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かまいたち(ラッセル・クロウ論)

     (1)タブーを破って

 私は掲示板その他で「今年は春風のようでいたい」と述べた。だが、年頭そうそう書くこの一文はどうやらとても春風どころか、人の皮膚を瞬時にざっくり切るという「かまいたち」現象にも似たものになりそうだ。と、いう意味の題名である。
     ◇
 「グラディエーター」公開当時に、この映画が単純な活劇、スケールの小さいホームドラマ、という、まったくどこを見ているのかと言いたいような批評がマスコミでは蔓延した(もちろん、そうではなくて最初からこの映画を高く評価した、清水節氏などの批評家もおられた)。私がこの映画について、さまざまな意見を書きつづったのは、それに怒ったからである。もし、この映画に正当な評価がはじめからくだされていたら、これほどまでにこの映画について私が語ることもなかっただろう。
 アカデミー賞の受賞なども経て、この映画を先のように単純化、矮小化する傾向は最近ではあまり見られなくなったと思う。(小さいところでは「キネマ旬報」の投稿欄での板坂耀子の発言もあった。)
     ◇
 そのかわり、というのでもないが最近では、この映画で主人公のマキシマスを演じた俳優ラッセル・クロウへのバッシングが加速している。
 記憶されている方も多いだろうが、映画公開当初、映画をさほど評価しなかった批評家でも、彼の演技だけは絶賛した。現在にいたるまで、ファンであると否とを問わず、彼の演じたマキシマスを否定する声を私はまったくといっていいほど聞いたことがない。
 私は自他ともに認める、あまのじゃくで、ぐうたらでもある。人が言ってくれていることを自分がわざわざ、また言おうとは思わない。だからラッセル・クロウという俳優の魅力、マキシマスという人物の創造にあたって彼が果たした役割の大きさについて、あえて発言する必要はないと思っていた。
     ◇
 また、私はこれまで好きな俳優は何人もいたが、それはあくまで映画の上での彼らの演技を愛したのであって、その個人的性格にも生活にもいっさい、まったく、興味はなかった。「殺人でもすれば、それはちょっと困るが」と私と同じ意見を持つ人が書かれていたのを見たことがあるが、正直言って私は殺人をしたところで、その俳優に対する、俳優としての評価を変えるとは思えない。
 更にまた、これはただの趣味であるが、私のこういう、俳優に対する愛は面と向かって人に語ることができないものであり、掲示板などで話すのはなかばひとりごとであり、対話の場合も、彼を好きと言ってくれている点では私とまったく同一と感じている、「もう一人の自分」と勝手に思っている相手と話しているにすぎなくて、誤解を恐れずに言うと、そんな時、私は相手を血と肉を持った一個の人間と認識していない。だからこそ、自分の思いが話せるのであり、もちろん個人的なおつきあいを実際にはじめれば、それはそれで楽しいけれど、それはまたもう、まったく別の世界であって別の喜びであって、そこにラッセルという人への愛をつなげてしまうことが私にはできない。もし、そういう方と直接お会いしたとしても、私は彼についての話はしないだろうし、できそうもない。
     ◇
 だが、私がこれから書く論(と言えるかどうか疑問だが)は、そのような私の立場を微妙にくずす恐れもあり、そもそも私は彼に対する情報を、普通の人よりは持っているにしても、ファンとしてはむしろあまり知らない方だと確信するし、そんな状態のままで書くことは、私の好きなやり方ではない。推測、憶測、歪曲、妄想が入る可能性が高い。むしろ、入らない可能性は皆無である。
 しかし、目には目をということもある。少なくとも、今、彼に対して言われていること、下されている評価には、かなり意図的な操作があり、悪意と誤解と思い込みがあり、無責任な受け売りがあり、無邪気な妄想がある。「こうも見られる」という、反対の憶測と妄想を語ることで、その流れを少しでもたゆたわせることは可能だし、必要なのかもしれないと思う。
     ◇
 こんなことをくどくど書くのは、今もなお私が、「マキシマスとラッセル・クロウは別人であり、私は前者だけ愛していればいいのであり、後者がどんなに悲惨にのたれ死にしようが消え失せようが、それは私の知ったことではない」という、これまでどんな俳優に対しても守ってきた自分の姿勢にこだわりつづけているからだ。しかし、やはり、マキシマスという、これだけ多くのものを私に与えてくれた存在を、あれほどにかたちあるものとして具現してくれた俳優に対して、このくらいのささやかな返礼はしておかなくてはという結論に私は今、達している。
     ◇
     ◇
    (2)「傲慢」というイメージ

 「グラディエーター」でブレイクするまで、マスコミはほとんど彼に無関心だった。その前の「L.A.コンフィデンシャル」で一部にかなり注目を集めていたとしても(この映画ですでに彼は注目されるべきだった」と不満を持つファンも少なくない)。
 私自身はテレビの吹き替えで見た、多分カットも多かったはずの「クイック&デッド」で彼が気になりはじめたのだが、その当時はかなり詳しい俳優年鑑の類を見ても、彼の名前さえ載っていなくて「いったい、どういう俳優なのか?」といぶかる時期が長く続いたのを思い出す。
 「グラディエーター」以来、それはまったく変化した。そして、その当初からマスコミは彼に、野生児、乱暴者、といったイメージをかぶせたがっていた気がする。日本の場合、それを端的に示すのが、インタビュー記事での彼の発言は「私はこう思うのです」でも「僕はこう思うんだ」でもなく、断固として「おれはこう思うのさ」といった調子で訳されることだった。
 あとで述べるように、そこにある意図的なものがあったとしても、まだこの時点では、特にマスコミが彼を敵視していたということはなかったと思うので、そのようなイメージで彼が紹介されるのには、やはりそれだけの原因も理由もあったのにちがいない。それはいったい何だったのだろう?
     ◇
 そのような比較的初期の記事で、「このインタビューを読んだら、『ラッセルって何と自信家だろう』と大抵の人は驚くにちがいない」といったような見出しをつけたものがあった。それは、「でも、それは彼にはそれだけの信念があるのだ」という内容につながる、好意的な記事だった。しかし私は、その記事を読んだ時、どの一文からも彼のことを傲慢とも自信家ともまったく思わなかった。大変まっとうな、あたりまえのことを、とても普通に言っているにすぎないと思えた。
 この記事を書いた人は決してラッセルを傲慢、自信家と思っていたのではないだろう。だが、やはりそう思う人がこれを読んだらかなりいるだろうという危惧は感じて、そういう見出しをつけたのだろう。ということは、その人自身もやはりいくぶんかは、「これは自信家だな」と感じた部分はあったのだろう。
 くりかえすが、私はまったく感じなかった。その時は、どうせ私と世の中の感覚はちがうと思って、深く気にもとめなかった。しかし、今考えると、たとえば他の俳優、とっさに思いついたので言うとケビン・スペイシー(自分の私生活を見せないという点でも彼はラッセルと同じだが)などだって、このくらいのことはいくらでも言いそうな気はする。他にも新人、ベテランを問わず、そういう俳優は多いと思う。だからといって、ここまではっきり無造作に、その俳優が傲慢と呼ばれることはないように思えてならない。
     ◇
 そういう、他の俳優と彼がちがっているところを少ない情報の中からしいてさがせば、ラッセルがオーストラリア出身で、言葉の訛りもふくめて、それを隠さないどころか、はっきりと示しつづけ、「オーストラリアが沈没して、どこそこが滅びて、どこそこがどうかなって」でもなければハリウッドに住もうなどと思わない、とアメリカやハリウッドへの同化をはっきり拒否していること、だろう。
 もうひとつは、彼が、「よくしゃべる」人らしいことだ。最近では「冷たい芸能人」などと呼ばれ、これには「しゃべってくれない」ことも含まれるのかもしれないが、それでも、彼の「問題児」ぶりがかなり定着したころのインタビューでも「この人、とにかくよくしゃべる」と(「いい人なんだあ」のニュアンスで)書かれた記事もあった。人なつこく、なれなれしく、気さくに、そのへんの兄ちゃんのノリでしゃべりまくる人、というイメージは初期のインタビュー記事には共通していた。
     ◇
 ここからは推測、むしろ妄想がまじる。
 この、彼のあけっぱなしの用心のなさ、新人らしからぬ図太さは、「面白い」「かわいい」「いいヤツ」と思われる一方で、「図々しいやつ」「変なやつ」「鈍感」というとらえ方もされる可能性があったのではないか。
 そして、そもそも「ハリウッドに同化しない」「萎縮しない」「アメリカナイズされようとしない」彼の態度を許容し承認するためには、「愛すべき、がさつな、田舎者」、クロコダイル・ダンディーであると笑っておくことが必要だったのではないか。
     ◇
