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美しい日々 −マキシマスとプロキシモー

 かつては自らも剣闘士だった老興行師は自問する。なぜあの男がこんなに気になる?自分の持つ剣闘士奴隷の一人にすぎない、無口で静かな、あの男が?

(まるでやる気がなさそうなのに、戦えば必ず勝ち、男はもとより女にも子どもにも、客には奇妙なほど好かれるその男。手なずけようとしてみても決して心を開かない彼は、かつて先代の皇帝に愛された偉大な軍人であったらしく、自分にかっさいを送る観客も、その前に自分を送り出す老興行師も深くさげすみ、嫌悪している。だがある夜、心に抱いて苦しみ続けていた先帝とローマへの失望と懐疑を彼が初めて語った時、それらへの愛と信頼をよみがえらせたのは、先帝と間近にただ一度しか対したことのない、老興行師のことばだった。そして、男と心が通い合った時、骨の髄まで剣闘士だった老興行師は、自らの最後の闘技場に赴くことを決意する。) 





美しい日々

(1)
 あの男が、気になる。
たしか先月、闘技場での試合用にライオンやハイエナとひとくくりで、十人ばかし買い込んだ奴隷の中の一人だ。カルタゴの鉱山で買ったと奴隷商人が言うとった(嘘っぱちにきまっとる!)ヌミディア人と、あの男だけが使い物になりそうじゃった。
 その通り、最初の試合でも、次の試合でも、あの男は楽々と勝ち抜いた。
じゃが、あの男の目は気にくわん。
 石炭のように輝いとる。屈服のかげもない。
 やっかいなところだ。あの傲慢さ、剣闘士としては役に立つ。が、奴隷としては危険だ。
◇◆◇
 わしが、あの男に手こずっておるのに気づいた商売仲間の一人が今日、金持ち女か、いっそ男の一夜の慰み物にして、プライドをたたきつぶせと忠告してきた。
 あの男になら金を積む男や女はいくらもいると舌なめずりした。ハイエナめ。
 正直言って、ちらと考えんわけでもない。
 じゃが、プライドをたたきつぶしすぎて、廃人同様になられても困る。
 そうなるやつも時々いると聞くからな。そうなっては、元も子もない。
 もっとも、あのとき買った奴隷たちは、ヌミディア人とあいつ以外にも、思ったより生き残っとる、今のところは。
 その点では、元はとれておる。思いきり買いたたいて安くまとめ買いしたわりには、歩どまりがいい。
 ひょっとして、それも、あの男のせいかもしれん。
 いつも皆に気を配っとる。弱りきった者はそれとなくはげまし、次第に皆をまとめていっとる。
 やっぱりどうも、危険なやつじゃ。
◇◆◇
 あの男が今日、食べ物が悪すぎると文句をつけおった。昨日はけが人に薬をよこせと言うた。
 まったくもう、人がやさしくしとると、つけあがりおってからに。
 たばね役に使っておる、ベテラン剣闘士の「ゲルマニア」にたたきのめさせようか、いっそ手っとり早く鞭でひっぱたいてやろかいと思ったけれど、もちょっと様子をみることにした。
 手ぬるすぎると人は言うじゃろが、わしも昔は剣闘士奴隷じゃ。
 つけあがらせて、どこまで図にのるかを見るのも、手のひとつじゃ。
 思いきり調子にのらせて、相手の身体ののびきったところをぶったぎる。このへんの呼吸は、闘技場も世間も、何のちがいもありゃせん。
◇◆◇
 いや、もう、金輪際、がまんができん!
 「サルディニア」が、ゆうべ脱走しおった。金髪の若いやつで、うまくしこめば人気者になるかもしれんと目をつけておったのに。
 そそのかしたのも、手引きしたのもあの男じゃ。わかっとる。
 呼び出して、何か知っとろうと問いつめたら、氷のようにつめたい、あざけり笑いで見返した。
 「次はおまえが逃げる気じゃろう?」わしは言うた。「そうはさせんぞ」
 するとあいつは「おれは、一人では逃げ出さんよ」と言いかえした。「あんたがやったようにはな、じいさん。ぬけがけはしないさ」
 ということは、企てておるのは集団脱走か、反乱か。
 どっちにしても、もうたくさんじゃ。あいつとつきあって遊ぶのは。
 やるべきことを、わしはやる。
 何しろ強いし、姿もいいから、今あいつには人気が出て、ひいきの客もつきはじめとる。
 じゃがもう、そんなことは気にしておられん。
 集団戦じゃ!一対六の。
 今日、商売仲間に言うて、弱くても強そうに見える、でかいのを、四五人、調達してこんと。
◇◆◇
 やっと頭数がそろうたから、今日、あの男を呼び出した。
 「明日、集団戦に出い」わしは命じた。「一対六のな」
 やつは、うす笑いした。
 「へえ、六人。そりゃ、手ごたえがありそうだぜ」
 「何かまちがえとらんかい」わしは言い返した。「お前は六人の中の一人じゃ」
 男の目が光った。「ほう?で、相手の一人ってのは誰なんだ?」
 「『イスパニア』じゃよ」
 「なるほどな」男は顔色を変えなかった。「そう来たか。じいさん。やるな」
 「おまえにあいつが殺せるか?腕のたつのじゃ、互角だろうが」
 「まあな」男の声は冷たかった。「いい勝負になるだろうぜ。ところで、ひとつ注文があるがいいか?」
 「何なりと言うてみい。おまえのあれこれ注文つけるのにゃ、なれとるわい」
 「おれの、この」男はがっしりとした、はがねのような胸を手のひらで押さえた。「傷あとをかくせる鎧と、顔のかくれるかぶとをよこしな。でないと、あいつ、イスパニアは、おれだってことがわかったら、多分、戦わないぜ。そんなやつをぶったぎるのは、おれとしても、あとあじが悪い」
 「さがしといてやる」わしはうけおうた。「じゃが、どっちみち、わかるぞ、おまえということは。あの、稲妻の突きは、おまえ以外のものにはできん」
 「それがわかったときには、あいつはもう、死んでる」男はまた、うすく笑った。「相手がおれだと…『アルメニア』だとわかったときには」

(2)
 さて、それで「イスパニア」じゃが、あいつを買ったときのことを実はあまり覚えとらん。
 たしかあれも「ヌミディア」といっしょに買ったのだったと思うが、よくわからん。
 だいたい、イスパニアのことが気になりだしたのは、ヌミディアもアルメニアも、やたら、あれのめんどうをよく見ていたからだ。
 かわるがわる、あいつに話しかけてた。
 あいつはほとんど返事をせんのに。
 返事どころか、最初、口がきけんのかと思った。耳もきこえんのかと思った。それほど、何を言っても反応がなかった。
 鎖につながれるのになれてないようで、つなぎ直すとき、いつもちょっともたもたするので、はじめからの奴隷ではないなと思った。ただ、おとなしくて、これといってつながれるのをいやがっている風でもなかった。
◇◆◇
 だいたい、わしは、ヌミディアとアルメニアが、最初あいつを(イスパニアを)何かと気にして、めんどうみるのは、いっしょに買われた奴隷たちの中じゃ、あいつが一番弱ってるのと、少し頭に障害があるというか、たよりないからかと思っとった。
 それにしたって酔狂なやつらだとは思った。だがまあ、そういうこともよくある。人のめんどうを見、世話をやいてると、自分が強いような気分になって落ちつくもんだ。そうやって生きる力を得るやつもいる。
 奴隷ならまあそれもいいんじゃが、剣闘士奴隷となると、ちっとばかり話はちがってくる。仲間とあまり親しくなったり、身の上話をするのは、よしあしじゃ。いつ、その相手と殺しあいをしなければならなくなるかもしれんのじゃから。
 ここのかねあいは、むずかしい。ま、かしこいやつならば、あまり他人に深入りはせん。
 ヌミディアは、みるからにアフリカの森からさらわれてきた感じで、剣闘士が何だか知ってる風じゃなかった。だから、イスパニアに親切にするのもわからんでもなかった。
 だが、アルメニアはちがう。あいつは何でもよくわかっとったし、わかった上でやっとるのが一目でわかった。
 それがイスパニアのめんどうをやたらと見るのが、変じゃった。
 ひょっとして、男が好きなのかと思ったが、そういうのとも、どっかちがう。
◇◆◇
 そういうことだ。
 新入りの中では一番みどころのある剣闘士二人が、一番ぼやっとしてたよりなさそうなやつのめんどうを、せっせと見てるのは、どうも気になる。
 それでつい、わしもイスパニアを気にして見るようになった。
 いい身体をしているし、顔だちもどこか品がある。見てくれだけなら人気者になれるかしれんと思った。
 しかし、とにかく、やる気がない。いや、それ以前の問題で、どこに今自分がいて、何がどういうことになっとるのか、まったくわかってないようだった。
 ライオンが死人の肉をくってても、ハゲタカが半分生きてるやつの頭をつっついていても、黙って見てるだけで何の反応もせんし、木剣を持たせると、興味なさそうに投げ出した。
 少し、いや相当、頭に障害があるのかもしらんと思った。そういえば、時々ぼうっと夕焼けなんぞ見とるときの目は、迷子のみなしごか何ぞのように哀れっぽく無邪気で、そういうやつ特有の何ともいえん澄んだ目と同じに見えた。
 競技に出すときのランクづけのために、ゲルマニアたちベテラン剣闘士が、新入りのひとりひとりと木剣で対戦して、強さをテストしたときも、イスパニアはまるでやる気を見せなかった。当然、一番弱いランクになって、その印の黄色い塗料を服の胸につけられとった。
 じゃがそのあと、ゲルマニアが「あいつ、変だぜ、親方」と気にして、わざわざ言ってきた。「強いんじゃねえのかな、ひょっとして?」
 「おまえにわからんのか?」
 「第一、あの身体が尋常じゃねえ。どう見てもありゃ、訓練と実戦できたえにきたえあげてる身体だぜ」
 「使いものになりそうかい?」
 わしにはそれしか興味がなかった。
 「まあ、何とも言えねえが」ゲルマニアは首をふった。「兵士だったみたいだな?」
 「ああ、おまえの国をさんざんにした軍団のな」
 ゲルマニアは歯をむいて笑った。「そんなこた、どうでもいいんだが」
 こいつもイスパニアを気にしはじめてるのか。いったいどうなっとるんだ、と、そのとき、わしは思った。
◇◆◇
 わしの記憶もはっきりしとるわけじゃないが、イスパニアの笑顔(らしきもん)を見たのは、最初の試合(ゲルマニアの予想どおり、イスパニアは勝ち残った)の少しあとじゃ。
 広場で、ヌミディアたちがふざけてクジャクを追っかけ回しておるのを、日除けの下に座ってぼうっと見ておったが、追いつめられたクジャクが飛んできて、あいつのひざの上にとびのってしまい、自分でも驚いて鋭い鳴き声をたてた。そのとき、顔をよけながらまぶしそうに目を細めたのが、笑ったと言えばそうじゃったかもしれん。
 そのころから少し、何というか、生きておる気配が見えはじめた。
 ヌミディアの話では、何でももと軍人で、上官にめっぽうかわいがられとったということじゃ。その上官が対立しとった別の貴族にだましうちに殺されて、かわいがられておったイスパニアも家族を皆殺しにされて、やっとこさ逃げ出したものの、奴隷商人につかまったらしい。あいつらはハゲタカみたいなもんじゃからな。傷ついて弱っとる、ひとりぼっちの脱走兵なんぞ、またとないえじきじゃわ。
 そういえば最初は肩に軍人のしるしの入れ墨をしとったが、いつの間にか消えとった。ヌミディアの話じゃ、自分でこさぎおとしたらしい。半分死んどるようにぼうっとしとったに、そんなことする元気はあったんじゃな。まあ、自殺する力がなかったから、そのかわりの腹立ちまぎれじゃと思えば、わからんでもない。
