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夜の歌 ーマキシマスとキケロー

 あなたに、あまりに献身的につくしてくれる人がいて、何の見返りも要求しなかったら、それって、ちょっと恐くない?というお話。

(ある将軍の残した日記、というかたちで、お話は展開します。こんなにつくしてもらえるようなことを何か私は誰かにしたっけ?と考えあぐねて困っている将軍さまを、どうか優しく見守って、笑ってやって下さいませ。)





夜の歌

     はじめに

 これは紀元二世紀ごろのローマのある戦いで、自分の仕えていた若い将軍を身をもってかばい、敵の矢を全身にうけて死んだ青年の死体から発見された日記の断片である。
     ◇
 読めばわかるが、この日記はその青年のものではなく、彼が仕えていた将軍のものである。どうやらこの青年は何かの事情でそれを手に入れ、ていねいに身につけて保管していたようである。
 そこにどういう事情があったか、彼は将軍からその日記をもらったか、盗んだか、預かったか、そういうこともまったくわからない。
 また、この将軍の名も、その後彼がどうなったのかも記録にはいっさい残らず、不明である。
     ◇
 したがって読者が、以下に紹介する日記をどのように解釈して読もうとも、それは自由だ。恐怖しようと感動しようと、泣こうと笑おうと、お望み次第だ。
     ◇
 だが、何人かの人々は、きっとうなずいて言うだろう。そうだ、世の中には、こういうことはある、と。
     ◇
 将軍の若々しく力強い正確な字でつづられた日記の断片は、十数本の矢によって青年の身体に文字どおり深々とぬいつけられていた。数枚はついに、その傷口にくいいったまま、ひきはがすこともかなわず、死体とともに埋められたという。



     将軍の日記(剣の章)

     一ノ一
 かつて私がまだ幼い頃、さまざまなことを教えてくれた尊敬すべきある人が、私に向かってよく言った。なにごとにせよ、ひとつことにいつまでもこだわりつづけることは危険だ、と。

     一ノ二
 また、その人はこうも言った。自らの心の中を見つめ直し、文字にしてそれを記すことだけでも、多くの悩みは解決のいとぐちをつかめるものである、と。

     一ノ三
 それを思い出して、軍務の間にこの日記をしたためる。
 現在私がこだわっているのはきわめてささいなことにも見えるが、放っておくと危険な気もする。
 早く解決しておきたい。

     一ノ四
 人に見せるのが目的ではない。あくまで自分の心を整理して見つめるためのものだから、とりとめのない書き方になっても気にしない。

     二ノ一
 書きたいのは私の従僕のことだ。
 彼が私のテントに来たのは、この前線基地が蛮族と春の大攻勢をかけあった少し後のことだから、今から五ヶ月ほど前になる。
 二十代前半の、鋭い顔だちの細身の若者で、それまで別の士官に仕えていたということだった。今となってはくやまれるが、彼がその士官に仕えるようになったいきさつや、私のところに来るように部下たちが手配したなりゆきを、身を入れて私は聞いていなかった。
 士官たちの中には自分の従僕を選ぶのにずいぶんやかましい者もいる。軍の関係者をきらって近くの村の若者を調達してくる者もいる。
 自分のテントに寝泊まりさせて身の回りの世話をさせるだけの人間に、それだけの神経を使う必要も感じなかったので、私は士官たちが回してくれる男たちをいつも適当に使っていて、それで不便も感じなかった。今度もそうだと思っていて、どこから来たどんな男でも別にいいと思っていたのだ。

     二ノ二
 彼が来て数日は、何も気がつかなかった。
 めったに口をきかないので、うるさくもないし、気をつかわなくていいなあと思った程度だ。
 ワインをカップについだり、机の上をかたづけたりするのを、私は自分でやっていた。人にさせると好きな時に飲んだり書いたりできなくなるので、かえってめんどうだったからだ。
 従僕は私がそうしているのを、黙って見ていて、手を出さなかった。「そんなこと、ご自分でなさらなくても」と、それまでの従僕はいつも大さわぎして、この方が楽なんだよ、と納得させるのに一苦労していたので、ああ、これは楽だなあと思った。
 そして、ひと月ほどしたある日、机の上の書類を見ながら、肩ごしに彼のさし出すワインのコップを手にとっている自分に気づいて、あれ?と思った。

    二ノ三
 しばらく手にしたコップを見つめて考えていて、それからあわててふり向いて、彼の名を呼び、けげんそうにふり向いた彼に、「いつからおまえがワインをつぐようになった?」と私は間のぬけたことを聞いた。
 従僕はちょっと宙を見つめて考えこみ、それから首をかしげて「さあ」と言った。「いつでしたか。たしか、さし出したら、おうけとりになりましたので」
 まあ、大したことではないか、と私はコップを見つめて思った。
 それから四、五日たったある日、机の上がいやに雑然としている気がして眉をひそめていると、彼が通りかかって、ちょっとあわてて「すみません」と言う。
 「さわったのか?」私はちょっととげとげしい口調になった。
 「いえ、あの」彼は口ごもった。「今日はまだです」

    二ノ四
 私は彼の顔を見つめ、そして机の上を見つめて気づいた。
 そこは朝、私が仕事をしたままだった。誰も手をつけていなかった。
 と、いうことは…
 「いつから私の机の上を片づけていた?」私はつとめて冷静に聞いた。
 「いつからでしたか」従僕は床に目を落として考えていた。「ああ、そうでした。いつも巻物は、巻き直して席をお立ちになるのに、この前、歩兵隊長が呼びに来られて急いで出て行かれた時、そのままになっておりましたので、風でめくれないよう、巻き直しておきました。それから毎日、地図もそろえて、ペンをまとめておくようにいたしました。申し訳ございません」
 それでかな。この何日か、仕事がしやすい気がしたのは。
 「いや、このくらいなら片づけてもいい」と、私はせきばらいして言った。

    二ノ五
 そういうことが始まりだった。ワインと机の上については覚えているのだが、他のことはもう、いつの間にそうなったのかわからない。気づいてみると、何から何まで私はこの従僕にしてもらうようになっていて、それが少しも不愉快でなかった。
 それまでは、人にしてもらっても、何かと都合の悪い、いやなことが多く、でも、やってもらっているのだし、いちいち気にするようなことでもなし、と我慢してしまうことの方が私はむしろ多かった。
 そのことにさえ、それまで気がつかずにいたのだ。
 この従僕のしてくれることがあまりに私の好みにかなって快いので、これまで自分がどれだけ我慢していたかが、やっとわかった始末である。
 しかし、そのことに気づくと、逆にだんだんまた不安になった。
 こんなに快適でいいのだろうか?
 いくら何でも、どこかおかしくないか?
 とにかくもう、彼の私へのつくし方というのは並はずれているような気がした。
 いてほしい時は必ずそばにいるし、いなくていい時は絶対にいない。私より早く起きているし、遅く寝ている。シーツも毛布も枕も下着も、いつも清潔で太陽の香りがし、テントの中はいつもきちんと片づいて、ちりもなければほこりもない。私がうっかり床に落としてこわれたコンパスはいつの間にか直り、すりきれて書きにくくなったペンは自然と新しいものに代えられている。軍医のところに行くほどもないかすり傷をつけて帰ってくると、すぐに薬をとってきてくれる。
 しかも彼は、このすべてをほとんど無言で、私に何も聞かないでやる。忙しく働いているはずなのに、物音さえもめったにたてない。それはよほどいつも私を観察し、顔色や体調のすべてに細かく気を配っておかないとできることではないだろう。

    二ノ六
 どう考えても、ふつうではない。
 あんまり何でもしてくれるから気持ちが悪い。
 言っちゃ何だが妻よりもよっぽど何でもしてくれる。
 もちろん男女のいとなみなどはしない…私は何を書いている?
 つまり、そういうことが男と女のどちらをより楽しませるかはわからないが、少なくとも妻は、私とそういうことをするのを、とても楽しんでいると思うし、時には私以上に喜んでいるようだから、だから、それを思えば妻が私にいろいろしてくれるのも別におかしくはないわけで。
 いや、これも変だな。
 何かちがう。
 つまり、私が言いたいのは、彼がそこまで私にしてくれても、見返りは何もないはずだが、ということだ。

    二ノ七
 ああ、何を書きたいのか、自分でもわからないなあ。
 何だかいらいらしてくるなあ。
 多分彼は、有能で、仕事熱心なだけなんだろうと最初は思っていた。
 私が今まで知らなかっただけで、優秀な従僕というのは、だいたい皆、こうなのだろうとも。
 私以外の将軍や士官に仕えてもきっと彼はこうなのだろうと思った。
 きっと彼は、私と同じように自分の仕事が好きで、ローマを愛していて、それでこういう風に身を粉にして働いて、完璧な仕事をするのが生きがいなのだろうと、自分を納得させていた。
 でも、どう考えても、それだけでは、ここまではできないような気がしてならない。

    三ノ一
 「いい従僕じゃないか」と、私の副官は言う。
 長い友人なので、二人きりのときは今でもそういう話し方になる。
 「そう思うか?」
 「働きぶりは最高だ。少し生意気だが」
 そして私の顔を見て、つけ加えた。
 「おまえ、何か不満があるのか?」
 そう言われたら、いいや、と答える以外にはない。
 私がわりきれない顔をしていると、副官は、おまえは田舎の出だし、農家の子だし、人に仕えてもらった体験がないから、まめまめしく世話をしてもらうのに慣れてないんだ、その内気にならなくなるから安心しろ、と言った。
 妙にむかっとして、小さい時は召使ぐらいいたよ、と言いかけて、みっともないと思ってやめた。

    三ノ二
 この副官は少年兵だった頃からの幼なじみなのだが、ものすごくいちいち、言うことが神経にさわる男である。
 いつも私のことを、私以上によく知っているように、あれこれ分析するのが一番いやだ。
 してもいいから、聞かせないでほしい。
 私の反応を見ているようでもない。せいいっぱいいやな顔をしてみせても全然気づいていないから。
 まるで私などその場にいないかのように、長々と私の特徴や欠点を私に向かって話して聞かせる。
 たとえば、おまえは見たときはこれといってちっとも目立たない顔に見えるのに、よく見るとまつ毛が長かったり鼻の形がよかったり、ととのった顔だちで、特に笑うと子どもが甘えるように幼く見えて、そこに女たちはひっかかるんだとか、身体つきだって背が高くて足の長いわりに、あんまりそれとわからないんだが、動くと本当にきれいだもんな、と一人で納得して話す。
 何を言ってるんだとバカにして無視したいのが、そうもできないのは、まつ毛にしろ鼻にしろ、彼がついてくる部分というのが、ベッドの中で私の妻がいつも一番よくキスする部分だし、そう言えば妻は私を笑わせたがってシーツの下でしょっちゅうくすぐる。
 それを知られているようで、気味が悪い。こいつどこまでわかっているんだろうと、つい聞き耳をたててしまって、あとでまた腹が立つ。
 性格のこともいろいろ言う。顔や身体のこととちがって、これは私の意志でどうでもできることだから、ひょっとして、こういうところを直してほしいと言っているのかなあと思って、思いあたるところは自分でも気をつけて直すようにしてみたが、次もまた同じことを言っているので、結局、私に聞かせてどうしようと思っているのでもなさそうである。そんなら一人でしゃべっておけよ、と思うのだが。

    三ノ三
 はじめにこの日記をつける理由のところでも書いたように、昔、ある人が私に目をかけてくれて、学問や、いろんなことを教えてくれた。
 その人の言うことを私は熱心に聞いて、自分にあてはまることがあったら改めるようにした。
 次に会ったときに、私が前と変わっていると、勉強のことでも、その他のことでも、その人はどんなことでも必ず見つけて、ほめてくれた。
 もうその字が書けるようになったのかとか、背が伸びたなとか、爪をかむ癖はやめたのかねとか。
 それがうれしくてたまらなくて、何かその人に見つけてもらうような、改めることはないかと探すぐらい努力したものだが、考えてみれば私は逆にあれで甘やかされたのかもしれない。
 何か努力したら、すぐ見つけて、ほめてもらわないと、満足できなくなっているようだ。
 皆にというわけではないが、親しい人には特にそうだ。
 だから、あの友人の副官が、五日たっても十日たっても私が一生懸命に改めたところに全然気づいてくれないと、がっかりして、つまらなくなってしまう。
 何だ、そんなに真剣に言っていたわけでもないのか、私のことをそう気にしていたわけでもないのだと思って、努力したのがばかばかしくなる。
 要するに、ほめてもらえないと、やる気をなくすし、面白くなくなってしまうわけで、こう書いてみると、かなり恥ずかしいことかもしれない。

    三ノ四
 それに気づかされたというのも、あの従僕のせいである。
 何しろ彼は、何ひとつ、私にほめられたり、気づかれたりすることを望んでいないとしか見えない。
 むしろ、どう見ても、ほめられたり、気づかれたりしないよう努力している。
 立派なことではないか。少し気味が悪いが。
 そういう点では、私の方が彼よりずっとまだ子どもだとさえ思う。

    三ノ五
 でも、それはそれとして。
 つい書いてしまったように、やっぱり少し気味は悪いのだ。
 ほめられも気づかれもしなくていいということは、じゃ彼は、ただ私を幸せに、快くさせればそれで満足なのか?
 そういうのを気にせずにうけとめて味わっていればそれでよいのかもしれないが、やはり、彼はそれでいいのだろうかと思ってしまう。
 何が目的なのだろう?
 私のことがとても好きだから、それでいいのだろうか。
 まさか、それはないだろう。
 いくら何でも人間そこまで、うぬぼれられるものではない。

    三ノ六
 こんなこと、誰にも言えない。
 相談もできはしない。
 ひょっとして皇帝陛下がさしむけて下さった男なのだろうか。
 そんなことまで考える始末だ。
 うっかり書いてしまったが、私にいろいろなことを教えて下さった人というのは、現在の老皇帝である。
 その方が、私に自分のいたらなさを教えるために、よこした男ではないかとたじろいでいる私は、うまそうな餌を目の前におかれて、何かあると用心して食わずにいる犬のようだ。
 いや、そのたとえはちがう。
 私はもう、餌を食べているのだからな。
 それにしても、こう書いていると、自分が現実に目をつぶってしまっていたことにいやでも気づく。
 従僕の、あの働きぶりは、決して仕事熱心なせいだけではない。
 彼は、私につくしているのだ。

