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グラディエーター論

 (2000年6月に日本で公開された当時、「グラディエーター」は、単純な復讐劇、スケールの小さい家族愛の話、というのがおおかたの批評でした。
 この映画の持つ奥深さ、しゃれた構成の数々を一目見た瞬間から愛した私は、このような批評に少なからず気を悪くし、それに対する反論を、時には他の方との対話の中で、時には独白として、書きつらねました。
 今、これらの見方のいくらかは世間にうけいれられているような気がします。当時、いっしょに語り合った方々や、そのような場を与えて下さった方々に、深く感謝しています。)





グラディエーター論

「あの役は難しい!」
 このごろ雑誌を見ているとよく「グラディエーター」について、「ラッセル・クロウもよかったが、ホアキンの演技がすごい」という批評があります。たしかに私もラストでは、この前こんなに怒ったのはいつだったかなと思い出せないほど、あの皇帝には怒りましたから、ホアキンの演技は文句なしに評価します。ただ、2つの役を比べたら、マキシマスの役の難しさは段違いと思います。
 よく「あんなできすぎた男、いるわけない」という人もいますが、私はマキシマスのように、まじめでまっとうに愛情深く生きている人は現実にはけっこういると思うのです。ただ、そういう人はどちらかというと地味で目立たないので、気づかれないのじゃないでしょうか。
 ディカプリオが「タイタ二ック」のジャックや、「仮面の男」のフィリップを、はじめ、少し屈折したエキセントリックな人物として演じたがったと聞いた時、「何かわかるね」と、友達と言い合っていました。同じ無敵のヒーローにしても、キレやすいとか、トラウマかかえてるとか、欠点や異常なところのある人の方が、メリハリがある分、演じやすいと思います。マキシマスのような、健康的で優等生の主人公は下手すると「退屈、ダサい、鼻持ちならない、うざい」と思われかねなくて(昔むかしの映画ですが「ウェストサイド物語」のトニーを見たら、よくわかります)、演ずるのはとても難しいと思います。
 それをあれだけ豪快に繊細に、華やかに色っぽく可愛らしく見せてしまってくれるラッセル・クロウの演技というのは、私にはもう、魔術を通り越して奇跡に思えます。
 ちなみに彼がハンサムかどうかがここでも話題になっていて、私はハンサムだと思います。でも、これがまた、ああいう映画のあんな役はハンサムがやるとすごく嘘っぽくて、感動を呼ばないと思うんですね。マキシマスをリアルに感じさせるためには「きれいな顔になんか見せてたまるか!」という、彼の意気込みを感じました。「ハンサムではないけど」と批評家に思わせていること自体、彼の高度なテクニックだなと・・・ほめすぎですかね?
00/08/09(水) 18:59



「後半は弱いか?」
 「グラディエーター」の、「後半からラストが弱い」という批判について。
 オリバー・リードの急死とか色んな事情で脚本が変わったとかの説もあるみたいですけど、一応「このラストでいいのだ」ということでがんばってみます。
 普通の映画ではだいたい一番大きな戦闘を最後に持ってくるものだけど(はるまげどん=最終戦争てなもので)、この映画は逆なんですね。最初に大軍の激突、次に小集団の乱戦、トラまじりの一騎打ち、最後はほんとの一対一、とどんどん人数が減ってくる。これで貧弱に見せないで、逆に密度を高めるのはすごく難しいと思うのですが、一応成功しています。
 もし、これで最後にまた大きな集団戦をもってきたら、はじめに戻ってしまう感じで、あのぐっと煮詰まってきた凝縮度がばらけて、まのびすると思う。 たしかに、最後の部分はちょっと筋を追うだけになりかけているところもあるし、プロキシモの死に方があっけないという人の声もわかるけど、でもどうかなあ、あのあたりであんまりじっくりやってると、それはそれでテンポがくずれる危険もあると思うんです。ものたりないぐらい一気にもっていくからこそ、あれだけの余韻が残るんじゃないですかねえ。
 まあ、でも、そこは紙一重でしょうね。そして、最終的にがたがたにならずにすんだのは、やっぱりクロウとホアキンの、地下牢からコロセウムの、鬼気せまると言いたいような名演技ではないでしょうか。(ルッシラさんも、ずいぶんがんばってくれてはいたけど)
 正義の味方が鎖につながれていたぶられるというのは、この種の映画じゃ、お約束ごとみたいなものだけど、あの場面の二人のやりとりは、それを超えた新鮮な面白さがあって、くりかえし見ても飽きません。 どこがそんなに?ということは、また今度。
00/08/09(水) 23:40


「ビデオが心配」
 「グラディエーター」のラストの地下牢の場面ですが、映画館によっては、あの時のマキシマスの顔の部分が暗すぎて、目の動きとかがわからない時があるんです。(うっ、映画館の人に覚えられるのが恥ずかしくて、あっちこっちハシゴした人間にしか書けないせりふよね)
 ビデオの時は大丈夫かな。実は、「テルマ&ルイーズ」をビデオで見た時、映画館で見た時よりずっと画面が暗くて、テルマのかわいらしい顔の表情がほとんど見えなくて、がっかりした記憶があるものですから。「仮面の男」は逆にビデオの画面の方がすごく明るくて、映画館ではわからなかった部屋の隅々までがはっきり見えてびっくりしました。(その分ちょっと重厚でなくなってたけど。)それと、映画ではすごく印象的だったダルタニアンの目の色の濃いブルーが灰色になってたのも残念でした。(演じていたガブリエル・バーンは、映画館でもいつもブルーの目に映るわけではないので、こういう色彩処理って本当に微妙なのでしょうが。)あの目のきれいな青い色は映画館に足を運んだ人だけが見た特別サービスだったなと思うことにして、あきらめたのですが。 「グラディエーター」のビデオは、どんな色や明るさになるのか・・・関係者の方が見ておられたら、ご配慮よろしくお願いします。
00/08/10(木) 00:14


「地下牢での会話」
 「グラディエーター」ラストの地下牢での会話ですけど。
 最初見た時は本当に皇帝に激怒しました。が、何度めからか、「何をされてもしかたないぐらいひどいことをマキシマスは言ってるな。その気になったらけっこう意地悪ができる人なんだ」と少し笑えるようになりました。
 だいたい、私もそうでしたけど、見た人は皆、皇帝が妻子の死のこと話していじめたことしか、印象に残ってないみたいですが、「お前の罪のない家族は、こんなに苦しんで死んだんだぞー」と聞かされるのもいやだけど、「あなたをどうしても愛してくれなかったお父さんを絞め殺す時の気持ちってどうでした?」と聞かれるのは、もっときついと思いません?しかも、「お父さんの言ってた名文句も知らないの?」の、いやみつきで。マキシマスはあの時完全に、言われた分の仕返しはして、おつりもとってると思います。
 しかも確信犯ですもの。父に愛されないということが皇帝にとってどんなに痛い傷口か、マキシマスはよく知っています。老皇帝から「息子には絶対皇位は譲れない」と聞かされた時のマキシマスの痛ましげな表情を見れば、それがどんなにコモドウスに残酷なことか十分承知しているのがわかる。
 マキシマスって野生的だけど(だから?)頭がいいし敏感で(こういう感じやすい人って案外ベッドの中では、くすぐったがりやかも、とよくない想像をしてしまう)、皇帝の気持ちなんか完璧に理解していて、だからああいう状況でも相手を平気で挑発できる。いや、コモドウスは、マキシマスを生きたまま解体もしないでよくあの程度で我慢したなと、今では感心している私です。
00/08/10(木) 22:50


「コモドゥスの長所」
 コモドウスですけど、あの人(って何かもう職場の仲間みたいな言い方になってる)、バカはバカなんですけど、あんまりバカだからマキシマスもきっとどこかで本気に嫌いになれないんじゃないかと思うんですけど、でも、バカでないところもあって(何という文章だろ!)、元老院とのやりとりとか、けっこう正しい情勢分析してません?
 前の皇帝は高級なことばっかり言っているインテリで、元老院は民の代表とか言ってるけどエリートになっちゃってて、どっちも庶民の感覚から浮いてしまってる。庶民ってもっと下品でどぎつくて、わかりやすいものが好きなんだよっ!それを与えてやるのが支配者のサービスだろっ!・・って言いたいんでしょう、彼は。それはなかなか、まちがいとばかりは言えない気がする。
 私、あのコロセウムは今で言ったら、テレビのワイドショーとかもそれに近いと思うんですね。社会も政治もそっちのけで、毎日そういうのに見とれてる自分が、あの映画見てからは特に、あそこで人殺しのショー見てた観客とダブります。
 でも、元老院のエリートたちも、前の皇帝も、そういう庶民の感覚を結局理解しようとはしないで、上品なこと言ってるだけで。「それでいいのか?そんなんでローマはやっていけるのか?彼らと同じ感覚でもの考えなきゃだめじゃないか?」ってコモドウスは多分言いたいんです。
 いやー、このテーマは重いわ。考えてると暗くなる。だから、やめます。やめますけど・・・「グラディエーター」が、「単純な」映画だなんて、私にはとても思えません。なまじな社会派映画とか芸術映画とかよりも、複雑だし深いしキビシイと思います。それを気づかせないところがまたいいんだけど・・・。
00/08/11(金) 14:46


「クイントゥスのこと」
 この映画「長すぎる」ってんで、涙をのんでカットしたそうですが、多分マキシマス関係はそんなにカットしてないでしょう。で、出ていた場面がカットされたために、いろんな行動の原因がわかりにくくなって、一番割を食ってるのは、ルッシラとクイントゥスじゃないかと思ってるんですが(ただの推測)。
 ま、でも、それを言ってもしょうがないので、この映画をもとに考えてみますが、キーワードはやっぱり「ローマの軍人」なんですよねえ、・・・多分。 もし、二人の立場が逆で、クイントゥスが、前の皇帝が殺されたことを知っていて、マキシマスは「何か変だけど・・」ぐらいしか疑ってなくて、それでコモドゥスから「クイントゥスを処刑して、妻子も殺せ」と命令されたら、マキシマスはどうしたのでしょう?
 このことについての皆さんのご意見を、すっごく聞きたいのですが、多分、せっかちな私は待ちきれずに、今夜あたり「ローマ軍人としてのマキシマス」についていろいろ書いてしまいそうな気がする。
 ついでに言ってしまうと私、マキシマスが「何よりも家族を大事にしてる人」とは思えないでいます。ただ、それを言ったらラッセル・クロウは多分怒るし、マキシマスは泣いてしまいそうなので、言う勇気がないんですけど・・・って、言っちゃってるじゃないか(笑)。
00/08/12(土) 14:47


