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呪文 −マキシマスとジュバたちー

 アフリカのある村を救う、忘れられた一つのことばとは?「存在するはずなのに、決して語られることのない」そのことばをさがして、二人の少女は、曽祖父の時代の物語の中に踏み込む。

(少女の一人の先祖ジュバは、かつて奴隷としてローマに連れて行かれ、剣闘士として戦わされた。仲間の一人イスパニアは、かつてローマ軍の将軍で、彼を指揮官にあおいでジュバたちはローマを震撼させる反乱計画を練るのだが…「冬空」で語られた場面のひとつひとつが、マキシマスと行動や生活をともにした仲間たちの目を通して語られて行く。)





呪文

序章・炎

(1)
「とっとと歩きなさいよ」ファティマは女の背中をけった。
痛いわよ、というように顔をしかめて女はファティマをふり向いた。月の光に照らされたその顔は落ちついて見ると、ファティマと同じにまだ幼く、とてもはたちにはなっていまい。女の子にしては大柄で、肩幅も広く、しなやかな長い手足を革の鎧で包んでいる。金色がかった豊かな髪がその肩に乱れかかり、陽に焼けた顔には、さっきファティマともみあった時についた傷がいくつか血をにじませている。
さっきまでファティマがいた岩陰に、焚き火はまだ燃えている。ファティマは女の手首を縛った縄を指でさぐってたしかめてから火のそばに女を突き飛ばした。女はのめって、ひざをついたが、何とか片足投げ出して火のそばに座った。
「三晩も続けて、村を襲いやがって」むらむらと腹が立ってきて、ファティマは思わずののしった。「明日の朝には、皆の前でしばり首にしてやるからね」
女はじっとファティマを見ていて、それから不敵ににやりと笑った。
「何がおかしいのさ?」
「病気の母がいるとか、飢えた弟たちがいるとか言ってみようかと思ったけど、そんな泣き落とし、通用しそうにもないね、お嬢ちゃんには」
「あたりまえでしょ。あんたに家畜を盗まれて、うちの村こそ、飢えてるっていうのに」
さっき女から奪った剣をファティマは地面に横たえた。自分の剣よりずしりと重く、この女が相当の使い手で力も強いことがわかる。不意をうてたから勝てたのだと思った。
二人の前で焚き火が燃えている。地平線まで広がる空に月は明るくこうこうと、アフリカの大地を照らしている。

(2)
陽にやけているものの、女の肌はファティマのように黒くはない。優しい素朴な顔だちだが、瞳の不敵さがそれを裏切っている。焚き火の光を映しながら、さっきからその目がじっとファティマを見つめている。
「じろじろ見るのやめてよ」ファティマは言った。
「あんた、いい腕してるよ」女は言った。「この村の戦士?それとも、やとわれたの?」
「人なんかやとわなくたって、この村は困らないわ」音をたててファティマは、そだを手で折った。「伝統があるの」
女は首をすくめた。
「何がおかしいの?」
「ちっぽけな村のくせして、威勢だけはいいのね」ばかにしたように女は言った。「ローマの属州の、そのまた辺境の田舎のくせして、よく言うわ」
「私たちは誇りある部族の血をひいているわ」ファティマは言い返した。「あんたみたいに素性も知れない盗賊じゃない」
「血筋ならまかせて」女はしなやかな首をのけぞらせて、からからと笑った。「父母も祖父母も曾祖母も、盗賊よ。私は盗みの名門だわ」
「それで代々、しばり首?」
「あなたの部族は、徐々に飢え死に?」
口のへらない女だわ。ファティマは女をにらみ返し、そして突然、あることに気づいた。
「あんた、名前あるの?」
「あんたは?」
「ファティマ」
「サヴィナよ。聞いてどうするの?」
「サヴィナ。命が助かりたい?」
サヴィナは眉を軽く寄せた。
「何の話よ?」
「村に伝わる伝説があるの」ファティマは言った。「私たちの曾祖父の時代、ジュバという長老にまつわる話。でも、肝心の部分が一個所欠けているの。そこを埋めることばを見つければ、村は滅びないと言われているのよ。そのことばをもしもあなたが知っていて、教えてくれたら、命を助けてあげてもいい」
「面白そうね」サヴィナは軽く眉を上げ、くつろいだしぐさで足を組み替えた。その動きを目ざとく見てとったファティマは「腕を動かさないで」と言った。「それ以上、火のそばに近寄るんじゃない」
サヴィナは首をすくめて笑った。「早く話しな、お嬢ちゃん。わかったからさ。時間がないよ」
ファティマは、そだをまた火に投げ込み、ぱっと上がった炎を見つめた。

第一章・荷車の中

(1)
 私たちの村の始祖となったジュバという長老が、ローマの奴隷商人にとらえられたのは、彼が三十の年だった。ジュバはその頃、ここよりももっと北の森の中で、家族とともに暮らしていた。美しい妻と三人の娘と。ある朝、彼はいつものように狩りに出かけた。
 るり色がかった朝の光が森の木々を輝かせ、鮮やかな羽色の鳥たちが緑の葉の間を飛び交う。そんな森の奥で獲物を追っていた時、ジュバは突然ばっさりと頭の上から落ちて来た大きな網にからめとられた。
 長老はまだ若く、その手足は村一番のたくましさだった。手にした槍は、はるかかなたを走るガゼルを一撃で倒すことができた。しかし、黒茶色の大きな縄を幾重にも重ねあわせて慎重に編み上げられた網を破るということは到底かなわぬ技だった。
 網ごと、くるみこまれて荷物のように彼は荷車に投げ込まれる。獲物を手にした奴隷商人たちは、枝を渡るましらの速さで、その非道な犯罪の現場から離れた。馬に護送された荷車は、そのままいっさんに西へと走った。

(2)
 途中で更に二人の黒人が荷車へと投げ込まれた。一人は激しく抵抗しつづけ、手にした斧で荷車の枠をたたきこわしたが、棒で打たれてその腕を折られ、うめき声をあげ続けて次第に弱って行った。もう一人は長いこと砂漠をひきずられて来たらしい。身体のあちこちがすりむけて、火ぶくれのようになっており、ただれた肌から膿がしたたり落ちていた。
 ジュバは間もなく網から出された。かわりに鎖を手と足首につけられた。彼が住んでいた森はもう、赤茶色の大地のかなたの地平線にぼんやりと広がる、ただの灰色の筋にすぎなかった。

(3)
 かもめが鋭い声で鳴き、ジュバがそれまで嗅いだことのない生臭い潮の香りが鼻をくすぐった。真っ青な海の色がちらちらと砂丘の向こうに見え隠れする。肌のただれた男はここで馬車から投げ捨てられて、道端のほこりの中に転がった。息はもうしていないようだった。彼の血膿の匂いだけが甘ったるく荷車の中に残った。
 いくつかの小さい隊商がここで合流して一つになった。ハイエナやライオンを入れた檻を積んだ車がごとごとと、ジュバの車のわきを通り過ぎて行った。港の船からまた数人の男たちが荷車の中へと投げ込まれた。一人は片目がつぶれており、他の者も皆、虫の息だった。
 彼らの重なり合った身体の上に、汚れた水を浴びせかけて、こびりついていた血と汚物を、かたちだけ洗い流すと、荷車は出発した。
 前を行く車の檻から、獣の匂いがただよって来る。ライオンがいらだって歩き回っている。褐色の横腹に夕陽があたっている。
 ジュバははいずって、重なり合っている男たちの方に近づき、上の者をひきずり下ろして、彼らを何とか荷車の床に横たえてやった。彼らのあえぎやうめき声が耳について、眠れそうにもなかったからだ。腕を折られた黒人は、もうほとんど声を出さなくなっていた。死にかけているのかもしれなかった。

(4)
 それでもまた朝は来た。空いっぱいに朝焼けが広がり、右手の海と左手の砂漠は朝日の薄くれないに染まった。血の色のようにも見えた。
 商人たちが、動いている荷車に乗り移って来て、死んだ者がいないか確かめた。息をしていない一人を見つけて、商人たちは彼をひきずり出し、ライオンの檻に放り込んだ。
 残った男たちの、車の振動につれてがたがた動いている身体に、ジュバは手を触れてみた。どの身体もまだ温かく、柔らかいようだった。しかし息づかいは皆、弱々しく不規則になって来ており、誰もそう長くは生きそうにない。だが、商人たちはおそらく、それでいいのだろう。捕らえられた男たちが、やっとかっとでも生きてさえいれば、新鮮な肉をいつでも獣たちに供給できるのだ。

(5)
 太陽がまもなく高く上り、じりじりと車の上に照りつけ始めた。男たちの誰かが水を求めてうめく声がした。ジュバは膝をかかえてうつらうつらし、森と家族の夢を見た。
 足に何かが触れて目が覚めた。瀕死の男たちの一人が、意識のないまま、身体をひきずるようにはいずって、ジュバのいる、上に積まれた檻で日陰になっている所まで転がりこんで来ていたのだ。
 ジュバは足先で男の身体をつつきながら、やけつく太陽に照らされて、苦しそうにうごめいている他の男たちの方に目をやった。ジュバのいる、この日陰の部分は心地よいとは言えないまでも、耐えるのはずっと楽だ。なぜ、この男だけがそれに気づいて、なかば無意識にはいずって来たのか、ジュバはそれほど不思議には思わなかった。鳥でも獣でも、生きのびる者は皆、そういう勘を生まれながらに備えているのだ。
 この男も生きのびるのだろうか?ジュバにつつかれて、男は少し身体を動かした。年の頃はジュバと同じぐらいだろうか。力強いがどことなく淋しげな、やさしい、ととのった顔をしている。大柄で、よくつりあいのとれた、しなやかな身体つきだが、あちこちに生々しい傷があり、特に大きく開いた左肩の傷がひどい。痛むのか、気になるのか、右手でそれをさわろうとしているので、ジュバがやめさせようと手をつかむと、男は目を閉じたまま、その手を振り払おうとした。明らかにいらだって不機嫌で、ジュバの手を払いのけて、傷口の方に右手をのばそうとしている。
 他人が身体にふれるのがいやなのだな、とジュバは察し、それならと、空いた方の手をのばして男の耳をくすぐってやった。思ったとおり、男はそちらに気をとられて、傷の方を忘れたようだ。ジュバが手を離すと、右手で、くすぐられた耳をしきりにこすっていたが、その内に手を顔のわきに落して、また眠りこんでしまったようだった。

(6)
 陽に照らされている男たちは次々に息をひきとっていっているようだ。何人かがかすれた声で誰かの名を呼んだのが聞こえたが、やがてすっかり静まりかえり、馬車の輪のきしむ音、馬の背の旗が風にはためく音だけが耳についた。
 ジュバの足もとの男はまだ生きている。肌にふれると熱があるのか、焼けるように身体が熱い。うつらうつらと目を覚まし、また傷口にさわろうとするので、手をつかんで引き戻すと、今度は前ほど抵抗がなかった。衰弱して力がなくなってきたのかと思ったが、それより、ジュバにさわられるのに慣れて、危害は加えない相手だと安心しはじめているらしかった。
 また、やや小さい隊商が合流した。商人たちは騒々しくあいさつをかわし、取引きをした。新しく四人の男が車に追い上げられ、息絶えた数人が道に投げ出された。
 今度の四人は皆、元気がいい。目もぎらぎらと光って、すきがなかった。一人が重なりあって死にかけている男たちを調べて、すぐ首を振った。別の二人はジュバたちの方にやって来て、日陰の場所を譲り渡せというように、じっとにらんだ。ジュバも黙ってにらみかえした。
 「ケマル!ソシア!」
 瀕死の男たちを調べていた、ひときわたくましい男が振り向いて、たしなめるように鋭い一声をかける。二人がこそこそと隅にひっこむと、声をかけた男は、今度は自分がジュバたちの方に歩み寄ってきた。ジュバをちらと見ながら膝をつき、眠っている男の腕にふれる。例によって男はいやがり、ジュバとはちがうとわかるのか、小さくだがはっきりと、かけられた手をつきのけた。
 「熱がひどいな」手をふれていた男はそうつぶやき、ジュバを見た。「友だちか?」
 ジュバはうなずいた。男は首をすくめ、腰布の間から包みを出して放った。
 「それを飲ませてやれ。傷につけてもいい。おれはハヴィル。アルメニアから来た」
 「ジュバだ」
 「おれたちの仲間が一人、弱ってる」ハヴィルは言った。「そいつの看病を手伝わせるから、日陰に入れてもらってもいいか」
 ジュバはうなずき、倒れている男たちの方に目をやった。「あいつらはいいのか?」
 ハヴィルはちらと、そちらを見た。「どうせ助からん」暗く沈んだ声で彼は言った。

(7)
 ハヴィルはガルスという男を日陰に入れた。ジュバは自分が日陰から出て、死にかけている男たちの誰かを入れてもいいとハヴィルに言った。ハヴィルもそれは考えたようだったが、すぐに病気の男が、ジュバの手からしか薬も飲まず、傷口にもふれさせないことがわかったので、そのままになった。
 「眠ってるのに、なぜわかるのかな」ハヴィルが見ていて不思議がった。
 実際、他の者の手がふれると、男は明らかに不快がる。ジュバの手でも、いやはいやらしいのだが、それでも何となく、されるままになっていた。薬で熱が下がったせいか、時々目を開けるようになり、ジュバはそのたびに「死ぬなよ」と声をかけた。「生きてたら、家族にはまた会えるから」男が、かなりはっきり長く目を開けた時、またそう繰り返した。
 男は何を言われているかわからないように、黙ってジュバを見返していた。
 「おれはジュバだ。おまえは?」
 男はジュバを見つめ、ぼんやり唇を動かした。「ジュバ?」
 「そう、それがおれの名だよ。おまえは?」
 男はまた目を閉じてしまい、目を開けるたびにジュバがその問いを繰り返すと、だんだん、はっきり、困った、つらそうな表情になった。何か見覚えのあるものをさがすように、頭の回りを見回し、荷車の外に目をやり、結局またジュバに目を戻す。
 「放っとけ」その様子を見ていたハヴィルが言った。「覚えてないのかもしれん」
 「自分の名をか?」ジュバは驚いた。
 「そういうことがある」ハヴィルはうなずいた。「あまりひどい目にあうと」
 そして、身を乗り出して手をのばし、またさわられると警戒して見つめた男を安心させるように、横たわった彼の肩先のあたりの馬車の床板をなでた。
 「ここに、何かあったのか?それが、なくなったのか?」
 男は黙ってうなずいて、何か見えないものを見つめるように、頭のそばの床板を見つめていた。
 「何があったんだ、ここに?」
 男は小声で「墓」と言った。
 「誰の?」
 「おれの」
 「おまえはここにいるだろ。まだ墓に入ってないだろ」
 男は本当に困った顔をした。何もない床板の上の空間をじっと見つめて、そこにあるはずの墓を思い浮かべているようだった。その墓のそばに自分はいるはずなのに、なぜこんなところにいるのか、自分でも不思議でたまらないように。
 「おまえ、誰をそこに埋めたんだ?」ハヴィルが静かに聞いた。「女房か?母親?」
 男はまた目を閉じて眠ってしまった。ジュバはその肩に手をのせた。もうジュバがさわっても、男はほとんど気にしないようだった。

(8)
 まばらな人家がふえはじめた。町が近づいているのがわかった。商人たちが荷車に上って来て、ジュバの鎖をつけ直し、男の手足にも鎖をはめようとした。男はかすかに抵抗してもがいた。動きはいかにも弱々しかったが、腕を持ち上げて手首をよけるしぐさが巧みで、商人たちを手こずらせている。賢い獣のような動きだなと思ってジュバは見つめたが、商人たちがいらだちはじめたので、男の手をつかんで「動くな」と教えた。
 男は当惑したようにジュバを見た。ジュバを信じているのだが、言われていることには納得できないので、混乱しているまなざしだった。
 「鎖をつけられる方がいいんだ」ジュバは言った。「でないと、ああなる」
 そして、もう一方の手で男の顔を支えて、前を行く車のライオンの檻の方へと向けさせた。
 旅が終わりに近づいている。歩けそうにない最後の奴隷の、まだなかば意識のある、もぞもぞ動いている身体がライオンの檻の中に徐々に押し込まれて行き、野獣の前足がそのやせこけた手足にかかるのが、荷車の手すりの向こうにはっきりと見えた。
 男は凍りついたように身体を固くし、初めて自分から背中と肩をジュバに押しつけてきた。鎖が手足につながれている間も、身動きひとつしなかった。商人たちが笑いながら車から下りて行ったあと、彼はもんどりうつようにうつぶせになって、荷車の床にしがみつき、激しく肩を波打たせて嘔吐した。もっとも胃袋に何もないから、薄い胃液があふれるだけだ。それでも、いつまでもあえぎあえぎ吐きつづけ、とうとう胃液に血が混じった。ジュバが静かに背中をなでてやっていると、ハヴィルの落ちついた冷やかな声が車の隅から聞こえてきた。
 「そいつ、町のもんじゃないな」
 ジュバは男の口を手でぬぐってやりながら、振り向いた。
 「キリスト教徒や罪人たちが、食われるところを見たことがないんだろう」
 つけられた鎖を慣れた調子でひっぱって具合を直しながら、ハヴィルは静かな、値踏みするような目で、ジュバたちの方を見つめていた。

(9)
 車がほとんど垂直になるほどの急な斜面をごとごとと登り、ゆすられたライオンたちが怒って咆哮した。登りきった時、目の前のゆがんだすりばち型の低地に、町は突然あらわれた。地面から生え出たような泥色の建物が陽の光を浴びて不規則に連なり、あちこちに雑然と大小の広場が点在して、車や人でごったがえしている。神殿のような巨大な丸い建物も見える。人々のざわめきが、蜂がうなるようなうなりとなって、むっと息苦しいほどの熱気とともにたちのぼって来る。
 登ってきたのと逆に、車は勢いよく町の中心に向かって下って行った。
 …地獄には熱いかなとこがあって、皆、その上で焼けて死ぬんだよ。
 村の魔法使いが子どもたちをおどかしてしてきかせていた話を、ジュバは思い出していた。
 …一滴の水もない。助けを呼んでも、泣いても、声は届かない。誰も、おまえの声を聞かない。
 …おまえさんは、見てきたのかい?
 冷たい、しわがれた、せせら笑うような老女の声がそれに重なってきた。
 …知ってるような嘘を言うもんじゃない。地獄なんて、ないんだよ。
 …まっさかさまに落ちて行くんだ。その燃える炉の上に。けものたちの吠える声の中をな。
 勢いをまして坂を下って行く車の中で、ジュバは冷やかな目で町を見下ろしているハヴィルを見つめた。
 この男はまるで、もう何度も生きてきたような顔をしている。
 「おれたちは、どうなる?」ジュバは聞いた。
 ハヴィルは答えず、ただ、ジュバの膝によりかかって目を閉じている病気の男の方をちらと見た。「そいつに気をつけておけ」彼は低い声で言った。「ちゃんと歩かせて、なるべくそばに座らせるようにしろ。ばらばらにされたら、おしまいだぞ。そいつは一人じゃ生き延びられん」

(10)
 村にやってくる商人たちと、ものの売り買いをしたことのあるジュバは、品物の取引きのしかたについて、少しは知っていた。車から下ろされて、人ごみの中を歩き、けものの檻の間を抜けて、小さな空き地の柵や柱に鎖でつながれた時、ジュバは自分たちが商品として売られるのだと知った。
 雑踏の中で暑さは一段と強く、風ひとつない熱波にあぶられて奴隷たちがみるみる弱って行くのにあせった商人たちは、やっきになって取引きをまとめようとしており、結局、昼前にジュバたちは皆、髪と髭の白い、眼光の鋭い大柄な金持ちらしい男に買われた、格子の檻がとりつけられた車の中に押し込められた時、ジュバは、あの病気の男がいつの間にか自分の隣に座っているのに気がついた。
 ハヴィルは入口近くに立ち、確かめるように皆を鋭い目で見渡している。暑さと緊張で、ハヴィルにああ言われていたのに、病気の男のことを実は忘れてしまっていたので、ジュバは少しうしろめたく、隣にいたのでほっとして、思わず笑いながら「いったい、どこから来たんだ?」と、冗談を言った。
 男はまじめにジュバを見返し、それから格子の外に目をやって、さっきまで自分たちがつながれていた場所に新しい奴隷の一団が連れ込まれているのをながめながら、小さい声で返事をした。
 「イスパニア」
 明らかに男は、ジュバが冗談を言ったのをとりちがえて、本当に自分がそこから来た場所を答えたのだ。それは北の方のローマの属州で、豊かな美しい土地だと、ジュバは聞いたことがあった。
 「そこに住んでたのか?」
 男はうなずきかけ、そして首を振り、またためらって目をそらした。口を開いて、何か言いかけてやめたのは、ハヴィルが言っていたように、やっぱり何か思い出せないでいることがあるようだ。
 「家族はそこに?」
 また同じしぐさ。首を振りかけ、うなずきかけ、そのまま困ったような沈黙。自分でもよくわからないようだった。目ばたきしながら、ひっそりと息を殺して、首をかしげて何か考え込んでいる。熱は下がったのかと思って、額に手をあてようとすると、ゆっくりと、優雅に、馬が首をそらすように頭を動かして、避けた。そのしぐさも、目の色も、薬がきいて回復してきているのか、見違えるようにしっかりしてきている。
 ハヴィルがやってきて、前に座った。
 「顔色がよくなったじゃないか」
 そう言いながら彼はむぞうさに手をのばして、男のあごに手をかけようとしたが、男はまたかすかに顔を動かして、よけた。おや?という表情でハヴィルは、今度は反対側の手をのばして男の頭にのせようとする。男はそれも、ほんの少しだけ身体をずらして、避けた。
 ハヴィルの目が真剣になり、彼は両手をかわるがわるのばして、男の顔や肩にふれようとした。時には右手でふれると見せかけておいて、いきなり左手でつかもうとした。
 「おい、ハヴィル、遊ぶなよ」反対側にいたガルスが、声をかけた。「病人相手に、かわいそうに」
 「おれが遊ばれてるんだぜ」ハヴィルは言った。「見ろよ」
 たがいちがいにすばやく手をのばしても、男はやっぱり上手によける。それも少しも大げさな動きではなく、ほんのわずかな、目立たない移動で、文字通り指一本分だけぎりぎりにハヴィルの手をはずすのだ。最初など、ちょうど座り直したので、それで偶然よけるかたちになったのかとジュバが思ってしまったぐらい、その避け方は無駄がなく、自然だった。
 「ほう?」ハヴィルは面白そうにつぶやいた。
 そして、電光石火の速さでいきなり右手をのばすと、ようやく、初めて男の腕をつかまえた。今度は男の方がショックだったらしい。身体を固くし、目を見はってハヴィルをじっと見返した。
 「は、それでも、つかまるのは二十回に一度か」ハヴィルは首をすくめると、観念したように抵抗しないでじっとしている男をひきよせ、額に手をあてた。「おまえいったい、何者なんだ?おれの手をこれだけよけつづけられる者なんて、見たことがないぞ。軍にいたのか?ただの兵士じゃなかったろ?」
 何かを思い出したように男は身じろぎし、黙ったままハヴィルを見つめた。ハヴィルが何か知っているのではないか、教えてくれるのではないかと期待するように。そしてハヴィルがそれ以上何も言わないのを知ると、がっかりしたようにまた目を伏せた。
 「熱は下がったみたいだな」ハヴィルは言って、手を離した。
 「イスパニアから来たらしいぜ」ガルスが教えた。
 「ほんとか?あそこはいい所だ」ハヴィルは男に笑いかけた。「そうだよな?」
 男はうなずいた。それから、ひどく淋しそうな顔になった。途方に暮れた、迷子のような顔だった。
 「でも、もう誰もいないんだ」彼は突然、はっきり言った。

(11)
 彼らを乗せた馬車は、いつか、大きな塀に囲まれた建物の中に入っていた。まるで一つの町のような広大な敷地の中に、曲がりくねった迷路のように建物や壁が並んでおり、ジュバが見たこともない奇妙な鳥や獣たちが、その間に見え隠れしていた。
 車から下ろされた奴隷たちの服をはぎとり、全身に石灰の粉をふりかけて消毒させた後、白髪頭で鋭い目をした、新しい彼らの持ち主は、一同を並べて短い演説をした。彼はプロキシモと名乗り、おまえたちを金で買ったからには、くそったれ母親がこの世に生み出したおまえたちの命は、もう、この自分のものだと言った。剣闘士として闘技場で死ぬ前に、せいぜい観客たちを楽しませるがよい。この音が、おまえたちをあの世へ送ってくれる。そしてプロキシモはジュバたちを鋭く見つめて、わざとらしい手の先だけの拍手をしてみせた。
 …でも、そんなことばはないのだよ、ジュバ。
 プロキシモの声にどこか似た、だが、もっと皮肉たっぷりの、陽気な絶望にあふれた、しわがれた女の声がする。
 …あんたの母さんは、たしかにあんたを、呪われたこの世に生み出した。
 …それでもね、誰も知らないことばがある。誰も決して、使うことのないことばがさ。
 …いいかい、ジュバ。それを知ったから、あたしはこんなに強くなった。
 「ああ、これは夢だ」かたわらで、ぶつぶつつぶやく、かぼそい震える声がして、ジュバは現実に引き戻される。やせて、ひよわそうな、だが感じやすく聡明そうな顔だちの男が、うちのめされたように、自分に言い聞かせるように口の中で何度もつぶやいている。「こんなことは、ありえない。何もかもが夢だ。本当じゃない」
 プロキシモはまだ何か言っている。この塀の中を日中に歩き回るのは自由だ。しかし、夜は閉じ込める。塀の外に逃げようとしたら、恐ろしい刑罰が待っている。どのみち、周囲は砂漠だから、首尾よく逃げてもハゲタカの餌になるのがおちだろうが。おとなしくしていれば、大切に扱ってやる。傷を治して、飯を食って、せいぜい元気になるがいい。数日後、おまえたちの強さを試して、使えそうなやつを選ぶ。使えそうにないやつは、と、ことばを切ってプロキシモは気味悪い笑顔を見せた。
 ジュバは横の方に目をそらした。ハヴィルが何人か向こうに立って、あの超然とした値踏みする目で、じっとプロキシモを見ていた。イスパニアから来た男は、静かに立ってプロキシモをきちんと見ていた。視線も姿勢も申し分なく、こいつはこうして人の話を聞くのに慣れているんだとジュバは思った。だが、どことなく真剣に聞いているようではなかった。彼の目は、どこか遠くをさまよっているようだった。

(12)
 「そのことばなの?」サヴィナがからかうように聞いた。
 ファティマは目を上げた。「何?」
 「あんたの村を救う呪文よ」サヴィナはのばした足のつま先で、たき火のはしをつっついた。「プロキシモの話を聞きながら、ジュバが思い出したことば。誰も知らない、誰も使わないことば」
 ファティマはうなずいた。「この話の中に、そのことばのことは何度か出て来る」彼女は言った。「でも、そのことばが何なのかは語られていない」
 「そもそもジュバは知ってたの?」
 「彼は、そのことばを、後で口にするの。でも、何と言ったかは伝わっていないの、この話では」
 サヴィナはうなずいた。「続けて」
 「あんたにはわかるの?」ファティマはサヴィナを見つめた。「村の者が代々、必死で考えてきて、誰もわからなかったのよ」
 縛られたままの肩をゆするように動かして、強いまなざしで炎を見つめながらサヴィナは繰り返した。「続けて」

(13)
 肉と野菜のごった煮と、黒っぽいパンのかたまりの食事をすませる頃、日が暮れて、空は灰色と紅に染まった。約束どおりプロキシモはジュバたちを七、八人ずつひとまとめにして、長細い部屋の中に押し込めた。中庭には青いチュニックを着た古参の剣闘士らしい男たちが、わがもの顔で歩き回っている。
 建物の中は案外さっぱりしていて清潔だった。すりきれた毛布のかかった寝台があちこちの壁ぞいに作られている。ハヴィルが向こうの方で小声で男たちに話しかけ、何か相談していた。腕を折られた黒人と、片目をつぶされた男とが、その中にいるのをジュバは見た。
 イスパニアから来たあの男は、隅の寝台にぼんやり座って、格子のはまった窓の向こうの空を見ている。ジュバは近づいて行って、隣に座った。
 「名前、思い出したか?」
 男は首をかしげて、こちらを見つめ、考えながらつぶやいた。「ジュバ」
 「うん、それはおれの名だ。おまえの名は?」
 男の目が、ごまかせなかった、というように、ちょっと沈んだ色になったのをジュバは見た。彼は自分の名を聞かれたのはわかったのだが、思い出せないのを気づかれまいと、わざとまちがえたふりをしてジュバの名を答えたらしい。
 案外、頭がいいじゃないか、とジュバはほほえみ、いや、もしかしたら、ものすごく頭のいい男だったのかもしれないと思った。
 「本当に、名前忘れてるのか?」思わず聞いた。「それとも、言いたくないだけ?」
 男は、痛々しいほど傷ついた目をしてジュバをじっと見つめ、それから黙って目をそらした。
 「どっちでもいいんだ、別に」ジュバはおだやかに言った。「じゃ、イスパニアって呼ぶけど、いいか?」
 目をそらしたまま、男は小さくうなずいた。それからジュバに目を戻し、わかられているのならしかたがないとあきらめたような、悲しそうな素直な声で言った。
 「思い出したら、ちゃんと教える」
 「わかったよ」ジュバは言った。「いいんだ」
 ハヴィルがこちらに歩み寄って来た。二人を見下ろし、「しゃべってないで、早く寝ろ」と低い早口で言った。
 「戦えない連中は」ジュバはもっと低い声で聞いた。「どうなる?殺されるのか?ライオンの餌に?」
 ハヴィルは、男の方に目をやって、恐がらせるなとジュバに合図した。だが、男はジュバの声が聞こえなかったのか、黙ってまた、窓の外の空を見ている。ハヴィルは向こうの方で男たちが、思い思いに寝床に横たわりはじめているのを見ながら、かすかな吐息をついて、ジュバのわきに座った。
 「たとえ全然戦えなくても、すぐに殺すことはせんよ」彼はひざの上においた、指の長いひきしまった大きな手をじっと見つめながら、つぶやくように言った。「剣闘士競技を知ってるか?」
 ジュバは首を振った。
 あかりもない部屋の中は薄暗く、この窓の下だけがほのかに明るい。ハヴィルの目が、その薄闇の中で光った。
 「そいつはローマの名物だ。この、くそみたいな帝国のな。武装した人間どうしを戦わせて、それを皆が見物する。観客席のげすどもが」
 「何のためにだ?」
 「何のためでもない。楽しみのためだ。ひまつぶしのためだ。だらけた毎日を生きるための刺激さ」
 「じゃなぜ、自分で戦わない?」
 ハヴィルは暗い、乾いた声で笑った。「おまえ、いいことを言うな」
 そしてまた、低く続けた。
 「現皇帝はマルクス・アウレリウスと言って、気取った哲学者だ。都での剣闘士競技を禁止した。上品なやつの趣味にはあわんのだろうよ。だが、その分、辺境や属州では、競技が盛んになってきている。ローマを追い出された興行師連中が各地に散らばってな。あのプロキシモも、その一人だろう」
 ハヴィルは振り向き、男が壁にもたれて、熱心にじっと耳をすましているのを見て、「どうした?」と優しく言った。「眠れないのか?」
 「イスパニアって呼んでもいいそうだ」ジュバは教えた。
 ハヴィルは微笑した。「そうか。じゃ、イスパニア。心配しなくていいから寝ろ。おれたちはそばにいるから」
 イスパニアはうなずいたが、動かなかった。
 「キリスト教徒や罪人たちの処刑も、重要な見世物だ」ハヴィルはまた、低く言った。「ありとあらゆる工夫をこらした残酷な方法で殺される。だが、剣闘士競技の方が一般には人気がある。おれたちはそれに、ひき出されるのさ」
 「あんな、けが人たちもか?」ジュバはもう闇の中に沈んでいる寝台で寝ている男たちの方を見ながら、声をひそめた。「戦えるわけがない」
 「観客はな、喜ぶんだ」苦々しさをこめて、ハヴィルは言った。「強いやつが勇ましく戦うのを見るのと同じぐらいに、弱いやつが逃げまどい、なすすべもなく、のたうち回って命乞いしながら死んで行くのを見るのがな。あいつらは」のどに何かがつまったように、ハヴィルの声が一瞬とぎれた。「そういう風に、使われる。目の見えない者、手の不自由な者が、どうやって戦うか、見て笑いものにされるために」
 「本人たちは知っているのか?」
 「知っているやつもいる。知らないやつもいるだろう」
 少し黙っていた後で、気を取り直したようにハヴィルは続けた。
 「とにかく、それは闘技場での話だ。今、そんなことは気にするな。明日かあさって、プロキシモは、おれたちを、とりまきの古参の剣闘士たちと戦わせて、誰がどのくらい強いか見るはずだ。そこでいくら弱くても、今言ったような使い道があるから、すぐに殺されることはない。だが、できれば強さを見せつけておけ。使い捨てではなく、大切にしようと思ったら、待遇もよくなる。飯もよくなり、傷の手当ても充分にしてもらえる。生き延びるチャンスがそれだけ多くなる」
 ふりむくと、イスパニアが眠そうに壁にもたれて、うつらうつらしていた。
 ハヴィルも黙ってイスパニアを見ていたが、やがて「友だちってのは本当か?」と聞いた。
 「いいや」ジュバは白状した。「荷車の中で会ったんだ」
 ハヴィルはうなずいた。「だと思った」
 「何者だろう?」ジュバはつぶやいた。
 「軍人らしいな。肩にローマ軍の刺青がある」ハヴィルは言った。「だが、こいつのこの変におっとりした様子は、今こんな風だからじゃなくて、どうやら地だな。もともと、こんなやつなんだろう」
 二人はあらためて、イスパニアの率直さと優しさの入り混じる、少年のような顔だちの寝顔を見つめた。
 「家柄がよさそうな感じもするし、野育ちみたいにも見える」首をかしげてハヴィルはつぶやいた。「変なやつだな」
 「生き延びられるんだろうか?」
 ハヴィルは低い吐息をついた。「こいつさえ、その気になればな」
 そしてジュバの肩をたたき、離れて行った。
 ジュバはすりきれた毛布を広げ、イスパニアをつっついた。「寝ろよ」
 小さいあくびをしながらイスパニアは、ちょっと目でハヴィルを探すようにしたが、すぐ素直に壁に背中をくっつけるようにして横になった。そして、ジュバに毛布をかけられながら、目を閉じて口の中で何か言った。
 「何だ?」
 「皇帝陛下は…」なかば眠りながら、かすかに唇を動かしてイスパニアはささやいた。「もう、いらっしゃらない」
 「え?」
 「殺され…」
 「何?」
 だがイスパニアは、小さく唇を開け、白いよくそろった歯をわずかにのぞかせたまま、もうすやすやと安らかな寝息をたてていた。熱が下がって、ごとごととゆすぶられる荷車ではなく、寝台の上で落ちついて眠れるので、しんからぐったり安らいで身体の力を抜いている。ジュバはまたそっと、その肩に手をおいた。しなやかな暖かい筋肉が一瞬ぴくりと緊張する。しかしすぐに再びそれはゆるんで、寝息に合わせて穏やかに上下しはじめた。

(第一章 荷車の中・・・・・終)



第二章・辺境

(1)
 「おまえ、あの方が誰か知っているのか!?」
 若い奴隷は興奮していた。やぶからぼうに聞かれてぽかんとしているジュバの白いチュニっクの胸元をつかむようにして、彼はまた、たたみかけた。
 「いったい、どなたか知っているのか?」
 この男は多分、ドルススという若者だ。数日前にここに来たが、最初から剣闘士として買われてきたらしく、表情は自信に満ちていて、ジュバたちのことなど見向きもしなかった。それが、いきなりこの剣幕だ。「何のことだ?」と、ジュバは当惑して聞いた。
 「だから、おまえといつもいっしょにいる、あの…」
 「イスパニアか?」
 ドルススはうなずき、その目にはっきり、畏怖に近い色があらわれてきたので、ジュバはますますとまどった。
 「彼がどうした?」
 するとドルススはためらった。何か言おうとしかけたがやめて、いきなりジュバから離れて行った。
 中庭ではハヴィルが仲間や古参の剣闘士と木剣を打ち合わせて、激しい訓練を繰り返している。片目の男パスコウや腕の片方がきかない黒人アジズも加わっている。ジュバはその横をすり抜けて、ひんやりと暗い建物の中に入った。
 明るい外の陽射しになれた目をこらすと、イスパニアが、壁際の寝台の一つに座って、小さな木切れをぼんやりともてあそんでいるのが見える。
 ジュバはその前に行ってひざまずき、木切れをとりあげ、持ってきた木剣を手に持たせた。
 イスパニアは気を悪くした風はなかったが、指を開いてゆっくりと手を引き、木剣を握ろうとはしなかった。
 ジュバはその手をつかんで、相手が少しいやがるのはかまわず、引き寄せて手のひらと指を見た。固く盛り上がってかたまっている指の腹は、明らかに剣を握りなれた手だ。ジュバが調べているとイスパニアは本当にいやがって、力をこめてジュバの指から自分の手を抜き、両脇に下ろして、こぶしに握りしめてしまった。
 ジュバは笑った。
 「おまえを知ってるやつがいるみたいだぞ」
 イスパニアは、警戒しているような、少し反抗的な目でジュバを見た。
 「ドルススって若いやつだ。この前来たばかりの。知り合いか?」
 イスパニアはあいまいに首を振った。落ちつかない不安そうな色が目に浮かびはじめている。ジュバは、その目をのぞきこんだ。
 「多分、そいつはおまえの本当の名前を知ってる。肩書も、家族のことも」
 イスパニアは少し前かがみになって、身体を丸めるようにして、ジュバの視線をさけた。ジュバのことばを聞かないことにしたような態度だ。
 「やつに聞いてみる?いやか?」
 ちょっと驚いたようにイスパニアが目を上げてジュバを見た。
 「まだ…?」彼は口ごもった。
 「何だ?」
 「まだ聞いてないのか?」またちょっとためらって、イスパニアは目をとまどわせた。「どうして?」
 「どうしてって、おまえのことだろうが?おまえがいやなら、聞かないよ」
 イスパニアは黙って、ジュバの手の木剣を見ていたが、やがて聞いた。
 「皆、外か?」
 「ああ。訓練をしてるよ。必死でな」
 「おまえは?」ここにいてもいいのか、というようにイスパニアはジュバを見た。
 「おまえは?」ジュバは聞き返した。「戦わない気か?」
 それを聞くのは実は二度目だ。何日か前、ハヴィルが予想した通り、プロキシモはジュバたち新参の奴隷たちを中庭に集め、一人ずつ呼び出して、古参の剣闘士たちと対戦させた。使うのは木剣だが、古強者の剣闘士たちの手にかかれば、立派に人が殺せる代物だ。現に一人が胸を突かれて、血反吐を吐いてぶっ倒れていた。
 ハヴィルもジュバも、強いと判断された組の方に入れられた。他の者たちも必死で戦って古参の剣闘士たちを笑わせたり喜ばせたりしていたが、イスパニアだけは例外だった。木剣を渡されると、相手の目を見たまま、落ちつきはらって木剣を投げ捨て、怒った相手が力まかせに横なぐりにたたきつけてきた打撃を、声ひとつ上げず、身体で受けた。並の者なら気を失いかねないすさまじい一撃で、二度目は肩の傷痕を狙われたのに、表情も変えずに、よろめいてひざをついただけで、黙ってもとのように立って相手に向き合うその態度は、見ようによっては恐ろしいほど冷やかで超然として、無気味な迫力さえあった。プロキシモは顔をしかめて見ていたが、激昂した相手が襲いかかろうとしたのを押しとめ、対戦を中止させた。
 つまり、イスパニアの本当の実力は誰にもわからないままだったことになる。
 「戦わない気なのか?」ジュバはその後で聞いてみた。
 イスパニアは笑って答えなかった。彼はその時、どこからか見つけてきたとがった石で、肩のローマ軍の刺青を傷つけて消そうとしていた。ジュバが、それはおまえの神さまの印みたいなもんじゃないのか、罰があたるぞと言うと、わかってるからやってるという目で見返した。
 …神がいようといまいと、あたしには同じことなんだよ、ジュバ。
 それはジュバの母方の祖母の声だ。イスパニアの凛々しく若々しい顔だちとみずみずしい表情は、やつれきった年老いた祖母の顔と似ているところは何一つなかった。それなのに、彼のその時の、何もかもをうけいれてあきらめきって笑っているのに、それでもなお生々しい苦痛と怒りをあらわにした目は、はっきりとジュバに、祖母の、大胆な笑いに目を輝かせてじっと幼いジュバを見つめた、あの顔を思い出させた。
 …ねえ、ジュバ。あたしは知っている。この世には決して語られることのない、口にされないことばがある。
 …それを知ったから、あたしはこの世のしくみを知った。だからもう、何も恐いものなんてないのさ。