 もしラッセルが、もっと野卑でお人よしで間抜けだったら、それでもよかった。だが彼は、どこをどう見てもバカで抜けたところがない。ちょっとうんざりするくらい、ない。オージー訛りに似合わない鋭い指摘や考察を述べる。(ますます妄想をたくましくすると、これはけっこう、アメリカの人の神経を逆なでするのではないかと思う。東北弁や九州弁まるだしで、江戸歌舞伎の精髄について正確無比な指摘をされるようなもので。)
 スマートな都会っ子やハリウッドスターらしい俳優が言ったりしたりしたら許されることでも、オーストラリアに足をつけたまま、変わろうとせず同化しようともせず、言葉さえ変えようとしない人間には許されないこともある。あくまでも感覚的な問題だが、そういうところの違和感、不快感をラッセルは周囲に感じさせつづけているのではないかと思う。それが、次第に重なって、「傲慢」「自信家」の評価を生むことにつながっていくのではないだろうか。
     ◇
 彼がどれだけ、そういうことを、知っての上での確信犯でやっているのか、私にはわからない。どう考えても、映画であれだけいろんな英語をしゃべれる人が、日常の生活でオージー訛りを消そうと思って消せないはずがないと思う。あれも含めて、あけっぱなしで人なつこい、対応のしかたそのものが、「僕はこれまでの生活、生き方を変えようと思わない、その必要も認めない」という、きっちりとした信念と美学にもとづいて選択されたことのように思える。
 だがそれは、意識して、計算してやっているかというと、またちがうようでもある。彼を見ていていつも感じてしまうのは、無防備、無邪気、無用心、といったことで、それは、マスコミが彼について多分信じたがっている、愚か、がさつ、ということとも重なりかねないのだが、そうではなくて、そのような無防備な生き方が、おそらくは彼の信念であり信条なのだという気がする。
     ◇
 彼のそういう信念を支えているのは、むろん、俳優としての能力、演技をすることに対する絶対的な自信だろうが、その裏づけとなる生き方への自信と信念でもあるだろう。かけてもいいが、この人は、正義が勝つと信じており、努力は報われると信じており、実力が人を説得すると信じている。愛も、誠実さも、裏切られることはないのだと。たとえ、そうでない例を山ほど見せつけられ、自分も痛い目にあっても、それを教訓にはしないだろう。こりないで、一晩寝たら翌朝にはまた信じるだろう。それを可能にするだけの、精神と肉体の強さを多分、持っている。
 だから、何も恐れていない。それは、コモドゥスの恐さを知らないマキシマスと重なって見えてしまって、私にはやりきれなくなることがある。マキシマスがそうであったように、彼が自分のそういう生き方を変えないのは、それこそが自分の最大の力であり、それを失えば自分は滅びるしかないことをよく知っているからなのだろう。だから、彼のその選択は正しいのだろう。と、私は思いたい、本当に、祈るように。
     ◇
 このようなことを考えて見た時、メグ・ライアンとの彼の恋は、徹頭徹尾、アメリカのマスコミには許しがたいものだったように思えてならない。
 まず、彼はアメリカ女性そのものの理想的な美女を征服して獲得した(こういう言い方は好きではないし、事実にも反するが、世間はそう見たはずである)。
 そのことによって、アメリカ市民の理想としていた、幸福な家庭を破壊し、離婚に追い込んだ(これも、世間はそう見たという意味である)。
 それで二人が結ばれれば、まだマスコミは「暴れん坊の田舎者が、アメリカ女性の優雅さにまいって、正しく調教訓練されて文明人になった」という枠組みでのおとぎ話に移行して、目をつぶって祝福してやれたのだろうけれど、彼は彼女と別れてしまった。
 しかもそれはどうやら、彼女が振ったというのでもないらしく、クリスマスに彼の故郷に彼女が行かなかったからで、つまり、自分の文化圏に来なかったからと言って、彼は彼女と別れたらしいという、あまりにも「傲慢」で、アメリカ文化にとっては屈辱的な成り行きだったようである。
 それで彼女が激怒して、彼の悪口を言い立てて「一時の迷いでした」と言えばまだしも、そんなことは彼女は言わず、彼とは別れてもきちんとした関係を保っている。
     ◇
 こんなことをやってのける男を説明しようと思うなら、もう「傲慢」「身のほど知らず」としか言いようがないのではないか。
 ラッセルとメグとの愛がどんなものであれ、それは二人にとって真剣で、別れもまたそうであったことは、数少ない二人のコメントからも浮かび上がる。しかし、この一連の出来事が最もラッセルの「傲慢」というイメージを定着させたような気がする。それはむろん、ラッセルの彼女への愛し方、別れ方が傲慢だったからなのではない。彼が、ハリウッドとアメリカに同化せず、自分の生き方を守る俳優だったから、である。
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     ◇
    (3)演技と私生活

 さきに、ケビン・スペイシーについてふれた時、ラッセルは私生活を公開しない俳優とつい書いたが、このへんはほんとはどうなのか、正確なところがわからない。むしろ彼は、私生活を公開しないという態度をはっきりとっている俳優たちよりは、このへんはそれこそ無防備だし、あけっぴろげなのかもしれない。そして、彼のそういう姿勢がまた「彼には何をしてもいい」という気安さを、マスコミや周囲に生む時もあるのかもしれない。
     ◇
 ただ、このことと区別がつきにくいので、人が混乱するのだろうが、それとは別に、ラッセルは「演技と私生活は別」という姿勢をかなり明確に、時には挑戦的に示す人でもある。
 「インサイダー」の後も煙草を吸い続けているのは、いたずら心もあるのかもしれないが、決してそれだけではなく、「ワイガンドと自分とは別人。なりきり演技をするのとそれとは、まったく別のこと」ということの強い表明と私には見える。ふだんのファッションにかまわないのも、暴飲暴食をして太って見せるのも、「自分の身体は自分のもので、日常を人に見せて楽しんでもらうつもりはまったくないのだ」という意志をことさらにアピールしているように思えてしかたがない。
 演技をしていない時の自分など、彼自身にはどうでもいいので、そういう時の自意識は実に薄い人なのではあるまいか。多分、本当に「そのへんの、にーちゃん」になってしまうのだろうと思う。
 「グラディエーター」のDVDなどで撮影風景を見ていると、カメラが回らなくなったその瞬間に、まるでつきものが落ちたように瞬時に彼の表情が変わってしまうのがわかる。そういう時の、衣装をつけメイクをしたままのインタビューで彼は、他の出演者とちがって、「何がすごいって、全然、マキシマスには見えない」と指摘した人もいた。私もまったく同感である。
     ◇
 この集中力と冷静さは彼独特のもののような気がする。それもこれも、言い方が単純で申し訳ないが、演技が好きで、どんな工夫も苦労もいとわないということに尽きるのだろう。
 彼がどうやって演技を学んできたのか、私は知らない。ハリウッドスターのそれとはちがうし、英国の俳優たちの演技ともちがう。同じオーストラリア出身のヒュー・ジャックマンの演技などを見ていると、同じではないが、どこか共通する柔らかさや暖かさがあり、国の伝統や傾向も幾分はあるのだろうかと思ったりもするのだが、詳しいことはわからない。
 彼の演技は私にとって、いつも魅力的なのだが、うまいのか下手なのかよくわからない。そもそも、演技がうまいといわれる俳優の大半の演技を私は好きではないのだ。魅力を感じたことがなく、感動したこともない。
  乱暴を承知で言うなら、ラッセルがやっていることは、あれは演技ではない気がする。「グラディエーター」が典型だし、多分次の海洋映画でもそうだろうし、負傷して中止になったサーカス映画「フローラ・プロム」でもそうだったのではと思うが、彼はまず肉体そのものをできる限りその人物に近づけ、可能な限りその人に近い行動をすることから、その人物の心境をつかんで、なりきる方法をとるようで、考えようでは、これはかなりの荒業だ。
 「グラディエーター」以来、すぐれた激しい乱闘・戦闘場面を持つ映画が多く作られたが、ラッセルが身体を張って森をかけ抜け、虎の近くを転がり回ったゲルマニアやコロセウムでの戦闘場面に比べると、俳優の肉体が直接に生で使われていないものたりなさが、どの映画にも残ってしまう。しかし、それは他の映画が劣っているというよりも、むしろ「グラディエーター」とラッセルの方が特別であり、異常であり、おかしいのだとさえ言うことができよう。こんなのは、まともなやり方でなく、これが普通になったら俳優はたまるまい。
     ◇
 このような、いわゆる「身体を張る」演技も私はもともと好きではないし、評価しない。だが、ラッセルの場合、そこで終わらないところに恐ろしさがある。彼はその外見、行動の対象への接近を使って、内部でも対象に接近する。もしかしたら、とても残酷で非人間的な監督なら、俳優をそういう極限状態に押し込んで、半狂乱の無意識で名演技をしてしまうのを待つかもしれない。ラッセルはそれを、自分でやっているふしがある。