「いやみの言い合い」
 「ローマ軍人について」書く前に、コモドゥスとマキシマスの、いやみの言い合いについて、もう一度比べておきますね。

コモドゥス
1・言ってることが露骨で下品。「子どもを釘付け」「何度も犯す」とか聞き苦しい言葉が多いから、聞いてる周りが反発する。
2・言ってる言葉が多くてくどい。だから、他人にも、マキシマスがどんなひどいことを言われているのかが、はっきりわかってしまう。
3・そのわりには、マキシマスと奥さん(子どもも)の間の愛情そのものを、ちっとも傷つけていない。「おまえたちの愛はにせものだ」とか言われて、それが思い当たったとかいうような苦しみは全然与えてない。
4・その結果、マキシマスは耐えるし、それに同情した近衛兵までが思わずマキシマスを尊敬して道を開けてしまう。

マキシマス
1・言ってることが深遠で上品。「死は誰にでも微笑みかける」の哲学論だから、それだけで他人を尊敬させる。
2・「思い出せ」「あなたの父親だ」と、最低限の言葉しか言わず、あとは全部コモドゥス自身に思い出させる。効果的。無駄がない。しかも他人はどんなひどいことを言っているのか気づかない。
3・「愛してもらえなかった」「だから殺した」と言う、一番悲しい痛いところを、ねらい定めて正確にぎりぎりえぐっている。
4・その結果、相手を逆上させて自分を傷つけさせ、言ったことのひどさに比べたら、されたことはまだ軽いのに、見ている方から徹底的に同情される。クイントゥスは多分これがきっかけで皇帝を裏切るし、私たち観客も皇帝に戦慄し激怒するし。

 こうして見ると、マキシマスは肉弾戦だけではなく、心理作戦やディベートにも強いというのがしみじみわかる。コモドゥスとは役者がちがう。皇帝にでもなっていた日には、元老院も大衆も、政治的かけひきと世論操作で手玉にとっていたかもね。対抗できるのはルッシラぐらいのもんでしょう。それにしてもコモドゥスはかわいいというか、単純というか。私でももうちょっとは、マキシマスを傷つける言葉を吐けると思うなあ。
00/08/13(日) 02:03


「面白ければそれでいい」
 あんまり「深読み」や「分析」をしていろいろ考えてると、かえって楽しめない、という方も、きっと中にはいらっしゃるだろう、と心配してます。
 映画って、何にも考えなくても、見て気持ちよかったら、それが最高!なので、私の意見など気になさらないで下さいね。「グラディエーター」が、単純だから楽しいとか、家族愛だから感動とかいう方は、絶対にもうそれでいいんです。それ以上のこと、あれこれ考える必要はないです。
 ただ「単純だからつまらない」「家族愛だけでものたりない」とか言う人がいると、私はつい、「いーや、それだけじゃない!」と反論したくなるんですよねー。でも、それも、考えて見れば、そういう人たちを理屈で説得しても、それでこの映画を好きになってくれるわけでもないだろうし、結局、無駄かも。
 まあ、深読みや分析って、私の趣味なんだと笑ってください。
00/08/13(日) 21:39


「クイントゥスの生き方」
 彼はアウレリウスとかコモドゥスとかに仕えるんじゃなくて、「皇帝という地位の人」に仕えるという発想なんでしょうね。公務員や軍人ならむしろそれが普通でしょう。そういう生き方しか知らない人まで、最後に皇帝を裏切らせて味方につけてしまうのが、逆にマキシマスのすごさでしょう。
 ちなみに、マキシマス自身は9才から軍にいたにしちゃ、そのへんの発想はすごく柔軟ですね。アウレリウスにも、けっこうぽんぽん言いたいこと言ってるし。私は実は、彼は少なくとも十代後半ぐらいまでは民間にいたと思ってたんですが、まあ本人(?)が9才からいたと言ってるんならそうなんでしょう。多分アウレリウスが、マキシマスの(ちびラスちゃんの写真のような)小さい時から「トーク(話せ)」とか言って、色んな意見を言わせては目を細めて聞いてやってて、自分の意見も言って対等に楽しく議論したりしてたんでしょう。だから「上の人に従う」「命令を聞く」だけではない、もっと広い視野での人間としての判断力や生き方が、自然と身についてるんだと思います。あと、ひょっとしたら奥さんがしっかりした人で、その影響もあるのかなあ。
00/08/14(月) 12:38


「軍人と女性」
 「プレミア」の7月号だっけの、「ダブルテイク」だっけ(だっけつづきの、かたかなばっかですみません)で、対談者のお二人がラッセルをほめていますが、その時に「カリギュラ」という古い映画を引用しています。
 それで思い出したのですが、これもローマの有名な愚帝の話で、その中で、この暴君の皇帝が、部下の兵士の結婚式に行ったら新婦があまりにきれいだったので、新郎新婦を台所に引きずり込んで、夫も妻も二人ともレイプしてしまうという場面があります。この夫の兵士は勇敢な軍人で、すぐれた戦士なのに、この時、目の前で妻が犯され、次に自分が犯されても、呆然とするだけでまったく抵抗できません。厳しい訓練をうけた優秀な軍人であればあるほど、上官への絶対服従、皇帝への無条件の忠誠は徹底的に叩き込まれていますから。だからローマ軍は強かったのだし、それが軍隊というものでしょう。上官の命令は絶対です。主君への忠誠も絶対です。それは、友情にも家族愛にも優先します。そうでなければ、戦争はできない。(だから、上官や主君がバカだと困るんですけどね。)
 それが、クイントゥスの背負っていたものだ、と思うと、彼の行動もやむをえないかなあと思います。最後の、「試合は公平に」というルールを自分なりの拠り所にした精一杯の反抗も、それに要した勇気の大きさも、ちょっとわかる気がします。
 当時、その映画を見た私たちは「男の人は軍人だから逆らえなくてもしかたがない。女の人がだらしない。自分の家の台所なんだから、包丁のある場所ぐらい知ってるだろうに」なんて言い合ってました(笑)。「ウォーターシップダウンのうさぎたち」と言う小説の中で、軍国主義のうさぎの村で自由な発想をするハイゼンスレイといううさぎが、どうしてそんな考え方ができるのかと聞かれて一言「わたくしは、めすです」と、答えるんですよ。いつもそうか、これからはどうか、わからないけど、まだ女の人は、こういう「絶対服従」の考え方に縛られないことが、男の人より多いかもしれません。
00/08/14(月) 13:48


「目がものを言う」
 ラッセルは特にですけど、どうも「グラ」は台詞が少なく、表情で語らせる方針(?)なようで、俳優の顔を見ているだけで、何を感じて考えているかが、手に取るようにわかったじゃありませんか。マキシマスなど、軍を脱走する時「近衛兵!」と呼びかけて以来、心で捧げる祈りとか、ほとんど息だけの「イエス」とかはあるけど、実際に口を開くのは、民衆に向かって「楽しいか!?」とどなるまで、はっきり大きな声で言う台詞は1つもなく、全部表情だけ。主役があんなに長いこと黙っている映画って、他にありましたっけ?しかも、その間、例の入れ墨削る場面の表情の微妙な動き方で、見ている者皆が声が聞こえてると錯覚しそうになるという、「わーっ、もう、そこまでやるか!?」と言いたくなるようなワザを見せてくれるし。(私もあの場面、大好きなんですけど、何かもううますぎて見てると恥ずかしくなるんです。「私は好きだからいいよ、あんたが。でも、嫌いな人だったら、絶対やりすぎと思うかもよ」と、何かわけのわからんことをつぶやきそうになっちゃう。わかっていただけます?)で、このごろ見た他の映画5、6本あるんですが、どれも、特に若手の俳優さんがどうかすると、能面みたいに無表情に見えてしまうんです。どういう心境なのか顔見ても全然わからない。「グラ」と比べちゃいけないんだ・・・と自分に言い聞かせながら、とぼとぼ帰る毎日で・・。ここはしばらく他の映画見ない方が正解だったかなと思ったりもしています。

 あと、”まちがいさがし”ですが、プロキシモから貰った鎧の肩当てのデザインが途中で変わるとか、「日没まで返事を」とアウレリアスに言われた割には、その夜寝てしまってないかいとか、トラつき剣闘士さんの仮面はマキシマスの最初の一撃ではずれかけたはずではとか、そんなんじゃないですよねえ。
00/08/15(火) 14:50


「ローマ軍人としてのマキシマス」
 「グラディエーター」は、家族愛と復讐の映画だとか、マキシマスは戦士より父親の顔だとか言われて来たが、そうだろうか?
 もし、マキシマスが家族のことを最優先に考える人なら、新皇帝から忠誠を求められた時、いきなり拒絶するだろうか。あの場は一応忠誠を誓い、故郷へ早馬でも飛ばして家族の安全を確保してから、事をはかっても遅くはあるまい。
 正直で潔癖だから、そんなことはできないんだとか、コモドゥスを甘く見てたとかいうことはあるにしても、あれは絶対「家族のことを第一に考えている」男のとる行動ではないよ、マキシマス君。
 家族の最後がどうたら言うより、そう言ってやった方がずっとマキシマスにはこたえたのに。ねっ、コモドゥス。
 だって、多分、マキシマス自身がそれを、骨身にしみて自覚してる。故郷へ馬を飛ばせる間も、妻子の死体を見た時も、彼が思ったのは「神様のばかあ!」ではあるまい。そんな甘ったれではない。「自分がローマのことしか考えなかったからだ。二人を殺したのは、この私だ」ぐらいのことは感じる人でしょう。
 彼が、老皇帝の死を見て真っ先に考えたのは、ローマの市民・軍人としての責任だ。ローマを託された者として、新皇帝には一刻も権力を握らせてはならないという決意だ。賭けてもいい、その時彼の頭の中からは妻子の顔なんて完璧にぶっ飛んでます。男には(女にだって)そのように家族のことなど忘れて、国や組織や社会のために生きてしまう瞬間がある。
 ただ、マキシマスは「家族はどうなってもやむをえない」と決意してそうしたのじゃない。彼はうっかりしていただけで、だからこそ、それに気づいた時は「しまった!」と思い、「バカだった!」と身を切られる思いがしたはずだ。
 奴隷市場でも剣闘士養成所でも、彼が責め続けたのは誰よりも「父親より夫より、ローマの軍人」として生きてしまった自分自身だろう。だからこそ彼は自分の身体を傷つけ、軍人としての印を消す。妻子と同じように愛していた、もうひとつの存在。なつかしいアウレリウスの思い出と結びつき、戦い、生きる拠り所だったローマ。妻子を殺したそれをわが手で抹殺することで、生きる拠り所を2つとも彼は失う。(あらためて書いていると本当にかわいそうだ。)
 この映画は、そのローマ市民としての彼の再生の物語でもある。そこを見逃すと、やっぱりちょっともったいない。
00/08/15(火) 17:06