(2)
 戦わないのか、とジュバにあらためて聞かれて、イスパニアは答えなかった。彼は自分の手を見ていた。何かの汚れがついているように、ゆっくり指をこすっていた。
 「一日かけて墓穴を掘った」ひとり言のように彼は言った。「道具も残ってなかったから、ほとんどは手で掘った。すごく疲れた…柔らかい黒い土で、いつもは楽々、耕せたのに。その時はどうしてか、掘っても、掘っても、いつまでたっても、ちっとも深くならなくて…まるで、土が埋めたくないと言っているようだった。そんなものは埋めたくない、そんなことはあるはずがない、そう言っているようだった」
 彼はあいまいに首を振った。
 「でも、土には関係ないと自分に言い聞かせて、掘った。自分が疲れて、力がなくなってるだけなんだと、自分に言い聞かせて。何日も食べてなかったし、ずっと馬を走らせて…馬も死んで…かわいそうに」彼はぼんやり、くりかえした。「ほんとに、かわいそうだった」
 「誰を埋めたんだ?」ジュバは聞いた。「誰の墓?」
 そこになると思い出せないらしい。イスパニアは黙り込んだ。記憶が何かを封印しているかのように。やがてまた、小さい声で彼は続けた。
 「途中で何度か、ちょっと思った…焼いて、骨にしてしまったら、小さい墓穴ですむって。でも、そんなことはとてもできなかった。それ以上、焼くなんて、彼らを…そんなこと絶対…」
 ぱったり言葉がまたとぎれ、それから長い沈黙が続いた。身体を動かすと痛みを思い出すのでじっとしている動物のように、イスパニアが肩をこわばらせているのにジュバは気づいた。ふと思いついて、聞いてみた。
 「火事か何か、あったのか?」
 イスパニアは黙って、水の中を見るような、どこかおぼつかない目でジュバを見た。
 「焼け死んだのか、その人たち?」
 「森が…燃えて…」イスパニアは、ぼんやり唇を動かした。「そうだ。たくさんの人が焼け死んだ…」
 「おまえの家族?」
 「そうじゃない。いや…でも…」
 イスパニアは目を閉じた。記憶が混乱しているらしい。悲しそうというよりも、むしろ、いらいらと苦しそうな怒った表情になって、こぶしをにぎりしめたり、指をひっぱったりしている。
 「外に来ないか?」ジュバは誘った。「戦わなくてもいい。皆を見てるだけでも、気晴らしになる」
 うつむいたまま、イスパニアは首を振った。「もう、何もないんだ」ジュバの言葉が聞こえなかったように、自分に言い聞かせる口調で彼は低くつぶやいた。「帰っても…墓しか」

(3)
 「あいつが肩の刺青を消したのは、よかったさ」ハヴィルはパンをかじりながら、荒々しい口調でジュバに言った。「不必要に憎まれずにすむからな。ローマの兵士は評判が悪い。今度来た、あのドルススとアリウスも軍人だったらしいが、もう皆に嫌われている」
 「なぜだ?」
 ハヴィルは、じりじりと照りつける太陽をにらみあげた。激しい訓練が一段落して、皆、日陰に休んでいる。水の入った椀をつかんで、ごくごくと飲み干し、ハヴィルは言った。
 「おれは、どこでも、仲間たちに、ここにこうして来るまでの前のことは忘れるようにと言ってきた。そうでなくちゃ生きていけんし、昔のことを言いたてはじめたら、仲間われが起こっちまう。だがそうは言ってもな。なかなかそうはいかんもんさ」
 「それじゃイスパニアも、昔のことは思い出さない方がいいのかな」ジュバはつぶやいた。
 「どっちみち、あの刺青、あのままだったらその内におれがつかまえて、削り落としてやるところだった」ハヴィルは笑った。
 「ドルススは、イスパニアのことを何か知ってるみたいだった」ジュバは言った。「あの方、なんて呼んでいた」
 「あの方?」ハヴィルは眉をひそめた。
 「そう言ったように聞こえたが」
 「なるほどな。たしかにあいつは、ただの兵士じゃないだろう」吐息をついてハヴィルは言った。「だが思ったより強情だ。どこか野生の獣みたいなとこがあったから、身体の力が戻ってきたら自然に戦い出すと思ってたんだが、そう簡単じゃなさそうだな」
 「闘技場でもああなんだろうか?」ジュバは心配になって言った。「この前みたいに、無抵抗に?」
 「時たま、あんなやつがいるからな」ハヴィルは鷲のようにけわしい、彫りの深い顔を強くしかめていた。「おれも一人、見たことがある。ずたずたにされても抵抗一つせず、うす笑いを浮かべて死んで行った。やつらを楽しませてなるものか、と言っていた。おまえらは好きにするさ。だがおれは断じて、やつらの夕飯前の気まぐれの慰み物になんかにはならない。そう言ってな、口癖みたいに。だが、強かった。練習の時には、あっさり相手をやっつけていた。おれだって、何度かに一度やっと勝てるほどの腕だった。だからおれたちは皆、やつの言ってることを本気になんてしなかった。その時が来れば戦って、いつもの人を食った笑顔で戻ってくると思ってたよ。そう思いたかっただけかもしれんが。闘技場に出て行く時、そいつはおれを振り向いて笑った。やつらの鼻をあかしてくるぜ、ハヴィル。それが最後のことばだった」
 …鼻をあかしてやるんだよ、ジュバ。
 …それが、あたしのやり方さ。
 ジュバはハヴィルをうながした。「で?」
 「おれは、格子のすきまから見てたよ」ハヴィルは言った。「闘技場の中央で、そいつは、この前のイスパニアと同じように、武器を地上に投げ捨てた。対戦相手はおれの知らない男だったが、ひるんで、すぐには手を出せなかった。だが、観衆たちはすぐ、キリスト教徒だ、キリスト教徒だ、と騒ぎはじめた。やつは信者じゃなかったが、戦わないのがそう見えたのさ。対戦相手はそれで急いで攻撃をかけた。そんなように、おれには見えた。キリスト教徒ということになれば、鞭で打ちのめされたあげく、どんな残酷な殺され方をするかわからんからな。確かにやつは顔だちも美しい、見事な身体の男だったから、生きながら焼かれたヘラクレスだの、腹を裂かれて臓物を引き出されるプロメテウスだのをやらせるには、もってこいの男だった。対戦相手はそんなことにさせたくなくて、自分の手で殺してやろうと思ったんだろう。横なぐりにたたきつけた剣で、やつの腕はなかばちぎれてぶら下がった。それでも、また立ち上がって、今度は胴体をぶち切られた。血の海の中に倒れて、あっという間に死んだ。あっさり殺しすぎたというので、観客の不満は爆発し、対戦相手の男もその後、鞭で打たれて死にかけていた」
 「プロキシモの話だと」ジュバは考えながら言った。「近い内に試合があるのか?」
 「ああ、そう言ってた。かなり大がかりな試合で、おれたちは皆、かり出されるらしいぞ」
 クジャクがいばって長い尾を砂の中に引きずりながら、二人の前を歩いて行った。
 「半数以上は死ぬだろう、おれたちといっしょに買われたやつの」ハヴィルは怒りを抑えた声で言った。「弱いやつらを一気に片づける気なんだよ。派手な試合で観客を喜ばせてな」
 中庭の向こうでは、何人かがまた訓練を始めている。あの、聡明そうな顔をした小柄なギリシャ人クレオンが、大きな木剣を引きずるようにして、肩で息をしながら、ちぢれ髪のすばしこい若者ピュロスに立ち向かっていた。

(4)
 その翌朝、ジュバはドルススとアリウスが肩を並べて日除けの下に座り、古参の剣闘士たちの訓練を馬鹿にしたような目でながめているのに近づいた。二人ともまだ若く、二十歳そこそこかもしれない。兄弟ではないのだろうが、どこか似ている。傷痕ひとつない、ひきしまった手足も、誇りと自信のみなぎる、明るく男らしい顔も。
 「話があるんだが」ジュバは二人に声をかけた。「イスパニアのことだ」
 二人は顔を見合わせた。「何だ?」とドルススが用心深い声で聞いた。
 「彼に話があるんじゃないのか?」
 ジュバがそう聞くと、二人は妙にひるんで顔を見合わせた。やがてアリウスがためらいがちに言った。「あの人がそう言ったのか?」
 「そうじゃないが」今度はジュバが口ごもった。「実は彼は、昔のことをあまりよく覚えてないようで、おれにもほとんど何も話さない」
 二人はジュバを見返していたが、あまりよく話がのみこめていないようだった。ジュバは続けた。「おまえたちと話したら、何か思い出さないかと」
 また二人が顔を見合わせ、ドルススが口の中で「ご迷惑じゃないのかな」と言った。
 「そんなことはないと思う」答えながらジュバは、漠然とした不安を感じていた。この二人も自分の言っていることを充分にわかってない気がするのだが、自分も何か、この二人の感じていることが…イスパニアがこの二人にとってどういう存在なのかが、わかっていない気がしてならない。

(5)
 イスパニアは今日も建物の中にいた。ジュバたちが入って行った時、彼は、小柄なギリシャ人のクレオンが炭のかけらで石の壁にさまざまな落書きをしているのを、寝台の上に膝を抱えて座って、黙ってながめていた。ジュバは声をかけようかどうしようかと迷ったが、見るとドルススたち二人が、うやうやしいと言いたいほどの表情で、じっと立って待つ姿勢になっているので、そのまま黙って見守った。
 「おれには夢があった」クレオンはジュバたちには気づいてもいないように、かすかな輝きをたたえた目で、壁の文字の列をじっと見ていた。「詩と歴史が結びついた、これまで誰も書いたことのないような偉大な著作を完成させるという夢が。第一稿の一部はもう、ほぼ出来上がっていた。おれの名は歴史に残るはずだった。だが、戦争と飢餓と、愚かな村長との対立が、おれの運命のすべてを変えた。このおれが、剣闘士だと?木剣を振り回して人殺しの練習を?信じられないような冗談だ。悲劇や喜劇を通り越した、奇怪な幻想としか言いようがないではないか?だが、事実だ。現実に、おれはここにこうしていて、三日もしない内にむくろとなるのだ」
 怒りにぶるぶるとわななく手で、彼は手にしていた炭のかけらを、壁に向かって投げつけた。
 「観客を喜ばせろだと!?あの愚かなプロキシモめ。やつに何がわかる?誰にもわかっていない。おれを生き延びさせれば、そして、ものを書かせれば、それは今から何百年、何千年にもわたって、数知れない人々の心を癒し、うるおし、迷いを晴らし、生きる力を与えることができるというのに!こんな風におれを死なせるのが、どんなに無駄なことか、人類にとっての損失か、誰にも決してわからないまま、おれは、この世から消えるしかない。おれだけではない。おれの詩…おれの作品」うっとりと、愛情と苦痛に満ちたまなざしで、彼は壁を見つめた。「この偉大な人類の財産。それが、ひと月もしない内に薄れて消えるか、やがてこの建物とともに崩れ落ちる。おれという人間が生きて、この世にいたという痕跡もそれとともに消えて、この世のどこにも残らないのだ」彼は深い吐息をつき、イスパニアの目が文字の列を追っているのに気づいて苦笑した。「読めるのかい?」
 イスパニアは上の空で小さくうなずき、熱心に視線を文字に走らせ続けた。そして、足元に落ちていた炭を拾うと、クレオンがなぐり書きして乱れている部分の数文字が気になると見えて、きれいになぞって、きちんと点を打って、かたちを直した。
 クレオンはふっと笑った。「悪いな、読みにくくて。夢中で書くとついそうなるのさ。細かいことに、かまっちゃいられん」そして、ちょっと眉をひそめ、まじまじと相手を見つめた。「そんな難しいことば、どうして知ってる?」
 イスパニアはとまどったようにクレオンを見返し、悪いことでもしていたかのように、手にした炭を黙って床に落した。
 クレオンが何か言いかけた時、ジュバたちが近づいた。
 「悪いが、彼に話があるんだよ」ジュバが言った。
 「ああ」クレオンは、まだ気になるようにイスパニアを見ながら、寝台をすべり下りて、外に出て行った。

(6)
 イスパニアは首をかしげるようにして、また熱心に壁の文字に見とれている。
 「イスパニア」ジュバが声をかけた。「ちょっといいか?」
 イスパニアは顔をこちらに向け、ついで身体を向けかえて、床に足を下ろした。不思議そうな明るい顔で、彼はジュバと二人の若者を見た。
 ドルススがせきばらいした。「将軍」と彼は何かが喉にひっかかったような声で言った。「お久しぶりです」
 イスパニアは落ちついたまなざしで、まっすぐ二人を見ていた。何も言わなかったが、その目には、ある優しい気がかりそうな表情が浮かんでいて、ジュバは驚いた。イスパニアは明らかにこの二人を知らないのだが、それでもおそらく本能的に、この二人を気づかい、見守る目になっている。
 ドルススは神経質そうに笑った。「私たちのことを覚えておいでですか?ヴィエンナの戦いで、夜の攻撃の時、ごいっしょいたしました」
 あの困ったような表情がちらとイスパニアの目に浮かんだ。彼は低く聞き返した。「ヴィエンナ?」
 「はい。覚えてはおられませんよね?」二人は笑った。「当然です。でも私たちは一生忘れないと思います」
 「私たちを冷たい泥の中から、そのお手で引きずり上げて下さった」アリウスも、たまらなくなったように口をはさんだ。「そして笑って『力と名誉を!』とおっしゃった、あのお声とお顔を、私たちは絶対忘れません」
 「それで…ここで何をしている?」イスパニアは、ジュバたちと話している時とは明らかにちがう、やわらかな、包み込むような、深い響きの声で聞き返した。
 話が対応できなくならない内に自分から質問して相手の話を封じたな、とジュバは見ていて思った。こいつは本当に、相当に頭がいい。ほとんど、したたかと言ってもいい。
 ドルススとアリウスは、きまり悪そうに苦笑した。「あの後、上官とごたごたあって、おれたち、軍を抜けちまって」ドルススが言った。「いろいろあって結局、こんなことに」
 「上官って、エンニウスのやつです」アリウスがつけ加えた。「将軍もほんとはあの男、お嫌いだったでしょ?戦勝式の時、ねぎらいのことばかけて抱いてやる時、ほんとに、いやそうな顔しておられた」
 「おい!」ドルススがひじでつついた。
 「やつは気づかないで有頂天になってたけど」アリウスは笑った。「今でもあの調子でやってんですかね、あの男」
 「彼は死んだよ」イスパニアは静かに答えた。「最後のゲルマニア戦の時、私をかばって」
 二人は笑いを消した。「すみません」とアリウスが言った。
 「いいんだ」イスパニアは笑って首を振った。「他にも軍から来た者がいるのか?」
 「ここには今んとこ、おれたちだけみたいですけど」ドルススが言った。「剣闘士の中には兵隊くずれは多いですよ」
 「私のことは誰にも言うな」イスパニアは強い目で二人を見た。「いいな?」
 二人はうなずいた。アリウスがちょっと声をひそめた。「何か大切な任務なんですね?おれたちで何かお役にたてることあったら…」
 イスパニアは笑った。「私はただの奴隷だよ」
 その声もまなざしも、威厳にみちて、余裕にあふれていたために、二人の若者は思わず声をあげて笑った。「わかりました」とドルススが言った。「今後は、お声をかけないようにします。お目にかかれて、光栄でした。これで…これで、誇りを失わないでいられる気がします」
 「…ローマ軍人としての」アリウスがつぶやいた。「あなたの部下だった者としての」
 「忘れないようにしようと言い合っていても難しくて」ドルススが何かをのみこむように、ごくりと喉を動かした。「お忙しいのに、お邪魔してしまいました。失礼します、将軍」
 二人は姿勢を正し、うやうやしく一礼した。「力と名誉を」
 「二人とも…」イスパニアは低く応じた。「無駄に死ぬなよ」
 二人は顔を見合わせて笑ってうなずき、また一礼して、出て行った。

(7)
 二人の姿が消えたとたん、イスパニアはまるで、力という力を使い果たしてくたくたになったように、足をまた寝台に引き上げ、ひざをかかえて、ぐったりと身体を壁にもたせかけてしまった。再び彼はたよりない大きな子どものように見え、さっきの威厳も力強さもあまりに一瞬に消えたので、ジュバはとまどいながら、それでも、寝台に座って声をかけた。
 「何か思い出したか?」
 イスパニアは、怒った、傷ついた目でジュバを見返した。「何も、思い出すもんか!」激しい、吐き捨てるような声だった。
 「じゃ、エンニウスって人のことは?」ジュバは食い下がった。「あれは口から出まかせか?」
 イスパニアは答えなかった。長いこと走ったあとのように、小さく口を開けて肩で息をし、肌が汗でしめっている。さっきの会話の間中、とぎれとぎれの記憶をさぐってつなぎ合わせ、全神経を集中して、ぎりぎりまで緊張しながら応対していたのがはっきりわかった。
 「神さまを見るようにおまえを見てたな」ジュバは戸口の方を振り返りながら言った。「おまえを生きる支えにしてる」
 「おれはもう二度と、誰かの生きる支えになんかならないし、自分も生きる支えなんか持たない」イスパニアは早口に言った。「絶対にもう!」
 「…二度と?」ジュバは静かに聞き返した。
 はじかれたようにイスパニアは身体を固くした。「ジュバ」壁に額を押しつけたまま、彼は頼むようにささやいた。「出て行ってくれ」
 「おまえ…」
 「話したくない。誰も、そばにいてほしくない。ここにいないでくれ。近づくな」
 ジュバは立ち上がった。あと数日後に試合とやらが迫っていて、それでおまえがハヴィルが話したあの男のように、無抵抗で切り刻まれるのを見てなきゃならんかもしれんと思わなかったら…もう少し時間があったら、おれだってこんな無茶はしなかったんだが。
 だが、そんな弁解をしても聞いてくれそうにはなかったし、ジュバもする気はしなかった。彼は黙って外に出た。

(8)
 その日から試合までの数日間、イスパニアはジュバに口をきかなかったし、近づこうともしなかった。ジュバ以外の他の誰に対してもそうだった。身体にふれさせないどころか、そばにも寄りつかせない。話しかけよう、歩み寄ろうとすると、けわしい、冷たい、そのくせどこか見ているだけで苦しくなるほど暗い、悲しげな目を向けて身構えるので、皆、思わず身体をひいて向きをかえてしまう。
 さすがのハヴィルも敬遠していた。「いったい、何があったんだ?」と不思議がるので、ジュバが説明すると、「それであんなにぐれたのか」と感心したように言った。「よっぽどこたえたんだろうな。いいさ、気にするな。何もしないよりは、何でもいいからやってみた方がよかったさ。どうせ、放っとけばあいつは、戦おうとしないまま、なぶり殺しにされようとしたに決まってる」
 「今だってそうかもしれない」ジュバは顔をしかめた。
 「そうだな。だが」ハヴィルは言った。「あいつ、今、あれだけ機嫌が悪いからな」
 「それが何かになるのか?」
 ハヴィルは笑った。「おまえはあいつを怒らせたんだ、ジュバ」彼は言った。「怒ることを思い出させたんだ」

(9)
 ジュバのいた集落で、村が総がかりで森の中の獲物を狩り出す時には、太鼓や激しい叫び声でおどかしながら、じりじりと包囲の輪を縮めて行く。姿の見えないまま次第に近づいてくる大きな物音に獣たちは度を失って、あわて、うろたえ、自暴自棄になって、人間たちの望む方向へ…最もすぐれた狩り手たちが槍を構えて待つ方へと、恐怖にかられて闇雲に飛び出して行ってしまうのだ。
 ハヴィルと話した数日後、他の奴隷たちとともに再び馬車にとじこめられて連れて行かれた小さい町の闘技場の、半地下の部屋でジュバはそのことを思い出していた。くるみ込んでくるような熱気。鼻孔も喉もざらつかせてうずまくほこり。漂ってくる血の匂い。背中に張りついてくるような野太い獣たちのほえ声。男か女か、子どもかさえもわからない、引き裂くような激しい悲鳴。地鳴りのように波を打って伝わってくる観衆たちの叫び声。それでいて、闘技場も客席もここからは見えない。観客が足を踏み鳴らす音につれて、細かい白い砂がわずかにもれる光線に輝きながら天井から雨のように降り注いで来るだけだ。何が自分たちを待っているのか、それさえわからないままに、狭い部屋の中にくっつきあって向かい合って座らされている奴隷たちの顔は次第に緊張を通り越して、放心状態のうつろさに変わってきている。
 プロキシモがその中央に立っている。手のこんだ刺繍をほどこした織物の上着をつけているのは、彼なりの晴れの衣装か。酔ったようなまなざしで、彼は自分の奴隷たちを見回した。そこには一種の愛情があり、軽蔑があり、奇妙な羨望も漂っている。
 「戦いたくないと思っているやつはいないか」彼はささやくように話した。「戦えないと思っているやつはいないか。それも、皆、今だけのことだ。あそこに出てみろ。あの歓声を聞け。人が変わる。血を求める。皆そうだ。それが人間だ」
 なれた手つきでゆっくりと、幅広の剣を彼は手に取った。すばやく水平に空に向かって、それを前方に突き出した。その動きは目にもとまらぬほど速いのに、一連の動作の無駄のなさと美しさが、まるでゆったりと彼が動いたように見せた。「相手の身体に剣を刺せ」彼は、さらに低い、ささやくような声で語った。「深々と、突き刺せ。手応えを味わえ。その剣は、客席をも刺す。喝采が血潮のようにほとばしって、おまえたちにふりそそぎ、包み込む。味わうがいい。忘れられなくなる。求めつづけるようになる」
 彼のことばを理解している者が、どれほどいたろうか。話される内容よりも、その神秘的なまでの妖しい声音と、夢見るような表情に、奴隷たちの目もまた、ひとりでに、魅入られたように彼に吸い寄せられて行く。激しい音を立てて、プロキシモが剣を真ん中のテーブルの板の上に突き立てた時、奴隷たちの誰もしびれたように身体ひとつ動かしはしなかった。
 「人間は誰も皆、一度は死ぬ」おごそかな静けさをこめてプロキシモの声が轟いた。「いつ死ぬか、それはわからぬ。だが、死に方は選べる。名を残せ。それぞれの、それぞれらしい死に方で」
 …死んで自由になれるなんて、真っ赤な嘘だよ、ジュバ。
 …死に方が選べるから自由だなんて、もっととんでもない大嘘さ。
 イスパニアが向こうの列のはしから、プロキシモをじっと見ている。何かを、誰かを思い出そうとしているかのような、遠く、強いまなざしで。その目がふっとけわしくなり、ハヴィル以上のとぎすまされた冷やかさをたたえたような気がしたが、その時、プロキシモの演説は終わり、ジュバたちは立ちあがらされた。
 狭い通路を移動して、彼らは歩きはじめた。どこへ行くのかは知らされなかったが、闘技場の入口の方へ向かっているのは皆わかっていた。それでも、立ち止まる者はなかった。抵抗する者もなかった。あのクレオンも、夢の中にでもいるようにぼんやりと足を運びつづけている。
 途中で列がいったん停止した。高まるざわめきを区切るように規則的に打ち鳴らされる金槌の音が近くなっている。のろのろと再び列が進みはじめ、ジュバはまもなく、その音の正体を知った。前方の台の上で、奴隷たちの手首の鉄のかせに、長い鎖をつけて、二人ずつを一組にしてつないでいるのだ。
 それにジュバが気づいたとほとんど同時に、誰かがジュバを軽くこづいた。振り向くとハヴィルで、彼は目で合図してすばやくジュバの前にわりこみ、片目の男パスコウと自分がつながれるようにした。そして、ジュバを後ろに押しやり、もう一方の列を進んできたイスパニアと組になるようにした。
 二人の手首がつながれた時、イスパニアはそっけない目でジュバを見ただけで何も言わなかった。押されてそのまま前に進み、他の者たちといっしょに粗末な木の扉の前に立った時も、顔を前方に向けたまま、ジュバのことを無視していた。扉の破れから、白い光が流れ込み、その向こうにあるはずのアリーナはまぶしい逆光のため、何ひとつ様子がわからなかった。観客の歓声が最高潮に達するかのように高まりつづけている。
 突然、何の前触れもなく、扉がわっといっぱいに開き、光が奔流のようになだれこんで来た。
 「飛び出せ!」ハヴィルの声が聞こえた。「早く、散れ!」
 巨大なかぶとをすっぽりかぶった大男が、鎖につけた鉄球を振り回しながら、突然、奴隷たちの真正面に現れた。先頭にいた若いピュロスの頭が、その鉄球に一撃され、砕けて飛んだ。その一瞬のすきをとらえて、ジュバは横っ飛びに飛んだ。鉄球を持つ男の背後に重なり合うようにして立っている、網や棍棒で武装した奇怪な戦士たちの姿がちらと見え、そちらに行っては命取りと判断したからだった。
 それはとっさの、本能的な動きだったから、つながれているイスパニアのことをジュバは完全に忘れていた。

(10)
 そして、数歩走ってから、やっとそのことを思い出し、思わず立ち止まって振り向いた。
 イスパニアは完全にジュバの動きを読んでいた。何の抵抗もジュバが感じなかったほど、即座に反応して、ぴったりついてきていただけではなく、とっさに立ち止まったジュバにぶつかりもせず、きれいに身体を開いてよけてジュバの脇につきながら、アリーナを横切って突進してきた敵の方へと向き直り、楽々となれたしぐさで左手の丸い小盾を振り上げて、迫ってきた相手の上半身をたたき上げ、あっさり相手の剣を奪った。
 あまりにも鮮やかなその一連の動作に一瞬見とれてしまったジュバは、反対側から襲いかかってきた相手を危うく見逃すところだった。幸い思ったよりも相手の動きは鈍く、ジュバがたたき返した剣によろめいたところを、イスパニアの剣に突かれて膝をついた。ジュバがそれにとどめを刺している間に、イスパニアは棍棒を振りかざした新たな敵に襲いかかられた。あわてる様子もなく彼は、振り下ろされた棒を盾をかかげてまともに受けた。すさまじい音がとどろいた。並の者なら腕を折る。だが、イスパニアは平然とはね返し、剣で相手の胴体をなぎはらって地面に倒した。
 心のどこかで、ジュバは寒気に似たものを感じた。自分と鎖につながれているのは、危険きわまりない猛獣であり、精密きわまる殺人機械だということに、うすうす思い当たったのだ。こいつと戦う側でなく、つながれている方で助かったという奇妙な安心感がちらとこみあげ、その一方で、それはそのまま、ある種の快感につながっていくのにジュバは気づいて、またぞっとした。
 彼らが移動して行くにつれて、敵が次々、目の前に来る。それに対応するジュバの動きを、イスパニアは完全に読む。まったくジュバに負担をかけず、まるでもう一本のジュバの手であり、足であるかのように動く。それは、自分の力が倍になったような、いや、実際に倍になっている実感をひしひしとジュバに与えた。血煙を上げて次々に、目の前の砂の中に倒れて行く敵に、二人で剣を突き刺すのが、これほど当然で、確実に思えることがあろうとは。恐ろしい力が手に入ったような実感がジュバを陶酔させ、その反面で戦慄させた。
 一度だけ、二人の動きに齟齬が生じた。多分、ケマルかソシアだろう…誰かが苦戦していると見てとったイスパニアが、そっちへ移動したがって、ジュバの鎖をひっぱったのだ。ジュバは荒々しく引き戻した。今は他人をかまっている余裕などはない。すでにもう、アリーナ全体に敵と味方は散らばって、どんな動きも予測などできなかった。アジズとガルスが、剣をかざしながら、鉄球の男から後ろしざりに逃げて行く。ケマルが鮮やかな剣さばきで、つながれた仲間をかばいながら、二人の相手を翻弄している。「落ち着け!落ち着け!あわてるな!」ハヴィルが叫んでいるのが聞こえた。「かっこうだけだ!こいつら、弱いぞ!勝てる!勝てる!あわてるな!」
 だが、敵の中には明らかに、並外れた強さを持った戦士もいた。丸いかぶとをかぶり、鉄の網と三叉の矛で武装した男もその一人で、彼が投げる網は、あやまたず相手をくるみ、いったん動きがとれなくなると、網の上からずたずたにされた。何度めかの犠牲者に彼が矛をふるっている時、またジュバをひきずるようにしてイスパニアが躍りかかり、戦士は飛びすさって逃げ、イスパニアは追いかけた。今度はジュバもそれに従った。すでに周囲に他に敵がいなかったのと、この時をはずしては、この相手は倒せないとイスパニアが判断したのに気づいたからである。

(11)
 二人はアリーナの壁際に戦士を追いつめた。戦士が構えた尖った矛の先は、倒した数人の生々しい血にぬれていた。イスパニアは冷静に相手を見ながら、すきをうかがっている。相手は鎧かぶとですきなく身をかため、こちらは薄いチュニックに帯をしめただけの、ほとんど裸も同然だ。一撃でも受けて傷を負えば、おしまいだろう。
 それにしても、イスパニアは慎重だった。油断せず、落ち着き払って、相手との距離をはかっていて、あせる様子がみじんもない。奇妙なまでのその迫力に、敵がむしろ圧倒されて、不用意に三叉の矛がゆらいだ。
 その瞬間を見逃さず、イスパニアは矛をつかんでひったくりとった。戦士がよろめいて矛をつかんだまま、前にのめって来たほどの、強さと速さで。あっという間に、それをそのまま、相手の腹に突き立てる。よろめきながら男はかろうじてまだ立っている。再びイスパニアが鎖を引っ張ったのをジュバは感じ、すかさず、自分も引っ張って男の方に突進し、相手の首に鎖をひっかけ、ひきたおし、首の骨を折って息の根を止めた。
 壁にもたれるようにして、二人は振り向き、あらたな敵を目でさがした。
 だが、アリーナの中に残っているのは、もはや、彼らと同じ、白や水色のチュニックを着た奴隷たちばかり。奇妙な姿の戦士たちは一人残らず倒されて、闘技場の砂を血で染めている。
 客席の喝采の中、ソシアが肩で息をきらせながら、長い髪を振り乱して、こちらに向かって笑うのが見えた。ガルスがアジズと助け合いながら、よろよろと歩いて来る。ハヴィルは勝ち誇った挑戦的なまなざしで、片目のパスコウとともに高く手を上げて、人々の歓呼に応えていた。
 だが、ケマルの姿はない。見渡してみても、どこに倒れているかもわからない。見るかげもなく砕かれたり、つぶされたりしている死体の中の、どれかであることはまちがいなかった。ピュロスが頭を粉々にされて横たわっている、入ってきたと同じ入口の扉の方へと、アリーナを横切って戻って行く時、イスパニアとジュバは、牛の頭をかぶってミノタウロスのかっこうをさせられた戦士と重なり合うようにして倒れて死んでいるクレオンを見た。つながれていた相手が切り離したのだろう、砂の上に投げ出されているその片腕の、手首から先はなかった。

(12)
 ジュバたちの戦いぶりに満足したのか、プロキシモはきげんがよく、その日の夕食にはワインまでふるまった。日が沈んでもあたりはまだ明るく、生き延びた安堵感と戦った興奮とがさめやらぬまま、皆はどことなくざわめきながら、中庭でしゃべりあっていた。
 「おれや、おまえが生き残るとは、プロキシモは思ってなかったろうな」とアジズがパスコウに言っていた。パスコウは片方だけの目をきらめかせて、「ハヴィルが生き残れたのは、おれとつながれてたせいさ」と冗談を言って皆を笑わせた。「じゃ、ジュバが生き残ったのも、イスパニアといっしょだったからかい」と誰かがからかい返して皆がまた笑い、ジュバは、乱戦で他人の戦いまで見ている余裕がなかったせいもあって、誰もがまだ、イスパニアの実力に気づいていないのを知った。「やつはどこだい?」とガルスが言った。「ジュバ、連れて来いよ」
 ジュバはうなずき、イスパニアをさがしに行った。
 まだ薄明るい部屋の中で、イスパニアはいつものように寝台の上に膝を抱えて座っており、クレオンが壁に書いたあの文字の列をじっとながめていた。
 「外に来ないか?」ジュバはイスパニアの隣に腰を下ろしながら言った。「ワインもまだ残ってる」
 イスパニアは壁を見たまま首を振った。哀しそうな目の淋しげな横顔は、どこやら女のような繊細ささえ漂わせていて、闘技場でのあの荒々しい戦い振りをうかがわせるものは何ひとつなかった。
 「強いんだな」ジュバは言った。「驚いた」
 するとイスパニアは初めてジュバを見たが、あいかわらずどこかとがった目の色だった。「おれが戦ったのは」と、彼は言った。「おまえに迷惑なんか、かけたくなかったからだ」
 ジュバはあきれて見返した。「それで戦ったのか?おれに腹を立てていて?」
 「うん」イスパニアは意地っ張りな口調で言って、すぐ目をそらした。
 しばらくその横顔を見ていて、ジュバは微笑した。嘘つきめが。最初から戦う気でいたくせに。それを認めるのがいやなのと、ドルススたちのことでまだおれに怒っているので、こんな言い方をしているのだ。しかも、おれと目をあわせるとごまかせないと思って、壁の文字の方ばかり見ている。
 「クレオンの詩だな?」ジュバは言った。
 「うん」イスパニアはジュバが話題をかえたので、ほっとしたようだ。うっかり微笑みかけて、あわててまた不機嫌な顔に戻った。ジュバは見逃すことにして「読んでくれないか?」と頼んだ。「その詩を」
 イスパニアは小さい声でつぶやくように読んだ。「蜜蜂の羽音は甘き眠りを歌う…大理石の上に紫の影が落ちて、かの人の黒髪は私の膝をおおう…」
 ぼんやりと声がとぎれて、また続いた。
 「遠き太鼓の響きに似て雨は木々の葉を鳴らす。走り去る鹿のように時が木の間を抜けてゆく…収穫の時は刻々と近づく…たわわに実る小麦の中で私の頬にふれる指」彼は突然またことばを切った。そのまま長いこと、黙っていた。
 ジュバは壁の文字をながめた。「きれいだな。蜜蜂の羽音は甘き眠りを歌う…か。やつの…クレオンの故郷はそんな風だったのかな。黒い髪の女が今でも、あいつのことを待っているのか」
 「うん」イスパニアは何か他のことに気をとられているような生返事をした。「うん、そうだな…」
 「遠き太鼓の響きに似て雨が木々の葉を鳴らす…いや、雨は木々の葉を鳴らす、だった」
 イスパニアは驚いたようにジュバを見た。「覚えたのか?」
 「おれたちの部族は文字がない。だから何でも暗記する」
 イスパニアは「すごいな」と口の中でつぶやき、また何か考えていた。「すごいな。文字がないからって、馬鹿にできないな」
 「文字も面白そうだ」ジュバは笑った。「おれの名を文字で書くとどうなる?どんなかたちだ?」
 イスパニアはまた微笑んだ。あたりを見回し、床に落ちていた炭のかけらを拾うと、寝台の板の上にていねいにいくつかの文字を書いた。
 「ふうん」ジュバは見下ろした。「めんどりが柵に飛び上がって、飛び下りようとしてるみたいなかたちだな」
 珍しく、というより初めて、イスパニアが小さく声をたてて笑った。「ほんとだ。そんなかたちだな」
 「おまえの名はどうなる?」ジュバは聞いた。「書いてみてくれ」
 イスパニアは笑ってうなずき、炭を持ち直すとさらさらとまた書いた。そして不思議そうにそれを見下ろした。次第に何かに脅えたような表情になり、しきりに何度も目ばたきした。
 「これをイスパニアって読むのか?」
 長いひとつらなりの文字を見下ろしながらジュバが聞くと、イスパニアはかすかに顔をゆがめるようにして首を振りながら、手にしていた炭を振り捨てるように、わきに放った。
 「おまえの名じゃないのか?」
 「ちがう…」
 「じゃ、誰の名だ?」
 「知らない…」
 何かに必死で抵抗しているような声だった。ジュバはイスパニアの顔を見た。
 「読んでみてくれるか?」
 イスパニアは小声で読んだ。「マキシマス・デシマス・メレディウス…」
 「おまえの名じゃないのか?」
 「知らない…」
 「おまえが書いたんだぞ。名を書けと言ったら」
 「でも、聞いても何の覚えもない。何も思い浮かばない…」
 ジュバはイスパニアの顔を見た。今度は本当らしかった。ジュバはそっと呼んでみた。「マキシマス?」もう一度呼んだ。「…マキシマス?」
 イスパニアはジュバを見返し、何かを訴えるような目になって、小さく何度も首を振った。「イスパニアと呼んでくれ。ちがう名でなんか呼ばれたくない」
 「おれたちが適当につけた名じゃないか」
 「その名の方がいい」イスパニアは言い張った。「その名で呼ばれたい」
 そして、ジュバが答えずにいると、ほとんど敵意に満ちたしぐさで、荒々しく、自分の書いた名を拳でこすって消しはじめた。
 「そんなことしたって無駄だ」おだやかにジュバは教えた。「おれはもう覚えた」
 イスパニアは手をとめ、怒った、途方にくれた目でジュバをにらみつけた。「こんなのは、おれの名じゃない!だっておれは」彼は歯をくいしばっていた。「こんなおれ、知らない」
 「本当か?」ジュバはやさしく聞いた。「だんだん、いろいろ、思い出してきてるんだろう?かくしてたって、わかる」
 「忘れてた時に、おまえたちと知り合った。だから、そのままでいたい」イスパニアは言い張った。「思い出したら、ちがう人間になって、ここにいられなくなる。おまえたちと別れなきゃならなくなる」
 ジュバはあきれた。「ここにいられなくなる?ここがそんなに、いいところか?」
 「おまえたちといたい」イスパニアはつばをのみこんだ。「どこにも行きたくない。おまえやハヴィルや、皆といっしょにいたい。今の自分以外になりたくない。このままでいたい。どこにも行きたくない」
 あっけにとられてイスパニアを見つめ返しながら、初めてジュバは気がついていた。こいつは、おれたちと離れたくなかったのだ。だから、昔を思い出させようとすると怒っていたのだ。それほど昔に戻りたくないのか。思い出したら耐えられなくなる恐ろしい、悲しいことがあると、うすうす自分で気づいているのか。こんな毎日でも、その方がまだましと思えるほどに。
 ああ、でもそれなら。昔を忘れておれたちといたいだけなら、何もこんなところでなくても。
 ジュバはイスパニアを見つめたまま、とらえられてから一度も、決して考えないようにしていた一言を思った。
 いつか、森に帰れたら。
 こいつを連れて行けたら。
 あの緑の茂りあう森の奥で、雨の音、鳥の声を聞きながら、二人でいっしょに狩りができたら。
 昔のことは忘れたまま、村でこいつが新しい暮らしを始められたら。
 ハヴィルもガルスもアジズもパスコウも、皆いっしょに。
 顔色ひとつ変えぬまま、ジュバは静かにその幻を頭から消した。
 もう、それはあり得ない。
 永遠に。絶対に。
 ジュバはうなずいた。「わかった。もういい」
 ジュバが手のひらでイスパニアの書いた名前を消すのを、イスパニアはほっとしたような目で見ていた。字が消えてしまってからも安心できないらしく、なかば無意識のように身体をかがめて床の上の砂をつかんではその上にかけて、こすって、あとかたもなくしようとしていた。
 だがジュバは、その時、心の中で痛切に感じていた。
 だめだろう。こいつはきっとその内に、どこかに行くにちがいない。こいつ自身がどんなにいやがり抵抗しても、こいつの過去とこの名前は、きっとこいつを追いかけて来る。

