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春、爛漫 −コモドゥスの思い出ー

 マキシマスが皇帝になった宮廷でぶらぶらしているコモドゥスが、マキシマスの息子マルクス君に語って聞かせる幼い頃の思い出。

(と言っても、それはほとんどマキシマスと初めて会った一日のこと。回りから大切にされてはいても、孤独で淋しかった自分を、一人前の男の子として扱ってくれ、のびのびと自信を持たせてくれた年上の少年兵。いっしょに馬に乗り、野原に寝ころんで過ごした日々。
 でも、その日々はもう帰りません。
 コモドゥスが失ったものとは何か、それを失ったのはなぜなのか。
 彼にはいつかそれがわかることがあるのだろうか、と私は時々、思います。
 なお、「呪文」を読めばおわかりですが、この二人の幼い日々は、マキシマスが皇帝にならない、映画のままの未来を描いた私の小説の世界にもつながっています。どちらの世界でも、二人のこの過去は同じです。)



春、爛漫

(1)
 冷たい木枯らしが吹き荒れて、窓の鎧戸はずっと、かたかた音をたてている。へやの中の火桶には赤く石炭が燃えているが、どこからともなくしのびこむ冷気は、ともすればしんしんと床に積もってくるようだ。今夜は、雪になるのかもしれない。
 「おまえのおやじに、初めて会った時のことを話せって?」
 コモドゥス叔父さまは、紅玉と真珠の指輪をはめた長い指の手の中で、ワインの杯をもてあそびながら、やや上目づかいに僕をじっと見つめた。
僕は目を伏せ、青銅の火桶の中の炭があげる小さな青い炎を見つめる。火のそばは暖かくて、長椅子の上の毛皮に頭をもたせかけていると、ついうとうとと眠くなる。
 「陽炎がゆらゆらゆれる中にあいつは立って、こっちを見て笑ってたよ」叔父さまはつまらなさそうな、そっけない声で言った。「春だったからな。春の駐屯地だ。ローマの近くで、あいつのいた軍はそこにずっと野営してた。あたりは一面、畑だったから掘り起こされた土くれの香りがただよっていた。おれは輿に長いこと乗ってたんで、まだ頭がふらふらしてて、ぼうっと歩いて行った。そうしたら、あいつがいたのさ。草の中に立って、赤味がかった茶色のチュニックの袖をひじまでたくしあげてた。白や黄色の蝶々があいつの回りをひらひら飛んでて、雲雀の声が…」叔父さまは言葉を切って、唇に薄い笑いを浮かべた。「マルクス、おまえ、いくつになった?」
 「十四だよ」
 「じゃ、あの時のあいつと同じ年だな。おれはその時、七つだったよ。ローマ帝国の皇帝の息子、押しも押されぬ皇太子さ。あいつはスペインの田舎から出てきた、ただの一介の少年兵だった」
 叔父さまは火かき棒を取って、灰になりかけた石炭をつっついた。
 「それがまあ、どうだ。今ではローマの皇帝だ。かたやおれは、元皇太子っていうだけで、次の皇帝になれる見込みもなく、こうやって毎日、宮廷でぶらぶらしている皆のやっかい者ときた。変われば変わるもんだよなあ」
 「そうやってぐちってる時って、いつも叔父さま、変に楽しそうだよ」僕は言ってやった。
 叔父さまはくすくす笑った。「そりゃそうだ。おまえのおやじが、そわそわするしな。あれをみているだけでも楽しい」
 「いい趣味じゃないと思う」僕は叔父さまをまっすぐ見て、きっぱりと言ってやった。「だいたい、そうなったのは、父のせいではないでしょう。父にあたってどうするんです?」
 「あたってるわけじゃない。面白がってるだけだったら」
 なお悪いんじゃないんだろうか。
 木枯らしがまた、窓を鳴らす。僕が宮殿の蛇使いから貰ったペットの蛇が、部屋の隅の箱の中でとぐろをまいて居眠りしている。半分冬眠してるのかもしれない。元老院議員のグラックスさまが下さった二羽のアヒルも、そのそばの木箱の中で眠っている。寒そうだったから今夜だけ、こっそり中に入れてやったのだ。
 「あいつのせいじゃないと言うが」叔父さまは新しいワインを杯に注いだ。「それはそうでもないんだぞ」
 「父が、自分が皇帝になるように画策したとでも言うんですか?」
「そうじゃない。そうでないからやっかいなんだ。画策なんてそんなことしてみろ、おれだってちゃんと気づいて、それなりに手を打ったさ」叔父さまは笑った。「姉上が、そのことで…」
 「ルッシラ叔母さまが?」
「よく、おれのことを笑い物にしたもんさ。おれたちの父上が、おまえのおやじを次の皇帝にすると言った時、おれが父上に言ったことでな。おまえもそれは、聞いてるんじゃないのか?君主には持つべき四つの徳がある、ってやつだが」
「それは家庭教師の先生から聞いたけど」僕は言った。「知恵、正義、忍耐、自制心…」
 「いい、いい、そんなのはいいんだったら」叔父さまはうるさそうに手を振って、鉢に入ったイチジクの砂糖漬をつまんで口に放り込んだ。「それが父上の口癖だった。だから、その時、おれは父上に言ったんだ。おれには、そんなものはない。でも、おれにだって、それなりの徳はある。野心とか、勇気とか、献身とか、機略の才とか。で、あとで父上にその話を聞いた姉上は、おれをさんざんからかった。他の美徳はともかくとして、あなたに野心だけはあるものですか。仮にも野心家ででもあったなら、もっとちゃんと状況を把握し、ライバルをチェックしておくものだわよ。マキシマスがあれだけ、お父さまに気に入られてかわいがられているのを見ていながら、彼が次の皇帝に指名される可能性を考えても見ず、自分が指名されるものと決め込んでいるなんて、能天気なのもいいところよね…って」
 叔父さまはルッシラ叔母さまの物まねが抜群にうまい。変な裏声を使いながら、手のひらをくねくねさせて話すその口調に、僕は思わず吹き出して、毛皮の上につっぷしてしまった。
 「いいか」叔父さまは、顔をしかめて陰気な目で、じっと火桶の火を見つめた。「そんなこと言う姉上だって、おまえのおやじが指名されるなんてこと、全然予想していなかったんだぞ。自分がびっくりして、そんなこと考えてもなかったのを他人に気づかれるのがくやしいもんで、先手を打っておれを笑い物にして、自分もアホだったことに気づかれないよう、ごまかしているだけだ。おれは心が優しいから、見逃してやっているのさ」
 もう、本当によく言うよ。でもまあ、たしかにルッシラ叔母さまにも、そんなとこ、ないとは言えないけど。
 「おれは、ちゃんと手を打ってたんだ」叔父さまは長椅子に寝転がり、宙に持ち上げた片手の指を折って数えた。「あの時、たしか六人いたんだ。待てよ、七人だったかな。おれがライバルと思ってたのは。元老院議員の若手が二人。ヴァレスの親戚の軍人が一人。前々皇帝の息子。近衛隊の隊長やってた老人。父上の親友の哲学者。まだいたっけか。姉上で女帝という線だってひょっとしたらと思ってた。あらゆる可能性を考えて、そうならないよう手を回して、これでもう万全と思ってたんだ。どいつも、まずはもう安全、だからもう、あと残るのはおれしかいない。そう結論を出していたのさ」
 「それって、やっぱり甘かったんじゃないの?」僕はイチジクの砂糖漬をほおばりながら言った。「今の近衛の隊長のクイントゥス小父さまも、元老院議員のグラックス小父さまも皆、言ってたよ。父上が皇帝に指名された時、皆が当然の選択だと納得して、ちっとも違和感なかったって。それを、予測もしなかったなんて…」
 「指名された後では、そうだったんだ。誰も、不思議に思わなかった。おれだって、何で予想しなかったのか、自分で自分に唖然としたよ。それもこれも、おまえのおやじが悪いんだ。何もかも、あいつのせいだ」
 「えらく、突然の展開だよね」僕は吐息をついた。「いったい何でそうなるのさ?」
 叔父さまはけだるそうに寝返りをうって腹ばいになり、毛皮を足にかけてひきよせながら、低いうなり声をあげた。
 「おれがライバルとして目をつけた奴らは…なあ、マルクス、そういう奴らってのは、ひとりでにわかるものなんだ。ひょっとしたら、皇帝になれるかもしれん…そう思った瞬間からマルクス、人ってやつは微妙に変わる。どう隠しても、顔色やしぐさのどこかに、それが出る。変にていねいになったり、逆に傲慢になったり」
 叔父さまは意地悪そうに、楽しそうに、目を輝かせた。
「見てると、ほんとに面白いぞ。近衛隊長のじいさまがその気でいるのに気づいたのは、書類をおれに渡す時の、指の動かし方だった。元老院の議員の一人もやる気だなとわかったのは、発言の時の敬語の量が増えたからだ。なあ、マルクス、おれはそういうことを決して見逃さんのだよ。一人ひとりの心に生まれる、地位や名誉へのあざとい欲望をな。ごきげんをとり、浮かれ、落ち込む、変化のさまが、手にとるようにおれにはわかる」
 「哲学者でも?」
 「あいつが一番ひどかったぜ」叔父さまはあざ笑った。「そんなことは何も気になりませんてな顔をしながら、その手の噂が出るたびにそわそわ落ち着かなくなってな。実際、見られたもんじゃなかった。情報を持ってる奴の顔の方に、目だけがきろきろ動くんだもんな。皆、気づいて笑ってるのに、当人だけが知らないんだから。哲学なんていうものは、そんな時、くその役にもたたんものだと、おれはしみじみわかったね」
 僕はこんな時、叔父さまが恐いと同時に憎くなる。思わずにらみつける目つきになっていると、叔父さまがからからと笑った。
 「それで、おまえのおやじだが」
 僕は思わず緊張して、叔父さまを見つめた。
 「あいつは、あのバカは、もう本当に何と言ったらいいのかまったく…」
 「何なんだよ?」
 「そんな気配が、どこさがしても、まるでかけらもなかったんだよ」いまいましげに叔父さまは言った。「だからつい、おれも完全にノーマーク、ノーチェックだったわけだ。客観的に考えりゃ、一番要注意人物だったのに…何しろ、父上があいつに向ける目つきときた日にゃ、若い恋人でも見るのと同様、でれでれのとろとろ、なめこくって食べてしまいたいてな顔してたんだぜ。おまけにあいつは、元老院でも人気があったし、軍はあいつの言いなりだった。氷の穴でも火の海でも、あいつが命令すりゃ兵たちは飛び込むとさえ言われてたほど、人気の高い将軍だった。それでも、何の心配もしなかった自分が、今でも信じられないよ。あとで考えれば考えるほど、おれはバカだったが、しかし、自分でも無理もないって気もする。あの頃、姉上の夫で父上の共同統治帝だったヴァレスの葬式や、その他の何やかやで、何度かあいつに会う機会があったんだが、皆でいる時、次期の皇帝が誰かって話が出ても、まるで春風のようにのんきな顔してて、あいつの回りの空気だけは、そんな生臭い話の中でも、そよともそよいでいなかった。その一方で、おまえたちのいる、故郷のスペインの家の、桃色の石垣の話とか、ポプラの木の話になると、ほんとに楽しそうにそわそわして、帰ったら葡萄の収穫に間に合うだのどうのと目を輝かせて夢中で話すもんだから、皆思わず顔見合わせて苦笑して、ちょっとだけ権力闘争の話題忘れて妙にほのぼのした気分になっちまったりしてさ。で、ふた開けたら、その当人が皇帝だぜ。まったく、ふざけた野郎だよ。しかも、皆、あっと驚いてあんぐり口を開けた次の瞬間には、うなずきあって、それは確かに彼しかいないと一も二もなく納得したんだからな。ますますもう、とんでもない奴としか言いようがない」
 「父は、ほんとに自分でも、まったく予想していなかったんでしょうか」
 「だとしか思えん。だからあれだけ、回りもだまされたんだ。とは言え、おれもバカだった。おれだけは気づいてもよかったんだ、今思えば。あいつはそういうところがあるって、少なくともおれは知ってたはずなんだから」
「どういうこと?」
 叔父さまは、唇をゆがめてふっと笑った。