    三ノ七
 何かあったら、私をさておいて、妻は息子を助けるだろう。
 そうであってほしい。
 私の方は妻と子のどちらを選ぶかと言われれば妻を選ぶが。
 それでいいと思っている。
 だが、あの従僕はまちがいなく、誰よりも先に私を救う。
 それだから、私のことを一番愛しているのは彼だと、もちろん、言いたいわけではない。
 いったい何だ、この文章は。
 明晰さを欠くもはなはだしい。
 とても皇帝陛下にはお見せできまい。
 妻にもだ。
 いったい、何を言おうとしている文章なのだ、これは?
 あとでここは抹消しておこう。

    四ノ一
 しかし、いったい彼は誰なのだろう?
 忙しい時は考えないが、戦場の生活は、時に思わぬ長いひまができる。
 そういう夜に、考えてしまう。
 誰がいったい、ここまでも、私のためにつくしてくれる?いったい、何の理由があって?
 そうすると、思い浮かばない。
 妻の近親者はもう誰もいないはずだし。
 もうずっと会っていない故郷の兄たちの内の誰かの息子だろうか。そう言えば、男の子が生まれたという知らせをもらったような気もするが、ずっと昔のことで、思い出せない。
 亡くなった父に昔、世話になった誰かのゆかりのものだろうか。
 おれも以前はひとかどの者だった、とよく自慢していたしなあ。おれに足を向けて寝られず、朝晩おがんでいるやつは百人じゃすむまい、などと。家族は誰も信用しなかったが。
 案外あれは本当で、百人はあんまりでも十人ぐらいは実際にいて、その中の誰かが、一族や、一門の救われたお礼として、父はもう死んでいるから息子の私を守るよう命じて、あの従僕をさしむけた?
 だがそれも、ちょっと無理がある気がする。

    四ノ二
 それでも気になったので、本人に一度カマをかけてみた。
 「どこの出身と言ったっけな?」と聞いてみた。
 「まだ申し上げておりません」と落ちついて答える。
 「そうだったか。どこだ?」
 「一口には言えませんので」
 それなら、二口か三口か、もっと長くかかっていろいろな国を言うのかと期待した。
 そうしたら何とそれきり黙って、シーツと毛布を抱えて出て行ってしまった。
 言えないのか、言う気がないのか、言う必要がないと思ったのか、それさえわからない。
 彼が戻ってきて、ベッドを作りはじめた時は、こっちの気持ちがもう、なえていた。
 こんなことをあれこれ知りたがる自分が、何か非常に恥ずかしいような気がした。
 「他にご用は?」と彼が聞く。
 黙って首を振ってしまった。

    四ノ三
 このごろ私は彼に気づかれないように、こっそりと彼の横顔や後ろ姿を盗み見て、自分の記憶をさぐっている。
 前にどこかで会ったっけ?
 かなり印象的な顔だから、一度見たら覚えていると思うのに。
 処刑されるところを、かばって助けてやった兵士か。
 戦場で命を救った男?見逃した蛮族?
 だが、そんな者は山ほどいる。私に殺された敵、私の作戦で死んだ兵士、軍紀違反で処罰した男たちが山ほどいると同様に。
 そんなことで一人の人間からしつこく命をつけねらわれたことはないのと同じことで、その程度のことで私に少なからぬ感謝をかりにしたとしても、ここまで無私の献身を私に対してするわけはない。
 だったら、やっぱりわからない。
 いったい彼は、誰なのだ?

    四ノ四
 故郷に帰った時、妻にその話をしてみた。
 彼女が笑って言ったこと。
 「あなたがいつかわなにかかっていたのを助けて逃がしてやった、キツネが化けているんじゃないの?」
 本気かどうか判じかねてぽかんとしていると、妻は皿をふきながらまた答えた。
 「それとも夏に、あなたが蛇にのまれかけている卵を助けてやったツバメかな?」
 「おまえ、そういうこと本気で考えているのか?」
 念のために聞いた。
 「あら、この前、占い師に見てもらったら、あたしたちはハヤブサとクマタカの生まれかわりって言われたわ。そういうことってあると思う」
 だからもう、女ってやつは!聞いたこっちがバカだった。

    四ノ五
 だが妻がそんなことを言ったおかげで、彼について私は別のことを考えはじめた。
 人間以外のもの、かあ。
 たしかにそれなら我々とはちがった基準で動くだろうな。
 だが、それだと何となく、あの従僕は、動物や鳥というよりは…。

    四ノ六
 工兵隊の連中とカタパルトの点検をして歩いていた時、砲身の整備をしていた古強者の老兵が、いとおしそうに「こいつとはもう古いつきあいで、弾道のくせも何も皆、おれがのみこんでまさ」と言った時、私は思わず、「人間に姿を変えて訪ねてきても見分けがつくかい?」と聞いて、回りの皆が大笑いした。「わかりまさ。わからなくってさ」と老兵がまじめくさって胸をはったので、笑い声はなお高くなった。
 あの従僕はカタパルトという感じではない。だが、私は彼を見ていて、しばしば、川を渡ったあとで焼き捨ててしまおうとして、あまりにもよくできているので、そのまま残した橋や小舟、蛮族の村や畑で、破壊するのをやめておいた、見慣れない形の種まき機や水あげ機、私自身が使っていた剣や、工兵隊のつるはし、軍医の治療器具といった、機械や道具を思い出す。それらの道具は皆美しく、せっせと自分の役割を果して働いてきたものらしい風格があって、私はどれも好きだった。
 右手の指を負傷して治療をうけていた時、私が医師の手元をじっとしげしげ見ているので、恐くないのかとふしぎがられたことがある。だが私は医師がねじを回すにつれて、開いていって傷口の皮膚をめくりあげたり、手首や指をしめつけたりひきのばしたりする銀色の金具が、自分の感じる痛みとは別に、見ていて楽しくて、あきなかった。そういう実用的な機械は、それぞれ人間に似ている。つるはしは頑固な職人のようだし、医師のメスは皮肉屋の上官のようだ。

    四ノ七
 あの従僕は何だろう?もし、本当は機械だとしたら。
 自分がこれまで使った道具を私はどれもよく覚えている。刃こぼれがひどくなって、スズカケの木の下においてきた剣も、夜襲のときになくしてしまった、妻がくれたコップも、初めて部下を指揮して森を切り開いた時使ったノコギリも。手ばなしてしまった時は、いつも悲しかった。道具たちも悲しんでいるような気がした。
 その中のどれかが彼になって現れて?などとバカなことを考えているのではないが。
 だが、彼はそのどの道具にも、どこか似ている。もっと使って下さい、あなたの役にたちたいのです。清々しく顔をこちらに向けてそう言っているかに見える皿やナイフや水差しといった、つつましい品物たちの一つ一つに通じる誇り高さといさぎよさがある。

    五ノ一
 日記なんてやっぱりつけるもんじゃない。
 彼がこの日記を見たらしい。
 どうもそんな気がする。
 一応ギリシャ語で書いているから大丈夫だと思っていたのだが。
 だが、考えてみると彼は実はギリシャ人って可能性もあるわけで。
 スペイン人かもしれない。
 アラビア人かも。
 彼の場合、何でもあり得る。ことばにも何の訛りもないし。
 あるのかな?あまりしゃべらないから、わからない。
 この前、いつも、さっぱり中味はないくせにだらだら長くしゃべる士官の報告を聞き流しながら、メモをとっているふりをして、あの従僕がしゃべることばをこっそり書き抜いてみたら、二十語にもならなかった。「いえ、別に」とか「はい、ただ今」とか。失敗などしないから、あやまることばというものもない。
 はじめの頃はそれでもまだ、「これはどこにおきますか」「何時にお起こしいたしましょう」などと言っていたのだが、私の習慣や好みをのみこむにつれて、そういう質問もしなくなったから、更にことばが減っている。
 私の方も彼にはうなずくか、首を振るか、目で示すかすることが多く、声に出して何かを言うことは少ない。たとえば昨日一日だったら…あれ、ひょっとして全然しゃべってないか?長靴に水がしみる、と言おうとしたら修理してあったし、「ここにおいていた箱は?」と聞いたのは、あれはその前の日のことだしな。
 そう考えると会話の少ない主従である。
 例の友人の副官などは、自分の従僕に、私が見ている前でだけでも、ずいぶんいろいろな話をしている。時にはローマ人としての心がまえなどを長々と説いてきかせている。そうか、そう言えばずっと前、私に向かって「従僕とはなるべくことばをかわす方がいいぞ。天気はどうかと聞くだけでもいいから」と注意したことがあったっけな。
 「天気?」
 「雨がふってるか、とか」
 「テントから頭を出して自分で見ればわかるじゃないか」
 そういうこととはちがう、と彼は言った。私もちがうとはわかっていたが、なぜか彼にはひねくれたくなる。

    五ノ二
 服装のことにしてもそうだ。
 副官自身は身だしなみには気をつけているものの、とりたてて服装にこったり、ぜいたくしたりする方でもなく、部下がだらしないかっこうをしていれば注意もするが、他人の身なりにそうやかましいわけでもない。それがなぜか、こと私に関しては、おまえにその色は似合わないとか、毛皮はそんな風につけるもんじゃないとか、妙にしつこく、食い下がる。
 私がまた他の者だと笑ってうけ流すか、せいぜい完璧に無視できるのに、この男に言われると変に反発し、こだわってしまって、彼が似合わないと言った色をあえて着たくなったり、するなと言った毛皮のつけ方をしてみたくなるのが、自分でもふしぎでならない。
 特に何かの行事とか式典とかになると、彼のチェックはいちだんと厳しくなって、それこそかぶとの房の長さから私の一挙手一投足、演説のときは発言の一言一句まで、あとでこまごま批評する。そんなに言うんだったら自分でやれよと何度言いたくなったかしれない。もともと好きではなかったが、彼のおかげで私はすっかり、こうした催し事がきらいになった。

    五ノ三
 その点、従僕は完全に、私のしたいようにさせてくれる。私が髪やひげをのばしっ放しにしていても、汚れた服や破れた肌着が気持ちがいいのでいつまでも着ていても、何も言わない。
 はじめの頃はどれを着ますかとか何を着ますかとか私に尋ねていたが、その内何も聞かないで自分でとりそろえて出してくれるようになった。それがまた、どれも非常に着ていて心地よい。人から文句も言われないし、かと言って注目もされない。服を着ているということを自分で忘れてしまうほどで、これは大変ありがたかった。
 おまえの服装は彼の言いなりになってやしないか、と副官が冷やかしたので私は「彼は自分の好みを私に押しつけないから」と、思いきりいやみのつもりで言い返した。すると副官はたちまち吹き出して、「本当にそんなこと思ってるのか?」と言った。「おれなんかより、誰よりも、あいつはおまえに着せる服や色についちゃ、はっきりした考えを持ってるぞ。自分がさせたくないと思った身なりは絶対におまえにさせないでいる」
 私が疑わしげな目つきで見返していると副官は「あのな、この前の雨の日な」と言い出した。「おまえがあのすりきれた紺色のマントを着て出ようとして椅子にひっかけてたろ?覚えてないんだろうな、どうせ」
 「覚えてる」私は嘘をついた。
 「そうか。で、テントを出るとき着てたマントがワイン色だったのには気づいてたのか?」
 ??!!
 「おれと、もう一人の士官が入ってきて、もう一人のやつのマントが派手な青で、おれのがおまえのと同じ紺色でしかも新品だったのを見た従僕が、稲妻みたいな速さですりかえたんだ。おまえが後ろ手に手をのばしてマントつかんで取る前に」
 「嘘だろ?」
 「嘘だろってそうなんだよ」副官はおかしそうに、唇をゆがめた。「彼はおまえの好きなようにさせてるように見えるかもしれんが、おまえが人に笑われたりみっともなく見えたりしないよう、実にすきなく気をつけてる。それもおまえに気づかせないようにしてな」
 「本当にすりかえたのか?」私はまだ半信半疑だった。
 「マントか?そうさ。あっという間のことだった。気がついたのは、おれだけだろうよ。そのおれだって目を疑ったぐらいの早業だった」
 私がまだぼうっとしていると副官は「ショックだったんだろう」と同情するように言った。「気に入ってたんだろうからな、あいつのこと。人前でもいつもあいつにおまえ、笑いかけてるし」
 「おれがか?」
 全然気がついていなかった。
 どちらかと言えばそっちの方がショックである。
 「まあ、笑いかけるっていうか、そんな目であいつを見てるよな。それにこたえてあいつも笑い返してるだろ」
 そ、それも私は気づいていない。
 「ちらっとだけどな」副官はなぐさめるように言った。「本当に一瞬だ。多分誰も、気づいていないさ」

    六ノ一
 軍団を率いて短い遠征に行かなくてはならなくなり、ちょうどいいからその間に従僕に、故郷の妻に手紙を持って行かせた。かなり危険な戦闘になるだろうと皆言っていたが、情報を総合して考えると、絶対に勝てると思ったし、数日でかたをつけられるのではないかとひそかに考えていたので、つまらぬ心配をさせてもと思って、手紙には遠征のことは何も書かなかったし、彼にも、私は基地で元気で魚釣りでもしているとでも言っておけと命じておいた。
 そうしたら案外、敵がしぶとくて、私の予想より何日か長引いた。それでも兵士たちは、どうしてこんなにあっさりと勝てたのかわからないと驚いていたが。
 基地に戻ると従僕はもう帰っていたが、何やら落ちつかぬ顔で私を迎えた。この男にしては珍しいことである。私は旅装を解きながら、気軽に妻の返事の手紙を要求した。よこしたはずだと思ったからだ。
 従僕はどこやらあいまいな表情で、薄い手紙を差し出した。開けてみたらただ一言「嘘つき!」とだけ書いてある。

