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山賊物語 −マキシマスと妻ー

 スペインのある酒場で、一人の酔っぱらいが語り続ける、ある夫婦の話。名もない多くの人々が語りついだ、ローマと妻を愛した男と、夫と自由を愛した女の伝説とは?

(マキシマスの妻は実は…という、相当にとんでもない話です。こんなこと書いて、映画のイメージこわれるかな、とどきどきしながら、これを書いた後でまた見に行って、そんなヤワな映画じゃないことを実感しました。安心して、お読み下さい。)





山賊物語

第一章
 伝説よ。ただの、伝説じゃ。のう、若いの。スペイン人は嘘が好きじゃ。夜ごとに酒をくみかわしては、見てきたような嘘を言い合う。それが次第に、まことしやかに昼ひなかにも語られて、やがて誰もがひそひそと、「たしかに見た」と言い出すのじゃ。
 話してやろう。マラガ酒をもっとつげ。遠い、というても、まだそれほどではない昔、このあたり一帯は山賊たちの根城じゃった。ある夏、ローマから来た軍団が、それと戦い滅ぼした。指揮官はまだ若いが情け深い男での、捕虜の男女にも親切じゃった。そして、その中の娘の一人と愛し合い、とうとう、結婚したのじゃよ。

第二章
 嘘と言うなら、嘘かもしれぬ。証拠もなければ証人もない。風が運ぶ花の香りのようにな、若いの、どこからともなく伝わっていった物語じゃ。重い荷をロバの背に乗せ、とぼとぼと街道を行く男たち、日暮れの川で手桶やかめに水を汲む女たちが、秘密めかして声をひそめ、さざめき笑いをもらしながら、語り伝えた物語じゃ。
 ここから見えるあの丘の、ばら色の石垣に囲まれた館に二人は住んだ。今はもう、そこは廃墟となっておる。焦げて崩れて、夕焼けの最後の、最後のなごりのように、ほのかな紅の色を残した石垣の残骸に、とげだらけの野ばらの蔓がからみついて、ごくときたまに気まぐれに小さな白い花を咲かせる。じゃが、昔はの、無花果やポプラの木に囲まれた、緑したたる庭園が館の周りを取り巻いておった。
 どんな女じゃったか、知りたいと?さあ、それならば酒をつげ。よいか、若いの。これは話じゃ。作り話じゃ。誰も、ほんとのところは知らぬ。女の髪は黒かった。長く、豊かで、腰にまでかかっておった。鞭のようにしなやかな身体、ハヤブサのように鋭い、恐れを知らぬ目をしておった。男と暮らし、やがて子どもが生まれても、ともすれば、その目はいつも、こがれるように、野の果てを見ておったという。

第三章
 何がいったい、まことなのか、ほんとのところは、誰も知らぬ。酒場につどうめいめいが、皆それぞれの伝説をしゃべる。そう思うての、聞くがよい。もともとは女もまた山賊の一人。仲間とともに馬を駆っては略奪をすることもあった。これと狙いをつけた相手と一夜を過ごして、仲間のための情報を得るのも大事な仕事の一つじゃったそうな。
 じゃが、山賊とは、世間が呼ぶ名じゃ。女も、そして仲間たちも、自分たちをそんな者と思うてはおらなんだ。富んだ商人、肥えた地主からは奪っても、貧しい者には手を出したことなぞない。それでも「山賊」と呼ばれたのは、何者にも従わず、どこにも属することをせず、自分らの力だけを頼りに生きたからじゃ。わかるかの?そんな一人であった女に、定まったひとつところでの、来る日も来る日も変わらぬ暮らしが、いったい、どれほど、苦痛じゃったか?
 指揮官の情けで、山賊たちのほとんどは、殺されることもなく、新しい暮らしを求めてこの土地を去った。村にとどまり、夜にまぎれて、前と同じ暮らしを続ける者もいた。彼らは女に会うたびに、男のもとから逃げ出せと言うた。
 しかし、女は逃げなんだ。鎖でつながれておったでな。男への愛という、何にもまさる強い鎖に。朝な夕なに、男を見、子どもを見る時、女の目は優しく甘くうるんでおった。じゃが、それでもな、そのまなざしは遠いかなたに、いつもさまよいがちじゃった。
 男は、それを知っておったか?さあ、のう、わしにはわからぬて。どのみち、これは、ただの話じゃ。言い伝えじゃよ。伝説にすぎぬ。女の身体にたぎり続ける、野の鳥や獣と同じ野性の血が、自由を求めて震えておるのを、毎夜毎夜抱き合って愛をかわしていた男が、気づかなかったはずはあるまい。男はそれで、女を失う予感に怯えたろうか?哀れさと切なさでいっそう愛がつのったろうか?自分の愛が、いや、自分そのものが、女をそうしてひきとめてしまう罪を思って苦しんだろうか?その、いずれでもなかったろうか?
 信じたいように信じるがよい。どうせ、すべてが嘘っぱちかも知れぬのじゃから。マラガ酒をもっとつげ。若いの。もっと、酒をつげ。