 (第二章 辺境・・・・・終)



第三章・死者たち

(1)
 「ほんとは、いつだったんだ?」ジュバが聞いた。
 イスパニアは首をかしげてジュバを見た。
 「戦う気になった時だ」
 まだ砂をすくって自分の名を消した跡にかけながら、イスパニアははっきりと顔をしかめて返事をしぶった。
 「戦う気になったというより」ようやく彼は言った。「変に、いらいらしたんだ。あそこで、あの地下で、プロキシモの言ってることを聞いてると」
 「どんな風に?」
 イスパニアは考え込んだ。「昔、自分もあんなことを人にしゃべっていたような気がして」
 「あんなこと?」
 「いさぎよく死んで来いとか、栄光は永遠だとか」言いながらイスパニアは明らかに不愉快そうに小さくいらいらと身体を動かした。
 「誰に?」
 「兵士たちにだったと思う」
 「ドルススみたいな?」
 「もっと年上の連中だったかもしれない」どっちでもいいというように、イスパニアは大きく息を吸った。「それで何だか、聞いてると落ち着かなくてすごく不愉快になった」彼は小声でつぶやくように、つけ加えた。「あんなこと皆、嘘だと思って」
 「何が?」
 「死に方なんか選べないし、それぞれにふさわしい死に方なんかない。それで…」イスパニアはことばを切った。「誰かを殺さないといけないような気がしたんだ」
 言いながら自分でも、理屈が通らないと思ったのか、目に見えてイスパニアはまたいらいらしはじめた。しっかり説明できないのがじれったいらしく、くやしそうに肩をゆすり、目を閉じては、ことばを探している。落ち着かせようとジュバは手をのばし、イスパニアの膝にのせた。「自分らしくない…自分にふさわしくない死に方をしたやつがいるのか、誰か?」
 イスパニアはうなずいた。
 「だから誰かを殺さなきゃいけないんだな?」
 「そんな気がした。だから死ねないと思った…」イスパニアは何かを見つけようとするかのように、天井や壁の方にそわそわと目を走らせていた。「憎まなきゃならないやつがいて…だから…」
 それも変な言い方だなとジュバは思った。
 「憎まなきゃならない?憎んでないのか?」
 「ジュバ、おれは…おれって生まれつきバカだから…」
 こいつの話の突然の展開について行くのは相当骨が折れるとジュバは思った。きっとすごく頭がいいのだとも思った。村で一番尊敬されていた予言者もこうだった。口に出す前にいろいろなことを考えている。だから、人にわかるようにそれをまとめない内に話し出すと、一見こんな風にひどくとりとめのない話し方になるのだ。ジュバは軽くイスパニアの膝をたたいた。「うん?」
 「おれは、自信がないんだ。憎み合うのじゃ、絶対、負ける。だから、憎まなきゃならない相手とは戦いたくない。だから思い出したくないんだ。だから、思い出せないのかもしれない。でも、おれ…昔からバカで、いつも遅れをとるから」
 もう少し落ち着くまで話をいったんやめさせた方がいいのかなとも思ったが、話させてしまった方がいいような気もした。ジュバは静かにイスパニアの肩に手をかけ、こりこりとひきしまった厚い筋肉を腕の方へとなで下ろした。「何に遅れをとる?」と穏やかに聞いた。
 「憎むのに」
 「憎むのに、遅れをとる?」
 イスパニアはうなずいた。「おれも、気をつけているつもりなんだけど、いつも、先を越されてしまうんだ。気がつくと憎まれている。おれが気づかない内に、向こうの方が長いこと、ずっとおれを憎みつづけている。そして、そんな、憎まれるようなひどいことを、自分がしていたのにも、おれは気づかない」イスパニアの息が乱れ、ジュバの手の下で、その肩は細かく震えはじめていた。「おれって、ほんとに、すごくバカで…生まれつき鈍いから、わからないんだ、自分が人に、何してるのか…ほんとに、ひどいことが起こるまでわからない」ジュバが何度も肩をなでてやっていると、イスパニアの息づかいは少しづつゆるやかになり、震えも次第におさまってきた。「だから、おれは相手と憎み合うような、そんな戦いは得意じゃない。勝てる自信も全然ない。だから、このまま死にたかった。そんなことしなきゃならないことなんか思い出すぐらいなら…」
 「なあ」ジュバは、そっとイスパニアをゆすった。「言いたくなけりゃいいんだが、どんなひどいことがあったんだ?」
 イスパニアは目がさめたように、当惑したようにジュバを見返した。それでジュバにはわかった。こいつは細かいことや具体的なことは、まだ思い出していない。ただ何となく、いろんなことが一つになって、そういうことのすべての原因となった何かにおびえている。その何かが、自分自身の中にあったのではないかと思って、気が狂うほど恐がっているのだ。ジュバはまた静かにイスパニアをゆすり、歌うようにゆっくりと言った。「おまえが悪いんじゃない」
 イスパニアは不安そうにジュバを見た。「本当にそう思うのか?」彼は聞き返した。「どうしてわかる?」
 「おまえを見ていたらわかる」ジュバは答えた。「憎むやつには憎ませておけ。だが、気にしてはいけない。それは、おまえのせいじゃない」彼はイスパニアの目をのぞきこんで、繰り返した。「おまえが悪いんじゃない。だから、おまえは気にしなくていい」
 イスパニアはまだ不安そうで、もどかしそうに何か言おうとした。
 その時、中庭の方で、どよめきが起こった。イスパニアは気がかりそうに頭を上げ、耳をすませて腰を浮かせた。そして、もう一度ざわめきが高まると、無言で寝台をすべり下り、早足で戸口に向かった。うながすようにちらりとジュバを見ながら。
 それまでにも似たようなざわめきは何度も起こっていた。だがイスパニアはまったく気にする様子がなかった。明らかに今聞こえてきたどよめきの中には、彼の気になる何かがあったのだ。それはまるで、森の獣がさまざまな物音の中から、危険なものだけを聞き分けてすばやく反応するようだったし、人々の集団の動向に気を配り、察知し予測して行動するのになれきっている人間にしかできない行動でもあった。

(2)
 中庭はもう暗い。たき火の色が赤かった。次第に人だかりがしている中に、ドルススが立っている。たき火のそばに座っている数人の男とにらみあっていた。ゲルマニアから来た赤毛のヘルマンと、背の高いシギスムントの顔が、火花を散らして燃え上がる炎の明かりにくっきりと浮かびあがって見える。
 「ローマはくそだめだ」ヘルマンが酔っているのか、陽気な浮かれた声で言った。「何度でも言ってやる。ローマはくそだめ、ローマ人はくずさ」
 笑い声があちこちで起こった。何人かが拍手をした。アリウスがドルススをひっぱって下がらせようとしたが、ドルススはこわばった顔のまま、友人を後ろにつきのけた。「何のつもりだ、その冗談は?」
 「冗談は、ただの冗談さ。おまえも笑えよ」シギスムントが、じっとドルススに目をすえたまま言った。「皆、先は短い。ここは地獄の一歩手前だ。何を言うのも自由なんだよ」
 「おまえたちのような野蛮人に、ローマの悪口は言わせない」ドルススは低く応じた。「ここがどこだろうと関係ない。そんな冗談は言わせない」
 シギスムントとヘルマンは肩をぶつけあって哄笑した。「聞いたか?」シギスムントが念を押した。「野蛮人だとよ」
 「聞いたさ」ヘルマンも繰り返した。「冗談は許さないとよ。野獣のように森をうろつくおれたちに、気高いローマのことなんか、口にしてほしくはないとよ」
 「豚同然に泥の中で眠るおれたちに、ローマの偉大さはわからんのだとよ」シギスムントは楽しげに言った。「吹きさらしの小屋で、臭い毛皮にくるまってな、飢えて死にかけてる哀れな蛮族に、ローマのありがたい心なんぞわかりっこないとよ」
 「そんな暮らしを変えたくはないのか」ドルススははりつめた声で言い返した。「おまえたちがローマの支配をうけいれれば、状況は変わるんだぞ。ローマの繁栄も豊かさも、おまえたちには想像もできないんだろうが、あんな荒れ果てた土地にいたのでは…」
 「緑の美しい野原だった」シギスムントが微笑を浮かべて訂正した。「ローマ兵が踏み荒すまでは」
 「おれたちの暮らしは豊かで幸福だった」ヘルマンもくすくす笑った。「おまえたちに、生まれ育った土地を追われるまでは」
 「獣の豊かさ、豚の幸福ってやつだな」ドルススは肩をゆすって、そう言い捨てた。「狭い世界に閉じこもり、そこで腐って、朽ち果てて行くんだ。哀れな自分たちの暮らしが最高と思いながら。気の毒なもんだよ」彼はそのまま、引き下がろうとして、あとずさった。
 薄笑いを浮かべたまま、シギスムントがゆらりと立った。「待てよ、若僧」彼は間延びしたと言っていいほど、ゆったりとした、どこか眠そうな声で言った。「おまえと、おれと、見ていないものはどちらが多い?知らないことはどちらが多い?おまえが知っていることは、どれだけある?おまえは、ことばをしゃべりちらした。それなら、おれのことばも聞け。おれの見たもの、感じたことを理解できるかやってみろ」
 足をとめ、見返したドルススをじっと見ながらシギスムントは続けた。
 「家の裏に井戸があったのさ。おれの家の裏に。ローマ軍が村に来た時、おれは妻子をそこに隠した。妻と三人の子だ。金色の髪で青い目の娘は二つになったばかりだった。その上の男の子は身体が弱く、妻の心配の種だった。長男は七つだった。ちびだが、しっかり者で、おれに一番似ていると言って妻はいつもかわいがるので、おれは甘やかしすぎると言ってよく怒った」
 ざわめきは次第に静まりはじめていた。たき火の回りでは、重い沈黙が闇のようにあたりを包んでいる。シギスムントの声だけが響いた。
 「隠し通せると思ったが、ローマ兵たちはそれを見つけた。上がって来るよう言われたが、妻は拒んだ。そしてローマをののしった。少し前に、年取った母親と父親を、ローマ軍に殺されたばかりだったからな。それを聞いた士官は、兵士たちに命じて、木や石を次々に井戸に投げ込み、あげくに火をつけた。井戸から煙と炎とが吹き出した。子どもたちの悲鳴もな。その夜、ローマ軍はその村で、勝利の酒盛りをした。井戸のそばにつながれていたおれは、夜中すぎ、井戸の中から一番身体が弱かった次男がおれを呼ぶ声を聞いたのさ。なぜ、生き残ったのかわからない。妻が必死でかばったのかもしれない。だが、どうせ死にかけていた。息もたえだえに熱いと言い、寒いと言い、痛いと言い、恐いと言い、淋しいと言って泣いた。おれは返事ができなかった。ローマ兵に気づかれたら、この上何をされるかわからない。声は次第に弱くなり細くなった。明け方に永遠にとだえた」
 シギスムントはゆっくりと、白い歯を見せて笑った。
 「珍しい話じゃないぜ?ヘルマンの村は丸ごと焼かれて消えた。奴隷にされたヘルマンが脱走して逃げ帰って、ようやく家族を見つけた時、子ども二人をかかえて、飢えと寒さをしのいでさまよい歩いていた妻は、もう骨と皮で、虫の息だった。狼に襲われて食われた末の子の死骸をまだ腕に抱いてたそうだ。だが、そんな家族に食わせるものも何一つ見つけられなかった。荒れ果てて、焼け野が原になった故郷で、そのあとの数日の間に妻子はつぎつぎとヘルマンの腕の中で死んだ。ローマのもたらしたもの。おまえたちの輝ける文化。もう一度、語れよ。それについて。もう一度、聞かせてくれ。なあ、若いの」
 「負けたのだからしかたがない」ドルススは低く、言い返した。
 「何だと?よく聞こえなかった」
 「負けたのが悪いんだ!」ドルススは叫んだ。「泣き言だ、おまえの言うのは。愛する者を守れなかった負け犬の泣き言だ。弱かったのがいけない。あきらめるしかないだろう?」
 シギスムントはまた笑った。そして、立ち去ろうとするかのように、半身回した次の瞬間、ドルススに躍りかかった。若者があおむけに倒れ、その上におおいかぶさったシギスムントはすぐ起き直る。ドルススの喉から血のしたたる短剣を引き抜きながら、息ひとつ彼ははずませていなかった。
 「行こうぜ」ヘルマンをあごでうながすと、彼は歩き出した。
 「待て!」凍りついたように見守っていた皆の中から、アリウスが絶叫して走り出し、後を追った。「人殺し!待て!」
 ガルスとアジズが引き止める。シギスムントは立ち止まって振り向き、腰をかがめて優雅に一礼した。
 「弱かったのがいけない」彼はわざとらしくていねいな口調でゆっくりそう言うと、ヘルマンと肩をたたきあって大声で笑いながら、闇の中へと消えて行った。

(3)
 ジュバは、イスパニアを振り向いた。
 静かな、澄んだ目でイスパニアは、シギスムントたちが立ち去った闇のかなたをながめていた。
 何か思い出したか、とジュバはもう聞かなかった。
 あきらめと悲しみ、そして力強さに満ちた…それはもう完全に、すべてを思い出した目だったから。

(4)
 「シギスムントもヘルマンも、危険なやつだ」アジズが言った。
 「ああ。ドルススを殺そうと最初から計画してたんだ」ソシアも言った。
 「花形剣闘士になりそうなやつだったし、シギスムントたちを馬鹿にしてたし、目障りで、邪魔だったのさ」
 「でも、あの話は本当かな?」パスコウが言った。「井戸の話だ」
 「本当だろうさ」ハヴィルが笑った。「あんな話は珍しくもない。消えた村の村人の数だけ、いや、もっとある」
 「じゃ、なぜとめなかったんだ?」イスパニアがとがめるようにハヴィルを見た。「おまえなら、とめられたんじゃないのか?」
 ハヴィルは笑ってイスパニアの背をたたいた。「おれを全能の神と思ってくれちゃ困る。あんな話が始まっちゃ、誰にだってもう手は出せん」
 「だいたい、きっかけは何だったんだ?」ソシアが聞いた。「おれが気づいた時はもう、話は盛り上がってたが」
 建物の外側の壁につけられた日除けの下で、彼らは座って話していた。アジズはそろそろ訓練を再開したそうに、手の中の木剣を回していた。
 「ドルススが、つっかかったんだよ」パスコウが言った。「あいつ、あの晩は妙にいらだっていたな」
 「前の晩、プロキシモに客をとらされたんだ。それでさ」ガルスが言った。「ローマ軍人としての誇りがずたずたになったんだろうよ。それで、荒れてたんだ。プロキシモとしちゃ、あいつが生意気で手におえないから、少しはおとなしくなると思ってしたことだろうがな。裏目に出たってわけさ」
 「それじゃ、ティトゥスだって危ないぞ」アジズが心配した。「サルディニアから来た、あの金髪の若いやつだ。プロキシモにけっこうたてついてるし、その内どこかの金持ちの夜伽の相手に売られるかもしれん」
 ジュバは吐息をついた。「何事もやっかいだな」
 「まったくだ」パスコウがうなずく。
 ハヴィルとイスパニアは黙ったまま、それぞれに何か考えているようだった。

(5)
 そのまた数日後。中庭でハヴィルとジュバが鉄球の扱い方を練習しているところへ、ガルスが走って来た。
 「ちょっと来てくれ」
 「何だ?」ハヴィルは鉄球を地面に投げ出しながら、荒い息をしていた。
 「奥庭で、イスパニアがシギスムントたちと…」
 皆まで聞かずにハヴィルは地面の上の鉄球をとびこえて、早足で歩き出し、ジュバも続いた。
 「それであいつ、何やってるんだ?」歩きながらハヴィルが聞く。
 「知らん」ガルスは息を切らせた。「近づいて行くのが見えたから、危ないと思って…」
 「あいつの恐いのは、何を考えてるか、次に何をするのか誰にもわからないことだな」ハヴィルは首を振り、小走りになった。「あっちか?」
 「こっちだ」ガルスは二人を、ライオンたちが寝そべっている檻の向う側へ連れて行った。
 そこの涼しい風の通る木陰で、ヘルマンとシギスムントが他の数人と椅子に腰を下ろして、前に立っているイスパニアを見上げていた。
 「さっさと言えよ、言いたいことがあるんなら」ヘルマンが、近づいてくるジュバたちの方をちらと見ながら言った。「いったい何だ、話ってのは?」
 用心しているな、とジュバは思った。イスパニアの強さはこのごろ町でも、この訓練所でもかなり話題になっている。プロキシモは専用の鎧や剣をイスパニアに与えて、古参の剣闘士なみに大切にしはじめていた。それはハヴィルも同様だ。というよりもハヴィルの方はすでに古参の剣闘士たちからも一目おかれて、皆のまとめ役になりはじめていた。プロキシモを怒らせたり、きげんをとったりしながら、上手に皆の食物の量を増やさせたり、武器のよいのを支給させたりするのが、ハヴィルは実に巧みだった。
 それに比べるとイスパニアは目立たないし、おとなしい。だがその分、得体が知れない感じもするのか、古参剣闘士たちもどことなく彼に遠慮しはじめている風情があった。
 イスパニアは困ったように目を伏せていた。「アリウスのことなんだが」と彼は言い、目を上げて念を押した。「あの、ローマ兵だった若い…」
 「知ってるよ」シギスムントがそっぽを向いて、ぺっとつばを吐いた。
 「あほうのドルススの片割れだろ」ヘルマンがイスパニアに油断なく目をすえたまま、せせら笑う。
 イスパニアはうなずいた。「そうだ。それで、彼がもし、またドルススみたいなことを、おまえたちに言っても…ローマや、おまえたちの国のことで何を言っても、手を出さないで…殺さないでほしいんだ」

(6)
 ゆっくりと座り直して、シギスムントがイスパニアをじっと見た。
 「それを、約束してほしくて」イスパニアの声は低かった。
 ヘルマンが肩をすくめて顔をそむけた。
 「彼がしたことや言ったことで、腹が立ったり、許せないと思ったりしたら、それはおれに…」イスパニアはためらった。「おれに怒ってくれないか?」
 シギスムントたちは顔を見合わせた。
 「ドルススや、アリウスは、ただの若い兵士だ。仮にひどいことをしたとしても、命令に従ったにすぎない。わけもわからず、やってただけだ。私はちがう。命令を下していた。私はローマ軍の将軍だった…北方軍団を指揮してた」
 ヘルマンとシギスムントが同時に目を上げ、まじまじとイスパニアを見つめた。
 「おまえたちの村のこと、家族のことで腹が立つなら…」イスパニアの声は、おぼつかなくゆれたが、ことばははっきりしていた。「それは私の出した命令だから…村を滅ぼせとか、井戸をつぶせとか、私は何度も命じたから…だから…私に…私を…」
 声がとぎれとぎれになり、とうとう途絶えた。
 シギスムントは鋭い目で、イスパニアの目を伏せた顔と、両脇にたらした手をこぶしに握ったりゆるめたりしながら、かすかに息をはずませているように見える全身を、どうしようかと獲物でも見るようにしばらくながめ回していたが、やがてふっと顔をそむけた。
 「…おまえだって、仕事だったんだろうが?」気まずそうに彼は言った。「もう行けよ。顔なんか見たくないから」
 イスパニアは動かなかった。
 「アリウスに」顔を少し上げたが、目は伏せたまま、小声で彼は繰り返した。「手を出さないと、約束してくれるか?彼がおまえたちの家族や村のことで何を言っても…それは私のせいだから」
 「ああ」シギスムントは口の中で言った。
 イスパニアはヘルマンを見た。
 「わかったよ」ヘルマンも顔をそむけながら、うなずいた。「とっとと行っちまえ」
 黙って小さく頭を下げるとイスパニアはあとずさった。そして振り向き、戻って来ようとしてジュバたちに気づき、とまどったように立ち止まった。
 「バカ!」ガルスが歩み寄ってイスパニアの腕をつかんだ。「何てことするんだ…早く来い!」
 昼寝から起きたライオンたちが黄色い目でにらんでいる檻の前を、彼らは無言で通り過ぎて中庭に戻った。
 「イスパニアちゃんよ」ハヴィルが突然立ち止まり、顔をのけぞらせてからからと笑った。「おれがこの世で恐いのは、おまえだけだぜ。本当に何であんなことが思いつけるんだ?」
 「だってこのままでは」イスパニアは笑われたのがやや心外そうにハヴィルを見た。「アリウスはきっと殺される。そう思ったから」
 「だからって、あんなことを」ガルスはまだ脅えたように首を振っている。「第一、おまえは、井戸にいる女子どもを殺せとか、子どもたちを飢え死にさせろなんて命令を下してはいないだろ?」
 「戦いで起こることは皆、指揮官の責任だよ」イスパニアはつぶやいた。「それに…」
 「何だ?」
 「ローマのことも、まかされたから」
 「ローマのこと?誰から?」
 「亡くなった先皇帝に」イスパニアは地面を見たまま、低く言った。「この国をたのむと言われた。ご自分の死後」
 「おまえがか?」
 イスパニアはうなずいた。

(7)
 ガルスは両手でイスパニアの頭をはさんで軽くゆさぶった。「おまえまだ、熱がひいてないな?」
 「よせ」ハヴィルが静かにとめた。「なるほどな。それで、つじつまがあう。息子の皇太子は、そんなことをおまえに言った父親に怒って殺し、新皇帝におさまった。そして、おまえも家族ぐるみ殺そうとしたってわけだ」
 「おいおい」ガルスは首を振った。「あんたまで何だ?こいつのこんな与太話を。つじつまがあう?狂人の話ってのはな、いつも妙にしっかりとつじつまだけはあうんだぜ」
 「おまえはそれで」ハヴィルはガルスを無視して、イスパニアをじっと見た。「ローマのことについては全部、自分が責任があると思ったわけか」
 「何もできないから…」つぶやくようにイスパニアは言った。「ここでは何もできることはない。だからせめて、これくらいなら」
 「これくらい?充分すぎるぞ」ガルスがせせら笑った。「おまえがさっきやったようなことをやる勇気のある皇帝なんて、どこにもいないだろう」
 「勇気があるかどうかはともかく」イスパニアの声はますます低くなっていた。「おれだってこんなこと、昔だったら絶対しない。ドルススやアリウスと、そんなにちがった考え方はしなかった。テントで士官たちと何度も夜遅くまで会議をして、砦を落とせ、村を滅ぼせ、森を焼け、井戸をつぶせ、糧食を断て、と命令した。男たちを捕虜にして何百人もローマに送った。殺さないだけましだと思ってた。報告を受けて、女や子どもや老人がまきぞえをくって死んだと聞いても、心は痛んだし不快だったが、それだけだった。しかたがないと思っていた。シギスムントのあの話を聞いたって、同情はしただろうが、きっと、それだけだったろう…」
 雨が、ぱらぱらと落ちて来て、乾いた白い砂の上にいくつも黒いしみを作った。
 「でも…」イスパニアは口ごもった。「でも」
 空がみるみる暗くなった。どこかで遠く雷鳴が轟く。ハヴィルがジュバの背をたたき、一同は建物の方に向かって走り出した。

(8)
 雨はますます激しくなり、中庭に白い水煙を上げた。建物の軒下の石のベンチに並んで座って、ジュバたちはそれを見ていた。水の匂いがたちこめて、ジュバは故郷の森の中の滝を思い出した。
 ガルスがうながすようにイスパニアを見た。「それで?」
 「え?」
 「何か言おうとしてたろう?シギスムントの話を聞いても同情はしただろうけど、それだけだったろうって、でも…?」
 イスパニアは聞こえなかったように黙って雨を見ていた。そしてガルスがまた何か言いかけた時、ふっと身体を前に倒すくつろいだ姿勢になって、肘を膝について、肩の力を抜いた。
 「おれの妻が妊娠してた時さ」彼は明るい、柔らかな声で、ゆっくりと思い出すようにしゃべった。「作男の一人がおれに言った。だんな、あんまりそわそわしない方がいいですぜ。おれにも覚えがあるからわかるが、よそ目から見たら、こっけいなもんでさ、って」
 ガルスとジュバはちょっとイスパニアを見つめた。ハヴィルは雨をながめたままだ。
 「その作男の話だと」イスパニアは続けた。「一年ほど前に、彼に子どもが生まれた。初めての子で、彼は夢中で妻につききりで大騒ぎして心配して、神々に祈り、誓いをたて、やっと無事に赤ん坊が生まれた時は、妻よりも彼の方がやつれていたと言う。本人が言うんだからな、ほんとかどうかはわからないが」
 ジュバは思わず笑った。「それで?」
 「それでとにかく彼は、誰かにそれを知らせたくて、友人の鍛冶屋か誰かの家に行った。ところが、そこの奥さんもちょうど赤ん坊が生まれるところだった。しかもそこは三人目か四人目の子どもで、夫も子どもたちも奥さん本人も、まるでふだんと変わったところがない。夫はいつものように仕事をし、奥さんはけんかをして泣く子どもたちを叱りつけながら、肩で息して料理を作っていて、ちょっと失礼と言って奥に入って行ったと思ったら、もう子どもを生んでしまったそうだ。そして、自分で産湯をつかわせ、抱いて出て来て乳を飲ませはじめた。夫は仕事の手もとめず、それを横目で見て、また男の子かとか言って、それから彼に向かって、何の用事で来たのか聞いたけれど、彼は答えられなくて、そのまま帰ってきてしまったらしい」
 「作男の話なのか?」ガルスが疑わしげに言った。「おまえのことじゃあるまいな」
 「ちがうよ」イスパニアはまじめに首を振った。「おれは聞いてて笑い転げ、作男は言ったよ。笑いごとじゃありませんぜ、だんな。おれはあんなに恥ずかしかったことはない。おれにとっては生きるか死ぬか、五体ばらばらになるほど深刻だったことが、誰にでもある、どこにでもある、ありふれたことで、騒ぎ立てることでも何でもないって、思い知らされたんだから…って」

(9)
 ハヴィルが前を見たまま聞いた。「おまえは何と言ったんだ?」
 「他人は他人だ。他人がどうでも、おまえにとっては、それは大変なことだったんだから、それはそれでもいいんんじゃないのか、恥ずかしがることなんかじゃないだろう…そう言ってやった。でも、彼はしきりに首を振って、だんなにはわからねえ、そんなもんじゃねえ、と繰り返した。それが世間にありふれた、騒ぐようなことじゃねえと、思い知らされてしまったら、もう二度と前と同じようにはそのことを考えられないってことが、人間にはあるんですぜ、って。おれは自分がその話をどれだけ気にしたのか、実際に妻に子どもが生まれる時、それを思い出して冷静だったかどうか、それは今よく覚えてない。でも、今、その男の話を思い出すのは…」
 ハヴィルが低く、厳しくさえぎった。「もういい」
 「自分では絶対の悲しみ、絶対の悲劇と思っていても、それは世間にいくらでもあること、誰にでも起こることで…」
 「言いたければ言ってもいいが」ひとり言のようにハヴィルが続けた。「苦しくなるだけだぞ」
 雨の音の中でも、イスパニアの声は静かに澄んで、よくとおった。「それどころか、そんな苦しみを自分が他人に与えていて…」
 「やめろよ」今度はガルスが言った。「おまえ、何考えてるんだ?そんなこと考えて何になるんだ?」
 「考えたくない。でも考えてしまう」イスパニアは雨を見つめたまま言った。どこかひとごとのように、穏やかに。苦痛の極限に達してもうそれを感じなくなった人のような、奇妙に抑揚のない声だった。
 「妻と子の死体を見た時、何度も何度も考えて恐れていたこと、そんなことが本当にあったら絶対に耐えられないと思ったことが、本当に目の前に起こっていて、自分がその苦しみの中に実際にいるのが、信じられなかった。それでも生きているのが。耐えているのが。でも、その時、何となく、心のどこかで、今感じている以上に激しい苦しみや悲しみは絶対、この世にはないと思って、安心というのじゃないが、どこかで安らかだった気もする。もう、これ以上のひどいことなんか、絶対に自分の上には起こらない。これ以上のことなんか、絶対、感じることはない。そう思った。でも、今思うと、あの時のおれは幸福だった。心おきなく、悲しみにひたれた。いくらでも、自分を哀れんで泣けた。妻と子を哀れんで、泣いてやれた。本当に、何て幸福だったんだろう…」

(10)
 雨の音が続いている。
 「イスパニア」ハヴィルが突然言った。「生きたければ、憎め」
 ふだんと違う、暗くすさんだ声だった。ガルスが身じろぎし、不安そうに彼を見た。
 「そんな資格もそんな権利もおれにはない」イスパニアは低く言った。「そんなことは、おれには許されない。だっておれは…」
 「シギスムントやヘルマンの家族を死なせたからか。おまえにそんなことをさせたやつは、おまえの家族を殺したやつと同じじゃないのか。今、おれたちをこんな目にあわせてるやつとも同じじゃないのか…ローマだろ?」
 イスパニアはハヴィルを見た。ハヴィルは前を見たままだ。激しい、厳しい、人を寄せつけない表情のまま、彼は続けた。
 「ローマを憎め。この国を。それしかないはずだ。おまえの生きる道は」
 イスパニアは答えない。黙ってハヴィルを見つめている。
 「ちがうのか?」ハヴィルが押し殺した声で、やはり前を見たまま聞いた。
 「ハヴィル…」イスパニアは、張りつめた低い声で呼びかけた。「ローマは、おまえに何をしたんだ?」
 ハヴィルは返事をしなかった。黙って立って、誰の顔も見ないまま、ますます激しくなって行く雨の中へと歩み去った。背の高い、肩幅の広い、大きな影は、あっという間に雨のしぶきの中に消えて見えなくなった。
 立って追おうとしたイスパニアをガルスが肩を押さえて座らせた。彼も顔をそむけて雨の方を見ている。
 「知ってるのか?」イスパニアが聞いた。
 ガルスはうなずいた。「ああ」
 「聞かせろ」低いが否応言わせぬ口調でイスパニアが言った。
 「あいつは仲間とともに、ローマの支配に抗議していた。それで逮捕され、身重だったあいつの妻はローマ兵に犯されて殺された。子どもたちは売られて客をとらされた。娘たちだけじゃない。十四と八つの男の子もだ。娘の一人にだけ、やっとめぐりあえたが、その時娘は狂っていて、記憶を失い、自分の名前もあいつの顔も覚えてなかった。あいつを客とまちがえて、しなを作って誘惑したそうだ。かっとなったあいつは自分で娘の首をしめて殺した」ガルスは首を振った。「その話になると、あいつは狂ったようになる。いつものあいつと思えないほど、残酷になり、我を忘れる」
 雨は降り続いていた。イスパニアはひっそりと何かに耳をすますような表情をしていた。誰かの声が雨の中から聞こえてくるのを聞き取ろうとでもするかのように、黙って雨を見つめていた。

(11)
 「ティトゥスを脱走させようと思う」ハヴィルが言った。
 このごろは灯しておくことが許されるようになった、テーブルの上の小さな灯の回りで、ジュバたちは顔を見合わせた。「パスコウも」とハヴィルは伸び縮みする赤い炎を見ながら落ちついた声で続けた。「昨日の試合じゃアジズがやられたし、これからだんだん戦いが激しくなって来ると、身体の不自由なやつは勝ち残れない」
 「逃げてどこに行ける?」ジュバが聞いた。「回りは砂漠だろう?」
 「隊商の通る道がある」ハヴィルは答えた。「プロキシモがおれたちを脅かしているほどには、町は遠くない」
 「ティトゥスはそんなに危険か?」イスパニアが聞いた。
 「プロキシモはまだ気づいてないが、あいつは剣闘士としての腕はそんなにない」ハヴィルは言った。「それを見抜かれたら、若くてみばがいいだけに、死ぬまで毎日、客をとらされるはめになる」
 「やつが逃げたらプロキシモは怒る」ソシアが言った。「おまえのせいだと見抜いたら、今度はおまえに何をするかわからんぞ」
 「あのじいさんに、おれは殺せん」ハヴィルはうそぶいた。「金のなる木だ。鞭で打たれるの焼き鏝をあてられるの男と寝るの女と寝るのなんぞ、おれは平気さ。実の娘とさえ危うく寝るところだったんだぞ、今更何が恐い?」
 ソシアとイスパニアがため息をついた。「おまえをよそに売り飛ばすかもしれんだろ」ガルスがせきこむように言った。「そうしたら、おれたちはどうなるんだ?」
 「その時はその時だ」
 皆が不安そうにハヴィルを見つめる。イスパニアは黙って顔をそむけた。ハヴィルは笑った。
 「おれがいなくなったって、何とかやっていける」イスパニアを見ながら彼は言った。「怒るなよ」
 「おまえに怒ってるんじゃない」イスパニアはむっつり答えた。
 「じゃ、何に?」ハヴィルはからかう口調になった。「ローマか?そろそろ、そうなってほしいもんだが」
 いらだたしそうにかすかに、イスパニアは笑った。「もう、その話はいいったら」
 「まだ決心がつかないのか?」
 「おまえがいなくなったら」イスパニアは目を伏せて、テーブルの上を手のひらでこすっていた。「おれは何をどう考えていいのかわからなくなる。そのことだけじゃなく、何もかも」
 「おれがいなくなったら?」ハヴィルは面白そうに繰り返した。「おれがいるからじゃないのかい?」
 イスパニアは苦笑した。「いつティトゥスたちを逃がすんだ?」
 ハヴィルは目を細め、軽く唇をとがらせて「チャンスを待つさ」と言った。「多分、すぐ来る」

(12)
 その数日後の夜だった。
 すさまじい誰かの悲鳴が闇を裂き、それに反応したライオンたちが次々にほえた。ジュバたちも飛び起きて、戸口や窓に走り寄った。「おい、ここを開けろ!」と表を走って行く兵士たちに呼びかけたハヴィルは効果がないとわかると体当たりして扉の板を破った。そこから外に走り出した彼らを誰もとめる者はなかった。剣闘士や兵士たちが入り乱れてあちこち走り回り、ライオンたちはまだほえている。その間をぬって、とぎれとぎれにまだ悲鳴は続いていた。
 月もない、暗い夜だ。かがり火の弱い明かりを頼りにジュバたちは、悲鳴の聞こえる、古参剣闘士たちの寝起きしている建物の方へと走った。どこかでプロキシモのどなる声がしている。
 悲鳴が聞こえる建物の扉は大きく開かれていた。飛び込んだジュバたちは石畳の床一面に流れた生ぬるい血の海に足をとられて転びそうになった。血だまりの中に男が倒れてのたうっている。その向こうで、もう一人が喉を切られてあえぐ音が、笛のように響いている。
 イスパニアが血の中にひざまずいて手前の男を助け起こした。それはアリウスで、胸から腹にかけて大きく切り裂かれ、もうどんよりと目は焦点を失っていた。それでもイスパニアがわかったらしい。その顔がうれしそうに笑った。「将軍」と彼はかすれた声で言った。「ドルススの仇はとりました」
 笛の鳴るような音はもうやんでいる。イスパニアもジュバたちも、喉を耳まで切り裂かれて大きく目を見開いたまま倒れているシギスムントの死体の方に目をやった。その血まみれの手の指には、やはり血に染まった短刀が握りしめられていた。アリウスの手に剣はない。夜にまぎれてこの建物にしのびこみ、眠っているシギスムントの喉を切ったものの、瀕死の相手に短刀を奪われ、致命傷を受けたのだろう。
 アリウスの指が、イスパニアの腕を必死につかんでいた。何かまだ言いたそうにしきりに唇を動かすが言葉にならない。その血に汚れた頭をそっと抱き上げ、身体を彼の上にかがめて何か語りかけようとしたイスパニアが、ふと何かを感じたように口を閉じ、顔をあげた。
 シギスムントの死体が、血の海の中からじっとこちらを見ていた。いや、それは死体ではなかった。鋭く光る目がはっきりと動いてイスパニアに注がれている。彼が何を言うか、何をするのか、最後まで見届けようとするかのように。
 イスパニアの目が、自分を見上げつづけるアリウスの顔に落ちた。そして再びシギスムントに向けられた。実際には数秒でしかなかったが、永遠と思われるような沈黙が重く続いた後で、イスパニアは開きかけていた唇を、かすかにわななかせながら閉ざした。
 アリウスの指はなお、彼の腕をつかんでいる。くいいるように強く、すがりついている。だが、それ以上にシギスムントの冷たく厳しい刺すような目は、じっとイスパニアの顔に注がれて、離れなかった。
 あえぐようにわずかに唇を開いて、イスパニアは目をつぶった。何かを決意し、あきらめたように、アリウスに腕をつかまれ、シギスムントに見つめられたまま、彼は動かなかった。微動だにせず、黙っていた。
 まもなく、イスパニアの腕を握りしめたまま、アリウスの呼吸がとまった。それを見届けたのかどうか、シギスムントの目もいっぱいに開いてイスパニアを見つめたまま、いつか光を失って死人のそれに変わった。
 彼らの周囲の人垣は沈黙を守っていた。だが、その更に周囲では、走りよって来る足音はますます多くなり、人声も高まる一方だ。その中でジュバはハヴィルが「パスコウ」と低くささやくのを聞いた。「東の壁へ行け。ティトゥスを連れて。警備が皆こっちに来てる。今ならあそこはがらあきだ。早く行け!」
 パスコウはうなずき、人々の間をすりぬけて、あっという間に姿を消した。
 入れ違いのようにプロキシモが現れた。白い上等の絹の寝間着を汚したくないのか、顔をしかめて血の海からあとずさり、大声で兵士たちに指図して二人の死体を引きずり出させた。兵士たちはほとんど二人がかりでイスパニアの腕をつかんでいるアリウスの指をもぎはなして、イスパニアから引き離した。かっと目を見開いたまま、運ばれて行くシギスムントの死体を見ながら、ヘルマンがイスパニアのそばに来て「やつは約束を守ったんだぜ」と震える声で言った。「あの若僧が食堂や中庭で、何度けんかを売ってきても、無視して相手にしなかった。それで、あのバカやろう、とうとう頭に来て、こんな…」
 イスパニアは黙って小さくうなずいた。ほとんど、頭をたれたように見えた。