「血に酔えない人」
 私は彼は、ローマのよき市民・軍人たろうとする精神は血肉に溶け込んでいる(だから、入れ墨消したぐらいでは、なくすのは無理)けれど、それは殺人や戦闘が好きということではない、と・・。何しろアウレリウスの弟子だし。
 彼は、あれだけ戦闘が上手な割には、ものすごく血に酔うことが少ないです。むしろそういう暴力への陶酔感が、マキシマスを見ていて全然伝わって来ません。だから、そういうものを期待して見た人は、「何か違うぞ」って不満なんじゃないでしょうか。
 あるサイトで、マキシマスはいつも「困った顔」をしている、と言ってる人がいて笑ったんですが、本当に彼は戦っている時、特に剣闘士になってからはつらそうにしています。まあ、「クイック&デッド」といい、この表情はラッセルはうまいんですが、結局彼(マキシマス)はグラックスと同じで、こういう競技を楽しむことがまったくできない人なのだと思います。
 ハーケンなんて死を賭した試合でも「おおっ、いいなあ!」って感じでにっこにこしてるし、プロキシモは「コロセウムの魔力」を憑かれたように語ってやまない。コモドゥスまでが「僕もまぜて」状態で飛び込んでくる。むろん観客は熱狂する。(映画館の私たちも。)それは、狂気の世界ですが、人を魅了もする。
 その中心にいながら、まったくそれに酔えないのがマキシマスです。こういうことを楽しむという感覚が欠落した人として、ラッセルは演じていると思います。でもそれは、すごく難しい。前にも言ったように、こういう時つい血に酔ってケモノになる演技をする方がずっとやさしいんですよ、多分。「クイック・・」の牧師はまだちょっとそんなところがありましたものね。拳銃の弾倉の回転する音に、ぴっと反応したりして。
 そういう、ほんとにビョーキの部分がちっともない、全然面白くないはずの人を、あれだけ魅力的に見せているのが、ラッセル・マジックだと思うんです。また、ちゃんと書きます!
00/08/16(水) 14:21


「ルッシラでしょう・・・?」
 「テルマ・・」や「G・I・ジェーン」の監督なんだから、強い女性は描けるはずなんだけどな。パンフレットの写真とか、小説を読むと彼女はマキシマスがまだ生きてると知らない時点でグラックスに会いに行って、「弟を殺そう」とクーデターの相談をもちかけ、「民衆の心が皇帝から離れるまで待とう。それまであなたが皇帝をなだめて時間かせぎを」とか言われてしぶしぶ納得するんですね、たしか。この部分がカットされてるのは、彼女には痛い。
 でも、それを言ってもしょうがないというか、私はあくまで上映された映画で説明したいので・・。
  それから、時間についても同感です!あの宮殿については、夜だか昼だか考えるの私、あきらめてますもん。変なところで鳥が鳴いちゃったりするし。00/08/16(水) 20:00


「マキシマスの冷静さ」
 「マキシマスは血に酔えない人」について、2つだけ追加。
その1。冒頭、ゲルマニアとの戦い。マキシマスが部下をとてもかわいがる人なのは、戦線でも宴会でも、朝の陣営でもひしひしと伝わる。男たちの信頼に満ちた熱い視線にくるまれる彼を見ていると(リドリー監督の好きな映像だろうなあ、何か、これ)、ルッシラに沈んだ顔を指摘されて「部下を失って」と答えるのも言い訳には思えない。
 そんな彼だから、敵への使者という重要な使命を与えた部下のことは当然とても大切にしていたはずなのに、首なし死体で戻ってきて、敵がその首を泥の中に投げ出しても彼は逆上せず、「敵ながら、立派だ」とつぶやく。仕事として戦うし、その意義(文化を、広める)もわかっているけれど、しかし、あの戦場の中で、相手の立場をも忘れていない人なのです。
その2。トラ戦士(ティグリス)を倒した後、観衆と皇帝と、何より今まで死闘を続けていた自分の中の狂気に逆らって、彼は相手を殺さなかった。これでグラックスに評価されるわけですが、あれは非常に危険な賭けです。血に酔った群集は「殺せ!」と叫び、それには(あの剣士を殺したくない)皇帝さえも逆らえない。マキシマスを助けた時と同様、皇帝はいやいや大衆に従い、まさに「ローマは大衆が動かす」、その大衆の要求をマキシマスは公然とつっぱねた。怒った大衆から殺されても文句の言えない行動だ。
 が、あの時点でもう大衆は「マキシマスなら、何しても素敵!」モードに入っていて(わかるけど。その気持ち。生意気でも、酒好きでも、・・あ、いやいや、話がそれました)、たちまち「慈悲をたたえよう!」の大合唱に変わる。
 皇帝は大衆のご機嫌をとるしかないのに、大衆は彼が何をしても認める。ここで本当に彼は「皇帝より強い奴隷」となり、その自信が、妻子の死をネタにいじめられても耐える力になるし、逆に皇帝側を「彼のいうことなら大衆は何でも聞く」とあわてさせる。
 大衆を自分に従わせられる、と判断すればすかさずそうするマキシマスは、冷静でもあるのですが、やはり本質的に血に酔うのが嫌いな人でないと、ここまで冷静にはなれません。

 それにしても、すごい人です。たしかに現実ばなれしている。 それを全然不自然でなく納得させてしまうのがラッセル・クロウの・・・以下いつもの繰り返しなので省略(笑)。
00/08/17(木) 14:00


「ローマへの愛」
 ラッセル・クロウは「マキシマスは、映画の90%を復讐のために費やしている」と言う。だが、映画全体から見るとマキシマスが個人的な復讐だけを考えている時期は、30%もないのでは?
 剣闘士としての最初の戦いは、彼にとっては生まれて初めての「守る人も国も理想もない、自分一人が生きるためだけの戦い」だった。基本的に心も身体も健全な彼は、生きるチャンスがあれば生きる努力をしてしまうのだが、「文化を広める」戦いとちがって、こんな野蛮なゲームへの参加は屈辱だし、観客には軽蔑しか感じない。
 プロキシモからローマに行くと聞かされ、皇帝の前に立てると知った時から、彼の人生には初めて「復讐」という目的が生まれる。だが、その計画は失敗した。大衆の抗議で命こそは取られなかったが、正体を知られたからには、もう不意打ちは不可能、いつ暗殺されるかもわからない。
 そこに訪ねて来たルッシラは、マキシマスに新しい可能性を示す。コモドゥスをただ殺すのではなく、元老院と協力して、クーデターを起こすこと。それなら可能だし、アウレリウスが託した夢も実現する。
 あいにくマキシマスは、もうローマなんか、どうなったっていいのだ。だから、コモドゥスを殺すこと以外は何も考えたがらないし、聞きたがらない。
 だが、実はそんな自分自身を、彼は好きではない。本当はやはり、ローマを愛し信じていた、かつての自分がなつかしい。アウレリウスへの愛も、まだ消えてはいない。弟とちがって鋭いルッシラは、たちまちそれを見抜き、「ローマを愛し、父に愛されたあの男は?」と突いてくる。これはマキシマスにとっては一番の弱みだから、彼はほとんどべそをかいてしまうし、すぐその仕返しに、「何かできることは?」と聞く彼女に「ある」と答えて期待させといて「二度と来ないことだ」とひっくり返す意地悪をして追い返す。(ほんとに、いい勝負してくれる二人である。)
 ところが、この後マキシマスは拒絶したはずのクーデター計画に近づいて行く。彼はプロキシモに「こんなローマはローマじゃない!(This is not it!)」と繰り返し叫ぶが、これはもう、コモドゥス一人を殺せばすむ問題ではなく、「ローマ」が再び気になりはじめているからだろう。
 ルッシラの言葉が次第に効いてきたのか。でも、ひょっとしたら他の原因があるのかも。
 ゲルマニアの巨人、ハーケンである。
00/08/18(金) 05:33


「ゲルマニアで?」
 実は「グラディエーター」で私が最初にぐっとくるのは、冒頭、畑の映像が消えて、戦場の風景がどこまでも広がって行く場面だ。あの畑がマキシマスの故郷とはわかるのだが、同時に、あの殺伐とした鉄と泥だけの戦場も、かつては同じような緑の沃野だったろうと思ってしまう。
 ローマ軍とは異なるちぐはぐの装備で、森のはずれにひしめいていたゲルマニア軍の姿が忘れられない。生首を放り投げ、まさかりを振るって奮闘を続けたあの大男のおじさんは「ブレイブハート」なら、メル・ギブソンなのだ。
 映画では少しわかりにくいが、剣闘士のハーケンはゲルマニアの出身だ。マキシマスが偉大な将軍で何度も勝利を収めたことを知った彼は、マキシマスに聞く。「ゲルマニアでも?」
 珍しくマキシマスは「あちこちで」と、ごまかす。ハーケンはそれ以上追求せず、毒にあたった真似をして遊んでくれるが、その会話が続けばどうなるか、どちらもわかっていたのではないか?「でも、ゲルマニアでも?」「うん」「領土が欲しくて?」「俺は、ローマの文化を広めたくて」「俺たち野蛮人に?」「そうだな」「どういう文化?」「・・」「俺たちんとこには、こんなすごい建物はなかったけど、こんな人殺しのショーもなかった。ジュバんとこにはあったか?」「ないよ」「じゃ、これがローマの文化か?こういうの広めたくて、俺たちの国を滅ぼしたわけ?」
 ハーケンの村はどうなったのだろう?彼の家族は?故郷が焼かれ肉親が殺されるとはどういうことか、ローマの文化を広めるという名のもとに自分がしてきたのはどんなことだったか、マキシマスはもう知っている。
 どんなに恥ずかしかったろう。「光を与える」ために、自分が家族も故郷も奪った「野蛮人」たちの前に、それ以上に愚かで血に酔うローマの群集の姿を見せなければならないのは。仰々しい紹介で、トラ剣闘士ティグリスとの対決に引き出される前、一瞬映るマキシマスの顔は、その直前に彼が叫んだ言葉そのものだ。「ちがうんだったら、こんなのがローマじゃないんだったら!」
 ハーケンが途中でやめた質問を思う時、もうマキシマスは絶対に自分一人の悲しみにくれたり、皇帝個人への憎悪に燃えたりしている場合ではないとわかったはずだ。ローマの名のもとに滅ぼしたたくさんのものへの責任。それがローマ市民・軍人としての義務感を彼の中に再びよみがえらせたのではないだろうか。
00/08/18(金) 16:07