第四章
 わしの話を、信じてはならぬ。よいか、若いの。スペイン人は嘘が好きじゃ。まことしやかに、見てきたようないつわりを語る。年月が過ぎ、男はローマの将軍となる。戦線に行って、三年近く帰らぬ。そんなある日、ローマ兵の一団が前触れもなく突然に村を襲った。いくつかの家を焼き家族を殺して、逃げ場所をなくした上で、女が子どもと暮らしている丘の家へと押し寄せた。
 理由なぞ、誰も知らぬわ。将軍であった男が何かの罪に問われたか。家族まで、それで死刑が宣告されたか。じゃが、子を守って激しく抵抗する女を兵士たちがようやく取り押さえた時に、村の異変に気がついた、女のかつての仲間たちが駆けつけてきて女を救った。生き残った兵士たちを尋問した彼らは、男とも知り合いだった、この地の軍団の指揮官が、残酷な処刑を見るにしのびず、部下たちにまかせて、自分は後から死体の検分に来ることを聞き出す。
 危険と冒険に身をさらして生きていた、遠い日々の興奮がよみがえり、女は荒々しく笑う。彼らは、あわただしく相談をかわす。もっと大勢のローマ兵が押し寄せてくるのを防ぐためには、指揮官をだまし、処刑はたしかに執行されたと思わせなくてはならぬ。殺された家族の中から女と背格好の似た別の女の死体と、小さい子どもの死体を引き出し、女と子どもの身につけていた指輪と腕輪を、その手にはめる。二つの死体を十字架に釘付けし、顔もわからぬまでに焼き焦がす。やがて、指揮官がやって来る。山賊たちに脅されたローマ兵たちは、にせの死体を指さして、処刑はすんだと報告し、それを信じて兵を率いて引き上げる指揮官の後を女たちはつける。駐屯地に行き、とどこおりなく報告書が出されたと確かめ、裏切ってほんとのことを言わぬよう、兵士たちにだめ押しの脅しをかけた、その間、およそ一昼夜。意気揚々と笑いながら、馬を走らせ引き上げて来た一行は、つるされて焼かれた二つの死体が影もなく、かわりに二つのにわかづくりの粗末な墓があるのを見て、皆、言葉を失った。

第五章
 酒をつげ。若いの。もっとマラガ酒を。そしての、耳にいれるそばから、これから話すわしの話は忘れてしまえ。これはの、ただの伝説じゃ。嘘八百の、作り話よ。ローマ軍を脱走した女の夫は、夜を日に継いで馬を走らせ、妻子の待つ丘の家へと戻ったのじゃ。そして、あの指揮官と同じように、妻や子の腕輪をはめた焼け焦げた二つの死体を、女と子どものものとまちがえ、涙にくれて埋葬したのじゃ。
 女たちにも、それはわかった。じゃが、それならば、男はどこに行ったのか?どこにも姿は見えなかった。
 女は、仲間たちとともに狂ったように男をさがした。そして、とうとう、墓の前で疲れ果てて眠っていた男が、奴隷狩りをしていた隊商に連れて行かれたらしいとつきとめた。その時はもう、二日と三晩が過ぎていた。
 おお、若い人。わしの話を信じてはならぬ。これは皆、ただの伝説。大嘘つきの、酒飲みたちが、一生にただの一度でも、こんな恋ならしてみたいと、柄になく、赤くただれた目やにだらけの目に涙をためて、ろれつの回らぬ舌で語って、広めて行った話じゃよ。
 この世のどんなものよりも、手足を何かにつなぎとめる鎖を憎む女じゃった。殺されるより恐ろしいのは、格子のはまった檻の中に閉じ込められることじゃった。その鎖と檻が男をとらえたと知って、女の口は乾きあがる。まぶたの奥は暗くなる。長い黒髪もスカートも火炎のようになびかせて、馬で隊商の後を追った。ともに走った仲間の男たちの馬が皆倒れ、ついで女の馬も倒れ、それでも女は荒野を走った。赤茶けた石に切り裂かれた足からは血がしたたって土を染め、舞い上がる砂に髪はまみれて、だが、隊商には追いつけなんだ。ひきずりつづける足はついに、ひとりでに動きをとめ、ずたずたに破れた服のすそからむきだしになった、傷だらけの膝を大地について、声を殺して女は泣いた。
 あきらめたがよい、と皆が言った。しかし女はあきらめなんだ。仲間の力を借りて、男の行方をさがし続けた。あらゆる風の便りを求めて、西へ、東へ、そして南へ、海を渡ってアフリカまでも。そこで女は、ついこの間まで、その町にいた剣闘士の一団の中に、男によく似た「スペイン人」と呼ばれていた一人の男がいたと聞いた。