(13)
 アリウスとシギスムントのみならず、パスコウとティトゥスまでいなくなったと知って、プロキシモは激怒した。しかし、そろそろ新しい奴隷の仕入れ時だと判断したのか、ジュバたちを皆、古参剣闘士と同じ建物に移して、待遇も同じにした。と言ってももうジュバたちと同じ頃買われた仲間で生き残っているのはハヴィル、イスパニアをはじめとして、ガルス、ソシアなど、ほんの数人だったが。そして、それから何日かして、ハヴィルの姿も突然消えた。ジュバたちが心配していた通り、プロキシモはティトゥスたちの脱走に彼が関係あると見て、頭に来て売り飛ばしたらしい。
 イスパニアは淋しそうだった。だが、口に出してはほとんど嘆かず、かわりにハヴィルがしていた、皆のまとめ役やプロキシモとの交渉をひきついでやりはじめた。どこか気がのらない上の空の様子だったが、それでもきちんと仕事をこなすのにジュバは驚き、「おまえ、こういうことには慣れてるんだな」と感心した。
 イスパニアは苦笑した。「皆が慣れてないんだ。だからやりやすい」
 確かに古参の剣闘士たちは無口で静かで、それぞれが一匹狼らしい凄みを漂わせていたが、激しい訓練をしていない時は、建物のあちこちで彫像のように瞑想にふけっているか、寝台で眠っており、戦いのこと以外には無関心で、自分の邪魔をされなければほとんど文句は言わなかった。新参者の奴隷たちのように、仲間どうしで愚痴を言ったり、不安そうに情報を交換したりして、しゃべりあうことなどもまったくない。まとめ役にも交渉役にも誰もなりたがらないので、ハヴィルにしろイスパニアにしろ、そういう世話をする者がいるとむしろ喜んでまかせている様子だった。眠っているイスパニアをゆすり起こして、「おれのかぶとが盗まれた。明日までに新しいのをよこさないと殺すとプロキシモに言え」と言って去って行ったり、ジュバたちが話している所にぬっと現れて「イスパニアが薬を持って来ると言っていたが預かっていないか?」と聞いて、うけとるとすぐいなくなったりする。
 巨人のようにたくましい男たちが十人あまりも寝起きしているとは思えないほど、建物の中はいつもひっそりと静かだった。山猫のようにしのびやかに歩く彼らは、その巨体にもかかわらず、足音さえもめったにたてず、気配を相手に感じさせない。その沈黙と静寂は時には息苦しいこともある。
 例の赤毛のヘルマンもここではまだ新顔らしく、話し相手のシギスムントがいなくなったせいもあって、どことなく所在なげだった。ある朝、食堂でたまたまイスパニアとジュバの隣に座った彼は、気まずそうというよりむしろうれしそうな表情で、イスパニアに、「おまえ、あの若いのが死ぬ時、ほんとは何か言ってやりたかったんじゃないのか?」と、いきなりからんで来た。「何か気のきいたことをよ。いつもあいつらが言ってたような『力と名誉を』とか何とか」
 不意打ちだったので、イスパニアは顔をこわばらせたが、黙って首を振った。
 「何も言いたくなかったのか?」ヘルマンは目をそらしながら、ちょっと笑った。「でも、あいつはきっと、言ってほしかったと思うぜ。いまわのきわにあんたの声をきっと聞きたかったと思うぜ。おれの女房が死ぬ時に、おれを見てたと同じ顔をしてたもんな、あいつ。おれはずっとしゃべってやったよ。おまえはいい女だったと言いつづけてやった。今もきれいだ、初めて会った時とちっとも変わってないと言い聞かせてやった。あいつの息が絶えるまで。骸骨みたいになってたが、それでも、そりゃあ幸福そうに笑って死んだぜ、女房は。その点だけはな、おれは悔いはねえんだ」ヘルマンは少し黙っていたが、また聞いた。「おまえもそうしてやるかと思った。なぜ黙ってたんだい?シギスムントが見ていたからか?」
 「彼が見てても見ていなくても」イスパニアは初めて口を開いたが、その声ははっきり震えていた。「私は何も言わなかった」
 ヘルマンは吐息をついた。「嘘つけよ」
 「嘘じゃない」
 あきれたようにヘルマンはイスパニアを見た。「あんたも強情だな」
 イスパニアは黙っていた。息づかいだけが少しづつ次第に大きくなっている。ジュバはそっとその腕に触れた。軽く触れただけだがイスパニアはわかったらしい。自分を落ち着かせるように深く大きく息を吸って、身体を動かし、座り直した。
 「あの若いのが、かわいそうじゃなかったのかい?」ヘルマンは意地悪な、だが本当に少し不思議に思っているような声で熱心に聞いた。「ほんとに何も感じてないのか?」
 「感じてないわけないだろうが?」そばにいた古参剣闘士の一人のハーケンが突然わって入った。「バカか、おまえは、ヘルマン。もうやめろよ」
 ヘルマンがふくれっつらをして行ってしまうと、ハーケンはイスパニアを見て、「おまえもおまえで、バカじゃないか」と言った。「言わせとくのも、たいがいにしろ」
 そして、自分がむしゃくしゃしてたまらないと言うように、喉の奥でうなり声をあげながら、イスパニアやジュバが小柄に見えるほどの小山のような巨体をゆすって、床を踏み鳴らしながら立ち去って行った。

(第三章 死者たち・・・・・終)





第四章・海

(1)
 ハヴィルがいつぞや、兵士たちから聞き込んでジュバたちに話してくれたローマの新皇帝の話は、ジュバにはまったく興味がなく、自分たちの運命に何か関わりのあることとも思ってなかった。しかし、ローマからの知らせは、その新しい皇帝によって、これまで禁じられていたローマ市内での剣闘競技が再び認められて再開されたことを告げ、属州や辺境から興行師たちが続々と自慢の剣闘士たちを引き連れて都に結集しつつあると聞いたプロキシモはただちに自分もローマに戻る決意を固めた。何でも都にはまだ彼が剣闘士を養成していた建物がそっくりそのまま残っており、留守を預かる剣闘士奴隷たちが、貴族の子弟に格闘技や剣術の稽古をつけたりして暮らしているのだという。
 イスパニアはこの話をプロキシモから聞かされて皆に報告したが、自分の考えは何も言わなかった。
 「その皇帝って、おまえの妻子を殺したやつだろ?」
 ガルスが聞くとイスパニアは何だかひとごとのような顔でうなずき、そうだ、と言っただけだった。彼はこのごろ沈みがちで少しいらいらしているようにも見え、闘技場での活躍が目立って人気も高いだけに、プロキシモはやきもきしているようだった。「あいつは何を考えとるんだ?」とジュバたちにも時々、さぐりを入れてくる。「何がいったい好みなんだ?女を抱かせればいいのかな?」
 「よせよ、じいさん」ソシアがそっけなく応じた。「あいつ、自分をねたんだ上官に奥さんと子どもを殺されて、ここに来たらしいぜ。当分はそんな気にゃなれんだろ」
 「しかし、何か好みはあるじゃろ。弱点とかな」プロキシモはぶつぶつ言った。
 「あのアルメニアも生意気じゃったが、イスパニアはもっと悪いわい。気むずかしくかまえおってからに、いつでも虫けらでも見るような目でわしを見て。何さまのつもりなんじゃ、あん?」
 「おれたちに言うなよ」ガルスが言った。
 「おまえらのことで何か頼みにくるにしてもじゃ、頼んどるのはやつのはずじゃのに、いつの間にか、なぜか、こっちがやつの機嫌をとって、あれが欲しいか、これは好きかと聞く体勢になってしまいおる。何かしてやっても、ものをくれてやっても、これでは気に入らぬか、うけとってもらえるかと、こっちがへりくだる姿勢になるのはなぜなんじゃ?まったく、あいつ、娼婦にでもなったらよかったのに。顔色ひとつ変えずに座っておるだけで、首飾りでも腕輪でも旦那衆がじゃらじゃら膝にのせてくれたろうて」
 「だから、おれたちに言うなって」ソシアがため息をついた。
 プロキシモがローマに行く話をした時、イスパニアはプロキシモから立派な鎧を貰ってきた。銀の二頭の馬が胸の左右に浮き彫りになっている見事な細工で、古参剣闘士の何人かもちらちら見ていたし、ジュバも思わず、つくづく見とれた。イスパニアは寝台のそばにおいたその鎧の馬の浮き彫りを指先でぼんやりなぞっていたが、ぽつんと「前におれが着てた鎧は、胸の真ん中に狼の顔がついていたんだ」と言った。「初めて着て帰った時、まだ小さかった息子が恐がって泣いたよ」彼の指の動きはゆっくりになり、時々とまった。
 「最初、おれを恐がっているのかと思ったけど、長いこと帰ってなかったから。でも、鎧にもすぐ慣れて、今度は大好きになったけどな。家においてある間ずっと、いつも触って話しかけてた。動物が好きで…」彼は小さい吐息をついた。「おれが軍に戻る日もずっと、おれの膝の上に乗って、狼の鼻を触って遊んでた。おれと別れるのがいやなのか、狼となごり惜しいのかどっちなんだろうと気になったぐらいだ。汚れた指で触ったから妻が気にして、その後せっせと磨いてくれた」
 「おまえは鎧を着たままでか?」ガルスが聞いた。
 「うん」イスパニアはうなずき、ふっと笑った。
 「何、思い出してるんだ?」ガルスがからかった。「わかるけどな。奥さんが胸にすがって息はきかけてせっせと布でおまえの鎧をこすってる内、奥さんの髪があごの下でいい香りをさせてるのに我慢できなくなって、おまえは奥さんを押し倒したんだろ?」
 「ちがうよ」イスパニアは笑った。
 「じゃ、奥さんがおまえを押し倒したのか?」
 ガルスはふざけてイスパニアにつかみかかり、二人はしばらく声をあげて笑っていた。古参剣闘士たちはあきれたように向こうからこちらを見ていたが、何も言わなかった。

(2)
 ローマに出発する前の日、建物の屋上でジュバは故郷の方角をながめた。紫がかった山並みが遠く続いているだけだった。イスパニアはそばに座ってジュバが見ている方に自分も目をやっていたが、やがて、前にいた建物に行って、クレオンの書いた詩をもう一度見ないかとジュバを誘った。
 二人がその建物に入って行くと、新しい奴隷たちがあわてて壁際に下がった。何でもないと彼らを安心させて、二人はクレオンがいた寝台の前まで行った。あの時の壁の文字はあちこちで少しかすれたり汚れたりしていたが、まだほとんど残っていて、イスパニアがそれに目を走らせるのをジュバは横からながめていた。
 「読もうか?」やがてイスパニアが言った。「それとも覚えている?」
 「読んでくれ」ジュバは言った。「覚えているが、確かめたい」
 「ローマに行けば」イスパニアはジュバを見た。「おれは多分、全部は覚えていないだろうから、おまえに聞かせてもらうしかなくなるな」
 「いいさ」ジュバは笑った。
 「クレオンが言ったように、この建物もその内崩れてなくなるだろうし、その前にこの字が消えるかもしれないし」イスパニアはぼろぼろとこぼれ落ちる粗い土の壁をそっとなでた。「そうしたらもう、おまえの頭の中にしか残らない」
 「おれの部族の者に会えれば、もっとたくさんのやつに伝えられるんだが」ジュバは言った。「ま、しかたがないな。読んでくれ」
 低くやわらかな、よくとおる声で、イスパニアはゆっくりと読んだ。
 「私たちの心の中を流れ下ってゆく細いせせらぎは、太陽に暖められた小石を飛び越え、岸辺の細い草の先をゆらせながら進み、また進んで、大きな虹の輪の中へ滝となってなだれ落ちる。草原をよこぎって、広い海へと向かう…」

(3)
 船は、海の上を進んでいた。
 船底の小さな窓から見渡す限り広がる真っ青な海面をながめながら、ジュバはクレオンの詩を思い出していた。
 「夜も朝もとどまることなく船は走ってゆき、かくして時は流れ去り、新しい世界が我々を迎える。朝の光の中におまえは見るだろう、輝く白い崖の上に、誇り高く頭を上げて立つ野生の獣たちの群れを。彼らの歩いて来た道筋を、逆にたどって行け。そうすれば美しい廃墟の村に着くだろう…」
 イスパニアはジュバと反対側の窓枠に頭をもたせかけて、同じ窓からぼんやりと外をながめている。
 「来た時のことを覚えているか?」ジュバは聞いた。
 イスパニアは首を振った。「何も覚えていないんだ。墓のそばで眠って、雨が降って、一晩ぬれて、すごく寒かったのを覚えてる。気がついたらもう、荷車の中だった。本当にこんな海、越えたのかな」
 「そのはずだな。でなきゃ来られない」
 イスパニアは笑って、まぶしそうに目を細めて、また海を見つめはじめた。
 背後の暗い船底では、剣闘士たちが横になったり、壁にもたれたりしている。ジュバたちのように、小さい窓から海を見ている者もいる。船酔いがひどいのか、ぐったりしている者も何人かいた。
 ぎいぎいときしむ櫂の音が眠くなるように響いている。ふと人の気配を感じてジュバが振り向くと、フリウスという古参剣闘士がいつのまにか二人の背後に腰を下ろしていた。頭を剃り上げ、小さな目をした無表情な男で、素手で雄牛をたたき殺す腕力の持ち主と言われている。
 「何だ、フリウス」イスパニアが膝を抱えて座り直しながら聞いた。
 「話がある」
 ジュバが立ちかけるとフリウスは目でとめた。
 「いてくれ。その方が目立たない」
 「人に聞かせたくない話か?」イスパニアは首をかしげた。
 「ああ」フリウスはさりげなく、皆のいる方を見ていた。「計画があってな。おまえにまとめ役になってほしい」
 「どんな?」イスパニアは海の方に目を向けた。
 「ローマへの反乱だ」フリウスの声は静かだった。

(4)
 イスパニアは海を見たまま、小さく首を振った。
 「そんな話を、おれに聞かせるな」ひとり言のように彼はつぶやいた。「加わる気はない」
 「このことはハヴィルともよく話した」フリウスはほとんど唇だけを動かして、低い声で話していた。「ソシアとガルスも知っている」
 けだるげにイスパニアは身体をそらした。「よせ。何も聞かせるな」
 「仲間は多い。都に戻れば、もっと増える」フリウスは聞こえなかったように続けた。「おまえがローマを愛していること、信じていることはハヴィルから聞いて知っている。皇帝に愛され、後事を託されたことも、それをねたんだ皇太子が父を殺して今の皇帝におさまったことも。そいつさえ倒せば、ローマは再びよい国になるとおまえが思っていることも。だが、それはまちがいだ。あの国がよい国であったことなどは、これまでに一度もない。属州に住む人間にとって、剣闘士、奴隷、キリスト教徒たちにとって、どんな皇帝の時代でもローマは常に悪だった」
 ジュバがふと気がつくと、髪を奇妙なかたちに刈り上げた赤銅色の肌の剣闘士…たしかパリスという男で、槍の腕では仲間一だった…が、後ろに立っていた。
 「都のコロセウムでは」フリウスが静かに言った。「生き延びる望みは辺境のほとんど十分の一に落ちる。おまえとジュバはともかく、ガルスやソシアは危ない。それほど優れた剣闘士が全世界から集まってくる。殺し合わせられるために」
 「それだけならまだいい」パリスが、なめらかな甘い声で笑った。「大がかりな催しもしょっちゅうだ。一流の剣闘士が束になって溺れさせられ、焼き殺される見世物もしばしばだ。あそこで生き延びられたら自由になるなどという、プロキシモの言葉なんか絶対に信用するな。そんなことは現実には不可能だ」
 「すぐれた剣闘士が多く集まるということは、それだけ頼れる仲間もいるということだ」フリウスがまた言った。「反乱の計画は数年前にもあった。だが、都での剣闘試合が禁止されたから、その時の仲間は皆、それぞれの主人に連れられて属州や辺境に散った。指導者だった男たちも間もなく死んだという噂を聞いた。海を渡った時、おれもパリスもあきらめた。反乱の計画も、生きて故郷に戻ることもな。しかしハヴィルが現れて、次におまえが現れた」
 「おれたちは皆、一匹狼で、まとめ役がいないと戦えない」パリスが言った。「だがそんな男はめったにいない」
 「おれはローマと戦う気はない」イスパニアはつぶやいた。
 「おれたちだってないさ。ただ生き延びて国に帰りたいだけだ」フリウスは言った。
 「それは皆、同じことだ」パリスが吐息をついた。「だからこそ、皆、必死で殺し合う。同じ願いを持つ男、同じ不幸を背負った男を、殺し、殺し、また殺す。それをいつまで続けるのだ?おれはもう、終わりにしたい。おれにもう家族はない。帰る家も村もない。なら、せめて、本当におれたちを苦しめている敵と戦って、最後は死にたい」
 「おれは、その敵だった」ひっそりとイスパニアは言った。
 「その頃のおまえと会えば、ためらわず殺した」フリウスは初めて身体の向きを変え、小さい鋭い目をじっとイスパニアに注いだ。「だが、おまえは今、ここにいる。大切なのは、それではないのか?」
 長いことイスパニアは黙っていた。それから低い吐息をついた。
 「断れば、殺すんだな?おれも、ジュバも」
 フリウスとパリスは黙っていた。

(5)
 海の上に太陽が射し、波という波がまぶしく輝いた。船腹を打つ波の音と、櫂の音が、規則正しく響いている。
 イスパニアが力なく目を上げて何か言いかけたので、ジュバは身を乗り出し、その膝に手をおいた。
 「おれのことは考えなくていい」イスパニアの目を見つめて、ゆっくりと彼は言った。「好きなことをしろ。自分の好きなことを」
 イスパニアは黙ってジュバを見つめ返した。
 「これ以上、後悔するなよ」ジュバは首を振った。「したいことだけ、すればいいんだ」
 また長いことイスパニアは黙ってジュバを見つめていた。
 それからゆっくりフリウスを見て「フリウス」と呼びかけた。「計画を聞こう」
 「承知したということか?」
 「話を詳しく聞いてからだ。不可能だと思ったら、そう言う」彼の口調にはひとりでに、きびきびとした強さが加わって来ていた。「おれの意見も言う。聞き入れられなかったら、おれたちを殺せ。おれはその覚悟で聞く」
 「よかろう。仲間と話して来る。今夜、この場所で」
 すべるように二人は離れて行った。
 イスパニアは何事もなかったように、また静かに海を見ている。
 ジュバも、乗り出していた身体をそっと元に戻した。
 「ローマ軍は強いんだろう?」聞いてみた。
 イスパニアはジュバを見て、悲しそうに笑ってうなずいた。
 「勝てるのか?」
 答えないまま、イスパニアは黙ってまた海の方に目をやった。ジュバももう何も言わずに、いっしょに輝く海を見ていた。

(6)
 夜の海から吹く風は涼しい。月はなく、窓から入る光もなかった。それでも夜目のきくジュバは、イスパニアと自分を囲んで座っている五人の古参剣闘士の姿を見わけることができた。
 「どんな皇帝の時代も」ポルクスという男が話していた。「ローマは苦しみであり悪だった。おれたちの村は襲われ焼かれ、和平を結んでも一方的に破られた。この国がある限り、おれたちには平和もなければ幸せもない。おれたちには他の方法がないんだってことをまず、わかってほしいんだ」
 「あんたも今や、そんなおれたちの一人だってことも」リシウスという、ひときわたくましい若者が言った。「いくら強くたってコロセウムに行けば、生き延びる保障はないってこともな」
 「ローマに反乱を起こして成功する保障は?」イスパニアの声はやわらかだったが強かった。「百年前に起こった剣闘士奴隷たちの大反乱が鎮圧された後、アッピア街道の両側はどこまでも続く数千人のはりつけ柱が並んだという。あの大規模な反乱でさえ、結末はそうだった。一つの国を滅ぼすのは容易なことではない。とりわけ、それがローマ帝国と来ては」
 「その大反乱は辺境で起こった」フリウスの目が光った。「反乱軍はローマの都めがけて押し寄せようとして軍隊に阻まれ、結局、到達できなかった。あの反乱の敗因は何よりもそこにある。おれたちは、都の中で反乱を起こす。そして辺境の仲間が呼応する。ローマの都に軍隊が入れないのは長いしきたりだ。元老院が、そのしきたりを変えるべきかどうかと、もたもた議論をしている間に、宮殿と議会に攻め入って、制圧する。必要とあらば皇帝を殺す」
 イスパニアは答えなかった。
 「ローマを守り、軍を指揮する立場で考えると、慄然とするだろう?」パリスが低く笑って言った。「どうだい?」
 「都の中の近衛軍は?」イスパニアが低い声で聞いた。
 「あんなものは儀式用のお飾りにすぎん」フリウスが片づけた。「反乱が起きれば、市民たちも暴動状態になる。その鎮圧で、せいいっぱいさ」
 「おれたちの中から、ローマの新しい支配者を選ぶ。そして、属州はすべて解放する。奴隷たちもだ」リシウスが言った。
 「ローマは半島の一部の小さな、つつましい国となって残るだろう」レピダスという、やや年かさの男が初めて口を開いて、おだやかに言った。「回りの他の国々と同じ、ただの一つの国として。その方が、都に住む人々にとっても幸せだ。世界中の血と汗をしぼりとった贅沢にうつつをぬかしていても、今のあの都に幸福はない。あるのは頽廃と堕落だけだ」
 船のきしむ音と波の音がまた耳につく。
 「新しい世界を作ろう、イスパニア」パリスが力をこめてささやいた。「奴隷のいない、戦いのない、飢えることのない国を」
 「おれたちの手で」リシウスが言った。「これは、おれたちにしかできない。虐げられて、何も失うもののないおれたちだからこそできる。おれたちを救うためには、皆を救わなくてはならない。だからこそ、皆が幸福になる世の中は、おれたちにしか作れない」
 「おれたちを指揮してくれ、イスパニア」ポルクスが熱心に言った。
 イスパニアは首を振った。「いくらおまえたちが強くても、奴隷の数が多くても、剣闘士の集団と、軍隊とでは話にならない」彼は言った。「飾り同然の近衛軍が相手でも、勝てるとは思えない。訓練を受け、命令に従うことをたたきこまれ、疑問も恐怖も持つことなく一糸乱れぬ行動がとれる、兵士や軍人が相手では」
 「おまえは知るまいが、おれたちの中に軍人あがりは多い。組織だった戦いのしかたはのみ込んでいるし、ローマ軍の長所も弱点も知っているよ」ポルクスが静かに言った。
 「おまえが何者かということだって、来たその日からおれたちはとっくに知ってた。マキシマス・デシマス・メレディウス。用兵、策略、人望、武勇、どれをとっても北部方面随一と言われた将軍」
 「そんな男はおれは知らん」イスパニアは即座に、にべもなくつっぱねた。「それより、そんなすばらしい世界を作ろうとしている、軍人の体験もあるおまえたちが、ドルススも、アリウスも、シギスムントも、守ってやれなかったのか?」
 沈黙が落ちた。とぎすまされた殺気のようなものが一瞬、闇の中に流れた。誰かが誰かを制した気配をジュバは感じた。

(7)
 「その名で呼ばれるのはいやか?」レピダスがおだやかな、笑いを含んだ声で尋ねた。「おれも元軍人でな。まだ今よりずっと若いあんたが、老皇帝のお供をして馬で前線をかけて行くのを何度も見たことがある。あんたはいつも幸福そうに微笑んで、前を行く皇帝をまっすぐに見つめていた」
 「大昔の話だ」イスパニアはジュバがひやひやするほど乱暴に応じた。「そんなことはどうでもいい。おれが言いたいのは、おまえたちの言葉を借りるなら、虐げられて何も失うもののないはずの者たちばかりが集まっている、こんな場所ですら、さげすみあいや憎みあいが起こり、それをおまえたちがどうしようもできずにいることだ。その結果、踏みつけられて滅びていく者を見殺しにして、どうかしようとさえしているように見えないことだ。それを苦にする気配さえなく、自分たちの強さを語り、夢を語っていることだ。ついでに言うなら、もちろんだ、おれをその名で呼ばないでほしい」
 とげとげしい、荒々しい声だった。ジュバはそっと手をのばし、イスパニアの肩にふれた。思った通り、それは大きく上下して細かく震えていたが、ジュバの手とわかったのか、激しい息づかいは少しおだやかになった。
 「気を悪くしたのなら謝る」動揺した風もなく、レピダスは静かに言った。「ドルススたちのことも。注意はしていた。しかし、わかってくれなくてはな。おれたちは他人のことに関心を持つのが得意ではない。あんなに急にことが起こるとは誰も思っていなかった」
 「おまえがシギスムントたちにアリウスのことを頼みに行ったことは、シギスムントが死んだ後で、ヘルマンから聞いた」リシウスが、はりつめた声で続けた。「おれたちは皆、驚いたよ。そして、自分を恥じた」
 「おまえに指導者になってもらわなければならないと、皆が思ったのはその時だ」パリスが言った。「正直言って、この戦い、おれはやる気はあったんだが、結果は信じていなかった。そんな世の中は来ないと思っていた。だが、ハヴィルに会って、あいつを見ていて少し考えが変わった。こんなやつもいるのかと思ってな。そして、おまえを見て決定的に変わった。こんなやつが一人だけならまだしも、二人もいた。それなら他に、もっといるのかもしれんと思った。それなら、どんな世界だって本当に現実になるのかもしれないと」
 「おれは結局、誰も救えなかったんだぞ」イスパニアは誰にともなく、低く言った。
 「皆を救おうとしたからだよ」ポルクスが低く答えた。「あの時、シギスムントを無視して、おまえがアリウスを慰めていたら、死後の世界でも二人は憎みあっただろう。おまえがああしたから、二人はきっと許しあえる」
 「おれはそうは思わない」イスパニアは小声で言いはった。「結局おれは、よかれと思って、いつも皆を不幸にする」
 「それでも、おれたちは、おまえにならついて行けると、皆、思っているんだ」フリウスが言った。
 「話がちがう」イスパニアの声が泣きそうにふるえた気がジュバはした。「仲間になるかどうかという話だったはずだ」
 「それはそうさ」ポルクスが落ちついて言った。「仲間になってもらわないことには、指導者にもなってはもらえんだろ?」
 驚いたことに男たちは皆、身体をゆすって低く笑い出し、初めて聞く彼らの笑い声は森の猛獣たちがいっせいに笑いはじめたような無気味な迫力があった。

(8)
 イスパニアが笑っていないのにジュバは気づいた。「おれは何もしたくない」間もなく彼は子どものような、かたくなな小さい声で言った。「何にもなりたくない」
 誰かがまた低く笑った。「それなら、あんなことはやめておくんだったな。人の心をひきつけるようなことをしておいて、人が寄って行くと逃げるのは卑怯だ」
 「そんなつもりでやったんじゃない。ただアリウスを守ろうとして…シギスムントを傷つけたくなくて」
 「わかっているが、うかつだったな」レピダスが言った。「実のところ、おれたちの考えはこうだ。ローマへの反乱が無理だとおまえが判断するなら、それはそれでいい。おれたちはその計画を放棄する。そのかわり、どうしたらいいのか、おまえが考えて、おれたちに教えてほしい」
 「…何だって?」イスパニアははっきり、あえいだ。
 「つまり、おれたちはそこまで考えているんだよ」リシウスが説明した。
 「考えている?」イスパニアは言い返した。「考えるのをやめたってことだろう、それは?」
 「そうも言えるか」フリウスが感心したように言った。「そうかもしれんな。おまえはもう、おれたちがどんな状況にあるかがわかったはずだ。何を考えているか、何を望んでいるかも。それなら、おまえにはわかるだろう。おれたちが何をすればいいのかが。それを教えてくれ。導いてほしい」
 「救えなくても、文句は言わんぞ」ポルクスがまじめに言った。
 「アリウスだけでなく、シギスムントのことまでも、あんな時にあれだけ、おまえは気づかった」パリスが言った。「おまえなら、おれたち皆のことを、一人残らず忘れずに、わけへだてなく考えてくれると信じている。考えてくれ。どうしたら、おれたちは救われるんだ?」
 「おれたちというのは」フリウスが念を押した。「ローマ全土の剣闘士、奴隷、属州の住民、蛮族、そういう連中のすべてだぞ」
 「そんなこと、おれにわかるわけない!」
 「おい、窓から海に飛び込むなよ」イスパニアが無意識に、座ったままじりじり後ずさりしているのに気づいたらしく、リシウスが手をのばして、イスパニアの腕をつかんで引き戻した。「落ちついてくれ。何もそう無茶なことは言っていないぞ」
 「何を言う。これが無茶でなくて何が無茶なんだ?」イスパニアは荒々しく言い返した。「ローマ全土とその周辺の不幸な人のすべてを救う方法を考えて、実行しろと、おまえたちは私に要求しているんだぞ!」
 「できると思っているからだ」レピダスが言った。「どうせ、皇帝になれと言われていたんだろう?同じことじゃないか」
 「どこがだ!?」イスパニアは立ち上がった。「ジュバ、来いよ、もう寝る!」
 「大きな声を出すんじゃない」フリウスがイスパニアの肩を押して座らせた。「おれたちももう寝に行く。ここにいろよ、涼しくて、いい場所だ」
 「明日の朝には陸に着く」パリスが言った。「また馬車の中で話そうぜ」
 そして、たちまち影が散るように、彼らは再びするすると闇の中に溶け込んで消えた。

(9)
 ゆるやかな風が、闇におおわれた海をわたって、吹き込んで来る。生暖かい潮の香りと夜の香りがこもっていた。
 イスパニアは窓枠に頭をくっつけて目を閉じているようだ。
 「どうする?」ジュバは聞いてみた。
 「あんまりだ」イスパニアはつぶやいた。
 「そうだな」ジュバはまじめにうなずいた。
 するとイスパニアが、くっくっと小さく笑うのが聞こえた。「昼間、あいつらに返事をしなくちゃならなかった時な」
 「うん?」
 「つくづく、おまえはひどいやつだと思ったんだが」
 「え?」
 イスパニアはふっとまた、かすかに笑った。「だってあの時、おれは自分がどうしていいのかわからなかった。どうするのが正しいのかも、自分がどうしたいのかも」
 「だから?」
 「だから、おまえが殺されないようにしようと思った。おまえを守ることだけを考えて、自分のすることを決めようとした。そうしたら、おまえが、あんなことを…」
 「おれのことは気にするな、と言ったんだが」
 「それだけじゃない。したいことをしろ、好きなことをしろと」
 「そうだな」
 「それがわからなかったから、おまえを守ることだけしか考えまいと思っていたのに」イスパニアは大きく息を吐いた。「あんなにおまえが恨めしかったことはない。ひどいと思ったこともない。おれのとっさに考えた、生きる目的をとりあげてしまって」
 「そんなもの、とっさに考えたりするからだ」ジュバは言った。
 「ともかく、でも、こうなると」イスパニアはつぶやいた。「おまえと、あいつらと、どっちがひどいのか、どっちがましなのか、おれにはもうわからんな」
 「おれもあいつらも、同じことを言ってるような気もするが」
 「ちがうよ」イスパニアはうまく説明できないのがじれったそうに身じろぎした。
 「もう寝ろ」
 ジュバが笑ってそう言うと、イスパニアは疲れていたのか、それ以上何も言わずに窓の下に身体をのばした。外をのぞきながら「星が見えるといいのになあ」と小声で言っている。末の娘が小さい時、山の上に連れて行ってやった時の口調にどこか似ていた。霧がかかっていて、いつも遊んだり水汲みをしたりしている川が見えないと、娘は不満だったのだ。
 「また来れるさ、天気のもっといい時に」ジュバは娘を慰めた。
 「そんなことわからない。あたしが明日死んだらどうするの。もうここには二度と来れないかもしれない」娘はそう言い張った。村の占い師がまた、人はいつ死ぬかわからんなどというつまらん話を聞かせたな。ジュバはそう思いながら娘の頭をなでていた。
 「また、海を渡れるさ」ジュバは言った。「星の見える夜に」
 「うん」イスパニアはうなずいた。
 「明日は陸地に着くんだな」ジュバは言った。

(10)
 新しい大陸の空気はひんやりとさわやかで、花の香りがまじっていた。格子のはまった馬車に閉じ込められてジュバたちがごとごとと運ばれていく街道の両側には、果物畑や麦畑が広がり、小さい村が次々に現れてはまた消えた。剣闘士たちは皆、黙りがちに、くいいるようにその景色を見守っていた。
 最初の休憩で野原に下りた時、ソシアとガルスが近寄ってきた。イスパニアはちょっときげん悪そうな目で二人を見た。
 「すまなかったな」ソシアが言った。「ハヴィルはいずれきちんと、おまえに話すつもりでいたんだよ」
 イスパニアは黙って肩をすくめた。
 「それで?考えついたのか?」しばらく草原の中を歩き回った後で、ガルスがうずうずした様子で聞いた。
 「何をだ?」イスパニアは草をひっぱりながら、ガルスを見もせず聞き返した。
 「おれたちを救う方法」
 イスパニアは見張りの兵士たちの方を目で確かめながら、憤然としてガルスに向き直った。「おれを何だと思ってんだよ!?」
 「ひょっとしたらと思ったのさ」ガルスは首を振った。「やっぱりローマを滅ぼすしかないだろ?ハヴィルもずっとそう言ってたし」
 「知らんよ」イスパニアは空を見上げた。「何も考えていない」
 「ソシアはとりあえず皆が故郷に帰れればいいんだから、集団脱走でもしたらと言うんだが」ガルスは言った。「でも、それじゃ、すぐ見つかって、連れ帰されて死ぬほど鞭で打たれておしまいだよな?運のいいやつは逃げ延びられるかもしれないが」
 「ああ」イスパニアはうなずいた。
 「おれが言ってるのは、ばらばらに逃げるんじゃなくて、誰かにひきいられていっしょに逃げて」ソシアは、見張りの兵士たちの方を振り返りながら聞いた。「どこかにたてこもって戦い、自分たちの村を作るんじゃどうかってことなんだ。そこに、おいおい、家族も連れてくるようにして」
 「それは、おれも考えた」イスパニアは言った。「でも、ソシア、ローマはそれを許さないと思う。一つそんなものを許してしまえば、次々にまた同じものが生まれかねない。それじゃ困るから、名誉にかけて総力をあげて、ローマはそれをつぶしにかかる。そういう戦いが長いほど、次第にこちらの力が弱まる。戦いが続けば畑を作る余裕もない。それで補給を断たれれば、掠奪に走るしかないから、人々の支持も失う。仲間の心もすさんできて、脱走、脱落、裏切りが起こる。そうやって孤立し、内部分裂したところを一挙にたたかれ、一網打尽、あとに待つのは見せしめのための処刑だけだ」
 ソシアは足を止め、寒々とした表情でイスパニアを見つめた。「見てきたように言うんだな」
 「見てきたよ。将軍になる前、そんな村を滅ぼしたことがある。そこに私の妻がいた」イスパニアは言った。「そこは大規模な、長く続いた村だったが、それでもローマは見逃さず、村はもちこたえられなかった。それほど大きなものでなくても、山賊や海賊のほとんどは、もともと、そうした連中なんだよ。自由を求めて、ローマに刃向かう。でも、生活の手段がないから結局はもっと貧しい人々から奪い取るしかなくなるんだ。理想も誇りも失って残酷になり、落ちるところまで落ちて行く」
 「だからおれが言ってるんだ、やっぱりローマを滅ぼすしかない」ガルスが言った。
 「少し黙っててくれ」イスパニアがじゃけんにさえぎった。「考えがまとまらない」
 「考えてるんだな」ガルスがはしゃいだ。「おまえはそうすると思ってたよ」
 イスパニアが手にしていた草を投げ出してガルスの方に向き直り、険悪な表情で何か言おうとした時に、兵士たちが馬車に戻れという号令をかけて、皆を追い立てはじめた。

(11)
 「イスパニアのやつ、ガルスにはけっこう腹を立てるんだな」走り出した馬車の中で、ジュバはソシアにそう言って笑った。
 「あいつには誰でも、いらいらするさ」ソシアは苦笑した。「思ったことはすぐ口にする、その上に頑固ときている。ハヴィルのことを信じきってたから、ハヴィルの言うとおりにしておけばまちがいないと思ってるんだ。イスパニアもそうするものと信じて疑わない」
 「おまえはそうじゃないのか?」
 「おれか?おれもハヴィルは好きだったし、信じてもいたが」ソシアは軽い吐息をついた。「だが、イスパニアにはイスパニアのやり方があるだろう。やつにそのままハヴィルになれっていうのも酷な話だぜ」
 「あまり似てもいないしな」ジュバは言った。「イスパニアとハヴィルは」
 「そう思うかい?似ているところも多い」ソシアは野末に沈もうとしている夕日の方に目をやった。「苦しんでいる者を見ると、たとえ見ず知らずの者でも放っておけないところなんかそっくりだよ。ただ、イスパニアはなあ…ハヴィルとちがって、そうした時に自分のことを皆がどんなに好きになるかが、わかっていないみたいだな。それで好かれるとびっくりして逃げ出す。うまく言えんが多分あいつは、自分のことをあんまり好きでないように見えるやつが好きなんだろうよ」
 「ハヴィルのことは好きだったようだぞ」
 「それはハヴィルがあいつだけじゃなく、皆に優しかったからさ。そこも似てる。ハヴィルは自分に何かしてくれるやつよりも、他人に親切なやつの方が好きだった」ソシアはまたちょっと笑った。「それに、おまえとハヴィルとは、死にかけてるあいつを助けてやったろ?だから、あきらめてるんじゃないのか、好かれてもしかたがないと」
 「おかしな言い方だな」ジュバは考えた。「あいつ自身も時々おかしなことを言うが、おまえの今の言い方はそれと似ている」
 「そういうやつなんだろう」ソシアは吐息をついた。「きっと人に好かれてあまりいいことがなかったんじゃないのか、あいつは、これまでに」
 二人はちらと、馬車の反対側の端に座って、薄青いもやがかかりはじめた野原を見ているイスパニアの方を振り向いた。
 「今だってそうだろう。頼られてしまったら、あいつは人を見捨てられない」ソシアは言った。「きっともう、本気で皆を救うにはどうすればいいかを考えはじめているだろう。それがどんなに困難でも、困難なだけ燃えるだろうさ。そこもハヴィルに似ているって。研究熱心で、負けず嫌いだ。まったく、敵には回したくないぜ」
 馬車のこちら側では沈む夕日の光をうけて、野原は赤いワインのような温かい光に染まりはじめている。イスパニアが、振り向いてこちらを見ていた。
 「おまえを探しているぞ」ソシアが笑った。

(12)
 都には人がひしめき、プロキシモの訓練所にも、大勢の剣闘士たちがあふれていた。浴場や休憩所、食堂などの施設も辺境とは比較にならぬほど整っている。剣闘士たちの寝起きする小部屋は、数は多いが、二三人ずつで使うように小さく仕切られて、隣の部屋とは鉄の格子で隔てられていた。反乱や脱走の計画がたやすくできない用心だろう。
 プロキシモはジュバとイスパニアを同じ部屋にわりあてた。そして、廊下でジュバを引き止め、「あいつの相棒はおまえしかおらん」とお世辞のような本気のような調子で言った。「頼んだぞ。おまえといっしょだと、あいつは落ちついておる。きげんがいいし、おとなしい」
 「そうも思えないが」ジュバは言った。「おれにだって、やつは、かみつく。それもけっこう手ひどくな」
 「こたえとらんじゃろ、だが、おまえには」プロキシモは、せせら笑った。
 ジュバが入って行くと、イスパニアは壁によりかかって立ったままで、ジュバが手前の寝台に座ると、もう一方に腰を下ろした。
 都に入って、皆が馬車から下りた時、イスパニアは何となく浮かない顔で元気がなかった。ジュバが話しかけてもあまり返事をせず、何度も声をかけていると不機嫌そうに眉を寄せた。今もまだ、沈んで見える。疲れてきげんが悪くなっているのかと思いながらジュバは「そっちの寝台でいいのか?」と聞いた。
 「いいよ」イスパニアはぼんやり答えた。「おまえがそっちでいいんなら」
 「どうした?」ジュバは聞いた。「何か、気になるのか?」
 「聞いてはいたが」イスパニアは壁を見つめていた。「やはり大きいな」
 「都か?」
 「うん」
 「そうだな。人が作ったとは思えない」
 「そうだな」イスパニアは繰り返した。「人も多いな」それからしばらく黙っていてから「最初の試合はいつか、プロキシモはもう言ったか?」と聞いた。
 「いや。まだ聞いていない」ジュバは首を振った。「だが、さっき、ここに前からいる連中に聞いたところじゃ、四五日あとになりそうだそうだ」
 「そんなに先か」イスパニアはつぶやいた。「コロセウムに行くのは」
 「待ち遠しいのか?」
 イスパニアはかすかに笑ったが、すぐ唇を強くひきしめた。「早く知りたい。この都のことを」
 そして、ひとり言のように続けた。
 「城門の警備は、こんな大きな都にしてはゆるやかだった。町の中に兵士はそう多くない。通りは広くてまっすぐでわかりやすいが、小さい脇道がいくつもある。でも、こんなに高い建物が多いとはな。予想していなかった…やっかいだな。やりにくい」