 「初めておまえのおやじに会った頃、姉上ときたら、もうメロメロでな」ちょっと鼻にしわをよせるようにして、叔父さまは言った。「まだ、あいつに会ったことのないおれをつかまえちゃ、毎晩毎晩、眠たくなるまでしつっこく、おまえのおやじの話ばかり、おれにして聞かせたもんだ。で、あいつと会ってしばらくした頃、そのことをおれがあいつに話してやると、あいつ、初め、何のこと言われてるのか全然わからない顔してた。わかった後では、おれに気づかれまいとして、超あいまいな顔でごまかしてたが、それでも、ぽかん、唖然、きょとん、あっけ、という心境なのが手にとるようにおれにはわかった」
 「それって、つまり…」
 「ああ。姉上はそれだけあいつに夢中だったのに、あいつの方はまるきりそれに気づいてなかった。おれは時々思うんだが、父上からだって、どれだけ好かれてたか、あいつ本当にわかってんのかね?あいつ、自分は一生懸命、人を大切にし、愛しもするが、人に愛されることは求めないし、相手が自分をどれだけ愛してるかなんてまるで気にせず無頓着、そういう意味じゃひょっとしたら冷たい人間かもしれん」
 何をほんとに言い出すのやら。
 「ルッシラ叔母さまに前に聞いたことがあるけど、叔母さまは初めて会った頃、父に意地悪ばっかり言ってたらしいよ」僕は言った。「だから父には、好かれてるなんてわからなかったんじゃないの?」
 そう言いながら、ふと思った。ひょっとして、今、叔父さまが何かというと父上に嫌味を言ってかまうのも、これは一種の愛情表現なんだろうか。
つくづく困った姉弟だなあ。


(2)
 風の音は、まだ激しい。ぱらぱらと時々鋭く窓が鳴るのは、雨か、ひょっとしたらあられがまじっているのだろうか。
コモドゥス叔父さまは毛皮の下で居心地よさそうに足をくみかえ、銀色の房のついた朽葉色の絹のクッションに頭をもたせかけながら、杯を持ち直してワインをすすった。
 「思い出すなあ…姉上とよくこうやって、冬の夜、栗やくるみをかじりながら語りあかしたもんだった。小さい時には、ひとつの毛布にくるまってな」
 ああ、そう言えば僕と母上も、僕がまだ小さい時、戦いに行って父上が留守のスペインの家の、暖炉の前で、そうやっておしゃべりをしたものだったけれど。古いおとぎ話や、ちょっと恐いお化けの話を、母上は手の指で壁に影絵を見せながら、語って下さったりしたっけ。
 「あの年…姉上がおまえのおやじと会った年は、冬中、おまえのおやじの話ばっかり聞かされたっけよ」叔父さまは言った。「もう、すごかったぞ。何の話をしていても結局は必ずそこに行くんだからな。父上のこと話してると、父上がマキシマスのことをこう言ってた、だろ。近衛兵の閲兵のこと話してたら、あの制服をマキシマスに着せたらきっと似合う、だろ。侍女たちの話をしていたはずが、マキシマスの好きな女性のタイプの話になる、明日の朝食べる果物のこと言ってたのが、マキシマスのオレンジの皮のむき方が面白いって話になる。マキシマスの手足はたくましくてしなやか、マキシマスの肌のきめは細かくてみずみずしい、目が優しくていたずらっぽい、声がものうくて甘くて、聞いてると身体がとろけそう、馬を走らせる姿のりりしいこと、すごく大人びてしっかりしているくせに、ひょっと子どもみたいに頼りきった素直な表情をするから、心臓がひっくりかえりそうになる…女がなあ、あんな口調でしゃべり出したら、もうだめだな。絶対、黙って聞くしかないよ」
 そう言われると、何だかそんなようなことが、僕にもあったような気がして、おぼろな記憶を僕はさぐる。母上は暖炉の前で、時々ふざけて僕を抱きしめ、ちょっとうわずった声で笑いながら、それまでお話をして下さっていたのとはちがう、変に浮き浮きした熱っぽく甘い口調で、僕に語りかけられることがあった。…覚えている、マルクス、父上のお顔を?おまえの目の色の方が黒いけど、でも、この睫毛の反り具合、この眉のかたち、何ておまえは父上に似ているの。耳のかたちも。鼻もそっくり。ほら、笑ってごらん。ああ、その笑顔。あら、そんな困ったしかめっつらをすると、ますます似て来てしまうのね。そして、そんな自分を恥ずかしがっておられるように、頬を染めながら笑われて、僕の目に耳に鼻に荒っぽくキスして、僕も何だか、わくわくして恥ずかしくて、実際にくすぐったくもあって、声をたてて笑いながら母上の腕を脱け出して、暖炉の前に身体を丸めて転がって逃げて。
 あれって、何だったんだろう?ちょっと人には話しにくい気がするけど、決してそんなにいやじゃなかった。そう思って、叔父さまの顔を見上げると、叔父さまは杯を手の中で回しながら黙って火を見つめていた。どこかすさんで疲れているが、美しい横顔だった。
 「嫉妬もしなかったな、考えて見ると、あの頃、おれは」
 間もなく、ぐいと杯をあおって、つぶやくように叔父さまは言った。
 「姉上の話を、あの頃おれは何でも信じた。あの人の目を通して、おれは世界を見ていたよ。あの人がバカだという召使はバカに見えたし、あの人が美しいと言ったから、すみれの花が美しいと思った。おまえは身体が弱くてやさしいんだから、乱暴なことはしてはだめと言われたら、そうなんだと思って、そのとおりにしてた」
 「今はもう、ちがうんでしょう?」
 「ああ。ちがう」叔父さまは首を振り、ゆっくりとワインを注いだ。「思えばそれも、おまえのおやじのおかげかもな。あいつは、おれを大切にしたが、姉上とはまるでちがった風にだった。初めて会った時からずっと…何て言ったらいいか、おれのことを信頼して」
 叔父さまは毛皮をはねのけ、長椅子の上に片膝たてた。
 「皇太子と兵士だからっていうだけじゃなく、対等の大人として扱ってくれたんだ。一人前の男としてな」
 「父も叔父さまも、その時、子どもじゃなかったの?」
 「おれはとにかく、おまえのおやじは、駐屯地じゃもう、ずっと年上の兵士たちからも大人扱いされてたよ」叔父さまはふっと笑った。「こう言っちゃ何だが、女も知ってたんじゃないのか?」
 「僕と同い年で?冗談でしょう?」
 「わかるものか」叔父さまは天井を見上げた。「あの頃なあ…いつだったか、雨のしとしとふる朝、駐屯地に行ったら、おまえのおやじが一目でそのへんの村の売春婦とわかる、太って汚い年増女がめそめそ泣くのを、それこそ抱かんばかりにして一生懸命なぐさめていた。川っぷちのヤナギの木のかげでな」
 「まさか、もう」
 「本当だったら」叔父さまはうれしそうな、意地悪そうな目で僕を見た。「でもまあ、そいつは、あいつの女じゃなかったらしいや(叔父さまは残念そうだった)。おれは、テントのかげに馬をとめて、どきどきしながら見てたんだが、まもなく女が泣きながらあいつになだめられて帰ってしまうと、あいつは雨の中をテントの方に走って行った。ついて行って見たら、あいつ、自分よりひと回りも大きい年上の兵士をつかまえて、どう考えても説教してるとしか思えない口調で、何か話してた。ちゃんとしてもらわないと、軍全体があんたのおかげで迷惑するんだ、みたいなことを言ってたな」
 「その兵士が、女の人の恋人だったわけ?」
 「知らんよ。そうだったんじゃないのか。兵士があいつに何かぺこぺこしながらテントの中にひっこんで行って、あいつは何かもう、やってられんわって顔しながら髪かきあげてふり向いて、おれがいるのを見つけると笑ってかけよって来て、ぬれますよと言って自分のマントをおれの頭からかぶせてくれたっけが、でもまだ時々、兵士の消えたテントの方を怒ったような目で見ていたな。どうかしたのかって聞いたら、村の商売女だって、傷つくこともあるっていうのが、全然わかってないんですよ、あいつは、って、えらいきげんが悪かった」
 叔父さまは首を振った。
 「何だかすごく、カッコよく見えた。そんなことしたり言ったりしているあいつが。そりゃ、模擬戦闘や試合の時に、ばったばったと相手をかたづけている時も、年下の少年兵たちに剣や弓の指導をしてて、回りを取り囲んだ少年たちの目があいつの動作や視線を追っていっせいに動いているような時も、それなりに見ててうっとりしたが、それ以上に、何てすごいんだと思ってな」
 「父はそんなに強かったの?」
 「ああ」叔父さまは言った。「強かった。だが、ただ強いだけではな、あんなに人はひきつけられない。年上の兵士や上官は、あいつをからかったりおもちゃにしたりしながらも、本当にかわいがってた。あいつがおれのわがままを聞いてくれなかったりして、時々おれたちが対立すると、他の年かさの兵士たちは心配して必ずそばに寄ってきて話しかけ、殿下、こいつはバカなんですから相手にしちゃいけませんとふざけて、あいつを殴るふりをして見せたりする者さえいた。けっこう、命がけの介入だとは思わんか?おれの不機嫌のとばっちりをうけることを恐れずに、そうやって守ってくれる仲間を、あいつはいつも持ってたんだ」
 叔父さまはまた首を振り、薄く笑った。
 「そして、年下の少年兵たちの、あいつに向ける目といったらなかったな。弓矢を手にして扱い方を説明している、あいつの言葉を一言も聞きもらすまいとして、回りの少年たちは息をつめてた。あいつが何か冗談を言ったり、誰かの頭や肩に軽くふれたりすると、皆が本当に楽しそうにどよめいて笑った。あいつがそこまで皆に愛されたわけは何なのか、おれはいまだによくわからない。そもそも、あいつそのものが、バカか利口かよくわからない。絶対に鈍感じゃないんだが、時々どこかがぽかっと抜ける。人の気持ちをおれでもかなわないぐらい鋭く読むかと思ってると、まるで気づかなかったりする。すごく冷たい時があるんだが、それも気づかないでそうなのか、気づいた上での意地悪なのか、わかりにくいんだよな」
 「父が、意地悪?冷たいんですか?」
 「気づかんか?そういうところ、あるだろう?あいつの気性の底は知れない。ものすごく激しいところも、荒々しい、残酷なところもあるからな。これまでのところ、そんなものを出さないでも、あいつは勝って来れたから…いや、逆か。そんなものを出さないから、出さずに抑えられるから、あいつは勝ちつづけるのかもしれん」
 年取った召使が、新しい石炭の籠を抱えて入ってきて、部屋の隅においた。いかにも農民らしい素朴な顔の老人だが、もとは百戦錬磨の勇士で、父上が皇帝に指名された時も前線で戦っていて、叔父さまの世話係をしたこともあるらしい。叔父さまはあまり、というかまるっきり奴隷や部下には優しくないのだが、この召使だけはわりと気に入ってるらしく、ちょっと目をなごませて、リューマチは最近どうなんだと聞いた。ぱっとしませんですなと召使はため息まじりに答えて、ワインをお持ちしなくていいですかと聞いた。いや、充分あると叔父さまは答え、召使はひきさがって行った。
 「こう、だらだらと平和な日々が続いたんじゃ」叔父さまはあくびをした。「おまえはおやじの戦うところなんて、ひょっとして見たことないんじゃないのか、マルクス?」
 「以前、もっとおひまだった頃に、剣の稽古とかつけていただいたことはあるけど」
 「じゃ知るまいが、おまえのおやじが戦う時っていうのは、本当に無駄な動きがないんだ。全部、何かの役に立つ動きしかしないんだ。そうするためには、相手の動きを予測しなくちゃならないわけだが、おまえのおやじは、これがもう、抜群に速い。瞬間と言っていいぐらいあっという間に、相手の動きのパターンを見てとって、それに合わせて自分の動きを変えてしまう。と言うことはだ、あいつ自身の身体の動きには、これと言った癖が何もないってことなんだ」
 「型にはまってないということ?」
 「ある意味じゃ逆だな。とことん、基本に忠実なんだよ。だから、激しく戦っている時でも、見ていると模範演技そのものの動きをしてる。まるで絵のように、ものすごく動作が美しい。だが、基本とは長い年月かかってすぐれた達人たちが作り上げてきたものだから、逆に言うと一番あらゆるパターンに対応できる、変化しやすいものでもあるんだ。おまえのおやじの戦い方を見ていると、そのことがしみじみよくわかる」
 叔父さまは、考え込むように目を細めて、ゆっくりとワインをすすった。