「コモちゃんはいい奴か?」
 コモちゃんについて、すっごく、微妙な話になるので、まちがえるかもしれないんですが・・・。
 最初の頃、コモドゥスに腹を立てた理由の一つが、「あなたの愛のためなら、全世界を血祭にあげたのに」のせりふだったんですよ。お前が人に愛されるために血祭になんぞあげられたら全世界はたまらんわというか、発想がまったく逆転しているだろうがというか。こういうやつは絶対に人の上に立ってはいけないと思いました。
 でも、あれがコモ君を一番よく表わしている言葉だなとも思います。
 こいつの頭の中には、あんまりきちっとした価値観というか、何が一番重要かという優先順位がないなというのが私の印象でして、権力欲とか、姉への愛とかが、強烈で唯一のかけがえのない「業」としてあるなら、まだいいんですが、愛してくれれば誰でもいいし、皆の愛がさしあたり欲しいし、帝位は父親の愛の証明にすぎない、そういう感じに見えるんです。
 激しく愛しているようで、そういう点では愛情は薄い。姉とマキシマスの恋を周囲に逆らって応援したりはしないでしょうが、二人がうまくいって自分をかわいがってくれて、要するに自分にとってメンツのたつ、居心地のいい状態さえ確保できれば、それ以上姉に執着するような深い愛情はそもそも、こいつの辞書にはないと、私見てるんですが、甘いですかね?
 なら、あずきさんの言う、姉と関係を持ちたがるのはなぜかというと、あれは、もともと心の底にあった姉への愛が出てきたとかいうことでは全然なくて、単にただ他に人がいなくなったからだと思うんですね。父は死んだ(しかも、あの世から見守ってくれてはいない)、マキシマスもいない、クイントゥスは皇帝に仕えてるので、自分を愛しているのではない、元老院も大衆も慕ってくれない、残るのは姉だけ、という単に、引き算の問題ではないかと。対象が少ないというか、1つしかないから、どんどん集中していって「私の子を産め」まで行ってしまったけど、もともと、誰でもいいんじゃないでしょうか、コモドゥスは。自分を愛してさえくれれば。
 でも、もう少し考えてみます。私はこのごろこいつのことを、少しなめすぎてるのかもしれませんので。
00/08/18(金) 23:58


「深刻さが不足?」
 実は「ゲルマニアで?」の論は、「考えすぎ?」と自分でも少し自信がなかったんですが、「いいっ!絶対こういう風に見た方が面白いんだからっ!」と思って強気に書いてしまいました。
 私が自信が持てなかった一番の理由は、ハーケンに聞かれて「・・あちこちで」と答える時のマキシマスの顔なんですね。ちょっと深刻さがたりないような気がする。ほんのちょっとですが。
 でも、いくら考えても、ルッシラの訪問、ハーケンの質問、「こんなローマはローマじゃない!」の叫び、そしてゲートでの一瞬のあの表情、とつなげて見せてくれているのは、もう、この解釈しかできないと思うんです。(最後はやっぱり強気な私・・・)
 小説を読むと、ハーケンとのやりとりは、ルッシラ訪問の前ですよね。この映画、脚本がなかなかできず、撮影しながら書いたりしてたとも言われてて、それにしてはあまりにしっかり構成されているので、その(脚本出来てなかった)話が信じられないんですが、でも、もしかしたら、ここにはそういう影響が出ていて、編集の段階で前後した場面なのかな、だからラッセルがいまひとつ解釈をきっちり詰められないままで、あいまいに演技してるのかなと・・・きゃああ、ごめんなさい、違っていたら、はったおされそう。(でも、あたってたら、もっとボコボコにされるかも。)
00/08/19(土) 15:30


「悪役の動機」
 「ベン・ハー」とちがって、「グラ」は、老皇帝から帝位をゆずると言われた時のマキシマスの表情で、それがコモドゥスにとってどんなに残酷かマキシマスが知り抜いているのが、よくわかるため、悪役の心理、それを主人公が知っているかについての疑問がまったくないのがうれしいです。
 あの場面って、すごいですよね。何かちょっとした命令でももらうんだろうと、打てば響くように「何でしょう?」と立ち上がったら、「国をまかせる」と言われて、「辞退を」と言ったら、「だからおまえなんだ」と相手は本気で、「コモドゥスは?」と尋ねたら「あれだけはだめ!」と実もふたもない返事に加えて「お前を息子に欲しかった」という老皇帝の胸いっぱいの愛情が、どんとのっかって来る。
 マキシマスの見る見る激しくなる息遣いが、彼の肩にのしかかる「ローマの支配者」の責任の重圧を示し、言いようもないほど哀しげになって行く目が、他人の自分を息子よりも愛さなければならなかった皇帝と、そこまで父にうとまれた息子への痛ましい理解、そして自分がそんな存在になってしまっていることへの罪悪感まであふれさせる。(これがほぼ全部、呼吸と目だけの演技だもんなあ。)何べん見ても悲しくなります。人の気持ちがわかるって、つらいことなんだなあって。
 私がコモドゥスとマキシマスを、どっかで仲良くさせたくなるのも、あの時のマキシマスの目をコモちゃんに見せてやりたいと思うからかも知れませんね。
00/08/19(土) 17:07


「コモドゥスの嫉妬」
 でもって、最後はやっぱりコモちゃんの話題
 彼の嫉妬の問題なのは、原因や過程ではなく、結果に嫉妬することなんですよね、常に。そう書くと難しげですが、つまり「何でマキシマスは父上のこと(馬に乗りにくそうだから手伝ってあげないと、とか)、あんなに何でも気がついて優しいのかなあ」とか、「どうして部下のことをあんなに思いやれるんだろう」とか、「演技がうまいなあ」とか、「アイディアがすごいなあ」とか、「センスがいいなあ」とか、そういうことには嫉妬しないで、皇帝になったとかアカデミー賞とったとか社長がほめたとか人気投票で一位になったとか、そういう結果に嫉妬するんですよね。
 言いかえれば、結果が出なければ何も見えない。出ても理由がわからない。出て初めてあわてる。つまりそれは、見通しが効かない、判断が甘い、見たくないものには目をつぶる、ということで・・・。
 アウレリウスが息子ではなくマキシマスに位を譲るということが、どの程度考えられないことなのか、予想できることなのかが、ちょっとわからないんですが・・・でも、本当に皇帝になりたいのなら「親父のあの様子じゃ、ひょっとしたらマキシマスに譲るんじゃないか」ぐらいの予想はしていいのにしない。
 父にうとまれているのは気づいているんですよ、きっと。でも、その事実に面と向き合わない。マキシマスの死を確認しないのもそうで、やなことは見たくないんです。 この「見えないものは見ない」っていう彼の性格が、私、アウレリウスにはけっこう、きつかったんじゃないかと思うんですけどね。哲学って「見えないものを見る」学問じゃないですか。それがどうしてもできないコモのことは、きっとアウレリウスは、もうどう教育していいのかわからなかったんじゃないのかなあ。
 でも、それはコモのいいところでもあって、つまり「見えるものしか見ない」って、庶民の感覚に近いんですよ。前にも書いたけど、この点をうまく使ったらコモはアウレリウスよりもいい皇帝になれたかもしれない。
 すみません!相当思いつきで書いてます。どうも、マキシマスについて語る時と違ってコモドゥスが相手だと私、遊んでしまいますね。そのつもりで、お読み下さい。
 あと、姉への愛がどの程度のものかについては、もうちょっと考えます。
00/08/19(土) 18:22


「よくできた冗談」
 実は「グラ」を見てすぐから、周りの皆に私はいつも「絶対いいよー、笑えるよー !」と言って勧めてました。これは私の周辺にはヒネクレタ奴が多く「感動するよ !」などと言ってもまずダメ、ということもあったけど、私にとって「グラディエー ター」は、何よりもまず、そうだったんです。笑える映画。

 私はまだよく整理していないので、この映画の構成そのものと、もっと広い作り方全 体についてのことを、ちょっとごちゃごちゃにするかも知れません。
 でも、とにかく最初見た時、「何だもう、それ!」って思わずニンマリしたのです。 (これは実は「クイック」の印象と似てます。)
 この映画を貫くのは、逆説の面白さです。戦う気がないのに勝つ。皇帝よりも強い奴 隷。心優しい殺人機械。求めない者にだけ与えられる愛。非現実とかいうことは関係 ありませんが、作品の骨格を支えているのは「最高によく出来た冗談」です。
 それは、この映画の見られ方にまでつながります。何がすごいと言ったって、私が笑 い死にしたくなるのは、剣闘士の視点からアリーナを見ることで、競技の悲惨さや残 酷さをひしひしと私たちに伝えながら、結局はローマの愚民(と書きますよ、もう) と同じように、殺人競技の醍醐味をたっぷり味あわせてしまうことです。これを逆説 と言わずして何と言おう。ついでにいうと、国家だの愛国心だのが死ぬほど嫌いなこ の私に、この作品が持つそういったテーマの魅力を皆にわかって貰おうと必死になら せてしまっている、これももう逆説と言わずして何と言おう。

 だから「結局は(映画の)観客を血に酔わせている」とか「受けを計算しつくしたイ ヤラシイ映画」という批評も、よくわかる。でも私は、それが何より痛快で快くもあ るのです。コロセウムのような現代で勝ち残るには、そのくらいのしたたかさがなく てどうする。で、私は、スタッフ全員に「もー、この、食わせ者めら!」と叫びつ つ、「ああ、だまされてやろうじゃないの」と、この映画に深く感動するのです。
(00.08.21(月) 、11:06)


「マキシマスの妻子の死刑について」
 これについて、私は何となく、あのような残酷な処刑になってしまったのは、現地に 行った司令官のアホな判断か、何かの手違いで(手違われた方はたまりませんが)、 コモの意志が正確に反映されたとはとらえていませんでした。初めコモが大嫌いだっ た時からです。何でだろ?
 すぐ近くで執行したマキシマスの処刑すら満足に確認できなかったような奴が、スペ インの果てで行われる死刑に、おのれの意志を反映できるわけがないっていうのもあ るし、妻子を残酷に殺す動機が何か薄いような気がするんですよね。マキシマスはも う死んじゃってるはずだから、彼を苦しめる役にもたたないし、自分が見て楽しむわ けにもいかないでしょう、遠すぎるから。
 マキシマスが牢獄でルッシラに怒ってるのも、私は何となく「あんな残酷な処刑をわ ざわざして!」というよりも、いや、そういうことなんですけど、「おまえの弟はア ホだから、将軍の妻子にふさわしい処刑する手続きの書類、渡し忘れたんだろ!それ か、あわてまくって、あの妻子はキリスト教徒だから、とか、適当な理由とっさに でっちあげて、そうしたらどういう処刑になるか考えなかったんだろ!仕事ひとつき ちんとできないバカ皇帝!」とか、ちょっとそういう種類の怒りに見えてしまうんで すね。ほんとに、私はコモに対しては「バカ!」という怒りに始まって「バカ!」と いう怒りに終わるんですよ。なめているのかもしれないけど。マキシマスも、こんな バカにまともに怒るほど、つまんない人間になってほしくないです。
 