第六章
 これは皆、語り伝えじゃ。まことじゃという証拠などひとつもない。よいか。まだ恋人もおらぬ黒い瞳に太いお下げの、しのび笑いが大好きな女の子たちに、乳母や母や年かさの姉たちが、眠くなるような夏の午後、糸車を回しながら、なかばは歌のように語っては聞かせて、広めて行った物語じゃ。
 女は狂喜し、その一行の流れて行った後を追うた。商人たちに、農夫たちに、たずねたずねて女がたどって行った道は、あの永遠の都、ローマへと向かっておった。
 ああ、ローマ!それは男が、夜な夜な女を腕に抱きながら、まるで少年のようないちずなまなざしで、夢見るようなあこがれをこめた声で語って聞かせた、偉大な巨大な都市じゃった。果てしなく広がる空と、限りなく続く大地しか愛したことのない女には、自分自身もまだそこを訪れたことがないという都を、それほどまでに愛する男の気持ちがわからず、じゃが、男に嫌われることを恐れ、それ以上にまた、男を傷つけることを恐れて、そのことを男に言えず、かつてはこの世の何ひとつ恐れたことなどない自分であったのにと思えばくやしく、何度ひとりで泣いたであろう。それどころか、そうやってローマのことを語る時ほど、女の目に男が美しく見えたことはなく、それが山賊の習慣なのかと男がぶつぶつ嫌がるのを笑って聞かないふりをして、夜ごとに枕元の明かりをともしたままにしたというのも、ローマの話をする男の顔を見つめていたいからであった。
 自分には決して理解できないものを愛している男の姿を一番美しいと思うとは。ローマへのあこがれと信頼と愛をなくしてしまった時、男はこの美しさもまた失いはせぬか。そうなった男を自分は、愛することができようか。女の肩に顔を埋めて、安らかな寝息をたてている男を抱きしめながら、この人の中にあるローマを、ナイフでえぐり出せたらと憎み、でも、それが、この人の命と自分の愛の源かもしれぬと恐れた夜の数々が、女の心によみがえり、疲れもあってその足どりは次第に鈍る。そうやって、何日たったか。街道のそばの柳の木の下で眠り込んで目覚めたある朝、女は、行き交う人々の声高な噂話をする声の中に、はっきりと、なつかしい男の名前を聞きつけた。

第七章
 よいか、若いの。信じるな。わしの話を信じてはならぬ。パピルスにも羊皮紙にも書き記されることはない、煙のように消えて行く話じゃと、何度も言うておろうがの。
 旅人のチュニカの襟をつかむようにして、女は男の名を確かめる。その肩書も。その外見も。そして、女は知ったのじゃ。男が今や、ローマ一の剣闘士として、来る日も来る日も人々を熱狂させる、コロセウムの英雄になっていることを。
 女の涙が街道の乾いたほこりの上に落ちる。おお、それはの、喜びばかりの涙ではない。苦い思いをかみしめながら立ちつくす女の耳に、旅人たちのまだ続く噂話が入って来る。それにしてもあの男、勝っても勝っても、喝采を浴びても、少しも楽しそうではない。誇らしげな表情も笑った顔も見たことがない。もっと面白そうに戦えば、もっと人気も上がるものを、と。
 女のまぶたに、犬や牛を争わせて喜んでいる村人たちの祭りの席から、そっと姿を隠していた男の顔がよみがえる。心配してさがしに行った女をどこか淋しそうな笑顔で抱き寄せ、命のやりとりは戦わされる方にとっては遊びなどではないのに、と低くつぶやいたその声も。怒りにみちて女はかけ出す。ローマに行って、コロセウムで男の姿を確かめて、それで、それからどうするのか、女はまるで考えておらぬ。買い取る金など、むろん、あろうか。武器といっては短刀ひとふり。それでも女は走り続ける。男に自分が生きていると知らせねばならぬと、女は思う。そうすれば男は、どんなことをしてでも逃げ出して自分のところへ帰ってくる。ローマを忘れ、仲間を捨て、誇りをなげうち、理想を裏切り、ありとあらゆる悪をはたらき、血と恥と罪にまみれて、それでも生きて、逃げのびて、ただ、まっしぐらに自分のもとへと、男は、必ず、帰って来る!
 おお。おお。若いの。酒をつげ。もっと飲むのじゃ。もっと酔え。これはのう、皆、皆、女子どもの見る夢よ。作り話よ。酒の生み出す幻じゃよ。
 ローマの城壁はもう目の前じゃ。朝の光が道のそばの草にやどった露をぬらす。遠く鳴るラッパの音に、女は疲れた目を上げる。あれは何、と道の傍らに腰を下ろした、ずるそうな目の商人に女は聞く。商人は答える。ああ、あれか。戴冠式のラッパさね。