 「おれも剣闘試合は好きだしさ、いろんな優れた剣闘士を見てきたが、強いやつというのは必ず、自分の得意技や、このかたちに持ち込んだら勝てるというかたちがあるんだよ。だが、それが逆に命取りにもなる。そこに持っていこうとして、つい無理をしたり、そういう流れを作ることに気を取られて全体の動きを見失うからな。だけど、おまえのおやじはな、剣でも組み打ちでも、昔から、これだという得意技がないんだ。このかたちになったら勝てるという、かたちもな。だからまったく、これというこだわりがない。相手をじっと見守って、ぴたっとひたすら合わせて来る。どうかすると、相手は自分自身と…それも、自分より少しだけ強い自分自身と戦っているような錯覚に陥るぐらいだ」
 それって、すごくいやなことにちがいないと僕は思った。でも、自分より少しだけ強いというのは、たとえばどんなところが?そう、叔父さまに尋ねると、叔父さまは、唇をちょっとゆがめるようにして笑った。
 「少しと言ったが、その少しは決定的なのかもしれんな。さっき、言わなかったっけか?あいつは我を忘れないんだ。火のように激しく戦っていても、水のように…ほとんど氷のように冷静な目をしてる。憎しみや怒りや恐怖で我を忘れることなんか決してないし、挑発しても動揺しない。不合理な動きを決してせず、落ち着いてこちらを見つめつづけている。そりゃ、実際にはあいつも必死なのかもしれんが、相手はそんな気がするんだ。そしてだんだん、ああ、もうこれだけ見抜かれていたらだめだという気になって、蛇ににらまれた蛙みたいに身体から力が抜けて来るって寸法さ。はたから見てて、はっきりわかる」
 叔父さまは、杯を床に置き、両腕で膝を抱えた。
 「多分な、ふだんの心の動きも、あいつはそんな風なんだ。戦ってる時と同じで、これといったこだわりが何もない。相手や回りの動きを予測するのだって、大抵の人間がやるのは予測じゃなくて、ただ単に自分がこうなったらいいなと思ってる勝手な願望さ。だから、相手や回りがそれと違った動きをすると、裏切られたって泣きわめくバカが多いんだ。あいつのはそうじゃない。都合のいい願望なんかじゃない、本当の予測だ。まったく先入観なしに、素直に相手や回りを見て、こうするだろうと結論を出す。だから、めったに間違えない…自分に関すること以外はな。そして、そういう状況を見極めたら、あいつはこれまた、何のタブーもこだわりもなく、その時一番相手にとっても自分にとっても有効と判断したやり方で、ことを解決しようとする。マルクス、あのな、おどかすわけじゃないけどな。おまえ、あいつに恋人になってくれとか寝てくれとか、冗談にでも言ってはいかんぞ」
 「何でもう!」僕はあきれて、本当に怒った。「僕ら、実の父親と息子だよ!たとえそうでなくたって、そんなこと、夢にも考えるもんか!」
 「ふうん、そうかね。頭のすみにでもなかったか?あいつのたくましい腕に抱きしめられたいとか、優しい笑顔にキスしたいとか。息子ではなく、恋人として」
 「叔父さまの頭とはちがうからね。ないよっ!」
 「怒るなって」叔父さまは手をのばして、僕の膝をたたいた。「おれが言いたかったのは、あいつの頭の中には、こういうことは絶対してはいかんという堅苦しさがあんまりというか、ほとんどないから、ひょっと、そうした方が当面、相手と自分とに一番いいと判断したら、どんなことでもけろっとして、やってしまいかねんということだ。現にそうやって、あいつはおれを抱いたんだから」
 「はあ!?」僕は長椅子から飛び上がった。
 「ちがうちがうちがう。あわてるな」叔父さまはうるさそうに手を振った。「そんな深刻な意味じゃない。あの頃、姉上は小さい頃のように夜もいっしょにいてくれなくなりはじめてた。おれはまだ子どもで、姉上にべたべたしていたかったから、それが淋しくて、時々、すきを見ちゃ姉上に抱きついちゃ怒られてた。そういう時は落ちこんだ。いつだったか、あれも春で、キンポウゲがいっぱい咲いてる草っ原だったと思うが、馬に草を食わせてて、おまえのおやじと二人で休んでる時、おれがそうして元気がなかったんで、あいつがどうしたのか聞いて、おれが姉上がかまってくれないからつまらない、抱いてキスしてくれって言うと、あいつ、まるでマントの紐を結んでくれと頼まれたみたいに平気な顔で、笑いながら力いっぱいおれを抱きしめてキスしてくれたよ。息がつまって、身体の骨が折れるんじゃないかと思ったぐらい力をこめて、強く。あいつの髪にはキンポウゲの花びらがくっついてて、身体からは花の香りがした」
 叔父さまのさっきから言おうとしてることが、少しだけわかる気がした。
 「他に、しようがないと思ったんだろうね。叔父さまを元気づけるには」考え考え、僕は言った。「それが一番、効果があると思ったから、あれこれ無駄なことしたり、ためらったりはしなかったんだ。そんなことして、時間を無駄にして効果が薄れたり、叔父さまがますます落ち込んだりするぐらいなら、さっさとキスでも何でもしちゃった方がいい、みたいな?」
 「だろうな。もっともその後、同じ顔で馬の鼻にもキスしてたけどな」叔父さまは言った。「要するに、あいつは、そういうことをあまり、深刻には考えんのだ。そういうところは、おれの父上とちょっとちがった。父上は、おれに言わせりゃ、哲学者である以上に詩人でな。たいがい、情熱的で変なところもあったんだが、それを自分で、おさえこんでた。父上は多分、恐れていたんだと思う。歴代のローマ皇帝の狂気、乱行…自分の中に流れる、そんな血を。だから、そういう点で自分に似ているおれを苦手にしていたし、自分の中のそういう危なっかしさや激しさもコントロールしようとしてたと思う。でも、おまえのおやじは、もっとのびのび、無邪気に、平気で、変だったよ。奴隷になろうと娼婦になろうと、けろっと生きていけそうな、わけのわからんところがあった。ほんとに一度、淋しくて不幸で死にそうだから恋人として抱いてくれと頼んでみろよ。他に方法がないのならしょうがないと言って、案外あっさり…」
 「もう寝るよ」僕は立ち上がった。
 「まあ待て」叔父さまは僕のベルトを後ろからつかんでひき戻し、長椅子に尻餅をつかせた。「おまえがそもそも聞きたがった、おまえのおやじと初めて会った時のことを、話してやろうじゃないか」


(3)
 バカみたいによく晴れた春の朝だった。(と、コモドゥス叔父さまは話した。)暑くもなし、寒くもなし。川では女たちが笑いながら洗濯をしていた。畑の上には雲雀が黒い点になって、ころがるようにまっしぐらに天に昇って行くのが見えた。風はそよそよ暖かかった。土と木の芽の香りがその風に乗って、どこからともなく漂って来る。見渡す限りの空の色は、やわらかい、どこかくすんだ青だった。白い雲が羽毛のように、その空のあちこちに飛んで、太陽に輝きながら動いて行った。
 ローマから駐屯地までは少し遠くて、おれはまだ馬によく乗れなかったから、輿に乗って、ゆられていた。川っぷちの道を走っていて、川の波がふくらんでは砕けるのが日の光にきらきら光って、それを見てると頭がくらくらして、気分が悪くなりそうだった。
 それでなくても、おれはきげんが悪かった。本当は姉上といっしょに来るはずだったんだ。だが姉上は急に身体の調子が悪くなったんで、おれに一人で駐屯地に行って、あいつに会って来いと言った。もう行くことは伝えてあるし、あいつは今日一日、おれたちの世話をすることになってて、他の訓練や仕事を免除されてるはずだから、二人とも行かなきゃ、予定が変わって駐屯地の皆が困るだろうと言うんだ。
 おれも、あいつには会って見たかった。でも、それまで一人で外出したことはほとんどなかったし、一人で誰かと初めて会って話をしたことも実はなかった。わくわくもしたが、緊張もして、そんな気持ちが何もかもいっしょになって、それで気分が悪かった。
◇◆◇
 今思うと、おれはあの時、幸せに向かって走っていたんだ。そのことに、その時はもちろん気がつかなかったが。
 あいつと会って、過ごした時間。それはいつも、どうしてこんなに楽しくて幸福なんだろうと思うほど、すべてが自然で快かった。
 あの日、同じ道を帰る時、夕暮れの紫がかった靄のただよう風景の中をゆられて行く輿の中で、おれは生まれて初めてといっていいほど、のびのびとくつろいだ気持ちでいた。別れる時に、あいつは輿の中に上半身を入れて、おれが寒くないように毛布で膝をくるんでくれて、そして、輿の屋根を軽くたたいて、「行っていいぞ」と、かごかきたちに叫んだ。おれは、そのことを思い出し、あいつがかけてくれた毛布の下でとろとろと半分眠りながら、口の中で時々あいつの真似をして、「行っていいぞ」とつぶやいてみたりしながら、本当にどうしてこんなに幸せなのかと思いつづけた。
◇◆◇
 あいつがおれに、その日何にも大したことをしてくれたわけではない。基地のあちこちを案内してくれ、昼飯をいっしょに食べた。兵士たちがやっていた槍投げの競技に参加させて、少年兵用の小さな槍を投げさせてくれ、大きな馬に乗せて、川上まで連れて行ってくれた。
 おれはその間中ずっと、気持ちが落ち着いていて、きげんがよかった。だから、付き添っていた奴隷や侍女たちが、ほっとしていたのもわかってた。おれはいつも、何かがカンにさわっては、しょっちゅう彼らにあたりちらしていたからな。彼らはいつも、びくびくしていた。
 姉上とだって、いっしょにいると、おれはイライラすることが多かった。ただ姉上は、おれのきげんが悪くても平気だったし、逆に自分がキレたりするから、それがかえって気が楽だったが。
 何となくおれは、人といるのは、そういうように、腹の立つ不愉快なことだと思い込んでいた。回りの者が皆ぺこぺこおれの言うこと聞いて、きげんをとって、それでも、そう思うなんてとんでもないみたいだが、しかし実際そうだったんだ。
◇◆◇
 それなのに、あいつといると、そういう腹の立つことが本当に何もなかった。
 どう見てもあいつはそんなに、おれに気をつかってはいないのにだ。
 あいつはまるで、ひとりでに、おれの気持ちがわかるようだったんだ。馬を見せてもらっている時、おれが馬の匂いにうんざりして、いやになっているのに気がつくと、途中で打ち切ってさっさと馬つなぎ場から出てしまった。昼食の時、おれが、奴隷たちが宮廷から運んで来た豪勢な弁当よりも、あいつが食べてるパンとチーズの方が何だかうまそうで、ちらちらながめていると、笑って、食べます?と言って、おれの皿の上に、自分のチーズの大きな切れをのせてくれた。うれしかったな。食べ物をもらってあんなにうれしかったことは、あの時ぐらいしかないなあ。ほんとに、その濃いクリーム色でところどころに穴のあいた大きなチーズの一切れの、少しゆがんだ四角形と五角形の中間みたいなかたちまで、おれは今でもはっきり思い出せるんだ。
 あいつといると、まるでいっしょに呼吸しているように、おれはのびのびしていられた。手足がひとりでに自由に動いて、何をするのもとても楽な気がした。
◇◆◇
 昼食の後、川原で罠をしかけて魚を捕って遊んだんだが、その時あいつは、川へ下りて行く急な道でも、大きな石と石の間をすりぬけて行く場所でも、まるっきりおれに手を貸そうとしなかった。おれが、川に入りたいと言い出して、奴隷たちに長靴を脱がせてもらっているのを、何だかふしぎなものでも見るような目でながめていた。
 今でもそうだが、あいつはほんとに目でものを言う。だから、今でも、おれがいろいろと皮肉や厭味を言ってる時、おれに向けてくる目を見ていると、あいつのいろんな心の動きが…好きで皇帝になったのじゃありませんとか、そんなこと言って恥ずかしくないんですかとか、いっそそこまでアホになれたら気分がいいでしょうねとか思ってるのが、いちいち手にとるようにありありわかって、おれは楽しくてしかたがないよ。
 で、その時の川原で、おれが奴隷や侍女たちに世話をやかれているのを黙って見ていたあいつの目は、決しておれをバカにしても責めてもいなかったんだが、ただ、もろに不思議がってた。あなたは、ちゃんとした強い男の子で、何でも一人でできるはずなのに、どうしてそんなことさせとくのかなあ?何かわけでもあるのかなあ?