(13)
 まじまじとジュバはイスパニアを見た。
 「それで、元気がなかったのか?」
 「え?」
 「さっき、馬車から下りた時だ。そんな目でここを見てたのか?攻略し、占領する敵の砦を見る目で?」
 「でも、やりにくい」イスパニアは吐息をついた。「これまでのおれの知識が通用しない。予想外のことが多すぎる。それにおれが見たのは、町のつくりと建物だけだからな。人は、見えなかった」
 「見えなかった?あんなにたくさん…」
 イスパニアは首を振った。「表情や雰囲気が読めなかった。活気があるようだし、ないようでもある。満足しているようだが、いらだっている感じもする。都の中で反乱が起こった時、彼らはどう動くのだろう?どれだけ力があって、それがどんな方向に動くのか、つかみにくい。この都は、ものすごく」
 ソシアの言ったことをジュバは思い出していた。
 なるほど、敵には回したくない。
 「コロセウムに行けば、もう少しそれがつかめるかと思ったんだが、そんなに先か」イスパニアは目を閉じた。「まあいい。ここでこうして聞いているだけでも、いろんなことはわかるから」
 「音でか?」
 イスパニアは目を開け、微笑した。「おまえだって、森で狩りをする時なんかにそうしないか?」
 ジュバは耳をすました。表の庭で、剣闘士たちが騒がしく叫び交わしながら、荷物を運び入れている。どこかで訓練が行われていると見えて、激しく刃が触れ合う音もする。だが、やがて、それらを通して、もっと遠くの別のいろいろな物音が聞こえてくる。通りを走る車の音。馬のいななき。犬の声。物売りの呼び声。女の笑う声。ごくたまに子どもの声。音楽。ラッパの音。そして、潮騒のような喝采。
 イスパニアは黙って前かがみになり、唇に指をあてて、それらの音に聞き入っている。草むらの中で、近づく狩人たちの足音や、獲物とねらう草食動物の群れの動きを聞き分けようと、じっと耳を立ててうずくまっている、立派な、大きなライオンのようだった。

(第四章 海・・・・・終)




第五章・コロセウム

(1)
 いつぞや食堂でヘルマンを叱りとばしたハーケンだが、古参剣闘士の中ではやや特別な立場にいた。彼はゲルマニア出身で、捕虜となって奴隷に売られたのだが、剣闘士競技が大好きで、今の境遇というものにほとんど不満を感じてなかった。プロキシモとも仲がよく、また大切にされている。その分、仲間の皆に警戒されて、反乱計画のこともイスパニアの正体のことも、都に着くまでほとんど知らされていなかった。
 イスパニアのことはヘルマンが詳しく彼に話し、反乱計画の方は、フリウスたちが相談したあげく、ヘルマンに打ち明ける時にいっしょに彼にも教えた。
 ハーケンは反乱計画の方には大して興味を示さなかった。そういう新しい世の中になったら、剣闘士競技はどうなるのか、と知りたがり、パリスが、やりたい者だけがやるようになるだろう、と教えると、それならおれには何の文句もない、と協力を約束した。プロキシモに言うなよ、とフリウスが念を押すと、おれの脳みその大きさをネズミの金玉ぐらいと思ってるのじゃないかと問い返した。
 ハーケンが関心を持ったのはイスパニアの過去の方だった。ヘルマンはイスパニアへの反感をつのらせようとして、同じゲルマニア出身のハーケンに詳しく話したらしいのだが、ハーケンは「すんだことを言ってもしかたがないし、第一、おれの村はつまらん族長がいばりまくっていて、しきたりばかりこだわる、いやな所で、あれは滅ぼされた方がよかったんだ」と言ってのけて、ヘルマンの目を白黒させた。そして、イスパニアにやたらと興味を持ったらしく、ジュバをつかまえて、あれこれ質問ぜめにした。
 「やつに直接聞いてくれ」ジュバは閉口して言った。「おれだってそんなに詳しく聞いてるわけじゃないんだから」
 「聞いたら、いやがりそうじゃないか、あいつは、何となく」ハーケンは言った。「だから、おまえに聞くんだよ。なあ、ゲルマニアで一番手こずったのは、どの種族だって言ってた?おれはマルコマンニ族だと思うんだが、ヘルマンはアラマンニ族だと…」
 実際、イスパニアは露骨なぐらいハーケンを避けていたし、話しかけられるといつも生返事でお茶を濁した。「あいつは苦手だ」と一度、珍しく彼はジュバにこぼした。「悪いやつじゃないのはわかるが、返事に困ることばかり聞く。金髪女を初めて見た時、どう思っただの、分捕り品はどうやって分配するようにしてるんだだの。まだヘルマンの方がましだと思うことさえある」
 弱りきっている表情にジュバは思わず笑ったのだが、ハーケンの方はそれに気づいているのかどうか、虎視耽々とイスパニアに近づくチャンスをうかがっていた。
 コロセウムでの試合の日、ハーケンは朝から大喜びだった。騒然とした雑踏の中、彼らを指さしたり、時には手をのばしてさわってくる男や女たちの間を行進してコロセウムに着き、見物人が外から彼らを見ることのできる、格子つきのへやに入れられるまで、彼はずっとうきうきしていた。「うむ、これだ、これでなくちゃなあ」と何度も繰り返し、「こんなところで戦えるなんて最高だぜ」と言った。そして、辺境にいた頃から、観客にちやほやされるのを嫌がっていたイスパニアが、憂鬱そうな目で格子の外の観客の群をながめている肩をたたいて、「なあ、やっぱりローマってすごいよなあ。これがローマの文化ってやつだな」と話しかけたので、とうとうイスパニアにかみつかれた。
 「これがローマの文化だって?」イスパニアは、ぞっとするような低い声で言った。「こんなコロセウムが?こんな観衆がか?」
 「みごとなもんじゃないか。おれたちの村じゃ、祭りと言ってもせいぜいが娘っ子たちが髪に花環をのせて踊るくらいだった。力自慢の男たちが組み打ちして、ちょっと誰かが血でも出そうもんなら、女たちは皆怖がってひいひい悲鳴をあげてたもんだ。やつらに、ここを見せてやりたいぜ。こんなコロセウムが、おれたちの村にもあったらなあ。もっとも、おれたちの村なんか、この建物の中にすっぽり入っちまうかなあ」
 イスパニアは本当に泣きそうに顔をゆがめた。「ハーケン、こんなのはローマじゃない!」彼はそうどなりつけると、へやの隅の方に行ってしまい、なるべく目立たないように身体を丸めて小さくなった。
 ハーケンがまごついているところに、レピダスとリシウスが近づいてきて、ジュバをかたわらに引っ張って行った。「まずいぞ」とレピダスが小声で言った。
 「何がだ?」ジュバが聞き返す。
 へやの真ん中に腕組みをして突っ立っていたフリウスが、気づいてこちらにやって来た。椅子のそばに座っていたパリスとポルクスもさりげなく立ってきて合流する。
 「どうしたんだ?」ポルクスが聞いた。
 「さっき、昔なじみの武器係の男に聞いたんだが、今日の見世物じゃ、おれたちは殺され役らしい」リシウスの顔はこわばっていた。

(2)
 「殺され役って何だ?」ジュバが聞く。
 フリウスは落ち着かせるようにリシウスの肩をたたきながら、ジュバを見た。「生きる望みはないってことだな。ただ戦わせられるだけじゃなく、神話や歴史の一こまを演じさせられるんだ。ラオコーンという予言者になって大蛇にしめ殺されたり、スカエウォラという哲学者になって、手を火の中に入れられたり。くそ」彼はリシウスを見た。「演し物は何だ?やられるのは一人ずつか?」
 リシウスは首を振った。「蛮族の砦がローマ軍にほろぼされる一場面だそうだ」
 「ふうん。ローマ軍が蛮族にやられる場面なら、象にふみつぶされるのもあるかと思ったが、今回はそれはなしだな」ポルクスがつぶやいた。
 「今回だと?何を悠長なことを」リシウスはののしった。「次など、もう二度とない。おれたちは今日、皆、死ぬんだ」
 彼らは声をひそめて話していた。格子の外からは何も知らない観客たちが感心したようにこちらを指さして首を振ったり、何か言い合っては笑ったりしている。上等の服を着た貴族らしい幼い少年が、イスパニアを呼び寄せて何かたずねていた。
 「プロキシモは承知するか?」ジュバは半信半疑で聞いた。「おれたちが皆殺されたら、あいつだって困るだろうに」
 パリスは皮肉をこめて笑った。「何の。おれたちの派手な死にっぷりで持ち主のあいつの名は上がる。もっといい奴隷をいくらでも買える金がやつのふところには転がり込むって寸法だ。あいつなんか信用するなと言ったろう?金の亡者だぞ。せいぜい、おれたちの死ぬのを理由に契約金を高くつり上げるのが、あいつにできる関の山さ」
 レピダスとフリウスはその間、何か考えているように黙って顔を見合わせていた。「そうだな」とレピダスがつぶやいて、鉄格子ごしに少年と談笑しているイスパニアの方をちらと見た。「もしかしたら、またとない機会かもしらんな」
 フリウスがうなずいた。「リシウス」と、彼もイスパニアを見たまま言った。「皆に言え。おれたちは今日死ぬ。どうせ助からない。だから、いいか、何もするな。逃げようとも、戦おうとも。そんなことをしても、どうせ最後は殺される。見ているやつらを楽しませるだけだ」
 リシウスが何か言いかけたのを、フリウスは制した。
 「今日、おれたちにできることは、ただ一つだけだ。イスパニアを見ていろ。彼が何を言うか聞け。何か言ったら、どんなことでも、それに従え。いいか。どんなことでもだぞ」
 「生き残る望みは唯一それしかない」レピダスがいつもの穏やかな声で言った。「やつに、剣闘士の勇気を見せつけろ。一匹狼でも、その気になれば団結して戦えることをな。軍人たちや訓練された兵士と同じように。いや、それ以上に。やつの命令通りにおれたちが動く力のあることを、やつの目にやきつけろ。肌にきざみつけ、頭にたたきこめ。そうすれば、万が一生き残った時、やつは、おれたちを率いて戦う気になるだろう。おれたちの夢がかなう第一歩は、この絶望の中から生まれる」
 「やつは、おれたちを信じておらず、規律でしばられた軍隊以下だと思っている」フリウスが続けた。「そうではないと思い知らせろ。自由な魂と、自分の考えを持った人間の集団こそが、どんな恐怖にも耐えて、仲間を守り、目的を忘れずに戦えることを。いいか。これは、やつと、おれたちの戦いだ。決してやつを失望させるな。失望させたら、おれたちの負けだぞ」
 「だが、もし」パリスが危ぶんだ。「もし、やつが、あきらめて動かなかったら?おれたちを無視して、一人で戦おうとしたらどうする?何も、命令しなかったら?」
 「そんな戦いに勝ち目などないことを、やつは知っている」レピダスは言った。「だから絶対、おれたちの協力を求める。できることがあるのに、それをしないで、黙って死ぬようなやつじゃない。あいつは絶対、何かを言う」彼は小さく息を吸った。「だがもし、あいつが何も言わなかったら、おれたちはそれでおしまいだ。あきらめて死ね」
 リシウスはうなずいた。「わかった。皆に伝える」立ち去りかけて彼は振り向いた。「やつ自身にはどこまで話す?ハーケンには?」
 レピダスはほほえんだ。「ハーケンには言わなくていい。あいつはどうせ、誰の命令にも従わん。それからイスパニア本人にも何も言うな。その時が来るまでは、何も考えさせん方がいい」

(3)
 狭い階段を列を作って上がって行き、アリーナに出たとたん、天まで届くかと見える高い客席からなだれ落ちて来る歓声は雷のようにジュバたちを包んだ。辺境の闘技場の数十倍、いや数百倍の音量で、すぐ隣のハーケンが何か言っては大声で笑っているらしいのだが、ジュバにはまったく聞き取れない。
 控えの通路にいる時から、ジュバはイスパニアだけを見つめていた。他の男たちもそうだとわかっていた。イスパニアもそれを感じたのだろうか、二、三度ふしぎそうに皆を見た。だが、アリーナに出るとすぐ、彼の目は正面の貴賓席に吸いよせられ、二度とそこから離れなかった。そこには、立派な黒く輝く鎧を着た若い男が細い金の冠を頭にはめて座っていた。その男の両側に、やや年長の厳しい顔をしたやせぎすの男と、美しい背の高い女とがいた。さっき、イスパニアと話していた少年が、女によりかかるようにして、熱心にこちらを見ていた。
 イスパニアが何者か、彼らは気づいてないようだった。イスパニアのかぶとが、顔をすっぽりおおう、目と口しか見えない型のものだったからかもしれない。イスパニアの方は明らかに緊張していた。槍を握り直し、大きく息を吐いた。太鼓とラッパの鳴り響く中、一人の男が大声で、今日の演し物の説明をしているのを、聞いているのだろうかとジュバは少し心配になった。
 説明役の男が、声をふりしぼって、蛮族の集団だとジュバたちを紹介すると、巨大なコロセウムは唸りをあげ、敵意と軽蔑がジュバたちに向かって押し寄せてくるようだった。本当の蛮族ではなく、それに扮した剣闘士たちと知っているはずなのに、説明役の紹介を観客たちは信じているように見えた。しかも、その敵意の中には、どこか物憂い、退屈しきった疲れが見え、そのことにジュバは鋭い怒りを感じた。この観客たちはジュバたちが残虐に殺されることを期待しつつ、すでにもう、そんなものには見飽きてうんざりしているのだ。
 イスパニアの声をジュバは危うく聞き逃すところだった。
 「…軍にいた者は?」
 観客席の喧騒をぬって不思議によくとおる、冷静な声だった。

(4)
 「おお」とジュバのすぐ後ろで声が応じた。確かクロトンという男である。「いたぞ」「おれもいた」という声が更にいくつか重なり合う中、「ウィンドボナであなたの軍にいました」という、若々しい強い声がした。やっとそのことを告げることができたという誇りと喜びが、死を前にした武者震いと混じって、声はかすかにうわずっている。イスパニアはわずかにそちらに顔を向けた。「それならば大丈夫」彼は平然として言った。「何が来ようと皆で力を合わせれば、絶対に負けることはない」
 ジュバは背後で声にならない喜びのうめきがいくつも聞こえたような気がした。フリウスやポルクスたちの抑えきれない微笑が、目の輝きが見える気がした。確実な死がもうすぐに彼らと自分の上に訪れるのだとしても、レピダスの声をジュバは思い出していた。
 絶望の中で、希望の第一歩が生まれる。

(5)
 だが、四方の門がいっせいに開き、四頭の馬に牽かれた巨大な戦車が次から次へと六台までもうなりを上げて走り込んできた時、剣闘士たちの一団は思わず四方に散りかけた。すさまじい轟音と地鳴りと、まっしぐらに襲いかかってくる戦車の勢いが、本能的に彼らをそれぞれ、安全と思う方向へ走らせようとしたのだ。
 「動くな、固まれ」と叫んだイスパニアの声はジュバにも聞こえていた。しかし、固まれと言っても目印があるわけでもなく、迫ってくる戦車の前に立ちはだかっていられるものではない。
 右往左往するかたちになった彼らの中に、何かが飛んできた。数人が倒れた。彼らの身体に突き立った矢をジュバは見た。戦車の上に射手がいる。稲妻のように通過する戦車の上から矢が飛んでくる。防ぎようがない。皆殺し、という言葉がジュバの脳裡を横切った。
 「固まれ、盾で囲め」というイスパニアの声がまた聞こえた。彼自身は身をかがめもせず、まっすぐにアリーナの中央に立っていた。「集まれ」とまた彼が叫び、フリウスとクロトンが転がるように、そのそばに駆け寄った。
 戦車がまた、迫って来る。だが、パリスとポルクスももうイスパニアのそばにいた。彼らが並べた盾を見て、戦車は方向を変えて、はずれて行った。
 土煙の中、ジュバも走った。尻餅をつきながら、背の高さもある大きな重い盾をかかげて、クロトンの隣にすべりこんだ。さっき、イスパニアの部下だったと名乗った若者ナザリウスも隣に来た。彼は笑っているようだったが、そうではなくて、恐怖に顔がひきつっているのだと、すぐにジュバは気がついた。自分の顔もそうだろう。
 「動くな!そのまま、動くな!」イスパニアが叫んでいる。
 頭を起こしたジュバはぞっとするような光景を見た。
 戦車がこちらに向かって来る。真正面から突っ込んでくる。

(6)
 ジュバの口の中はからからになった。理屈では説明できない恐怖に全身が縮んだ。耳を聾する車輪の音とひずめの音とが迫ってくる。地面のゆらぎが大きくなる。空が落ちかかってくるようだ。何人もがジュバの周囲で腰を浮かせた。
 「動くな!そのまま!」イスパニアの声がした。
 無理だ、とジュバは思った。どうあっても無理だ。イスパニアの声に従ったというよりも、むしろ身体がしびれて彼は動けなかった。ナザリウスがすぐ脇で、木の葉のように震えていた。
 戦車がおおいかぶさって来た。高く振り上がる馬の前脚のひずめの根元の毛までが見えた。フリウスが盾にしがみついて目をつぶったのが見えた。飛び出しかけたヘルマンを、リシウスの腕がつかんでひきすえた。
 がりがりと戦車の車輪が盾をこすった。鉄と鉄とが削れあい、火花があたりに飛び散った。すさまじい速さで彼らの目の前を戦車は通過して行った。
 「いいぞ!」イスパニアの声が落ちついて響いた。
 向こうの方で、別の戦車が突進して来ようと向きを変えている。他の数台は全速力でアリーナの周囲を走り回っている。飛んできた槍と矢が盾に刺さって止まった。そうか、と悲鳴のような息をつきながら、ようやくジュバは思う。戦車は一台ずつしか来られない。ぶつかりあってしまうからだ。その一台も、ジュバたちが周囲に立てた大きな重い金属製の盾を突破はできない。盾は矢も槍も阻む。ここにこうしていれば安全なのだ。
 だが、理屈ではわかっても、再び戦車が近づいて来ると、ひとりでに身体が震えた。ナザリウスの、フリウスの、リシウスの、激しい息づかいがジュバ自身の呼吸の音と区別がつかない。「動くな、そのまま」とイスパニアの声がまた飛んだ。
 なぜ、やつは声が出せるのだ?ジュバには信じられなかった。固く歯をくいしばっていないと、悲鳴を上げてしまいそうになる。口を開けても、喉も舌も干上がって、到底、声など出そうにない。なのに、イスパニアの声はまったくふだんと変わらない。いや、普段より落ちついて、のびのびとさえしてはいないか?
 突然、そのイスパニアがさっと緊張して身体の向きを変えた。今しがた走ってきた戦車はさっきと同じように盾をかすめて通過したが、もう一台の戦車が明らかにこれまでとは違った動きをしている。まっすぐジュバたちのいる中心めがけて突き進んで来る。盾にぶつかりジュバたちごと、跳ね飛ばしてひずめにかけようとするように。
 だが、剣闘士たちはもう誰も逃げようとはしなかった。皆が盾のかげにひざまずいたまま、近づく戦車を見つめていた。何人かが指示を仰ぐようにちらとイスパニアの方を見上げる。それに答えるように「まだだ」とイスパニアは叫んだ。「待て。ひきつけて、待て」そして戦車がジュバたちの視界いっぱいにまで迫った時、初めて「盾を上げろ!」と叫んだ。「ナザリウス、ダイアモンド隊形!」
 ナザリウスが間髪入れず、訓練でもしているかのような正確さで、盾の把手をつかんで高く持ち上げた。ジュバたちもそれを支えた。
 恐ろしい衝撃が来た。何かが砕ける音がした。初めて、響きわたる轟音を上回って、観客席の絶叫がジュバの耳まで届いて来た。

(7)
 何が起こったか、とっさにジュバにはわからなかった。
 戦車が一台、横転している。御者と戦士が下敷きになってもがき、馬たちはあがいて四方にかけ去ろうとしている。
 「やったぞ!」リシウスが躍り上がった。
 戦車が倒れた。
 まるで、呪縛が解けたかのように、いっせいに剣闘士たちは歓声をあげた。
 この敵は倒せる。
 ハーケンが倒れた戦車にかけよった。飛んできた矢で足を射られてよろめいたが、飛びついたイスパニアがひき倒して、そばをかすめた別の戦車の車輪から救うと、ハーケンは勇気百倍したように、自分で足から矢を引き抜き、戦車に走り寄った。矢を放った戦士の乗った戦車は、倒れた戦車に邪魔されて立ち往生している。ジュバはその上に飛び上がり、戦士を地面に引きずり下ろした。
 「戦車を襲え!馬を切り離せ!道を塞げ!」イスパニアが矢継ぎ早の命令を下している。「おまえたちは動くな!そこの二人は来い!」
 その声が命ずるままに、彼らは軽々と走った。本当はまだ、戦車は何台も残って走り回っているし、その上から射手たちが必死で射る矢や投げる槍は、彼らの上を飛びちがっている。しかし、もうそんなことは、剣闘士たちにとって問題ではなかった。この敵は倒せる。この敵は倒れる。その実感が彼らの中に刻一刻とみなぎり始めていた。ガルスとソシアが走る戦車にとびついて、御者を引きずり、戦車を壁に激突させた。パリスが拾って投げた槍が、通りすがりの御者の背をつらぬき、転がり落ちた戦士の首を、ポルクスの剣が一打ちでたたき落とした。
 奪った剣を手にしてジュバが振り向いた時、戦車から切り離した白馬に乗って走って来るイスパニアが見えた。手にした槍を前を行く戦車の乗り手に投げつけて倒し、ついでに前をかけぬけて、馬を脅かし暴走させて、もう一台とぶつかりあわせて二台をこっぱみじんにし、意気揚々とこちらに向かって駆けて来る。もはや客席の観衆は、声を限りに彼に向かって声援を送っているのだ。足も腕もむき出しのままの奴隷の姿なのに、彼はもうまったく奴隷にも剣闘士にも見えなかった。高く持ち上げられた頭、誇らしげにそらされた胸、手綱をさばく堂々とした手の動き。近づく彼に、手にした剣を投げてやろうとして、とっさにジュバは判断した。イスパニア、などと声をかけても、今この瞬間、白馬の上にいる男は、誰のことだかわかるまい、振り向きもしまい。
 「マキシマス!」ジュバは叫んだ。
 馬上の男は振り向いた。即座に、何のためらいもなく。かぶとの下の目が誇りと自信に満ちてジュバをまっすぐに見つめ、ジュバの手が放った剣をあやまたず伸ばした腕が空中でがっしりと受けとめると、たちまち白馬は入り乱れる剣闘士たちと戦車の中へと走り去った。
 ジュバの背後でそれを見たポルクスが高らかに笑う。だが次の瞬間、そばを通過した戦車から放たれた矢を胸に受けて、ポルクスはどっとあおむきに倒れ、砂の上に大の字に両手を投げ出して満面に笑いを浮かべたまま、息絶えた。

(8)
 その後の戦いはもはや一方的だった。観客たちの歓声の中、最後の戦車の御者と戦士にとどめをさして引き上げようとしたジュバたちの前に、よほど試合が面白かったのか、満足げに笑みをたたえた皇帝が、あの厳しい顔の近衛隊長を従えて現れた。まだ若い、華やかだが子どもっぽい感じのする男で、イスパニア以上か同等の何かを持った男を予想していたジュバは一瞬とまどった。
 皇帝はいかにもきげんよく、彼らに話しかけ、イスパニアに名前を尋ねた。その前に近衛兵から武器を捨てるよう命じられた後で、皇帝を見ていったんひざまずいた時、イスパニアの手が、砂の中から、折れた槍の先を拾い上げたのを見たジュバは、皇帝に襲いかかるつもりなのだろうかと気にしていたが、例の小さい男の子が走り寄って来て、皇帝にまつわっていたためか、イスパニアは何もしなかった。だが、名を名乗れという皇帝のことばには従わず、背を向けて立ち去ろうとした。それは非常に非礼なことであったのらしい。上機嫌だった若い皇帝の顔は、みるみる怒りにひきつった。
 「私に背を向けるとは何事だ!」鞭で打つような激しい声がイスパニアの背後から飛んだ。「名乗れと言っているんだ!そこの奴隷!」
 イスパニアは小さい吐息をついたようだった。彼は最後の抵抗をしているように見えた。このままでいたい。何にもなりたくない。かぶとをとって振り向いて、皇帝と向き合った時、彼がまだそう言い続けているような気がジュバはした。
 ゆっくりと、まるで何かに別れを告げているように、一言一言、彼は言った。
 「私の名は、マキシマス・デシマス・メレディウス。フェリキス隊の隊長、北方軍団の将軍だ。まことの皇帝マルクス・アウレリウスにお仕えする者、妻を殺された夫、子どもを殺された父だ。その復讐を必ずとげる。この世でなければ、あの世で果たす」
 怒りにみちた声だった。だが、なぜかジュバにはその怒りは、名乗らせたことそのものに対する怒りのように感じられた。なぜ私をそっとしておかない、この愚か者、と吐き捨てる声のようにさえ思えたのだ。
 それは、イスパニアの顔を見、その声を聞いた皇帝が、呆然としてまるで自分に手のつけようもない機械を動かす掛け金をうっかりはずしてしまった子どものような表情でイスパニアを見つめたからかもしれない。彼は何も言おうとしなかったし、何もしようとしなかった。
 それを見た近衛隊長は、さっと横に一歩動いて、剣を抜くよう兵士たちに命じた。すかさずジュバたちも誰からともなく一歩踏み出し、イスパニアをかばって守る体勢になった。
 両者はにらみあったが、その頃から観客席が騒然となりはじめた。ジュバにはそのしぐさの意味もわからなかったのだが、殺すなという合図の親指を高く上に上げるしぐさで、大勢の人が手をあげて振り回しはじめた。「殺すな!殺すな!殺すな!」という声が次第に高まり、大合唱となって、闘技場全体をゆるがせた。
 皇帝は、その声にまたみるみる度を失って青ざめた。殊更に落ち着いて笑いを浮かべて、なだめるように客席に向かって手を上げながら、彼はちらちらとイスパニアを見たが、その目には何だか傷ついた怒りのようなものがこもっていた。なぜ、おまえは私にこんなひどいことをするんだ、と責めているようでもあり、イスパニアが何か言ってくれないものかと願っているようにさえ見えて、ジュバはまた混乱した。ひどいことをしたのは、この男のはずだし、相手をどうでもできる力を持っているのもこの男のはずなのに、それがまるで逆のように見えたのである。
 イスパニアは黙っていた。ジュバの頭の中で何かが逆転してしまったせいか、その様子は意地悪そうにも見えたし、情けなさそうで悲しそうにも見えた。とうとう皇帝は自分も高く指を上に向けてジュバたちを許す合図を送り、大喝采がコロセウムをゆるがす中、憎しみにみちた目をもう一度イスパニアに向けて、引き上げて行った。少年はそれを追って走って行き、近衛隊長はちらとイスパニアを見た。そしてイスパニアが軽く拳を胸にあてて挨拶を送ったのには応えずに、身をひるがえして皇帝たちと同じく、アリーナの出口に消えた。

(9)
 ふりそそぐ雨季の雨を思わせるような、暖かく長く続く拍手の音がコロセウムをいっぱいに満たした。これほどの愛情と賞賛を拍手の音にこめられるものだろうかとジュバが驚いたぐらい心をこめて、熱心に、いつまでも人々は拍手を送りつづけた。
 ハーケンが満足そうにそれを見回している。
 しかし、彼さえも、その客席に向かって手を上げて応えることはしなかった。
 もとより、コロセウムで戦った経験があり、しきたりをよく知っているフリウスやパリス、レピダスたちは笑顔で観客席を見回すだけで、何もしようとはしなかった。
 彼らは皆、待っていた。新しく生まれた彼らの指導者、フェリキス隊の隊長でも北方軍団の将軍でももはやなくなった男が、自分たちの新しい指揮官として、皆を代表して人々に挨拶を返してくれるのを。
 イスパニアはコロセウムをゆっくりと見渡し、かぶとをつかんだままの片手を高く宙に突き上げた。
 すさまじい拍手と歓声がまた一段と強くなる。それは、イスパニアが手を下ろし、彼らがアリーナを出て、昇降機に乗り、もと来た通路に戻るまで、いつまでも響きつづけて、いっかな弱まる気配もなく、彼らの後を追って来た。

(10)
 「往生際の悪いやつだな、つくづく、もう」朝の浴場でフリウスが、さじを投げたように言った。「あそこまでやっておいて、まだ、おれたちの指揮官になる決心がつかないってか?」
 「いや、そうはっきり言ったわけじゃないさ」パリスが太い腕を回して筋肉をほぐしながら打ち消した。「だが、マキシマス、と呼んでもあいつ、返事をしないしな」
 「へ?おれが呼んだら振り向いたぞ」かたわらからヘルマンが言った。「昨日の夜、食堂で」
 「うん、おれもマキシマス、と声をかけたら黙ってこっちに来たけどな」ソシアが首をかしげた。「ためしにイスパニア、とも呼んでみたら、誰のことかわからないような顔をしていた」
 「ふうん、おれはマキシマスと呼んだら、聞こえてるはずなのに無視されたが」リシウスが言った。「イスパニアと呼んだら答えた」
 「混乱してるな、本人も」レピダスが言った。「ジュバ、おまえは?」
 「どうかな、どっちでも答える気がするが。いや、待ってくれ。そもそもおれが、適当にそのときどきで呼んでるからな。よくわからんよ」
 「おれもだ」ガルスが言った。「そんなに重要なことかい?たかが、名前だろう?」
 「重要だ」レピダスがきっぱり言った。「いいか、皆。あいつのことはもう金輪際、イスパニアとは呼ぶな。あいつが返事をしようとしまいと、マキシマスと呼ぶんだ、いいな?」
 「そんなの、何か、かわいそうだぜ」ハーケンが言った。
 「ここが大事な時で、あと戻りはできん」レピダスは言った。「あいつだって迷ってるんだ。おれたちが譲らないとわかれば、あきらめる」
 「そうかい?」フリウスが舌打ちした。「このごろ、だんだんわかって来たが、あいつのあきらめの悪さと強情っぱりは、ミノタウロスなみなんじゃないか。だいたい、コロセウムから引き上げる時、地下通路でも道路でも、剣闘士仲間や群衆が声を限りに叫んでたんだぞ。マキシマス!マキシマス!って。コロセウムでも都でも、あんなに皆が夢中になって一人の男の名を呼ぶのを、おれはこれまで聞いたことがない。あれを耳にして、それでもなお、まだイスパニアのままでいられるかもしれんなんて、ちょっとでも思う神経が、おれにはわからん」
 「耳にしてなかったのかもしれんだろうが、だって」パリスが言った。「あの間中、帰り着くまでずっとあいつ、にこりともしないで、皆の声にも応えなかったんだから」
 「聞いてないふりをしていれば聞かなかったも同じこと、聞かなかったらその声は存在しないも同じこと」ジュバがつぶやいた。
 「哲学するな」リシウスが怒った。「わかった、レピダス、おまえの言うとおりだ。誰ももう、あいつのことをイスパニアとは呼ぶなよ」
 「イスパニアと呼んでくれ、と頼まれたらどうするよ?」ヘルマンが心配した。
 「いくらあいつでも、そこまで恥知らずじゃなかろう。子どもじゃあるまいし」フリウスが言った。

(11)
 その夜、小部屋で二人きりになった時、ジュバが「マキシマス」と呼ぶと、イスパニアは座り直してジュバを見て、面白そうに「その名で呼ぶことに、皆で決めたのか?」と聞いた。
 「いやなのか?」
 マキシマスは首を振った。「別に」
 ジュバはマキシマスの前に行って座り、「皆はおまえに、指導者になってほしいんだ」と言った。「この名で呼んだら、そうなってくれるんじゃないかと期待している」
 マキシマスは黙っていた。ジュバは続けた。「コロセウムでそうだったように」
 マキシマスはかすかに笑った。「あれは、ただ、生きるためだよ」
 「反乱だって、そうじゃないのか」
 目をそらしただけでまた、マキシマスは答えなかった。
 ジュバはしばらく待っていたが、マキシマスがそのまま何も言わなかったので、話を変えた。「コロセウムで何かわかったのか?」
 マキシマスは我に返ったようにジュバを見た。「ん?」
 「コロセウムに行ったら、この都のことが何かわかるかもしれないって言っていたろう、ここに来た日に」
 「ああ…そうだったな」マキシマスはうなずいた。「そうだな。わかったと言えばわかったかもしれない」
 「どんなことが?」
 「辺境でもここでも、基本的には民衆は同じだ」静かな声でマキシマスは言った。「勝者が好きだし、すぐに寝返る。あてにはならないが、油断はできない」
 かすかな恐怖のようなものを、ジュバは初めてマキシマスに感じた。
 「彼らに…感謝しなかったのか?」
 「誰が?おれがか?」
 マキシマスは本当にふしぎそうに聞いた。
 「彼らがいなければ、おれたちは今ごろ生きていないだろう。それに、あれだけ拍手かっさいされて、名前呼ばれて、おまえうれしくなかったのか?」
 「おれがしたことは」マキシマスはつぶやくように言った。「ローマ軍のかっこうをさせられた、かわいそうな剣闘士たちを二十人ほど殺しただけだ。それで拍手されたって、名前呼ばれたって、うれしいもんか。おれたちを助けてくれたのは、確かにありがたいけど、あれは、彼らは、血を見るのにあきたんだよ。今度は人の命を助けるのが面白くなっただけだ。おれたちの命は、彼らの手のひらの上でもてあそばれている。そんなことに喜べないよ。感謝もできない」
 彼は暗い顔をしていた。いつか辺境で、戦うことを拒否しつづけてハヴィルとジュバを心配させていた時の、遠いまなざしを再び彼はしていた。「でも」と思い直したように彼は言った。「彼らの動きを無視はできない。なら、いっそのこと、彼らがどこまで私のことを気に入っていて、どこまで私のわがままを、我慢して見逃すか、試してみるのがいいのかな」
 「彼らを試す?危険ではないのか?」
 「危険だろうな」マキシマスは薄く笑った。「ものすごく」
 ジュバはまた不安になった。アリーナの中で、恐怖を感じないようにのびのびとしていたマキシマスの様子といい、今のこの静かな底知れぬ暗さといい、この男の心の奥には、誰も見たことのないような何かが横たわっているような気がした。
 「おい、ジュバ!」隣の部屋からハーケンが小声で注意してよこした。「誰か来るぞ!」
 二人は耳をすませた。確かに重い足音が近づいて来る。やがて、三人の武装した兵士が現れ、部屋の中をのぞくようにして確かめると、ジュバたちの部屋の扉を開けた。入ってきた彼らはマキシマスに「立て!」と命令し、無言のまま立ち上がった彼を取り巻くようにして、部屋から連れ出し、廊下の向こうへ追い立てて行った。
 「おい、やつをどうする?何があったんだ!?」一人残って部屋の鍵をかけ直している兵士に向かって、ハーケンが物騒な調子の声で、脅かした。
 兵士は首をすくめてハーケンを見た。「心配するなよ。命に別状のある話じゃないさ。さる貴婦人があいつのことをお気に召して、大金を積んで夜伽のお相手に呼び出しなさったんだ」

(第五章 コロセウム・・・・・終)




第六章・夜

(1)
 マキシマスは夜中に戻って来た。ジュバが起きているのか確かめるように、しばらく寝台の方を見ていた。声をかけたら答えてやろうと思ってジュバが黙っていると、マキシマスは小さい吐息をついて自分の寝台に横になり、毛布にくるまってジュバに背を向けた。
 マキシマスはいつも、あっという間に眠る。起こすとすぐに目を覚ます。うなされているのも見たことがない。時々、夢を見ているのか息づかいが不規則になったり身体が動いたりするので起こしてやると、むしろ淋しそうな、見ていた夢をなつかしがっているような顔をした。こいつの夢の中では、きっと皆がやさしいんだろうなと、何となくジュバは思った。
 だが珍しいことにマキシマスは、その夜は眠らなかった。怒ったようにいらいら何度も寝返りを打ち、起きてくれないかと腹立たしそうにジュバの方を見ている気配さえしたので、ジュバはとうとう起き直り「どうした?」と聞いた。「眠れないのか?」
 「うん」マキシマスはすぐ起き直って寝台に座り、左右の部屋を気にしてうかがいながら、いらいらと足を踏みかえた。「バカにしてる!」
 「相手はどういう人だったんだ?」ジュバは聞いた。
 マキシマスは両方の部屋をまた気にし、声をいっそう低くした。「皇女だよ」
 「皇女?」
 「ルッシラっていうんだ。あの、正面の席に皇帝と並んで座ってた女」
 「ああ。皇帝の姉さんだってな?」
 「うん」
 「おまえに何の用があったんだ?そんな人が」ジュバは聞いた。「まさか寝たいというんじゃあるまい」
 マキシマスは彼らしくもないことをした。鼻でせせら笑ったのだ。「あの女となら子どもの頃、一生分はたっぷり寝たよ」
 本当に怒っているなとジュバは思った。それも、いつもの怒り方とはどこかちがう感じがした。

(2)
 「そうか」彼はおだやかにうけ流した。「じゃ、何の話だったんだ?」
 するとマキシマスは、じっとしていられないように立ち上がり、廊下に面した格子の扉のところに行って、その鉄格子をわしづかみにした。小さくゆすっただけだったが、夜中で、皆の寝ている時でなかったら、それを力の限りゆすって大声でわめいたにちがいない。実際には彼は息をはずませながら、吐き捨てるように「あのバカ女!」と小声でののしった。「ローマも、何だよ!?これだけ人がうじゃうじゃいて、頭の中にはどいつもこいつも馬の糞しかつまってないのか!?コロセウムに来て、人の死ぬの見て一物おっ立ててるぐらいなら、その前にもっとやることあんだろ、何で考えないんだよ、もっと…」彼は額を鉄格子にくっつけた。「まったく、何で…何でもう、おれなんだよ!?」
 「皇女は何と言ったんだ?」ジュバは繰り返した。「おまえの妻子のこと、謝ったのか?」
 「謝ったさ!」マキシマスは振り向いて叫び、あわてて左右を見回した。「何も知らなかった、悪いことをした、私も泣いたわ、父の死も悲しんだわ、ついては私の幼い息子が、次の皇帝になる予定の息子が、弟に命をねらわれているから、守ってほしい…」
 「おまえに?」ジュバは信じられずに聞き返した。
 「おれに!」
 「どうやって?」
 「今の皇帝を、弟を殺せと」
 「まさか」ジュバは呆然とした。「どうやって?」
 「元老院と手を組んで…」
 「もっとこっちに来い」ジュバは注意した。「人に聞こえるぞ」
 マキシマスはジュバの前まで戻ってきたが、座ろうとはせず、いらいらと歩き回っていた。「あの皇帝は」と彼は言った。「元老院とも対立していて、ローマのことを考える議員たち、ローマに命をささげる覚悟の政治家たちは多いけれど、誰も彼に逆らえずにいるんだと。皇帝に対立できる勇気のあるのは、あなたしかいないと皇女は言った…あのなあ!」彼は頭を振り上げた。「それって何だよ、ほんとに何の世迷い言だ!?あの皇帝に逆らって、殺される勇気もないやつが、どうして、ローマに命をささげる覚悟があるってことになる!?バカか、ほんとに!寝言みたいなこと、起きてて言うなよってんだ!だいたい、自分の弟なんだぞ、皇帝は!弟に忠告もできないで、人に殺せと頼んでおいて、父親殺した弟を笑えるか!?まったく、何て一家なんだ!?」