第八章
 夜はまだ長い。酒をつげ。信じずともよい。信じるな。のう、若い人。これはただの言い伝えじゃ。商人は、女に教える。暴君の前皇帝が、ローマ一の剣闘士に試合を挑んで、二人とも死んだのさ。剣闘士はローマを救った英雄として今や神さま扱いよ。まあ、おれは最後の試合であいつに賭けて、たっぷり儲けさせてもらったから文句はないがね。そう言って商人は帯にはさんだ金の袋をじゃらつかせる。
 女は道に立ちつくし、のろのろと城壁の方を振り返る。私が自由を捧げた男。それをローマが私から奪った。涙も出ない乾ききった目を、何を見るともなく女は、ただいつまでも、見開き続ける。
 気づけば、そばの商人が女の袖を引いている。木陰で少し休まないかね。
 朝の、ひと気のない街道。そうね、とつぶやき、商人の方に身をかがめた女は、稲妻の速さで抜いた短刀で一気に商人の喉をかき切る。死体の帯から金袋をむしりとると、かたわらで草をはんでいた馬の手綱をとってひらりとまたがって、あとをも見ずにローマから一目散に遠ざかる。
 うかつと言うな。愛した男の死も確かめず走り去ったことを。現実には女は、都に入ったかもしれぬわ。人々に話を聞き、男の死のさまも確かめ、その生涯と名を刻んだ墓や碑の前で泣き崩れたりもしたかもしれぬわ。
 じゃが、言い伝えはこのようになっておる。男の心を、自分以上に奪いつづけ、男の命をもてあそび、ついにはそれを呑み込んだローマを、女は決して許すことなく、城壁の中に足を一歩でも踏み入れることを拒んだと。人々はのう、そう信じたかったのじゃ。じゃから、信じさせてやれ。おお、信じさせてやれい。のう。どうせ、たわいもない作り話なのじゃから。
 女の馬がほこりをけたてて街道を走る。ローマが背後に遠ざかる。冷たい朝の風の中で女は気づく。男は死ぬ時、これでようやく自分に会えると思って死んだにちがいないと。そのとき初めて、ほとばしるように、乾ききっていた女の目に涙があふれる。その涙はとめどなく、とめどなくあふれつづけて、いつまでも、いつまでも、ついにとどまることがない。