 「イスパニア、強かったらしいぜ」ヌミディアは言った。
 「部下も多かったみたいだし。その上官って人が殺されなきゃ、あいつがあとをついでたんじゃないのかな」
 たしかに、試合じゃ強かった。アルメニアやゲルマニアのような迫力はないし、ヌミディアの野生の獣のような動きともまたちがうが、洗練されたむだのなさで確実に相手を倒す。
 その分、地味じゃから、剣闘士としてはぱっとせんかなと思うておったが、最初の試合がおわったあとで、すぐ子どもたちがあいつの回りにどっとむらがってきたのには驚いた。あいつは目をそむけて相手にせず行ってしもうたが、それからも子どもたちはいつも、あいつを追っかけまわしとった。
 それから女たちじゃ。これがまた、早かった。ここは辺境の町じゃから、けちくさい、ちっぽけな競技場の観客の中に、女はもともと少ない。それが、あいつが二度、三度、勝ち抜くころから、観客の中にどうみてもふだんはこんなところには来んような女がふえた。あいつの試合がおわると、ささっと帰っていくから、目あてはあいつとすぐわかる。口づてに噂が広まるのか、日をおってそれがふえた。闘技場の持ち主は喜んで、イスパニアを最後の試合に出してくれと、わしにたのみにくる始末じゃ。その方が女たちが最後までとどまっておるからじゃと。
 「奥さん。わかりませんな」わしはあるとき、やっとそういう女の一人をつかまえて、聞いてみた。「あんな、まるっきり面白くない戦いぶりのどこがいいんです?やる気も何もありゃせんじゃないですか。見とってそれがわからんですかな?」
 「あらまあ。そこがいいんですわ」土地の上流夫人らしい女は、顔をかくした厚いベールのはしから、黒くふちどりをした目をのぞかせて笑った。「あの、つらそうに、いやいや戦っているところがとってもいいんですの」
 そんなもんじゃろうか。わからん。
 「安心して見ていられますのよ」女は説明した。「自分は残酷な女ではないという気持ちになれますの」
 戦うのがつらそうに戦っている男を喜んで見ているのの、どこが残酷じゃないんかい。じゃから女というやつは、わしゃわからんし、好かんと言うんじゃ。
 イスパニアの人気には、そういうように、わしら興行師のこれまでの常識じゃ計算できん、先のよめんところがあって、わしはあまり気にくわんかったが、とにもかくにも、金は入った。
◇◆◇
 そのころじゃった。わしが、中庭でイスパニアとアルメニアが、ひそひそ話をしとるのを聞いたのは。
 「まだそんなこと言ってるのか?」アルメニアが言うとった。「こんな目にあっても、まだ?」
イスパニアはつらそうに目を伏せていた。足もとの砂をつかんで、手の中でにぎりしめながら、「おれは、それだけを信じてたから」と言うのが聞こえた。
 「都に行けば、ちがうと思うのか?」アルメニアが鋭く言った。「ここでやられていることが、もっと大規模にやられてるだけさ。金持ちは貧乏人をしいたげて、ぜいたくにあけくれ、民衆は殺人競技に酔いしれる。国境で戦っている兵士のこと、ほろぼされて死んでいく周辺の民族のことなんか、考えるものは誰もおらん。いいか、これが、おまえが信じて、そのために戦ってきた国の実態だ。目を開いて、ちゃんと見ろ。この国では、世界は救えん」
 イスパニアは、ため息をついた。「どうしろと?」
 「自分で自分を守るしかないんだ。一人でだめなら、仲間といっしょに」アルメニアは激しく言った。「闘技場でそのことは、おまえも骨身にしみたろう。誰のために戦うんでもない、自分のために戦うんだよ。力をあわせて、おれたち皆で」
 「この国が…あの都がああなのは、今の支配者が悪いんだ」イスパニアは目を伏せたまま、ささやくように言い返した。
 「前のやつは、そうではなかったっていうのか?」アルメニアの声に、骨までつきさすような冷たいあざけりがこもった。「おい、なあ、おれの子どもたちがそんな目にあったのも、皆、ごりっぱな人格者と言われてる前の支配者の時代のことだぜ。誰が支配者でも同じだ。この国は腐ってる。おまえの上官だって、その腐った国の一部なんだよ」
 「その人は、それじゃいけないと思っていたし、何とかしようとしておいでだった」イスパニアの声はやっと聞こえるほど低かった。「おれは知ってる」
 「夢物語さ。夢を語っていただけだ」アルメニアは言った。「おまえはそれにずっとだまされ、ありもしない幻の、都と国を、信じてたんだよ」
 うつむいたまま、イスパニアは首をふった。子どものように、何べんも。
 「同じ夢を信じるなら、かなわない夢にかけるなら、おれの夢にかけろ」アルメニアは強く言った。「おまえを、おれを、こんな目にあわせている、都を、国を、なぜ憎まん?人がいいにも、程があるぞ。おまえの家族を、おれの子どもたちを、殺した国でもある。その国をまだ愛するなら、鎖につながれていようといまいと、おまえは奴隷だ、誇りを持った人間じゃない。一人前の男とは言えん」
 アルメニアはイスパニアの、かすかにはずんでいる肩に手をかけた。
 「おまえが、『その人』とか『あの方』とか呼んでいる、そいつを憎め。いいかげんに目をさませよ。『それではいけないと思っておいでだった』?『何とかしようとしておいでだった』?ふん、何十年あったんだよ、そう思いつづけ、何とかしようとしていた間が?結局、何にも変わらなかった。そいつは何にもする気なんかなかったんだ。なぜそれが、おまえに見えない?一番近くにいたんだろうが?」
 「おれたちはいつも、いろんな話をして…」
 「聞いたよ。本の中の話、世界の未来の話をな。おまえと、そいつが、そんなことをうっとり話している間に、戦いは続き、ゲルマニアの故郷は焼かれ、都は堕落しつづけ、おれの子どもたちは死んでいったんだ」
 「あの方はもう死んで…」イスパニアの声がふるえとった。「死んだ人は裏切れない」
 「生きていた間に、そいつがおまえを裏切っていたのに?都が、国が、こんな風で、変わる見込みなんかどこにもないとわかってて、そいつはおまえにそのことを教えなかった。調子のいい夢を語って、おまえをだましていたんだぞ。そのことがわかっても?それでも裏切れないってか?」
 傷の痛みに耐えるように、イスパニアは身体を小さく固く丸めた。「おまえの話を、もう聞きたくない」つぶやくように彼は言った。「気を悪くしないでくれ。でも、これ以上聞けない」
 「いいよ」アルメニアはおだやかに言って立ち上がった。「でも、考えておけよ」
 そして、立ち去りかけてまた戻ってきて、イスパニアの肩に手をのせた。
 「おまえが心配なんだ。死なせたくない」
 「わかってる」イスパニアはうなずいた。「おまえが、仲間の誰のことも死なせたくないんだってことは」
 するとアルメニアが笑った。
 「それはそうなんだがな。正直、子どもたちをなくしてこのかた、おまえほど、おれが、死なせたくないと思ったやつは、初めてなんだ」
◇◆◇
 あのとき、イスパニアは、何だかよくわからないような顔で、アルメニアを見つめ返していた。アルメニアがさっさと行ってしまったあとでも、一人で何かふしぎそうな顔をしとった。これはこいつの特徴で、人に好かれても気がつかんというか、うれしそうというより、ふしぎそうな、ほとんど困った顔をしおる。わしは気づいておったが(本人は気づいとらんだろう)、これがまた、こいつの人気の理由のひとつじゃった。女たちの中でも大胆なやつらが近づいて、笑いかけたりさわったりすると、こいつは何となく、ひるんだ、逃げそうな様子をする。ひいきにしてくれる客に対して、こういう失礼なことはまたとないと思うのに、逆に女たちはそれを喜んで、ますます人気が上がる。何で、迷惑そうな、いやそうな顔をして、人に好かれるのか、 ここがわからん。本人もわからんで困っておろう。
 「あの人、他の剣闘士とちがいますもの」女たちが言い合っておるのを聞いたことがある。「何だか安心できますのよねえ」
 そりゃ、いやがっておるものに、襲われる気づかいはあるまい。それが安心ということなら、そうじゃろう。じゃが、これは、逃げてみせては男の気をひく、性悪女のやりくちでもあって、それで相手をますますのぼせあがらせておるイスパニアは、罪なやつじゃとも言えるわい。
 まあ、しかし、こいつの場合は、わざとやってるんじゃあるまい。しかし、アルメニアの方はわからん。イスパニアの心を自分のものにして、思うさまあやつれるようにするためには、おまえのことが他人よりひときわ心配じゃぐらいのことは、いつでもぬけぬけ、言いそうなやつじゃった。じゃから、イスパニアが、あんまりぴんとこんような顔をしておったのに、実のところわしは、ほっとした。
 どのみち、あのときの話といい、サルディニア脱走の件といい、アルメニアは危険なやつじゃった。売っとばしてもよかったのじゃが、イスパニアと殺し合わせるなどという、手のこんだことを考えたのは、まあ、わしもよくよく、あいつには腹を立てとったのかもしれんて。

(3)
 今朝、イスパニアを呼んで、六人相手の試合に出ろと言うた。いつものことだがやつは、ひとごとのような、興味のなさそうな顔で聞いとった。人間というのは、何だかだいうても身体がもとじゃ。こいつも、体調が元に戻るにつれて、もともと丈夫なやつじゃから、元気になってきとるのじゃが、その分、きげんの悪さもひどくなって、わしに対しても、いらだちをかくさんようになっておる。それも、いつものことじゃが、早く帰りたそうで、用はそれだけかという顔を露骨にしていて、話が終わるやいなや、さっさとひきあげて行った。
◇◆◇
 今日は天気もよかったことじゃし、闘技場は大入り満員じゃった。かきあつめた五人の剣闘士の中に混じりこんでおるアルメニアは、似た身体つきのやつが偶然じゃが、二人ほどいたせいもあり、知っとるわしでも、よほどよく注意して見んと、どの男かわからんじゃった。
 むろん、イスパニアにもわからんかったろう。やつは、左右に飛んでまずあっさりと二人を倒したが、その間にもう二人に後ろに回りこまれて、その一人がアルメニアじゃった。
 少し離れてもたついておる二人のことは、イスパニアはとっさに無視することにしたようじゃ。図体はでかいが、動きののろさと、構えの鈍さから、この二人は放っておいても後で充分かたづけられると判断したのじゃろう。手ごわいと見た近くの二人に全力を集中した。
 振り向きざまにふるったイスパニアの剣が、一人に突き刺さった。それを引き抜くわずかな間に、アルメニアがするっと接近した。とっさにわしは、こりゃイスパニアの負けじゃとわかった。その近くで、その間があっては、あのアルメニアの電光石火の突きは絶対によけられん。しかも、その一瞬、身体の向きを変える時、イスパニアの脇はがらあきになっておった。やつもすぐ、それには気づいて、すばやく身体をひねったが、アルメニアには、その一瞬でたっぷりと、イスパニアの横っ腹にぐっさりと剣を突き刺す間があった。
 じゃが、わしは自分の目を疑うた。アルメニアの剣は、ぶざまと言いたいぐらいゆっくりと、円を描いて回ったのじゃ。刃先がイスパニアの身体をかすめはしたものの、あの、稲妻の突きは出なかった!