 あのコロセウムでの意地悪の時も、実は私けっこうマキシマスに感情移入しちゃうの で、コモが子どもが泣いたの、奥さんがどうだったのと言ってる間、必死で自分に言 い聞かせてしまうんですよ。「落ち着けっ!こいつが、ほんとにそんなの見たわけな いっ!こいつは見てないっ!聞いたことを言ってるだけだし、聞いてもないかもしれ ない。聞いても、嘘かもしれない。いいか、こいつが言ってるだけっ!」って。マキ シマスだって、そうだったでしょう。
 でも、そうやって、聞こえてくる言葉は消せても、それにともなってよみがえってく る、自分がこの目で見たものの映像。あそこでマキシマスが一番耐えなければならな かったのは、それだったろうと思います。
(00.08.21.(月)13:30)


「マキシマスの部下たち 」
 たしかに、ハーケンは、いい奴です。
 でも、そのハーケンに「お前の帰りを待つ」とまで、忠誠を誓わせてしまうマキシマ スって、どうなんだろう…。

 あそこで、マキシマスを取り囲んだ剣闘士たちは、かつて将軍だったマキシマスを囲 んだローマ兵士たちと同じ言葉を口にします。「力と名誉を」と。 ああ、どんな境遇になっても、この人の周りには常にこういう、誠実で勇敢な人間た ちの固い絆が生まれるんだ。そう思うと震えるほど感動します。それとまったく同時 に同じ私が、心の底から苦々しい思いでつぶやきます。「マキシマス、あんたは悪い 人だよ」って。

 民衆にとっては、バカな暴君より、立派な支配者の方が時には危険で始末が悪い。そ う言われることがあります。マグナ・カルタやフランス革命を引くまでもなく、支配 者が愚かな暴君の時に、それと戦って獲得された「人民の権利」は多い。逆にアウレ リウスやマキシマスのように、賢くて優しい支配者なら、国民は喜んで言いなりにな り、税金も出し、戦争にも行き、しかも満足しているでしょう。
 ハーケンたちが、マキシマスの部下になったのは、コロセウムの1回戦の時でした。 皇帝の度重なる命令に、一瞬目を閉じてからヘルメットをとったマキシマスは、既に 復讐ができないまま殺されることを覚悟し、だから「あの世で」の復讐を宣言するの は、他の方も指摘する通りです。
 大衆の支持もさることながら、それ以前に彼が予想外だったのは、他の剣闘士たち が、まるで指揮官を守るように、彼の周りに進み出たことでしょう。対決の際のセオ リー通り、コモドゥスの顔から彼は目を放しませんが、耳と気配で完全に仲間と観衆 の動きは察知しており、そのことの思いがけなさと重さによる動揺を、辛うじて抑え ているようにも見えます。
 通路をひきあげて行く時の彼の表情の重苦しさは、1つには、再び自分に命を預けて くれる部下を持ってしまった責任感でしょう。
 そして、その部下たちを、彼はどこへ連れていったでしょう?
(00.08.21. (月)15:43)


「ローマ!ローマ! 」
 「グラディエーター」の「ローマへの愛」について考える時、少し気になるのはラッ セルがそれをまったく言わず、常にマキシマスの「家庭人」ぶりを強調することだ。 実は私は、この図式は監督の好みなのは察しがつくが、ラッセルの好みではない気が している。特に終盤のあわただしいローマ軍人としての復活は、充分納得して演じた のかなと疑問が残る。
 ただ、彼の演技からは、そんな疑いは生まれない。キケロと出会う頃から、それまで どこかよるべなかった彼の表情は、みるみるかつての将軍の威厳と風格を取り戻す。 それはグラックスの、鋭く値踏みする凝視にあってもたじろがず、逆に百戦錬磨の老 議員をも圧倒する。
 私にはもう一つ、忘れられないマキシマスの表情がある。死闘の末にコモドゥスを倒 し、やっと立っているだけの彼は、幻の中で何度も開けようとした故郷の家の扉をつ いに押し開ける。なつかしい庭が現れ、至福の表情でそちらへ歩み出そうとした彼の 耳に、クイントゥスの呼ぶ声が届く。 
 一瞬マキシマスの顔がかすかな緊張を取り戻す。本当にかすかに、だがまぎれもなく 変化して、指示を出し、命令を与える人のまなざしになる。
 そして、ローマの再建のためにとるべき処置を命じ、それを執行するクイントゥスの 声を聞きながら彼は倒れる。
 最後の気力をふりしぼるなどという派手なものではない。だが、あれだけ夢見た故郷 の家にやっと帰ろうとして、まだ生きている人々のための仕事が残っていた、もう少 しだけ、まだ行けない…と気づく表情のたゆたいは、いつも私を粛然とさせる。これ を見てなお、この映画はホームドラマとか、マキシマスはただの家庭人と言う人に対 し、激しい悲しみと怒りをさえ私は禁じ得ない。
 彼の遺骸を前にしたルッシラの「ローマは、このような人が命を捧げる価値のある国 だろうか。そうだ、と言えるようにしようではないか」との訴えは、今の日本では、 あっさり素直に心に落ちて感動できる人は少なかろう。けれどこれが、この映画が訴 えていることだ。肥大し疲弊した国、愚かな支配者、腐敗しきった大衆、行き詰まっ た時代、見えない未来。でも絶望せず、それらを、命を捧げる価値のある崇高なもの にすることが出来ると、もう一度信じよう、と。…それを理解しないと、この映画の 一番熱く語られたことを味わい損ね、「最後がものたりない」という感想につながっ てしまうことにもなる。
(00.08.22.(火)04:57)


「マキシマスの良心」
 マキシマスが、どのような気持ちで、辺境の民に接していたかについて。
 これ、本当に難しいところですねえ。このようなことを考える機会を与えて下さった こと感謝してるし、ご意見に賛成したくなる誘惑にかられるところもいっぱいあるん ですけど、いろんなことをはっきりさせるためにも、あえて、ちがう意見を言いま す。
 その1。マキシマスは、本当に「ローマの暗黒」を理解していたのでしょうか?理屈 や知識では知っていても、たとえばコロセウムには彼はほとんど行ったことなどない し、そこに集まる民衆の低級さを肌で理解はしてなかったのでは?この点で私はコモ の方を高く買うのです。まあ、「民心を知ってるだけではどーしようもない」という お手本でもありますが、コモは。
 その2.彼が見たであろうとおっしゃる「北方の地の悲惨さ」は、本当に悲惨だった のでしょうか?おっしゃる通り、彼の故郷の風土や生活を無意識に基準として見てい た可能性もあり、それはそれで危険なのでは?砂漠でも氷原でも、住む人にしかわか らない幸福と文化があるかもしれない。ロビンソンがあんだけ厳しくフライデーを 怒ってやめさせた人肉食の習慣だって、ちゃんとした宗教観に基づいた文化だったん でしょう?ああ、でもじゃ、インドで花嫁が焼かれるのも文化と言って認めるんかい と言われると、困っちゃうんですけどね、私も。
 その3。彼が「野蛮人を啓蒙してやろう」って傲慢に構えていたか、「何とか井戸と か道路とか作ってあげて豊かに暮らさせてあげたい」と願っていたかは、マキシマス を愛する私たちにとっては、彼の人間性に関わるとても重要な問題ですけど、さしあ たり征服されて焼き殺される他民族にとっては、完全にどっちでも同じなんじゃない かと思うんですね。アウレリウスのぼやきを聞いてると、どうしてもあの映画のロー マはアメリカとダブってしまうんですが、あの国が他の国に介入する時の善意の部分 のようなものを感じます。
 その4。マキシマスの「とりあえず行動する」点は私も好きです。でも、それがま た、彼の限界になることもあるかな、と…。
(00.08.23.(水)12:0 3)


「ジュバ 」
 「Free my men」とマキシマスはラストで命令する。これを仲間と訳すか部下と訳す かはともかく、この時点でマキシマスには既にそういう男たちがいた。かつて将軍 だった時と同じに。
 前に私は、常にそういう集団を作ってしまう彼の人間性に感動しつつも「あんたは悪 い人だ」とつぶやく、と書いた。その人々を彼はどこへ連れて行ったか、とも。
 実は、マキシマスが彼らをひきいて何をするかについては、いくつかの道があった。 スパルタカスのように奴隷解放をめざす道もあれば、脱走してかつての敵である他民 族を結集してローマと戦う道もあった。キリスト教に帰依してスラム街の疫病駆除に つくした後、ライオンに食われて殉教する道だってあったのだ。(剣闘士の中にはキ リスト教徒って当時けっこういたんじゃなかったっけ?)
 私は冗談を言っているのではない。こういうことをやってこそ「敵は大ローマ帝国」 なのであって、たかが家族が殺されたぐらいで入れ墨削ってローマに絶望した割に は、マキシマスの自己変革はスケールが小さすぎるのである。身分差別も覇権主義も 何ら変わらず温存され、暴君を倒したものの(倒したからこそ)ローマは依然安泰な のだ。
 アウレリウスやルッシラ母子への愛があるにしても、あなたは本当にマキシマス、新 しい仲間たちへの責任を、夜も寝ないで苦しんで考えたか?自分が信じ、生きてきた 世界をひきはがす苦痛に耐えて、ちがう生き方をする可能性を探らなかったのか?
 いや、もうやめよう。
 私はいわゆる「史劇」映画の大半がキリスト教の論理を枠組みにするのにうんざりし ていたから、「グラディエーター」はとても新鮮で好きだった。しかし、キリスト教 にめざめる主人公を描いて人間や社会のあり方に根本的な問いかけを発してきたそれ らの映画と比べると、「グラディエーター」の描く苦悩はあまりに浅く、弱い。
 そのかわり、マンネリ化したきれいごとではない、等身大の、手でさわれそうな実感 がある。だから私はこの映画に心を動かされ、生きる力を与えられるのだろう。
 映画のラストは故郷に帰るジュバである。マキシマスが自分にわかる範囲、できる範 囲でせいいっぱいに戦った戦いは、とにかくジュバを解放し、故郷の妻子の元に戻し た。それでいいことにしてくれませんか、と、マキシマスやこの映画が言うのなら、 「いいことにしとくよ」と涙まじりに笑うしかない。
(00.08.23.(水)1 5:06)