    六ノ二
 わけがわからないまま、妙に吹きだしそうになって目を上げると従僕が申し訳なさそうに、「そちらを最初にお渡しするようにと言われたのです」と言って、もう少し厚い別の手紙を差し出した。
 開ける前から覚悟はしていたので、それに比べると中身は穏やかだった。
 「こちらはすべてうまくいっております。息子は元気で育っております。私は毎日幸福です。召使たちはせっせと仕事にはげんでおります。村は平和で何の事件も起こってはおりません。風は日がな一日そよそよと吹き、雨は畑をほどよく湿らせる以上は決して降らず、さわやかなよい日が続いております。
 こう書けばご満足ですか。こういうお手紙がほしいの?魚釣りですって?いったい、どんな魚よ!?みるからに嘘の下手な正直そうなあの若者に、みえすいたことを言わせて、あなたはどこで、何をしていらっしゃるの?彼はあなたに口止めされているものだから困りきっていて、その様子を見る限り、きっとあなたは危険な戦場か、ひょっとしたら病院にいるのね?気が狂いそうよ。ひどい人。私をバカにしないで」
 目を上げると従僕が、困った目で私を見ていた。
 「奥さまを多分、だませなかったと思います」と彼は言った。
 「そのようだな」と私は言った。

    六ノ三
 従僕はまたためらいながら、小さい包みを私に差し出した。「それと、これをお預かりしてまいりました」
 開けてみると、手のひらに入ってしまいそうな小さな二つの木像である。一つは女で、一つは子どもだが、稚拙といいたいぐらい素朴な細工がどことなく愛らしく、また謎めいてもいた。私はそれを一つずつ両手にとってながめた。
 「私に渡せと?」
 「ちがいます」従僕はもじもじした。「お目にかけるなと言われております」
 私は従僕を見上げた。妻は大まじめで時々、変なことをする。今度は何を思いついたのだろう?
 「これは、旅の魔術師に頼んで作ってもらったもので、魔法がかけられているとおっしゃっていました。テントのどこかに隠しておけば、この木像があなたを見張って、あなたが何をしていようと、奥様とお子さまのいるところまで報告してくれるのだそうです。たとえ、お二人がどんなに遠くにいようとも」
 私は声をあげて笑った。「私にくれていいのか?言う通りにしなければ、おまえにも呪いがかかるなどと、おどかされたのではあるまいな?」
 「そんなようなことをおっしゃいましたが」従僕は深呼吸した。「私がお仕えしているのはあなたです」
 「見上げた忠誠心だ」と私はからかったが、半分本気だった。
 私の妻は人見知りする。初対面の相手には、なぞめいたことを言ったり、魔女のようなふりをしておどかす。本当は一本気で罪のない女なのだが。私にかくしごとをされたのに腹を立てて従僕にもやつあたりしたのだろう。
 「心配するな」私は彼の腕をたたいて安心させた。「妻の魔力がもしあったとしても、私の力の方が強いさ」
 従僕はほっとしたように苦笑した。
 「そう言えば皆が口々に、今度の戦いの勝利は、あなたが魔法を使ったのにちがいないと言っておりますね」
 「そう見えるのかな」私はひげののびたあごをこすった。「攻め方はあれしかなかった。それだけの話だ」
 木像を、先祖の神々の像がおいてある小さな祭壇の一番手前に二つ並べて置いた。その二つだけが素朴で小さく、回りとそぐわないのが逆にほほえましかった。

    六ノ四
 その夜、さっそく手紙を妻に書いた。あらましをここにそのまま写しておこう。
 「もう手紙を出さなくてもいいのではないかな?あなたと息子の木像が私を祭壇からにらんでいるよ。私が元気で笑っていると、とっくに報告しているのではないだろうか。
 正直な若者は、何もかも私に話してくれた。彼をおどかしたのはいいが、私に話してしまったからといって、呪いはかけてくれるな。あなたの目には、ところで彼は何に見えたろう?キツネかな?ツバメかな?よかったら教えてほしい。
 私も悪かった。もう嘘はつかない。今日、遠征から帰ってきた。勝利して。
 当分は、大きな戦いはないはずだ。小ぜりあい程度の戦いはあるが、それは日常茶飯事で心配することはない。ひと月もしたら一度そちらに帰る。それまで息子と家をよろしく頼む」

    六ノ五
 この手紙を読み返して、自分がどことなく勝ち誇っているのに気がついた。
 偶然そうなってしまったのだが、私と妻は従僕の忠誠心を、ためしあって、奪い合ったのかもしれない。
 私は苦笑した。
 彼にしてみれば、いい迷惑だろう。

    六ノ六
 なぜか、年かさの士官たちが、故郷の家の息子や娘が、自分よりも母親の味方になって困る、とぼやいていたのを思い出した。

    六ノ七
 私の息子はまだ小さい。だが、彼があの従僕ぐらいの年になったら、私と妻の間では、今度のこれと似たようなことが起こるのだろうか。
 お父さまに言ってはだめよ、とか、母上に話すのではないぞ、とか言って、息子を困らせるのだろうか。
 息子は、そんな二人の前で、そんな嘘はつけませんときっぱり言う正直で男らしい青年になるのだろうか。それとも、どちらのわがままも黙って胸ひとつにおさめてくれる、やさしい賢い若者に?あるいは、面白がって逆に私たちのことをからかい返し、あとで私たち夫婦が顔を見合わせて、息子にしてやられたとくやしがるような、陽気でしたたかな若者に?
 どれも、それぞれ楽しそうだ。そんな日が早く、来るといい。

    六ノ八
 それと同時に、まだ今はいいが、あまり長く家を空けていては、今回従僕が結局私についたように、長くいっしょに暮らしている妻の方にいつも息子は味方するようになってしまうかもしれない、と思って少しあせった。
 そんなことのないためにも、やはり一日も早く軍務を退いて、故郷に帰らなければと、あらためて思う。

    将軍の日記(火花の章)

    七ノ一
 この前の蛮族との戦いで、大したことはないと思って軽い鎧しかつけて行かなかったら、その胸当ての裏をかかれて胸に矢をうけて、しばらく意識不明になってた。
 起きた時、そばにいたのは従僕で、いつもと少しも変わらない顔で、お目ざめですかよかったですねと言った。
 それで私も、薬の匂いが強かったし、包帯でぐるぐる巻きになってたが、何となく数時間もたったかと思っていて、あとで軍医から十日間眠っていたと聞いて、腰が抜けた。
 「死ぬかと思いましたよ」と軍医が言う。
 「誰が?私が?」
 「あなたが?まさか。いや、あの従僕です。あんな献身的な看護は見たことがない。いくら、あなたはこのくらいのけがで死ぬようなことはないと教えてやっても、耳にも入ってないようでした。ほとんど眠ってないのじゃないですか。よく、ねぎらって、いたわってやったがいいですよ」
 そう言ったって、あれほどそしらぬ顔をされては、礼も言いにくい。
 「世話になったそうだな」と、次の日、一応言ってみた。
 「いえ、何も」とだけ答えて、身体をふいてくれはじめたので、もうそれ以上何も言えなくなった。
 「本当にありがとう」と、立ち去りかけた彼に言うと、「何かあったら、となりにいますからいつでもお呼び下さい」と答えて出て行った。
 たれ幕を下ろして一人になったとたん、にんまりしたか、わっと泣いたか、そんな風にも思えない。すぐ水音や物音がしはじめて、片づけものをしていたようだし。
 そもそも、彼のあの返事では、私の礼は十日間の不眠不休の介抱に対してか、今、身体をふいてくれたことに対してかわからない。
 私の言い方が悪くて聞きまちがえられたかなあ。
 それとも、本気で、礼など言ってほしくないのだろうか。
 私に気をつかわせたくないから、自分の苦労を知られたくないのか。
 そう言えばテントの明かりがここ数日、異様に暗い。
 弱っていて、自分の視力が落ちているのだろうと軽く考えていたが、あれは、彼が自分の顔のやつれを見られまいとわざと暗くしていたのか。たしかに近くで見ると肌が荒れて目も血走っていたように見えたが。
 こんなことを考えていると、疲れるばかりだからやめよう。

    七ノ二
 何とか身体の調子も元に戻ってきたようなので、従僕を故郷の妻のところへ使いに出した。そろそろ一度帰るつもりだったのだが、負傷して帰れないと言ってやるのに、手紙だけでは心配すると思ったからだ。
 彼の留守の間、誰もいなくていいと言ったのだが、副官は私の顔色がまだ悪いとか動きが全然元に戻ってないとか言って私を不機嫌にさせたあげく、自分の従僕を貸してくれた。
 これがまた、主人はきちょうめんで重々しい男なのとうらはらに陽気でよくしゃべる従僕なのだ。手がすいた時だけ私のテントに来て用事をかたづけてくれるはずだったのに、どうしてか一日の大半、私のテントに来ていて、「ここは居心地がいいですなあ」と言って妙にくつろいで椅子に座ってあたりを見回したりしている。
 うるさいから「あっちで用事があるんじゃないのか」と追っぱらおうとすると「将軍はそうやってきっと遠慮なさるだろうから、それで帰ってきちゃいかんと言われております」と言って帰らない。
 元気な時なら思いきりしかめ面をするか、どなりつけて追い返すのだが、やはり私も体力が落ちているのか、そこまでする気にはなれない。
 うっとうしいのでベッドでごろごろしていると、「そんなにしていちゃ回復が遅れます。歩く練習をもっとなさって下さい」と起こしに来る。
 「回復が遅れたっていいんだよ。おまえの主人にまかせておけばちゃんとやってくれるから私は何も心配していない」と言ってやると、彼は私をひきおこそうとしていた手をとめて「そうすか」と世にもうれしそうな顔になった。

    七ノ三
 私はそのすきにまたベッドにもぐりこんでしまったが、副官の従僕はそれも忘れたように「主人はそんなに頼りになりますですかなあ」といいきげんになっている。
 「なるよ」と私が言ったのは、まんざら嘘でもない。副官は顔つきどおりの厳格ですきのない男で、こうと決まっている仕事は、やらせておいてまず手落ちはない。まったく新しい局面を自分で判断しなければならないとなると、やや心もとないが。
 それに私はその従僕の、心からうれしそうな表情に心をうたれた。
 「彼はいい主人なんだな?」と聞いてみた。
 「はあ、厳しい方ですので、お仕えするのに気はつかいますが、それだけにはりあいもあります」と、従僕は誇らしげに言った。「前に立つと自分は今でも緊張します。あの方のそばだと何でも見られているようで、気が抜けないすもんねえ」
 ここではくつろいでるんだろうか。私がおかしくなって笑っていると彼は私のベッドの端に腰を下ろしてしまい、「将軍は人に好かれるからいいすよねえ」と言った。「けっこう何も考えないで言いたいこと言ってしたいことして、それでめちゃくちゃ誰にでも好かれてるじゃないすかはっきし言って。あれ得ですよねえ。スペインの農夫の子だったって聞いておれ、ぶっとびましたよ。何の苦労も知らないでぬくぬく育った超いいとこのぼんぼんかと思ってた。そんな感じじゃないすか見たとこ実際」
 「私にはわからない。でもたしかに苦労はしてないだろうな」
 「でしょう!?」従僕は我が意を得たりといった顔をした。「おれの主人なんか気つかってるわりには人に嫌われやすいすもんねえ。人のため思ってきびしくしてるのに、そこんとこが誰にも理解してもらえないんすから、きついっすよねえ」
 彼がきびしいだと?冗談ぬかせ。規則違反した時の部下たちの処分にしても、彼はふだん口やかましいわりには、どうかと思うほど甘かったぞ。私の方がいつもよっぽど重い処分をしていた。ああそうか。それでも好かれるから得ってことになるのか。何とでも言えよもう。

    七ノ四
 「あれ何ですかね、将軍のあの何やっても憎まれないところって。しれっとして、おれ知らないよ、みたいな感じでやるのがいいんですかね。何も考えてないみたいだから見ててはらはらして守りたくなるんですかね皆が」彼は思い出したように聞いた。「何か飲み物いりますか?ワインとか?」
 そう言いながらまったく立ち上がる気配がなかったので私は首を振った。「いらないよ」
 「いる時はいつでも、そう言って下さい」
 「ありがとう。そうしよう」
 「気ぃつかわないで下さい」従僕は手を振った。「主人ともよく話すんです将軍のこと」
 二人して私を分析してるのか。それは話がつきなかろう。
 「あいつはほんとに得な性格だって主人はいつも感心してます。皆が何でもしてやりたくなる。どうしてか黙って見てられなくなって、口やら手やら出してしまいたくなる。本人もあまりいやそうじゃないし」
 いやなんだよな。
 「ぼうっとして、すきだらけに見えるから、かまいたくってしょうがなくなる。そのくせ戦ったらめちゃくちゃ強いし、たてる作戦は皆あたるし、カンがいいのか運がいいのか、バカなのか利口なのかわからないから、そこんとこどんどん興味がわいてきて、気がついたらはまってしまってるっていうか、知れば知るほど興味がつのるっていうか、何かそこんとこ、うまい言い方ありませんかねえ」
 「さあ」
 「おれ、すごく失礼なこと言っちまってますか、ひょっとして?」
 「そうでもないよ」
 私は考えていた。スペインへのどこかの道を今ごろ馬でかけているだろう私の従僕のことを。
 彼もそうやって私に「はまってしまった」一人なのだろうか?
 何となく、そうは思いたくなかった。

    七ノ五
 やっとのことで副官の従僕を追い返した後、ベッドで横になったまま、私は妻や、初めて女と寝た時の相手だった売春婦や、皇帝陛下のお子たち…皇女や皇太子のことを思い出していた。
 かかわり方はそれぞれちがい、愛し方もちがったが、彼らは皆本当に私のことを愛してくれた。
 父も、母も、兄たちも。
 皇帝陛下も。
 あらためて呆然とする。何といろいろな人たちから、熱烈に、心をこめて私は愛されてきたのだろう。
 こんな私を。
 私のどこがよくて。
 そうとしか言えないぐらい、皆、私に惜しみない愛を注いでくれた。
 彼らはいったい、私の何を愛したのだろう?
 考えたことがなかった。
 考えてもよくわからない。