 そうだよな。いつも、その目だった。あのまなざしは、今思えば本当に強烈だった。父上のお説教より、姉上のこまごまとした注意より、あいつのあの無言のまなざしが、おれを包んで、おれを作り上げて行ったような気さえする。
 …あなたは強い男の子です。何でもお出来になれるはずです。あなたを信頼しています。あなたにおまかせしています。
 あいつの目は、いつもはっきりそう言って、まっすぐおれに向けられていた。信頼しきって、ためらいも疑いもなく。おれが皇太子で、主君だったから?それも確かにあったかしれない。だがあいつは、わりと誰にでも、そんな目を向け、そのことで相手を支える人間でもあったんだ。
 大丈夫。できるさ。木剣を握り締めた、見るからにひよわな少年兵たちをそう言って励まして、自分はその後ろで何の武器も持たずに平気で腕組みして、訓練用の矢や槍が飛んで来る前に平然と立ってるあいつを見たことがある。少年兵たちが危なっかしい手つきで必死に剣をふるって矢や槍をはねのけなければ、自分もけっこうな傷を負う恐れがあるというのに、あいつは落ち着き払っていた。自分が訓練した、その少年たちが防御に失敗するはずはなく、もし失敗したらそれはまあしかたがないと言わんばかりの、のんきな、まかせきった表情。少年たちにとってみれば、これほどに強い人が、これだけ自分を頼りきっているという実感が、そのまま、頼られている自分への強烈な自信を生み出す。
 その日のおれが、そうだった。あいつにふしぎそうに見られて、ちっとも恥じたり、反省したりしたのじゃない。そういうのとはちがって、ただ、身体の底から、それまで一度も感じたことのなかった力が、本当に、うねるように、わきおこったんだ。大げさじゃない、実際そんな感じだった。おれは自分で何でもできる、誰の力も借りなくていい…そのことが突然わかった、とでも言ったらいいんだろうか。
 その日の午後ずっとおれは、奴隷や侍女に身の回りのことをさせなかった。川原では気がつくと半分裸になって水の中に入って、ぐしょぬれになりながらあいつと二人で、木の蔓で編んだ網や籠を流れにしかけて引っ張って、川の中を走り回ってた。小魚の群れが日光にきらめきながら網の上を通過した瞬間、網をはねあげると、銀色の魚が数十ぴきも、まるで宝石のようにかがやいてはねた。奴隷たちが歓声を上げ、おれとあいつは夢中で蔓をひっぱって、網をあげようとやっきになって、叫びあい、指示しあった。その後、川原でたき火をして、その魚を焼いて食べながら、ぬれた身体に吹きつける、薄ら寒い春の風が、おれにはちっとも気にならなかった。あいつは一度、手をのばして、魚の油でべたべたになってるおれの口を荒っぽく手のひらで拭ってくれた。それだけだった、あいつがおれの面倒を見たのは。
◇◆◇
 「何だか、叔父さま…」僕はつい、言いかけた。
叔父さまはことばを切って、寒そうに毛皮を背中にひっかけて身体を丸めていたのだが…それはちょっと変だった。新しい石炭が赤々と燃え上がって、部屋の中は少し暑いぐらいだったんだから…僕を見ないまま、「何だ?」と聞いた。
 「いいよ、何でもない」
 「言えよ。どうせ悪口だろう?」
 「悪口っていうか…そんなだったんじゃ、叔父さま、今でも父上に頭が上がんないわけだね」
 「ふふん」叔父さまは笑ってワインの杯を引き寄せた。「そう思うか?そうでもないんだぞ。その後、何年間かはおれはずっと、おまえのおやじをいじめまくっていたんだからな」
 風がかんだかく唸りを上げて、窓の外を吹きまくっている。また、しんしんと寒さが厳しくなったようだ。
 「何で、そんな風になったのさ?」僕は聞いてみた。
 「覚えてないな。…いや、理由はわかってるんだが」叔父さまは言った。「あいつと二人でいる時はいい。姉上と二人で、あいつのことを話してても、楽しい。幸せだったと言っていい。どっちと居てもな。昼間に基地に行ってあいつと遊び、夜には姉上と話をした日など、幸福がぎっしりつまった一日という感じで、満足しきって、眠る前から、枕の上で目を閉じると楽しい夢の中にいるようだった。それがな…三人いっしょにいると、そういかんのだよな」
 「楽しくないってこと?でも、叔父さま、その二人ともを好きだったんでしょう?」
 「ああ」叔父さまは、ひとごとのような、どこかふざけた口調で答えた。「それはもう、大好きだったさ。どちらもな」
 「なのに、三人でいると、楽しくないの?」
 「わからん。その気持ちが何だったのかは、今でもな」叔父さまは毛皮を身体にまきつけて、風の音に耳をすませるような顔をした。「腹が立つというのとは、少しちがうかもしれん。ただ、恐ろしい。いらだつのさ。真っ暗い穴に落ちて行くような…見慣れた回りの風景が一気に遠ざかって、同じなのにまるで見覚えのないものに変わってしまうような、そんな感じといったらいいか…おれは多分…いや、わからんな…」


(4)
 三人…と僕は、握りに彫刻のついた火かき棒をもてあそんでいる叔父さまの顔を見ながら考える。三人でいる時?
父上が戦いに行っている間、スペインの家で僕はずっと、母上と二人で暮らしていた。楽しい、静かな、幸せな日々。沼の面が夕陽に輝き、いっせいに水鳥が舞い上がる。風にそよぐポプラの大木。その下をどこかとりすました顔で、とことこ歩いていた野生のポニー。
 どの風景も美しい。なつかしい。けれども、胸をしめつけるほど美しいそういった風景は、いつもかすかに、どこか淋しい。そこには何かが欠けていた。父上がいてくれて、母上といっしょに声をあげて笑っているのを聞きながら、二人の膝の間の暖炉の前で、とろとろと眠る時、僕の幸せは初めていつも完全になった。僕がうつらうつらしているのを邪魔しないように、暖かく低くかわされていた二人の声がふっと止まる。父上のひそめた声がする。
 「眠っちゃったのか?」
 「いえ、この顔は、まだ起きてる」
 母上の指がほおを突っついて、目を閉じたまま寝返りをうって僕が笑うと、なあんだ、というような父上と、ほらね、というような母上と、二つの笑い声がやわらかく入り乱れて僕の上からかぶさってきて、まるで大きなケープのように、すっぽりと僕を包み込むのだ。
 三人でいる、というのは僕にとってはいつもそういうことだったのに。
真っ暗い穴?遠ざかる風景?どういうことなんだろう?
