関する施設や土地は非課税となっています。固定資産税は、宗教活動をしている土地や建物に関してはかかってこないことは事実です。その対象は、あくまでも「宗教活動をしている土地や建物」です。宗教活動以外の土地や建物に関しては、固定資産税はかかってくるのです。
お寺で、宗教活動以外の事業をしている寺があります。多くは貸し駐車場ですね。もしくは、賃貸住宅などをもっていたり、土地を貸していたりする場合もあります。出版業を行っている新興宗教は多いですね。あるいは、斎場をもっている寺などは貸席業という事業になります。飲食店を経営している寺もあります。ひどいのになると、風俗店やラブホテルを経営している宗教法人もあります。信じられないと思いますが、そういう宗教法人もあります。
こうした、宗教以外の事業に関しては、固定資産税も事業税も当然のことながら、かかってくるのですよ。税金を払う必要があるのです。これも当然ですが、決算書も提出の義務があります。意外に厳しいのですよ。
決して「坊主丸儲け」ではないのです。よく誤解されますが・・・・。
中には、戒名料や葬式のお布施や墓地の永代使用料をごまかして、隠してしまう坊さんもいますが、それは一部の悪徳坊主であって、多くの坊さんはそんなことはしません。というか、できないのが現状です。ごまかすほどの収入がないのですよ。
こうした「非課税」に関する誤解も、お寺と壇家などが隔たってしまったから生まれた誤解だと思います。お寺と壇家がもっと話し合えば、あるいは、収入面で透明性を保つようにすれば、妙な誤解は生じないのです。
ま、ともかく、非課税はあくまでも「純粋な宗教活動における事業税、及び宗教活動に使用する土地や建物に対する固定資産税」のみであって、所得税も住民税も自動車税だって、払う必要があるのです。
なお、宗教法人が行う事業に関しては、これはどんな事業を行ってもよいと法律で定められています。また、そうした宗教活動以外の事業に関しては、法人税もかかってきます。ただし、一般の事業者に対する税率よりも低い税率ですが・・・。つまり、宗教法人が行う事業に対する事業税などは、一派の事業税よりも安い、のです。
私は、個人的には、宗教法人が行う事業でも、他の事業者と平等に課税したほうがいいと思ってはいます。優遇する必要はない、と思っています。宗教者は、宗教に関することで収入を得ればいいのですから。宗教以外の事業をする必要はないと思います。
そのかわりといってはなんですが、宗教に関する出版事業、宗教儀式に関する貸席業など、宗教関係の事業に関しては、非課税でいいと思うのです。宗教法人が風俗店を経営しているとか、賃貸住宅で利益をあげているとか、そうした宗教とは関係のないところでの事業は、一般の法人と同じ法人税にすればいいのです。それが「まっとう」だと思うんですけどねぇ。宗教法人だって、なんでも事業すればいい、その事業は優遇税制を受けられる、というのは筋が通らないように思うんですよ。宗教法人は、宗教に関する事業を行うだけでいいと思うのです。他の事業は宗教法人と切り離すべきでしょう。
この問題は、政治の判断ですけどね・・・・。