 強力な意志と激しい豊かな感情、それを統御する冷静な理性がなければ、こんなことはできない。それを支える根本には、演技すること、他の人格を自分の肉体でつくりあげることへの、ただそれだけへの果てしない陶酔がある。だが、それはまた、肉体的に精神的に本人にとってはおそらくは、想像を絶する消耗を生む。だから、演技が終わった、映画が完成した段階では、彼はまったくぬけがらで、燃えかすで、それ以上に私たちに与えるものなど、何も残っていないだろう。
     ◇
 そうやって彼が創り上げたものを、作品というかたちで私たちは受け取る。それは、まちがいなく彼という人間の最高最良の部分の精髄であり、それを観客としてもらっていると思うと、彼の家族も恋人も私はまったく、うらやましいとは思わない。彼が精神を削り肉体をすりへらして、自分の中の最高のものをそそいで創ったものを贈ってくれている相手は私たちなのに、これ以上何を望むのか。あれだけの演技についやした以上の、何か魅力的なものが一人の人間の中にまだ何か残っているかもしれないと期待することは、あまりにも残酷だろう。
 だからこそ私は彼が日常の場で豚のように太ろうが、趣味の悪さの極致である服装をしようが、ひげをはやそうがハンバーガーをかじろうが、いっさい文句を言う気になれない。何でもどうぞしてほしいし、演技をしていない時の彼などは、恋人でも誰でもどこにでも持って行ってくれていい。彼とは比べ物にならないささやかな努力で小さい仕事をしあげた時でも、汚れたふとんにくるまって、顔も洗わず下着も変えずものも食べずにごろごろと寝ている、なかば死んだようなあの時間の快感と幸福を思っただけでも、そのような安らぎを与えてやらないと、とても次の仕事などは期待も要求もできないと思ってしまう。
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 私は「演技すること」だけでなく、その結果としての「人に注目されること」「華やかな生活をすること」などを目的としている俳優がいても、それは少しも悪くないし、また演技以外の俳優の日常や私生活を見たい、楽しみたい、そこでも魅力的でいてほしいと望むファンもまた、いて当然だし、もちろん悪くはないと思っている。
 ただ、どう見てもラッセルはそういう俳優ではない。彼の興味は何よりも演技にあり、そこに最高のものを注ぎ込む彼は、人には当然そこを一番見てもらいたがる。
 同じ質問の繰り返しを彼が「何とかならないのかな」と言っているインタビューもあったし、的外れの質問、つまらない質問はいやがるという話も聞いた。彼にして見れば、あれほどに心血をそそいだ演技と作品を、充分に見もしないで、それに対して発言した自分の言葉をチェックもしないで、生の自分の顔を見、声を聞いたら何かがよりよくわかるだろうと思って近づく人間には、おそらく脱力するのだと思う。身を粉にして作ってさしだしたものを、きっちり見てもくれないで、彼としては最高のものはもう提出してしまったぬけがらのところへやって来る相手を見ると、「ここに来たって何もない」という心境になるのだろう。
 もし、彼の映画をじっくりと見、彼がその演技に注いだと同じ精力と情熱を持って、その演技を観察し、その上で語る相手がインタビューすれば、彼は案外とめどなく語るかもしれない。しかし、そんな要求は忙しい記者や評論家には多分するのは無理だろう。彼に匹敵するような情熱を持って映画鑑賞や批評にうちこめる人間など、めったにいるとは思えない。おまえは自分はそうだと言いたいのではないかと思っている人がいるといけないから言っておくと、私だって絶対無理である。
     ◇
 彼とともに仕事をした仲間が時には批判をこめ、時には賞賛をこめて語るのは、彼が作品の完成に情熱的で妥協をしないということだ。そのような現場の発言の数々は、批判も含めて、私のこのような彼に対するイメージを裏切らない。
 彼の演技への工夫やこだわりは、自分の肉体の酷使というにはとどまらない。たとえば私が驚くのは、多くの優れた俳優たちが、舞台と映画の両立を無造作に語り、追求するのにひきかえ、彼はこの両者を明確に区別し、映画という表現の形態を選んで意識的に追及している、私の知る限り唯一の俳優である。そして、「ビューティフル・マインド」の撮影にあたっては、演劇と同じように時間の経過通りの撮影を監督に提案したという。彼が模索し、挑戦している方法は、斬新で大胆だ。それをハリウッド映画という巨大な資本と観客を使って実験できる喜びに彼は夢中になっているはずだ。
 彼の関心は何よりも、演技にしかない。それに自分をささげることで、人々に最高のものを与えられると彼は信じているし、そのことは多分正しい。そういう俳優を愛してしまったのだ、と、彼のファンなら思うしかないだろう。家族より恋人よりおそらくは演技を愛し、それを見てくれる観客とともにある俳優を愛したことを、幸福と思う方がいいのかもしれない。 
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     ◇
    (4)マスコミの役割

 スポーツ選手なら勝つことが、俳優ならよい演技をすることが、歌手ならよい歌を歌うことが最高の魅力であることは言うまでもない。だから当然、人気を保つためには、その点で成果を上げることが何よりも必要だ。
 ラッセルの「安心して見ていられる」演技の魅力は多くのファンが口にする。私も、これほどまでに映画の封切られる時に、心配しないで画面を見ることのできる俳優はこれまでいなかった。だが、それだけに彼が大変な努力をし、精力を使っていることを忘れてしまいがちにもなる。苦心し、苦闘しているということを感じさせないのが最高の能力の高さを示すと私はいつも思っているが、それは要するに、死ぬほどの努力をしても、それを何でもなくこなしているように思われてしまい、あっさり、するする味わわれて「もっと、もっと」と気軽に要求されるという、苛酷な事態も招きかねない。それは、この上なく名誉なことであるとともに、この上なく悲惨で危険なことでもある。
     ◇
 ラッセルはたしかに膨大な額の出演料をもらう身となり、作品を選べ、一流と言われる人たちと仕事をし、多額の予算を消費する大がかりな映画制作に加わることが今、可能である。先に書いたように、それは彼にとって最高の幸福であろうし、永年の夢の実現でもあるだろう。だが、それだけに、与えられるストレスもまた、比べ物にならぬぐらい高くなっているはずだ。
 一俳優としての参加にとどまらず、脚本や制作の全体に口を出す彼の性向はよく話題になる。そうだとするなら、今彼がそうやって議論し説得し、自分の方針を貫くために戦わなくてはならない相手は、おそらく昔とは比べ物にならない、したたかで、優秀で、確固とした信念と、豊かなキャリアを持つ監督であり、スタッフであり、共演者であり、スポンサーであろう。それに対抗するには、勘も演技も理論も駆け引きも、昔の数倍、いや数十倍、とぎすまさなければならないはずだ。
 このような時、人が何より戦わなくてはならないのは、相手の強情さや反発ではない。自己の内部からひそかにささやきかけてくる「まちがっているのは、おまえではないのか?」という、執拗な不安のささやきだ。またしても、比較にもならないことを言うと、昔、まだ今ほど自分の小説のスタイルが定まっていなかった頃、たとえば「よく書けているような気はするのだが、評判はよくない」部分を削除すべきか残すかは、それこそ身をよじり吐き気を催すほどの迷いと戦うことだった。何ひとつ金が動くわけではなく、人に責任を負うわけでもなく、ただ自分の趣味でひっそりと書いている小説の場合ですら、「どう表現することが正しいのか、よりよいのか」の判断をつけることは、五体がばらばらになるような混乱と不安を生んだ。
 巨額の金をかけ、多数の人の命運をかけ、世界の人の目にふれて、その心を動かす映画を作らなければならない時のプレッシャーは私には想像もできない。だが、ラッセルが携わっているのはそういう仕事なのであり、一人の俳優として以上の役割で彼がそれに関わってしまう人であるとすれば、そこまでしなければ自分自身が納得した仕事をしたと感じられない人であるとすれば、彼の映画作りにかけるエネルギーもパワーも、これからどんどん増大するだろう。慣れるというような、安住するというような仕事を選ぶ人とは思えない。安易な繰り返しということをおそらく最も嫌う、無駄と思う人だろうから。
     ◇
 だとすれば、彼はこれからますます、映画制作そのものに打ち込む。その他の点でファンに、世間にサービスするエネルギーをおそらくどんどん省いて行く。
 だがそれで、彼のファンは満足させられるのだろうか?
 させられる、と彼は思っているだろう。作品で勝負する、できると考えているだろう。たとえ何年、空白があっても、自分の映画が公開されれば古いファンは戻ってくる、新しいファンは生まれると彼は信じていると思う。それができなくなったら俳優をやめ、演技することをやめるべきだと思っているのだと思う。
 だがそれで、ファンは満足するのだろうか?