気がつくと、叔父さまの目がじっと僕を見つめていた。冷たく静かな、刺すような光をたたえて。
 「幸せなやつだな、マルクス」どこかぞっとするような声で、叔父さまは言った。「おまえには、わからんのだな」
 僕は長椅子から立ち上がり、叔父さまのそばに座った。毛皮をとって引き寄せて、叔父さまと身体をくっつけた。まるで目に見えない手にひかれるように、そうしないではいられなかった。
 「くっつくな」叔父さまはうるさそうに、僕を押しのけた。
 「寒いんだよ」僕は言った。
 「おれにくっついても、あったかくはならん」叔父さまは火を見つめたまま、せせら笑うように言った。「あっちに行けよ」
 「行かない」僕は言い張った。
 「たのむから泣くなよ」叔父さまは言った。「それとも、もう泣いてるのか?」
 「泣いてなんかいない」僕は火を見たまま言った。
 しばらくそうして二人で黙って風の音を聞いていてから、叔父さまは吐息をついた。
 「そうだな。まったく、どういう気持ちだったんだろうな、あれは」
◇◆◇
 そうさ。あいつと二人でいる時はいいのさ。(叔父さまは言った。)いつでも幸せだった。姉上と二人でいても、幸福だった。姉上と、あいつの話をしていると、何時間でも本当に飽きない。あいつと姉上の話をするのも楽しくてたまらなかった。やれやれ、こうして並べあげてると、まるで哲学の命題だ。AはB、CはD、AはC、BはD、しかしてAはDなのか?ってやつだぜ。まるでな。
 「今日の試合でマキシマスが何人敵を倒したか知ってる?」
 「五人は確実」
 「七人だよ」
 「まだ全部、言ってないじゃないの!ピンを口にくわえてたから、返事ができなかったんだわ」
 「年上の兵士とかもいたのに、本当に彼、強いんだ。かすり傷ひとつ、してなかった。すごいよねえ」
 「ええ、すごいわ。でもね、前はけがしたことあるのよ。ひざの所に傷痕があるでしょ、知ってる?」
 「ううん…あ、白い、稲妻みたいなかたちの?」
 「そうよ。さわって見たことある?」
 「ないよ。姉上は?」
 「あるわよ。くすぐったがってたけど」
 洗ったあとの、黒く長い髪を広げて乾かしている姉上と、ベッドの上でそんな話をしていると、夏の暑い夜はすぐ更けて行った。
 「姉上って、つまらないことに怒っちゃうんだよなあ」
 「どんなことにですか?」
 「今日は、花瓶の花が黄色だと言って…」
 「黄色、お嫌いなんじゃ…あ、そんなことないか。この前、黄色のドレス着ておられましたね」
 「だから、いやだったのかもな。ドレスの色と同じ花の色で」
 「なぜ?ご自分が目だたないから?」
 「うん。女ってそういうとこあるだろ?」
 「そうですねえ。でも、何着てらっしゃっても目だつのになあ」
 「着てないともっといいのにと思ってないか?」
 「殿下。いけませんよ」
 いっしょに馬を走らせながら、そんなこと話して笑いあってると、長い道のりもあっという間だった。
 どちらと話していても、そんなに幸福なのに、本当に、なぜなのか。
 三人でいると、だめだった。
◇◆◇
 最初、おれは自分でもそれに気づかなかった。何だか楽しくなかったり、何だか自分でも気づかず二人にあたりちらしたりして、今日は寒かったからだ、とか、犬が吠えたからいらいらしたんだ、とか、自分で理屈をつけていた。
 だが、それも結局、あいつがおれに気づかせた。何回かそういうことがあったあと、三人で木陰に座ろうとした時、あいつは姉上が、そばに座りなさい、というように見上げたのに、気づかないふりして避けて、おれの横に回り込んで来て、おれを挟んで姉上と離れて腰を下ろしたんだ。
 わざとらしさはちっともなかった。現に姉上は全然気づいてなかった。姉上はそもそも、おれが不機嫌になること自体、慣れてたし、気にしてなかった。だが、おれは初めて会った時以来、あいつの前ではいつもきげんがよかったからな。おれの様子が変なのは、あいつの方がこたえてたんだと思う。
 あいつのその、何気なく姉上を避けた様子が、逆におれに気づかせた。自分が何で不機嫌だったか。おれは、あの二人が仲良くしているのを見るのが、いやだったんだ。恐かった。
 そして、そのことを自分より先にあいつに気づかれたことで、おれはあいつを憎んだ。恐れたんだよ。
◇◆◇
 「それは叔父さま、いくら何でも理不尽じゃないか」僕は思わず口をはさんだ。
 「おまえは、本当のことが聞きたいんだろ?」叔父さまは意地悪い、そのくせどこか悲しそうな目で僕を見た。「だから、いいか悪いかには関係なく、あるがままのことを話してやってるんだ。悪いか?」
 「だってそれじゃ…父上はどうすればよかったのさ?」
 「おれが知るか。どっちみち何してたって、おれはあいつが嫌いになってたろうさ。でも、見抜かれて…おれのことを、おれ以上に知られてしまって、しかもその相手は、おれのものじゃない、誰か他人のものだなんて、そんなのがおまえは、がまんできるか、マルクス?」
 「僕にはわからない。それにどっちみち、父は叔父さまのものだったんじゃないの?父は兵士で、叔父さまは皇太子…」
 「そういうことを言ってるんじゃない」
 「じゃ、どういうこと?」
 「あいつが一番愛してるのは姉上で、おれじゃなかったってことさ」
 「それはしかたがないだろう!?」
 「まあな」叔父さまは長々と長椅子の上にのびた。「だから言ったろ、これは理屈じゃないんだったら」
 僕は少し考えて見た。「第一、ほんとにそうだったのかい?」僕は言った。「何だか僕の印象じゃ、その時点では父はそれこそ、叔母さまのことも、叔父さまのことも、どっちもそれぞれ好きだったんじゃないのかなあ?叔母さまを、叔父さま以上に、そんなにものすごく愛してたとは…」
 叔父さまは、すごく苦々しい、不愉快そうな顔をして、「それがいやだったんだよな」と言った。「そんなことばかり自分が考えてしまうのが。その、おまえのおやじが姉上と離れて座ったのを見た時、おれが何を考えたと思う、とっさに?」
 僕は黙って首を振った。恐い、というのじゃないかもしれないけど、もう、この人の気持ちをたどって行ってたら何となく、こっちの息まで苦しくなってしまいそうだ。
 「いったい、こいつは、マキシマスは…おれと、姉上のどっちのことを心配して、こうしたんだろう。僕を悲しませまいと思ったんだろうか、それとも僕が姉上を傷つけないよう僕のきげんをとってるのか、どっちなんだ。姉上のためと、僕のためと、どっちのために、こんなことしようとしたんだ…どっちもあり得る気がした。どっちとも思えば、思えた」
 「叔父さま…」
 「情けないよなあ。泣けてくるよまったく」叔父さまは冷ややかな口調で言った。「その時に限らない。どっちなんだ、どっちのためにこんなことしたんだ、ほんとはどっちのこと考えてるんだ。あいつの表情を、一挙手一投足を必死で見つめて、いつも、いつも、そればかり考えてた。それに疲れたんだ。そんなことをいつもいつも考えさせるあいつが、憎くてたまらなくなった」
 「それって、父にして見れば、ほんとに、えっらく、迷惑な話なんじゃ…」
 「だろうな」叔父さまは笑った。「ああ、今となっちゃ、おれにもわかる。あいつは、おれたち二人のどっちのことも、そんなに夢中で好きだったわけでも何でもない。ただ、おれたちをうけとめて…臣下としての忠誠を尽くしてくれてただけだろう。それどころか、このごろ、おれは思う…あいつはたしかに強いし、賢かったかもしれんが、本来はもっと単純で、健康な、平凡な性格だったのが、姉上やおれとつきあって、言ってみりゃ半分ビョーキの変な二人にもまれたおかげで、もともと対応の速い、カンのいいやつだっただけに、すごくデリケートで複雑で陰影のある部分をあわせもつようになっちまったんじゃないかって。そういう点じゃ、あいつには、気の毒なこと、したかもな。でもな、マルクス。おれは、おまえのおやじが、おれを扱ったように扱ってもらったことがなかったんだよ。あいつ以外にそんなこと、してくれそうなやつはなかった。だからこそ、誰にも渡したくなくて…いつも、いつも、おれの方だけ向いていてほしかった…まあ、それだけのことなんだが」
 「それだけ、ね」僕は力をこめて言った。「よく、言うよ!」
 叔父さまは、のどの奥でふくみ笑いをし、僕の肩を抱いてゆすった。
「聞けよ」何かに乾杯するかのようにワインの杯を宙にかかげて、透かし彫りの小鳥や獣の彫刻がいっぱいにほどこされた暗い部屋の天井の方を、酔ったような目で見上げながら、叔父さまは少し浮かれた調子で言った。「あの、初めて会った日に、おれたちがどんな風だったのかを」


(5)
 あの日、駐屯地に着いてわりとすぐ、まだあいつとそれほどにもうちとけていない時、おれは、兵士たちのテントのそばに立っている大きな木に、赤いきれいな実がいっぱいなっているのに気がついた。(コモドゥス叔父さまは話しつづけた。)おれはあいつとどんな風に話していいかわからず、何だか正面からあいつを見るのがまぶしくて、あんまり口をきかないでテントの方に歩いて行ってた。奴隷や侍女たちは心配そうに、おれの後を少しはなれて、ぞろぞろついてきていた。あいつもきっと、その中にいたんだろう、おれは振り返らなかったが。
 おれは、その赤い実になぜか、気をとられた。それで、木の下に行って見上げてた。すると突然、誰かの腕が後ろから膝のあたりに巻きついて、おれをしっかり抱き上げて高々と持ち上げて、ちょうど赤い実が、おれの顔のすぐ前に来た。
 もちろん、それはあいつだった。
 それまでおれに、そんなことした人間は誰もなかった。だいたいおれは、人に身体をさわられるのが嫌いで、靴や上着ぐらいならともかく、姉上以外の人間には着替えもさせたことはなかったんだよ。
 それに、高く持ち上げられるのや、振り回されたりするのも恐くていやがってた。だから馬もきらいだったしな。この子は大切に扱わないとだめ、と姉上はいつも、召使たちに言い聞かせていた。
 なのにその時、おれは恐いどころか、いやなどころか、まるで、今まで聞いたことのない音楽が頭の中いっぱいにひびきわたって聞こえてきたような喜びしか感じなかった。赤い実と、重なり合うやわらかい薄緑の若葉がすぐ目の前に来て、おれはうれしさのあまり、声をあげて、枝を引き寄せてその実をつかんだ。前のめりに身を乗り出したおれの身体の動きに、おれの足を抱きとめている腕は全然ゆらがず楽々と合わせて、暖かくしっかりと移動し、何ひとつおれは不安を感じなかった。一瞬の間に完全におれは信頼した…何が起こってもその腕が、いつも自分を抱きとめて、支えてくれるだろうことを。
◇◆◇
 よく考えると、いつもいつも、そうだったわけじゃない。(コモドゥス叔父さまは笑った。)あいつとは、それからもよく、あちこちに遠乗りに行ったりしたが、あいつ、塀の上や橋の上にいるおれに向かってよく、「殿下、大丈夫ですから飛び下りて下さい」と叫んだものだ。「受けとめますから」
 いつからか、おれはあいつがそう言うと、何の心配もしないで喜んで、あいつの大きく広げた腕をめがけて、飛び下りるようになっていた。それどころか、あいつにそう言わせたくて、そうさせたくて、わざと下りられない高い所に上っては、あいつの名を呼んだりした。
 何度かあいつは、うけとめそこねた。おれたちはもつれあって、河原の砂の上に転がったり、重なり合って生い茂った草の中に倒れたりした。だが、もうその頃になると、おれはそういう危ないことの方がかえって面白くなっていたんだ。ちょっとしょげたり、あわてたりして謝るあいつをそっちのけで、おれは息がつまるほど笑って、もう一度やり直そうと言って、あいつにいやですときっぱり断られたりした。
 危険なことが、おれは好きになって行った。走って、転んで、手や膝をすりむくのが楽しくてしかたがなくなった。息が切れて走れなくなるまで走ることが。剣を振り回すことが。木に登ることが。
 あいつがいるとおれは本当に、どうかすると、自分が空を飛べるんじゃないかとさえ思ったもんだ。
◇◆◇
 そう、あの日、昼近く、あいつはおれを大きな馬に乗せてくれた。おれが馬に乗りなれてなくて、嫌いだってこともどうしてかあいつは、わかっていたようだった。おれを持ち上げて、馬の背に乗せてくれ、自分が後ろにいっしょに乗って、手綱もいっしょに持たせてくれた。
 恐くありませんか、大丈夫ですかなんて、他の家来ならすぐ聞くことを、あいつは何にも聞かなかった。おれが何かを恐がるなんてこと、まるで考えてないようで、実際あいつの暖かい身体と、しなやかで強い両腕にしっかり抱かれて支えられていると、何も恐がる理由なんかないような気がした。あいつは、のんきな声でぼそぼそ楽しそうに、馬の名前のつけ方で仲間とけんかしたことがあるとか、鞍の扱い方がわからなくて初め困った話とかしてた。
 初めは恐かったから、おれは下を見なかったし、手綱を握り締めてしゃっちょこばってた。あいつが、まるでひとり言みたいな陽気なおしゃべりをしながら、そのへんをゆっくり歩かせている間に、おれは慣れてきて、馬の動きといっしょにゆれているのが何だか楽しくなってきた。多分、おれが身体の力を抜いて、自然にあたりを見はじめたのを、あいつは気づいたんだろう…後ろから身をかがめて、おれの耳に口を寄せてささやいた。「殿下。走っていいですか?」
 その、いたずらっぽい、秘密の内緒話をする口調にびっくりして、とまどって、おれはあいつの顔を見つめた。たったさっき会ったばかりで、まだあまり口もきいていないのに、どうしてこの男は、おれにこんな、他の者とはちがった仲間みたいな、うちとけた態度をとれるんだろう?