    七ノ六
 剣の腕では、大抵の者には負けない。
 指揮官としての能力にも自信はある。
 けれど、そんなものを私は愛されたのだろうか?
 だいたい、今あげた人たちのほとんどに会った時、私は幼い子どもだったり、かけ出しの兵士だったりで、剣の腕も指揮官の能力も発揮などしていなかった。
 それでも愛されたのはなぜだろう?
 一生懸命思い出している内に、私は危うくかんしゃくをおこしそうになったが、これらの、まちがいなく私を愛してくれていると私が断言できる人たちに限って、どうして私を愛するかの理由をちっとも言ってくれていない。
 いくら思い出しても、あなたのどこがなぜ好きかと、私に向かって彼らが教えてくれたことばはない。
 だから、私のどこがよくて彼らに愛されたか、彼らのことばをいくら思い出してみても、そこには何の手がかりも見つからないのだ。
 そもそも、愛しているということばさえも彼らは私に言わなかった。
 ギリシャ語の綴りを教える皇帝陛下の慈愛にみちた声。宴席の遠くから私を見守っている、あたたかいまなざし。
 わざと高い木の上に登って、飛び下りるからうけとめろと私の名を呼びつづける幼い皇太子の無邪気なうれしそうな、それでいてどこか悲しげな細い声。
 「私はこの世に何ひとつ残さないで死にたいの」
 私の肩を指で静かになでながらそうつぶやいた売春婦。
 「自分の運命を認めて、うけいれたりしたら、わたくしは生きていけない」
 そう叫んだ皇女。
 「あなたと会わなければよかったと、いつも、いつも、思う」
 歯をくいしばるようにささやいた妻。

    七ノ七
 一人で抱えつづけてきた怒りや淋しさや苦しみを人は皆、私にあらわにし、与えた。
 あなたに会うまではそんなものが自分の中にあることさえも知らなかった、と言った人も中にはいる。
 私にとって愛されるとは、いつもそういうことだった。
 皇帝陛下の愛さえも、このごろでは時々、そうだ。
 彼らがそうして与えてくれた苦しみや絶望のひとつひとつが私には大切で、それをうけとめることが私の喜びで、愛だった。
 彼らのつらさや絶望は、いつも闇のように、海のように、底知れず深くて、はてしなくて。
 一人の人間の心に、これほどの痛みや苦しみが住めるものだろうかと驚いて、おののきながら。
 それでも、それを見たことを、うけとめたことを後悔したことは一度もない。
 幸福か不幸かと言われたら、ためらわず幸福と言う。

    七ノ八
 なぜ彼らは他の誰でもなく私に、それを見せ、預けたのだろう?
 理由は誰も言わなかった。

    七ノ九
 私がこれまで愛と思ってきたものは、もしかしたら愛とは少しちがったのだろうか。
 彼らの苦しみや絶望や怒りをうけとめるだけではなく、私自身のそういったものも、彼らに見せてうけとめてもらわなくては、愛とは言えなかったのだろうか。
 なぜ私は、それができなかったのだろう。
 相手を信じていないのか。支配されるのがいやなのか。
 そこまですがってしまったら、失った時が恐いからか。

    八ノ一
 従僕がスペインから帰ってきてほっとした。
 妻と子も元気だったらしい。妻は手紙で、子馬を飼いはじめたことやぶどう園の収穫のことや庭のポプラの木に虫がついたことなどを、こまごまと書いてよこした。
 疲れているだろうから風呂にでも入ってすぐ休んでいいと言ったのに従僕は静かにテントの中を動き回って、まるでそよ風のように私の散らかしたものを片づけていってくれていた。
 一度ちょっと手をとめて、「留守に誰か来ましたのですか」と聞いた。
 「うん、副官とこの従僕が」と、私は彼がさし出すワインのコップをうけとりながら、手紙に目を落としたまま答えた。
 彼は答えなかったが、持っていた布巾をかすかにぱちんと鳴らして広げた。眉もちょっと上げたにちがいない。私は妻の手紙に目を走らせつづけていたので、彼を見る余裕がなかった。でも、彼ともしゃべりたいものだから、手紙をそれも相当熱心に読みながら口を動かして、彼の留守の間のこと、特に副官の従僕のことをしゃべっていた。
 二つのことを同時にするな、とこれも副官がよく私に注意することなのだが、だからこそ私は反抗して、つい、してしまう。大抵しくじらないのだが、この時は特に妻が、息子が子馬から落ちた話だの、アヒルを追いかけて沼にはまりそうになった話だのを書いていたのを熱心に読んでいて、それでも口を動かしてしゃべっていたものだから、注意力が散漫になっていた。
 はっと気づいて顔を上げると、彼がそばに立って私を見下ろしたまま、明らかに笑いをこらえた目をしている。

    八ノ二
 「え?」私はとまどった。「何と言っていた?」
 彼は首を振った。「いえ、別に」
 「私は何をしゃべっていた?」
 彼は困ったような面白そうな目をして、じっと私を見た。
 私は、うわの空で口にしていたことばの数々を思い出そうと空しい努力をした。「副官の従僕のことをしゃべっていたと思ったが」
 「はい」彼はうなずいた。
 「悪口を言っていたか?」
 彼がはっきり唇をかみしめて笑いをこらえたのが見えた。「いえ」
 たしかに悪口というより、老人や女子どもの言うような愚痴をくだくだ繰り返していたような記憶が何となくある。おまえがいないものだから、もう本当に、といった言い方になっていたのではあるまいか。
 彼はかすかに頭を下げた。「今度からはもっと早く帰ってまいります」
 「いや」私はきまり悪い思いをおしかくして首を振った。「妻も子も元気だったようだな」
 「はい」従僕の目がふと生き生きと輝いた。「本当にすばらしい奥さまです」
 私はうれしくなって笑った。従僕は頭を下げてひき下がって行った。
 私は手紙にまた目を落とし、最後の部分を読んだ。
 「彼はほんとにいい青年ね。あなたのことが好きで好きでたまらないのね。私の話すあなたの話を、ひとことひとこと、のどの渇いたラバが水を飲むように、夢中になって聞いていた。彼が聞いたら喜ぶのだから、あなたの話をするのが何よりのごちそうよね、と自分で自分に言いわけしながら、私もあなたのことを思い出すまま何でもかでも心ゆくまでしゃべってしゃべってしゃべりぬいてる内に、息がはずんで身体のしんが熱くなったわ。まるで彼と抱き合っているような思いがしたわ。私の中に燃えた炎を、火花を、彼の身体がそのままに、ここから、そこまで運んで行ってくれるといい。彼の目に、彼の声に、私の涙を、吐息を感じて」
 私は笑って手紙をたたんだ。どうせ何度も読み返して暗記するとわかっていたから。そして影のように静かに動いてワインのびんを調べている従僕を見ていると、毎日の暮らしがまた始まる、という安らかさが身体中に広がってくるのがわかった。

    八ノ三
 昨夜は従僕のたてるかすかな物音を聞いていると、久しぶりに安心してぐっすり眠れた。
 そして、彼について、副官の従僕が言っていたことを、あらためて思い出した。
 「あいつは皆に一目おかれてます」と副官の従僕は言った。
 「なぜ?」
 「なぜだかわかんないすけど、とにかく尊敬されてます。口数は少ないけど、なんか迫力あってつい、皆が言うこと聞いちゃうっていうか、納得させられちゃうもんで」
 「彼は私のことを何と言ってる?」
 「いやあ、それ誰も聞きたくてしかたないから、いろいろ言わせようとするんだけど、言わないんっすよ、あいつ絶対。あまりお話しないからよくわからない、なんて言って。もったいないすよねえ。せっかくこうしておそばにいながら何やってんですかねえ。ほんとに話しないっすか?」
 「しないな」
 「ふうん。ひょっとして彼、話しかけにくいっすか?」
 「そんなことはないよ」
 「近づきにくいみたいなとこあるから、将軍もあいつに遠慮されてるってことないすか?」
 その時は笑って首を振ったのだが。
 そういうところがないわけではない。

    九ノ一
 負傷のあとで寝ていた間、従僕が飲み物は何がほしいですかとか枕の高さはこれでいいですかとか聞くたびに私は、何でもいいとかそれでいいとしか言わなかった。すると一度、彼がひとり言のようにぽつっと、眠っておられる時の方がわがままなのですねと言った。
 何のことかと思って聞き返すと、彼は珍しくしまったという顔をして、失礼しましたと言って黙った。もうこうなると絶対聞いてもしゃべらないことはわかっているので、私は軍医に聞いてみた。
 私はこの軍医は医者としては二流だとひそかに思っているのだが、それはこの男は変にもったいぶるくせがあって、わざと遠回しな言い方をして患者をおどかすのである。たとえば左足の指の一本のつめをはがさなければならないと宣告するのに、この症状だと足を切らなければならないこともよくあって、と説明しはじめる。
 私などはなれているから、彼が、この場合、背骨が傷ついているとしますと、だんだん痛みがひどくなって、その内には寝たきりに、などと説明しはじめると、じゃきっと一週間も腰に湿布をしておけば回復するんだろうと早めに見当をつけ、だいたい、それであたる。しかし、なれてない若い兵士などは、この男の話を聞いている内に青くなってしまい、気分がめいってかえって傷を悪化させたりするのだ。技術はいいからクビにはできないが、自分自身の命を預ける手術をさせている時でも、この男のことを私はあまり信用はしていないだろうと思う。

    九ノ二
 その時もそうで、軍医は私をじっと見て、本当にお聞きになりたいのですかとたずねた。そら来たと思ったから、じゃ別にいいと言い返すと、本人、話したかったらしくて、ちょっとあわて、珍しく結論めいたことを言った。たしかに相当ひどかったですな、と。
 言い方はまどろっこしくても、この男が嘘のつけない人柄なのは知っていたので、私は平気を装って、どんな風にだと聞き返したが、実は相当、びくついていた。
 「一つだけお話しますから、あとはお察し下さい」軍医はまた、もったいぶった。「あなたは私どもが身体にさわるといやがられるので、彼はしょっちゅうあなたに何かささやいたり、小さい声で歌を歌ったりしてなだめていましたが、その内にそれがお気に召したようで、彼が歌いやめるとごきげんが悪く、一度は二時間、いや三時間、ぶっ通しに枕もとで彼に歌を歌わせておいででした。歌いやめると不機嫌になられるし…」
 「眠っていたんだろう?」
 「はっきり申し上げてあなたほど、眠りながら自分の意志や好き嫌いを人に伝えることのできる人は知りませんね。見るからにいやな顔をするし、不愉快そうに身体を動かすし、気に入った歌を彼が歌うまでは眉をひそめているし。彼は他の仕事で疲れているから、時には半分眠りながら歌ってました。また、その好きな歌というのがあなたは毎日変わるんですから。食べ物、飲み物、枕にシーツ、身体の拭き方、皆それでした。中でも…」
 「もういい」私はさえぎった。
 「これだけは」軍医はこだわった。
 「おまえが一つだけと言ったんだろう?あとはもうわかった」
 軍医は見るからにものたりなさそうな、不満げな顔でひきあげて行き、ざまみろと私は溜飲を下げた。自分のわがままさについては、考えているとめいるから、きっぱり忘れることにした。それにしても、あの従僕は歌えたのかと、むりやりにその方に考えを持って行った。
 歌えるなどと彼はこれまでに、そんなそぶりも見せたことはなかったが。

    九ノ三
 彼はその頃毎晩、足が弱くならないようにと私の足をさすったり曲げ伸ばしさせたりしてくれていたのだが、軍医の話を聞いた夜、私は彼に「夢の中でおまえが歌っているのを聞いたような気がしたんだが」と言ってみた。
 彼は私のくるぶしをもみほぐしていた手をとめもせず、「そんな夢をごらんになっていたのですか」と、いつもと変わらぬ静かな声で言った。
 「うん」と私は答えた。
 彼はそれきり何も言わなかった。
 ふだんだったら私が「うん」とだけ言って、あとは何も言わなくても、私が返事を待っている時にはそれとわかって、必ず答えてくれていたのだが。
 あの軍医じゃあるまいし、変に遠回しで思わせぶりな聞き方をするのではなかったと後悔して、私がそっとため息をついていると、彼が私の顔を見て、かすかに笑ったような気がした。
 私はそれでまた少し勇気が出て、「昔、人にもらった、たて琴があるんだ」と言った。「たしか書類を入れてある棚の下の箱のどれかに入っていた」
 「存じております」と従僕は答えた。「弦の調子を整えておきましたから、いつでもお弾きになれますよ」
 「当分そんなひまはないだろうな。おまえが弾くなら、いつでも使ってくれていい」
 「かしこまりました」彼は静かにそう言った。

    九ノ四
 人が聞いたら、こんな私はやはりとても彼に遠慮していると言うのかもしれない。何をそんなに気をつかうのかと、きっとあきれられるだろう。
 なぜ、こうなってしまうのか、私にもよくわからない。
 彼が自分のことを語ろうとしないのに、何か意味はあるのだろうか。
 何か人には言えないような大きな怒りや苦しみや不安を抱えていて、それをうけとめるだけの力が私にあるかどうか、確かめようとしているのだろうか。
 なぜか、そうは思えない。
 皇女も妻も、それぞれに私を最初、激しく傷つけようとした。どうしてこんなにひどいことをするのだろうと呆然として、かえって腹も立たないぐらいに。
 ためされている、と心のどこかでいつも感じた。
 どうして同じ人間である私の強さや優しさを、そこまで信じられるのだろうと不思議だった。
 自分だったら恐くてとてもできないと思った。その相手が耐えられなくて、ついえさってしまったらどうなるのかと思っただけでも。

    九ノ五
 私の従僕には、それはない。
 ためされているという気配を、私はまったく感じない。
 むしろ、私の強さも弱さも、私以上に彼はよくわかっているような気さえする。
 それに、どう見ても彼には、私にうけとめてもらわなくてはならないような弱さやもろさなど見えない。
 もしかしたら私などより、はるかに強い人間なのではないかと感じることさえある。
 まったくの冗談で時々考えてみるのだが、もしかしたら、剣の腕も、語学の力も、身分も出自も、私よりはるかに上ではないのだろうか。
 そんなことさえ思わせるほど、彼の日常の立ち居振る舞いは堂々としていて優雅だし、威厳さえ感じることがある。
 あるいは彼は、そんな自分にふさわしい地位をめざしているのだろうか。
 そのために何らかの方法で、私を利用しようとしているのか。

    十ノ一
 将軍のような地位にいれば、さまざまな野心を持って近づいてくる者も多いだろうと、よく人に言われる。
 皇帝陛下も、大きな権力を持った時には、それを利用しようとして近づいてくる者が必ずいることを、折りにふれて私に話された。
 だが、実感として私には、そのような人間がそばに来たとか、いたとかいう記憶がない。