 思わず手すりをつかんで立ち上がったわしの目の下で、イスパニアの剣が、アルメニアの胴体にたたき下ろされ、鎧ごと身体がなかばぶっちぎれた。どっと砂の上に倒れたその身体にはもう目もくれず、余裕を持った足どりでイスパニアは残る二人の方へ進んだ。
 そちらを見たものか、倒れたアルメニアの方を見たものか、わしの目は迷うた。とどのつまり、血だまりの中に横たわる、見るかげもない死骸の方に目を向けたとき、わしの耳にアルメニアの高笑いがとどろいたと思うたのは、幻じゃったじゃろうか。わしに公然と挑戦し、仲間をまとめて反乱をくわだて、新しい世界を築くと言ってのけておった男は、その計画のすべてを、自分の命とともに投げ捨て、イスパニアを生き残らせた。
 何のためにじゃ?それほど、やつが好きじゃったのか?
 それとも、わしへの挑戦か?
 あたりをゆるがす歓声の中、イスパニアの剣が、最後の一人の首を、かぶとごと宙にはねとばしておる。歓声は続くが、彼は苦々しげに、つばを吐き、剣をなげすてて大またに引き上げていった。ころがった死体の山には、目もくれぬままで。
 イスパニアも、まったく気がついておらん。
 自分が殺したのは誰か。
 わしが、何をしたのかを。
◇◆◇
 アルメニアがいなくなったわけを、誰もがまだ気づいておらぬ。
 多分、気づかぬままじゃろう。
 最初にそのことを、わしに聞いたのはイスパニアで、今朝、皆がめしを食いに集まっておるところをわしが通りかかると、歩み寄ってきて、「アルメニアは?」と聞いた。「どうかしたのか?」
 こいつが、こんなことを皆の先にたってやることは珍しかった。初めてじゃったと言ってもいい。
 そして、他の連中が誰もそれをかくべつ変とも思っとらんようで、わしとあいつのやりとりを見守っとるのにも驚いた。
 つまり、アルメニアがいきなり消えて、何となく動揺している皆の、自然と中心になっておるのがイスパニアじゃった。なってみると、それがいかにもふさわしく、似合っておる。アルメニアのように皆をひっぱってひきつけておる感じともちがうが、ひとりでに皆のよりどころとなっておる。
 ヌミディアの話じゃ、イスパニアは軍人じゃったときは、かなり部下も多く、位も高かったらしい。そんな話をヌミディアが知っとるのは、部下も何人か奴隷の中におるのかもしれん。どう考えてもイスパニアが自分から、そんな話をしそうにはないから。
 じゃが、弱ってぼうっとしとった時は、こいつが部下を指揮するの、人の上に立つのなどと、逆立ちしても想像すらできんかったが、その、今朝の様子を見ると、何やら充分、納得した。
 それにしても、よりによってイスパニアに聞かれて、わしもとっさに動揺し、「あいつなら、もうおらん」と、つっけんどんに言い返した。「それがどうした?」
 イスパニアは、わしが怒った理由がわからなかったらしく、ちょっと黙っていた。それから、「売ったのか?」と聞いてきた。
 「そうだ」
 何人かが顔を見あわせ、何か言いそうにした。それをイスパニアがさりげなく小さく手で制したのを、わしは見た。
 「わかった」イスパニアは静かに言った。「すまなかった。ひきとめて」
 その場はそれですんだが、夕方わしと行き合うと、イスパニアはまたわしを呼びとめ、「アルメニアは、遠くへ行ったのか?」と聞いた。
 「ああ」わしは答えた。
 めっぽう遠くにはちがいないから、嘘にはならんわい。
 イスパニアはまた黙っていた。
 「何だ、どうしたと言うんだ」わしはいらだった。「別れのことばでも、かけたかったってわけか?」
 イスパニアはうなずいた。「世話になってたし」
 「世話になっただと?」わしはせせら笑った。「おまえの大好きだった人をぼろくそに言われて、たいがい、いやな思いしとったんじゃないのかい?」
 イスパニアは首をふった。「いやな思いをさせようと思って、彼は言ってたわけじゃない」
 「なつかしいか?」わしはからかった。
 「わからない」イスパニアは、まじめに答えた。「でも、もっと話したかった」
 「また会えるさ」わしは口から出まかせを言った。
 「ヌミディアも、そう言っていた」イスパニアは口ごもった。「でも、もう会えないような気がする。わけはないが、何となく」
 そして、ため息をついて、また「すまなかった」と言い、はなれて行った。
 どうも、あいつのものの言い方は、ていねいにわびてはおっても、何となくこっちが目上の者から言われたような感じになって落ちつかん。若いのに妙な貫禄がある。ほんの何か月か前には、図体はでかいが、頭の弱い迷子の子どもみたいに見えたというのに、何じゃ、この変わりようは。
◇◆◇
 死んでしもうたアルメニアのことなど、あれこれ考えとるひまはない。
 この世は闘技場と同じ。立ちどまれば、やられる。
 今日、都から知らせが届いた。この国の新しい支配者が、前の皇帝が禁止しとった、都の大闘技場での剣闘試合の再開を決めたそうじゃ。
 行くぞ、都へ。
 興行師としての最高の夢じゃ。都で一旗あげてやる。わしの名声をとどろかせ、ざくざくと金をもうけて、女と酒にあけくれてやる。
 奴隷として生まれ、剣闘士として育ったこのわしが、ぜいたくの頂点をきわめるのじゃ。思えば、わしなりに、ようやってきたことよ。
などと、言うとるひまはない。
 イスパニアのやつを呼んで、言うてきかせることがある。
◇◆◇
 イスパニアは、今、ひとりでに、皆のまとめ役になっとる。皆のことを思うてか、前よりもしゃべるし、やさしい顔で、よく笑う。ただし、闘技場ではあいかわらず、というよりますます、ふてくさっておる。はっきり、観客に挑戦的な態度をとっておる。花束を投げられると、ふんで行く。最前列で手まねきするひいき客がおると、顔をそむけて、よけて行く。
 じゃが、そのへんは、わしはもうまったく心配しとらん。あいつがそうすればするほどに、観客は熱狂する。女たちは「よくよく、つらいのね」などと言うて、あいつを見つめて涙ぐんどる。男たちは、女たちの嬌声や、金持ち客の呼び声にあいつがふりむきもせんで無視すると、大喜びで笑いころげて拍手しておる。
 「あんたのとこのあいつ、観客にあの態度はまずいのう」と、はじめ心配してくれとった仲間の興行師たちは、この思いがけん展開にあきれて、このごろはもう何も言わん。
 「あれはあんたが、わざとやらせとるんかね」と、まじめに聞いてきた者までおる。
 わざとなもんかい。イスパニア自身が時々、もうどうしていいのかわからんような顔をしておる。無理もないわい。いやじゃ、きらいじゃ、軽蔑する、という態度をとればとるほど、好かれて、愛されてしまうのじゃもの。そりゃ、つらかろうよ。
 しかし、自業自得じゃよ。観客をなめてはいかん。何を愛して、何を憎んで、どっちに転んで、いつどこでとまるか、誰にもわからんのが大衆じゃ。その恐ろしさも知らんでからに、粗末に扱うから、ざまを見ろ。とことん、好かれてしもうたろうが。
 わしが、おかしがって、せせら笑うておるのがわかるらしくて、イスパニアはこのごろ、わしに腹をたてておる。ひょっとしてこうなったのはあんたのせいじゃないのか、こうなるとわかっていたら何で教えてくれなかったとでも言いたそうな目で、わしをにらむこともある。まあ、そう思いたければ思っておくさ。神々に誓って、こんなこと、わしも予想はしとらんじゃったが、とにかく金がもうかるのじゃ、わしとしては何の文句があろうかい。
◇◆◇
 じゃが、都に行く、となると、これは面白がってばかりはいられん。
 イスパニアに注意しとかんと、今のようなことでは通らん。
 都の女たちは、ここの女たちのようじゃない。ぜいたくで甘やかされておるくせに、人殺しは大喜びで見るし、残虐な殺し方ほどうれしがって、あれやこれやとくろうとはだしの批評もする。
 最高の殺し方を見せんと満足してはもらえんじゃろう。いやいややってるような気のない風なんぞ、もってのほかじゃ。
 それで、今日、やつを呼びつけて、都に行くからしゃんとせいと言うて聞かせた。案外おとなしく聞いとった。
 わしが、前の皇帝におことばをかけてもろうて、自由をいただいた話をして聞かせたら、妙に喜んどった。自分も今の皇帝に会いたいと言うた。あいつが自分から何かを望むなんぞ、珍しい。戦いぶりがみごとなら、おことばを直接かけられることもあろうよと思うたから、とにかくもっと観客にサービスするよう言い聞かせておいた。

(4)
 何ともう!いやはやまったく、笑いがとまらん。
 イスパニアの力は、都の闘技場でも立派に通用する。それどころか、大闘技場で、派手なしかけがくり出されるほど、あいつの技のさえること、さえること。最初の試合で、仲間を指揮して戦車を六台、あっという間にこっぱみじんにしたものじゃから、人気は一気に頂点に達し、そこから落ちる気配がない。
 個人戦でも集団戦でも、あいつの技はさえまくる。話題沸騰で、今、まさにやつは都の寵児となった。皇帝の名を知らぬ子どもでも、あいつの名ならば知っておろう。
 もう、こうなると、あいつが闘技場に出て行っただけで、対戦相手が勝手にひるむ。その上に大観衆がいつもあいつの味方じゃ。あいつに対する声援は、実際に風圧となって身体に感じることができるほどじゃ。相手は、それにも圧倒されて、少々強い相手でも、試合にならん。
 それで、わしは最初、少し心配したが、闘技場の支配人は笑って、心配いらんとわしを安心させた。
 「しかし、試合時間が予定の半分にもならんのに、終わってしもうては観客は文句を言わんか?」わしは気にして聞いた。「もっと、ひきのばせと、いつも言うて聞かせておるのじゃがのう」
 「いや、あれはあれでよい」支配人は言うた。「観客は白熱した試合も見たいが、安心して見ていられる試合も好きなのだよ。彼の場合は、たとえ試合があっという間に終わっても、客はますます熱狂するさ。何の心配もなく、勝つとわかりきっている方に心おきなく応援できるというのは、それはそれでなかなか得られる快感ではない」
 いや、そのとおりじゃった!