     ◇
 私は、基本的にはラッセルの考えは正しいだろうと思っている。彼が余分なエネルギーをファンサービスにさくことなく、映画制作に、演技に打ち込み、そうやって作った作品だけをファンにさし出す方法は、基本的には成功する。そうやって作られた作品はおそらく、どんなに離れていたファンも再びひきつけてしまうだろう。ラッセル同様、そのことに私は不安を抱いてない。
     ◇
 ただ、そうは言ってもファンは淋しいだろう。何の世界にもせよ、その人の本来の仕事であるプレイにひかれて集まるファンの中には、あくまでもその人にひかれて集まるファンもいる。そのようなファンにとって、演技であれ作品であれ、そうしたものは、自分にとって魅力ある人を発見し、出会うためのきっかけにすぎず、手段にすぎない。極端に言えば、そういう人間を発見することが大切なのであり、その人を見つけてしまえば、もうその作品はその人そのものほどの価値はなくなる。その人を知り、見つめていることが何より重要で大切なのだ。
 作品も、競技も、映画も、その人と出会え、その人を見ていられるから価値があるので、それ以上のものではない。だから、その人そのものを見ていられれば、それは作品を見るよりずっと本来の目的にかなって喜ばしい。
     ◇
 私自身はまったく、このようなことはない。なぜそうなのか、今は分析する余裕がないが、多分いろんな理由が重なって、まったく、こういう傾向がない。だが、こういうファンはいるだろうし、それが決して悪いのではない。そのようなファンの人たちにとって、ラッセルはどちらかというと都合の悪いタイプの俳優と思うが、だからといって、どうしようもないということでは決してないと思う。不満があってもそれなりに、そのようなファンの人たちとラッセルは認め合えるし、きちんとやって行けると思う。
     ◇
 ただ、マスコミがそこに介在した時にどういうことになるかが読めない。
 いや、むしろ、ある程度読める気がするから不安なのだろう。
 そのようなファンにとっては、対象となる人そのものの私生活や現況に強い興味と関心があるのだから、当然それを知りたがる。私は乱暴に分類しているが、たとえば映画が長いこと公開されず、スクリーンでも「最近の彼」に会えなかったら、たしかにその人が現存している証しとしてでも、現実の彼なりと見たいと願うファンまで含めれば、そういうファンはもっと増える。
 マスコミはそのような要望に敏感だから、とにかくラッセルならラッセルに会い、彼の近況を取材し伝えようとするだろう。
 だがラッセルには、それは自分の映画さえもよく見ていない不勉強な記者が来て、くだらない話で自分の時間をとって行くとしか、おそらくは思えないのではないだろうか。彼の映画などどうでもよく、彼の演技などどうでもよく、ただ彼について何かを知りたいというファンがいることは、彼には理解できないだろう。それは彼を最高に軽蔑し無視することだとさえ思うのかもしれない。だが、このへんは私の推測だ。だから、ラッセル、それはねえ、あんたやっぱり、まちがいなんだよお、と小声でささやく私の声も、あくまで私の幻想で作った彼に呼びかける、私のひとり言である。
     ◇
 彼の私生活、近況を知りたいと思うファンの心理には、さまざまな要素がある。たとえば、ファンが増えてくれば当然そこにはファンどうしのつきあいも生まれ、それもまた大きな魅力の一つである。それを支えるもっとも強い絆と言えば、いうまでもなくラッセルに関する話題で、これがなくなってしまうことは、ファンどうしの交流も疎遠になり、集まりの弱体化を招くのではないかという危惧も、熱心なファンにとっては真剣な問題だろう。彼に関する新鮮な話題が常に提供されることが、集団の活性化、ラッセルの人気の維持につながると感じるファンにとって、これは深刻な問題となる。私は、その意識が完璧に正しいとは思わない。だが、まったくのまちがいとも思わない。そういう要素はあると思うし、それを憂慮するファンの感覚も、よくわかる。
 だが、そのようなファンの心理を後ろ盾にして、ラッセルに取材したマスコミが、思ったほどに私生活を公開してもらえず、私的な情報を与えてもらえない時、「ファンが求めているから」「大衆が知りたがっているから」との理由で、時に取材はエスカレートするし、それに毅然と対抗し拒絶するスポーツ選手や芸能人はしばしば「生意気」「傲慢」のレッテルを張られることになる。
 もし、その選手なり芸能人が実力がなく、あるいはあっても、そうやって「書いてもらう」ことで人気を保ち、マスコミと持ちつ持たれつの関係を保とうという計算があるなら、対立はまだ決定的にはならないだろう。しかし、たとえばラッセルのように、そんなものは必要ない、実力で勝負ができると思っている人間ほど、このようなレッテルは張られやすくなる。
     ◇
 私はスポーツ選手についてはあまり詳しくないが、かつて私の掲示板である人が、サッカーの中田選手や野球のイチロー選手が、自分の目から見るといたましいほど追いつめられて傷ついていたのに、マスコミは彼らを「生意気」「傲慢」と呼び、人々の中にそのイメージが当然のように定着していっていることが不思議でならなかったというような慨嘆をもらしておられたのを記憶する。かつて私は中田選手がインタビュアーが個人的なことを聞いたとき、「それは関係ありますか?ないでしょう?そうですね、ないですね」と回答を拒絶していたのを見た。(「生意気」というニュアンスで紹介されていた映像だった。)彼らがそのような攻撃を受けたのは、おそらく、ファンがほしいと望み、だからマスコミが得ようとする情報を彼らが与えなかったことが大きいだろう。
     ◇
 山口百恵もまた、マスコミに対して毅然とした態度をとりつづけ、実力と人気を武器にそれを貫くのにある程度まで成功した。その彼女にして、引退公演直前の列車の中で、最後の舞台を前にして集中しようとしていた彼女に、しつこく追いすがる記者に向かって、すさまじい形相で「ふざけんじゃねーよ、てめえ」とどなったと報道された。結婚後も彼女へのプライバシーの侵害は続き、子どもの入学式か何かの時、しつこく車にカメラを入れて撮影しようとしたカメラマンを夫がなぐった事件があった。その時彼女自身も「鳥のような鋭く悲痛な叫びをあげながら」、車から飛び出して記者につかみかかったと週刊誌には書かれていた。書いた記者自身、おそらく意識してなかっただろう彼女の絶望と苦痛とを、読んでいて感じて胸が凍った。
     ◇
 ダイアナ妃について私は特に好悪の感情を持たなかった。しかし、彼女がマスコミに追われ、まったく無防備なままで揶揄されつづける報道が何の制限もなく繰り返し続けられるのを見ると慄然とし、この人は何と孤独なのだろうと思わずにはいられなかった。事故死のニュースを聞いた時は「殺された」と直感した。たとえ原因が運転手の酔っぱらい運転でも、彼女をあそこまで追いつめたのはマスコミであり、それを黙殺した社会、容認したファンだったと今でも思っている。
 貴乃花兄弟とその一家への報道についても早い段階で私は、彼らや相撲界ではなく、彼らをめぐるゴシップとその報道のあり方に、文字通りの腐臭を感じる思いがして、もともと決して嫌いでもなかった、このスポーツを見るのもやめた。貴乃花の必死の戦いを知りながらも、どうしてももうあの世界をのぞく気がしなかった。相撲という競技そのものが、あの報道ぶりによって息の根をとめられかけている気がしてならない。だがそれも、もとをただせば、あの兄弟の人気であり、ファンの要望にこたえようとしたマスコミの取材だった。
     ◇
 これらのことはどれも、マスコミが悪い、ファンがいけない、取材される側が問題、などと単純な言い方で言ってしまえる問題ではない。悲劇というのは皆そうだが、誰が悪意があるわけでもなく、こうなってしまうところに、一番の悲劇がある。
 ファンが好きな相手の情報を知りたがることは当然だし、それに応えようとマスコミが努力するのも悪いことではない。それを拒否する「取材を受ける側」があるのもまた、まったくとがめられることではない。だが、それがファンの不満とマスコミの反発をひそかに蓄積し、それを底力として取材攻勢が始まる時、ある段階を越えた時から、もう何が目的かもわからないまま、決してそれがよい結果を招くとはわかっていなくても、もうマスコミはとまらなくなり、ファンもまたいつかその渦中にあって、ひとつの役割をになわされていることにぼんやり気づきながらも、それをどうすることもできない流れが始まるような気がする。そこまでなってしまったら、もう何をどうしても誰にもとめることができないと感じる。
     ◇
 かつて、ある新進作家と著名な女優の逃避行がマスコミの取材攻勢を招いた時、ある週刊誌が「二人の泊まったホテルのシーツにしみがついていないか見てこい」と叫ぶ編集者だかベテラン記者だかの姿を揶揄をこめてではあったが、決して否定的にではなく紹介していた。その編集者か記者だかは、「これがおれの記者魂をかけた仕事だ」のようなことを、まったく真剣に叫んでいた。
 あほらしくって声も出ないと言いたいが、私はパパラッチも含めて取材するマスコミの人々を支えているのは確かにこういう職業意識であり、ある時点を越えると特に、もう対象が何であろうが、結果がどうであろうが、「狩りつくし、とらえつくす」狩猟者としての本能に我を忘れてしまうのだと思う。相手が汚職をした大統領であろうが、人妻と浮気した俳優であろうが、その価値に差はなくなり、ただ猟犬のように追って、かみついて引きずって来なくてはやめられなくなるのだろうと思う。
     ◇