「ローマを見てない? 」
 あの文章を拝見していて、あっ、やっぱりそうなのかなあと思ったのは、マキシマ ス、ローマに行ったことないんですかね?コロセウムを見たことも?
 あの映画の中のマキシマスの表情って、大抵わかるんですが、1つだけ、コロセウム 見た時、ジュバから「こんなの見たことある?」って聞かれて首を振って、その後と ても悲しそうにしている、その表情の意味がわからない。小説では、「ここにあの殺 すべき憎い敵がいる」と思ってることになってるけど、どう見てもそんな顔じゃな い。
 アウレリウスは「ローマは光」と言った彼に、「でも最近のあの都のこと知らんだろ ?」って言いますよね。スペインのご自宅には3年近く帰ってないんだけど、ローマ にはどうなんでしょう?
 あの文章で書かれていたように、ローマを理想として戦っていたけど、実際に行った こと、見たことはなかったんだとすると、あの表情はよーくわかるんで、できたらそ ういうことにしたいんですけど。
(00.08.24.(木)11:29)


 考えれば考えるほど、「マキシマスがローマを見たことがなく、アウレリウスの語る ローマをそれと信じて戦っていた」というのは、この映画の重要な要素だと思えて来 ました。この映画のローマってアメリカを連想させるなと前から思っていたのです が、そういうことだと、「ソ連の実態を知らないまま、まじめに社会主義の活動をし ていた世界各国の革新勢力」までも連想させそうで、(少なくとも私には)切なさも 深さもぐっと増します。ラッセルのスペイン訛りの件も私は「またまた凝っちゃっ て、監督を困らせて」と苦笑していたんですが、おっしゃるように、こうなると、そ うとも言い切れません。
(00.08.25.(金)14:16)


「マスメディアと大衆
 この映画はいろんな意味で、とても現代社会を連想させます。強大になりすぎて身動 きがとれなくなった国とか、民衆と離れてしまった議会とか、前線の戦士(企業戦士 でもいいわけで)の苦悩とか。
 でも、それだけではまだそんなに生々しくは結びつかないはずです。この映画が一 番、今の社会と共通するものを寒々と感じさせるのは、「他人の死や不幸と、それに ともなうドラマを見物することに酔いしれる」無気力で刺激を求める巨大な大衆を、 これでもかとばかりに描くところです。
 この映画の批評のされ方に、私はいっぱい言いたいことがあるのですが、その一つは は、なぜ「トゥルーマン・ショー」や「エドtv」など、マスメディアと大衆のもたれ かかりあい、そのことから生まれる非人間性、毒と魔力、残酷さを描いた映画の数々 と比較して論じられなかったか、ということです。後者など、ほぼ同時に公開された のに。
 「グラディエーター」は、大衆を決して悪とも善とも決めつけません。私たちは、こ のような血に飢えた大衆をほんとに死ぬほど嫌いだったマキシマスの目を通して、彼 の大衆との関わりの変化を通して、多分、私たちもその一員である「大衆」とは何な のかを見つめていくことになるのです。
(00.08.24.(木)23:47)


「律義なフゼイ」
 (「ザマの戦い」の勝利の後で)観衆に向かって腕を挙げるあの場面、私も何回見て も「いいっ!」とゾクゾクします。ただ、開き直ってるというよりかは、「あ…やっ ぱり、お礼言っとかないといけないな」って言う、律義なフゼイにも見えるんです が。(笑) (00.08.25.(金)14:16)

 私がマキシマスが腕をあげたのを「律義なフゼイ」と表現したのは、その直前に客席 を見上げ、見回す彼の表情です。私に言わせれば、あれは勝ち誇った顔ではないどこ ろか、感動や感謝ですらもありません。呆然として動揺して、ほとんど脅えている顔 です。
 実は私は、プロキシモに「群集を味方につけて見せる」と豪語したわりには、その方 法って彼はわかっていないし、多分最後までわからないままだったろうと思う。とも に戦う兵士たちを鼓舞し昂揚させる方法は知っていても、客席という安全圏にいて、 人の死闘を見物する大衆の気持ちなんて彼には理解不能。だから、何をしたら大衆の 気に入られて人気が出るかの判断や予測もできません。それができるのは、コモドゥ スでありプロキシモでありハーケンです。
 名乗った後で近衛隊が抜刀した時、仲間たちが彼を守って進み出たことも意外だった でしょうが、その時の彼の沈痛な表情は「ああ、皆までも道づれにすることになる な」という思いでしょう。ところが、そこにあの「殺すな」の大合唱。うろうろ観衆 を見回すコモドゥスと対照的に、彼が相手を見つめたままなのは、一つには、あまり にも予測できなかった状況にコモドゥスとはちがった意味でパニックになっていたと さえ思えます。
 皇帝たちが去り、自分があんなにも軽蔑し憎悪していた観衆に救われたことを完全に 理解した時、観客を見る彼のまなざしは、脅えているとは言い過ぎでも、少なくとも おずおずしてはいませんか?
 「こういう時ってどうしたら…お礼をいうべきだろうけど…ああ、手を挙げたらきっ と喜んでもらえるんだな」という感じに見えるんです、だから。それは、どなたかも 指摘されたように、アウレリウスから「おまえを称えてるんだよ」と教えられて「そ うなのか。じゃ…」という感じで剣を挙げるのと同じ「素直さ」ですが、「人気」と いうものに対して今ひとつわかってない点でも共通する。ひょっとしたらプロキシモ と同様、アウレリウスも彼のこの点は少々心配だったかもしれません。
(00.0 8.27.(日)03:29)


「「毒」のある映画 」
 前に私は、「グラディエーター」が「トゥルーマン・ショー」や「エドtv」と比較し て論じられなかったのが不思議だ、と書いた。この映画は多くの点で現代社会を連想 させるけれど、最も今と共通するものとして(コロセウムの司会者などという、あり えない者まで登場させて)描かれ、印象づけられるのは、現代と共通するマスメディ アと大衆との関係ではないか、とも。
 公開時の批評で、サッカーなどスポーツ競技への人々の熱狂と結びつけたものはあっ た。しかし、キリスト教徒の虐殺と同様、剣闘士の試合もまた「死」を見物するとい う病的で異常な面を持っていたことを思えば、マキシマスがさらされていた大観衆の 視線や歓声は、たとえば、アメリカや日本で今流行している私生活覗き番組、猟奇的 な犯罪・災害報道、湾岸戦争の実況中継、毎朝のテレビのワイドショー、スナッフ フィルム(そう言えばホアキンはこのテーマを扱った映画「8ミリ」にも出てたっ け)と、より一致するだろう。そこにあるのは、自分たちの退屈な毎日の刺激のため には、他人の苦痛も絶望も傷つけあいも必死のあがきも、面白半分に眺め、あくまで 安全な観客席から無責任に批評する、無神経さと鈍感さだ。
 この映画は、娯楽満点のサービスをしているようで、どこか冷やかな視線がある。ほ とんど嘲笑に近いものさえ感じることがある。ある方は、マキシマスが観衆に向かっ て叫ぶ「こんなものが楽しいか!?」の言葉が、映画館の観客にも向けられていると いう正確な指摘をされた。だが、それだけにとどまらず、この映画の一見単純な外見 の下には、「気づくかな?あんたたちもまた、毎日コロセウムの観客と同じ生き方を していることに?」という、私たちの日常そのものへの、刺すように冷たい問いかけ がある。「どうせ、気づきはしまいが…ね」という皮肉な笑みさえ、たたえた上で の。
 画面のどこかににじみ出す、この鋭い冷笑を漠然とでも感じ取った人は、きっとこの 映画にある種の不信感、不快感を持つ。それは案外監督が、ひそかに望むことかもし れない。この映画には、他人の不幸や私生活を無責任に見物することでしか生きる実 感が感じられなくなっている私たちを、深く傷つけたがっている「毒」と「怒り」が あるのだから。
(00.09.02.(土)02:18)


「ゆれる、まなざし」
 「グラディエーター」という映画が一筋縄では行かないのは、「他人の不幸や死闘を 見物することでしか、生きる実感を感じられない」現代の私たちでもあるローマの大 衆を、それこそ唾棄すべき存在として描いておきながら、同じその群集が、皇帝とい う大きな権力に逆らってまで、自分たちの愛したヒーローを救ってしまう、という、 おそらくこの映画で最高の感動を呼ぶ場面を作り上げていることだ。
 「ザマの戦い」の戦闘場面で、マキシマス自身は敵しか目に入っていないが、実はも う一つの戦いが観客相手になされている。はじめ、殺され役としての剣闘士たちに (コロセウムの支配人のシナリオ通りに)憎しみと軽蔑をこめて拳を振っていた観客 たちは、マキシマスが奪った白馬を颯爽と疾駆させはじめた時、ついに同じその拳を 共感と応援をこめて振りはじめる。最初にそれを始める太ったおばちゃんが映るた び、何度見ても私は「よしっ、(観客がこっちに)ついたっ!」と叫びそうになって 困るのだ。
 ただし、マキシマス自身は「観客を味方につける」と偉そうな宣言をしていても、さ しあたり勝ちまくること以外には、実はその方法がわかっていない。骨の髄まで健全 思考の彼は、人の死を見物に来る大衆の卑しい本質を、本能的かつ徹底的に見抜いて 軽蔑しきっている。だから観客の反応を読むなどということに関してはまったくウブ であり、観衆の「殺すな」の大合唱で救われた時は恐らく茫然自失したろう。
 マキシマスのその感情を、「忸怩たる思い」と表現された方もいた。彼の、そして自 分たちの勝利をたたえて喝采する観客を見回す彼の表情は、複雑にゆれて、とまどっ ている。さしあたり歓呼にこたえて律義に素直に腕は挙げるが、多分、これ以後も彼 は観客が理解できてはいないし、自分の部下の兵士たちに対する(これも他の方が指 摘された)ような絶対的な信頼は最後まで持てなかっただろう。
 だが、それはきっと聡明な人間の誠実な判断だろう。大衆は軽蔑すべきものではない が、常に信用もできない。残酷で危険だが、思いがけない勇気や賢さも発揮する。小 説や映画が、時にその一面だけを強調して描いてしまいがちな大衆の、とらえがたく 底知れぬ姿を、マキシマスの、とまどい、ゆれるまなざしを通して、この映画は正確 に生々しく示すのである。
(00.09.02.(土)02:18)