 しかも都の観衆は目が肥えておるから、彼の高等技術をよく見抜く。一見、地味でわかりにくくても、難しい技をやつが使うと、観客はすぐ反応して、わあっと潮のような歓声がうねる。やつが良心的に、手抜きをせずに最短の時間で敵を倒そうとしておるのを、観客たちはちゃんと理解し、そのために力を限界まで出しつくす彼の戦術を評価しておる。
 「気持ちのいい戦い方ですねえ」「まるで本当の戦場を見ておるような迫力じゃ」「見世物らしいつくりかざりが全然ないのが、たいそう心地よい」などと、見巧者たちが批評しておるのを、毎日のように聞く。
 わかってくれる観客とは恐ろしいもので、あいつが次第に、それに反応しはじめておる。受けをねらうのではないが、よい技を使うと観客が喜ぶのに気づいて、ここぞという時に、みごとな動きをして見せたりするのが、もう明らかに観客の反応を計算しておる。それにまた、ただちに観客が気づいて、爆発するようなかっさいが闘技場をゆるがす。あいつと観客の間には、その時、恋人どうしにもまさる固い絆があることに、あいつは気づいておるのじゃろうか?試合が終わって、かっさいに手を挙げて応える動作も次第に堂に入ってはきたが、あいつはあいかわらず、にこりともせん。まあ、それがかえって大物らしくて、よいと言えばよいのじゃが。
 いやなに、そうそう、忘れておった!あいつは実際、大物なのじゃ。それも超がつく、けたちがいの。
 最初に戦車をぶっこわした日、あいつにことばをかけようと闘技場に下りてきた新皇帝があいつを見るなり、凍りついた。なぜかと思うたら、何とまあ、あいつの上官と家族を殺した貴族というのは、その新皇帝じゃったらしい。と、いうことは?そうよ、あいつの上官というのは、わしに自由を与えてくれた、名君として知られる、前の皇帝その方じゃったのじゃ。
◇◆◇
 この噂もまた、野火のようにたちまち都に広まった。それも、いっぱい尾ひれがついてな。あいつは前の皇帝の隠し子じゃとか、皇女の元恋人じゃとか、今の皇帝の恋人じゃとか、前の皇帝はあいつに位をゆずるはずじゃったとか、何から何まで、言われぬことはないようなありさまじゃ。あいつそのものはぶっきらぼうで地味でも、とりまく噂がこれだけ豪華じゃと、全然、地味な感じなどせん。
 もちろん、現皇帝としてみれば、すぐにもあいつを殺したかろう。しかし、あいにく絶対にそりゃ無理じゃ。大衆にこれだけ好かれておってはな。毒殺も、暗殺も無理じゃろう。もうすでに、皇帝がそういうたくらみをしておるという噂が大っぴらにささやかれはじめておる。これであいつが、ぽっくり死にでもしようもんなら、皇帝が殺したということになり、たちまち暴動が起きるわい。軍隊の反乱や奴隷たちの反乱よりもっと恐ろしい、指導者もなく、行き場もわからず荒れ狂う、民衆の暴動じゃ。きっかけが何であったかさえ、すぐ忘れられる。起こったが最後、ふくらみつづけ、狂気が狂気を呼んで広がり、国全体をまるごとひっくりかえしかねない。
 そういう意味ではイスパニアは、絶対に安全じゃ。この国で大衆に好かれ、守られておることほど、安全を保障するものはない。いや、それどころか、その気になれば、今や、やつは大衆を動かして、皇帝と対抗することさえできるじゃろう。
 じゃが、やつ自身はあいかわらず、そのことをありがたそうにも、うれしそうにもしとらん。試合の前に剣闘士たちが皇帝に向かって行う忠誠の誓いを、あいつは絶対にしようとせんが、それだけで気持ちがすんでおるはずもなく、ほんとは皇帝を殺して、主君と家族の復讐をしたいのじゃろう。そういうことをしてもろうても困るが、しかし、今のあいつなら、大衆にあれほど好かれておるのを利用すれば、何かそれに近いこともできそうな気がするのじゃが、思いつかぬのじゃろうか。見ておると、このごろ、だんだん、沈んできておる。
 「帰りたそうだな、いつも」
 闘技場の支配人がこの前、ワインをすすりながら、わしにそうもらした。
 「ああ、いつもそうじゃ」とわしは答えた。
 わしたちは二人とも、中程度の敵をあっさり倒して、観客の歓呼にこたえておるイスパニアを見下ろしておった。それでも、やつのことを話しておると、それだけのことばですぐ、おたがいにわかったぐらい、イスパニアは、そう見えた。こんなに遠くから見ていても、その身体の動き全体が「まだ(ここに)?」とか「もう(行っても)?」とか、つぶやいているようだった。
 わしにそう見えるのは、イスパニアが、そもそものはじめから、わしの前に出たときにはいつもそうだったからかもしれん。いつも、もう帰っていいか?という目をしていた。もう話はそれで終わりか?もう行ってもいいか?