第九章
 これはほんとの話だなぞと、わしゃ、一言も言うとらん。信じずとよい。のう、若いの。これはただの伝説じゃ。酒に酔いしれる男たち、迷信好きの女たちが、口から口へ語り伝えて、風にのり、水に流れて広がって行った物語じゃ。
 耳から入った偽りは、やがて、まなこの幻を生む。のう、若いの。このあたりの村の者なら皆知っておる話がある。月の夜に、闇の夜に、村のはずれや丘のかなたを駆け抜けて行く、二頭の馬の話がの。
 先にたつ馬には、豊かな黒い髪をふり乱した若い女が乗っておる。悲しみと怒りの涙にかつて幾度も洗われた目に、らんらんと強い光をたたえて女は夜を駆け抜けて行く。ふしぎなことに、伝説じゃのに、女は年をとるそうな。このごろでは波うつ髪も半ばは白く、それでも、しなやかに荒々しい身のこなしは、昔と少しも変わらぬという。
 伝説じゃ。よいか、若いの。スペイン人は皆嘘つきじゃ。まことしやかな話を作る。女の後ろにぴたりと従い、走らせてゆくもう一頭の馬の背には、かつてはまだ、あぶみに足も届かぬ程の、きゃしゃな小さな男の子が乗っておった。時とともにその子の背は伸び、ほっそりとした少年に、すらりと背の高い青年に、そして今では前を行く女よりひと回りもふた回りもたくましい、肩幅の広い大人の男になっておるとか。
 月の光にその顔を見て、「あの男なら知っておる」と言いはる老人もおる。「昔、ローマの軍団を率いてこの村を訪れ、丘の家で暮らしておった、あの男にまちがいはない」と。
 伝説じゃ。ただの言い伝えにすぎぬ。伝説はの、若いの。しいたげられた者たちの祈りじゃ。こうあってほしいという夢が、ありもせぬ幻をつむぎ、いつわりはやがて、まこととなるのじゃ。
 それでも、皆が見ておるという。二頭の馬がひずめの音も高らかに、闇をつんざいて駆けるのを。月光の中、丘の上で、女の髪がなびくのを。
 長いこと、姿が見えぬこともある。もう永遠にいなくなったかと思う頃、夜の中、闇を裂いて、またあの激しく力強いひずめの音が近づいてくる。

第十章
 伝説じゃ。ただの言い伝えじゃよ。マラガ酒をもう一杯ついでくれぬか。のう、若いの。この老人の、舌のすべりがよくなるようにな。
 二人はいったい、どこに向かって走っておるのか。どこから戻って来るのか。誰も、それを知らぬ。二人は、村の守り神じゃと言うてあがめる者もおる。軍隊や隊商を襲う悪魔じゃと言うて恐れる者もおる。疫病に苦しむ村を救うたの、牢獄を破って囚人たちを解放したの、貧しい旅の親子に道案内をしたの、そうかと思えば、子どもをさらったの、畑を荒らしたの、家に火をつけて焼いたのと、噂はまことにとめどがない。
 ただひとつ、わかっておるのは、どんな貧しい村が救いを求めようとも、どんな豊かな町が誘いをかけようとも、ひずめの音がひとつところにとどまることは決してないということじゃ。風のように自由に、火のように荒々しく、二人は闇を駆け抜けて行く。誰も、二人をとどめられぬ。誰も二人を、わが物にはできぬ。
 さもあろうよ。のう。さもあろうよ。鎖と檻を何よりも憎む女じゃもの。果てしなく広がる空と、どこまでも続く大地の間でしか、生きてはゆけぬ女じゃもの。
 伝説じゃ。ただのな。だが人はの。めいめいに、好きな話を信じることができるのじゃよ。思い思いの幻を、つむぎ出すことが許されておる。これだけはのう、若いの。どんな人間にも許されておる。
 夜、耳をすませて見よ。ひずめの音が聞こえてこよう。窓を押し開け、かなたの丘を見るがよい。崩れかけたばら色の石垣の上、はだらに降った雪のように夜目にも白い野ばらの花に包まれて、馬をあおってこちらを振り向く、二人の姿が見えようぞ。女の髪が風に舞い、男のひとみが月に輝く。と見る間もなく、たちまち再び馬を駆って、二人は一散に丘を下って、月の光が煙のようにうずを巻く、広野のかなたへ走り去る。
 信じずともよい。伝説じゃ。酒をつげ。若いの。もっと酒をつげ。夜はまだ、始まったばかり。さあ。耳をすませて見よ。息をひそめて目をこらせ。語り合い、語り伝える伝説を生み出す、ほのかな輝き、とりどりの色合いは、このたった今の瞬間にもまだ限りなく、夜の闇のしじまの中に、ただよい、したたり、あふれつづけておるものを。



「広場にて(山賊物語・附録)」
 私は今、ごったがえす広場の片隅に立って、宮殿から出てくる皇女の輿を待っている。兵たちの目を何とかかいくぐって、私の主人からの伝言を皇女に伝えなければならぬ。かつてはローマの将軍にして、前皇帝の後継者とまで目されながら、卑劣な敵の策略によって奴隷にまで身を落とし、今はローマ一の剣闘士として民衆の人気を集めている、それでも依然、奴隷の身には変わりがない、私の主人の伝言を。
 宮殿の門はまだ開く気配がない。左右にさりげなく目をやって、何者からもつけられていないかどうか私はうかがう。あたりは賑やかで、即興芝居や大道芸人がひしめき、食べ物の出店も多く出ている。
 入り混じる食物の匂いの中の何かが私の頭を刺激し、遠い思い出を呼び覚ます。そう、これは、ご主人のお使いで、ゲルマニアの戦線から遠いスペインのお宅まで私がしばしば出向いた時、小さな男の子をまとわりつかせながら、召使とともに奥さまが作って出して下さった、スペイン料理のあの匂いだ。
 振り向いてみるが、どの屋台からただよってくるのかはわからぬ。ただの一つの香料の香りであっただけかもしれぬ。