 よくジョークの好きな映画雑誌などに、パパラッチが撮影した俳優たちの、目をおおうばかりに醜い写真がたくさん掲載されていることがある。あのようなものを見て、ファンはもちろんうれしくはないだろうし、たとえその俳優が嫌いな人でも、別に楽しくはないと思う。どういう人を対象として掲載しているのだろうなと時々思うのだが、最近あれは、撮影した人、手に入れた人が、ハンターが鹿の頭を飾り、釣り人が魚拓を飾るように「獲物」として自慢して見せびらかしたいのではないだろうかと思い始めた。むろん、あれを見て喜ぶ人もいるだろうが、それよりも基本的には、撮影した者、収集した者の誇りなのではあるまいかと。パパラッチも金だけではなく、そのような情熱できっと動いているのだと思う。だとしたら、彼ら自身にもその行動は制御できず、相手を滅ぼし、消し去るまではやめようとしてもやめられないのかもしれない。
     ◇
 こうした動きにファンはなぜ、途中で歯止めがかけられないのか。反発をかうのを覚悟で、意地悪な言い方から先にすると、「親しい相手には悪口も言える」という世間でもよくある心理から、仲間どうしで、愛する俳優や選手に対して、厳しい批判や残酷な冗談を平気で公言できることが、一種のステイタスとなり、好きな相手にそれだけ自分が近いということ、熱烈なファンの一員であることの証明となるという要素もたしかに、ないとは言えないと思う。しかし、それだけで、愛する俳優が選手が一つの世界が汚されふみにじられつくして行くのを最後まで見過ごしてしまうというのは、いくら何でもないはずだ。
 私は、ここにはレイプの時、セクハラの時に被害者が陥る心理と同様のものがあると見えてならない。「そんなひどいことは、まだ起こっていない」と思おうとする。「冗談なんだ」と笑ってやりすごそうとする。状況のひどさを認めるのが恐いから、たとえ被害者自身が悲鳴をあげ、凶暴になり、いくつも助けてくれという救助信号を発していても、見逃して黙殺して「何も起こっていない」と思おうとする。
 対応は、人それぞれが考えればいい。断固戦うのもいいし、静かに見守るのも、笑ってやりすごすのも、他にもいろんな方法があるだろう。そのどれが正しいということも、きっとない。ただ、状況を直視し、認めることだけはするべきだと思う。映画「将軍の娘」の訴えていたことではないが、悲惨なことが事実あると認められないことこそが、何にもまさる悲惨なのだ。
     ◇
     ◇
     (5)ささいなあれこれ

 あえて言うほどのことでもないのかもしれないのだが、ラッセルについての記事には、「報道関係者ともめた」でなければ、「高価な買い物をした」という話題がよくとりあげられるような気がする。
 あるいは、外国と日本での報道のニュアンスにずれがあるかもしれないので、こちらの思い過ごし、被害妄想もあるのかもしれないが、これも「成り上がりの田舎者が趣味の悪い高価な買い物をして」というイメージを作ろうとして意識的に選ばれている話題なのではと感じる時がある。
 だから私も自分がバカに見えるのもみっともないのもじゅうじゅう承知で、死ぬほど芸のないことをあらためて言わせてもらうが、たしかに彼の買い物の数々は私たちの日常と比べるとけたちがいだが、そもそも、そんなものを比べても、何がわかるというものではない。
 映画制作自体が、それこそ発展途上国に投資すれば、膨大な数の人間の命をきっと救えるだろう金額を、湯水のごとく一瞬で浪費し、結局はたかが、男と女がくっついたの離れたの、指輪がどうして魔法がどうしてのと、他愛もない話を大真面目に再現するしろものだ。それを「世界には今日のご飯も食べられない貧乏な人もいるのに」と言うような価値観で切ることはしない、できないというのが、大昔から人類がつちかって、伝えてきた叡智である。ラッセルの生きているのは、そういう世界だ。そこで戦い、何かを生み出そうとしている人たちに、私たちの日常の金銭感覚はあてはめるべきではない。
 かつて喜劇俳優の藤山寛美が、巨額の借金がありながら、演技がけちくさく貧乏たらしくなっては役者はおしまいで、皆に夢や力を与えられなくなると言って、派手な暮らしをしつづけていたのは、まったく正しい。そういう華やかな世界の人が感じる重圧、放出しなければならないパワーの量を考えるなら。
 第一、他のハリウッドのスターたちと比べて、彼のしていることは、そんなにとてつもない散財なのだろうか。トム・クルーズやシュワルツネッガー、他の誰でも別にいいが、彼らが奥さんや恋人の誕生日にはすみれの花束だけを贈り、手作りのアップルパイで祝っているとは私には到底思えないのだが。ことさらにラッセルに関するこの手のニュースが選ばれることに、ある意図的な選択を私はやはり感じてしまう。
     ◇
 まあしかし、あるいはそれは、ラッセルが自分のその手の行動を、悪びれず公開しているからなのかもしれない。
 私は、彼に対する、こういった報道のあちこちに、そういうことに注目し報道する人の、感情的に言ってしまうと、ある、いじましい視線を感じる。いやしさと言ってもいい。(区別しにくいことかもしれないが、これはファンが彼のことを知りたがって注目する視線とは、似ているようで絶対にちがう。)
 そして、対照的にラッセルという人には、いつもこういういじましさ、いやしさ、けちくささ、ちっぽけさといったものを、私はまったく感じない。「スポッツウッド・クラブ」「ビューティフル・マインド」などで、彼がそういういじましさ、いやしさを完璧に演じて見せることで、そう言う人物を魅力的にさえ見せてしまったことは、それを思うと驚くべきだ。
 「男らしい」という言葉は、ある種の差別語ではあるだろうし、私もあまり使いたくないが、この言葉が従来表現してきた、男女を問わずに持っているのが好ましい美徳である、一つの姿勢、態度を完璧に彼は体現していると思うことがある。「悪びれない」と言いかえてもいい。
 アカデミー賞のトロフィーを持ち歩いて見せびらかすのも、おそらくは彼自身よくその弱点を知っているだろう映画「プルーフ・オブ・ライフ」を断固として評価しつづけるのも、すべて、とるべき態度を熟知し、自分の立場を知り抜いて、それにふさわしく行動する人のそれである。そこには常に、悪照れがなく、過剰な自意識もない。
     ◇
 きわめて個人的な、たとえば恋愛関係にまで、彼のこの生き方の筋は通っていると私には見える。
 アカデミー賞の授賞式の時、J・フォスターやM・ライアンのくれたものを、いっしょにお守りのように身につけていると無邪気に話しているのに私は驚き、そういう関係を別れた女性と作れる人なのだと思った。
 コートニー・ラブとはそういう関係になれなかったようである。彼女は自分の妊娠した際、「ラッセルの子どもだ」と言い、それを彼は「そうではないと彼女は知っているのだから(二人はホテルの部屋で、話をし、涙を流しあうほど共感したが、セックスはしなかったと言う。私はこの話はかなり自然に信じられるが、まあ、これが仮に真実でなかったとしても、それは特に問題とは思わない)否定してほしい」と思っていたという。結局は彼女も、彼の子でなかったことを認めたのだったと思うが、ラッセルはその噂を彼女が流している間、自分からはあえて否定をしておらず、彼女が真実を言うのを待っている。そして、彼女と友人関係も断ったのは、そのことが原因ではなく、「自分にとって大切な人を彼女が攻撃し、傷つけたから」と明確に理由を述べている。
 大切な人とは、現在婚約しているダニエル・スペンサーのことで、ラッセルは、彼女を傷つけられたらきちんと対応するという基準、方針にしたがって行動していると私には見える。これに限らずラッセルは、自分の行動の規範、何かを決定する基準をいつもきっちり持っており、その根底には強い愛、強い怒りがあるとしても、決定や行動そのものは、非常に冷静で正確な処置として、行っている印象がある。
 この発言をした時、おそらく同時に、彼はコートニーの詩の才能を「すぐれている」と発言しており、これを彼の優しさ、甘さと見る向きもあろうが、とんでもない、私はこの発言に彼という人間の手ごわさ、厳しさ、容赦のなさを痛感させられる。自分を傷つける噂を広められているのに、黙って耐えている勇気と度量、愛する人が攻撃された時には即座に関係を断つ愛情深さと怒りの強さ、まではまだしも、それと同時に、それほどに耐えられない存在であろう相手の詩才を、それはそれとして冷静に評価できる、この冷徹さには身がすくむ。敵に回したくない、機嫌をそこねたくないと、心の底から思ってしまう。
     ◇     
 彼の音楽活動については、語るべき知識も情報も、私はあまりに少ない。しばしばファンの間で話題になる彼の歌唱力の低さについても、判断はできない。
 なぜ彼がバンド活動に多大な情熱を燃やすのかについても、わからない。音楽がもともと非常に好きなのだとも、昔の仲間を大切にしているのだとも考えられるが、それだけの理由であれだけのことをするというのも彼らしくない気もする。
 あるいは彼は、「映画や演技よりもラッセル個人に関心がある」ファンとの交流を、この音楽活動で行うことにしているのかなと思ったりする。前の章で、そういうファンのことを彼は理解できないだろう、侮辱されたと感じるだろうと述べたが、そこでも強調したように、それはあくまで私の推測で、実のところ、そういうファンをまったく理解できずに無視してしまうほど、彼は無邪気でも世間知らずでもない気がする。また、演劇という表現をさしあたり制限しているらしい彼にとっては、生身の人間の生身の自分に対する反応を見る機会というのがなく、その点でもバンドの公演は貴重な場なのかなとも思う。
 彼の歌はだんだん下手になって行っているという話がある。これも私には判断できない。だが、仮にそうだとしても、演技に全力投球することにしている彼は、歌唱力について同じような努力をして力をさこうとはまったく思っていないのではないかと思う。歌がどこまで下手になっても、個人の魅力で客をひきつけられるのか、映画での演技とは反対に、「ただラッセルであればいい」という、とことん自分個人の人間的魅力で、どこまでついてくるファンがいるのか、限界に挑戦し、実験してみている、と思うのは、これは完全に私の妄想だが。