「それぞれのコロセウム」
  「グラディエーター」のラストが不満だと言う人たちの理由の一つは、「ザマ」の戦 闘であれだけ盛り上がった観客とマキシマスとの一体感が、最後の戦いでは後退して いる…どころか消滅しているように見えることではないだろうか。ここでの観客は、 マキシマスに熱狂的な好意を抱いているにもかかわらず、何一つ彼を助けることがな い(できない)。
 実は小説では助けている。瀕死のマキシマスは客席からの声援で立ち直るし、他にも 観客の声はサポーターとしての役割を果たすように描かれている。ある段階ではそう いう脚本だったのかもしれない。しかし、完成した映画では、マキシマスの勝利の瞬 間にも観客は沈黙しており、試合の展開には何の影響も与えない。そもそも客席の映 像がほとんどない。マキシマスはあくまで孤独に戦って、勝つ。
 マキシマス本人にはそのことは、それほど苦痛ではなかったろう。人気の絶頂にあっ てなお、彼は自分が「観客のなぐさみ物」にすぎないことをはっきり自覚していた し、常に見物人に対してよりは、戦う敵の方に、より強い敬意や愛情を抱いていた。
 私たちが見ていて悲しいのは、だから、マキシマスの気持ちを思いやるからではな い。どんなに彼を愛していても、しょせん彼が鎧の下の傷口から流し続けている血は 見えず、絶対に不利な条件で彼が戦わされているイベントの裏の仕組みも見えず、無 邪気に彼の強さを信じて、彼の名を呼ぶ観客の、善意と愛情と信頼ゆえのなお一層の 残酷さ…どんなに愛していても結局はマスメディアを通じてしか相手を知ることので きない、ファンというものの限界を、この映画が白々と冷たく思い知らさせてくれる からではあるまいか。
 そのかわりまた、私たちにもそれぞれの戦いがある。受験、家庭、仕事、試合、恋 愛、といったそれぞれのコロセウムがあるのだ。支持し、応援してくれる人たちがい くらいてくれたとしても、しょせんは一人で敵に向かい、不利な条件に耐え、誰も知 らない鎧の下の傷を隠して戦い続けなければならないことは、戦ったことのある者な ら皆、知っている。そのような人なら、観客席に座っていても、他人の戦いをきっと よりよく理解する。観客の立場でいる限り、決して見ることのできないものがあるこ とを知っているからこそ、かえって、よく。
(00.09.02.(土)03:5 9)


「書くかねー!(笑)」
  アラさがしということでなら、こんなのはいかがでしょう?
 ほんとに確信ないんで、なら書くなよと言われたら一言もないけど、最後の地下牢で のコモドゥスとの対決の場面で、マキシマスがつながれてる鎖の手首の輪っか、大き すぎるような気がしません?ラッセルが演技しにくがってる気がしてしかたがないん ですけど。
 でも、そんなの、ちょっと手首になんか巻いたら解決できるはずですよねえ。だから 思い過ごしなのかもしれないけど、書き出した以上は言っちゃいます。
 ラッセルって、目の演技に劣らず、手や指の演技するのが好きだし、うまいじゃない ですか。「ザマの戦闘」で皇帝の前に皆と並んでる時、指を一本づつ折るようにして 右手で槍を握り直すしぐさなんか、すごく印象的で、覚えていない方、いないでしょ う?トラとの戦いのあとで、コモドゥスが近づいて来て前に立つ時も、「あれ、珍し く表情動かさないな」と思ってたら、垂らした右手を握り締めたり開いたりして心の 揺れを示すという裏技に出るし。あの場面なんて、手は画面の下ぎりぎりで映るかど うかもわからないのに、それでも、そういうことする人なんですよね。
 だから、あの地下牢の場面でも、手は映ってる範囲で動かせる数少ない部分なんだか ら、絶対演技したいはずなのに、まったく動かさない。相手にあれだけ厭味言えるん だから、手も動かせないほど消耗してるとも思えない。
 結局、ダイエットのし過ぎかどうか知りませんが、手首が細すぎて鎖の輪がすっぽ抜 けそうなんで、「結んで開いて」が出来ないんじゃないでしょうか。
 いや、こうやって書いてると、だんだん、そうに違いない気もして来るから恐いんで すが。全部、嘘かも知れません。 (笑)
(00.09.09.(土)15:56)





無駄のない戦闘

(1) さりげなく資料紹介 (対ゲルマニア戦)
 最近、どんな映画を見ても、戦闘場面がいまひとつだと思ってしまう。もちろん「グラディエーター」と無意識の内に比べているのだ。
 私は集団にしろ個人にしろ、戦闘場面というものについて、知識や興味が実はほとんどない。それでもそんなことを思ってしまうのは、「グラ」の戦闘場面が、作品の中で果たす役割において、どれもまったく無駄がなく、それぞれ独自の効果を生むよう工夫されているからだ。
 冒頭のゲルマニアとの戦闘は「プライベート・ライアン」なみの迫力のみが話題にされているが、私が見ていてむしろ感心するのは、これが、それ以後のさまざまな戦闘の資料紹介、解説としての役割をきちんと果たしていることだ。降り注ぐ矢を確実に受け止めるローマ軍の盾を映して、「ザマの戦い」の時の盾の強度の予備知識とし、馬上から剣で敵を薙ぎ、剣が幹に食い込んで予備の剣を抜くマキシマスの一連の動作から、馬上の戦いの絶対的有利さ(「ザマ」でマキシマスが白馬を奪って疾駆させる理由は、カッコいいからではない)や技術的難しさを観客に教える。馬が倒され、落馬して仰向けに倒れたままの応戦は、ティグリスとの対戦と同様で、しかも、重い鎧を着けていてなお、彼にこのような動きが出来ることを示すものだ。最後に肉弾戦で殴り合うのはコモドゥス相手の時と同様で、やはり「彼は、これは得意のはず」と後で私たちを納得させる伏線として有効だ。
 それにしても、何十回も見た後では、ともすれば初心を忘れがちになるのだが、初めて見る人にとって、この場面のマキシマスはまさに野獣の印象だろう。冒頭、画面いっぱいにアップになる、風に毛足がそよぐ白い毛皮にふちどられた、静かで沈痛な表情と、その直後の飛び立つコマドリに向ける笑顔の優しさを忘れてしまいそうになるほど、その戦いぶりは荒々しく激しい。それが、戦闘が終わって木の幹から剣を引き抜き、宴会で部下と笑い合い、アウレリウスと話し、ルッシラと話し…という段階を経て、彼の身体と表情は次第に柔らかく初々しくなって行き、寝間着姿で妻子の木像に口づけする時には、いっそ少年っぽく、女性的にさえ見える。演劇ではなく、フィルムを編集する映画で、このように確実な変化を見せるのが、もし偶然でなかったら、すごい。

(2)「見せたってー」という思い(最初のアリーナ)
 マキシマスが剣闘士として最初に引き出される戦闘は、辺境の特徴をよく生かして、泥臭くて、グロテスクで、滑稽である。失禁する剣闘士も含めて、すべてが悲惨でおぞましい。何かに耳をすますようなジュバの表情をはじめ、主人公とちがっていつ殺されても不思議はない脇役たちの恐怖を通して、この競技の残酷さが胸に迫る。
 無気味な外見の殺し屋剣闘士たちの中に、ローマ史劇では映画でも小説でも定番の矛と網を使う剣闘士をしっかり登場させ、ハーケンを暴れさせ、映画の最後まで生き残る剣闘士たちを点描するなど、監督のサービスには手落ちがない。
 さて、我らのマキシマスはここで、ジュバと鎖でつながれ、盾だけで剣がないというハンディを負わされている。だが、そんなものは彼にとって問題ではない。アリーナに飛び出す時はジュバがマキシマスを引っ張っているが、次の場面でマキシマスはジュバを引っ張り返し、最初の敵を盾でぶちあげて剣を奪い、盾を捨てる。ジュバも即座にマキシマスの実力に気づき、以後は協力し、最後はむしろマキシマスが主導権を握る。
 だから、そんなことよりも私たちが最初に一番心配するのは「マキシマスが生きる気になって、戦ってくれるか?」ということだ。だが、それだって(野生動物の素朴さと美しさを持つマキシマスが、まちがっても自殺なんかするわけがない、ということを除いても)、こんな映画で主人公がそうそう早く生きるのをあきらめるわけがなく、プロキシモの演説の内容がどうであれ(ちなみに何十回見ても、この場面にマキシマスはいないようなんですが。別に撮影してるかな?)彼が生きる気持ちを取り戻すのは、実はわかりきったことだ。それなのに私たちが、そのことに変にやっきになってしまうのは、マキシマスの強さを映画の観客である私たちだけが知っていて、鎖で一蓮托生させられているジュバも、「もしや?」と疑っているプロキシモも知らないという、この設定のせいではあるまいか。「実は彼、強いんだぞー」「びっくりするなよー」と思い、「マキシマス、実力、見せたれー、見せたってくれー」という心境が、つい私たちをむきにならせ、わかりきっている成り行きに不安と期待を抱かせてしまう。こういう古めかしい見え見えのトリックを効果的に使うのが、この映画はしゃくにさわるほどうまい。

(3)ダンスの後で(「スペイン人」の戦い)
 子どもたちから花までふりかけられる、プロキシモ一座の花形剣闘士「スペイン人」となっての戦闘では、マキシマスは一度も倒れも転びもしない。それだけ余裕の戦闘であり、切迫感や危機感がない分、画面の中でも、外でも、観客は安心して彼の殺人技の美しさを楽しめる。(しかも、それが絵空事でないリアルさを持つのは、たとえば最後に倒す相手の首を切り落とした直後、本当に首が地面に転がったかのように視線を一瞬、下に落として見せる、といったようなラッセル・クロウの「成りきり演技」だ。)憂鬱なのは、彼にばさばさ貴重な剣闘士を殺されるプロキシモだけだろう。プロキシモの複雑な表情を見ながら、つい考えてしまうのは、こういう試合にどの程度のランクの剣闘士をマキシマスの対戦相手としてもってきたらいいのか、興行師としては悩ましかろうなあということだ。どうせ簡単に殺されるのなら、あまり強いのを出してももったいないし…。それと、プロキシモ本人も言ってる通り、昔の彼ならこういう時は、わざと苦戦して見せたり、滑稽なしぐさで笑いをとったり、役者ぶりを発揮していたのだろうなあとも思う。それこそ、マキシマスなどは逆立ちしてもかなわない名演技で毎回、アリーナを沸かせていたことだろう。
 プロキシモ以外に憂鬱な気持ちでいるのは、もちろんマキシマス自身である。繰り返すが「死闘」でない分、この戦いでのマキシマスの動きは型にはまって美しく、まるでダンスのステップを踏むように人を殺して行くのだが、画面の中の観客と一体化して、ついついうっとりそれを見ている私たちに、あの有名な叫び…「こんなものが楽しいか!?」を彼はぶつける。それに対して観客は「戦え!戦え!」と連呼する。これが「生きろ!」と励ます声にも聞こえる、と投書されていた方がいたようだが、それはちがうと思う。少なくとも、あそこで、あの観客とマキシマスの間に横たわる深淵…それはマキシマスの心の絶望的な深淵でもある…を感じて、あっ、私は違う、ここの観客とは違う、とあわてて身を引く気分になった人も多いはずだ。それはそれで、実はみっともないのだが。
 つくづく油断のならない映画だ。楽しませておいて、私たちの正体をあばき、挑発して来る。そういう点で、この戦闘場面もまた、実に複雑で、深い。