 昨日、私はコロセウムの入口で人ごみにまぎれて、ご主人に、かつて戦地で大切にしておられた、奥さまとお子さまの木彫りの小像をお渡しした。ご主人が逮捕されて連れて行かれた後に残されていたのを、私がこっそり取って隠していた木像だ。
 私の膝にすがって甘えて、剣の柄飾りをおもちゃにしていた、あの男の子も奥さまも、敵の手によってすでに故郷で殺されたとか。それを思うと、胸が詰まる。
 背の高い、目鼻立ちのくっきりとした美しい奥さまだったが、黙って静かにしておられると、どちらかと言えば地味な、少し陰気にさえ見える方だった。どうかした時お見せになる鋭いまなざしや身のこなしには、何やら魔女を思わせるような、どきっとする暗さもあって、私は時々、このような方と床をともにしていてご主人は恐くないのだろうかと、大変失礼なことも、ちらと思ったことがある。

 そんな私の内心を知ってか知らずか…ご主人はもともと口数の多い方ではなかったが、奥さまのことを話される時は、なつかしげな、どこかおかしそうな、そして聞いている私を、ほんの少しだけからかうような口調で話された。おまえにはきっとわからないだろうなあ…そんな、いたずらっぽいまなざしで。
 「野に放てば、強い。多分、私よりも。だが、人間の世界では、私が守ってやらないと、何もできない」
 一度、たしか、そうおっしゃった。
 「私が死ねばきっと、ひもを切られたハヤブサのように、はればれと大空に舞い立ってゆくよ。なあ、キケロ。ローマ軍広しといえども、この私ほど、自分がいなくなったあとのことを心配しないですむ兵士はいまい」
 そうも、話された。
 多分、あれは、本心だった。ご主人は、奥さまたちがご自分より先に死ぬことがあろうなどとは、おそらく考えたこともおありではなかったろう。それを思うと、どんなにおつらかったかと、考えるだけでも痛ましいのだが。自分が死んでいなくなれば、奥さまは解放される…と、本気でそう思っておられたようなところがある。それほど今は自分を深く愛していて、かわいそうなぐらいなんだよ、気がとがめてしまう…そう言わんばかりの話しぶりをなさることがあった。
 「ときどき、ものすごく怒っているのがわかるんだ。抱き合って愛し合っている時でさえ。私のことがあんまり好きで、それに自分で腹を立ててる」
 誰にともなく申し訳なさそうな口調で、少し困ったように笑いながらそうおっしゃったこともある。
 「私より太っている男は太り過ぎに見え、私よりやせている男はやせ過ぎに見えるらしいよ」
  …私は結局、のろけられていたのだろうか?
 ご主人は時々、本当にまじめな顔で冗談をおっしゃったから、ああやって言っておられたことの、どれがどこまで本心でいらしたのかは、わからない。
 だが、私が故郷からお持ちした、奥さまからの便りや品物を、いつでも子どものようにうれしそうに飛んできて、私の手から取り上げられていた様子を見ると、奥さまと同じぐらいか、もしかしたらもっと、奥さまのことを好きでいらしたような気がする。