(3)
 「珍しいことではない」ジュバは言った。「おれたちの部族でも、そういうことはよくあった」
 「じゃ、それはいいよ、好きなだけ勝手に殺し合えよ。何で、おれに言うんだよ!おれに何かができるみたいに!だいたい、元老院は何してるんだよ、元老院は!?おれたち兵士が国境で、小便凍らせて戦ってた間中、都でぬくぬく過ごしてたんだろ、あいつら皆。その間、何してたんだよいったいまったく!あんな皇帝の一人や二人、何とかしろよな、てめえらで!」
 「元老院って、どの人たちだ?」ジュバは聞いてみた。
 「あそこにいたやつ。あの最前列で白いトーガ着てえらそうにしていたやつら」マキシマスは、やりきれないといったしぐさで、ぐいとあごを上げた。
 「立派に見えた」ジュバは思い出して言った。「あれがローマで一番えらい人たちか?」
 「皇帝の次に。いや、同じか、以上かもしれない」マキシマスは何かを握りつぶすように拳を握ったり、開いたりしていた。「えらい連中だ。とことん、いばってる。ぜいたくもしてる。毎日、元老院で国家について議論してる。金も持って、豪勢な屋敷に住んでる」マキシマスはかみつくような荒々しい目でジュバを見た。「な!?そんな連中ができないでいることなんだぞ!しようとしないことなんだぞ!それを、あの女、おれにやれって言うんだぞ!」彼は歯ぎしりした。「何でおれなんだよ!?何でおれが、そんなことしなきゃならないんだよ!?鎖につながれてる、最下級の、最低の、奴隷なんだぞ!貴族も、議員も、学者もできない、やろうともしないようなこと、何で、おれに頼むんだよ!?バカにすんじゃねえよ!あの鈍感な自己中心女!」
 「その人のこと、好きなのか?」ジュバは聞いた。
 マキシマスは、椅子をけとばしかけていた足を中途でとめて、あっけにとられて我に返ったようにジュバを見た。
 「な…誰が?」
 「おまえが。その皇女のこと」
 「何で?」マキシマスは急に静かな用心深い口調になった。
 「何でって言ってもな」
 「何でだよ?」マキシマスはしつこく聞いた。「言えよ」
 ジュバはほほえんだ。「おまえがそんなになりふりかまわず、人に怒るのを見たことがない」
 「だからって…何だよ、それ!何でそんなことに…ふざけんじゃねえよ!それじゃおれ、まるっきり変態じゃねえか、バカにすんなよ、頭にくる!…あ」彼は突然、何かに思い当たったように肩を落とした。「…そうか」
 「何だ?」
 「そうなんだな…」
 「何が?」
 「おまえ、おれがこうやって、おまえにあたりちらす時に似てると思ってるんだな…おれがあの女に怒ってるのを」
 「ちがうのか?」
 「たしかにおれは…」マキシマスはジュバを見た。「おまえに怒って、言いたいこと言ったり、腹を立ててもの言わなくなったりする、けど」
 「おれにだけじゃないだろ。皆にも時々な。ハーケンやガルスには特に」ジュバは言った。「だからって、嫌いなわけじゃない」

(4)
 「おれ、人とこんな風に…人にこんな風に怒ったり、こんなことば使ったり…怒って口きかなかったりしたこと、あまりないんだ」マキシマスは小声になっていた。「だから何だか珍しくて…楽しくて、つい」彼は吐息をついた。「でも、あの女…あの人にはそんなことしたことないよ。別れる時は傷つけあった…ひどい別れ方したけれど」
 「つきあってたのか?」
 「さっき言ったろ…まだ子どもだったんだよ。どっちも、はたちになってなかった」
 「奥さんとは?」
 「え?」
 「言いたいこと言い合ってたのか?」
 「うん。しょっちゅう」マキシマスは、かすかな重い吐息をついた。「最後に別れる時も、言い争いをした。何だかつまらないことで。お別れのキスはさせてくれたけど、妻はきげんが悪かった。私もそうで、だから、すごくいいかげんなキスをしてやった。しない方がまし、みたいな。我ながらひどいなと思って、出発してすぐ、馬を飛ばして引き返そうかと思った。想像したよ…表に馬をとめて、まっすぐ入って行く。びっくりして振り向く妻を抱き上げてベッドに放り出す。押し倒してめちゃめちゃにキスして、そのまま、ものも言わないで出て来ようか、なんて。そうしたら、後ろから、枕か何かが飛んできて、妻の笑い声が聞こえてくるだろうな、とか。でも、それとも、妻もとても抜け目ない、したたかなとこあったから、私が帰って来るのを見抜いて、どこかから見てて、待ちかまえていて、何かするかもしれないな、何するだろう…そんなこと考えている内に馬は勝手に進んでしまって、部下たちもいたし、それっきり、結局、私は戻らなかった。それが最後だった。本当に、最後になった」
 「子どもとは?」
 マキシマスは首を振った。「あの子はいつも、私が家を出て軍に戻る時は、どこかに隠れてしまうんだ。探すのがひと苦労で、だから、その時はもう、探さなかった。前の晩にたっぷり遊んでやってたし、そんなに間をおかずに帰って来れる予定だったから。帰って来る時はあの子はいつでも、まっ先にどこかから私を見つけて、かけ出して来てた。危ないほど馬すれすれにかけよって来て、私にすくい上げられるように抱かれて、馬の上に引き上げられるのが大好きだった。出かける時も、家を出る時は隠れているくせに、丘の上から振り向くと、石垣の上に座って、こちらを見ていることがよくあった。もう、顔なんか見えない、白い小さな点だった。私でなけりゃ、それが子どもだってことさえ気づかなかったろうな。でも、その最後の時は、私は怒ってて、振り向くのを忘れたんだ。多分、見送ってたと思うが、私は見ないままだった」
 マキシマスはジュバを見て、ほほえんだ。「今度会ったら、まっ先に」彼は明るい声で言った。「その時のことを二人に、謝らないと」
 「もうわかってるさ、二人とも」ジュバは言った。「おまえのこと、笑ってるよ」
 「ああ。そうかもな」
 マキシマスはようやく寝台に戻って腰を下ろしたが、まだ少し肩で息をしていて、ジュバを見ながら甘えたように笑って「眠れそうにない」と、ぽつんと言った。
 「いいさ。おれもだ」ジュバは言った。「どうせ明日は試合もないし、もう少ししたら朝になる」
 するとマキシマスは、安心したような、うれしそうな吐息をついた。何から話そうかと考えているようにジュバを見て笑うので、ジュバも思わず笑いながら「皇女だって、びっくりしたのさ」と言った。「あの、コロセウムで、おまえが誰だかわかった時には。きっと、今まで相談相手が誰もいなくて心細かったんだろう」
 「うん」マキシマスはうなずいた。「そうだよな」自分に言い聞かせるように、彼はそうつぶやいた。

(5)
 「ジュバ、あの時のおれに」マキシマスは低くせきばらいした。「おまえ、腹が立たなかったか?」
 「どうして?」
 マキシマスはしばらく黙っていてから「見たんだろう?」と言った。「おれが槍の先を拾って、ずっと持ってたの」
 「ああ」
 「馬から下りる前に、槍を構えていたのも?」
 「それは気づかなかったな。そんなことしてたのか?」
 マキシマスはまたしばらく何も言わなかった。
 「気づかなかったのか?」彼はようやく、また低く言った。「おれが何をしようとしてたか」
 ジュバは少し考えてから「あの男を殺そうとしてたのか?」と聞いた。「皇帝を?」
 「そうだ」マキシマスは、やはり低い声で言った。「目の前に見たとたん、殺したくなった」
 「妻と子の仇だもんな。おまえが前に仕えてた人にとっても」
 「それもあった」マキシマスは唇を小さくゆがめた。「それももちろんあるけれど、それより、あいつを見たとたん…」
 「何だ?」
 「醜くて、見るにたえなかった」
 「…醜い?」ジュバは首をかしげた。
 マキシマスは何度か小さくうなずいた。
 「美しい男におれは見えたがな。着ているものも立派だった」
 「外見のことを言ってるんじゃない」マキシマスは首を振った。「いや、外見のことだろうか。とにかく、とても情けなかった。安っぽくて、けばけばしくて、浮かれていて、ひとりよがり…見ているこっちが恥ずかしかった。見ているだけで拷問だった。あんなもの!あんなもの、あそこにおいておくなんて、ローマ市民も、クイントゥスもルッシラも、皆、何考えているんだろう?そう思った。本当にもう、見るのもいやで…」
 ジュバはちょっと微笑した。マキシマスのその様子は、毒草のある茂みに入りたがらずに後ずさりしている馬にも少し似ていたが、それよりも、きちんと片づけた小屋の中にジュバが泥だらけの籠をうっかり置きっぱなしにしていたのを見つけた時の、うんざりして鼻にしわをよせている妻の顔や、好みでない腕輪を親戚から貰ってしまって、それを部族の集まりにつけて行かなくてはならなくなって、べそをかいている時の娘の顔を思い出させた。
 「小さい時のあいつを、知ってるんだよ」マキシマスは少し明るくなって来た廊下の方を見ながら言った。「皇太子だった頃の。弱虫で、泣き虫で、甘ったれだったが、あんなみっともないバカじゃなかった。お父上を殺してもいい、おれの家族を殺したっていい、あいつがそうまでしてなりたがった皇帝になって、本当に立派になって、みごとに堂々と、こっちの頭が下がるような姿を見せていてくれたら、くやしいけれど、おれは屈服したと思う。あんたはその器だった、おれたちの犠牲の上に、あんたがそこに君臨しても文句を言えないほどの生まれながらの支配者だ…そう認められたら、それなりに幸福だったかもしれない。だけど、出てきたのはあれだった。あんなものを、あんなところに座らせるために、皇帝陛下もおれの家族も死んだのかと思ったら、怒りが以前の何倍にもなった。あいつの回りの人間にも、ローマ市民にも、おれはほんとに腹が立って…」
 憎むのは苦手なんだ。でも、怒るのは得意なんだな。ジュバは見ていてそう思った。
 「それで?」
 「だからもう、いやでいやで…あんなやつ、消してしまいたくて」マキシマスは首を振った。「その後、自分がどうなろうと」

(6)
 「それで?」ジュバはまた、うながした。
 「だからあいつを殺そうとした。あの場で」マキシマスはちょっとそわそわした。「気づいたんだろ?」
 「おまえがすごく、いらいらしてるのはわかった」ジュバは言った。「あいつから一歩でも遠ざかりたがっているのは」
 「見るにたえなかったんだ」マキシマスは繰り返した。「あんなもの、クイントゥスはどうして毎日、見ていられるんだろうかと思った。あいつだってそんなにバカじゃないはずなのに、バカってうつるのかと思って、そばにいるのが恐くなった」
 ジュバはとうとう吹き出した。マキシマスは傷ついたような目でジュバを見て「本当にそう思ったんだぞ」と言った。
 「わかった。悪かった」
 マキシマスは首を振った。「悪いのはおれだ。二度、あいつを殺そうとし、次にあいつに背を向けた。おれが死んだらどうなるかなんて、おまえたちのことなんて、まるっきり考えなかった」
 「ハヴィルだってそうだったろ。突然いなくなった」
 「ハヴィルはおれに押しつけて行ったんだよ。おれにはそれがわかってた。いやだったけど。ああ、またかと思ったけど」
 「またか…?」
 「おれに押しつけて…自分はいきなりいなくなって…」マキシマスは吐息をついた。「皇帝陛下もそうだった」
 彼はしばらく息をととのえていてから続けた。
 「いやだったけど、言われたことはわかってたんだ。ハヴィルは口に出して言ったんじゃないが、それでも、わかってた。だから、ちゃんとやるつもりでいた。なのにあの時、完全に、おまえたちのことを忘れていて、考えなかった。何であんなに…あんなに我を忘れたんだろう」
 マキシマスはまた、長いこと黙っていた。
 「おれはあいつが好きだった」彼はやがて、つぶやくようにそう言った。「あの時、コロセウムで向かい合った時、本当にこいつのことがおれは好きだったんだなあと思った。ルシアスを…子どもをあいつが、抱いてたろ?かけよって来た、皇女の子ども」
 「あれでおまえが、飛びかかるのをやめたんだと思っていたが。あの子をまきぞえにしたくなくて」
 「そうだったけど、それとは別に、あいつがあの子を抱いてるのを見ると、あの子はあいつの昔と似てはいないんだけど、それでもあいつを思い出した。あのくらいの年頃だった。おれがあいつと初めて会ったのは。淋しがりで、気むずかしくて、身体の弱い、ほんとに黙って見ていられないぐらい、ひとりぼっちの子どもだった。おれはあいつをかわいがった。それがあんなに、みっともない、変なものになってしまうなんて、情けなくて、情けなくて、腹が立って。ああ、こいつはやっぱり今も、一人ぼっちなんだなあとよくわかって。誰も、こいつがこんなにみっともないことになってるのを、気にもしてないんだと思って、やりきれなくて」
 彼が手首でまぶたを押さえたのをジュバは見た。
 「あいつのために泣いてるのか?」
 「他に誰もいないだろ?今だって、この世界の中で誰ひとり、あいつのことを心配しているやつなんかいない。あいつはたった一人で、宮殿の奥で、世界の中心に座って、誰にも助けてもらえずに、一人でいろいろ考えているんだ。そんな頭もないくせに」マキシマスは涙をのみこんだ。「何て不幸なんだろう…」
 「おまえもよっぽど傲慢だな」とうとうジュバはそう言った。「よくそんな余裕が」
 「余裕?」
 「さっき、自分で言ってなかったか?おまえは奴隷なんだぞ、鎖につながれた、どん底の。それが、宮廷で何百人もの家臣や召使にかしづかれている皇帝を、哀れんで、泣くのか?」
 「おれには、おまえがいる。おまえたち皆がいる。こんなにわがままで自分勝手なおれなのに、気にしてくれて、守ってくれる。ハヴィルだってそうだった。おれは淋しいと思ったことはないし、ちっとも不幸なんかじゃない」

(7)
 「いくら何でもそれは少し…」ジュバは言葉を探した。「言い過ぎなんじゃないか?」
 マキシマスは首を振った。「時々、ほんとに、真剣におれは思う。こんなことにならなければ、おまえやハヴィルに会えなかった…ハーケンにもガルスにもソシアにもクレオンにも…いや、ヘルマンやシギスムントにだって、会わなけりゃ、おれは何も知らないままだった。何もわからないで、あのまま、皇帝になっていたらと思ったら、おれはほんとに、ぞっとする。おれは本当に幸福だった。おまえに会えたっていうだけでも、自分の幸運が信じられない」
 「おまえ、本当にバカだな」ジュバは笑った。「本当に」
 「あの時だって、皆は…おれは皆のこと忘れてたのに、おまえたちは皆、おれをかばおうとしてくれた。あの時初めて、はっと我に返ったんだ。それまで自分じゃないみたいで、何をしてるかもわからなかった。コロセウムに出て、あいつを見てからずっと変だった、おれは。あの時、おまえたちが兵士たちの剣の前におれをかばって進み出てくれて、やっと自分に戻った。何て自分は無責任だったのかと思って、すごくつらかった」
 「かばわれたのが、つらかったんじゃないのか?」ジュバは笑った。
 「え?」
 「そう思っただけだ」
 「なぜ?何で?」
 マキシマスは明らかにあわてていた。まつ毛が目ばたきして、口調がせきこんでいた。
 「どうしたんだ?」ジュバは首をかしげた。「何でと言われてもな。あの時のおまえ、ちょっと迷惑そうだったから」
 「おまえはおれの横にいたろう?」マキシマスは食い下がった。「顔なんて見えたのか?」
 「見えてはいないが、気配かな」
 マキシマスは座ったまま横を向き、拳で軽く何度も壁をたたいた。
 「ちがうのか?」ジュバは柱によりかかった。
 「おまえには何もかくせない」マキシマスは、あきらめたように言った。「だからいやなんだ、いっしょにいると」

(8)
 ジュバが笑って黙っていると、マキシマスはため息をついて向き直り、まじめな口調で、「本当に、ありがたかったんだ、あの時の皆のことは」と言った。「でも、その一方で、放っといて、一人で死なせてくれりゃいいのにと思ったんだ。それはどっちも嘘じゃない。おまえだってそうだ。すごく何でもわかってくれて、黙って見ててくれるから、幸福だけど、時々、恐い。自分でも知らなかった変な自分が、おまえの前だと出てきてしまう。おまえは、だませない。だましにくい」
 「そんなに人をだましてきたのか?」ジュバは聞いた。
 「相手に好かれたい、喜ばせたいと思って、背伸びして、無理したこともある」マキシマスは言った。「相手を守りたい、傷つけたくないと思って、本心を見せなかったことも。かまわれたくない、目立つまいと思って、自分をかくすことも、よくあった。だけどおまえは、おれなんかいなくても幸福そうだし、強いから何言っても傷つきそうにないし、おれにかまっても来ないから、だます必要もないし。第一どうしてだましていいのか、その方法もわからない」
 「最初はかまって、いやがられた。忘れたのか?」
 「よく覚えてない」
 ジュバが黙っていると、マキシマスは吐息をついて「あれは」と言い直した。「おまえたちといっしょにいたかったからだ。かまわれたくはなかったけど、そばにはいたかった」
 「その前は?さわられるのをいやがってたろ?」
 「さわられるのも、かまわれるのもいやだったけど、おまえたちといっしょにいないと、生きられないとわかってた」
 「生きたかったのか?」ジュバは静かに聞いた。
 「だと思う」マキシマスはジュバを見つめた。「聞かれたら、そうは答えなかったろうが」
 …人間というのはね、ジュバ。
 祖母の声が突然、おごそかな重々しい響きで、耳によみがえった。
 …生きるしかないんだ。死にたいと思えば思うほど、深く絶望するほど、生きていくしかない。
 …そういうようになってるんだよ。人間も、この世の中のしくみも、はじめから、そういう風に、できているのさ。

(9)
 マキシマスが呼び出された話はハーケンを通じて翌朝には皆に知れ渡っていた。本人には事情を聞きにくいと見えて、例によってジュバが質問責めにされた。困ったジュバは、幼なじみの皇女が彼を呼び出して、思い出話をしたがったのだ、と説明した。皆、一応それで納得したが、何となくまだ気にして、やや遠巻きにマキシマスを見守っていた。
 その日の夕方、訓練が一段落した時、マキシマスは話があると言って、回廊の端に皆を集まらせた。
 「ジュバから聞いているだろうが、ゆうべ、おれは皇女に呼ばれた。元老院と協力して、今の皇帝を倒してくれと頼まれたんだ」顔を見合わせ、表情をこわばらせた皆を、マキシマスは落ち着いて見回した。「おれは、腹が立った。その理由はいろいろあるんだが、ひとつだけ、ここで言う。おれは、ローマの民衆が本当に気の毒だと思った」
 また皆が顔を見合わせる。「それはどういう意味なんだ?」フリウスが眉をひそめて、そう聞いた。
 「ジュバには話したことがあるが、おれは、たとえ命を救われても、コロセウムの観客に感謝の気持ちなどは持ってない」マキシマスは言った。「辺境でも、ここでも、剣闘試合を見に来る者なんか、好きにはなれない…大っきらいだ。でも、それとは別に、ゆうべの皇女の話を思い出している内に、あそこに来ている連中も含めた、ローマの市民たちが、哀れでたまらなくなった。誰も、彼らのことを考えていない。恐れたり、きげんをとろうとはしていても、それは自分に都合よく彼らを利用するためでしかない。彼らは放っておかれてる。好きなものだけ与えられて」
 回りの剣闘士たちのことをマキシマスは一瞬、忘れているようだった。そこにいない誰かに話しかけるように彼は小さくつぶやいた。「こんなにひどいなんて、こんなに望みがないなんて、思ってなかった。ローマにはもう、自分で自分を再生できる力はない。それをつくづく、おれは今、感じている」
 フリウスが小さくうなずく。誰の目も力をこめてくいいるように、マキシマスに注がれていた。
 「この都がそれほどに腐っていて、自分たちでよみがえる力もないのだとすれば」マキシマスの声にはふと、氷のような厳しさがこもった。「おれたちがやるしかあるまい」
 「ローマの再生をか?」リシウスがささやく。
 マキシマスはうなずいた。
 「それは、おれたちの手で、ローマを亡ぼすということか?」パリスがたずねる。
 マキシマスはまた、うなずいた。

(10)
 「フリウスたちが、前に計画していた通り、都の中でまず決起する」息をひそめているような一同を見回して、マキシマスは低く言った。「各訓練所で連絡をとりあって、まず近衛隊の本部をたたいて、やつらを武装解除する。都を制圧すると同時に城門を閉鎖し、情報が地方の軍に伝わらぬようにする。一方で、馬を飛ばして、地方や辺境の奴隷たちに蜂起を呼びかけ、蛮族たちにもローマ軍を攻撃するよう連絡をとって、軍を前線に釘づけにする。決行の日時と細かい仕事の分担は今から相談するが、何より、他の訓練所の奴隷たちとの連絡体制を至急に確立しなくてはならない」
 皆が次々にうなずいた。
 「それからこれは、特に聞いてほしいのだが」マキシマスは言った。「都の民衆を傷つけるのは最小限にとどめたい。掠奪、放火はもちろんだめだ。気の毒だからでも、かわいそうだからでもない。反乱が成功するには、彼らの支持が必要なんだ。彼らが敵に回るか味方につくか、それとも傍観者を決め込むか、それによって戦況は決定的に変わる。味方にできないまでも、せめて傍観させなければ、おれたちに勝ち目はない。近衛軍を孤立させ、皇帝を悪者にし、おれたちが正義をもたらすものとして、彼らの目に映るようにしなければならない。そのためには、民衆に反感や恐怖を与えるようなことは、いっさい、断固としてつつしまなければ」
 ハーケンが眉を上げて口の中で何かぶつぶつ言い、ヘルマンは黙って強くマキシマスを見つめた。
 マキシマスはヘルマンの目をまっすぐに見つめ返した。「ヘルマン」彼は低い、力をこめた声で言った。「この反乱が成功しなければ、死んだ者たちは悲しむだろう」
 長い沈黙が続いた後、ヘルマンがうなずいた。「わかった」彼はあっさり言った。「おまえの言う通りだ」
 「もう一つ、これは反乱の成功とは関係ない、おれの個人的な頼みだが」マキシマスは皆を見回した。「皇帝一族の命は、おれに預けてくれないか」
 皆、またちょっと顔を見合わせた。
 「生かしておいて危険はないか?」レピダスが危ぶんだ。「特に皇帝は。軍が、それをかついで忠誠のよりどころにする可能性は?」
 「軍について言うなら、むしろ心配なのは」マキシマスは答えた。「彼らが自分の中から勝手に新しい皇帝を選んで、それをかついで都に押し寄せることなんだ。だが、都に皇帝がかたちだけでも生きて、残っていると、かえってそれはやりにくくなる」
 「たしかにな」レピダスは納得した。「その件はおまえにまかせるとしよう」
 「今日の話はここまでだ」回廊の向こうを横切った兵士の影を見ながら、マキシマスは言った。「後はおれとレピダス、フリウスの三人で相談して詳しいことを決めてから、また皆に連絡する」
 「それでいい」パリスが抑えきれない喜びの笑いに、唇を小さくほころばせながら、うなずいた。

(11)
 革の焼けるいやな匂いに、ファティマは言葉を切って、サヴィナの方を見た。
 「サヴィナ!長靴が燃えているわよ!」
 サヴィナはあわてて、たき火のそばにのばしすぎていた足を引き寄せた。「あーあ」と彼女は焼け焦げた長靴の先を見ながら、情けなさそうに顔をしかめた。「先月、盗んだばっかりの、まだ新しいやつだったのに」
 「ご愁傷さま」ファティマは言った。「もっとも、あんたをしばり首にしたら、村の誰かのものになるんだからね。せいぜい大事に使っておいて」
 サヴィナは笑った。「あんたの話が面白くて、ついついぼんやりしちゃったのよね」彼女は言った。「話し上手と皆からほめられない、お嬢ちゃん?」
 「見えすいたお世辞はよして」ファティマは星の光っている空を見上げた。「それに、ここから先の話するのって、私、いつでも本当はいやなの」
 「なぜ?その反乱、成功するんじゃないの?」
 「ローマは今もまだあって」ファティマは軽く肩をすくめた。「私たちを苦しめているじゃない」
 「そりゃそうだけど、でも反乱が成功しなかったならどうして、あんたの村の長老は、ジュバは無事で帰ってきたのよ?」サヴィナは言った。「だって、帰ってきたんでしょう?」
 「ええ。その友だちを…マキシマスという人を連れて」地平線の方を見やりながらファティマはうなずいた。「そして、年老いて死ぬ最後の日まで、二人はいっしょに狩りをしたそうよ。丘の上でも、森の中でも、川のほとりでも、長老のいるそばにはいつもその友人の姿が見えた。そう伝説は伝えているの」
 「ハッピー・エンドなんじゃない」サヴィナはからかうように言った。「いいの?もうそんな、お話の結末を教えてしまって」
 ファティマはサヴィナをにらんだ。「私がこの物語をあなたに話すのは、楽しんでもらうためじゃないのよ」彼女は言った。「長老がその友人を救ったという一言を、あなたに考えてもらうためなんだから」
 「わかった、わかったわよ、お嬢ちゃん」なだめるように、ずるそうに、サヴィナは笑った。「恐い顔しないで、続けてよ」

(12)
 フリウスとレピダスが相前後して近衛兵に逮捕されたのは、それからほぼ半月後だ。彼らとパリスは皆の中心になって、都の奴隷や剣闘士の仲間との連絡網を作り上げて行き、ほとんどの剣闘士の訓練所が彼らと情報を交換しながら行動できる体制が整ってきた矢先のできごとだった。買収されて連絡係をつとめていた解放奴隷の一人が裏切り、密告して、一つの剣闘士訓練所の仲間たちが皆、とらえられた。
 「あの訓練所での皆のまとめ役は誰だった?」マキシマスが聞いた。
 「ネルヴァだ。だが、やつは連れて行かれる前に自殺した」リシウスが教えた。「裏切り者の解放奴隷をしめ殺した後でな」
 「訊問されて仲間の名前を吐かされるのを恐れたんだろう」パリスが言った。「あそこで、おれたちのことを知っていたのは、やつだけだ。だから、あそこの訓練所からは、もうこれ以上、計画がばれることはない。こんなこともあるかと、連絡の中身は皆、暗号を使い、名前も偽名にしていたからな」
 「そんなら、フリウスたちはなぜつかまったんだ?」ハーケンがうなった。
 「彼らはむしろ、以前の計画の時の首謀者として疑われて目をつけられていたんだ」リシウスが言った。「それで、今度も何か知っているのではないかと思われてひっぱられた」
 「あの二人はどちらも、連れて行かれる前におれに言った」パリスが押し殺した声で言った。「どんな目にあっても絶対に何もしゃべらないから安心しろと。マキシマス、心配するな。そう言ったからには彼らはしゃべりはしない」
 「しゃべらないのはわかってる」マキシマスは重い声で言った。「だからこそ…」彼は額に手を当てて何か長いこと考えていた。「無理だ、どうしても」と、やがて低く彼は言った。「計画の決行は、早められない」
 「あたりまえだ」リシウスが震える息をゆっくりと吐いた。「あの二人のためにそんなことして、もし失敗したら、あの二人が誰よりも怒る」
 「それこそ、あの二人、何とか殺してやれないのか?」ナザリウスがじりじりしたように言った。「兵士に金でもつかませて」
 「そんな金の余裕はない」パリスが言った。
 「おれをひいきにしてる女に頼む」ナザリウスは言い張った。「どっかの貴族と寝てもいい」
 「もういい。黙れ」リシウスが歯の間から押し出すような声で言った。「いいか。この中じゃおれが一番あの二人と親しかった。だからおれが決める。二度ともう、あの二人のことは言うな」彼は血走った目をマキシマスに向けた。「おまえもだぞ。いいな?」
 マキシマスは黙ってうなずいた。リシウスはくるりと背を向けると、歩み去って行った。
 「ポルクスがうらやましいな」クロトンが誰にともなく、低い声で言った。「生き残るほど、つらいことが増える」
 …一生、もみくちゃにされて。
 …人間というのはね、ジュバ。
 …人間というのはね。
 …たった一つの方法は。
 …こっちもだまされたふりをするんだ。

(13)
 その頃からマキシマスが眠れなくなっているのにジュバは気づいた。
 夜中に何度も起き上がり、月に照らされた中庭をながめたり、足音をひそめてそっと、部屋の中をいつまでも歩き回っていたりした。ジュバが起きて声をかけると、何でもない、と笑って寝台に戻り、毛布をかぶって明らかに寝たふりをしている。時にはうつらうつらするようだが、決して悪夢など見ない男だったのだが、息をはずませてはね起きて、長いこと壁にもたれて荒い呼吸をしたりしている。
 ある夜とうとう、そうやって寝台に行こうとしたのを引き止めて、フリウスたちのことが心配なのか、とジュバが聞くと、マキシマスは苦しそうに「それだけだったら、まだいいんだが、彼らのためにも絶対に成功させなくてはならないこの計画に、不確定な要素が多すぎるんだ」と言った。「自分の目で見られるだけは確かめ、情報も集めたが、それでもおれはまだ都の地図の半分も正確にはつかんでいない。民衆は今のところ味方につけていると思うが、それだってわからない。皇帝は人気取りにはたけている。何かうまいご機嫌取りを彼がすれば、民衆は一気にそちらになびくだろう。都を閉鎖したところで、いったい食料の備蓄がいくらあるのか、それさえもおれは知らない。辺境の仲間が蜂起しなかったら?蛮族たちが都へ軍が引き上げるのを喜んで、追撃をかけなかったら?」マキシマスはいらいらと短く刈った髪をかきあげた。「ああ、全部、おれの杞憂かもしれんさ。勝算がないわけじゃ決してない。それでも、あまりに危険すぎる」
 深く息を吸い込んで、彼は枕元で燃えている灯の小さい炎を見つめた。
 「近衛隊長はクイントゥスだ」彼はつぶやくように続けた。「私の戦い方も特徴も弱点もすべて知り抜いている男だ。おいそれとやられはせんだろう」
 「おまえだって、そいつの手の内を知っているんじゃないのか」
 「ああ、知ってるよ。勝つためには情け容赦をしない男だ」マキシマスは笑った。「民衆でも、皇帝でも、おれを敗北させるためなら人質にとりかねない」苦々しげに彼は笑った。「まったく、おれは何を考えてるんだろうなあ?もう、やるしかないとわかっている今になって」
 「皇女はあんたに弟を…皇帝を殺してくれと頼んだんだろ?」ジュバは言った。「元老院にも、あの皇帝を憎んでる議員は多いんだろ?それならいっそ、彼らにこの反乱の計画を打ち明けて協力をあおいじゃどうなんだ?」
 「それも考えた。というか、ずっと考えてきた」マキシマスは、うめくように言った。
 「実のところ、おれは皇女や元老院の協力が、のどから手が出るほど欲しいんだよ、ジュバ。彼らが味方についてくれれば、この反乱の成功の可能性は、今の倍以上か、もっとはね上がる。さっきおれが言った不安も半分近く解消できる。皇女は強く賢い人だし、したたかだ。手を組む相手としちゃ、あれほど心強い人はない。でもな、ジュバ。だからこそ、恐いし、信用できないんだ。おれは、いつも、あの人を。それに、あの人だって、いくら弟が憎くても、皇帝を倒したくても、奴隷や蛮族と手を組んで戦う気になんかなるだろうか?しかも、ローマをほろぼし、属州を解放し、奴隷をなくそうと思ってるような連中と?」
 「目的はちがっても、さしあたり同じ敵を倒すのに力を合わせるという方法はあるぞ」ジュバは言った。「そう言って説得できないのか?」
 「それも考えた」マキシマスは繰り返した。「たしかに可能性はないわけじゃない。でももしも、失敗したら、ただではすまない。おれはこうして、おまえたちといっしょにいた間に考えも、感覚も昔とちがってしまっていて、奴隷や蛮族の命や幸福を、あの人たちがどんな風に考えるのか、はっきりつかめる自信がないんだ。もし、失敗したら、おれ一人ならともかく、仲間の皆が血祭りにあげられるかもしれない、そんな危険は絶対に冒せない。そんなことはできない」
 マキシマスは両手で顔をおおった。
 「どんな戦いの前でも眠れなかったことなんかなかった。悪い夢を見たなんて話してるやつらのことが、いつも不思議でしょうがなかった。なのに、この頃は毎晩、眠れない。眠るのが恐い。何度も同じ夢ばかり見る。長く、地平線まで続く街道の両側にどこまでも、どこまでも、はりつけ柱が立っていて、仲間のひとりひとりが釘づけになって苦しみつづけている夢だ。おれ自身がどこにいるのかわからない。灰色のかたまりのようになって虚空をただよっているようだ。そして、苦しむ仲間の一人も助けられないし、声さえかけてやれないんだ」
 「皇女に話せ」ジュバは言った。「彼女を信じた方がいい」
 「言ったろう?おれは、あの人を信じられないんだ。賢すぎて、強すぎて…そうかと思うと、優しすぎて」マキシマスはうめいた。「おれの命だけだったら、預けるよ。でも皆の命は預けられない。いつも、あの人は、わからないんだ。いつも、おれの考えることの上を行く。いつも、おれにはあの人の本心が見えない」
 「おまえを愛しているんだろう?」ジュバは聞いた。「おまえも愛しているんだろう?」
 「わからないんだ」顔をおおった手の下から聞こえる声は、くぐもっていた。「いつも、わかったことがない」

(第六章 夜・・・・・終)




第七章・祖母

(1)
 以前、ジュバに話したように、マキシマスはコロセウムの観客たちにわざと無愛想にふるまったり、そうかと思うと思いきり笑いかけたりして、観客の反応を調べていた。プロキシモはそれで相当冷や冷やし、頭に来てもいたようである。一度、腹立ちまぎれにジュバと戦わせてやる、と言ったこともあるらしく、その時だけはマキシマスもかなり動揺していた。もっとも、プロキシモは本気でそうする気はなかったようで、ジュバが、「本気でそんなこと考えてたのか」と聞くと、「あいつを困らせてやりたかっただけじゃ」と言い返した。
 公平に見てプロキシモは剣闘士たちにはいい主人で、特にマキシマスには親切だった。ジュバに反乱計画について不安を語った数日後、マキシマスは寝不足とあまり食事もしていなかったのがたたったのか、体調を崩して寝込んでしまったのだが、プロキシモはジュバたちの目で見ても明らかにあわてて、マキシマスを自分の部屋のある別棟の建物の、鍵のかかる部屋に運び込ませ、そこで何日か静養させた。どうやら本気で心配しているらしく、医者を呼んだりして騒いでいた。息子のような気がするんだろうとガルスがからかうと、あんなひねくれた息子を持つぐらいなら、いっそオカマのキリンになった方がましじゃと、やけにいきまいた。
 数日たってマキシマスはジュバたちのいる建物に戻って来た。病み上がりらしく少しぼうっとしていたが、気持ちは前より落ち着いてきたようで、夜もうなされることはなくなった。物静かで穏やかになり、めったにものも言わなくなった。
 「大丈夫か?」
 ジュバが聞くと、素直にうなずいて笑い返し、明るい表情だったので、ジュバはもうそれ以上、何も聞かなかった。
 ある日、マキシマスは金色と黒の毛をいっぱい服や髪にくっつけて、コロセウムから帰ってきた。首筋や腕にも長いひっかき傷がいくつかあって、「どうしたんだ?」とジュバが聞くと、「トラ」と言った。
 「トラと戦ったのか?」ハーケンが目を丸くして、少しうらやましそうに言った。「で、どうだった?」
 「重かった」マキシマスはそれだけ答えて、浴場に行ってしまった。
 解放奴隷たちの噂話によると、その日、皇帝は帰ろうとするマキシマスを呼び止めて、妻子が死んだ時の様子などをことこまかに話して聞かせて彼をいたぶったが、彼は相手にしなかったらしい。最近の妙に静かな、何かがふっきれたような表情を思うと、それも納得できる気がした。それでも気になってジュバが、夕食後、マキシマスの様子を見に行くと、彼は寝台のそばの灯の前で、うれしそうに手の中に入るほどの小さな二つの木像をながめているところだった。どうやら女と子どもの像のようで、ジュバの見ている前で、彼はそれにそっと口づけした。

(2)
 「トラに勝ったほうびか?」ジュバはからかった。
 「かもな」マキシマスは楽しそうに笑って、木像を見つめた。「帰る時、コロセウムの入り口で昔の部下に会ったんだ。そいつ、おれが皇帝に逮捕されて処刑に連れて行かれる時、軍のテントでこれ見つけて、とっておいてくれたんだって。おれが逃げたことを知らないで死んだと思ってたらしい、ずっと」
 「昔の部下っていうことは、まだ軍にいるのか、そいつ?」
 「私の従僕だったから兵士というわけじゃない」マキシマスは返事も上の空で、うっとり木像を見つめては頬にあてたりしていた。
 奥さんと子どもの像なんだなとジュバは思い、そして自分がこれまでになく不安な気持ちになっているのに気がついて驚いた。まさか、奥さんと子どもの像に、こいつがこれほど愛情を示しているというので嫉妬しているということはあるまいな。そう思って苦笑しながら、それでもやっぱり不安だった。
 こいつが、まるで、おれたち生きている者に背を向けて、早く奥さんと子どものところに飛んで行きたがってるように見えるからだろうか。生きているのがもういやになって死にたがっているような。それでおれは、気持ちがいらだつのだろうか。
 そういうことなら、あるかもしれない。思えば、初めて会った時からずっとこいつは、疲れて悲しそうで死にたがっていて、それをおれは無理やりにこの世にひきとめ続けていたような気がする。
 だが、それは奥さんと子どもが死んだから、早く死にたがっているというのとも、少しちがうような気がジュバはした。奥さんと子どもが生きている時から既に、こいつにはこんなところがあったのじゃないだろうか。いつも、どこかへ消えそうな。いなくなってしまいそうな。鎖につないでおいても、檻に入れておいても、決して誰もその場につなぎとめておけないような。がっしりとたくましく重いはずの身体なのに、いつもはかなく軽そうで、目をこらしていないと透き通って見えなくなってしまいそうな感じさえする。
 だが、更にマキシマスを見ている内に、ジュバは思った。
 ちがう。確かにこいつにはそういうところがあるし、そこに自分がそういう不思議な切なさを感じてしまうのも事実だ。だが、この、今感じている不安は、それとはまた少し別物だ。もっと具体的で、もっと現実的なものだ。
 マキシマスが木像に無心に頬ずりしているのは、決して嘘ではない。だが、彼自身でも気づかず無意識に…そうすることで、彼は何かを隠そうとしている。自分の中に踏み込ませまいとしている。それは、妻子への愛情や、死へのあこがれなどではない。見ている者がそう思って、それ以上接近することを控えることすらも計算に入れて…
 彼は何かを、かくしているのだ。