さて、お寺が行う寄付金です。現在、私の寺も寄付金を募集しています。それは「大般若経典600巻とそれを納める箱」を購入したいからです。これは、お寺に・・・どうしても必要・・・・というものではないけれど、あればありがたいし、参拝者の方々の御利益につながるものであるし、人々を仏教に導くためにもあるといいものです。なので、購入することを決めました。
しかし、大変高価なものです。当然ながら、自分の寺の貯金だけで賄えるものではありません。否、無理をすれば、なんとかなるかもしれません。しかし、無理をすれば、他の費用が賄えなくなる可能性が出てくるのです。
たとえば、屋根がいたんだ、修繕が必要な個所ができた・・・・という時のための、つまりは「いざという時」のための貯蓄が無くなってしまうのです。
うちの寺は檀家寺ではありませんから、むやみやたらに寄付金を募るわけにはいきません。ですから、できるだけ、寺に貯金を残し、寺の維持費は自分で賄うようにしようとしています。なんでもかんでも寄付金で・・・・というわけにはいかないのです。貯蓄を残したいのです。なので、今回の大般若の寄付金は、貯金を食いつぶすわけにはいかないので、皆さんに頼ることにしたのです。尤も、もし満額に至らなかったら、不足分は寺から出すことにしますが・・・・。
お寺は、意外に維持費がかかるものなのです。大きなお寺さんになればなるほど、維持費がかかるんですね。広い庭などをもっていたら、その手入れだけでも莫大な費用がかかってしまいます。
ところが、檀家さんからのお布施は、地方によって違いますが、葬式や法事のお布施くらいしかありません。まだ、檀家参り(月参り)が行われている地方は、そうしたお布施も入ります。あとは、護持会費といったものでしょうか。それくらいの収入しかないのですね。檀家の数が700軒以上とかいうのでしたら、余裕があるでしょう。しかし、多くの寺は、そんなにたくさんの檀家を抱えてはいません。とうことは、葬式や法事、月参りの費用は、住職さんへの給料やお寺の維持費などで消えてしまうのですね。
お寺は、大きいし、一般の家庭の家屋と違って、特殊です。いざ修繕!というと、費用が一般住宅の修繕費よりも金額大きいのです。なので、お寺さんだけでは支払いが困難になるのです。そこで、寄付金を募ることになるのですね。
よく
「うちの寺の住職は、あそこを修繕する、ここをいじるとか言ってすぐに寄付金を集めようとする。本当にそのための金なのか疑わしい」
「なんでも檀家に頼ってばかりで、いい加減にして欲しい」
などという話を聞きます。しかし、これも仕方がないことなのです。どうしても疑わしいのなら、会計報告をしてもらえばいいのだし、どうしても寄付金が払えないのなら、檀家をやめる手もあるのです。耐えられないほどの不服があるのなら、檀家寺を変えればいいのです。寺を選択する権利は、壇家さんにあるのですからね。
「そんなわけにはいかない・・・・。でも寄付金は・・・・・」
という方は、住職さんとよく話し合って、免除してもらうことです。このご時世です。どこもかしこも収入は減っているのです。そんなかでの寄付金ならば、住職さんだって「まあ仕方がないな」とおっしゃることでしょう。それでも「ダメだ。全額払ってもらう」という頑固な強欲住職ならば、お寺を変えることですね。それでいいのです。
ここでも、問題の原因は、「壇家とお寺側の話し合いができていない」ということにあります。壇家側は、もっとお寺に説明を要求すべきだし、お寺側は壇家さんともっと接触すべきなんですね。

現在の日本の仏教が抱える問題点は、すべてにおいて「檀家寺の説明不足」にあるように思うのです。檀家寺の住職さんは、もっともっと壇家さんと接触を試みて、仏教を説くべきだし、お寺の在り方を説くべきなのでしょう。そうすれば、妙な誤解も生じないし、怪しい新興宗教に悩まされることもないのです。

仏教は、本来心の問題を説き明かす宗教です。お釈迦様も
「医者は身体の病を治す、仏陀は心の病を治す」
と説いています。すなわち、仏教は、
「心の病を治す教え」
なのです。となれば、心の病が蔓延している現在こそ、仏教が必要な時代であることは間違いありません。なのに、それが実行されていないのが現状です。あいかわらず、お寺は丸儲けだの、葬式はいらないだの、坊さんはもうけ過ぎだの、くだらないことでお寺は責められています。これは、ひとえに「語らない僧侶」がいけないのでしょう。

今後、仏教はもっともっと世に出ていかねばならない宗教だと思います。いや、仏教こそが、世界を救える宗教だと思っています。究極の平和主義、すべてを認めあう宗教は、仏教しかないのですから。そして、心の病を治すことができる宗教でもあるのですから。
心理学が誕生するはるか以前に、仏教は心の問題を説き明かしてきました。心の病と2500年前から付き合ってきたのです。
よく新聞の最新本の紹介で、心理学者や脳学者、精神学者が書かれた本が紹介されることがあります。それらの多くは、心のありかた、楽な生き方を説く本ですね。そういう本の紹介や書かれた内容の説明書きを読みますと、
「なんだ、みんなお釈迦様が説いたことじゃないか」
と私は思います。日頃、私も皆さんに話していることばかりじゃないか、と。
なのに、坊さんが説くことは注目されません。否、坊さんはアピールが下手なでしょうねぇ。あるいは、誤解されているからかもしれません。もっと、面白おかしく、お釈迦様の説いたことを世間に示す必要があるのかもしれません。

仏教は、現代こそ、必要とされている教えだと思います。今後は、もっともっと、仏教が広まっていかねばならない、とも思います。心の病を治す、それこそが今後の仏教が目指す道なのでしょう。そして、それは本来の仏教の姿なのです。
そのためには、
「坊さんよ、もっともっと語るべきだ!」
ということが必要なのでしょう。それが今後の仏教のあり方だと思うのです。

以上をもちまして「お気楽!! 仏教講座」を終了させていただきます。長い間お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
次回からは、
「自分のことは棚に上げ! 説教しちゃうぞぉ(仮)」
という内容にしようかな、と思っています。なので、
「(自分のことは棚に上げ)、こんな理不尽なことは許せない!、あいつに説教したい!」
というような
「腹の立つこと、許せないこと」
などがありましたら、メールに書いて送ってください。それをもとに、仏教的立場で説教したいと思います。
もし、メールがなければ、私が説教したいことを、自分のことは棚に上げて、大いに説教します。
合掌。



表 紙 へ