 しかし、明らかにバンドの公演においては完全に「ラッセル個人」を「生で見せる」ファンサービスに彼が徹しているのは推測できる。かつて、あるサイトに紹介された、彼のライブの報告で、ある人は「皆さん、彼はマキシマスの千倍も魅力的ですよ!」と書いておられた。そういうファン、つまり俳優ということに関係なく彼個人を愛する人を意識的に対象として、そういう人に満足してもらうために彼は音楽活動を行っている感じがする。
     ◇
 これは妄想その二だが、先般そのバンド公演がかなり乱暴な方法で中止されたのも、私には、そういうファンに対するラッセルの何かのメッセージだったと思えてしかたがない。さまざまの暴力事件から与えられようとしている印象とは反対に、私はラッセルという人は衝動的に何かをすることはまずない人という印象を持つ。彼の行動には、冷静な判断と確固たる基準があると思えてならない。
 くりかえすが、これは妄想だ。だが、その直後にほとんどファンの神経を逆なでせんばかりのタイミングで出された婚約宣言、「私はダニエル・スペンサーを愛しています」は公演中止と一連の動きをなし、そのようなファンに対する挑戦状としか私には見えなかった。コートニーとの別れの理由が「自分にとって大切な人を傷つけたから」であったことと重ねると、これもそれと同様の、「自分にとって大切な身近な人への攻撃は許さない」という明確な宣言と感じた。
     ◇
 私自身は、ダニエル・スペンサーという女性、つまりラッセルの愛する人は、彼の金と同様に彼の持ち物であり(ダニエルさんにとってはラッセルが彼女の持ち物であるのと同様の意味でだ)、したがって彼の金と同様に彼がどう使おうが私が口を出せる存在ではないと思っている。何か意見を言うにはあまりにも、資料や情報が少なすぎる。隣の奥さんが台所の屋根に真紅の日よけをつけようが、友人が服役中の殺人犯と結婚しようが、何か私にわからない、そうするだけの事情があったのだろうと私は思うし、説明されるまでは聞かないし興味も持たない。私が彼と共有し、あれこれ口出しできるのは、彼の映画と演技だけだ。金遣いや恋人について何か言えるのは、彼の私生活の一部に私が入った時、いや、彼の一番身近な人間に自分がなった時だけだろう。その時までは、どんなに私が彼を愛しても、個人としての彼は、私とちがう遠い世界にいるまったく赤の他人である。
 …と、こんなことを言っている私のようなファンは、だが実はラッセルにとってありがたいかもしれないが、実は(ラッセルにとってはどうか知らないが)味気ない、面白くないファンである。ファンというものの真髄、そのエネルギーとパワーとは、他人とわかっていても彼の私生活に熱中して批評し、彼の恋や行動に一喜一憂し、白昼夢と狂気の一歩手前を自分でも気づかずさまようような人たちの中にある。そのような人たちの熱気にどう対処して、愛情を憎悪に変えずにいられるかが、むしろ最大の課題であり、これをよくなしうる人だけが、本当の偶像として生き残れるのだ。
     ◇
 私はまた乱暴な分類をしてしまっているが、「バンドの公演などで生の彼を味わいたい人」と「映画で彼の演技に酔う人」が重なっている場合も、むろん多い。いや、多分、重なっている方が多い。私のような人間や、その逆に「マキシマスより現実のラッセルが千倍も魅力的」とはっきり言い切れる人の方が少ないだろう。マキシマスにバドにナッシュにめろめろになった上で、だが、現実のラッセルの婚約や乱闘のニュースに心乱されもする人の方が、きっと圧倒的に多いはずだ。
 そういう一人一人の部分も含めた、「現実の彼を見ることを第一の楽しみとする」バンド活動のファンに対して、ラッセルは「自分の大切な人を尊重してくれないなら、それなりの対応をとる」という厳しい態度で臨んだ、とすれば、現在ファンとの間にある種の緊張関係が続いているかに見えるのも当然の結果なのかもしれない。
 あくまで私の妄想である。だが、その上で続けると、ラッセルは常に確信犯だから、この結果も予想しており、その上で自分の要求とファンのそれとの妥協点も、見極めて行動、発言していると思う。彼は冷静であり、すべてのファンを愛していると信じたい。たとえ、彼のその宣言のあとで、ダニエルへの攻撃を彼の関係の掲示板に書き込んだファンについても。私はこの記事を見た時、「何とことの本質をわかっていないことを暴露する、書いた本人にとって恥ずかしい書き込みだろう」と思い、後になって「敵は誰で、どうしたら彼を最も傷つけられるかを正確に知っているという意味では、よくことの本質を理解した書き込みかもしれない」と思い直したのだが。
     ◇
 しつこく繰り返すが、これは妄想である。ラッセルがそのような「自分の愛する相手に対して尊敬と敬意を払ってほしい」ひいては「そうしてくれないならば、個人としてのつきあいは断る」とファンに要求、宣言しているという証拠はどこにもない。だが、彼の行動や発言は、そうとられてもしかたがないところがあり、ただでさえマスコミを敵に回した上にファンまでも敵に回す気か、あんたの辞書には媚を売るとか機嫌をとるとか愛想を言うとか、孤立したら恐いとか、烏合の衆をあなどってると窮鼠猫を噛むってこともあるんだぞとか、そういう言葉はいっさい削除されているのかと、これまた私の空想で作った彼に向かって、ため息つきつつ説教したい誘惑に最近私はかられがちである。
 こんなに恐れを知らないで大胆果敢な態度がとれるのは、そういう風に生きていたら、結局のところ愛されたい人には愛されたという体験が、目に見えぬ自信となって彼を支えているのかもしれない。マスコミは、どうやら彼を嫌っており、彼の悪口を書きたくてたまらなくていると見えるのだが、そのマスコミにして、彼のかつての恋人の女性たち、共演者、身近な人たちから、彼の人格を攻撃、批判するようなことばをまったく引き出せていない。リチャード・ハリス、ホアキン・フェニックス、ガイ・ピアースらはいずれもラッセルに対し好意的な発言しかしていない。「L.A.コンフィデンシャル」の公開時には明らかに楽しいジョークとして紹介されていたピアースの発言が、まったく同じまま、二人の不仲を表すような書き方で最近紹介されたりするのを見ても、この手の発言をいかにマスコミがほしがっているか、そして手に入らないかがよくわかる。
 彼はおそらく、愛されたいと望む人たち、大切な身近な人たちからは深く愛されているのだろう。だから、自分にとって好まないかたちでの愛には、うまいものを食いなれた猫が安物の缶詰にまったく目もくれないように、魅力を感じず興味がなく、欲しがらないし、失うことを恐れないのかもしれない。
     ◇
     ◇
    (6)時代のシンボル

 ここまで書いておいて何を言うかと言われそうだが、これまで書いたことだけだったら、私はこの文章は書かなかった。他にも気づいている人はいるだろうし、ラッセル本人も多分わかっているだろうし、だから自分で何とかするだろうと思った。
 けれど、今から書くことについては、多分誰も、ラッセル自身もほとんど気づいていないのではないかと思う。その分、私の思い過ごしという可能性も高いわけだが、実は私はこれまで書いたことに比べて、これから書くことについては、けっこう確信があり、だから相当心配している。
 だが、歯切れの悪い言い方や、思わせぶりな顔つきはやめて、さっさと本題に入ることにしよう。私の思い違いだったら、それはそれでありがたいことだから。
     ◇
 マスコミが彼に、最初からことさらに乱暴者、無神経、不作法、といったイメージを与えようとしつづけた理由について、私は最初に、彼のアメリカとハリウッドに同化しない姿勢を「野卑な田舎者」として理解しようとするところに原因があったのでは、と述べた。
 だが、それだけではない気もしている。
 「この映画がすごい!」という雑誌は最近ではどうやら本気でラッセルを嫌っているようだが、最初の頃、「性獣」などと名づけて彼の女性関係を露骨な筆致で書きたてていた時には、反感や嫌悪とは明らかにちがった、無邪気なあこがれとやっかみがあって、それが私を笑わせていた。男性たちが、たくましい肉体や性器を有する同性や、女を次々レイプまがいの荒々しさで征服して行く同性に対して「おれたちには、とてもできない」「あいつの真似はとても無理だ」「でも、おれたちにやれないことを、かわりにどんどんやってくれ」と嘆賞し、願望している視線がどこかにあって、それは悪意や軽蔑と紙一重の尊敬と応援だった。
 この傾向は日本のマスコミの方がはっきりしていた気がするが、外国の場合も絶対にあったと思う。人々は、いろいろな思惑の違いはあったにしても、どうやらかなり一致して、「もはやこの世には死に絶えたかと思っていた、男らしい、むきむきムンムンのマッチョな野生児」の面影を彼に求め、そのような男として彼を偶像化したふしがある。
 まあ、ラッセルも悪いのだ。歯に衣着せぬ発言、独自の生き方を崩さぬ姿勢、人に媚びない堂々とした態度、天衣無縫な大らかさ、そしてあの肉体。これだけそろえば誰だって、そんなイメージをかぶせたくなるだろう。
     ◇
 だが、ラッセルのせいだけではない。それは時代の要請だった。
 何かと不愉快なことの多い現代、それでも私が救われて未来に希望をつなげるのは、障害者、同性愛者、そして女性などに対する人権が、過去に比べて確実に、格段に認められるようになってきていることである。古代奴隷制、中世封建制に歴史が逆戻りしないと同じくらいの確率で、もう、この成果が逆行してもとに戻ることはそうそうはあるまいという安心感が心のどこかに、いつもあった。
 最近それが、ちょっと甘い考えだったかな、と思うことがある。何事も遅れて起こる地方の公務員の世界、つまり私の周囲では、まだフェミニズムもジェンダーも相当に健在で上げ潮だが、アメリカなどでは、そろそろ逆風、バックラッシュが強いと聞く。
 とりわけ、男女の性行為という微妙で個人的な部分では、この問題はまだまだ充分に整理されてはいない。この部分にバックラッシュが襲いかかれば、ひとたまりもないかなという気さえする。