    十ノ二
 陛下がしばしば話して下さった、都や宮廷での政治のかけひきとちがって、敵を前にした戦闘では、まちがった判断をすれば即座に結果に出てしまうため、耳に快い嘘は通用しない、ということもあろう。
 それと、私は「何を考えているのかわからない」「突拍子もないことをしたり言ったりする」と昔からよく上官にも友人にも部下にも、笑われたし、面白がられた。
 「おまえの好き嫌いの標準はどこにあるのかさっぱりわからん」と副官はしばしば、さじを投げたように言う。
 自分では別にそれほど変わったことをしたり言ったりしているつもりはない。あまりいちいち、言うことやすることを面白がられたり笑われたりすると、時には不快になることもある。
 だが、考えてみると、こういう人間には人は、とりいったり、機嫌をとったりしにくいのではないかと思う。
 何をしたら気に入るのかが、まったくわからないわけだから。

    十ノ三
 副官の従僕のことばをまつまでもなく、私がわがままで、したいことをしているという評判があるのは知っている。
 だが、ある程度はそれは正しいにしても、私のしていることの全部がわがままなのではない。
 目上の者も目下の者も、私のすることには皆、妙に口を出す。自分が一番、私のことを知っていて、好みや考えが一致していると、誰もが思っているようだ。
 そして、私がその通りにしないと、自分の言うことを聞いてくれない、頑固なわがままな人間だと、皆がそれぞれ思うのらしい。

    十ノ四
 「あなたはわざとやっているのかと思ったわ」と言われたことがある。「そういうことの何もかもを」
 言ったのは皇女である。
 いっとき、私たちは恋仲だった。
 「あなたは本当に恐い人」とある日、抱き合った後で私の肩に頭をもたせかけたまま、彼女は笑ってささやいた。
 「何をさし出せばいいのかわからない。さし出したものが気に入ってもらえるかどうかの手がかりを、あなたという人はまったく他人に与えない」
 「あなたの前では、あなたにどう思われているか、いくらさぐろうとしてもだめ。どう思われようと努力したらいいのかも、まったくわからない」
 「ただ、自分らしく生きるしかないんだわ。自分のいいと思うこと、自分にとって最高の、本当の自分をせいいっぱい示して、それをあなたに見てもらうしか」
 「それが、あなたにとってつまらなかったり、気に入られなかったりしたら、もうそれでおしまい。あなたは決して、変わってくれなどと要求はしない。ただ、黙って見限るだけ。どうかすると見限ったことさえも気づかせてはくれない」
 「何という恐ろしい賭かしら。やり直しもきかない。ごまかしもきかない」
 「本当に、何てきびしくて、冷たくて、恐い人なの」

    十ノ五
 「それは皆、あなた自身のことなんじゃないのか」と、たまりかねて言い返すと、皇女は澄んだ涼しい声で笑った。

    十ノ六
 私には、あの方は今でも謎だ。
 私をどれだけ愛していて下さったのかも。
 いつも、野心に満ちておられた。
 いつも、大きな望みを抱いておられた。
 その中で私がどういう存在だったのか、いまだに私にはわからない。

    十ノ七
 今は結婚し、男の子がいると聞く。
 けれど、夫も子どもも、あの方はどれだけ愛しておられるのだろうかと思うことがある。
 弟の皇太子も、父の皇帝陛下も、自らの野心の実現のためなら歯牙にもかけぬ荒々しさを優雅で気品高い外見の下に、あの方は常に秘めておられた。
 燃えるようにいつも遠くを見つめていた、あの方の目の輝きはいつも私にはまぶしかった。

    十ノ八
 あの従僕の静かなまなざしは、それとはあまりに、ちがいすぎる。
 何かにあこがれ、みたされぬものをめざして渇いている、飢えた光が、どんな時でもまったくない。
 皇女が私を見つめる時にしばしば見せた、戦士が剣を見るような、野獣が獲物を見るような、鋭い視線も彼は一度も私に向けたことはない。
 私を支配しようとも、私を利用しようともまったく考えていない人間の、無心で澄んだ微笑みで、いつも私を包んでいる。
 幸福で、みちたりているとしか見えない。落ちついて平和な表情は、時にはまるで老人のそれのようにさえ見える。

    十ノ九
 ならばなぜ、彼は私につくすのだ?
 私に求めて得られるものなど、何もないはずなのに。
 私の弱点も欠点も知り抜いていて、それをどうしようとも、どうなってほしいとも、どうしてみたいとも、望んではいないようなのに。

    十ノ十
 ああ、私は自分の不安の原因がわかっている。
 彼のこの優しさは、不治の病にかかっている女の子をせいいっぱいに甘やかしている父親や、祭りの日に殺すことになっている最高の出来の牡牛にいとしさをこめて餌をやり、くしをかけてやっている農夫の優しさと、あまりにもよく似ている。
 私の未来に待つ不幸を、凄惨な運命を、よく知っているからこそ、彼はこんなにも私のことをいたわってくれているのではあるまいか。
 そう思うと、正直言って、子どものように恐くなる。
 声を出して泣きたいほど、心細くなる。
 そうではないと確かめるためにどうしても、彼が私にここまでつくす理由を知りたい。
 私に求めているものを知りたい。



    将軍の日記(仮面の章)

    十一ノ一
 四日前の夕刻、士官や兵士十数人と従僕も連れて、基地の近くを見回っていた時、盗賊の一団に襲われた。
 こんな近くに出没はしないと思いこんでいたため、こちらはまったく油断していた。予想外に腕のたつ連中で、たちまち十人近くが倒され、士官の一人と従僕と三人で馬を飛ばして逃げたが、後ろから射られた矢で馬と士官が死に、私と従僕の二人は開けた野原の一角で、ぐるりと囲まれて矢を向けられた。
 ひきつけて戦うこともできない以上、もうこれまでかと思った時、従僕がいきなり私の剣をたたき落として、喉もとに自分の剣をつきつけ、こいつは有名な将軍で生け捕りにすれば金になる、交渉のしかたを教えるから自分の命を助けてくれと叫んだ。
 その荒々しさといい、私に向けたまなざしにこもるすさんだ憎しみといい、まったくいつもと別人のようで、不覚にも私は呆然として抵抗するのも忘れていた。だが、考えてみれば、彼の態度の迫力とともに、私のそのなすすべもなく驚愕していた様子が何よりも盗賊たちを信用させたのだろう。剣をかまえながら用心深く近寄ってきた彼らは、やがてげらげら笑いながら私を縛り上げ、奪った馬に乗せて、自分たちの隠れ家に連れて行こうとした。

    十一ノ二
 彼らの中にも負傷者がいたし、日も暮れてきたので、野営した。夜目にも白く落ちている大きな滝のそばだった。水音で敵の近づくのが聞こえにくいから野営の場所としては適当ではないと思ったが、盗賊たちはそんなことは気にしないようで、酒を飲んで騒いでいた。
 私は彼らから少し離れた草の上に見張りもつけずに放っておかれた。もっとも私のそばにもたき火があって、彼らからは私のいるのはよく見えたから、その必要もなかった。
 滝の上に黄色い月が上っていた。それを見ながら従僕のさっきの表情を思い出していた。それは私が初めて見る彼だった。危険な暗い、こちらの心を凍りつかせる何かがあった。私は初めて気がついた。これまで私は、自分に好意を持ってくれて、つくしてくれる可能性のある者だけを探していたのだが、それはまちがっていたのかもしれないと。何かの理由で激しく私を憎んでいて、私に近づき、殺そうとしている者もまた、私を油断させるために、献身的にふるまうかもしれなかったのだと。
 そこにまったく思いいたらなかった自分のうかつさが、ひどくくやしかった。

    十一ノ三
 そんなことを考えていると、暗がりの中を地をはうようにして近づいてきた者がある。目をこらすと彼だった。
 私は思わず身体をこわばらせて身を引いたと思う。だが、彼は私のそんな様子にも気がつかないほど緊張していた。私に飛びつくようにして、夢中で震える手で縄を切り、私を闇の方へと押しやろうとする。いっしょに逃げようと腕をつかんでひっぱると激しく抵抗し、首を振った。私にもその意味はわかった。たき火のそばに誰かがいるように見せておかないと、盗賊たちはすぐ追ってくる。助けを呼んでくるのが先だと判断して、私は彼の腕を放し、下生えの中へすべりこんだ。

    十一ノ四
 だが、森の中を少し歩いてから、私は考えを変えた。
 馬で来た距離はかなりある。運よくどこかの村に出て、馬を借りて基地まで走ったとしても盗賊たちを捕らえる間にはあうかもしれないが、それまで従僕が無事でいられるとはとても思えない。酔って騒いでいたとはいえ、たき火のそばの人影が私でないことにはすぐ気がつくだろう。そうなれば彼は即座に殺されるならまだしも、下手をすればなぶり殺しにあう。
 その一方で、そうなった時、私が一人で戻るだろうとは彼らはまったく考えまいから、不意をうてる見込みは高い。
 私は立ちどまりもせずに、くるりと振り向いて、そのまま来た道を戻りはじめた。
 滝の轟きが近づいてくる。それに混じってどなったり、笑ったりする人声も聞こえる。濁った怒りと残酷な喜びに満ちたその声々は、もはやただの酒盛りではない。
 私は足を速めた。我知らず、息をはずませていた。それでも冷静に、と自分に何度も言い聞かせた。下生えの間からのぞくと、滝の近くで盗賊たちが従僕をとりかこんで、おもちゃのように突き飛ばしあっていた。次は鼻と耳を切ってやるとか、去勢してやるとかののしっているのが、かろうじて聞きとれた。
 皆、したたかに酔っている。弓矢も剣も私のすぐ前の草の上に放りっぱなしだった。
 私はまずそれをかき集めておいてから、弓で数人を次々に滝壷に射込んでやった。どこから矢が飛んでくるのかやっと気づいて、こちらに走ってきた先頭の一人に剣を投げつけて殺し、近づいてきた後の四人を切り倒した。
 まだ何人かいたはずと思って見回すと、私のいたたき火のそばに二人の死体が転がっていた。私の身代わりにそこにうずくまって見せていた従僕が、気づかれた時に戦って倒したのらしかった。
 そんなに腕がたったのか、とちらと思いながら、誰もいないのを確かめつつ、滝の音が響く中を従僕が囲まれていた方へ走り寄った。そこの岩の上に、雨のように細かい滝のしぶきに髪も服もしめらせて彼は倒れていた。身体のあちこちを面白半分につつかれたらしい傷口から血が流れ出て全身を染め、ナイフで切り刻まれたらしい顔の傷からしたたる血が仮面のように奇怪な模様を作っていた。
 私は無言で彼を抱き上げ馬に乗せ、全速力で基地まで走った。声をかけてやろうとしても声が出ないほど、部下を死なせ、彼をこんな目にあわせた自分への怒りと、彼が死ぬかもしれないという恐怖にかられて、何も考えられなかった。

    十一ノ五
 即座に盗賊団の本拠地を探させた。その時の私の気分では、どんな残酷な処刑もしかねなかったのだが、私たちと遭遇したのがどうやら主力だったらしく、それらしい場所は見つかったが、残りの者は逃げたのか誰の姿もなかった。
 基地周辺の警戒体制を強め、死んだ士官たちの後任を補充するなどの処置に忙しく、従僕の見舞いに病院に行けたのは、その日の夜遅くだった。
 彼はよく眠っていたので、声をかけずに帰った。軍医の話では、出血がひどかっただけで命にはまったく別状がなく、十日もすれば仕事に戻れるだろうとのことだった。
 私をかばって身代わりになってくれたのだ、と言うと、うわごとで何度もお名前を呼び、早く逃げて下さいとか、戻ってはだめですとか叫んでいたと軍医は言った。
 「最初は将軍、とお呼びしていましたが、その内にせっぱつまったのか、お名前をしきりに叫んでいましたよ」
 私の名前を呼んだのか。
 聞きたかった、と彼の寝顔を見下ろして思った。
 起きている時は頼んでも、そんな呼び方は決してしてくれないに決まっている。

    十一ノ六
 だが、もしかしたら、とテントへの帰り道、暗い夜空の下でふと思った。
 どこかで、ずっと以前に彼は、私の名前を呼んでいたことがあったのだろうか。
 友だちのように。
 家族のように。
 殺そうとねらっている憎い敵のように。
 あらためて思う。
 彼はいったい、誰なのだろう?
 どうして私は、彼を思い出せないのだろう?