あいつの灰色がかった青い目が、とても生き生きと人なつっこく、おれのすぐ前で踊ってた。
 「走っちゃいけないって、ご家来から言われてるんです。でも、走った方が絶対面白いんですよ」
木の下であいつに抱き上げられた時、おれの頭の中には本当に音楽が聞こえた。そして、あいつが馬の上で熱っぽくそうささやいた時、おれの身体の中には本当に熱い火柱が燃え上がったようだった。それまでおれは、皆がおれの方をそっと見ながら内緒話をするのに慣れていた。奴隷たち、学友の貴族の子弟たち、姉上と侍女たち、姉上と父上。皆が、おれをどうしたら、おれが幸せになるかを、しょっちゅう、ひそひそ話し合って、おれはそれを聞かないふりして、次は彼らがどんな手で、ごきげんをとりに来るかを待っていた。でも、こんなのは初めてだった。誰かがおれを仲間にして、他人に隠して内緒の話をしようとしたのは。
 馬を走らせる?そんなこと、どうでもよかった。たとえ何を申し出られたって、おれはあの時、絶対に、拒絶したりなんかしなかったろう。皆の目を盗んで、誰かと何かをするためなら、そんなチャンスを逃さないためなら、本当にどんなことだって、あの時おれはやっていた。身体がぞくぞく震えるような興奮に包まれながら、おれは馬から少し離れた所で退屈そうにしている奴隷たちや侍女たちを見、そして、あいつを見上げて、うなずいた。
あいつは、やったと言わんばかりに白い歯を見せて、にやっと笑うと、ちらと回りに目を配りながら、おれの手を手綱ごとしっかりつかんで握り、それから、いきなり、矢のように馬を前方に飛び出させた。
 おれは悲鳴を上げた。でも半分は笑い声だった。星が夜空を流れるように、馬は高々と広場の端の柵を飛び越え、おれは一瞬、空しか見えなくなったと思った。誰かが後ろで叫んでいる声が、ずっと下の方で聞こえた。ああ、空を飛んでる!そう思った。砂をけちらして馬は河原を横切り、水しぶきを上げてまっしぐらに川を渡り、陽射しに輝く草原を全速力で横切った。
 風が壁のように顔に押し寄せ、おれが上げる叫び声を唇からさらった。


◇◆◇
 川上の土手まで馬を走らせて帰ってきたとき…おれたちの姿は基地からはずっと見えてたし、そんなに長い時間でもなかったし、何より馬の走り方を見ていれば、あいつの腕をよく知っている兵士や士官たちは何も心配しなかったらしいが…侍女頭は半狂乱になってたし、それの手前か、あいつの上官も厳しい顔で、おれを馬から下ろしてくれたあいつに、走らせるなと言われていたろうが、と問いつめた。
「すみません、馬が何かにびっくりしたのか、突然飛び出して」あいつは本当に神妙な顔で、ぬけぬけとそう言って謝った。
 「厳罰に処すから、テントに下がっていろ」上官はしかつめらしく命令し、あいつはおとなしく一礼して立ち去りかけたが、その前に一瞬おれを見て、面白かったでしょう?と言わんばかりの目をちらとして見せた。それも、走ったことだけじゃない、怒られて処罰をうけることさえも面白がってるように見えた。
 あいつのその目が、おれをけしかけたり、そそのかしたりしたわけじゃない。それは絶対にちがうんだが、ただ、おれは…このままあいつを行かせてしまったら、その日の残りがものすごくつまらなくなってしまう気がして、愉快なことの何もかもがあいつといっしょに全部行ってしまいそうな気がして、それでおれは、侍女頭がおれを引き寄せて、大丈夫ですかと言って服のほこりを払いはじめた時、その手を押しのけて、上官の方に向き直って言った。
 「走らせろって、私が彼に命令したんだ」
 そう言いながら、おれは、どきどきしていた。また新しい冒険が始まっているみたいな気がしたんだ。上官は顔をしかめて、あいつの方を向いた。
 「本当か、マキシマス?」
 あいつは、まっすぐ上官を見たが、答えようとはしなかった。はっきり、とがめるような目をしていたが、おれにはその理由がわからなかった。上官が赤くなってせきばらいし、「殿下のお言葉を疑うのではないが」とつけ加えるまでは。おれは、たちまち、そこではっきり、まるであいつが声に出して教えてくれたかのように、自分が何を言えばいいのかわかった。おれは、一歩足を踏み出し、さっきより大きな声できっぱり言った。「ならばなぜ、彼に確認するのだ?」
 自分にこんな声が出せるのかとびっくりしたほど、自信にみちた声だったと思う。上官をはじめ周囲の皆が、今までおれにはしたこともないほどうやうやしく、いっせいに深々と頭を下げたので、おれは自分の感じたことがまちがってなかったのを知った。一人だけ頭を下げず、こちらを見ていたあいつとおれの目が合ったので、おれはすかさず、「こっちに来い」と言った。「今日一日、私の応対をするのが、おまえの仕事ではなかったのか?」
 あいつは、つつましく目を伏せておれのそばまで来たけれど、まつ毛が何度かまばたきし、唇のはしがかすかにひきしめられて、おれにはあいつが、笑いをこらえているのがわかった。
 そばに来たあいつの腕をつかんでひきよせながら、おれは、あいつを自分のものにできるという喜びを、全身で強く感じた。おれが命令しさえすれば、上官だって誰だって、こいつには手が出せないんだ。こいつは、おれのものなんだ。おれが守ってやれるんだ。そのことが、とてもうれしかった。
皇太子でよかった、と思った、あれが最初だったかもしれんな。
 昼食がすんで、侍女や奴隷たちが後かたづけをしていて、二人きりになった時、あいつはおれに言った。「先ほどはありがとうございました。でも、あんな嘘は、おつきにならない方がいいですよ」
 「先に嘘をついたのはおまえだろ」
 「私はただの兵士ですから、身を守るために嘘もつかねばなりませんが」あいつは言った。「殿下のようなお立場の方が、嘘をつかれてはいけません」
 「おまえを助けたかったんだよ」おれは言った。「罰なんてうけさせたくなかった」
 するとあいつは、本当におかしそうに笑った。
 「馬を走らせようと思った時から、罰を受けることぐらい覚悟してますよ」
 おれはあいつを見つめた。
 「そんなにしてまで、どうして、あんなことしたんだ?」
 いいかげんというか、とっさの思いつきというかでやったことなんだと思ってた。だけどそうじゃなくて、あいつが全部どうなるかわかってて、覚悟を決めた上でやってたんだと知って、おれは心底びっくりした。というよりも、混乱していた。そんなこと、信じられなかったんだ。おれの回りの誰もが、おれのことで罰をうけないようにしようと、毎日、いつも、必死でいるのに。それを利用しておれは、自分のしたいことをし、してもらいたいことを回りにさせてきたのに。そうじゃない人間がいるなんて…罰をうけてまで、おれのことで何かをしたがる人間なんて、おれはそれまで見たことはおろか、想像したことさえもなかった。
 あいつは、砂をすくってさらさら手からこぼしながら、何となく照れたように、おれから目をそらしてた。
 「殿下に…いろいろ、自分が知ってる楽しいことをお教えしたくて」口のなかで、あいつは言った。
 「それだけで?」
 あいつは黙って、また笑った。
 侍女たちが戻って来たので、話はそれきりになった。でもおれは、まだまだあいつと話したくてしかたがなかった。言いたいことや聞きたいことが、ものすごくいっぱいある気がして…不思議な島の浜辺か、珍しい庭園の入口に立ってるようで、中を探検したくて、歩き回っていろんなものを見たくて、そんな風にあいつのことを、何から何まで知りたくてたまらなかった。
 おれは、一人の人間に対してそんなに興味を持ったことは、それまでなかったと思う。父上や、姉上にさえも。人間の心をのぞき、その動きをさぐるのが面白いと感じはじめた、あれは最初じゃなかったろうか。そして今おれは、自分でもいやらしいと思うぐらい人の心がよく読めるし、そうやってのぞいた時、大抵の人間の心には、みみっちく汚い、みすぼらしいものしかなくて、吐き気を催したくなることが多いのも知ってる。もし、初めからそのことがわかってたら、おれはそんなもの、見ようとものぞこうとも、決して思わなかったかもしれない。
 でもな、最初はそうじゃなかった。そして今でも、その気持ちは心のどこかに残ってる。きっと何か面白い、素晴らしいものがあるにちがいない、とわくわくするような、そんな気持ちが、かすかな、かすかな、こだまのように。おまえのおやじを見ていると、こいつの心をのぞいたら、そこにはきっと、おれのことを好きでいてくれるとか、心配してくれてるとか、その他、まだおれが思いつきもしなかったような、おれを元気にしてくれる楽しいこと、うれしいことが、いっぱいあるような気がしたんだ。おれがまるで知らなかった、おれ自身のこと、おれの回りのことが、いくつも見つかりそうで。それが皆、とても快いことばかりのようで。こいつと話せば話すほど、おれは自分が好きになるし、生きてることが楽しくなるんじゃないかって思った。だから、話したかった。いくらでも、いつまでも。


(6)
 風は少しおさまってきたようだ。部屋の空気がよどんできたようだったので、僕は立って行って、窓の鎧戸を少しだけ押し開けた。ぴりっと鋭い、冷たい空気が流れ込む。風は弱くなったが、まだ吹いていた。暗闇の中に白いものが、ひとひら、ふたひら横切ったのは、ひょっとしたら雪だったのだろうか。
回廊の向こうの、父上のお部屋がある方を、僕は見るともなく見つめた。窓から細く明かりがもれているような気がしたが、気のせいかもしれなかった。
 とぎれとぎれに闇を横切る白い雪片。ふと、そのどこかずっと向こうに春の野原があって、二人の子どもが今も遊んでいるような気がした。
 そんな、はるかな遠くまでつながるような、深い、暗い、闇を見つめていると、僕には父上の気持ちがわかるような気がする。
 侍女や奴隷にとりまかれて、さんざん世話をやかれながら、ちっとも幸福そうでない、不機嫌な、小さな少年。
 身体が弱いと言われて、自分でもその気になって、何をするにも自信が持てず、自分の力を試そうともしたことがなく、初対面の相手にはろくに口もきけずに、馬を見ても川を見ても、身体をこわばらせるだけの少年。
 そんな子が自分の前に来て、でも、何をしてほしいのかもわからなくて、うろうろしているとしたら…
たとえ自分が罰をうけようとどうしようと、父上はその子を思いきり抱きしめて、教えてやりたかったのではないだろうか。
 あなたは空を飛べますよ、あなたは翼があるんですよ、と。
◇◆◇
 なのに、その父上が誰よりも、叔父さまの翼を奪う存在になった。
 叔母さまに愛され、その父上にも愛され、皇帝になって。
 そのことを父上は、どう思っておられるのだろう?