     ◇
 このことは、売春は悪ではないのではないかといった議論が、ここ十年ばかりの間に多彩に展開されているのでもわかる。それとも関連して、男女の性行為とは基本的には男性からのレイプでしかありえない、というニュアンスの話も多くなっている。
 岸田秀氏は「ものぐさ性愛論」の中で、「女性の権利が強くなり、男女同権が完全に進めば、男性の性欲は減退し不能者が増加し、人類は滅亡するのでは」という(そこまでは言っておられないが、そこまで行きそうな)危惧を、くりかえし表明されている。またキム・ワンソプ氏も「娼婦論」の中で、あらゆる女性は娼婦であり、男性は基本的には強姦でないと興奮も快感も得られないのではないかと、かなり明確に書いておられる。
 どちらの方も、基本的にはまじめに真剣な実感として、こう感じておられるようだ。また、これは特に新しい見解でもなく、かつてはむしろ自然な常識として巷に存在していた気がする。だが、フェミニズムの台頭の中で、いわば鳴りをひそめていた見解であり、それがこうして、またあらためて語られ始めているところが、なるほどバックラッシュというものかもしれない。
     ◇
 私のこの文章の目的は、そのことを論じることではないから、簡単に書くが、私は自分自身の体験と実感、周囲の男性たちの態度や発言その他もろもろから見て、現代はもちろん昔でさえも、「(男性からの)レイプでなければ興奮しない」男女は、当然存在するだろうし、人に迷惑をかけない限り、それが悪いということも少しもないが、そんな傾向の人が多数ということは決してなく、ましてや本質などではないと考えている。
 ただ、岸田氏のような危惧が生まれる背景には、女性が強くなったことにともなって、男性が優しくなり弱くなり、そのことが父親不在、マザコン男、自立できない若者といった歓迎できない現象とつながっている、という世間の印象がある。
 果たしてほんとにそうなのか、また、その現象は歓迎できないものなのか、ということはもっと検討されなくてはならない。私自身は、そういう現象の困った面は、女性が強くなったことだけが原因だとは思えない。管理教育、環境破壊、他にもいろんな原因があるだろう。こういったことの相関性や影響関係はもっと綿密に考えないと、まちがう。
 とは言え、やはり世間の男女関係、女性のあり方は、この何十年間に大きく変わったものの一つだ。世界全体が「女性化」しているという多くの人たちが感じる実感は多分、正しいと私も思う。それがさまざまな困った現象を生んでいると人々が感じているのにも、全面的にではないが、賛成する。
 そして、この問題は現在、大変微妙で、過渡期で、流動的で、どんな方向にどう動くのか、予断を許さぬ状況にある。たとえば、美少女レイプもののアニメがビデオその他で大量に生産消費されている一方で、男性どうしの同性愛、少年愛を描く小説が明らかに女性や少女たちの嗜好として、ついに一般の書店の棚に出現するようになったという、この状況だけをとってみても、私には、男女の性愛の嗜好、それを支配しようとする図式化や傾向に関しては、現代は史上まれに見る戦闘、混戦状態であり、一瞬先も読めないほどの激動の時期だと感じる。
     ◇
 ラッセル・クロウという俳優は、まさにそこに登場した。女性化の時代の行き詰まり、男性優位の文化の巻き返し、を予感し察知し、時代の要請や流行の動向に敏感なマスコミが彼に飛びつき、忘れられていた荒々しい支配的な男性像として祭り上げようとしたのは、いささかそそっかっしかったとはいえ、当然の、自然な流れだったと言ってよい。
 だが、彼のファンなら、おそらく彼が、そんな偶像にはかなり不向きなことを知っている。
 ラッセルのファンサイトを見ていて、ひとつ気がつく現象は、「こんなタイプの男性はこれまで決して好きではなかった」「筋骨たくましい男(ひげの似合う男、髪の短い男、男っぽい男)を自分が好きになるなんて、今もまだ信じられない」「これまではずっと、線の細い美少年タイプが好みだったのに」と告白するファンが多いことだ。そうでない人がとっさに思い出せないほど、彼のファンには、「もともとは、繊細なひよわな感じの男性が好きだった」という人が多い。私自身もそうで、小柄、女性的、ほっそり、植物的、といった男性が好みだった。強い男や戦う男に魅力など、感じ方さえわからなかった。
 ラッセルの昔の写真を見れば、彼も繊細なほっそりした美少年ですよ、と言う人もいるだろうが、その面影がどこかにただよっているだけで、こんな現象を生むとは思えない。たとえ外見はたくましかろうが、野獣のようで男臭かろうが、彼にはどこか、そういうタイプは絶対に好みでなかった人たちをひきつけてしまう力があるのだ。
     ◇
 このことに注目されるのが彼にとってプラスかマイナスかよくわからないので、あまり強調したくないのだが、かつて「受け身の愛」(「板坂耀子研究室」サイトの「じゅうばこコーナー」に収録)という文章で私が指摘したように、ラッセルという俳優は、女性からのレイプに近いかたちで行われる性行為を、何の異常さも不自然さも感じさせないまま、男らしく清潔に色っぽく演じてしまうという点で、おそらく他のどんな俳優の追随も許さない。相手との深い愛を感じさせながら、なおかつ凌辱され侵略されていく演技をベッドシーンの段階でも、正確に納得できるリアルな演技できちんと見せる。「クイック&デッド」しかり、「ヘヴンズ・バーニング」しかり。だからこそ「ビューティフル・マインド」で、女性から性行為を迫られながら応えられない場面を、滑稽とか悲哀とかさえも感じさせない格調と静かさで演じきった。「アメリカン・ビューティー」でケビン・スペイシーが演じた自慰行為の演技(私は彼も好きな俳優で、この演技も嫌いではないが)の持つ、暗く騒がしい、突き放した冷たい笑いのただよう演技とはちがった、どこまでもあたたかな、しなやかさ。これは彼の演技すべてにただようが、特に性行為、それも「受け身の愛」では一段とはっきりする。
 マキシマスにしても、かつてあるファンの方と私が話し合い、その方が整理して下さったことがあるが、常に他人から呼びとめられ、迫られ、勧誘され、説得されているという、ヒーローにしては珍しいほど、その生きる姿勢において徹底的に受け身であり、精神的に象徴的に、攻撃、侵犯、強姦されつづけている存在だ。
 この映画の製作の過程で、ルッシラが牢獄にいるマキシマスに迫って関係を結ぶという場面が計画され、ラッセルは「マキシマスのイメージに合わない」と拒絶したという。その選択は正しかったと思うし、ラッセルが決して、このような設定の場面を特に好きなのでも得意なのでもなく、必要がある時は全力こめて最高の演技をしているだけということも察せられる。しかし、そんなアイディアが持ち上がるというのも、あるいはマキシマスの性格やラッセルのそのような場面での演技の巧みさから連想されたのだったかもしれない。
     ◇
 ラッセルのこのような魅力、能力はもちろん、彼が演技にかける情熱から導き出されているのだろうが、やはりそこにはまた、彼の生き方、考え方も含めた全人格が他の演技と同様に反映しているだろう。そういう点も含めて、彼の行動、発言、日常のひとつひとつは、いかに「男らしい」と従来言われるものであっても、それは決して男女同権ともフェミニズムとも抵触しないし矛盾しない。「女が強くなった社会では、男性は不能になり性欲も失うのでは」云々といった、岸田氏の危惧への、とてもわかりやすい答えがここにあるとさえ見える。男性らしさと呼ばれるものと、女性らしさと呼ばれるものが、無理なく自然に共存し発展できる豊かな可能性のひとつの姿を明らかにラッセルという人間と、その生き方は示している。自然に、何の無理もなく。
 彼が酒場でけんかした時、武術家の女性に組み伏せられたとのニュースがあった。この手の暴力事件については根も葉もない作り話も多いそうなので、どうだかわからないが、仮に本当だったとして、この事件を報道するマスコミの筆致には、どうやって彼を揶揄したらいいのかつかめないといったような、あるとまどいが感じられた。それは彼に対してマスコミが与えようと思っていたイメージでは、明らかに解釈しにくい事件だったのだと思う。女性だから抵抗しなかったのか、本当にかなわなかったのか、いずれにしても彼は「女性に組み伏せられ、おとなしくさせられた」ことで、自分の何かが傷ついたとはまったく感じない男と思う。そして、彼に男性社会の象徴というイメージを与えたがっている人たちに、それはまったく理解できないことなのではないかと思う。
 女を守る、庇護する、愛すると言いながら、その実、女性への根強い恐怖、対抗意識、違和感、嫌悪感を抱いている男性は決して少なくない。女性を守ると公言し、男性の役割を強調する人の中に、むしろそういう人が多い気がする。ラッセルのすべてにわたって私はまったく、そのような、女性への敵意や憎悪を感じない。彼はきわめて男性的でありながら、同時に自分自身の中に、女性的なものを豊かに自然にたたえている。
     ◇
 それもまた、彼のファンならおそらく誰もが、漠然とだが感じていることだろうから、わざわざ私が言うまでもない。だが、私が今、何よりも恐れているのは、さまざまな理由から女性(他者としての女性も、自分の内なる女性的なものも)を憎み、さげすみ、それが力を持つことを恐れ、それに対抗する手段として、武器として、ラッセルを偶像化しようとした人たちが、このことに気づいた時、ラッセルのそのような優しい豊かな女性的なものを激しく憎むのではないかということだ。それはいったん、自分たちの偶像としてかつぎあげようと思った対象であっただけに「だまされた」「裏切られた」という恨みをこめて、すさまじいものになるだろう予感がする。現在のマスコミの彼に対する敵意の底には、どこかにこの怨念が横たわっているように思えてならない。ラッセル自身はこのことに、どれだけ気づいているのだろう?