    十一ノ七
 彼のいないテントで一人で数日すごすのは奇妙な感じがした。
 代わりの従僕はよこさないでもいいと言っていたので、私は彼がしてくれていた身の回りのことを自分でしていた。
 特に不便とは思わなかった。だが、あまりきちんと片づけておくと、彼が帰ってきた時に、はりあいがなくてがっかりするだろうから、などと自分に言い訳しながら何となく私はだらだら過ごしていた。毛布をくしゃくしゃのままにしていたり、服をそのへんに放り出したりしていて、ふと自分はもともとこんな風ではなかったのにと気がついた。従僕がいようといまいと、こんなことには几帳面で、きちんと片づける方だった。故郷の家でもそうで、妻から時々、手がかからないと笑われていた。
 あの従僕と暮らす内にだらしなくなってしまったのだろうか、と散らかした服を目の前にして考えていて、そうではなくて従僕に甘えているのかもしれないと思った。
 おまえがいなければ、こんなに困るのだ、こんなにだめなのだということを、彼に見てもらいたいというのか、見せて喜ばせたいというのか、そんな奇妙な気持ちである。
 それにしても、彼がいなくて、こんなにもものたりないとは思わなかった。
 夜、テントにいる時も彼と私はほとんど口をきいたこともない。彼はひっそり物音をたてずに仕事を片づけるから、いる気配さえほとんどしない。
 それなのに彼がいないと、空気が薄くなってしまって呼吸をするたび肺が冷たくなるような空しさを感じた。
 妻や子どもと別れている時の、強い絆で結ばれているのに遠く離れているしかないという、理不尽だなあといういらだちをこめた熱い悲しみとはまたちがう。
 彼とのつながりは、そもそも何の絆もないといえばなく、どんな名前もつけられず、ある日突然なくなってしまっても誰にも文句の言いようがないのだ。

    十一ノ八
 いる時も存在を主張しなかったように、いなくなっても彼はそのことを強烈に感じさせるのではない。
 ぽっかり穴があいた、などという強い感じなのではない。
 ただ、ふわふわと何かが心もとなくて、切ない。
 何が消えたのか、何がなくなったのか、それさえもわからないから、もどかしいとでも言おうか。
 彼が何者なのかわかれば、この切なさも少しは薄らぐのだろうか。
 いなくなってしまった時に、何を失ったのかが、はっきりと言えるようになったら。

    十一ノ九
 夜、テントの中でしばしば彼の、私に剣をつきつけた時のあの冷たく鋭い目を思い出す。
 それは敵をあざむくためのものだったと今ではわかっている。
 それでも、その考えをまるで楽しむかのように私は、ともすれば、もしかしたら彼は私を憎んで殺そうとしていたこともあったのではなかったか、という可能性を頭の中から捨てきれない。
 眠っていても人が近づけば私は必ず目を覚ます。ここに来てまもなく従僕もそのことには気づいたはずだ。寝ている間に私を殺そうとしても、それは無理だということは。
 だが、あの負傷して寝ていた時以来、彼が夜中に近づいて来て私の近くで何かしても、私の身体にさわっても、私はうつらうつらと気づくだけで、はっきりと目を覚まさない。そのことには彼も気がついているだろう。今、彼が私を殺そうと思ったら、これほど簡単なことはないのだ。
 それならそれでも別にかまわない、となぜか思いそうになる。
 そういうことだったらいっそ安心できそうな気がする。

    十一ノ十
 彼がきちんとたたんで重ねてくれている毛布や服をとって使うたびに、彼にふれているような気がする。
 彼はまた、自分の服や荷物もきちんと包んでまとめて、私のものと区別がつくようにして、テントのすみにおいている。
 まちがえたふりをして、いや堂々とでも、それを開けて中身を調べてみたところで、誰も私に文句は言うまい。そうしてみたい誘惑に時々かられる。
 けれど彼が、自分が何者かわかる手がかりなどを、簡単に荷物の中に残しているとも思えない。
 むしろ、誤った手がかりをわざと残していそうな気さえする。

    十二ノ一
 今日、軍医のところに行ったら、従僕はもう起きていた。
 ご迷惑をおかけしましたと静かな声で謝るので、こちらはまた何も言えなくなった。
 私のためにこんなことになってしまってすまないということばが、なぜか素直に出なかった。
 負傷した兵士や死者の家族にかけるような、よくやってくれたなどというようなことばは、もとよりふさわしくないと思えた。
 「生きていてくれてよかった」とうとう私はそう言った。
 すると彼は、少しきっとしたまなざしで私を見た。
 「お戻りになる必要はありませんでした」彼は、かすかに私をたしなめるような口調でそう言った。

    十二ノ二
 こういう時の彼の態度は、どこの王侯貴族かと言いたいぐらい偉そうに見える。情けないとは思いつつ、私は少したじたじとなった。
 「見殺しにできるはずがない」と答えた声が、我知らずどこか弁解じみていた。「私のためにおまえを死なせるわけには行かない。兵士でもないのに」
 「私はあなたの従僕です」と彼は冷やかなぐらい昂然と言った。「命にかえてお守りするのはあたりまえです」
 私が黙っていると、彼は重ねて静かに「あなたでもそうなさるのではありませんか」と聞いてきた。
 「私が、何だ?」
 「ローマを守るためならあなたは何でもなさいますでしょう。顔を切られようと手足を切られようと去勢されようと、ローマを救うためだったら、あなたはきっと、私と同じになさるはずです」
 「それはそうかもしれないが…」
 迫力負けして言ってしまってから、大変なことに気がついた。
 「とんでもない」
 「何がですか?」
 「私とローマを、いっしょにするか?」
 すると彼は珍しく不愉快そうに眉をよせた。
 「あなたに一番わかりやすい言い方でお話しようとしただけでしたが」
 私がどう言い返そうか考えていると、彼はいささかの弱気も怒りもない平静な目で、まっすぐ私を見つめて聞いた。
 「あなたのために傷をうけた者を見ているのは、お気持ちの上でご負担ですか?もしそうでしたら、いつでもおっしゃって下さい。いなくなった方がいいとお思いでしたら」
 「何の話だ?」
 よくのみこめないながら、びっくりして聞き返すと、彼は言い直した。
 「失礼いたしました。むろん、おっしゃっていただくには及びません。私の方で察します」
 「何の話だ?ちょっと待て、勝手に決めるな!」
 私は思わず大声を出し、気がつくと息をはずませていた。
 「おまえにいなくなってほしい時は、私の方でちゃんと言う。理由もだ。約束する。だから、そっちで勝手に解釈して消えたりしたら、許さぬぞ!」
 「かしこまりました」表情も変えずに彼は言った。
 私の方は息を切らしているというのに。

    十二ノ三
 書いていても思い出して腹が立ってくる。
 あいつ、何様のつもりなのだろう!?

    十二ノ四
 気持ちの負担?そんなもの、誰が感じてやるものか!
 あいつが好きでしたことだ。何を私が苦にするのだ?
 情けなくて、バカバカしくて、腹が立ってたまらない。彼の態度や表情に一喜一憂している自分が。
 たかが従僕ではないか。助けに戻ろうと見殺しにしようと、私の勝手だ。
 傷を受けようが死のうが、気にするような相手ではない。
 絶対に気になどしない。神々に誓ってだ。

    十二ノ五
 従僕は昨日、傷が治って帰って来た。
 治ったと言っても、ほおからあごにかけて、赤黒い傷痕が深々と走っていて、もともとが端正な顔だちだから、いやでも人目をひく。
 うすうす事情を知っている者は、私が彼にすまなそうな顔もせず、ろくに礼も言わず、ふだん以上に仕事を言いつけてこき使っているのに、あきれているようだ。
 例の副官ははっきり私に向かって首を振りながら、「おまえって本当に冷たいな」と言った。
 どうせ私は冷たいさ。
 自分では気づかないが、かんしゃくを起こすと私は早口になって、矢継ぎ早に命令を下す傾向があるらしい。
 それも、自分の頭の中ではすじが通っているのだが、きげんが悪いといちいち説明するのがめんどうなので、部下も兵士たちも、一見まったく脈絡のない命令をまとめてうけて、とまどうのらしい。
 だが従僕は、帰ってきたその日、私が次々、早口に出す命令を、一つもまちがえなかったし、忘れなかった。
 私の言った通りのことを小さく口の中で復誦しながら、一つ一つ的確にこなして行く。この分では、たとえ私が「副官を川に放りこんで、皇太子殿下をはりつけにして、皇帝陛下のテントを燃やしてしまえ」と命令しても、「川に放りこむ…殿下をはりつけ…テント…燃やす…」とつぶやいてくり返しながら、きちんとその通りに実行しそうである。
 とにもかくにもそうやって、一日彼をこき使っている内に私の怒りはおさまって、日が暮れる頃には変に悲しくなってきていた。
 夜遅く彼がやってきて「他にもうご用はございませんか」と聞いた時、まともに彼が見られなかった。声を聞いただけでも久々に仕事をして、彼が疲れているのがわかったし、しかもそこにはまぎれもなく、誇りにみちた明るさと満足感がみなぎっていたからだ。
 「ああ」と私は目をそらしたまま言った。「明日は昼まで休んでいていい。ご苦労だった」
 すまない、という声がのどをすべり出しそうになるのを、かろうじて私は抑えている。一呼吸ほどの短い沈黙があって、従僕は静かに「大丈夫ですか?」と聞く。それは、昼からの仕事でもかまわないのかと言っているのか、今の私の状態を心配して聞いているのかどちらともとれる。私が黙ってうなずくと、彼は「助かりました。ありがとうございます」と静かに答えて、たれ幕の向こうに消えた。
 あの答えも考えてみれば、昼まで休めて助かるというのか、このように扱ってもらってありがたいというのか、よくわからない。

    十二ノ六
 あれからもう数週間になる。従僕が私をかばってけがをしたという話は、いつのまにか消えてしまった。かわりに彼が酔ってナイフで仲間とけんかして負傷したのだという話が広まりはじめている。
 彼が広めたのだろうか。私はもう、それを探る気もしない。
 今回の件は私の中にある無力感を生んでいる。
 畏怖かもしれない。
 どうしたところで、しょせん彼にはかなわない。彼が私につくすのを、とめる方法はない。つくしたいように、つくさせるしかない。
 そんな気持ちだ。
 彼が私に何か要求するのなら、拒絶もできる。それを種に、翻弄もできる。
 しかし、いっさい何も求めないで、ただ懸命に献身的につくしてくれる者に対して、こちらが何ができるというのか。
 感謝をしようにも感謝さえ、うけとってくれない相手に。

    十二ノ七
 それにしても、私は何をあの時、ああまでも怒ったのだろう。
 あとになるほど、その理由が自分でもわからなくなる。
 本当につくされるのが重荷で、いやなだけだったのだろうか。
 他にも、何かが許せなかったような気がしてならないのだが。

    十三ノ一
 このごろ、テントの中では時々変なことが起こる。
 あの妻と子の木像だが、朝見たら祭壇からなくなっていることがある。
 おかしいなと思っていると、いつの間にか戻っている。
 妻と結婚した時にかわした指輪も、私は戦いに行く時や眠る時ははずしてベッドの枕もとにおくようにしているのだが、それもこの頃、どうかすると見えなくなる。
 従僕が掃除をしていて片づけ忘れるのだろうか。それにしても、これまでにはそういうことがなかったのだが。
 彼はもうすっかり元気になっていて、身体の動きにも以前と変わるところはまったくない。顔の傷痕ははっきり残っているけれど、私も皆も、もうそれには慣れてしまった。
 だが、やはり身体か記憶か、どこか彼は調子がおかしいのだろうか。
 私の方も、彼にあの時、なぜあれほどまでに怒ったのかの理由が、まだはっきりとつかめないのが居心地が悪い。
 それやこれやで何となく、二人の間はぎくしゃくしている。

    十三ノ二
 今朝また、木像がなくなっていた。
 目でさがしていると、従僕があわてて持って来た。それもテントの外かららしい。
 シーツと同じに陽に干してでもいるのだろうか。それにしても夜に出しているというのは変だ。
 私は黙って受けとって、前と同じ位置に並べた後で、「傷はもういいのか?」と聞いてみた。
 彼は、ちょっと私を見て何か考えていたようだ。振り向くと微笑んで「はい。もう何ともございません」と静かに、いつもの声で答えた。
 「何か気になることがあったら、いつでも言ってくれ」と言うと、「はい」と落ちついて、うなずいた。
 その様子を見ていると、どこといってふだんと変わったところはない。
 それでもやはり、何かがおかしい。

    十三ノ三
 今日、訓練の後で士官たちと談笑していると、一人が「将軍、ようやくお顔の色が元に戻られましたね」と言った。「安心しました」
 私が不思議そうにしていると、別の士官が「あの盗賊団の事件で、部下を死なせた責任を感じておられるのだと思って、ずっと見ていて心配しておったのです」と言う。
 「私は、どうかしていたか?」と私は笑った。
 士官たちも顔を見合わせて笑い、最初の士官が「どことなく、おっしゃることやなさることが上の空で」と言った。「何かこう、少しいつもとちがっておられた」
 「ローマや皇帝陛下のことをお話しになる時は、いつも生き生きしておられたのに、このごろはそれも何だかつまらなそうで、ひかえめで」と、若い士官がつけ加えた。「あの事件で、我々に気をつかって、遠慮しておいでということも、まさかないとは思ったのですが」
 そんな風にも見えたのかなと思って、後で副官に聞いてみると、「おまえは、おれの言うことをまるで聞いていないんだな」と彼は不満そうにした。「そのことだったら、あの後すぐ、おれがおまえのテントでそう言ったぞ。この頃何だか様子が変だが、奥さんと手紙でけんかでもしたのかって」
 「そうだったかな」
 「従僕もいたから聞いてみろ。きっと覚えている」と副官は言った。「おまえはそんなことないと否定して、おれが、奥さんがいなくてものたりないんだろう、売春婦でも呼んでおいてやろうかと言ったら、おまえは、それもいいかなと答えた。これは相当おかしくなってると思ったから、おれももうそれ以上何も言わなかった」
 相当おかしくなってると思ったところで、手を出すのをやめてしまうのが、この男らしいと言えばこの男らしい。
 しかし、おかげで、謎が少しとけた気がした。

    十三ノ四
 ここの基地は森が近いせいなのか、いろんな小鳥が飛んで来る。
 鳥の鳴きまねで、敵にさとられないような秘密の通信網ができないかと思って一度会議で提案したら、副官はじめ皆から一笑にふされた。
 だから、それはもうあきらめた。だが考えて見ると、この地に住む敵の方こそ、それを考えつきそうだから、こちらも少しは対策を考えておいた方がいいと思って、若い士官たちには時々口笛で鳥の声を聞かせて、何の鳥かの区別ぐらいはつくようにさせている。
 私の従僕は、歌を歌うというのだから耳はいいはずなのに、鳥の声を聞き分けるのは苦手のようだ。町育ちなのかもしれない。何度も聞かせてやっていたら、やっと一つか二つ覚えた。
 今朝、ベッドに座って身支度しながら、彼の知っている鳥の声を口笛で吹いていると、マントを抱えた彼が笑いながらやって来て、「何度聞いても本当に鳥がテントの中に入ってきたかとびっくりします」と言った。
 「鳥は入ることがあるかもしれないが、女を入れることは絶対にないから、木像や指輪はかくさないでいいぞ」と言ってやると、彼はあわてた顔をした。
 「妻が聞いたら、さぞ喜ぶだろう」私は言ってやった。「それとも怒るかなあ?」
 従僕は困ったようにもじもじし、まぶしそうに私を見た。
 「申し訳ございません」とうとう彼はそう言った。

    十三ノ五
 私は立ち上がってマントを羽おりながら、「このごろ、私はおかしかったか?」と聞いた。
 従僕は軽く目を伏せた。「特に、そうは」
 「かくすな。今日、士官たちに言われて気づいたよ」私は言った。「あの事件の後、おまえがどうかしたのかと思って気にしていたが、私の方だったのだな、態度がおかしくなっていたのは」
 彼は黙って、目を伏せている。
 私は笑った。「心配かけたな。行っていいぞ」
 彼は一礼して、そそくさと立ち去って行った。