(3)
 ジュバの予感は的中した。その翌日、マキシマスと二人で投げ槍の練習をしていると、いつになく厳しい表情をしたソシアがやって来て、二人を建物のはしの方にある、使われていない空き部屋の一つに連れて行った。そこには既に、ガルスとパリス、リシウス、ナザリウスがおり、更に間もなく、ハーケンとヘルマンも入って来たので、狭い部屋の中は互いの肩がぶつかりあうほど窮屈になった。
 「なあ、マキシマス」リシウスがいきなり、前置きもない切り口上で聞いた。「おまえ、何かかくしてないか?」
 マキシマスは澄んだ静かな目で見つめ返して、何も言わなかった。
 「今朝、訓練場の鉄格子ごしに話をしていた若い男は誰なんだ?」リシウスはたたみかけた。「回りに聞こえないほどの、ひそひそ声で、熱心に」
 「あれは私のもと従僕だ」マキシマスは穏やかに返事をした。「おとといコロセウムで私を見るまで、私が生きていたと知らなかった。処刑されたと信じていたんだ」
 リシウスはうなずいた。「で、彼に何を頼んだ?おまえが聞き返したり、とぼけたりする手間を省いてやろうな。別れる時におまえはあの男の手を握り、その後、彼の目を見つめながら、拳で軽く彼の胸をたたいたろう?人にものを頼んだり約束したりした時のおまえの癖だ。それを何人もが見ている」
 マキシマスは軽い吐息をついた。「そうか」彼はゆっくり椅子に腰を下ろした。「座ってくれないか、リシウス。皆もだ。いずれは話すつもりでいたから」
 態度はていねいだった。だがその雰囲気にはどことなく、あたりを払う威厳があって、否応いわせず相手を従わせる力に満ちていた。ややためらった後で、リシウスは座り、他の者もそれぞれ寝台や椅子に腰を下ろした。

(4)
 「で?」リシウスがうながした。
 考えをまとめるように伏せていた目をマキシマスは上げた。「あの従僕の話だと」かみしめるようにゆっくりと、彼は話した。「かつて私の指揮した軍が、今、ここからそれほど遠くない港町のオスティアに駐屯している。馬で走れば一日で行ける。私は、皇女と会い、元老院の議員に頼んで、プロキシモから私を買い取らせ、自由にさせて、自分がそこに行こうと思う。たとえ誰が今、指揮をとっていようと、私が姿を現せば兵は必ず私に従う。そのまま軍を連れて戻り、元老院に都に入る許可を得る。そして都を制圧し、皇帝を倒す」
 誰も、無言だった。
 「皇女には、おまえたちの計画のことは何も話さない。むろん、元老院にもだ」マキシマスは言った。「この計画が成功すれば、おまえたちは何も危険を冒す必要はないんだ。暴君は倒れるし、ローマは新しく生まれ変わる」
 「どんな姿に?」パリスが冷ややかな声で聞いた。「どんな、あるべき、正しい姿に?属州をしいたげ、奴隷たちを思いのままにする強大な力を持った、永遠に滅びないローマにか?」
 「なぜ、おれたちの意見を何一つ聞こうともせず」リシウスはむしろ呆然としていた。「勝手に計画を変更した?」
 「なぜ、気が変わった?」ヘルマンもくってかかった。「今になって、なぜだ!?」
 「めざすことは同じだ」マキシマスは言った。「ただそれを、軍と、元老院の手を借りて、やろうというのだ」
 「同じなものか」ガルスがかみつくように言った。「それはまるでちがう。全然、ちがう!」
 ヘルマンが大きく首を振った。「あんたは何を考えてるんだ!?」
 「聞いてくれ」マキシマスは二人を手で制し、とまどった顔の皆を見渡した。「まず、この方が絶対に、成功する見込みがあるんだ」
 「それは結局、おれたちよりも」押し殺した声でリシウスが言った。「ローマ軍の方が信用できるということか?」
 「ちがう。決してそうじゃない」マキシマスは強く言った。「だが…だが、正直言ってリシウス、おれはこんな…奴隷や蛮族を率いて、それも見たこともない連中を遠くから指揮して戦うような、そんな戦いをしたことがない。おれだけじゃない、誰だってしたことがない。だからどうなるか、まるで予測がつかないんだよ」
 「そんなことは覚悟の上じゃなかったのか?」パリスが言った。
 「覚悟してたさ。でも、ローマ軍だったら、おれはよくわかるんだ。おれが姿を現せばおれに従うということも、率いて戻れば確実に都を制圧できることも。おまえたちを危険にさらさないですむことも」
 「おまえが危険にさらしたくないのは、軍の連中だろう!?」ガルスが激しく言いつのった。「おまえは結局、そいつらと戦いたくないし、蛮族のえじきにもしたくないんだ。だから…」
 「ガルス。ちがう」マキシマスは首を振った。「おれは少しでも、危険の少ない、犠牲者が出なくてすむ方にかけたいんだ」
 「反乱そのものは、おまえの言うやり方の方が成功するかもしれん」パリスが静かに言った。「だが、成功した、その後が問題だろう?それでは、ただ、今の皇帝が倒れるだけだ。おれたちは奴隷のまま、蛮族は蛮族として虐げられるままだ」
 「おまえは皇帝になるんだろうがよ」ヘルマンが皮肉に笑った。「軍と元老院に支持されてな」

(5)
 「今の皇帝が倒れれば」マキシマスは即座にきっぱり言った。「この国のすべてを元老院にまかせる。おれは絶対、皇帝にはならない」
 「将軍、それは無責任です」ナザリウスが若々しい鋭い声で言い返した。「あなたのその計画を成功させるなら、あなたは絶対、皇帝にならなきゃだめだ。今の元老院にローマを立て直す力などありません」
 「それでは、ただの権力争いになってしまう、ナザリウス。元老院も納得しまい」
 「何をいまさら、きれいごとを」ナザリウスは叫ぶように言った。「あなたは現実に目をつぶっている。元老院なんかにこの国をまかせたらどうなるか、あなたが一番知ってるはずだ。元老院やローマの民衆が、剣闘士奴隷や蛮族や属州のことなど考えてくれるものですか!?あなた自身が皇帝になって奴隷を解放しなければ…」
 「誰にも解放してもらう必要などない」ガルスが叫んだ。「お情けはいらん。自由は自分の手でかちとる。マキシマス、言え。おまえは、おれたちを指揮してローマと戦うことを選ぶのか、ローマ軍を率いて、おれたちを見捨てることを選ぶのか?もしも、おれたちを見捨てるのなら、この際はっきりおれは言うぞ。おまえは裏切り者で、おれたちの敵だ。おれは、この反乱計画の首謀者として、おまえを役人に密告してやる。フリウスたちと同じような目にあってみろ、目がさめるぞ!」
 「ガルス!」パリスがどなりつけた。
 「こいつがあんまりバカだからだ、そういうことを言いたくもなる!」ガルスは荒々しく言った。「マキシマス、何でそんなにローマを愛する、ローマはおまえの何なんだ、おまえに何をしてくれた?おまえの妻が強姦されて子どももろとも生きながらはりつけにされて焼かれたのはな、わかっているのか、属州の女だったからだぞ!ローマの貴族の娘だったら、絶対、そんなことはされてない!そんなこともわからないのか!?それとも目をつぶっているのか?自分の息子も満足に育てられなかった皇帝の、子どもがわりのおもちゃにされて、皇女の夜伽の相手までつとめさせられてた愚か者!」
 「やめないかよ、ガルス」ハーケンがうんざりしたように言った。
 「一番大切なのは、この反乱が成功すること」マキシマスの強く静かな声が響いた。「誰がやろうと問題ではない」
 「誰がやるかこそが問題なのだ」リシウスが同じくらい強く確信に満ちた声で言い返した。「おれたちがやるか、軍がやるのか。それですべては変わってくる」
 「変わらないようにすると、おれが約束する。おまえたちのことは絶対に忘れない」
 「忘れない?」リシウスは静かに笑って、マキシマスを見た。「そうか、もう、そういう存在か、おまえの中で、おれたちは」
 「そんな意味ではない!」
 リシウスは立ち上がった。「マキシマス。おまえのさっきから言っていることばも声も、もう奴隷のものではないよ。ローマの将軍の声、皇帝のことばだ」彼は声のふるえるのをようやく抑えているようだった。「おれは聞きたくない、そんなものは」
 彼は皆をかきわけるようにして、大またに部屋を出て行った。
 パリスも立ち上がった。彼はマキシマスを見下ろした。「おまえは、おれたちのことを忘れないだろうし、救ってくれるだろう、マキシマス。それはわかっている」彼は落ち着いた声で言った。「だが、いくらおまえが権力を握っても、救えるのはせいぜい、おれたちだけだよ。ここにいない他の連中は?おれたちが顔も知らない、たくさんの、すべての仲間を解放できるか?」彼は首を振った。「おれたち自身が戦わない限り、それは無理なんだよ。どんなに可能性が低くても、それだけがたった一つのやり方だ。おれは、自分たちだけが、昔のよしみでおまえに助けてもらうような、そんな救われ方はしたくない。他の連中をそのままにして、おれたちだけが救われるような、そんな風にはな」
 彼も出て行き、ためらいながらハーケンがその後を追い、ガルスとヘルマン、ナザリウスも次々、部屋を出て行った。
 マキシマスは彼らをひきとめようとしなかった。黙って座って目を伏せていた。

(6)
 残ったのはソシアとジュバの二人だけで、マキシマスは彼らをちらと見た。
 「おまえたちはどうするんだ?」彼は聞いた。
 「おれはおまえについて行くよ」ソシアはふだんと同じ声で答えた。
 マキシマスは皮肉に笑った。「ハヴィルにそうしろと言われたのかい?」
 「おれがそうしたいのさ」ソシアはゆっくり座り直して苦笑した。「何すねてるんだよ?」
 マキシマスは苦笑した。「すまない」
 「皆、動揺してるだけだ」ジュバが言った。「明日になれば、気持ちも変わる」
 「おれもそう思うよ」ソシアがうなずいた。「元老院議員と会うのなら、急いだ方がいいぞ」
 マキシマスはうなずいた。「プロキシモに協力を頼む」
 「気をつけろ」ソシアが注意した。「おまえのことは気に入ってるようだが、一筋縄ではいかんじいさんだ」
 「ああ。わかってる」マキシマスは笑った。「でも、この計画なら協力してくれると思う。それも、こちらを選んだ理由の一つだ」
 「おまえ、ひょっとして、あのじいさんも死なせたくないんだろう?」ソシアも笑った。
 「できればだけどな」マキシマスはつぶやくように言った。

(7)
 マキシマスは皇女と会い、その紹介で元老院議員とも会ったようだった。プロキシモともいろいろ相談を重ねているようだった。けれども、こうしたことについて、彼はジュバにも、他の誰にも、もう話そうとしなかった。彼はますます、ひっそりと穏やかに、もの静かになり、気品さえただよう微笑を浮かべるようになった。ハーケンやガルスにはもちろん、ジュバにさえも決して怒ったり、つっけんどんな応対をしたりはしなくなり、いつも優しく細やかな気づかいを見せた。
 「あいつ、いやみか?」ガルスがある時、髪をかきむしってジュバたちにぼやいた。「おれがあいつに何を言った?こんな目にあわされるような、どんなひどいことを、あいつにおれはしたっていうんだ?」
 「こんな目って?」ナザリウスが聞き返した。
 「だから!」ガルスはうめいた。「何であんなにやさしいんだよ?何で何言っても何しても怒らねえで、あんなに静かに笑うんだよ?あいつじゃねえよ、あんなのは!昨日なんか、おれは食堂であいつに向かって、ハヴィルと比べりゃおまえはくずだと言ってやった。そうしたら、あいつ、うなずいて、こっちが泣きたくなるような穏やかな顔で笑って、私もそう思う、ガルス、と言った。何なんだよもうほんとに、いったい!?なぐりつけられて目ん玉えぐり出された方がまだましだぜ!」
 「それは、別にいやみなんかじゃねえんだよ」クロトンが教えた。「ナザリウスも知ってるだろう。あの方は軍ではいつも、そんな風でいらしたんだから」
 「けっ!何が『軍ではいつも』だよ、何がもう『あの方』だ!?」廊下の向こうで警備兵が振り向くのもかまわず、ガルスは大声でわめいた。「そんなタマかよ、あいつがよ!?ジュバだってヘルマンだって知ってるだろうが?あいつはそんなにご立派でもご大層でも何でもねえ、かんしゃく持ちの、わがままの、弱虫の、おっちょこちょい…」
 「だと、思っていたんだけどなあ」ヘルマンがゆうつそうに、つぶやいた。「今のあいつを見てるとなあ。そうはとっても思えんからなあ」
 「ああ、まるっきり、別のやつみてえだな」ハーケンがあいづちをうち、彼らは顔を見合わせて、誰からともなく、ため息をついた。
 「皆が淋しがってるぞ」
 ある夜ジュバがそう言うと、マキシマスは不思議そうに首をかしげてジュバを見た。
 「そうなのか?」
 「おまえが、やさしすぎるって」ジュバは言った。「でも、軍にいた頃はずっとそうだったらしいな」
 マキシマスはうなずいた。
 「そう言えばそうだな。この方が楽なんだ。慣れてるからかもしれないが」
 「じゃ、元に戻っただけか」ジュバは笑った。「長いことかかって、やっと」
 するとマキシマスはふっと笑って、「ジュバ」と言った。「おれはここにいて、とても楽しかった」
 それは本当に幸福そうな、あたたかい声だった。まるで死んだ妻子のことを思い出す時と同じ、遠い昔をなつかしんでいるような響きがあって、ジュバはそれ以上、何も言えなくなった。
 「本当だ」マキシマスは言って、目をそらした。「でもな、もう…これからは、おれだけの戦いだから、皆のことは巻き込めない」
 ジュバはためらったが、冗談めかして言ってみた。
 「皆とやる方が、おまえも楽しいんじゃないのか…たとえ失敗しても」
 マキシマスは小さく、はっきり首を振った。
 「楽しいからって、皆とやって…それで失敗して皆を不幸にするのなんて、絶対いやだ。そんなの、自分に許せない」
 「でも、淋しくないか?一人でやるのは」
 「皆で楽しくしていて、最後に不幸な結果になる方がつらい。そんなこと予想しながら、皆の楽しそうにしてるのを見てるのなんか、我慢できない。少しでも、皆が不幸にならないですむ、そのために一番いい方法を知っていながら、それをしないでいるのなんか、それこそつらくて耐えられない」
 皆は、今が不幸なんだぞ。ジュバはそう言いたかった。今みたいなおまえを見ている以上の不幸なんか、おれはこの世にあるとは思えん。

(8)
 根負けしたというのでもないが、誰も何も言わない内に、結局何となくマキシマスの方針変更は皆に認められたかたちになっていた。
 「おれはもうだめだ」意外にもまっ先にパリスが音を上げた。「あいつを見てると、こっちが悲しくなって、とても怒れない」
 「だいたい、何を怒るんだ?」ハーケンが言った。「あいつは何も悪いことをしているわけじゃないじゃないか」
 ナザリウスもしおれていた。「自分なんかが口出しできるようなことじゃなかったんです」と彼はつぶやいていた。「何であれ、あの方がこうとお決めになった以上は、せめて、そのじゃまにならないように、支えてさしあげるしかないんです」
 「そうさ、どうせ、こっちがどうとめたって、あいつはやることはやるんだ」ヘルマンも言っていた。「おれたちの言うことなんか、耳に入れちゃくれねえさ」
 「それだけ、余裕がないんだよ」ソシアが言った。「彼は彼なりに必死なんだ」
 「おれにはおれの考えがある」ガルスはがんこにそう言い張っていた。「放っといてもらおう」
 「しょうがないじゃないか」パリスは自分に言い聞かせるように、ある朝、食堂でリシウスの前に座って言った。「忘れたか?船の上でおれたちがあいつに何と言ったかを。おれたちは、あいつに何もかもをまかせた。おれたちが救われる一番いい方法を考えろと言った。フリウスもポルクスもレピダスも、もういない。でも、あの時におれたちは皆であいつにそう言ったよな?あいつは言われた通りにしたんだ。いまさら文句は言えねえだろ?うけいれるしかねえんだよ」
 リシウスは返事をせず、パンをひきちぎっては呑みこんでいた。
 「そのことさえも、あいつはおれたちに言わなかった」パリスは目をそらして、ため息をついた。「おれは約束を果たしただけだ、文句があるか、と言ってもよさそうなものを。おれたちが思い出すのを待っていたのかな。それとも忘れていたんだろうか。どっちにしてもリシウス、おれたちとは格がちがうよ。考えの深さも、背負ってる重荷も。あいつの心をおれたちが、測り知ろうたって無理なこった。まかせて、ついて行くしかない」
 顔をそむけたリシウスの方に目を戻したパリスは、テーブルの上におかれたリシウスの太い腕に、そっと手をかけてゆさぶった。
 「わからないのか?おれたちが、あいつのことをどう思おうと、あいつは平気で、気にもしてねえってことが。あいつが考えているのは、おれたちをどうしたら救えるか、幸福にできるかってことだけなんだよ。おれたちに好かれようとか愛されようとか、全然思っちゃいないんだ。おれたちのことしか考えてないから、おれたちのことなど眼中にない。どうしようもねえだろうが、そんなやつを、おれたちには?」
 リシウスは長いこと黙っていてから、ぽっつり一言だけ言った。
 「あんなにひどいやつはいねえよ」
 そして数日後、彼は廊下ですれちがいざま、マキシマスに「何かおれたちにできることがあったら、いつでも言うんだぞ」と言い捨てて、顔も見ないまま、遠ざかって行った。

(9)
 風雲は急を告げた。協力していた元老院議員の中心人物が皇帝の命令で突然逮捕され、皇女自身がそれをその日に、マキシマスに告げに来た。非常識とも言えるほど大胆で果敢なその行動は、迫る危険の大きさとともに、計画が大詰めを迎えたことをも示していた。皇女の手配した通り、マキシマスはその夜、城門の外に出て、彼の軍のいるオスティアまで馬を飛ばすことになった。知らせはすぐに剣闘士たちにも伝わり、おそらく、どの部屋でも眠る者などないままに、緊迫した時間の中に、夜がふけて行った。
 プロキシモが夜中に来て、マキシマスを城門の外まで案内することになっていた。それまで、ひと眠りしておけよ、と彼はマキシマスに言いおいて自分の部屋にひきあげて行った。「くれぐれも言うておくが」と彼は繰り返した。「案内するだけじゃからな。誰かに見つかったら、おまえを置いて一散にわしゃ逃げるし、もしつかまったら、おまえが力づくで脅かしてこんなことをさせたと言うからな」
 「わかったよ」マキシマスは少しうんざりしているようだった。「夕方から何回あれを聞いたことか」と、立ち去って行くプロキシモの大きな、少し前に曲がった背中を見ながら彼はジュバに言った。
 「大丈夫か?」ジュバはそっと言った。
 マキシマスは笑って振り向いた。「どうして?緊張して見えるか?」
 「緊張も興奮もしているようには見えない」ジュバは言った。「落ち着きはらっていると人は言うんだろうな」
 「おまえは?」マキシマスは、じっとジュバを見た。
 ジュバは首を振った。「うまく言えないな。そんなはずはないから、きっと気のせいなんだろうが」
 「どう見えるんだ?」マキシマスは背を向けて寝台の方に行きかけたジュバに、低く穏やかな、静かな声で呼びかけた。
 ジュバは寝台に座り、壁に背中をもたせかけて、マキシマスをながめた。
 「多分、見間違いだろう」彼は言った。
 「言えよ」マキシマスは静かにまた、うながした。
 「とても、無気力に見える」ジュバは言った。「疲れているというより…投げやりというのでもないが」
 マキシマスは黙ってジュバを見ていた。
 「おまえは時々、そんなことがある。辺境では心配した。こっちに来ても時々そんなことはあったが、その内もとに戻るようだったから、何も言わなかった」ジュバは笑った。「第一、おまえがただ落ち着いている時や、きげんがよくて幸福らしい時と、そんな時とはとてもよく似てるから、ほとんど区別がつかないしな」
 マキシマスは笑って寝台に来て座った。「ほんとに、何もかくせないな」彼はしばらく黙っていた。「まだ軍にいた頃…将軍だった頃も、その前も、戦いの前には、おれは時々こうなった。でも、それに気づいた者なんていなかった。…いなかったはずだが」彼は思い出すような目になって考えていた。「誰か気づいていたんだろうか」彼はまた首を振り、「とにかくおれは」と言った。「戦いの前にはいつも、よく考えた。まあ、それは多分、おれでなくても誰でもわりと考えることなんだろうが。すべてはもう、決まっている。生き残る者も、死ぬ者も、すでに選ばれている。勝つ側も、負ける側も。おれたちがどんなに努力しても、すべてはもう、初めから決められていて、その結果を実現するために動かされるゲームの駒にすぎないんだって、おれたちは、皆」

(10)
 どこか遠くで犬が吠えている。夜はまだ、そんなに遅い時間ではない。
 「おれは、その気持ちをいつも押しやり、たたき返して戦ってきた」マキシマスはジュバに話した。「運命があらかじめ決まっているものにせよ、この手でおれは必ずそれを変えてみせ、違った結果を出してみせる。そう決意してずっと戦い、勝ちつづけてきた。けれどジュバ、おれはだんだん、そう思えなくなってきた。ケマルが、アジズが、ピュロスが、ポルクスが、死んで行くのを見ている内に、彼らが死んで、おれが生き残っているのは、ただの偶然としか思えなくなった。どんなに必死に戦ったって、どんなに強くたって、死ぬ時は死ぬし、やられる時はやられるんだ。トラといっしょにおれの相手をしたティグリスって剣闘士の腕なんか、おれとまったく互角だった。やつがもう一歩、左に立っていたら、もう一瞬遅くやつの剣が落ちてきていたら、おれは今ごろ生きてはいない。だけど実際には、そういうことが重なって、おれが勝った。そういうことはもう、何もかもが決められていた。おれがこうなることなんて、はじめから皆わかってた…そんな気がしてならないんだ」
 …わかりきったことなんだよ、ジュバ。
 …逃れられないのさ、私たちは、誰も。
 「そう思ったら、気が楽か?」ジュバはそっとたずねた。
 マキシマスは首を振った。「いいや」
 「じゃ、どんな気持ちだ?」
 マキシマスは頭を起こし、天井の方に目を向けて考え込んだ。先生に宿題を出されたまじめな少年のように。
 「…昔、あの皇女が、おれに言ったことがある」彼はやがてゆっくりと言った。「女として生まれ、身分に縛られて、思うように生きられないのが腹立たしいと。おれは言った…人間には、自分では、どうしようもないことがある。それは、うけいれるしかない。そう、おれが言ったら、皇女は怒った。叫んだ声をまだ覚えている。耳の中に残っている。そんなものをうけいれて、認めたら、生きていけない。あの人はそう叫んだ。それからまもなくだ、おれたちが別れたのは」
 部屋の隅の机の上で、小さい灯火がまたたいてゆれた。
 「おれはバカだって、前に言ったよな?人の気持ちがわからないって。その時もそうだった。あの時、あの人が、ルッシラが、どうしてあんなに必死だったか、おれはわかっていなかった。おれはスペインの貧しい農夫の家に生まれた。昔は豊かだったらしい。でも、父の時代に貧しくなって、失意の中で父は死んだ。兄たちに連れられておれは軍に来た。そこで遊んでいる内に、皇帝陛下のお目にとまり、とても親切にしていただいた。そして、ご自分のあとをついで、ローマをたて直すように言われ、皇太子殿下はそのことで、陛下とおれを憎んで、ご自分の父である陛下と、おれの妻子を殺した。そんなことの何もかもが、はじめからもう決まっていたんだろうか。その、はじめとは、いつなんだろう?おれの生まれた時からだろうか。もしも、そうだったとしたら、いったいおれは何のために、生きて、戦って、愛してきたのか」
 …人はね、逃れられないのさ。
 …いくら見て見ないふりをしていてもね、ジュバ。
 「妻は貧しい家に生まれ、売られ、だまされ、人を殺して、最後は山賊の仲間になっていた。私がそれを討伐し、捕虜たちを押し込めていた牢獄の格子の向こうから、彼女が私をじっと見たのが、二人の会った始まりだ。かわいい隊長さん、と妻は私に呼びかけた。水を一杯もらえない?少しかすれて、甘い声。熟れた果物のようになめらかな、熱い陽射しのような声。恐れを知らず、からかうような響きがいつもこもっていた。耳にしたのは、それが最初。振り向くと、格子の向こうから、夜のような黒い、暗い、大きな目が、火のように輝いて私を見ていた。あの出会いも、決められていたのか。彼女が私の妻となって子どもを生み、私の妻という理由で捕らえられ、子どもとともに釘をうたれてはりつけにされ、生きながら焼かれる最期に向かって、妻が歩いて行くために?そして、おれは生き残って、ハヴィルに会って、おまえに会って、戦い続け、生き残り続けて、今、ここにいる。それも皆、最初から、決められていたことなのか?」
 ひっそりとマキシマスは首を振った。
 「そんなこと、おれは認めたくない。けれど、そう思えば思うほど…どうあがいても、おれたちは結局、皆、決められた方向へ向かわされ、進んで行かされているような気がしてならない。おれはアリウスを救えなかった。そのことが、結局、シギスムントをも殺した。そのことでフリウスたちはおれを信じて、仲間にした。そして、皇女が訪れたことで、おれは決意して反乱計画に乗り、昔の部下に会って、別の計画に切りかえた。理屈はあっているように見える。ひとつひとつの動きには、皆、そうなるだけの理由がある。それでも、おれは、それらのすべてが、大きな何物かの手によって、しくまれてきたことのように思えてしかたがない。その手がすべてをあやつって、こうなるようにしてきたとしか思えない。おれたちは皆、どうあがいても、あがいても、その手から逃れられない。あがくことそのものさえも、そうなるための予定に入っていたとしか」

(11)
 ジュバは落ち着いた声で聞いた。
 「そう思ったら、腹が立つのか?」
 「気が狂うほど」マキシマスは低い、はりつめた声で言った。「皇女の気持ちが今よくわかる。おれは絶対、認めたくない。おれたちが悩み、苦しみ、もがき、戦っても、そんなこととは関係なく…いや、そんなことも計算に入れた上で、結果が決まっているとしたら、おれたちはみじめすぎる。あのクレオンを覚えているか?ひよわな身体で、大きな剣をひきずって、暑い中庭で訓練を続けているのを、おれは窓からいつも見ていた。やつが勝ち残れるなんて、誰も思っていなかった。やつ自身だって思ってなかったろう。それでも、ああして生き残ろうと望んで、努力を重ねていた。ピュロスはあんなに強かったのに、たまたま最前列にいたために、一撃で頭を砕かれておしまいだった。井戸の中で朝まで父を呼び続けたシギスムントの息子は?ヘルマンの妻は?彼らの苦しみも、彼らの死も、皆、予定されていたことか?そうやって結局、おれたちは、嘆いても、苦しんでも、どんなに怒って戦おうとしても、逃げようとあがいても、あらかじめ決められた死に向かって歩いて行ってるだけなのか?だったらいっそ…だったらそんな…」
 「マキシマス」ジュバは静かに首を振った。
 「プロキシモが最初の試合におれたちを連れていく前、おまえとハヴィルは、おれが戦わないで殺されるつもりじゃないかと心配してたろ?」マキシマスは笑った。「あの時も、こんな気持ちだった。辺境にいた最後の頃も、このローマでも何度かそんな気持ちになった。どうせ、おもちゃにされて、どうせ必死に生き残ろうと戦って逃げまどうのを、見物されて楽しまれ、あげくの果てにいつか殺されるのだったら、せめて、観客をがっかりさせてやろうと…誇りある人間だったら、戦う力があったって、やつらを楽しませてなんかやるもんか、裏をかいて、自分から死んでやる、それがせめてもの、あてつけだって。でも、そう思いながら、実際には、いつも、いつも、結局おれは戦って…ごていねいにも、コロセウムの中だけじゃなく、外ででも、生きよう、逃れようとあがいて、もがいて、走り回って…今夜もまたそうやって、オスティアまで走るんだ。何かがきっと、笑ってる。そんなおれを面白がって見てる」マキシマスは格子の外に目をやった。「ジュバ」低いため息が聞こえた。「おれはもう、やめたい」
 ジュバは黙って、マキシマスの横顔を見つめていた。
 「こんなこと、もう何もかも、やめてしまって、休みたい。疲れたのもある。でも、それよりも腹が立つんだ。もう、がまんできないんだ。おれは、納得なんかしてないってことを、何かの方法で示さなきゃ、とてもこのまま死ぬ気にならない。何もかも決められた最後に向かって歩き続けて行くだけなんて、おれはいやだ。わかっているのに、されるままになるのなんて、耐えられない。まだしも、それを自分の手で断ち切って終わりにするのが、たった一つの自由な決断、人間としての誇りをあらわす方法だって気持ちが次第に強くなる」
 「それだって、予定されていることなのかもしれないぞ」ジュバは笑った。「おまえがそうして、怒ってるのも、投げやりになっているのも、自分で命を絶とうとするのも」
 マキシマスはジュバをにらんだ。「投げやりになんかなってない」彼は言った。「おまえみたいに意地悪な人間を見たことがない」押し殺した声で彼は続けた。「冷たくて、鋼鉄みたいに強いんだな。おれが悪かった、つまらない話をして。もう寝るよ」
 「マキシマス」ジュバは呼びかけた。「おれに、ばあさまがいてな」
 「そうか?」マキシマスは、そっぽを向いたまま、生返事をした。
 「若い時からいろいろ苦労した人で、年よりずっと老けて見えたが、いつも陽気で口が悪かった」かまわずに、ジュバは続けた。「おれをかわいがってくれて、いろんな話をしてくれた。ある時、言ったことがある。ジュバ。こんなひどい目にあってきて、それでもどうして私が、自殺しないか、おまえにはわかるかい?それはね、私をこんな目にあわせた何ものかの、鼻をあかしてやるためなんだよ、ってな」

(12)
 マキシマスはジュバを見つめた。ジュバはうなずいた。
 「そう言ったんだ、ばあさまは」
 マキシマスはかすかに首をかしげた。「おれが言ったと同じようなことを?」
 「ああ。かなり似ているな」
 「思い出しながら聞いてたのか?」マキシマスは手のひらを拳で軽く打っていた。「いやなやつだ」
 「怒るな」ジュバは笑った。「おまえがしゃべりまくるから、口がはさめなかった」
 マキシマスはまた、そっぽを向いた。
 「ばあさまは言った。この世にはいやなことがたくさんある。耐えられないほど生きるのはつらい。けれど私はこの人生を何とかしてくれとか、ひどすぎるんじゃないかとか、誰かにたのんだり、怒ったりするのはとっくにやめた。私にこんなことをしている、その何ものかは、何もかもわかった上でやっている。私の苦しみも、悲しみも、絶望も、何もかも知りぬいた上でこういうことを私にしている。そう思うようになったからだ…って」
 マキシマスは少しだけ顔を動かして、またジュバの方に向いた。
 「それは…あきらめたってことか?」
 「何なんだろうな。おれも聞いたよ。だが、ばあさまは、自分でもわからないと言って笑った。その何ものかのすることを信じて、まかせようと思った…自分に何をしようとも許してやる気になったのか、それとも、あまりに腹が立ったので…憎んで、恨んで、怒ったから、相手にせずに無視してやると決めたのか。どっちか自分でもわからんと言ってた」
 わずかに目を伏せてマキシマスは黙っていた。
 「そんなものに自分が支配され、あやつられていることにさえ、気づかないふりをして、最後まで生きてやるんだと、ばあさまは言ってた。あっちが私をだますなら、こっちもだまされたふりをしてやる。あっちがいないふりをするなら、こちらも見えないふりをしつづけてやる。気づかない顔をして、あやつられとおしてやる。知らないふりで最後まで生きて、死んでやる。それが、相手の鼻をあかす、たった一つの方法だよ、ジュバ。ばあさまはそう言った」
 「もう…」マキシマスはせきばらいした。「もう、亡くなられたのか?」
 「とっくにな」ジュバは言った。「盛大な葬式だった。もっとも本人は喜んだかな。部族の葬式の時はいつも、おれたち子どもに小声で卑猥な話をして聞かせちゃ、笑わせようとしてたみたいな人だからな」
 灯火の炎が小さく音をたてた。
 「…死んだところで」ジュバは続けた。「そのものからは解放されない。自分で命を絶ったところで、そのものの裏をかいたことにはならない。ばあさまはそう言った。だからジュバ。何があろうと、自分から死んじゃいけないし、自分の人生を投げちゃいけない。それでは、何もわかっていないことが、わかってしまうよ。自分の人生が自分のものでないと恨んで泣き言を言いながら、それを自分で終わらせたら何かに勝てたと思うなんて、考えちがいもいいとこさ。私たちにできることは、自分の命も人生も、自分のものなんかじゃないことに、気づかないふりをして、最後までやりとおすことさ。それしかないんだよ。こんなにバカにされたことに対するしかえしは」
 「こんなにバカにされたこと?」
 「こんなにひどい世の中に、生み落とされて、一生、もみくちゃにされたこと」
 「おまえの祖母はそう言ったのか?」のどのつまったような声でマキシマスが聞き返した。
 ジュバはうなずいた。「笑いながらな。おまえがいつか刺青を削り落としていた時の顔に似ていた」
 マキシマスはまた目を少しだけ伏せた。
 「あっちは知っててやってるんだ…ばあさまは言った。そういう言い方をした。あっちとか、向こうとか、相手とか。神さまってことばを使わなかった。でもおれが一度、ばあちゃんが言ってるのは神さまのことかいと聞いたら、そう言ってもいいさと、平気で笑った。私は決して許さないよ、こんなにひどいことをされたのを。けれども、それを向こうに言う気はないんだよ。言ったって、しかたがない。はじめから、わかっている。私たちに自由なんかない。生まれる時も、死ぬ時も。その前だって、後だって。だから、文句なんか言おうと思わない。知らん顔して、最後まで、やりとおすだけだよ、ジュバ」ジュバはうなずいた。「そう言った」

(13)
 月がいつの間にか上ったらしい。外の庭が涼しい青い光に包まれていた。
 短い沈黙の後で、マキシマスが小さくまたせきばらいして、「おまえの祖母は、きっと…」と、わずかにかすれた声で言った。「きっと、神々にとても気に入られているな。生きていた時も、今もだ」
 「どうかな」ジュバは笑った。「本気で怒って、憎んでいたんだ。この世に生まれてきたことを」
 「それはもう、そこまで行けば」マキシマスも笑った。「許して、うけいれて、自分をまかせるのと、変わらない」
 「そう言えるかもしれないな」ジュバはうなずいた。「よく言っていた。口癖のように。誰にだって、考えてみればわかることさ。この世の中には、あるはずなのに存在しない、決して使われることのないことばがある。そのことにさえ気がつけば、誰にだってわかる。私たちの誰もが、自由なんかじゃないことが。一方的にこの世の中に放り出され、死ぬまで何ものかの手によって、もてあそばれつづけるしかないことが。それでも生きて、それでも戦い、命が終わるその瞬間まで、なすべきことをやりつづけてやりとげるしか、自由になる方法なんかないことが」
 マキシマスは首をかしげた。「どんな言葉だ?」
 ジュバは、その言葉を言った。
 「使ったことがあるか?」
 マキシマスは首を振った。「ない。妻が子どもを生む時も、赤ん坊が生まれる時も…そうだな、使いようがない言葉だな」
 「ばあさまはいつも、そう言って笑った。この世のしくみを明らかにする、この言葉が鍵だと言って」
 月の光が格子から流れ込み、二人の足元までのびて来ていた。
 「真夜中まではまだ長いぞ」ジュバは言った。「少し眠った方がいい」
 マキシマスはうなずいたが、まだ黙って月に照らされた外を見ていた。
 「いつも、おまえに助けられた」彼はやがてゆっくり言った。「今度もまた」低く彼は続けた。「なのに、おれは何ひとつ、おまえの役にたてなかった」
 「おまえは、皆の望みに応えてやってきたじゃないか。それ以上、何もしなくていい」
 マキシマスは首を振った。「たとえ、この反乱の計画がどんな結果に終わっても、おまえだけは助かってほしい。それさえかなうならおれは、神々を恨んだりしない」
 「おれが村に帰る時は、おまえも連れて行くよ」ジュバは言った。「いっしょに狩りをしよう」
 マキシマスは笑った。「いっしょに行く。生きてても、死んでてもな」
 月光はもう、部屋の奥まで射し込んで、鉄格子の投げかける黒い影が二人の上に落ちかかり、まるでもう二人は森の茂みの中にいるようだとジュバは思った。

(第七章 祖母・・・・・終)


第八章・地下牢

(1)
 たき火の灰が、かさりとくずれた。
 吹く風に、わずかに朝の匂いがする。
 「起きてるの?」ファティマはサヴィナに声をかけた。
 後ろ手に縛られたまま、深く頭を前に落としていたサヴィナは、ゆっくりと身体を起こした。
 「起きてるさ」星の消えかけた空に、彼女は目をあげた。「そうか。その言葉なんだね。ジュバがその時に、言った、彼の祖母に聞いた言葉」
 「ええ」
 「あるはずなのに、使われることのない、使いようのない言葉…か」サヴィナは軽く目を閉じた。「ふうん」
 「わかったの?」
 サヴィナは目を開け、座り直した。「話はまだ、残ってるんだろ、お嬢ちゃん?」
 「もうすぐ終わりよ。夜も明ける。わかってるわね。答えられなかったらどうなるか」ファティマは息を吸い込んだ。「あんたを村に連れてって…」
 「広場で、縛り首にする」サヴィナが不敵にくすくす笑った。
 「そうよ。わかったの、その言葉?」
 「話を続けて、お嬢ちゃん」サヴィナは静かにうながした。
 ファティマは吐息をついて立ち上がった。「たき火に木を足すわ。夜明け前は寒くなるから」
 運んできた粗朶を火にくべ、再び赤々と燃え上がった炎をファティマは見つめた。何度、この話を聞かされ、何度、自分も話したことか。それでもいつも、ここから先は、別の話を作りたくなる。そんなことをしてはならないと、母からも祖母からも厳しく言われているけれど、それでもファティマは、この話の残りの部分を変えてしまいたくてしかたがなかった。どうせサヴィナが死ぬのなら、ちがう話を聞かせてもいいのではないか?
 けれど、その誘惑を振り払うように、ファティマは深く息を吸い込み、伝えられた通りの物語を語りはじめた。