 どこへそんなに、行きたいんだ、と、そう言えば、わしも時々、思ったものだ。行くところなど、ないくせに。何の予定も、約束も、あるはずがないのに。
 「あれも、人気の原因だな」支配人はつぶやいた。「変わっているが」
 「帰りたがっておるのがか?」
 「うむ。帰っても、鍵のかかるへやに閉じこめられるだけで、何も幸福なことなどないとわかっておるのに、それでも、ここから早く帰りたそうにしておる男というのは、見ている者の気をそそるよ」
 「そんなものかな」
 「何か、自分たちにはわからぬ幸福が、あの男の帰る先にはあるかもしれんという気がして、ついて行きたくなるというか」
 「単に疲れて、早くひきあげたいだけでしょう」かたわらにいた女が言った。「かわいそうに」
 支配人は笑った。「ほら、このように同情する者もおるしな」
 そして、ワインをすすりながら言った。
 「いったい、一度ぐらいはあるのかな。『もっとここにいたい』とか『またここに来たい』とか言う顔をしたことが、生まれてからこれまでに、あの男」

(5)
 昨日のイスパニアの試合ぶりは、さすがのわしも、我慢の限界をこえたぐらいにひどかった。闘技場の支配人がさしむけてきた、えりすぐりの剣闘士三人を、投げやりとしかいいようのないむぞうさな剣さばきで、あっという間になでぎりにした後、観衆にあいさつもしないで、みるからにしらっとした顔で、さっさとひきあげてきてしもうた。一瞬、闘技場に恐ろしいほどの沈黙がたちこめ、わしはほとんど血も凍るかと思うた。都の観衆は、バカにされるのにはなれとらん。それどころではない、自分たちに甘えてつけあがる者には容赦はせん。見限られたら、それっきり、もう永遠におしまいじゃ。
 本当に、本当に、あいつは大衆の恐ろしさというものを知らん。戦場で、大軍にたった一騎でつっこむより大胆なことを平気でしおる。皇帝だって、おそらく絶対、ここまで民衆の気持ちをふみにじるようなことはせんじゃろう。恐ろしくって、できんじゃろう。
 息づまるような沈黙が数秒つづいた後、大闘技場の観客席のあちこちから、ぱらぱらと笑い声がおこった。それが次第に広がって、高まって、とうとう闘技場全体が、大爆笑につつまれたのを、わしは、首つりの縄が首からほどけて行くのを感ずる思いで聞いとった。気がつくと、手のひらにじっとり汗をかいとった。
 帰りに支配人と会うと、うす笑いをうかべて「危ないところだったな」と言った。何のことを言っておるのかすぐわかったので、わしがわびると、支配人は「いや、あの男も途方もないことをする」と妙に感心した、どこやら尊敬する(恐れもまじる)口調で言った。「私も一度でいいから、ああいうことをやってみたいと思っていたが、とうてい勇気はなかったな」
 「観衆が、笑って見逃してくれたからよかったようなものの」わしは汗をぬぐった。
 「あれは、バカにされた自分たちを面白がって笑ったのだ」支配人は言った。「あんまり初めてのことだから、驚きすぎて怒れなかったのだよ。高飛車な貴婦人が乱暴に扱われるのが、もの珍しくて喜ぶように、ないがしろにされたのが新鮮で快感だったのかもしれん。あの男、それを計算していたのかな?」
 「絶対に、それはない」わしは断言した。「ただ、わがままでバカなだけじゃ」
 「そうかな」支配人は奇妙な笑いを浮かべた。「今日は陛下がお見えでないから言うわけではないが、ひょっと、あの男が皇帝にでもなったら、大衆に好かれるが、甘やかしはせんだろうな。案外、手玉にとるかもしれん。自分では、そのつもりはなくてもだ」
 そんな冗談につきあっとるひまはない。観衆は一度は許してくれたが、二度目はもう絶対にないと思っておかねばならん。わしはそうそうに家に帰って、イスパニアを呼び出した。
◇◆◇
 本人も何で呼び出されたかはわかっておるようじゃったから、わしはいきなり本題に入った。
「いいか」と、おどかした。「あんな試合ぶりをもう一度したら、金持ちの性悪女か悪趣味な貴族の一夜の慰み物に売ってやるぞ」
彼はびくともしなかった。「売れば?」と口の中で言い、興味もなさそうにそっぽを向きながら、小声でつけくわえた。「昼間やってることと大したちがいがあるわけじゃない」
 いや、この分なら本当に、売られても平気かもしれんと思った。見るからにもう、何もかもがすっかりいやになっとるという風じゃ。そういう自分自身にも愛想がつきておる感じで、ひょっとしたら金で買われて男にでも女にでも一晩もてあそばれてぼろぼろにされた方が、自分でも気がすむのかもしれんと思ったぐらいじゃった。
 「何をそう、ふてくさっとるんだ?」と聞いてみた。
 彼は苦笑した。「別に。この都がきらいなだけだ。この国も。闘技場も。あそこに集まってくる連中も、皆」
 これは、ふてくさっておるとか、わしにあたりちらしておるということでさえ、ないとわかった。本心を言っているだけだ。その絶望といらだちの深さが、こちらをたじたじとさせるほどじゃった。正直、もう、どう手をつけたらいいかわからなくなって、わしはほとほと途方にくれた。その一方で腹も立った。いったい、何がそう不満なんじゃ?大衆をほとんど、足元にかしづかせんばかりにしておってからに、その態度は傲慢すぎんか?
 「いっそ、ヌミディアとでも戦ってみるか?気分も変わってよかろうが」
 そう言ってみると、これはこたえたらしい。黙ってわしを見返したが、それまでのふてくさった表情が消えていた。
 「どうだ?」わしは念を押した。「それじゃと、もうちょっとは真剣になれんか?」
 彼は返事をしなかった。しばらくしてから、低い声で聞いた。
 「今日の試合の、どこがいけなかったって?」
 「はん?何だと?」わしは目をむいた。「自分でもわかっとろうが?あっさり殺しすぎるんじゃ。もっとひきのばせと、あれほど言うとるのに…」
 「わかった。そうする」
 夢でも見てるのかと思って見返すと、彼の方からたたみかけてきた。
 「他に気をつけることは?」
 「観衆には、ちゃんとこたえろ。無視してさっさとひっこむなんぞ、もっての他だぞ。それも言ったろ?何べんも」
 「気をつける。それだけか?」
 「さしあたりはな」こう素直だと今度はこっちが心配になった。「どうした?」
 「別に」彼はつぶやいた。「行っていいか?」
 わしがうなずくと、彼はさっさと出て行った。
 まったく、どうなっとるんだ、あの男の頭の中は?
◇◆◇
 イスパニアは、今日また、今度は自分から、わしのところに押しかけてきた。わしも忙しかったのじゃが、何が何でも会わせろと強硬らしかったので通してやった。彼はへやの中を行ったりきたりして、何をどう言おうかと迷っていたようじゃったが、いきなり立ち止まると、わしの方に向き直って切り口上で言った。
「ヌミディアと戦わせたら、おれはその場で自殺する」
 そうか。昨日、度を失ったのはそのせいかと、わしは、せっぱつまった顔つきでわしをにらんでいるイスパニアの、こわばった顔を見た。
 「聞いてるのか?」沈黙がそう長くつづいたわけでもないのに、耐えられなくなったらしく、いらいらと彼が言った。「本気だぞ。そんなことさせてみろ、絶対に、おれは死ぬ」
わしは黙りつづけて、彼を見ていた。こうはっきりと弱点がわかったからには、これからはやりやすいわい、と思いながら。
 「彼とは絶対、戦わない」イスパニアはくり返した。「聞いてるのか?」
 「聞いてるとも」わしはおだやかに言うてやった。「で、誰ならいいんじゃ?ゲルマニアか?彼となら、戦えるんだな?」
 イスパニアは息がつまったような顔になって、立ちすくんだ。ヌミディアが相手のときのことだけを必死に考えすぎていて、他のことは何も考えてなかったのが一目でわかった。
 「誰とならいいんじゃ?言うてみろ。トラキアか?シチリアか?」わしはゆっくり数え上げてやった。「ブリタニアか?マケドニアか?カプリなら、かまわんか?テュロスとならどうじゃ?」
 わしの一言ひと言に、イスパニアは激しくまばたきしつづけた。まったくもう、こいつほど心に思っておることが、ありあり表情に出るやつも珍しい。わしが口にする名前のひとつひとつに、その相手の顔を思い浮かべ、殺し合うところを思い描いておるのがはっきりわかった。そして、わしがことばを切るころには、最初の勢いはどこへやら、見るからに困って、床を見つめて黙ってしまった。
 「まあいい、心配するな」もうちょっといじめて遊んでもよかったが、あいにく忙しかったので、わしは書類をとりあげながら言った。「うちのやつらと、おまえとを戦わせることは、ここ当分はせんよ。第一…」
 「当分って、どのくらいだ?」おうむがえしに、気が気でなさそうに、彼は聞いてきた。
 「うるさいな。気にせんでいいと言っとるだろ」わしは怒った。「そんなこと、心配しとる場合か。おまえにぶつけようと、おえら方がたくらんで楽しみにしとる強敵が、ひしめいとるんだぞ。その予定リストを見たいか?こーんなに」わしは両手を広げてみせた。「長いぞ。紙に書くとな」
 彼はほっとしたような目をしておった。やれやれ。何というやつじゃろう。
 「もう行け」わしは言うた。
 イスパニアは、まだ完全に安心はしてないらしく、しぶしぶ出て行きかけたが、ふと足をとめ、ふり向いた。
 「あの…」
 「まだ何かあるのか?」
 「そのリストの中に…」彼はわしを見つめて、ためらう風だった。「アルメニアはいるのか?」
 正直、ぎょっとした。彼の不安そうな口調を聞くと、わしがやったことに全然気づいてないことははっきりしとったから、なおのこと、どぎまぎしてしもうた。それをごまかそうとして、つい意地悪な言い方をした。「いたら、どうする?」
 彼はわしを見つめたまま、激しい低い声で言った。「ちゃんと答えろ!」
 わしは、冷やかに見返して言うてやった。「おまえは、おれの何だ?そんな口がきける立場かどうか考えてみい」
 じれたような目で、いらいらと彼は言い直した。「答えてくれ」
 答えて下さい、とまで言わそうかと思ったが、やめておいた。「おらんかったよ、多分な」
 「きちんと見てくれ」彼はたのんだ。
 こいつは気づいておらんのだ。こんなにこいつが恐れていることは、実はもうとっくに起こってしまっておることを。言うてやったらどうするじゃろう?じゃが、さすがにそんな勇気は、わしにはなかった。
 「おらんと言ったらおらん。うけあうよ」
 「本当か?」