    十三ノ六
 本当はもう少し聞きたいこともあったのだ。だが、決心がつかなかった。そのことを私は妻に手紙で、木像の一件を知らせてやった時に、いっしょに書いておいた。
 「彼は、ローマを嫌っているような気がするのだよ。それで多分、ひとつには、あの時私はあんなにかっとしたのだと思う。あの時の彼の言い方に、私はローマへの敵意を感じた。私がそれを愛し、つくしていることへの、さげすみと憎しみのようなものをだ。
 それは私の錯覚だろうか?盗賊から私を救うために、私を裏切るふりをした時、彼が私に向けたあの憎しみは、とても偽物とは思えなかった。しかし、あれだけ私のために命を捧げてくれたことを思うと、あるいはあれは、私に対してではなくて、ローマに対する憎しみだったのかもしれない。彼には何か、そういった過去があるのだろうか?聞きただしたものか、放っておいてもよいものか、まだ決めかねているのだ」
 妻からはまもなく返事が来た。
 「木像のことをうかがって納得いたしました。それでこのごろ、夜風にもあてないのに、あの子は風邪をひくし、私は毎晩、星空や朝露の夢を見ると思っていたのです。
 でも、私の大好きな人、あなたがあの従僕のことをそんなに気にするのは、とてもこっけいだと前から思っていました。あなたは気がついていないのね?何かしてもらった時、自分がどんなに幸福そうな顔をするか。つらい時や悲しい時、どんなにけなげな目で耐えているか。
 あなたに本当に何かしてあげたくなる人は、絶対に何かほしいのじゃないのです。ただ、あなたのその幸福そうな顔を見たいだけ。あの従僕もきっとそうです。私にはとてもよくわかります。
 ローマを彼が憎む気持ちもね。あの国とその未来について語る時のあなたの口調や表情は、美しすぎて、あなたを愛している者には見ていて、とてもつらいのよ。彼はあなたが好きだから、ローマに嫉妬しているだけよ。とても普通の人なのだわ。少しもわかりにくいところなんかないわ。
 木像はどうせ肝心な時にはそうやって彼が隠してしまうのだから、この首飾りを入れておきます。私だと思って身につけておいてね。いけないことをしたら、ひっかいてあげる」
 あいかわらずだなあと思いながら、手紙といっしょに包まれていた、何かの獣の牙らしい小さな飾りのついた紐を首にかけた。ひんやりとなめらかな感触が、妻の指先をふと思い出させた。

    十三ノ七
 手紙を手にしたまま、ベッドに座って考えていると、従僕に対してこれまであれこれこだわっていたことが、だいぶ薄れてきた気がした。
 妻の言う通りかもしれない。
 彼女が最初に彼を見て思った通り、彼はただ正直で口下手な、いちずに仕事にうちこむだけの、むしろ愚直で無器用な青年だったのかもしれない。
 たまたま私と性が合い、身の回りのことや生き方についての感覚が私と似ていただけなのだろう。
 他の者なら要領よく手を抜くところを、手の抜きかげんがわからないので、一生懸命にやってしまうだけかもしれない。
 私の顔色をまったく見ようとしないのも、そうする余裕がないだけということもあり得る。

    十三ノ八
 妻のことを、謎めいたことが好きな女と思って笑っていたが、私の方こそ、そうだったのだろうか。
 幻想の中で彼を勝手に、偉大な存在にしてしまい、それに自分でおびえてしまっていたかもしれない。
 そう思うと、ほっとすると同時に少しがっかりしたような、変な気持ちになる。
 そして、ほんの少しだが、妻の手紙に腹が立った。
 私だって、ローマや、軍団だけではなく、生身の誰かにつくしたい。
 あたたかい身体を抱いて、幸福そうに笑ってくれる顔が見たいのに。
 手紙では伝わらないものがある。
 胸の上で、私の肌のぬくもりで熱くなって行く首飾りは、あまりにも小さすぎる。

    十三ノ九
 妻は、従僕の気持ちがわかっても、私の気持ちはわからないのだろうか?
 本当に、売春婦でも抱いてやりたくなる。
 あの木像の見ている前で。



    将軍の日記(麦畑の章)

    十四ノ一
 このごろ、従僕は時々、ひかえめにだが私に文句を言うようになった。
 「もう少し早く言っておいていただきませんと」とか、「あの手紙はもうお出しになったのでしょうか」とか。
 副官や、他の者がいる前でも言うことがある。そんな時、誰も従僕が生意気とは思わないようで、むしろ私のわがままに彼が苦労しているのだろうなあと言うような、好意のこもったおかしそうな表情を見せるのが、少ししゃくだ。
 副官までが、変に楽しそうにしている。「従僕をつけあがらせてはいけない」と、真っ先に文句を言いそうな男なのに。
 昨夜、二人で飲んだ時、そのことを言うと、彼は「おまえと、あの従僕を見ていたら誰だってあいつに同情するさ」と、聞き捨てならないことを言った。
 「私はそんなに、ひどい主人か?」
 「ひどいと言うんじゃないんだが、扱いにくい主人だろうな」と副官は言った。「何考えてるかわからんし、肝心なことを言い忘れるし」
 何かそんなことがあったろうかと思って、私が彼を見つめて考えていると、彼は苦笑して首を振り、「おまえが肝心と思ってることと、皆がそう思うこととはちがうんだよ」と言った。「皇帝陛下がおいでになるから、しかるべき服装を用意しておけとか、士官たちとの宴会の時の席の順序はこうこうだとか、そんなことおまえ、いっさい言わんだろ?あれは困るぞ、目下の者はな」
 「陛下はそんなこと、気になさらないよ。士官たちだって…」
 「ああ、陛下はな。そこがおまえと似てるんだ。士官たちは、おまえのすることに慣れてるから、もう、あきらめてるのさ。だが、気にする者だっているからな。その分、従僕が気をつかってる。今日だってそうだったろうが。今度の儀式に必要な騎兵隊の鞍の数、あいつが覚えていてくれたから、房飾りがすぐ、そろえられた。あいつもえらいよ、文句の一つも言わないで、教えてくれて」
 「言ったよ」と私は注意した。
 「何を?」
 「彼が、文句を。おまえに数を報告した後、おれを見て、こういうのは、どちらかと言うとそちらで覚えておいて下さらないと、って」
 副官は一瞬、自信を失ったようにじっと私を見たが、すぐ首を振った。「そんなことは言ってない。あいつは、あの時」
 「言ったよ」
 「言ってないよ」副官はもう自信をとり戻しており、おかしそうに私を見ていた。「あきれたやつだな。おまえ、あいつの顔を見て、言われたような気になったんだろう?」
 そう言われればそうだったろうか。私が迷っているのを見て、副官はしたたか酔っていたせいか、この男には珍しく大笑いした。
 「やれやれ!そんなに心が通い合ってるのか。目と目で話ができるほどに。奥さんには聞かせるな。きっと、やきもちをやかれるぞ」
 バカな冗談だと思ったが、何も言い返せなかった。

    十四ノ二
 昨日、兵士たちが森を偵察している時、オオカミの子を拾ったと言って持ってきた。
 子犬のようで、かわいい。
 箱に入れてテントにおいていたが、眠っている顔も、金茶色のやわらかい毛並みも見ていてあきない。
 私がミルクを飲ませたり話しかけたりしているのを、従僕は少しあきれたように見ていた。
 夜は寒がって鳴くのでベッドのすそにのせておいたら、朝になったら毛布にもぐりこんで私の首にくっついていた。

    十四ノ三
 私があまり子オオカミにかまけているので、従僕もちょっとうんざりしていたようだった。
 だが何も言わず見て見ぬふりをしてくれていた。
 それをいいことに私は机で仕事をする時もひざにのせて思うさまかわいがっていたが、とうとう副官が見かねて、犬の飼育係にひきわたして、ちゃんと訓練してもらえ、このままだとしつけも何もできなくて、めちゃくちゃになると言い出した。
 「もう少し大きくなってからでもいいんじゃないか」と私は言ってみた。
 「冗談じゃない。今だって遅すぎるぐらいだ。この前はおれをかんだぞ。もともとがオオカミなんだからな。凶暴になったら殺さなきゃならない」
 彼の言うことはいつもながら、すじは通っているので、私もあきらめてオオカミの子を飼育係の兵士のところに持って行ったが、オオカミがすきとおった金色の目で、なぜおいて行かれるのかというように私を見た時はつらかった。
 テントに戻って、従僕が何となくほっとしているのを感じながら、子オオカミを入れていた箱を片づけていると、副官がまたやって来て、「おまえってやつは」と、嘆かわしげに言った。「息子と離れて暮らしていて、よかったんじゃないのか。いっしょにいたら、きっと甘やかしすぎてだめにしてしまってるな」
 「ずっといっしょにいられたら甘やかしなんてするもんか」私は即座に言い返したが、胸がつまって声が震えたのに自分でも驚いた。
 副官が帰ったあと、従僕に「迷惑だったんだろう、すまない」と謝ると、彼は少しうしろめたそうに首を振って、「そんなことはございません」と言った。「その方がよかったら、連れ戻してまいりますが」
 私は黙って首を振った。

    十五ノ一
 ゆうべは子オオカミがいないので淋しくて、なかなか寝つかれなかった。
 そうしたら夜中にたて琴の音で目がさめた。
 テントの中に淡い灯がともり、ベッドから少し離れた椅子に座って、従僕がたて琴を弾きながら、低い静かな声で歌を歌っていた。
 聞いたことのない異国の歌だった。

    十五ノ二
 目をさましたとわかったら彼が歌をやめるかもしれないと思って、息を殺して毛布の下で私は身体を固くしていた。
 彼はいくつものちがった歌を歌った。
 咲き乱れる花に囲まれた明るいテラスの向こうにまっ青な海が広がり、波が寄せては返していて、若い恋人たちが笑いながら抱き合っているような、明るく甘い歌を。
 夕暮れの町の暗い通りをはだしの子どもがかけて行き、純白の馬がたてがみをなびかせてその後を追い、すれちがう女たちが長いベールをゆらして次々に振り向くような、妖しく心をおののかす歌を。
 雪の山道を小さい灯をかかげながら黙々と進んで行く旅人たちの上に、空一面の星たちが風にゆれながらまたたきつづけているような、おごそかな調べを。

    十五ノ三
 いつか夢中になって大きく目を見開いて彼を見つめていた私は、彼が足を組み直して髪をはらいのけるように顔をのけぞらせて、こちらを見た時、目を閉じるのをうっかり忘れた。
 視線が合って、しまったと思った。
 けれど彼は、私が起きていることなどとうから気づいていたように、かすかに笑って見せただけで、歌うのも、たて琴を弾くのもやめなかった。
 さまざまな情景が、彼のかなでる音色の中に浮かんでは消えた。
 広い海の上を獲物を求めるかのようにさまよって行く嵐が、目の下の船が後ろに引いていく曲がった白い航跡を追いながら、いくつもの島を港を、風と雨の中に包み込んで行くのが見えた。港のひとつの突堤に子どもを抱いた女が座り、衣を風になびかせて黙って沖を見つめていた。
 どこまでも広がる砂漠の中に茶色の竜巻がいくつも煙のように上がり、蟻の這うような速度でのろのろと進む荷馬車と人間たちがいた。見たことのない不思議な獣が何頭も荷馬車の上で吠えていた。
 淋しい小さな村の家々のひとつひとつから立ちのぼる夕餉の白い煙と、ぽつりぽつりとともりはじめる橙色の明かりが見え、いくつもの家族の笑いさざめく声がしていた。村へ通ずる道のかたわらには目印のような白い大きな平たい石があって、子どもたちがまだ何人かそこで遊んでいた。

    十五ノ四
 「夢を見ているのかな」と私はぼんやりつぶやいた。
 その声を聞いたのだろう、従僕ははっきりと微笑した。とろけるように優しい、女のように高い声が、すきとおる衣の間に見え隠れするなめらかな腕や手足を歌い、朗々と響く力強い声が、暑い太陽の下の濃い緑の葉と黄色いオレンジの実を歌う。歌はそうしていつまでも続き、一人の声とは思えなかった。

    十五ノ五
 あとで思えば、彼は私が子オオカミをどんなに好きだったかに気づかなかった自分を申し訳なく思ったのだろう。
 それで私を少しでも慰めようと、歌を歌ってくれたのだろう。
 けれど、その時、私はそれに気づかなかった。
 たくさんの人の命と悲しみとが、彼の声に乗って心に押し寄せて来た。そして喜びと幸福も。それはどれも、つかのまで、ささやかで、はかなかった。淋しさや空しさとほとんど区別がつかないほどに。それでもそれは、幸福だった。

    十五ノ六
 そしてまた、他のものもあった。

    十五ノ七
 かなわなかった愛、届かなかった思い、ささげるものを持たなかった情熱が、雪のように花のように虚空に舞って、限りない優しさで私に何かをささやいていた。

    十五ノ八
 幼い頃に村で見た、狂った女が目に浮かんだ。美しい顔で髪を振り乱し、衣を乱して野道を歩き回っていた。おびえる私を抱き寄せて母が私にささやいた。心配することはない。あの子は人を愛しすぎてああなってしまったけれど、魂はもうここにない。鳥になって飛んで行ってしまっているよ。海に向かって飛んで行き、朝の光を浴びて雲に溶けるよ。
 無骨で無学な田舎女だった私の母は、子守歌もおとぎ話もほとんど知らなかった。なのになぜかその時に、母はそんな話をした。たった一度の、唯一の、母が話した物語だった。

    十五ノ九
 歌うのに疲れるのか、時々彼は、たて琴だけを長くつまびいた。
 激しく降る雨、ちぎれて飛ぶ雲、灰色の重たい空が、その調べの中にひとりでに私の目に浮かんだ。
 そして間もなく、その雨模様の空を横切って、まっしぐらに飛びつづける一羽の小さい鳥の姿が見えてきた。
 とぎれとぎれのたて琴の音の中に、風にさからって激しく打ち合わされて鳴る翼の音がたしかに聞こえた。
 たくさんの風景が入り乱れた。
 森が、畑が、川が、海が。
 遠く、雲の切れ間に光る海が。