 僕に限らず、皆が時々不思議がる。ローマ皇帝という絶対の権力をお持ちで、人望もあり、必要な時には荒々しい怒りも、厳しい冷たさもきちんとお見せになる父上が、叔父さまの前ではいつも、弱気に見えるほど、何を言われても、何もおっしゃらない。
 うしろめたくていらっしゃるのだろうか。それとも少しちがう気がする。
 父上に何かとからんでいる時の叔父さまは、こんなことを言ったらとても変だが、昔、父上がお忙しくて僕にかまってくれないのに腹を立てて、父上の足元の床に寝そべって、ガウンの裾の房飾りをせっせとほどいていた僕に似ている。立ち上がって、そのことに気づいてびっくりした父上が、かがみこんで僕を見ながら僕の名を呼んだ時、机の下でべそをかいて、すねながら、恐くてどきどきしながらも、妙に一生懸命に怒られるのを待っていた僕に。こんなことしたらだめだろう!と、ぼろぼろになったガウンの裾をつきつけられたら、大声で泣いて父上の首筋にしがみついてやる、と思っていた。(実際にはそんな時父上は、あきれたように、おかしそうに笑いながら、何を怒ってるんだ、おまえは、と言いながら、抱き上げて、頬ずりしてくれたから、僕は泣く機会をいつも逃した。)
 そう、あの時の僕のように、叔父さまは父上が激怒するのを待っていて、本気で父上がどなりつけでもしたら、待ってましたとばかりにあっさり屈服して、以後はもう、父上の言いなりになってしまいそうな気さえする。
 もしかしたら父上もそれがわかっていて、それが、おいやなんじゃないだろうか。
 叔父さまのすべてを奪った上に、その叔父さまに愛されてしまうなんて。
それは、叔父さまに残された最後の翼をもぎとってしまうことになる、と感じておられるのではないだろうか。
◇◆◇
 でも、それは、父上の優しさだろうか。それとも冷たさなんだろうか。
 コモドゥス叔父さまはどう思っているのだろう?
 聞くのが恐い気がする。答えが何となくわかる気がして。
 人のすべてを奪っておいて、絶対かなわないと思い知らせておいて、それで、一人で強く生きろなんて言うのかよ。屈服するな、征服されるな、誇りを持ち続けろなんて言うのかよ。そんなのは、冷たいのを通り越して、いっそ残酷だって言うんだよ。なあ、マルクス。弱い人間は、強い人間を愛したいんだ。負けた人間は勝った人間を、だめな人間はすぐれた人間を愛したいんだ。それも許してくれないなんて、勝ったくせに無責任すぎるだろ。強いくせに臆病すぎるだろ。すぐれているのに、ずるすぎやしないか。
 そんな風なことを、叔父さまはおっしゃりそうである。
 何だか、とても悲しくなって、僕は窓の外に散る雪を見つめた。
 もしも、父上なら、と僕は思った。
たとえ、すべてを奪われても、絶対にかなわないと思い知らされた相手でも、屈服したり、征服されたり、ましてや愛したりすることなど、決してなさらないだろう。
どんなに望みのない戦いでも、最後まで戦い抜き、どんなにみじめな姿になっても、決して誇りは失われないだろう。
 そう思うと、なぜか、ますます悲しかった。
 そもそも、そんな父上だったからこそ、何の力もない田舎出の少年兵でありながら、世界を統べるローマ帝国の皇太子だった叔父さまを、ただの孤独な少年として、恐れることなく、心から愛したのだ。
 そして、だからこそ叔父さまは、そんな父上を絶対に失いたくなく、誰にも渡したくなかったのだ。
それなのに…。
 「あいつは父上に気に入られて、将軍になって、部下たちにも愛されて、ますますおれから離れて行くようだったけれど…おれは自分が皇帝になったら」
 背後で、少しだけ酔い始めたような叔父さまの声がしていた。
「あいつをまた、おれのものにできると思ったんだ。守ってもやれるって。あいつに何かをしてやれる力…大きな力…それを自分が持てると思った」
 風の音が、目の前の闇の中で鳴っていた。
 「だから、それがだめになって、自分が皇帝になれないとわかった時、おれはあいつを絶対に、永遠に、失ってしまうと思い、もう、あいつにやれるものを何ひとつ、自分は死ぬまで持てなくなったんだと思い、しかも、そういう原因を作ったのが、あいつ自身だと思うと何もかもがもう許せなくて…おやじを殺そうと思った」
 …今、叔父さまは何と言った?僕は思わず、鎧戸をがたんと落とすように閉めて、振り向いた。
◇◆◇
 「…父を?いつです?」
 「おまえのおやじじゃないよ」火を見たまま静かに、叔父さまは首を振った。「おれの父上さ。おまえのおやじを皇帝にすると発表する前に、おれを自分のテントに呼んで、マキシマスを次の皇帝にするつもりだと、父上はおれに告げた。今思えばあれは父上のおれに対する、せいいっぱいの優しさだった。けれども、おれは逆上した。今夜と同じ、激しい風がテントの外に吹いていた。おまえを愛していないのではないと、おれを抱いてくれた父上を抱きしめ返したおれのみじめさは、どうしてか、更につのった。こんな息子しか持てなかった父上が、おまえの至らぬのは自分のせいだと言ってくれた時、おれは父上と二人して、あいつの前にひれ伏し、二人して、あいつから捨てられて忘れられるような気がした。そんなことは絶対に我慢できない。父上のためにも、おれが皇帝にならなければ。おれはもう、何が何だかわからないままに、そんなことまで必死に思って、気がつくと父上の頭を抱いていたはずのおれの手は、いつの間にか父上の首にかかっていた。この人を殺せば、とあの時おれは思った。おれは皇帝になれる」
 僕は立ったまま、動けなかった。風の音の中に、叔父さまが言った通りの場面が浮かび上がって見える気がして。
 「…なぜ、やめたの?」
 「やめる気はなかった」叔父さまは言った。「さっき、入って来た、あの召使な。昔は兵士と言ったろう?おれと姉上が父上に呼ばれて前線まで旅して行った時、出迎えて、父上が最前線にいると教えてくれた男なんだが…軍医の手伝いをしていてな。その時、負傷者の後方輸送の件で急を要する伝言を持って、軍医の使いでやって来たんだ。テントの外からあいつの呼ぶ声がして、父上は、おれから離れて立ち上がり、入って来いと呼びかけた…そうやってな、マルクス。おれは父上を、殺し損ねた」
 「それで…それで叔父さまは」僕はどもった。「あの召使に、やさしいの?」
 「やさしくなんかしてるもんか」叔父さまはまたひねくれた顔になった。「あいつを見るたび、思ってるよ。こいつさえいなきゃ、今ごろはおれが皇帝で、おまえのおやじをあごで使っていたろうにってな」
 「そんなこと、できたわけ?」僕は聞いた。
 「何がだ?」叔父さまは妙にとぎすまされたような目で、僕をじっと見た。
 「父が、気づかなかったと思うの…叔父さまのしたことに?」
 「気づいたろうな」叔父さまは、ぽっつり言った。「で?次に聞きたいのは何だよ?気づいたら、見逃してくれたと思うか?許したと思うか?…か?」
 僕の返事を待たないで、苦々しげに叔父さまは笑った。
 「許さなかったろうな。見逃したはずがない。そんなことしたら、もうそれはあいつじゃない。要するに、どっちみちどう転んでも、おれはあいつを失うことになってたんだ。おれのしたことに気づかなくても、許しても、それはもう、あいつじゃないし、気づいて許さず、おれに反抗しようとしたら、おれはあいつを殺すしかなかった。あいつだけじゃない。あいつの家族も…おまえもだよ、マルクス。あいつがこの地上に存在したという、あらゆる痕跡を、おれの心の中から、外から、根こそぎ消してしまわなきゃ、おれはその先、生きていけなかったろうから」
 「そんなことが、できたと思うのかい?」
 「できても、できなくても、おれはやったね」叔父さまは、ワインの杯を両手で包むようにして、小さく身体を丸めていた。「おまえのおやじが、それまでおれにしてくれたこと、言ったことのすべてを忘れてしまわなきゃ、それから先、絶対やって行けなかった。父上の首に手をかけた時、そのことに、おれは気づいていなかった。おまえのおやじとの思い出のすべても、おれが絞め殺そうとしていることにだ」
 また荒々しくワインをあおって、叔父さまは笑った。
 「父上といっしょにおれは、おまえのおやじとの思い出も殺しそこねた。おかげで、それはまだ今はおれのものだ。おまえにこうして話して聞かせることもできる…でもなあ、だから何なんだ、マルクス、それが何になるんだろうなあ。そんなの、話して聞かせたって、ちっとも楽しいわけじゃない。昔が戻るわけでもない。…ほんとに、父上といっしょに絞め殺してしまっておけばよかったって、思い出すたび思うぜ、おれは」ワインを杯につぎかけて、叔父さまはふと僕の顔を見た。「何だ?聞きたかったのは、それじゃなかったのか?」
 本当に、この姉弟って、どうしてこう、カンがいいんだか。
「うん…まあね…」僕は口ごもった。「僕が、そんなことできたのかって思ったのは、もっと具体的なことなんだ。父は、前線では将軍で、皆に慕われていたんでしょう?そんなにあっさり、殺してしまえたんですか?」
 「おれが新皇帝になったとなりゃ、その命令は絶対さ」叔父さまは心地よさそうにそう言って、あくびをした。「それでも、部下の手を借りるかどうかして、おまえのおやじが首尾よく脱走なんかして生き延びてしまったら…それからどうなるかなんて、おれはもう、絶対考えないことにしてる。そんなひどいことが、おれの身の上に起こるはずがない。いくら何でもそれじゃおれが、あんまりかわいそうだよな」
 「どこがどう、かわいそうだよ、何でだよ、もう?」
「何でだよって聞くかね、もう?」酔っているんだかいないんだかわからない、とろんとした目で叔父さまは、笑って僕のまねをした。「この世の中で、あいつの強さと魅力とを、おれほどよく知っている人間はいないんだぞ。あいつがおれに持っている、たった一つの弱みと言えば、父上の愛、姉上の愛、皇帝という地位、要するに、おれがほしがったもののすべてを、おれから奪ったことだけだ。おれはたしかに負け犬だけどな、負け犬だから、やっとあいつにかみつけるんだ。逆の状況で対決するなんて、考えただけでも恐ろしい。おれがあいつから、地位でも家族でも何でもいいが、何かを奪って、それであいつと対決する? まったく、冗談じゃないぞ、マルクス」
 僕は、意地悪な気持ちになった。
 「それでも、もしも、そうなってたら?」
 「狂ったろうな」叔父さまは、かすかに笑った。「とことん狂って、残酷になったろう。そうやって、何か人間以外のもの…狂人か獣か、死鬼か、悪霊にでもなったら、ひょっとして、あいつに勝てるかもしれないから。最悪の場合でも、そうなったおれを、あいつは殺してくれるだろうさ」
 「最悪の場合は、そうなった叔父さまに父が殺されて、叔父さま一人がこの世に残っちゃうことだよ」僕は思わず、そうつぶやいた。