(2)
 マキシマスが起き出す気配にジュバは起き上がった。月の光は移動して、小部屋の中はもう暗かった。枕もとの灯火の炎が、外套をはおりながら、手早く妻子の木像をくるんで帯の間にしまい、指輪を指にはめているマキシマスの姿をぼんやり浮かび上がらせていた。
 「あの音は何だ?」ジュバは言った。
 マキシマスは手をとめて、耳をすました。
 遠くかすかに、たくさんの馬のひずめの音がひびいていた。犬が激しく吠えている。
 二人は顔を見合わせた。
 マキシマスは落ち着いて、帯の間から木像を再びとり出し、ジュバの手をとって、握らせた。
 「頼む」と彼は言った。「預かって、おれの死んだ場所に埋めてくれ。おれがいっしょに、おまえの村へ連れて行く」
 ジュバは立ち上がった。「まだ、何が起こったのかわからない」
 「いや、わかっている」マキシマスは平然としていた。「逮捕されるだろう」彼は高く頭を持ち上げた。「おまえの村で会おう」と彼は言った。「どちらが先に着いても」
 あちこちの部屋で、剣闘士たちの騒ぐ気配がした。ハーケンが大声で何か言っている。入り乱れるひずめの音は急速に近づき、今はもうはっきりと誰の耳にも聞き取れる。それがまっすぐ、この建物をめざして近づいて来つつあるのも。
 「マキシマス…マキシマス!」ナザリウスのうわずって、すがりつくように呼ぶ声がした。
 「落ち着け、ナザリウス」マキシマスは外套を脱いで寝台に投げ出しながら、格子ごしにそちらに向かって叫んだ。「皆もだ」
 ひずめの音はあっという間に、訓練所の門の前に迫った。そこで止まった。
 「数十騎はいるな」耳をすましていたジュバが言った。
 マキシマスは微笑してうなずいた。「用意周到だ」
 兵士たちの隊長らしい太く荒々しい声が、プロキシモの名を呼びたてていた。
 「じいさん、さぞあわてて、言い訳を考えてるんだろうな」ジュバは振り向きながらつぶやいた。
 「畜生!畜生!何てこった!」ヘルマンらしい声が、大声でののしっている。「おい、扉をこわそう!外に出るぞ!」
 「何もするな!」マキシマスがよくとおる鋭い声で命令した。「捕らえられるのは私だけだ!」
 「そんなこと絶対させません!」ナザリウスが叫び返してきた。「あなたが捕まったらもうおしまいです!」
 それをきっかけに次々に、皆が何かを叫び出し、訓練所全体が騒然となった。
 「あわてるな!じっとしてろ!てめえら皆、バカじゃねえのか!?」金切り声でガルスがどなった。「今、動いたら皆殺しだぞ!やつらの思うつぼじゃねえか!計画がばれたからって、うろたえるんじゃねえよ!落ち着け!」
 「何で計画がばれる?誰がばらすんだよ!?」
 「マキシマス!将軍!」ナザリウスの声がひときわ高く叫んだ。「扉をこわします!」
 「だめだ!」
 マキシマスが叫び返した時、「そうとも」と、人をくったようなしわがれ声がした。「こわされてたまるもんか。こいつで開けな」
 プロキシモが格子の前に立って、大きな鍵の束をさし出していた。

(3)
 「ほれよ、早くとらんかい」プロキシモはマキシマスの手に鍵束を押しつけた。「そして、とっとと城門に行け。おまえの部下が馬を連れて待っとるはずじゃ。おまえを自由にする手続きはもうすましとる。急がんかい」
 マキシマスは鍵束をうけとりながらプロキシモをじっと見た。「こんなことをしたらプロキシモ」彼は静かな低い声で言った。「あんたの大嫌いな、いい人ってのになっちまうぞ」
 「はあん!」プロキシモは思いきり顔をそらして、せせら笑うと、わざとのように中庭の、門でわめきちらしている兵士たちの前をゆっくり横切って、自分の部屋の方へと戻って行った。
 マキシマスは目を伏せながら、黙ってジュバに鍵束を渡し、ジュバは手早く扉を開き、隣のハーケンたちの部屋の鍵も開けた。そうやって次々に彼が扉を開けている間も、廊下の奥の方ではいくつもの扉がこわれて倒れる音がして、剣闘士たちがかけ出して来た。門の方ではプロキシモの説得をあきらめた兵士たちが、声高にののしりながら、高い鉄格子の上に縄を投げかけ、引き倒す準備を始めている。
 「マキシマス!ジュバ!急いでくれ!」ソシアの叫ぶ声がした。「早くしろ!早く扉を開けてくれ!」
 いつもの彼らしくない、せっぱつまった、悲鳴のような声だった。

(4)
 ジュバが全部の扉を開けおわって、皆が集まっている暗い廊下の端に来た時、そこには奇妙な沈黙がたちこめていた。輪になって何かを見下ろしている男たちの視線の先に、壁際によりかかるようにして手足を投げ出して座っている一人の剣闘士をジュバは見た。首が奇妙なかたちに一方にねじまがり、かっと見開いた目が宙を見つめ、舌が口から突き出している。
 「ガルス…」ジュバは息をのんだ。
 「裏切り者は始末した」リシウスが低い声で言った。
 「裏切り者かどうか、誰にわかる!?」ソシアが激しく息をはずませながら、リシウスにつめよった。
 「誰かがばらさなきゃ、計画はばれねえよ」クロトンが荒々しく言い返した。「それともてめえ、こいつの仲間か?」
 「…もういい」マキシマスが低く言った。
 ささやくような声だった。それでも皆が、一度に彼の方を向き、彼の周囲に歩み寄った。
 「命令してくれ、将軍」リシウスの口調には、せっぱつまった殺気とともに、甘えにも似たひたむきさもこもっていた。「何をすればいいか、教えろ。あんたを助ける方法を教えろ」
 皆がいっせいにうなずいた。
 マキシマスは皆から目をそらすように床に視線を落とし、何度もゆっくり首を振った。
 「何もしなくていい、リシウス。皆も」
 …こんなにひどい世の中に生み落とされて。
 「でも、ありがとう。感謝している」
 …こんなにバカにされて、もみくちゃにされて。
 「本当に、おまえたち、皆に」
 …たったひとつの方法は、最後まで、生きて、戦いつづけること。
 「おれは行く。けれど、おまえたちは無駄に死ぬな」
 …気づかないふりで、最後までやりとおすこと。
 「気がすすまなければ、戦うな」
 …はじめから、わかっていたこと。
 …そんなことばは、ないのだから。
 「あんたを待ってる」ハーケンが言った。「帰って来るのを」
 「力と名誉を」誰からともなく、皆が声をそろえて言った。
 その時、鉄の門が引き倒される音が、夜の空気を震わせて、あたりにひびきわたった。皆がさっとそちらを向いた。
 「来るぞ」はりつめた声で、パリスが言った。
 「行こう」リシウスがそちらに顔を向けて、低く言った。
 ジュバはマキシマスが自分を引き寄せたのを感じた。「力と名誉を」悲しげな静かな声でつぶやくのが聞こえ、最後のわずかな安らぎを求めようとでもするかのように、彼の額がジュバの額に一瞬そっと押しつけられてあっという間に離れた。たちまち彼は中庭の方へ進んで行く剣闘士たちの間をすりぬけて、廊下の向こうへ姿を消した。
 誰ももう、そちらを振り向かなかった。
 「敵をくいとめろ」暗がりの中でパリスの目が光った。「やつを少しでも遠くに行かせるために」
 「一人でも多くひきとめて」クロトンがゆっくりと歩み出しながら、のどの奥で獣のようにうなった。「敵にあの方を追わせるな」
 倒された門を踏み越えて整然と前進して来る剣と盾の列に向かって、剣闘士たちの集団が動き出した。

(5)
 剣闘士たちが建物の外に出た時、近衛兵の集団はもうすでに中庭の半分近くまで進んで来ていた。誰かが下手な口笛を吹いているような、短く鋭い音をたてて矢が飛んできて、その一本がリシウスの腕に突き刺さった。ものも言わずにそれをもぎとった彼は、その穂先を武器にしてかざしながら、敵の中へと突進した。
 矢が闇を裂いて次々に飛んだ。ジュバの隣にいたナザリウスの身体のどこかにそれが刺さり、小さく息を吸ったまま、彼はジュバの足元に崩れ落ちた。抱き起こそうとすると、無言で荒々しく首を振り、早く戦えと言うようにジュバを前へと力いっぱい突き飛ばした。
 「椅子を構えて盾にしろ!敵の剣を奪え!」ソシアの声が叫んでいる。
 月がまた雲から出た。その光も届かない建物近くの暗がりで、マキシマスの行った方に進もうとした近衛兵数人を、ハーケンが何かをたたきこわして作ったらしい棒きれを左右にふるって、虫でもつぶすようにたたき殺していた。
 少し離れた水のみ場のそばで、背中に槍を突き刺されたクロトンが、歯をくいしばって目をいっぱいに見開いた恐ろしい顔で、別の敵の首をぎりぎりと両手でつかんでしめあげている。
 ジュバは剣をかまえて襲いかかってきた若い近衛兵を身体をかわしてよけた後、腕をつかんでねじり折った。相手の悲鳴を聞きながら、マキシマスはどこまで逃げたかと考えていた。城門までの暗い道。走って行く彼の足音。たった一人の足音。それがこだまとなって響くのが聞こえてくるような気がする。
 走れ。行け。一歩でも遠くに。
 倒れたままのナザリウスが、そばを走りぬけようとした敵の一人の足にからみついた。あわてて、剣をめくらめっぽう彼の身体に向かって突き下ろす相手にはまったく構わず、奇妙に落ち着いたゆっくりとしたしぐさで、だが確実に相手を引き倒し、重なり合ってなぐりつけた。かけよって来た兵士の数人が剣をふるって彼をずたずたにしているが、若者はそれでも組み敷いた敵を放そうとはしなかった。
 リシウスが奪った剣を振り回して、月光の中、黒く広がる血だまりを足元に広げながら敵を次々倒して行く。無気味なほどに冷静な、もう何も考えず放心してさえいるようなすさまじい剣さばきだ。
 遠くで、つながれたままの馬たちが騒いでいる。それがはっきり聞こえるのは、悲鳴や怒号やうめき声が、ほとんど上がらないからだとジュバは気づいた。さしむけられた近衛兵も精鋭だし、剣闘士たちも強者ぞろいだ。死闘のほとんどは無言のままに行なわれ、沈黙の中に敗者が次々息絶えている。
 矢が空を切って飛ぶ音も、剣が肉に食い込む音も、頭がたたきわられて砕ける音も、よく聞こえた。喝采も、拍手も、音楽もない。足音が入り乱れ、肉体がぶつかりあう。椅子がたたきこわされ、扉が破れて倒れる。それらの音のひとつひとつが狭い中庭に反響しあう。
 突然、高みから聞きなれた声がジュバの耳を撃った。
 「この世のすべては影と塵だ!」
 プロキシモだ。まだいたのか。なぜ逃げない、ととっさに思ってすぐジュバは理解した。彼もまた、一人でも多くの敵を足止めにし、ひきつけて、マキシマスを逃がそうとしたにちがいなかった。
 気が進まなければ戦うな。
 そう彼は言ったのに。
 なぜ、おれたちは彼のためにこうやって命を捨てるのだろう。
 それは、彼の重荷になるのに。
 彼をますます苦しめるのに。
 それでも彼は、今、走っている。
 走り続けて、足をとめはしまい。
 つかの間、見上げたジュバの目に、大きく開かれた二階の窓が見えた。剣闘士たちの訓練を、ワインをすすりながらプロキシモがしばしば見下ろしていた部屋だった。そこに今、近衛兵らしい人影がひしめいていた。いくつもの刃が光るのが夜目にも見えた。その中にプロキシモの白髪頭がゆっくり沈んで消えて行った。
 また、いっせいに矢が飛んだ。
 全身に針ねずみのように矢をたてて、ハーケンの巨体がどっと倒れて行くのを、目の端にジュバはとらえた。
 ヘルマンが身体中を鮮血に染めながら、悪鬼のようなすさまじい形相で、折れた剣を投げ捨てて、その姿にたじたじとなった近衛兵たちに、よろめきながら、むしゃぶりついて行くのも見えた。
 「戦え!戦え!戦え!」パリスがどこかで、声を限りに叫びつづけている。「一人も通すな!行かせるな!マキシマスを守れ!」
 その声が遠のいた。襲いかかってきた敵の剣をかろうじてよけたものの、柄のあたりでしたたか頭をなぐられたのだ。ジュバの意識は闇に沈んだ。どこか遠くで夢のように、パリスの声がまだ聞こえている気はしたが。
 「…くいとめろ!…くいとめろ!」

(6)
 ジュバが目ざめたのは、コロセウムの地下牢の中だった。
 ソシアがジュバの頭を膝にのせてくれていて、「マキシマスは逃げたのか?」と聞くと、黙って首を振った。
 暗い牢の中には、生き残ってとらえられた剣闘士たちが、黙りこくって影のように座っていた。格子の近くにこちらに背を向け、外を見つめて微動だもせず、まっすぐに立っている白いトーガ姿は、マキシマスに協力していた元老院議員の一人らしかった。
 「やつはもう、殺されたのか?」身体を起こしながら、ジュバは聞いた。
 「まだだ」ソシアは言った。「この地下牢のどこかにつながれていて、もうすぐ最後の試合に引き出される」
 「相手は何だ?」
 人間ではあるまい、とジュバは思った。
 ソシアは答えた。「皇帝だ」
 「皇帝?あの若者が、やつに勝てるのか?」
 ソシアは目をそらした。「勝てるようにするんだろうよ。方法なんて、いくらでもある」
 「どこで、とらえられたんだ?」ジュバは聞いた。
 「城門の外だ。待ち伏せにあったらしい」ソシアは何かをのみこむようなしぐさをした。「ジュバ。ガルスじゃない。やつは絶対、マキシマスを裏切ったりはしない」
 「わかってる」ジュバは言った。「とらえられた後、やつに会ったのか?」
 「さっき、この地下牢の前を連れて行かれた。その時、ちょっとだけ話ができた。近衛兵たちが待っていてくれて」
 「やつは、何と?」
 「元気そうだった。おまえに、よろしくと。森で、狩りをしようと。それと…」
 「何だ?」
 「あの言葉がないことは、最後まで忘れない。だから、心配しないでくれと。そう言えばわかると言ったが、わかるのか?」
 「ああ、わかる」ジュバはうなずいた。「それは、ちゃんとやるってことだ。最後までな」
 遠く、コロセウムの観客たちの喝采がとどろいて来た。
 「それはそうと」ソシアが言った。「フリウスがいたぞ。耳とのどをつぶされて、何も聞こえず、しゃべれなくなっているが、元気だよ。向こうの隅の方にいる」
 「レピダスは?」
 「もちこたえられなかった。昨日の朝、死んだそうだ。フリウスはやつの分まで戦ってやると言ってる」ソシアはかすかに笑った。「どうして話したかって思ってるな?地面に文字で書いて話した。おまえと話せなくなって残念だとも言ってるぞ。文字を覚えろってさ」
 「いくら何でも、もう間に合わない」
 二人は低く笑いあった。
 まもなく、白い美しい鎧に身を固めた皇帝が、顔をこわばらせ、熱にうかされたようなまなざしで、ジュバたちの牢の前を通り過ぎて行った。

(7)
 潮騒のような喝采が、かすかに響きつづけている。
 ジュバは再び、地下牢の床に横たわり、ソシアの膝にもたれたまま、その遠い歓声を聞いていた。
 おれも、すぐ行く。目を閉じてジュバは呼びかけた。待っていてくれ。村の入り口には大きな木をそのまま使った門がある。子どもたちがよく登って遊んでいる。おまえの奥さんや子どもも喜ぶだろう。そこでもいいな。それとも、少し先の広場の井戸のほとりにするか。女たちが洗い物をしているから、すぐわかる。おれの妻を見せてやる。娘たちもな。そこにするか。それとも、いっそ、村に入る前の小道、あそこに大きな平たい白い石があるんだが、あの上に座って待っていないか。
 ソシアが何かを気にしたように身じろぎし、ジュバは、コロセウムから聞こえてきていた喝采が、次第に間遠になり、低くなり、ほとんど聞こえなくなっているのに気がついた。
 「静かだな」誰かが言っている。
 「ああ」別の誰かがあいづちをうつのが聞こえた。「本当に戦っているのかな」
 「白熱した試合だと、客席が静かになってしまうことがある」ソシアが言った。「多分、それなんだ」
 「さっき、近衛兵が言ってたが、皇帝は短剣で、やつの身体を刺し、その傷口が見えないように鎧を着せて、アリーナに引き出したらしい」誰かがまた低く言った。低くて、ふるえ過ぎているので、誰の声かよくわからない。「そうやって、彼を倒して、彼の人気をそっくりそのまま、自分のものにしようとしている」
 「そんなことして、観客に気づかれないと思っているのか。愚かな皇帝だ」
 「気づかれないかもしれない。彼は、どんな傷をうけていても、それに耐えて戦うだろうから、見ている者にはわからないかもしれない」
 すすり泣く声がした。
 「ナザリウス、泣くな」
 「ナザリウスはもういない」
 「じゃ、誰でもいい、泣くのはやめろ」
 泣いているのはマキシマスだ、とジュバは思った。
 …何て、不幸なんだろう。
 たった一度だったな、とジュバは思った。おまえがおれの前で泣いたのは。
 …何て、不幸なんだろう。
 そう言って、彼は泣いた。
 あの皇帝のために。
 …他に、誰もいないだろ?今だって、この世界の中で誰ひとり、あいつのことを心配してるやつなんかいない。
 …ひとりぼっちで、いつもひとりぼっちで、世界の中心にいて、何をしていいかもわからずに。
 …消してしまってやりたかった。
 おまえはきっと、今もそう思っているんだな。皇帝に刺された傷から血を流しつづけながら、かすんでくる目で、よろめく足で、それでも皇帝を見つめながら、やっぱり思っているんだろう。
 …情けなくて、情けなくて、腹が立って。
 …こんなみっともないことして、誰からもとめてもらえなくて。
 …誰もおまえが、こんなになってるのを、気にしてもいないのか。
 …いつも、一人ぼっちで。
 …こんなになるまで、放っておかれて。
 いつかどこかでジュバが聞いた遠い雨の音のように、すすり泣く声は静かに優しく続いていた。
 …消してやる。この世から。
 …おれが、この手で。
 「彼は皇帝に勝つ」ジュバは言った。
 「え?」
 ソシアが驚いたように聞き返す。回りの男たちがのぞきこみ、元老院議員が白いトーガをゆらめかせて、初めてこちらを振り向いた。
 「勝つよ」ジュバは言った。

(8)
 重々しく音をたてて、鉄の扉が開き、入ってきた兵士たちが、どこかうやうやしく鉄格子の戸を開けた時、ジュバを膝によりかからせて座っているソシアを中心に、よりそっていた剣闘士たちは、いっせいに目を上げて、そちらを見た。
 「議員」兵士がていねいに言った。「どうぞ」
 元老院議員は動かなかった。
 「何が起こった?」皮肉な口調で彼はたずねた。「皇帝に対する反逆罪で、私は逮捕されたのだが」
 「その皇帝は先ほど死に」兵士はどこか朗々とした口調で告げた。「皇帝を倒したお方は、ローマの全権は元老院にゆだねると言いのこして亡くなられました」
 剣闘士たちの数人が立ち上がった。
 「彼は死んだのか!?」さっきから泣いていたらしい、ディミトリアスという、まだ少年のように若い剣闘士が叫んだ。「マキシマスが?」
 兵士はうなずき、小さく鼻をすすって道を開けた。「彼が、あなた方を待っている。早く行ってやれ」
 ディミトリアスは議員の横をすり抜けて、コロセウムの階段をかけ上がって行った。議員を囲んで、ジュバたちもそれに続いた。

(9)
 コロセウムは、曇り空の下のやわらかい光につつまれていた。
 今にも雨が落ちてきそうに空気はしっとりとしめって、どこからともなく、かぐわしい秋の木の葉の香りがした。
 マキシマスはあおむけに土の上に倒れ、そのかたわらに明るい陽射しのような色の衣装をまとった皇女が、流れ落ちる涙をぬぐおうともせず、立っていた。
 高く顔をあげて、ジュバたちに、客席を埋めた観衆に、皇女は語りかけた。
 「かつて、私たちは夢と理想を持っていました。それをローマが実現してくれると信じ、すぐれた一人の人間が、命をささげるだけの価値が、この国に、夢に、理想に、あると信じて生きていました」
 ずっと向こうの方に、誰からも離れて、白い鎧を血に染めた皇帝の死骸が転がっているのにジュバは気づいた。皇女も、観客も、誰一人、そちらを見ている者はない。
 静かにすすり泣く声がまた聞こえてきたようだった。マキシマスの死体は目の前にあるのに、ジュバはその時、いつかアリウスの身体を抱き起こした時と同じマキシマスの姿が、影のようにそっと、その白い鎧の上にかがみこむのを見たような気がした。
 …いつも、ひとりぼっちで。
 …淋しがりなのに、いつも一人で。
 「私たちはもう一度、ローマをそのような国にしましょう。一人の人間の価値ある命が捧げられるに足るだけの国が、この世に存在できると信じましょう」
 皇女の声は続いていた。
 「彼を称えて下さい。ローマがそのような国になり得ると信じて戦い、死んでいった、ローマの兵士である、この人を」
 フリウスがジュバのかたわらに立っている。生々しい傷痕のあちこちに残る顔を、じっと皇女に向けている。だが、拷問で耳をつぶされた彼には、皇女の言葉は聞こえないのだな、とジュバは気づき、すぐに、その方がいいのだ、と思った。聞けば、フリウスはきっと首を振って言うだろうから。
 彼はローマの兵士ではない。我々の兵士だったのだ、と。

(10)
 元老院議員のグラックスは、地下牢で聞いたジュバの言葉に興味を感じたようだった。おまえの部族には予言の能力があるのか、とたずね、自分は今、そういったことについてアヒルなどを使って実験しながら、本を書いているところなので、よかったら故郷に帰る前の数日、邸に滞在して話を聞かせてくれぬか、と言った。そうすれば帰りの船の手配などもすべてしてくれるというので、ジュバは承知して、その夜は、グラックスの邸から迎えの輿が来るまで、コロセウムの地下の一室に安置されているマキシマスの遺骸のそばで過ごすことにした。
 剣闘士仲間をはじめ、貴族や近衛兵などが、かわるがわる訪れて花などを手向けて行ったが、夜になるとしばらく人がとだえた。誰も部屋にいなくなった時、静けさの中で初めてジュバは、目を閉じたまま横たわっているマキシマスの肩のあたりにそっと手をのせてみた。生きている間、何度もしたように。
 冷たかった。ひんやりとした石のように固い重さが手のひらに伝わってきた。
 荷車の中で初めて会った時に触れた同じ肩の、熱を帯びてほてっていたやわらかさが思い出された。木剣を無理に持たせようとした時に、いやがってジュバの手の中で動いた指のしなやかな強さ、震えながらしゃべっている時、落ち着かせようとしてなでおろしてやった腕の筋肉の弾力のある温かさも。どこかかすかにほほえんでいるような顔はまるで眠っているようだったが、そのまつ毛が動いて、眠そうにまたたきながらまぶたが開くことはもう二度とない。灰色がかった青い目がジュバを見て、怒ったようににらんだり、ふしぎそうに見つめてきたりすることも、もうない。
 ふと、影のように前に立った姿にジュバは気づいて、ふりあおいだ。
 やせて背の高い、厳しい表情の男が立っていた。黒い毛の房のついたかぶとを腕に抱き、近衛隊の制服を着ている。その服装や表情に似つかわしくない、疲れて力の抜けたしぐさで、ジュバの向かい側に彼は腰を下ろした。
 「私の家族の墓地に葬ろうと思うのだが」マキシマスの肩のあたりに目をやったまま、つぶやくように彼は言った。「おまえはかまわないだろうか」

(11)
 自分に聞かれていると気づくまで、ジュバは少し時間がかかった。部屋の中には他には誰もおらず、男がいつまでも黙っているので、ようやくそれに気づいて「ああ」と言った。「おれはどうせ、くにに帰るから。こいつといっしょに」
 うっかりそう言って、男には何のことかわからないだろうなと気づいたが、男はそうふしぎそうでもなく、おだやかな目でジュバを見て、その時ジュバは、彼がいつもあの貴賓席で、皇帝の横に座っていた近衛隊長であることに気づいた。
 「親しかったのだな」彼は静かにそう言った。
 「そうだな」ジュバは言った。
 「私は彼の副官だった。クイントゥスという者だ」
 「ジュバだ」
 クイントゥスはうなずき、マキシマスを見下ろした。何を言っていいのかわからないように、じっとただ見つめている。
 「わがままなやつだった」ジュバは言った。
 クイントゥスは救われたような表情でジュバを見た。「そうだな」と彼は言った。「本当に」
 また沈黙が続いた。それからクイントゥスがせきばらいした。「私のことを何か言っていただろうか」目をそらしたまま、乾いた声で彼は低く聞いた。
 ジュバは思い出してみた。「たしか、おまえはバカではないと言っていた」
 クイントゥスは唇を軽くゆがめた。「こいつはいつも、おれのことを見まちがえるんだよ」苦々しげに彼は言った。「それだけか?」
 「おまえは手ごわい。そうも言っていた。反乱を起こしても、近衛軍の隊長がおまえなら、おめおめと負けはしまい。勝つためならどんなことでもする情け容赦ない男だし、自分の弱点も特徴も、あの男はすべて知っているのだ、とも」
 淋しそうにクイントゥスは笑った。「そうか」
 「後は…これはおまえのことかどうかわからないが、自分はいつも、憎むのに遅れをとる、と」
 「憎むのに遅れをとる?」
 「気がついたら相手に憎まれている。そんなに憎まれるほど相手にひどいことをしていたと、もうとりかえしがつかなくなるまで、自分はいつも気づかない。生まれつきバカだから…」
 「そう言ったのか?」クイントゥスはかすかに顔をそむけた。「本当にバカだ。救いようがない」彼は、ふるえる声で言って、きつく唇を結んだ。
 それから長いこと、ジュバがそこにいるのも忘れたように、深く首をたれて黙って座っていた。だが、やがて思い直したように、もとどおりしゃんと身体をまっすぐに起こして立ち上がり、「どこに泊まるんだ?出発するまで」と聞いた。「私の邸に来ないか?」
 「ありがたいが、元老院議員の家に泊めてもらうことになっている」
 「グラックスか」クイントゥスはかぶとをかぶった。「気どったじいさんだ。だが、いい家だよ」
 そして、ジュバの肩に手をのせ、「話せてよかった」と、まだ少しかすれた声で言った。「おれは、これで失礼する」
 軽く姿勢を正してマキシマスの遺骸に目礼すると、身をひるがえして、クイントゥスは部屋を出て行った。

(12)
 帰りの航海でも、海はおだやかだった。甲板で手すりにもたれて波を見ながら、ジュバは潮風に吹かれた。アフリカの大地が水平線のかなたに薄く青く見えてきた時、彼はふと、誰かの手が肩におかれ、聞き覚えのある笑い声が耳元でしたような気がした。陸が見えたのを見つけて、ジュバに教えたがっているようなうれしそうな楽しそうな笑い声だった。
 ジュバは振り向いた。
 「ああ、おれにも見えている」彼は声をかけた。「そこにいるのか」
 陽に照らされた甲板の上を、潮風が吹きすぎて行った。
 「明日は、陸に着くだろう」ジュバは晴れわたった空を見上げた。「今夜はきっと、空は星でいっぱいだぞ」声に出して彼は、そう言った。

(第八章 地下牢・・・・・終)



終章・夜明け

(1)
 「それで話は終わりなの?」サヴィナが静かに、そう聞いた。
 ファティマは疲れた目をしばたたいた。「そうよ。ジュバは…長老は無事に村に帰って来て、彼は死んだものと思っていた家族と村人は狂喜し、何日も祝いの宴が続いたわ。でも、その祝宴の席でも、その後、出世して村の長となり長老となってからの、さまざまな会議の席でも、長老がいつも、他の人の目には見えない誰かを見るように、かたわらをふと見ることに、人々はやがて気づくの。暖かく優しいまなざしで。話しかけ、耳をかたむけているかのように。楽しい時も、苦しい時もね。彼の妻は、聞かれて答えた。あれはあの人の大切なお友だちです。その人が、あの人を助けて、連れて帰ってくれたのです。妻にも、長老の子どもたちにも、その人の姿が見えていたようだった。その人だけではない、何人もの姿が。長老の子どもたちは、一人で遊んでいても楽しそうに誰かとおしゃべりしていたし、妻も聞こえない声を聞くような静かな表情で、じっと糸車や石臼にかけた手をとめて考え込んでいることがよくあったとか」
 あたりはほのかに明るくなり、回りの岩や木々のかたちが見えはじめていた。地平線のあたりの空は一面うす水色に変わって、今にも太陽の光があらわれそうだった。
 「村人の中にも、その姿を見たという者があったわ」ファティマは言った。「嵐の夜、洪水の時、必死で皆を指揮して村を守る長老のそばに、別の人影がよりそっていたと。飢饉の続く寒い夏、枯れた水辺でうなだれて考えに沈む長老の前に、いつも黙ってひっそりと座っていた、たくましい男がいたと。その男を見たことがある者も、ない者も、彼がいつも長老を守り、村を守ってくれているといつからか信じた。そして、長老が年老いて、若い者たちに仕事を譲り、楽しみのための狩りに出かけるようになると、そのそばにはいつも、その、もう一人の男がいて、いっしょに弓を射たり、夕陽に照らされる草原を並んで歩いていたりした。長老はそんな狩りに出たある日、美しい川のそばで、疲れて横たわり、そのまま眠るように息をひきとったけれど、それからも時々、二人の姿を朝もやや夕陽の中に見た者がいる。風にのってくる、二人の笑い声を聞いた者がいる。二人は今も、このあたりに住み着いて、私たちを守っている。それが、伝説なの、私たちの村の。ただ、長い年月の間に、忘れられた一つのことばがあって、だから、伝説は今、完全ではない。村が、衰え続けているのも、そのせいだという予言者もいて…」ファティマは気分を切りかえるように、大きくぶるっと頭を振った。「わかったの?」彼女はサヴィナに向かって聞いた。
 「何が?」
 「何がって、そのことばだわ。あんたいったい、何のために一晩こうして…」
 サヴィナが突然、足を曲げたかと思うと、豹のように大地を蹴って立った。と思った次の瞬間、彼女は半ば空を飛んでファティマに躍りかかってきた。ずたずたになった縄の切れ端が小さい音をたててあたりに落ちる。ファティマのかたわらに置かれてあった自分の剣をひきよせて、組み伏せたファティマの喉元につきつけたサヴィナのその手首は、赤くただれて焼け、白い肉がはじけてむき出しになっているのをファティマは見た。焼けた長靴と同じ匂いが、その手首からただよって来る。

(2)
 …この女!
 ファティマは口を開け、それから歯をくいしばった。サヴィナはファティマの目の前で少しづつ身体をずらして、たき火に近づき、ファティマが目をそらしたすきに、燃えさしを足で引き寄せ、背後にかくして、手首の縄を焼き切ったのだ。その時に手首の肌の焦げる匂いを隠そうとして、わざと長靴の先を火の中に入れ、焼いてみせたにちがいない。
 ぎりぎりと歯ぎしりして見上げるファティマを見下ろして、サヴィナの顔が静かに笑った。
 「わかったわ」彼女は言った。「そのことば」
 ファティマは息をのんだ。「何だって?」
 「お嬢ちゃん」サヴィナはファティマの上にかがみこみ、静かな強い目で、ファティマをじっと見つめた。「それはね、きっと、『生まれる』ということばの、反対のことばだわ」
 「生まれる、の反対だったら、死ぬ、でしょう?」
 「そうではなくて、この世に生まれてくる時の意味」
 「その、生まれる、の反対なら、生む、ではないの?」
 「それは女が、自分の子どもを生む時の意味でしょ。そうではないの。生まれる、は、母親から、この世に生み落とされること。その反対に、赤ん坊自身が自分でこの世に出て来ることを表現することばはないの。人間が、自分から進んで、選んで、この世に出てくるという意味を示すことばは、存在しない。わかるかしら、お嬢ちゃん?そんなことばはないのよ。人間は、どんな人間も、初めから自由なんてないの。意見も聞かれなかった。選ぶことも許されなかった。まるで、コロセウムに送り出されるように、否応なしに、この世に突き出された。あなたたちの長老は、ジュバという人はきっと、そのことを、その友だちに言いたかったのだわ」
 「自分から、この世に出てくることを示すことばなんてない…」ファティマはゆっくり、繰り返した。
 「それは、勝手に作ればできるし、使えるかもしれない」サヴィナは言った。「けれど、そのことばは決して、現実を反映しないことばよね。そのことばが示す真実も現実も、どこにも存在しないのだもの。私たちの誰も、生まれる前に、神々か、他の誰からか、生まれたいかとは聞かれなかった。もちろん、答えて、それを忘れているだけかもしれない。けれど、覚えていないのなら、私にとっては同じことよ。聞かれなかったと変わりはないわ。何になって、どこに、いつ生まれるか、そもそも生まれたいかどうか、私たちは聞かれなかった。だったら今更、何をあがくの?死んだからって何かを選んだことにはならない。腹が立つなら…」
 「気づかないふりをすること」ファティマはつぶやいた。「たとえ大きな何かが、私たちのすべてを支配し、もてあそんでいるのだとしても」
 「そう」サヴィナはうなずいた。「そんなものは無視し、自由に生きている人間のように、最後まで堂々と、何も恐れず生き抜くこと」
 ファティマを見下ろして、彼女は優しく笑った。
 「面白い話をありがとう、お嬢ちゃん。謎をといてあげたお礼として、あなたの馬をもらって行くわよ」
 「お礼は、あなたの命のはずよ!」
 高らかにサヴィナは笑った。「それは自分でとり戻したわ!」
 金色がかった豊かな髪がゆれ、さっとサヴィナは身を起こしてファティマから離れた。ファティマがあわててはね起きた時はもう、岩かげをかけ去る足音に続いて、馬のひずめの音がして、夜明けの空が刻一刻、薄水色から薄桃色に移り変わって行く下を、そのひずめの音が一散に遠ざかって行った。
 ファティマは岩の上にかけあがり、みるみる小さくなって行く馬に乗った人影を見つめた。くやしそうにかみしめていた、その唇が、金色の髪の姿を見つめつづける内に、いつかひとりでにゆるんで、ほころびて、明るい笑いを浮かべた時、彼女の背後で太陽は、一挙に地平線から躍り出て、大地に光をあふれさせた。

(終章 夜明け・・・・・終)

呪文・・・・・終(2001.6.15.)




「呪文」未収録場面

(これは、第八章の9に入れようかと思ったのですが、あまりに甘くなりすぎるかなと心配で、省いてしまった場面です。入れた方がお好きな方は、どうぞ、適当にはめこんでお読みになって下さい。ああ、何と無責任な作者なんだか。)

 …見守るジュバの目に、皇帝の白い鎧を着た死骸から、幼い少年のような姿が起き上がるのが、それも幻のように見えた。少年の腕がマキシマスの血に汚れた腕にすがり、眠そうな声が「マキシマス」と、ほっとしたように呼んだ。「君かい?」
 「殿下」マキシマスの声も、やや若いような気がしたが、今と同じように明るくて、温かだった。「お目ざめですか?」
 少年は両手をマキシマスの首に回してかじりつき、うれしそうな笑い声をたてた。
 「すごく恐い夢を見ていた」甘えたように彼は言った。「父上と君を殺して、僕が皇帝になってしまうんだ」
 マキシマスの笑いも明るかった。「楽しかったですか?」
 「ううん」少年は首をふり、マキシマスの首筋にほほをくっつけた。「つまらなかったよ」
 マキシマスの姿は、ジュバが知っている今の姿のようでもあり、もっと若いようでもあった。深い悲しみをこめた表情で、彼は少年を抱きしめていた。
 「ちっとも面白くなかった」少年はそうくり返し、マキシマスが答えないので不安になったのか、急におびえたように、あたりを見回した。「ここはどこ?なぜ、こんなに暗い?あれは姉上か?皆、何をしている?」
 「ここはいつも来る野原です。殿下がお眠りになった時のままの」マキシマスは静かに言った。
 少年はあたりを見回した。その時ジュバは二人の回りにいつのまにか一面に緑の草がそよいでいるのを見た。金色がかった花々が、星のように草の中に咲いていた。
 「本当だ」少年は安心したように言って、マキシマスにしがみついたまま、あたりをながめていた。マキシマスも回りを見ながら言った。
 「でも、もう、日が暮れます。帰りましょう」
 「宮殿へか?」
 「私の家へ」
 「私が行ってもいいのか?」少年は少し不安そうに聞いた。
 「もちろんです」マキシマスは少年に笑いかけた。「妻が召使たちと食事の用意をして、私がベッドを作ってあげますから、その間、私の子どもと遊んでやって下さい。何日かすごして疲れがとれたら、皆で、あの男の家のある村へ行きましょう」彼はジュバを見、少年もジュバを見た。
 「あの男の村?」少年は、興味を感じたように聞いた。
 「私もまだ行ったことはありませんが、平和な村ということです」マキシマスは微笑した。「そこで皆で暮らしましょう」
 少年はまた、不安そうにたずねた。「でも、僕がいていいのかな?」
 マキシマスの腕が強く少年を抱きしめ、少年がもがきながら、うれしそうに声を上げた。
 「殿下がいなければ、私たちは何をしてもつまりません。いて下さるから、楽しいのです」
 少年は満足そうに深くため息をつき、少し意地悪そうな、でもどこか不安げな声で、念を押すように言った。
 「僕はきっと、いっぱい悪いことするよ」
 「そうですか?」マキシマスは笑った。
 「皆が困るような…君が苦しむような」
 「そうですか」マキシマスはあきらめたように言った。「楽しみですね」
 少年ははしゃいで笑い、ふと、よりかかっていたマキシマスの腕を気にした。「けがしてるのか?」
 「いいえ、殿下」
 「私が…?」
 「ちがいます、殿下」マキシマスはすぐ否定した。
 少年は何度も指先で、マキシマスの腕の血のあとをなでていた。
 「僕はいつも」彼はつぶやいた。「何がいけないことかわからなかったけれど、君が傷ついたような顔をすると、それはしてはいけないことだと思って、もうしなかった。でも、君がいなくなってからは、わからなくなった」彼はまた、おびえたように回りを見回した。「本当に、夢だったのか?恐ろしい夢だった」その声も姿も、彼はもう半ば大人のように見えた。
 「私はもうずっと、おそばを離れません。殿下にしてやられるようなへまも、決してもういたしません」マキシマスの声は落ち着いていておだやかだった。「行きましょう。ここにいる人たちは、もう大丈夫ですから」
 二人の姿がかすんだと思ったら、ふっと消えた。同時に、野原も花々も消えた。雨の降りそうな暗い空の下の、血に汚れた土の上に、白い鎧の皇帝の死体が一つ転がっている他は何もない。だが、二人が消えて行く瞬間、少年がはずんだ、喜びに満ちた声で言った言葉だけが、まだ虚空にただよって残っていた。
 「本当に、僕も、いて、かまわないの?」
 行ってしまったな、とジュバは思った。いいさ、おまえの言うとおりだ、と彼はマキシマスに呼びかけた。おれたちのことは、もう、気にしなくていい。その子のそばにいてやれ。いっしょに、おれの村で待て。その子は悪さをするだろう。おれの村にも、おまえにも。だけど、いていいと言ってやれ。おまえのすることぐらいで不幸になるほど、おれたちは弱くないから安心しろって言ってやれ。

(たしか、中学校の時の英語の時間、先生が「born」という単語は受動態でしか使われることはなく、能動態では使われないと説明しました。その後の休み時間に、私は友人たちに「日本語だってそうだよね。『生まれる』って、受身で、そうでない言い方はないもの」と言いました。友人たちは「でも『生む』って言葉があるじゃない」と納得せず、私と押し問答していました。
 私は、先生のその言葉を聞いた時、妙にはっとしました。それからも時々、それを思い出しては、屈辱を感じました。そういうことなら、もう初めから負けだと思いました。
 この感覚は今も変わってはいません。「呪文」を読んだ複数の人が、「生かされている」という言葉を思い出してくれました。そういう、謙虚な思いでうけとめることもできる事実ではあります。でも、私の心の中には、やはりどこか「無念さ」があります。結局もう、初めから負けじゃないか、という思いがいつもしてしまいます。
 「未収録場面」が一番ひどいけれど、「呪文」には随所にどうしようもないほどの甘さがあると思います。けれど、そのくらい甘くしないと、この救いようのない現実を耐えることが私はできませんでした。この世はそもそもコロセウムであり、私たちは皆、マキシマスをはじめとした剣闘士たちのように、そこに送り出されたのだという現実に。
 ともあれ、これまでで一番長い話におつきあい頂き、さまざまなかたちでの感想や励ましを下さったことに深く感謝しています。)