(4)寝返る観客(「ザマ」の戦い)
 「ザマの戦い」の構成の見事さについては、今更私が語るまでもないのだが…。この戦闘の特徴は、マキシマスが個人ではなく指揮官としての才能を発揮すること、ヘルメットをかぶるファッションを見せること、などもあるが、何より観客が敵から味方に変わるというスリリングな展開が見せ場だろう。
 ちなみに時々、映画館で、この場面まで見て席を立つ人がいる。その気持ちはよくわかるのだが、おせっかいな忠告をすると、戦闘が終わってすぐ席を立っては、それは間違いである。(ほんとに、おせっかいな忠告だなあ。)つまり、この場面の戦闘はマキシマスたちが歓呼の中、通路を引き上げて来るまで終わってはないのであって、そこまでちゃんと見てから、コモドゥスが書類にサインしている場面になって(ホアキン、ニールセン、ごめんね)、席を立つべきである。
 なぜなら、そもそも、この戦闘の最大の敵はコロセウムの観客だからだ。支配人の演説で盛り上げられて剣闘士たちの死を期待していた観客たちの、刻々変化する反応で、マキシマスたちの戦いは、その成功が確認される。
 戦車の車輪の槍が二度、盾の列を襲い、指揮官を(軍人の経験がある者は盾の強度も)信じて動かず、集団を崩さなかった剣闘士たちが、「ダイヤモンド隊形」で最初の戦車を粉砕する。ハーケンを射た射手をジュバの投げた槍が屠る。白馬を奪って疾駆するマキシマスに向かって戦車から投げられた槍は手前に落ち、マキシマスの槍は逆に敵を貫く。彼の馬が飛び越えた戦車の破片をよけきれなかった後続の戦車が横転する。その段階のひとつひとつに客席の短いショットが挿入されて、観客が確実に剣闘士たちの味方になって行く過程を映画は私たちに伝えるのだ。(私は実は、粉砕される戦車が少し多すぎて賑やかすぎ、もう一台少ないぐらいがちょうどよかったのではあるまいかと、個人的には思っているが。)
 この戦いでもう一つ見逃せないのは、ジュバやハーケンをはじめとした剣闘士集団の動きが戦闘場面はもちろんのこと、それ以外の時も実に絵になっていることだ。近衛兵が出てくる時の遠景でも、剣闘士たちは一人一人が皆、それらしい動きをしている。勝利をおさめてコロセウムを去る場面でも、一番後ろの一人が前の仲間の背中をちょっとたたいたりするのなど、何でもないが、とてもいい。

(5)奪われた仮面(トラとの戦い)
 「ザマの戦い」には華やかさがあり、最後の凄愴な一騎打ちには一種の非現実感さえ漂う。そういう点では、最も熱い「死闘」は対ティグリス戦だろう。この戦いのマキシマスは転がりながら戦うことが非常に多く、最後はトラに組み敷かれる。(四頭のトラが、一頭目のパンチは空を切り、二頭目は地面をたたいて間一髪、三頭目は後ろからかぶさり、四頭目でついに前から押え込む、と確実に段階を踏むのも、娯楽作品の王道みたいで笑えるが。)彼のそういう身体の動きが一番堪能できる試合だ。
 別に変な意味ではないのだが、全戦闘を通じて私は、この試合の時のマキシマスが一番、裸という感じがする。むろん、露出度の問題ではない。最初、遠景で捉えられるせいもあって、ヘルメットもなく部下もおらず、何かの計略で守られている相手に向かって歩いて行くのが、ひどく孤独で小さくて、むきだしで無防備に見えるのである。
 それは理由がないわけではない。辺境のアリーナや「ザマ」の戦いでは、マキシマスの強さを本人と映画の観客だけが知っていた。だが今回は敵がマキシマスの強さを熟知し、その上で何か罠をしかけている。相手がこちらの手の内を知り、こちらは相手の手の内がわからない初めての事態が、私たちをいらだたせ、不安にする。ヘルメットがないだけでなく、マキシマスはすべての仮面をはぎとられており、相手は彼を好きに料理できる。なのに何の気負いも見せず戦おうとするマキシマスの態度は、これまた誤解を恐れず言えば妙に色っぽい。
 マキシマスという人は運命に果敢に立ち向かっている時ほど、何かに身を委ねている印象がある。やる気を見せたりすること自体、余分なエネルギーを使うと思ってセーヴしているのかもしれないが、その様子がある種の殉教者っぽいエロティックさを生むのだ。
 この戦いはまた、辺境と同様の血に酔う観客の本質を見たマキシマスが、皇帝さえも逆らえない、その観衆の「殺せ」の声に公然と反抗して、しかも認められ支持されるという、「観衆の支配者」としての誕生も描く。それが元老院の良識派を味方につけるとともに、皇帝とその取り巻きを戦慄させて、以後の展開につながって行く。つまり、この戦闘もショーとしての魅力をたっぷり見せつつ、作品全体の筋の中で欠かせない位置を占めるのだ。まったくもう、脚本がちゃんとできてなかったなんて、本当かい?

(6)血も凍る冷たさ(脱走と逮捕)
 マキシマスが剣闘士の檻から逃亡し、城壁の外で捕らえられるまでの戦闘は、マキシマス自身が戦っていないこと、オリバー・リードの死による予定変更の可能性などもあり、戦闘場面としてとりあげるには疑問もあろう。私自身、他の戦闘に比べてこの部分はあまり盛り上がらず、魅力を語りにくいと当初は思っていた。
 だが、今は違う。この部分は他の戦闘場面にひけをとらないどころか、非常に重要な役割をこの映画の中で果たしていると考える。 最初見た時、この部分から、ラストのコロセウムの対決に至るあたりでずっと、私は心のどこかで血の凍るような寒々とした思いにかられたことを覚えている。「あれ?監督はじめスタッフは、娯楽大作を作るつもりじゃないのか?文芸大作を作るつもりなのかもしれない」と感じ、「そ、それじゃほんとに、何でもする気だぞ。主人公をどうする気かわからんぞ」と気がついて、身の毛がよだった、とでも言おうか。 ある意味では、これまでべたべたにマキシマスにまつわりついて来たような、映画の語り口やカメラワークが、このあたり、実に冷たい。投げやり、無気力、やっつけ仕事、と見間違いそうになるほど(少しはそうだったかも)、淡々と筋をただ追う。マキシマスが指揮官でなくなった仲間たちは、彼を逃がす時間をかせぐためだけの望みのない戦いを戦って、これという見せ場もないまま敗北し、重要な登場人物があっけないほどばたばたと死に、しかもマキシマスの逃亡という目的は達せられない。
 この、さめきった情け容赦ない冷たさは、絶対に娯楽映画のそれではない。もう監督にもマキシマスは守ってもらえないのかもしれない、という厳しい現実がさしつけられて、観客は奇妙な孤独と絶望を感じる。それはそのまま、娯楽映画ではありえない切ない愛を生むことになる。思えば私自身、城壁のそばで兵士たちの輪に押し包まれて行く、顔も姿も映らない遠景場面のマキシマス(彼のその後の状況は、地下牢での顔の傷からわずかに察するしかないのだが)に、この映画の他のどの場面にも増して、渇望にも似た愛情を感じたりするのだ。
 映画は、この部分でマキシマスをいったん観客からさらって隠す。そうすることで観客に彼をなりふりかまわず追っかけさせる体勢にして、両者をラストの戦闘に投げ込む。いったい、これは、計算か、偶然か。私はいまだに判断できない。

(7)データ不在の事態(最後の対決)
 私たちは、これまですべての戦闘で、どんな不利な条件があっても「マキシマスという人の絶対的な強さ」だけは少なくとも信じていることができた。ラストの戦いでは、それが崩れ去る。コモドゥスが試合の前にマキシマスの肉体を傷つけたことによって、マキシマスの戦闘能力に信頼がおけないという、初めての事態に私たちは直面する。
 そういうことをやってのける相手の卑怯さへの怒りは、どうしてもこの相手を倒して欲しいという願いを、映画館の観客の中にいやが上にも高めるのだが、よりによってこの時に「マキシマスはどのくらいのダメージを受けているのか?どのくらい、ちゃんと戦えるか?」という、これまでのデータがまったく役に立たない、前代未聞の心配を私たちはしなくてはならない。それは、すでにマキシマスがもう私たちの知っている彼ではなくなりつつある…滅びに向かって変化しつつあるという胸苦しい予感でもある。
 これまでのすべての戦いと違って、あらゆる夾雑物を排した、二人だけの肉弾戦。冒頭のゲルマニア戦以来、剣だけでなく、初めて両者の手足がからまり、ぶつかりあう。
 戦場や試合の経験豊富なマキシマスが、負傷しながら戦った経験もあって、そういう時の体力の消耗度をある程度、予測できるのか、それとも強さが災いして、こと肉体に関してはベストコンディションで戦った経験しかなく、私たち同様、まったくデータのない戦いに臨んでいるのかは、画面からはわからない。ただ、当然ながら確実に、彼はこの事態に対処する。傷をかばって前かがみの姿勢を保ち、左手は身体にひきつけ動かさない。それでも熟練した身体の動きは、傷の痛みも失血の疲労も超えておそらくは本能的に彼を戦わせ(私は二度目に画面の左から右へ動いて行く時の彼の、踏み込んで行く足の動きが、とてもきれいで好きである)、最後は爽快なまでの激しい殴り合いで、コモドゥスをついに倒す。
 全体がどこか荘厳な儀式のようなこの最後の戦いにもまた、多くの初めての状況と未知の要素が登場する。どの戦いにも同様の工夫があって、決して緊張がゆるまない。「グラディエーター」という映画の戦闘場面の見事さは、物量作戦や残酷なリアルさではなく、まるでマキシマスの戦い方のように鮮やかに、映画の筋と観客の心理をとことん知り抜き活用する点にあるのだ。