  …そうだった。思い出した。
 私はずっと、奥さまのことを、少し暗くて謎めいた、恐い方だと思っていたのだが、一度、私がおいとまを告げて馬で去りかけた時、何か忘れ物を思い出されたらしい奥さまが、私を追いかけて来られたことがある。大きな声で私の名を呼びながら、あとかたづけをしておられたらしい、くしゃくしゃな服装で、髪を乱し、頬を真っ赤にして、全速力で丘の道をかけ下りて来られた。
 息をのむ美しさだった。雲ひとつない青い空からふり注ぐ太陽の光をさんさんと浴びて、汗ばんだ額におくれ毛をはりつかせ、まぶしいほどのいっぱいの笑いを浮かべて、私の馬の鞍に手をかけてふりあおいだ、その顔といい、姿といい。足ははだしで、土まみれだった。走り通して来たために豊かな胸は激しく上下し、大きく開けた唇からは、すこやかな荒々しい息が吐き出され…全身から、生命と、生きる歓喜と、何ものにも屈せず生き抜く獣のような気高い誇りがあふれていた。私は思わず、涙ぐみそうになった。たとえば、野の果てにまっしぐらに落ちて行く真紅の巨大な夕陽とか、雪を溶かした泥まじりの茶色の水で岸辺の木々をへし折って流れ下る春の大河を見た時のような感動が、胸いっぱいに広がって。
 ご主人にも時々、似たものを感じることがあった。町の人々には決してない、野生の獣のような無邪気さや、高貴さを…こざかしい理屈や法律を超越して、本能のみで生きている健康さのようなものを。だが、この奥さまはそれ以上に、飼い馴らされることなど決してあり得ない、野生の猛獣だった。ご主人への愛だけが、この方を人間の世界につなぎとめ、そのために味わう苦しみや痛みがどんなものでも、この方はものともされない…そのことが、そのとき、私には、すべてわかったような気がする。
 誰が、夕焼けを、虹を、星空を、自分のものにできるだろうか。嵐を、春の雨を、いっせいに散る花びらを。
 この奥さまに愛されるということは、それができるということにも等しい。身体全体にこみあげてくる、ほとんど欲情といってもいいくらいの激しい思いにつき動かされながら、その時私はつくづくと、ご主人は幸せな方だ、と思い、身の程も何もすべて忘れた、焦がれるような嫉妬にかられた。
 渡してもらうものを頼むのを忘れていたの、他愛もないお守りだから、あの人きっと笑ってバカにするだろうけど。そんなことを、まだ鎮まらない激しい息づかいと、恥ずかしそうな明るい笑いをまじえながら、早口に言って、奥さまは小さな包みを私の手に押しつけ、少女のように手を振って、また丘の道をかけ戻って行かれたのだった。

 それまでも時々、そういう小さい腕輪や首飾りを、奥さまは私にことづけられたことがある。包みのままにお渡ししたので、その時のお守りがどれだったのか私は知らない。昨日、ご主人とお会いした時、他の剣闘士奴隷たちと同じ青い粗末な服のすりきれた襟から、首に何かかけておられる紐は見えたが、あれは、そうだったのだろうか。
 ご主人は、奥さまが送ってよこしたそういうものの数々を、いったん腕にはめたり、首にかけたりしてしまうと、あとはもう、全然気にならないらしく、というか、つけているのを完全に忘れてしまっておられるようなところがあった。優秀な動物ってやつは、そうだからな、と私にその話を聞いた調教係の兵士の友人が、まじめな顔で言ったものだ。馬でも犬でも、いつまでも神経質に首輪や引き綱を気にするやつは大したことない。強く賢い動物ほど、危険がないとわかったら、身体に何がついていようとすぐ気にとめなくなるんだよ。なるほど、とうなずいたあと、恐れ多い会話だなと、二人して首をすくめたのだが。
 昼近くなった広場に、人はますます増えてきて、物売りの声がやかましい。
 それにしても、皇女の輿は遅い。



夢の都(山賊物語・参考資料)
この世に、正義がなされる場所があるなんて、私は信じない。
強い者が勝つ。賢い者が生き残る。それならわかるけれど。
人間は、欲望に支配され、嫉妬に狂う。生き残るためには、どんな醜いことでもする。
いやというほど、それを見てきた。
絶望はしない。でも、希望なんて持たない。

それは人間が、しいたげられているからだ。
貧しくて、生きるためには醜いことをするしかないからだ。
人間は、本当はもっと美しいものなんだよ。
一人一人の力は小さいし、長い歴史の中で、生きたという痕跡さえ忘れられて行くけれど。
でも、そんな名もない一人一人が力を合わせれば、世界も、歴史も、変えられる。
あの人は、そう言った。
大げさではなく、熱っぽくもなく、あたりまえのことを言うように。
私は笑った。…少しはね。 変えられるかもしれないけど。
あの人も笑った。…少しでも、いいのさ。