 「くどいぞ!」わしはテーブルをげんこつで、ぶったたいた。「もう、帰れ!」
 彼は、むっとしたようにわしを見返し、軽く肩をそびやかすと、出て行った。
◇◆◇
 あれからもう、一週間になる。いや、十日か。つまらん猛獣の殺し合いや死刑の見世物があって、剣闘士の試合は、このところ少ない。
 ゲルマニアが気にして言うてきたところでは、イスパニアはこのごろ、一人でおることが多いそうな。仲のいいヌミディアともほとんど口をきかんらしい。
 「それで皆が何となく、おちつかねえんだよ」ゲルマニアが言った。
 何を考えているのかしらんが、まったく人に気をもませるやつだ。
 しかし、アルメニアのように反乱の計画でも考えておるのなら、何とかせんといかん。ぼうっとしておるように見えて、あいつの方がアルメニアより確実に、人をまとめる力はある。
◇◆◇
 今日、わしが買った琥珀がにせものかどうか調べておると、窓の下の中庭で、ヌミディアがイスパニアを追っかけてきて、何か話してる。わしのいるところは、へやの中で暗いから二人には見えんのをいいことに、つい盗み見もしながら、耳もすませた。
 突然、ヌミディアが笑い出した。「おまえ、そんなことで避けてたのか、おれたちを?」
 イスパニアは笑われて気を悪くしたようだ。黙ってヌミディアを見つめ返しとる。
 「戦わされるときがきたら、それはそのときさ」ヌミディアはけろりとして言った。「今から心配して、親しくならずにおこうとするなんて、そんなとりこし苦労はやめとけよ」
 「とりこし苦労?」イスパニアは怒ったようにつぶやいた。「おまえがもし、おれと対戦させられて、おれたちが殺し合いをさせられるとしたら…」
 「そうなったって、苦にするな」ヌミディアは笑った。「おれは慣れてる」
 「何に?」
 イスパニアは何のことかわからなかったらしい。わしにも実はわからなかった。
 「昨日の親友を、今日は殺すことにだ」ヌミディアはまた笑った。
 イスパニアは黙っていた。しばらくしてから低い声で聞いた。「何か、そんなことがあったのか、前に?」
 「しょっちゅうあった」ヌミディアは、おだやかに答えた。「おれの一族は四分五裂してるんだ。族長どもは、手を組んだと思ったら裏切りあってる。いとこどうし、親族どうしが、結束してた次の日には敵に回って殺し合う。最初、会ったとき、けがして死にかけてたおまえを、おれは手当てして助けたよな?あれと同じようにして必死で助けたいとこの若者を、数か月後に戦いの中で、おれは手にかけて殺した。おれを敵から守ってくれた命の恩人のじいさまの首を、この手ではねもした。よくあることだよ」
 「よくあることって…」
 イスパニアは口ごもって、それっきり何も言えなくなったようじゃった。
 「戦いというのはいつもそうだ」ヌミディアは言った。「誰が敵になるか味方になるかわからん。闘技場でも、どこでも同じだよ。その時が来たら、戦うしかない」
 「でもおれは、おまえとは戦えない」イスパニアは小声で言った。「絶対に、できない」
 「ああ、まあな」ヌミディアは微笑した。「そうだろうな」しばらく黙っていてから、彼は言った。「これまでおまえが戦ってきたのは、それまで話をしたことのない、顔も知らないやつらばかりだったんだろ?」
 イスパニアは長いこと、ヌミディアの顔を見つめていた。「ああ」とようやく低く彼は言った。「これまでは、そうだった」
 「その方がいい」ヌミディアは笑った。「ずっといい」
 「おれはもう、誰も殺さない」イスパニアは顔をそむけながら低く言った。「もう、生きている限り、誰も殺さない。顔をよく知っている、たった一人を除いては」
 ヌミディアは首をふった。「それはむずかしい。殺さなければ、殺される」
 「おれが勝てばいいんだろ」イスパニアは、わがままな子どものような意地っぱりな口調で言いはった。「勝って、相手を殺さなきゃいいんだろ。ずっとおれが、勝ちつづけてりゃいいんだろ。おまえと戦ったって、おれがおまえに勝って、そして殺さなきゃいいんだろ。それを皆に認めさせて、誰にも文句を言わせなければ。そうして勝ちつづけていさえすりゃ、おれは誰も、殺さずにすむんだ。その一人だって、ひょっとしたら…そいつにおれが、勝ちさえしたら…」
 ヌミディアは笑いを消したが、目はまだ微笑してた。まるで母親みたいな優しい微笑だった。「いい考えだな」ゆっくりと、なだめるように彼は言った。「そいつは最高の考えだ、本当に」
 「おれは本気だぞ!」イスパニアは叫んだ。「冗談なんかじゃないんだから!」
 召使が客が来たと呼びに来たので、わしは窓から離れた。イスパニアのやつ、と思った。まるっきり、子どもじゃないか。そんなことができると思って…
 いや、あいつなら、やるかもしれん。暗い廊下に立ち止まって、ふっとわしは、そう思った。

(6)
 わしが盗み聞いた、ヌミディアとのあの会話を本気で実行するつもりか、それとも、わしの話が骨身にしみたか、イスパニアのやつ、この数日、まじめにやる気を出して、せっせと戦っておる。昨日なぞは観客にサービスしすぎて、何でもない相手の前でよろけて転び、危なく頭をかちわられるところじゃった。客はやんやのかっさいじゃったが、見ておるこっちは肝が冷えた。なれんことをするもんじゃから、何かとやりすぎるのじゃ。
◇◆◇
 イスパニアめ、おかしいと思っておったら昨日から熱があってふらふらしておったのらしい。大馬鹿者が。自分のこともじゃが、同じへやのヌミディアにうつしたらどうするんじゃ。試合は休ませて、少し暖かい別のへやに入れてやった。
 ふだんのへやと粗末さでは大したちがいはないんじゃが、それでも、詰め物をした椅子や、机の上のつぼや、クッションのおいてある寝台が、ふつうの家のへやに見えたらしく、わしが出て行こうとすると、うつらうつらしていたイスパニアが呼び止めて、ぼんやりした口調で「鎖は?」と聞いてきた。つないでおくのを、わしが忘れておるのじゃないかと自分で気になったのらしい。いつもながら、変なところに律義なやつじゃて。
 「その身体で、走って逃げる気になるか?」わしは寝台のすそに腰を下ろして言うてやった。「そりゃまあ、できればそうしたいのはやまやまじゃろうが」
 すると、やつは、天井を見たまま、妙に静かに笑った。
 「逃げたってどこにも、行くところなんかない」
 わしが黙っておると、イスパニアはまた、半分ひとり言のようにつぶやいた。
 「鎖があってもなくても、もう関係ない。どっちみち、どこにも行けないし、何もないし」
 そのまま目を閉じて黙ってしまったので、眠ったのかと思って、立ちかけた時、また低いかすかな声がした。
 「あの人は、何度も何度も、この都と、この国が美しくてすばらしいと言った。本当に、何度も何度も」
 「この都は美しいさ」わしはつぶやいた。「おまえには、わからんのだろ」
 「この都は、世界の希望で、人類の誇りで」わしのことばが聞こえなかったように、彼は続けた。「いつか、世界中が、この都のようになる。人は皆、幸せになる。ほんとに、いつも、生き生きと、何度も何度も、く りかえして、あの人はそう言った」
 また沈黙が続いたが、今度は彼が寝ていないことは、わしにもわかっていた。
 「あの人は、知っていたのに」やがて、ひっそりと声がした。「どうして、教えてくれなかったんだろう?この都と、この国の、本当の姿を」
 「いろいろ、都合があったのさ」わしは言った。「もう寝ろよ」
 「アルメニアが言ったように、あの人が現実から目をそらして逃げつづけていたのなら、それは、それでいい。ありもしない夢を語っておられたんだとしても」彼はつぶやいた。「その気持ちは、今は、おれだってよくわかる。でも、それなら、どうしてそのことを、ちゃんと、おれに言って下さらなかったんだろう。本当のことを知った上で、いっしょに夢をみてさしあげることぐらい、おれにはできたのに。それが、わかっていただけなかったのか。そこまで信用していただけなかったのか。あの方は、おれにさえ、本当のことをおっしゃらず、そんなに孤独で…一人で耐えておられたのか」
 「ふん」わしはあざ笑った。「信用できない人間を後継者になんぞはせんな、わしならば」
 彼は、わしがいるのを初めて思い出したように、だるそうに頭を動かして、ぼんやり、わしの方を見た。
 「おまえを、自分のあとつぎに指名しようとしとったんじゃろうが?そんなら、いずれおまえが都に来て、現実を見るのはわかっとったはずじゃないんかい?しかも、あの方は死ぬ気はまだなかったんじゃから、おまえが今みたいな、そういう不景気な面で不満たらたら、どこが美しい都じゃとか、長の年月だましたなだのと、かみついてくることぐらい、当然、予測しとったんじゃないのか?」
 彼は唇を小さくかむようにして、わしから目をそらした。「そうだな。そうだけど。それじゃ、なぜ…」
 「あの方は、そこでおまえに何か答えるつもりだったはずじゃ。それが何なのかを考えてみろ」
 「そんなことなら、もうずっと、おれは考えつづけてる」彼はつぶやいた。「闘技場で戦ってる時ですら、考えてしまってる時がある。夜だって昼だって、何度あの人に心の中で問いかけたかわからない。けれど、答えが返らない。あの方の声は一度も…おれの耳には聞こえて来ない。夢の中でさえも…幻でさえも」
 「情けないのう」わしはバカにしてやった。「それでもあの方の忠臣か、おまえは?そんなことは、わかっとろうに。アルメニアは半分はほんとのことを言うておる。あの人はな、おまえと、この世のどこにもありはせん、理想の国の話をしとった。じゃが、そうやって語ることで、心の中からそれを消さずにすんどったんじゃ。そこに向かって少しでも歩いて行こうとする力を、持ちつづけることができたんじゃ」
 イスパニアは黙ったまま、また、わしの方に目を向けた。
 「幻を見つづけることでだけ、現実と戦えることもあるんじゃよ」わしは言うた。「その幻を自分とともに信じてくれる人がおってこそ、人は強くもなれるんじゃ。おまえが信じていたからこそ、その、ありもしない都と国を、あの方は心の中にしっかりと築きつづけておけたんじゃ。そして、現実の都や国や、そこにうごめく、うぞうむぞうに振り回されることなく、いつかこうなる、こうしなければならないと思う理想の都と国の方に、いつでもちゃんと顔を向けていられたんじゃ」