    十五ノ十
 再び彼が歌いはじめた。
 その声と、たて琴の音にまじって、麦畑をわたる風の音が聞こえた。
 やさしい手が私の髪をかきあげるように顔をなで、ほおに触れた。甘い香りのする子どもの腕が首に巻きつき、熱い小さな唇が唇に寄せられた気がした。子どもの声が耳もとで何かを言い、遠くで女の声が笑った。
 私は麦畑の中を歩いていた。さしのべた手の先の指はざらざらととがった麦の葉をなでていた。だが指先にいつか感じていたのは、やわらかい女の髪と熱い肌だった。太陽の匂い。土と、草の香り。手のひらの下に、腕の中に、麦畑のようにかぐわしくしめった、重い女の身体がある。そして、たて琴の音はあたたかいなめらかな二つの腕となって、私の全身をそっとまさぐり、抱きしめてくる。

    十五ノ十一
 その時私は、もう何も考えなくていいことを知った。
 あとはただ、眠ればいいことを。
 目を閉じると、たて琴と歌声が遠くなったり近くなったりしながら、次第にひとつに溶け合って行く。
 眠りに落ちる寸前に思った。

    十五ノ十二
 彼が誰でも、もうどうでもいい。



    将軍の日記(雪の章)

    十六ノ一
 早いもので、あれからもう三年近くになる。
 今日、テントの中を片づけていて、久しぶりにこの日記を見つけた。
 数日後の大戦闘にそなえて、老皇帝が今この前線基地にいらしておいでになる。
 機会があったら、これをお見せしてみようか。
 笑って何かおっしゃるだろうな。

    十六ノ二
 実は幼い頃、こういうものを書くのは自分を見つめるのに役立つからと、皇帝陛下から何度も書くように言われたが、いただく課題の中で私は、これが一番苦手だった。
 毎日、何も書くことが見つからなくて「柵の上にカタツムリがいた」とか、「夕食は焼肉とソラマメだった」とか、自分でも何になるんだろうというようなことしか書けなくて、お見せするのがいつも大変恥ずかしかった。
 陛下もある日とうとう、声をあげて笑われた。そして私を抱きしめて、「おまえは本当に自分のことにちっとも興味がないのだね」とおっしゃった。「おまえの頭の中の物語では、いつも自分が主人公ではないのだね」
 そして陛下は両手で私の顔をはさむようにして、いとしさをこめて私の名を呼び、「だからかえって心配なのだ」とおっしゃった。「私はいつも、おまえのことが」
 まだ覚えていらっしゃるだろうか。
 年老いて、弱られたように見えても、あの方の精神は少しも衰えていない。あの方と話していると、私の心は澄んできて、世界のかなたも、遠い未来も見通せそうな気持ちがしてくる。戦場で人を殺すことも、退屈な細かい日々の仕事も、大きな気高い目的をめざす、なくてはならない歯車のひとつとして、きちんと組み込まれて行くような安らぎを、あの方の前ではいつも感じる。

    十六ノ三
 あのオオカミの子も、すっかり大きくなった。
 私によくなついていて、戦闘の時も馬の足元を走っている。
 敵に襲いかかってかみついて、あっという間に倒すので、若い兵士たちは上官から「犬に負けるな」と言われて緊張している。
 犬ではなくてオオカミなのに、皆忘れているようだ。
 忘れていると言えば私の従僕の顔の傷もだ。私をかばってうけた傷だということを覚えている者は誰もない。副官でさえ、この前私がそのことを言うと、「けんかで作った傷じゃなかったのか?」と言っていた。あの時は私のことを冷たいやつだと責めたくせに。

    十六ノ四
 今度の戦いが終われば、蛮族との戦闘も一段落するだろう。そうしたら皇帝陛下にお許しをいただいて軍を退き、スペインの家に帰ろうと思っている。オオカミも連れて行くつもりだが、彼はあの土地が気に入るだろうか?暑すぎないといいのだが。あるいは少し毛を刈ってやらなければならないかもしれない。
 従僕にもいっしょに来ないかと、声をかけてみるつもりだ。
 来てくれそうな気がしている。
 あの三年前の夜以来、彼の歌を私は聞いていない。
 時々、宴会の時などに皆にせがまれると歌うこともあるが、軽い陽気な恋の歌で、あの夜の歌とはまったくちがう。
 スペインの家で、妻や子の前だったら、また歌ってくれるだろうか?ポプラの木が夕暮れの涼しい風にそよぐ下、昼の陽射しのぬくもりが残る石垣に皆で座っている時に?

    十六ノ五
 数日後には大規模な戦闘があり、大勢の死者が出るだろうという時に、のんきなことを書いているのかもしれない。
 だが、なぜか全然、死ぬ気がしないのだ。
 この戦いは勝利する。そんな確信がある。

    十七ノ一
 戦闘は私の予想していた通り、大勝利に終わった。
 けれど、家にはまたいつ帰れるかわからない。
 今日、皇帝陛下のテントに呼ばれ、思いがけない大きな仕事をおおせつかった。
 ここに書くこともはばかられるような重大な責務だ。
 どう考えても私などには果たせそうもないほどの。
 うまく行っても私個人の幸福はないし、失敗すれば地獄だろう。
 けれど、おひきうけすることにした。
 私にそこまで期待して下さる陛下のお気持ちを裏切れないという思いもむろんある。
 だが、心の奥底で、こうなってもしかたがない、というような気持ちがずっとしていた。
 あの従僕の理由もわからぬ献身をうけとめつづけてきた間、私が感じてきた悲しみと恐怖は、これだったように思えてならない。

    十七ノ二
 彼はいったい、何者だったのだろう?
 もう、それを知ろうとは思わない。
 彼が誰であれ、理由が何であれ、これほどのことをしてもらった以上、私もまたそれにふさわしいだけの全力をふりしぼって、人々のために何かをしなければならぬ、きっとそういうことなのだろう。

    十七ノ三
 テントの中では、炉の火が赤い。
 たれ幕の向こうで、従僕が静かに動いて片づけものをしている気配がする。
 ふと、彼の名を呼びたくなる。
 けれども特に、用事もない。
 ふっとおかしくなって、私は笑う。
 「外は雪か?」と言ってみようかな。



夜の歌・・・・・終(2001.10.7.)





「夜の歌」未収録場面
(これは、ほんとに未収録もいいとこというか、書きあがっている中から、脱線しすぎと判断して削った部分の文章なのです。お楽しみいただければ幸いです。)

(未収録場面・「剣の章」五ノ二付近)
 私は身なりや外見にかまわない男ということになってるらしく、自分でもそれは認めるけれど、そういうことにかまうのにうんざりしたというのも事実なのである。
 百人隊長に初めてなった時、上官たちのところにあいさつに行ったら、最初の士官がいきなり私のマントのとめ金を自分でとめ直した。そんなに変な着方をしてたかと愕然として、テントの外に出てから一生懸命自分でもう一度服装を点検して次の士官のところに行ったら、今度はチュニックの丈が長すぎると言ってベルトでたくし上げさせられた。そうしたら何人目かの上官がそんなにひざを出してはいけないと言って前の通りに下ろさせ、マントもたしか誰かがまた、元の通りに直した。一人の士官にいたっては従僕にはさみを持って来させて私の前髪を切りそろえたし、もちろん他の何人かは、その髪型に文句をつけた。
 同じころ隊長になった同年齢の連中にそれとなく聞いてみたが、誰もそんなこと、されたり言われたりしていない。「横目でちらっと見て、あごでうなずかれて、それでおしまいだったよ」と皆言っていた。
 それなら私に対するあれはいったい何だったんだ?とまだよくわからないのだが、結局、自分は他人からこういうことをあれこれ言われやすい、つけこまれやすさがあるような気がした。きっと何も考えてないように見えるのだろう。実際考えてないからしかたがないが。
    ◇
 それは部下たちも同じだった。私が髪を切ったり、新しい服を着て行ったりするたびに、にやにや笑って「おめかしですな」「似合ってますぜ」などとひやかす。いっさい聞き流して相手にしなかったら、今度は私はそんなことにはまったく興味がなく、何もわからないのだという話がぱっと広まった。一時期、上官たちが変に私に旗の色や馬の色を質問し、私は基地の上官たちが皆、急に目が悪くなったのかと不安になったが、どうも私は赤も青も色の区別がつけられないという噂まで流れたことがあったようだ。
 その後もずっと部下たちは、私の着るものや身だしなみにしきりに口を出しつづけた。式典などで他の隊長と私が並んでいる時などは特にそれがひどく、「なぜあの新しい方の鎧を着なかったんですか」とか、「髪がはねてましたよ」とか、「長靴が汚れてた」とか、「今日は決まってましたね」とか、そんなことばかり言う。「ひげぐらいちゃんと剃って行って下さい」と頼み込んだり、「昨日の列の中じゃ隊長が一番立派に見えました。槍の持ち方がよかった」とほめたり、うるさいと言ったらない。
 「おまえたち、将軍がされた演説はちゃんと聞いてたのか?」と聞き返すと、「いいや、そんなもん、耳に入りませんでした。隊長のあのスカーフの巻き方はしゃれてるなあと思ってずっと見ていたもんですから」と言う。私など見ないでいいから、しゃべってる人の方をちゃんと見ていろ!とどなりつけても、次の式典のとき見ていると、また彼らの目はちらちらちらちら、私の方へとさまよってくる。
    ◇
 見られちゃ困る、注目されたらまずい、ということは彼らが常に安心していられるような、きちんとした身なりをしていなければいけないわけだ、と思って努力もしてみたが、すぐ無駄とわかった。上官たちの場合と同じで、誰かの気に入ることをすれば、誰かがその分文句を言うのだ。
 誰にも気に入ってもらえる服装などできるわけがないとわかったから、私は身なりや外見については、動きやすさと気持ちのよさ以外、いっさい考えないことにした。「たまにはちがう服着て下さい」とか「そろそろ髪切ったらどうだ?」とか、いくら言われても断固無視し続けていたら、さすがにその内、皆何も言わなくなった。
    ◇
 ただ一人あきらめなかったのが副官で、もともとねばりづよい性格だが、特に私に関しては、何かにつけてあきらめが悪い。
 ずっと、こだわる。
 もしかしたら、ねばりづよいのではなくて、淡白で、適当にしか考えていないから、かえって長続きするのかもしれない。





(未収録場面・「仮面の章」十二ノ五付近)
 「蛇のやかんの薬草と、左手だけの手甲を持ってきて、騎兵隊長に鞍を川につけるように言っとけ」と一度言ったことがあるらしい。例によって副官からその夜一晩説教された。「そんなわかりにくい命令を前線で出して、兵士たちが混乱したらどうするんだ」と言うのである。
    ◇
 「混乱なんかしないって」彼が相手だと自分がどこか依怙地になるのはわかっていたが、私はそう言い張った。
 「混乱しないわけがあるか。まず聞くが、蛇のやかんというのは何だ?」
 「蛇の模様が入っている銅のやかんだよ。それでいつも煮ている薬草を持って来いと言ったんだ。通じるじゃないか」
 「そうかな」彼は試験官のような目で私をながめるのである。「片方だけの手甲というのは?何でいるんだ?」
 「クルミのからを入れるのに使おうと思ったから」と言いながら私の声は小さくなる。長年のつきあいだから彼の反応はわかっている。こういうことを言うと、この男はいつも、まるで大罪を犯した者を見るような顔で、私を上から下まで見る。
 「なぜ皿を使わん?そのためにあるんだろうが?」
 「あの大きさがちょうどいいと思ったんだよ」
 「だが、あれは皿じゃないぞ」
 「そうらしいな」と答えて、私がふてくさっている間、彼は何かを考えようとしている。
 「先週もおまえ、たしか、左手の手甲を持って来いと言いつけてたな。それもクルミのから入れか?」
 「あれは、広げた巻物の上にのせる重しが必要だったんだよ」
 即座に答えられたのは、どうせ話がそこに行くと思って頭の中で思い出していたからだ。彼は深い吐息をつき、しめっぽい声で忠告する。
 「あのな、いいか。聞いてるよな?」
 「うん」
 「おれも、今はおまえの部下だから、こんな忠告ができる立場じゃないんだが、本当は」
 なら、するなよな。
 「ものは、そのもの本来の目的で使え。そのためにあるんだろ?」
    ◇
 話を早く切り上げたいから、私は無抵抗になってしまう。「そうするよ」
 彼はちょっと気にして私を見る。「何でいつも左手なんだ?」
 「右手はよく使うから、いたみがひどいんだ。ちょっとでもバランスをとりたくて」
 「ふうん」彼は見直したような、ふしぎそうな顔で私を見る。「もう一つ聞いていいか?」
 「どうぞ」
 「鞍を川につけとけというのは?」
 「騎兵隊長が次の渡河訓練では、どのくらいの深さのところを渡ろうかと聞いてきてたから、その返事だ」
 「そうか。理屈は通ってるんだな」
 そう言ってるじゃないかよ。
 「だがな、そういう命令を受けた方にしてみれば、おまえの言い方は、酷だぞ」
 何で?
 「人間の頭は命令を受けると、理解し、関連づけて記憶する。おまえみたいな命令の出し方じゃ、何のことかわからないから、聞いた方が覚えられない」
 もうずっと私は声に出しては一言も彼に返事をしてなかったのだが、彼は私が上目づかいや横目で見る目の色で、言いたいことを読み取っていたらしく、この時も私の心の中の声が聞こえたような返事をした。
 「あの従僕は特別だぞ。それが普通に通用すると思って、甘えるんじゃない」

(「夜の歌」は、私がとても幸福な気分の時に書いたものです。それが反映していてくれるとよいのですが。でも、この話の最後は、映画を見ている方ならおわかりのように、すぐそこまで迫っている悲劇につながって行きます。従僕と将軍の、この暖かい静かなひとときが、そのようなかたちで終わるのが耐えられないという人は、どうぞ、ご自分で、この二人のために別のお話を作ってあげて下さい。読者や観客にはそれが許される、と私は考えています。
さしあたり、私の書いたものの中では「マルクス君の夏休み日記」に、つなげてしまうとかですね(笑)。
地味で、目立たない二人の話を長いこと読んで下さって、ほんとに感謝しています。もう一度、皆さま、ありがとうございました。)