人間はね、偉大なことができるんだ。
美しい都を築き、豊かな生活を保障し、誰もが安心して暮らせる幸福な社会を作り出せる。
貧しさや、争い、疫病や飢餓…人間は、それを、いつかはきっと、地上から消せる。
現に、そういう都があるんだから。
私たちと同じ人間が、それを築いたんだから。
私は、また笑う。…行ったこともないくせに。
あの人は、ちょっぴり、だだっ子のような目をして、私のあごに、かたちのいい、きれいな鼻の先をこすりつけてくる。…行かなくたって、わかるもの。

川から水を運びつづける時の、肩にくいこむ桶の柄の重さ。
ひときれのパンを、姉と争いあって泣いた日々。
骨と皮だけになって死んだ祖母は山に捨てられ、雪の夜に眠る寝床がほしいだけで私は見知らぬ男たちに抱かれた。
子をなぐる母。夫を裏切る妻。親を殺す息子。
それは皆、現実だ。すべて私が、この目で見てきた。
この人の、美しい都の話だけでは、それらを消してしまうことなどできない。
でも、そんな都があるんだよ。あの人は眠そうに、なかば目を閉じながら、口の中で繰り返す。本当に、あるんだよ。
半分、もう眠っているので、都を夢見て唇に浮かべている微笑は、無警戒で無防備になって、この上もなく幸せそうだ。長いまつ毛がほおに影を落とし、それをかすかに動かして、あの人はまたつぶやく。ひとつ、そんな都ができるってことは、他にも作れるってことなんだ。それが世界に広がって…人間は皆、幸せになって…。
そのあたたかい声を聞き、うっとりと幸福そうな寝顔を見ていると、私の中につもっていた苦悩も、激怒も、怨念も、雪のように皆とけてゆく。人間は、そんなに美しいのだろうか。この人が信じているように。
あの人は、まつ毛をぱちぱち動かして、手首を目にあてる。…明かりを、消そうよ。まぶしくて、眠れない。
あの人に見えないことは承知の上で、私は黙って首をふる。見せていて。あなたの顔を見せていて。その幸せそうな寝顔を見つめつづけていなければ、私がこれまで見てきた、たくさんの、醜くゆがんだ死者たちの顔、暗く悲惨な情景の数々が、消えない。
でも、それは、この人だって…。

…戦場は見なかったの。私はささやく。人もたくさん殺したはずよね。あなたは私よりずっと、たくさんの血を見たし、命を奪った。それでも信じていられるの。人間は、美しいって。
あの人の喉仏が小さく動いて、まだ眠ってはいなかったとわかる。あの人は目を開ける。明かりにその目が、きらきらと光りをあふれさせる。どんなにつらくても、とささやくように、あの人は言う。どんなに血に汚れても、あの都だけは守り抜かなきゃいけないんだよ。だって、もし、それがほろびてしまったら…。
私は息をとめて待つ。あの人が何を言うかと。あの人は言う。もし、それがほろびてしまったら、人間の偉大さも、強さも、美しさも、いつかは、きっとそうなるだろう、と頭の中で空想するしかなくなるじゃないか。本当に、あの都があるから、だから…信じられることって、たくさんあるだろう?だって…
ああ、わかる。もう、それ以上言わないで。あの人を抱きしめて、その目に私は口づけする。わかっているわ。それはわかる。私だって、あなたを見ていなければ信じられないことが多い。だから、明かりを消さないの。
なのに、口に出しては、私は言う。あなたは、その都を見ていない。それじゃ、存在しないのと同じことじゃないの?
…ちがうよ、とあの人はまた少し、だだっ子のような口調になって笑う。見てなくっても、あるとわかっているのと、ないのとではちがうんだ。あるとわかっているから、戦える。どんなつらいことにも、耐えられる。
あの人のひとみは、ぬれて、輝いている。唇にひとりでに浮かぶ笑いは、幸せそうで、清らかで、恐れを知らない晴れ晴れとした明るさをたたえている。私がくいいるように見つめていると、その目と笑いが、ふっとゆれて、はにかむ。…ねえ、とまた、あの人は言う。明かりを消しちゃ、だめなのか?
私は黙って、首をふる。





(2004年1月6日に、「広場にて」の中の「私は自分がローマの町なかに生まれて育った都会人なので、特にそう思ったのかもしれないが、」の一節を削除しました。
 「鎖の解ける朝 ー残照ー」の完成にともなう処置です。
 一応、すべての作品を一つの話として読んでも矛盾がないように書いているので、そこはかとなく、つじつまは合わせておきたいと思います。
 前のバージョンが好きだった方、ごめんなさい。でもここを削除しても、彼が町育ちという可能性が消えたわけではないですからねー。)