 叔父さまはしばらく、まじまじと僕を見ていた。そして「まったくだな」と低く言った。「あいつのいなくなった世の中に、狂人か悪霊になって一人で生き残る…まったく、それに比べたら、どんなことでも耐えられるかもな」


(7)
 ゆっくりと窓を離れて、僕は叔父さまの足元に行き、床の毛皮の敷物の上にあぐらをかくようにして座った。叔父さまは僕の頭ごしに手をのばして、また砂糖漬けの果物を取ってかじった。その目は少し優しくなって、どこかもの哀しい幸せそうな笑みも、唇には浮かんでいた。
 「あいつ、でも、けっこう厳しいところもあったんだよなあ」
 叔父さまがいつのことを言っているのか、僕はもう何となく気づくようになっていた。叔父さまがそうやって、やわらかい、ぼんやりした表情になる時、その視線の向こうには、暖かい陽射しに輝く春の草原がいつも広がっているんだっていうことに。土の匂いのする風に花々が、草がそよぎ、蝶がひらひらと高く低くもつれあって舞う中に、川のせせらぎと雲雀の声とが聞こえて来る、まだ浅い春の、ある一日…
 「夕方だった。もう帰る少し前だ。あいつは若い兵士たちが弓や槍の練習をしている空き地で、おれにも槍を投げさせてくれた。それが面白かったんで、おれは弓も射たいと言ったんだが、あいつは大人用の弓しかないから、肩を傷めるからだめだと言って、射させてくれなかった。おれが、きげんが悪くなって、ふくれて見せても、絶対に、ご機嫌もとらず、話もそらそうとせず、だめです、申し訳ありませんの一点ばり。回りの皆がひやひやしてた」
 叔父さまは笑った。
 「おれは、ぐじゃぐじゃごまかされて、意見が通らなかったことはしょっちゅうだったが、そんなに正面きってまっすぐ反対されたことは、実は初めてだったんだ。その日、あいつと会ってから起こったことは何もかもが、おれには初めてのことばかりだったが、それもやっぱりそうだった。愛想笑いもせず、恐がる様子もなく、でも、大人に対するように真剣にまじめに、だめですと繰り返すあいつが珍しくて不思議で、だから、怒って見せているほどには、ほんとはいやじゃなかったんだが…。とにかくそうして、すねて見せても効果がないとわかったから、おれは実力行使に出た。そばにいた少年兵の持ってた弓を取り上げようとしたんだよ。その兵士は、あいつとおれの顔を見比べ、どうしたらいいのか迷って必死の表情になった。その時、おれは、あいつの指がおれの手首をつかむのを感じた。あろうことか、あいつはそうして、その少年兵からおれを引き戻したんだよ。それがどんなにとんでもないことかは、おまえにもわかるよな?」
 「打ち首にされてもしかたがないね」僕は言った。「叔父さまのことだから、そう言ったんじゃないの?」
 「まあ、似たようなことをな。今すぐその手を放さないと、おまえの上官に命じて、その手を切り落とさせるぞ、と言った。ちなみに、上官は…前に彼を罰すると言ったのとは別のやつだったが、冷や汗をかいて、まっ青になって、そばでうろうろしてたっけよ」
 「父は…?」
 「どうしたと思う?」叔父さまは杯ごしに、じらすように僕を見た。
 「手は放さなかったんでしょうね。でも…見当がつかないな」
 叔父さまはワインを口に含んで、思い出し笑いをした。
 「おまえのおやじっていうのは、つくづく、ほんとに、すっとぼけたやつでなあ」
 「何したの?」
 「どうぞ、そうして下さい、とおれを見つめたまま、きっぱり言ったが、おれの手首をつかんでいた右手を、左手に代えたんだ」
 「え…?は…?」
 「だからさ、切られるなら、その方がいいと思ったんじゃないのか?」叔父さまは片手で目をおおい、肩を震わせて笑い始めていた。「ほんとに、もう…。ああ、こいつ、本気で切られても放さないつもりだなとわかってあきれた一方で、変に現実的な判断してる、その要領のよさというか、そのミスマッチがもう何と言ったらいいのか、猛烈におかしくて、おれは我慢できずにだしぬけに、そこで大笑いしてしまった」
 「皆、びっくりしたんじゃないの?」
 「回りはすかさず、おれに合わせて笑ったさ。助かったとばかりにね。おまえのおやじだけが笑わずにおれを見ていて、おれが、もういい、わかった、と言ってやると初めて黙って手を放して、まじめな顔のまま一礼した。侍女頭が急いでそばに来て、もう遅くなりますから、そろそろおいとましましょうと言ったね」
「そりゃそうだろうよ。さっきから聞いてると、その日一日、叔父さまと父に付き添ってた人たちって皆、生きた心地もしなかったと思うよ」
 「実際、そのとおりだったらしい」叔父さまはにやにやした。「おれはそれから何年間も、暇さえありゃ、あの駐屯地に遊びに行ったが、おれが行くたび、あいつとおれが何をしでかすのかと、基地中、ひやひやもんだったらしいな。殿下が来てマキシマスと一日遊んで行くたびに十年寿命が縮まると、上官たちは言い合ってたそうだ。もっとも、半分、面白がってもいたんだろうがな。ただ、そうやって、あいつとおれが、他人の目に見えるような対決をしてたのは途中までだ。姉上と三人で会うことが多くなって、おれがあいつをいじめはじめてからは、あいつは、おれに反抗しなくなった。ちょうど今みたいに…おれが不幸になってる原因は自分にあるんだから、何されてもしかたがない、みたいな感じで…。だから、そうだな、はた目には、おれたちが大人になって、つまらんけんかはしないようになったと映っていたかもしれん」
 叔父さまは、またじっと火を見つめた。暗い、沈んだ、どこかとても切ない目の色だった。
 「たった一度だけ、そうなってから後で、あいつがおれに自分の感情を、ぶつけたと言えばぶつけたことがある」
 叔父さまはワインを一気にあおって飲んだ。
「何でだったかもう忘れた。おれはあいつを、ものすごく、本当にひどく傷つけた。あいつがあんまり悲しそうな顔したから、さすがのおれも、これはまずった、やりすぎたと思って、追っかけて行って、つかまえて、悪かったってあやまった」
 「いったい、何をしたんだよ?」
 「だから、覚えてないんだって」
 「そんなこと、あるのかなあ?」僕は半信半疑だった。
 「あのころ、ほんとにいろいろやったから…」叔父さまは言った。「どれだったのか、思い出せんのだ。おれの父上のことで、ねちねち嫌味を言ったんだったか、あいつのかわいがってた馬だか犬だかを、いじめて死なせたんだったか…とにかく、おれは、あいつが本当に傷ついた目をしたから初めて、自分のしたことのひどさに気がついたんだ。何をしたかということより、とにかく、こいつがこれだけ苦しむことを、おれはしてしまったんだと思っただけだ。とにかく、何とかしたかった。だから、あいつの前に行って、押しとめて、あやまったんだ。僕はどうかしてたんだ、悪かった、許してくれって」
◇◆◇
 そうしたら、あいつ、おれの目を見てもくれないんだ。斜め下の方に目をそらしたまま、声が震えないよう気をつけてるのがすぐわかる、ゆっくりした口調であいつは言った。「私に許してくれなどと、おっしゃってはいけません。お立場を、おわきまえになって下さい」
おれが立ちすくんでいると、あいつは目をそらしたまま続けた。「殿下は私に何をなさろうと、何をおっしゃろうと、あやまったりなさる必要はないのです。私の許しなど、お求めになってはなりません」
 おれはほんとに、血も凍る思いがしたよ。何て意地悪で残酷で、冷たいやつなんだろうと思った。恐いのと悲しいのとで、本当にわなわな震えて、おれはそのまま、ものも言えなくなってしまった。わかるか?あやまることさえ、許してくれないんだぞ。許しを乞うことさえ、おれは拒絶されたんだ。
 おれたちはその時、駐屯地のはずれにあった、古い神殿の廃墟の、くずれた回廊に立ってたんだが、まるで、あいつとおれの間には氷の壁があるような気がした。絶対に、あいつに近づくことができない、近寄らせてくれない壁だ。手をのばしても、もう永遠にあいつには、触れることさえできない気がした。
 「マキシマス…」おれはどうしていいかわからず、泣きそうになって、ただ、あいつの名を呼んだ。「憎んでいるなら、そう言ってくれ。怒っているなら、怒ってくれよ。…僕のこと、許せないんだろう!?そんなら、そうだと、言ってくれ!」
 するとあいつは、おれを見た。おれは一生、あの時のあいつの顔は忘れんよ。もう、ことばでは表現できない。苦しみと安らぎがいっしょになるんだろうか?怒りと優しさは似ていると思うか?あきらめと祈りは同じものなのか?絶望と喜びの区別はつかないものなのか?マルクス。おれは覚えている、決して忘れない。あの時の、あいつの顔には、そのすべてがあったのを。
 「私が…何よりも一番、殿下を許せないのは、どういうところか、おわかりになりますか?」あいつは静かに、そう言った。
 目まいがし、次にあいつが何を言うのか恐ろしくて、逃げ出しそうになりながら、それでもやっとのことで、おれは首を振った気がする。わからない、聞かせてくれ。そんなことを口のなかで言った気がする。あいつは同じ口調で続けた。「殿下が私にどんなひどいことをなさっても、私は、あなたのことを、本当に心の底から憎むことは決してできはしないだろうということです」
◇◆◇
 風の音が弱くなった。火桶の中で火は白い灰をかぶっている。コモドゥス叔父さまは新しい石炭を灰の中に入れ、音もなく赤くふちどられてゆく黒い炭をじっと見つめた。
「あいつがそのあと、どうしたか…背を向けて歩み去ったのか、おれを抱き寄せてくれたのか、笑ってみせてくれたのか…おれは何にも記憶がない。あの時のあの顔だけが、あの声とことばだけが、おれの頭に焼きついて、他のことは皆、消えた」
◇◆◇
 あの日の朝、あいつと初めて会った日の朝、川っぷちの土手を輿で進んで行く時、おれは、自分でも知らず、幸せに向かって走っていたんだと言ったな。だが、幸せとともに、悲しみや苦しみに向かって走っていたのかもしれん。こういうものはどれも決して、一つでは来ない。あの時のあいつの顔に、限りない優しさと強い怒りがあったように、果てしない絶望と深い安らぎがあったように…幸せは、苦しみを、悲しみは、喜びを連れて来る。生きている実感を楽しむということは、死ぬにもひとしい痛みを知るということでもある。そして、愛することを知ることは、ほとんどの場合、そうやって愛した相手を、決して手に入れることができないことを知ることなんだ。仮に運よく手に入れても、いつかは必ず、それを失うということを、思い知らされることなんだ。
 輿は走りつづけて、駐屯地に入った。
 タンポポの花が、かすかに吹くあたたかい風に、白い綿毛を散らしていた。

(「春、爛漫」終・・・・・2001.1.16.)