 イスパニアは、わしを見つめておる。わしは続けた。
 「おまえにも、そうなってほしかったから、現実を見ても、ちょっとやそっとじゃこわれない夢のかたちを、しっかりと、おまえの中に築き上げておきたかったんじゃよ、あの方はな。その上で、現実をおまえに見せたかったんじゃ。人間はな、皆、弱い。ありもせん夢を信じて現実と戦いつづけるのは、あの方と言えども、やはり苦しい。おまえといっしょに夢を語って、幻を見て、それでやっと、あの方は、現実に押し流されずにいられたんじゃ。おまえはさっき、何とか言うたな?なぜ、本当のことを話してくれなんだ、わかった上でいっしょに夢を見てあげられたのにと、そう言うたな?本当かい?あの方のように、いやというほど現実を知りながら、それでも夢を見つづける力が、おまえにはあったか?もし、ちょっとでも、おまえが疑い、動揺したとしてみい。それを支える力までは、もう、あの方にはなかったと思うぞ」
 彼は、ぼんやり、わしを見ておった。当惑し、混乱し、何やら少し傷ついたような目をしとった。
 「どうしておまえに、そんなことがわかるんだ?」くやしそうな響きがちらと声にまじってた。「一回しか会ってないのに、何で?」
 「救いようのない現実の中で、わしだって夢を見つづけておったからな」わしは言った。「自由になって、金を持って、女を抱いて、どこにでも行ける…普通の人間には何でもないあたりまえの、そんな夢をな。それで、忘れるなよ。おまえが死ぬほど嫌ってる、あの闘技場の観衆たちのひとりひとりも、そうなんだぞ。彼らは、戦うおまえを見る。勝ち抜いて、生き残るおまえを見る。そして、思うんだよ。おれだって、がんばれるかもしれん、もう一日だけ、生きてみよう、ちょっとは強くなって、人にやさしくもしてみようかと。皆、知ってるさ。自分が、おまえじゃないことを。それでも、そのつもりになって、やっと一日、また生きる。長続きはせんがの。ほんの、つかのまの夢じゃから。あの方が、おまえの中に、しっかり築いておきたかったのは、もっと長続きする夢のかたちだったんじゃ。この現実の都を見ても、ゆらがなんですむだけの。それだけのことさ。おまえをだましたわけじゃない」
 彼は、まるで初めて会った相手を見るような目で、黙ってわしを見つづけておった。
 「いいからもう寝ろ」わしは言った。「熱が上がるぞ。自殺する気なら別じゃがな」
 「さっき、おまえは、この都が…今の都が美しいと言ったな?」イスパニアはつぶやいた。「聞き違いか?」
 「いや」わしは答えた。「そう言うたとも。わしはこの、今の都が好きなのじゃ。決して偉大になどなれん人間たちのひしめきあう、ごみためのような泥の上に、そんなことなど知らぬげに巨大な栄華の花が咲く、この都の嘘と狂気と悲惨とを、わしはこよなく愛しておるよ。おまえには、わかるまい。通りのひとつひとつに、つぶれた夢が落ちておる。こわれた愛がちらばっておる。ゆがんだ理想が。死んだ希望が。それは皆、美しい。おまえには、わかるまいがな。夜の通りの石壁に踊る、酔いどれたちの影を見たことがあるかい?昼の窓からさしこむ光に、輝くほこりを見たことがあるかい?影にすぎない夢も、ちりのような現実も、それぞれに皆、美しいのよ」
 大きく見開かれたイスパニアの目が、じっとわしに注がれておる。わしのことばの一言も聞きのがすまい、わしの表情のひとかけらも見のがすまいとしておる目じゃった。
 「覚えておけよ」わしは言うた。「ヌミディアの部族は悲惨な戦いをくり返し、ゲルマニアの国は貧しく、人々は飢えて死んでおる。それでも、そこに住み、そこに生きる者にとって、そこですごす日々の中には、美しさもあり、喜びもある。この腐りきった都のみにくさをわしが愛しておるように、彼らもそれを愛しておる。不幸は不幸にちがいないし、悲惨は何というても悲惨じゃ。じゃから、それをなくしてくれるのはよい。そこから救い出してくれるのもよい。じゃが、忘れるな。どんな日々の中にも、どんな人間の中にも、よそでは決して見つからん、それぞれの美しさがあるのじゃということを」
 あんまりまっすぐ熱心に、彼がわしを見つづけるので、圧倒されそうになって、口をつぐんで立ちあがると、彼がいきなり、「もう行くのか?」と聞いた。
 「行くさ。あたりまえじゃろ」わしは言い返した。「それとも何か、一晩中、ここでおまえにつきそってないとならんのか?」
 彼は答えなかったが、はっきりと不満そうな目をしているのがわかった。まったく、こいつには、恥とかつつしみとかいうもんはないんかい。あれほど嫌っていたはずのわしに、もっといてくれと、露骨にたのんでいる目だぞ、それは。
 「もう寝ろ」わしはそう言い捨てて、へやを出て、やつに聞こえるように思いきりじゃらじゃら大きな音をたてて、とびらの鍵をかけてやった。
◇◆◇
 ゆうべ遅くに気になって、もう一度イスパニアの寝ておるへやに行ってみた。熱のせいか、薬のせいか、ぐっすり眠りこんでいて、わしが近づいても目を覚ます気配がない。熱はもう下がったか確かめようとして、額に手をあててみていると、あいつがほほえみ、「陛下…」と小さい声でうわごとを言った。
 その声と、目を閉じたまま、なつかしそうにうかべた微笑とが、なぜだかわしをあわてさせ、逃げるようにわしはへやを出た。危うく鍵をかけ忘れるところじゃった。それほど動揺しとった。それどころじゃない。数歩歩いて、息がきれて、廊下の壁によりかかって、しばらく休んでしもうたほどじゃ。
 何をそんなにあわてたのか、と我ながらつくづく考えた。
 思うにわしは、あいつがあのまま目をさまし、わしを見たときにうかべるとわかってる、失望と悲しみの表情を見たくなかったのじゃろう。
 小さいおぼつかない声、つかのまの微笑じゃった。それでも、あんな幸福そうな声と表情を、イスパニアがわしらの前で見せたことは、今まで、ただの一ぺんもなかった。
 苦々しさも、淋しさの影もない、安心しきった、うれしくてたまらぬあの笑顔。
 ただ一度だけ、間近に見た、闘技場での「あの方」の笑顔…わしを見下ろし、自由を与えると宣言した、おだやかで生き生きとした、やさしい笑顔がそれと重なり、初めてわしは、イスパニアと「あの方」の顔が、どこともなく、親子のように似ていることに気がついた。
 何の説明がいるじゃろう。
 イスパニアのあの微笑は、二人が互いを信頼しきって、ともに戦ってきた年月を、まざまざとわしに伝えた。ともにすごした一瞬一瞬が、どんなにか二人は幸福じゃったろう。同じ夢を信じ、語り合う時間。何の疑いもなく、未来を見つめて、世界を信じて、ともに生きていた時間。
 わしの手が額にふれて、夢うつつにその日に戻り、目ざめて、それが永遠に消え去ったことをあらためて知るときの、あいつの顔を見るのが恐ろしかった。
 わしが、あの方ではないと気づいたときの、顔を見るのが。
 わしは、あの方になれようもない。あの方の代わりがつとまろうわけもない。
 それを、思い知らされるのが。
 あらためて思う。わしには、あの方とイスパニアがともにすごしたような、そんな時間はなかった。
 そんな息子も、主君もなかった。
 そんな仲間も、いなかった。
 じゃから、身軽で、自由じゃった。
 今さら、何を、くやむじゃろう。
 うらやましいとか、淋しいとか、思うことがあるじゃろう。
 それでも、心に、つきさすような痛みが走った。
 なぜ、人には、わかるのじゃろう。
 自分が決して持つことのなかったものの、尊さが、喜びが。
 剣闘士をうらやましがる貴族や支配者をバカじゃといつも思ってきた。
 どのような栄光につつまれて輝かしく見えようと、奴隷は奴隷じゃ。
 自由にまさるものはない。命にまさるものはない。それを買うことのできる金にまさるものはない。
 生きる輝きなどにあこがれる者は、死ぬ心配など決してない恵まれた自分の身の上にも気づかぬあほうじゃと、ずっと軽蔑しておった。
 そのわしが、今、そいつらと同じ気持ちになっておる。
 この先何度、イスパニアがさっきと同じ夢を見ては、固い寝床の上で目ざめて、夢も、愛して信頼した人も、幸福な日々も、すべては戻らぬことを知って、つめたい暗い石の壁を、どんな絶望と孤独の中で見つめることになるにせよ、その彼が、わしは今、うらやましい。
 それほどの絶望と孤独を今、与えるだけの、輝かしい日々を、愛するものを、一度は持てたということが。
 わしには、それはなかったし、これからも決してあるまい。
 彼が憎い。
 初めてわしは、今、そう思う。

(7)
 あの夜以来、わしとイスパニアの関係が妙になっとる。
 わしはあの夜、あいつに感じた、あの憎しみが忘れられん。
 あいつの方はあれ以来、わしに気持ちを許しておる。
 そういうところでは、いつもながらバカなやつじゃから、顔色をかくすということを知らん。
 自分で気づいとらんのだろうが、ときどき、はっきり人なつっこい笑顔をわしに向けてくる。
 あの方に向けた笑顔ではあるまい。同じであろうはずはない。段ちがいに決まっておる。
 それでも、あの方に向けていたのは、これと似た笑顔で、まなざしじゃったのじゃろうな、と、何とはなしによくわかる、素直であけっぱなしの信頼しきった表情じゃ。
 わしが怒った顔をしても、つっけんどんにあしろうても、まるで、おびえる様子がない。
 もう、根本的なところで、この人を自分は理解して信頼してしもうたから、何も心配していない、という風情にみえる。
 あのな。いいかげんにせいよ。
 わしはそんなにいい人間じゃない。
 あの方とはちがう。
 信頼すると泣きをみるぞ。
 口には出さなくても、態度ではっきりそう言うてやっとるつもりなのじゃが、まるで、ききめがない。
 そうか。あいつのうっとうしがっておった気持ちというのは、これじゃな。そっけなくしても冷たくしても、好かれてしまうというのは。
 いや、そんなことがわかってどうする。
 あいつもまた、自分がされてあれだけ迷惑しとったことを、他人にするときは気づかんのじゃろうか。
◇◆◇
 それとは別に、何やら怪しげな陰謀も、あいつの回りではうごめきはじめておる気配じゃ。
 身分の高い貴族や議員が、この間からこそこそ、あいつを訪ねてくる。
 一度、ちらと見ると、あいつはそういう大物を前に立たせて、自分はどっかり座り込み、えらそうに何か相談をしておった。
 それが全然、不自然に見えんのが恐ろしいところじゃ。そうしておるところは、なるほどわしの目から見ても、闘技場でしばしば見かける、今の支配者の、あのぴりぴり神経質そうな若者より、よっぽどどっしり落ちついて、この国の支配者としてふさわしく見える。
 そう言うても、あの若者とてバカじゃあるまい。自分を今の位から追い落とし、多分、命も奪おうとする計画を、みすみす見逃すはずがあるまい。ネズミの数ほど密偵を放っておるに決まっておると思うから、こっちは生きた心地もせん。この年になって、陰謀の片棒かついだ言いがかり(ほんとか?)などつけられて、自分の飼ってるライオンに食わせられでもしたら、たまるもんかい。
◇◆◇
 今日、イスパニアがわしに、金はあとで必ず払うから、自分を自由にして、都の外に出してくれないかと頼みにきた。そうそう、馬もほしいと言うとった。そこから馬で一散に駆けて、あいつの、もと指揮していた軍団に合流し、ひきつれて都に戻って、皇帝と戦う計画らしい。
 このところの、あいつの人なつっこさに、むしゃくしゃしとったところだから、甘ったれた頼み方でもしようもんなら、思いきりすげなく断って思い知らせてやるところじゃったが、何とあいつは、まるっきりよそよそしく、そっけなく、口では、これはこの国をたて直す非常に重要な計画の一部なんだと言いながら、それにしちゃおまえ、本気でやる気があるんかいと言ってやりたくなるぐらい、気ののらない口調でしぶしぶ話すので、何やらこっちが拍子抜けしてしもうた。
 おれはおまえみたいな立派な人間じゃないから、国のことなんかどうでもいい、と言ってやると(普通そうだろ、一回や二回は断るじゃろ、こんな途方もない話は)、ろくな反論もしないで戻って行き、理屈にあわんのはわかっとるが、わしはますます腹がたった。口下手なのは知っとるが、こういう時には、もっと熱心に説得せんかい。
 あんまり腹がたったから、昼ひなかから酒場に行って、しこたま飲んで戻ってくると、剣闘士の「ブリタニア」が、会いたいと言って、テラスで待っておるという。
 「ブリタニア」は、黙ってりゃ、どこぞの学者というても通りそうな、いかめしい顔の無口な男で、戦い方もねばりづよくて冷静じゃ。そいつが影みたいにテラスに立って、こっちをじっと見てるのは、あんまりいい気がせんかった。
 「何用だ?」わしは聞いた。
 「知っているだろうが。じいさん」低い、笑いをふくんだ声で、ブリタニアは言った。「おれは、あんたを呼びに来た。あんたの最後の闘技場へな」
◇◆◇
 わしが黙っておると、ブリタニアはテラスを横切り、ゆっくりと近づいて来た。
 「おれもあんたと同じだよ。あんたをずっと見てきたぜ」静かな声で彼は言った。「おれたちは、自分をささげる夢なんか持たん。信じる主君も、仲間もいらん。いつも自由で、自分のためだけに戦う。危険に身をさらし、限界に挑戦し、いつか敗れて倒れるまでな。じいさん。闘技場は、おれたちの家だ。どこに逃げても、おれたちは、とどのつまりはそこに帰るのさ」
 「何が言いたい?」
 「あんたにとって最後の試合、最後の闘技場が待ってる」男の目は、ひたとわしに注がれておった。「生涯一度にあるかないかの大舞台だぜ。役者はそろった。欠けているのはあんただけだ。おれはあんたを、迎えに来たのよ」
 「この国を、ひっくり返すたくらみの片棒かつげってか?支配者の首をすげかえる?」わしは首をふった。「狂気の沙汰じゃな」
 長い髪をゆするように、顔をそらしてブリタニアは笑った。
 「狂気の沙汰だ。だからあんたは、そそられるだろう。黙って見てはいられまい。血が騒ぐだろ。それがあんたの、おれたちの血さ。じいさん。引退しようと、どこに行こうと、闘技場と大観衆のかっさいは、おれたちを追ってくる。ちがうかい?」
 「そのたくらみにのるかどうかって返事なら、わしはもうしたぞ」わしは答えた。「聞かんかったのかい?」
 「聞いたとも。あんたもさぞかし、ものたりなくて、いらいらしたこったろう」男はせせら笑った。「イスパニアの下手くそな説得にな。ことば巧みに誘ってくれれば、あれやこれやとねばったあげく、ちゃんと仲間になってやるのにと、内心、歯がみしてたんじゃないのか?怒るなよ。イスパニアは、ああいうやつだ。あいつは、あんたをそそのかして、危険な賭けにひきずりこむのが、つらくてしかたがないんだよ。だが、あいつにはわかっていない。あんたが、それを待っているのが。ずうっと待っていたのがな」
 ブリタニアは、更に近づいてきた。柱に太い片手をかけて、じっとわしの顔をのぞきこんだ。
 「わかってたはずだぜ。いつか、おれみたいなやつが来るってな。いつか、呼び出す声がとどろくってな。おまえの名を、高々と。花びらの舞う、闘技場へ。血と、砂の王国へ。冒険だよ、じいさん。いちかばちかの危険な賭けだ。見のがすな。きっと一生、後悔するぜ。だらだら生きて、ぶくぶく肥えて、老いさらばえて死を待つ自分を想像してみな。あんたは思う。何を賭けてもいいぜ、あんたは、きっと思う。なぜ、あの時、とな。なぜ、あの声に答えなかった、と。なぜ、最後の冒険に踏み出さなかったか、と。想像しなよ。じっくりと。耐えられるかどうか。その後悔に?その空しさに?」
 わしは、声をあげて笑った。
 「ブリタニア」わしは言った。「なかなかの名調子じゃな。のってやってもいいぞ、その口先に。じゃが、そのかわりに聞かせろ。おまえの本心を。おまえは本当にそう思うておるのか?それとも、イスパニアのために、そう言うておるのか?それとも…たしか、おまえは、アルメニアの親友じゃった。やつが、言い残したのか?わしに、そう言えと?」
 しばらく、沈黙が続いた。
 「その、どれもが本当だろうな」やがて、ブリタニアが口を開いてゆっくり言った。「じいさん。アルメニアがどうなったか、おれは知っているよ」
 「そうか」わしはうなずいた。
 自分でもふしぎなほど、心は騒がなかった。
 「アルメニアが死ぬ前の夜、夜があけるまで、おれたちは話した」ブリタニアは言った。「いつか来る新しい世の中、奴隷も、戦争も、飢えもなくなる世界のことを。イスパニアに語りつづけろ、とアルメニアは言った。あいつなら、きっとわかると。どんなに苦しんでも、考えつづけ、真実を見つめて、正しい答えをあいつは選ぶと。そうする、とおれは約束した。だが、語るまでもなさそうだった。イスパニアは都と、この国を憎み、あの方とやらを疑い、あんたをさげすんでいたからな。そして何より、あいつは自分を憎んでいた。あんたは知るまい?あいつが、どれだけ苦しんでたか。アルメニアの消えた後、おれたちのまとめ役になってから、皆の前では明るくしてたが、あいつは、前よりもっとずっと苦しんでいた」
 ブリタニアは目をそらし、薄暗くなった空に光りはじめた星を見た。
 「アルメニアに会いたい、とあいつはよく、おれに言ったよ。皆をどうしたらいいか、どこに連れて行ったらいいか、きっと、あいつならわかるのに、ってな。この国を救うこと。仲間を救うこと。その二つが同じなのか、ちがうのか、それさえも自分にはわからない。そう言って、何日もろくに眠らず考えていた。おれは初め、こんなに苦しみ、迷うのは、あいつがアルメニアより弱くてバカだからだと思ってた。だが、その内にちがうとわかった。アルメニアは、あれはあれで立派だ。迷いなんて、やつにはなかった。だが、それは、あいつには迷う余地なんてもうなかったからだ。イスパニアには、アルメニアには選べなかった道がまだいくつも残されていた。だからこそ、あいつは、アルメニアが切り捨てたたくさんのものと、立ち向かい、考えなけりゃならなかったんだ。どちらがつらいか、おれにはわからん。誰にだって、きっとわからん」
 ブリタニアは、わしの方に目を戻した。
 「だからおれは、何も言わずに、あいつを見守る気になったのさ。見守って、支えてやるしかないと思った。あいつが今、しようとしている戦いは、アルメニアがめざしてたものと同じじゃない。だが、おれは知っている。アルメニアはわかってくれるだろうってな。あいつの戦いも、おれが、あいつを見守って、最後の切り札を出さなかったわけも」
 「切り札じゃと?」
 「アルメニアがどうなったか。それをあいつに教えたら、あいつはあんたを憎むだろうし、ちがう戦いをしようとしたかもしれんのだが」
 「言わんつもりか?」
 「言わんだろうな」ブリタニアは首をふった。「切り札とおれが思っているだけかもしれん。怒っても、悩んでも、あいつは結局、あんたを許し、今と同じ戦いをしようとしたかもしれん。ここまで来たら、もうわからん。それにもう、そんなことはどうでもいい。おれたちは剣闘士だ。じいさん。それらしく生きて、死んで、最後の花を飾ろうぜ。平和な暮らしは、他のやつらにまかせときゃいい。おれたちには似合わない。そんなものは、もう飽きちまったと投げ捨てるためにあるんだ。投げ捨てて、いさぎよく忘れるためにあるんだよ」
◇◆◇
 月は中天にかかっておる。どこか遠くで、犬が鳴く。
 夕方、あわただしく訪ねてきた皇女のたのみを聞いて、わしはイスパニアを夜中に都の城門の外まで連れ出してやる約束をした。
 これは、大きな反乱の一部。じゃが、計画が成功すれば反乱は反乱でなくなり、正しい指導者を民はいただき、国はあるべき姿をとり戻すと、皇女はわしに語った。
 「その正しい指導者となる、新しい支配者が誰かは、わかっておいでですね?」皇女は念を押した。
 「剣闘士としては二流の男ですな」わしは言った。「まじめすぎるし、闘技場を愛することを知らん。いつも早々と、家に帰りたがってばかりおって。なるほど、皇帝ぐらいなら、あの男でも何とかつとまるかもしれません」
 皇女はわしを見つめたが、やがてはじけるように笑い出し、「面白いお方ね」と言った。
 「本当にすぐれた剣闘士とは」わしは言うた。「いつでも人を、笑わせるものですわい」
 「本当ですの?」
 「嘘に決まっておりましょうが」
 皇女は笑いころげて、帰って行った。
 夜のどこか遠くで、歴史の歯車が静かに動いておるのがわかる。
 わしの心に、もう迷いはない。
 淋しさも、空しさもない。
 ブリタニアの言うとおりじゃ。長いこと、わしはずっと待っておった。
 このような夜が来るのを。
 わしを呼ぶ声がするのを。
 月はますます、空に明るく、出発の時間は、もう近い。

(「美しい日々」完・・・・・・・・・2001.2.8.)