     ◇
     ◇
   (7)過程と現状

 マスコミ関係者の多くは、「グラディエーター」で初めてラッセルという俳優に注目しただろう。映画関係者ならその前に見た「L.A.コンフィデンシャル」と「インサイダー」の彼を知っていただろう。それらの映画、そして彼自身のインタビューや私生活から受ける印象は、「いまどき珍しい男性的で野性的な田舎者」であり、くりかえすが、それは彼のアメリカやハリウッドに同化しない姿勢を納得、容認するするためにも、女性化したと言われる時代に新風を吹き込み、男性社会を復権させるためにも、好都合で必要な人物像だった。以後マスコミはラッセルのすべての発言、行動を、このイメージにあてはめるように操作しようとしてきたと言っても決して過言ではない。
 だが、ラッセルの荒々しさやたくましさと何の不自然さもなく共存している、聡明さや繊細さ、女性らしさがいつもそれを困難にした。
     ◇
 「この映画がすごい!」は表現の露骨さや大胆なジョークを売り物にするだけに、わかりやすいので例にあげる。この雑誌には、有名な俳優の処女作の映画をとりあげて笑いものにするコーナーがあり、それはまあ、なかなか楽しい。ラッセルの処女作は「アンボンで何が裁かれたか」なのだが、記者が困って怒っているのがありありわかって、私は書店で立ち読みしながら抱腹絶倒しそうになって苦しかった。私は実はこの映画は未見なのだが、その時の紹介でも、「文部省が戦争記念日に上映しそうな暗い重い大まじめな映画」で、「もうオーストラリアに行ってもカンガルーを見ても日本の戦争責任を感じて落ち込んでしまうしかないような映画」で、しかもラッセルはそんな戦争犯罪を犯した憎むべき日本人に、「イエロー何とか!」とかいろいろどなるか、ぶんなぐるか、早くしろっと思って見ていても、黙ってまじめにおとなしくタイプ打ってるだけ…と、記者はののしっていた(記憶で書いてるので、言葉は正確ではないが、ほぼこの通りだったと思う)。もう、やけとしか思えなかった。そして、多分しかたがないから、「クロッシング」を同時にとりあげて、おちょくっていたが、それでも不完全燃焼なのがはっきりわかった。
     ◇
 このコーナーは、笑いものにすると言っても、むろん愛情をこめてそうするのであり、その笑うポイントというのは、「演技が下手」「バカな映画に出ている」の二点である。ところが、「アンボン」にしろ「クロッシング」にしろ、ラッセルはその最初から演技の質はうなるほど高く、映画もまじめで良心的で完成度も高い。
 ついでに言うと、こけたと言われがちな「逃走遊戯」「ヘヴンズ・バーニング」「ラフ・マジック」あたりにしても、決定的な駄作ではなく、ラッセルの演技そのものもまったく破綻してはいない。ラッセルという俳優の高い能力、あるいはひとつの強い特徴を私が感じるのはそこで、この俳優ははまった役では万人を屈服させる完璧な演技をすると同時に、うまく行かない、完成度がいまひとつの映画でも、めためたにこけずに絶対何とかもちこたえる。そして、そういう映画でも確実に、その映画だけで魅了されるファンを生み出し、獲得する。私は「プルーフ・オブ・ライフ」は映画にも彼にもさほど魅力を感じなくて、あれでファンになる人がいるというのが信じられないのだが、そういう人は事実相当多い。また「ヘブンズ」は失敗作と大抵の人が言い、見るのも語るのも苦痛という人さえも彼のファンの中にはいるが、私はこの映画での彼は大好きで、映画そのものの奇妙な味わいも捨てがたいと感じている。
 成功と失敗の落差が大きい芸術家がかならずしも偉大でないとは限らない。しかし、少なくともプロの大きな条件は、すばらしい成功もおさめられると同時に、うまくいかなかった時に、どこまで耐えて、ごまかして、ぎりぎりの成果はあげる努力を続けられるかということだ。ラッセルは完璧主義者と言われるし、事実そうだが、完璧でなかったら投げてしまう完璧主義者ではない。私はむしろ、この粘り強さ、そしてそれが、やみくもな自己満足、自己陶酔の、実りない精神主義の努力ではなく、冷静な計算に裏打ちされて、きちんと成果をあげる結果となっているところに、ラッセルという人の賢さ、謙虚さ、底力をまざまざと見る。
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 話がそれた。要するに、意地悪な記者やファンが、昔の映画で笑いものにしようとしても、ラッセルにはそのすきがないのだ。デビュー当時から、大物になるのを予定してでもいるかのような映画を選び、演技をしている。そういう人だから大物になったとも言えるだろうが。
 すごい、と感服し、ひかれる人も心理もあろうが、その一方で、かわいげがない、面白くない、と感じる人や心理もあるだろう。とりわけ、彼を「バカなマッチョの田舎者」の線でとらえて売り出したいと思っていた人たちの違和感や失望感や不完全燃焼感は蓄積されていくはずだ。「何でそこでおとなしくタイプ打ってる!?なぐれ!ののしれ!四文字熟語を連発しろ!」と「アンボン」の映画を見ながら叫んだ記者の心理は、ジョークも誇張もあるだろうが、ひとつの心理を正確に正直に言い表していると思う。ラッセルが野卑で、愚かで、好色で、無知で、暴力的であってほしいと願う人たちが、この世には(男女を問わず)存在する。それは決して悪意ではない。期待なのだ。そういう男に、いてほしいという。自分や、自分の相手の男が、世間や女性に対して、できないことをしてほしいという。
 そう望むこと自体はもちろん悪いことではない。ラッセルにそういう男と重なる部分がないわけでもない。四文字熟語も使うだろうし、身だしなみには無頓着だし、酔っ払うし暴れるし、男女を問わず人間が好きでべたべた甘える。だが、一方で彼は非常に理性的だし、女性についての感覚は古典的な古さと前衛的なまでの新しさが同居していて、決してとおりいっぺんの規範にははまらない。
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 彼の行動や嗜好の特色を一言で言えばそれだろう。仕事の上でも人間関係でも自分の肉体と精神に関してでも、強い自信を持っているから、決して時代や伝統の規範にとらわれない。それが、自分たちに理解できる程度の常識や通念の型にはめて、彼を理解しようとする人との間に、しばしば激しい軋轢を起こし、誤解を生む。
 彼の男女に関する感覚で言うなら、あまりに資料が少ないので断定どころか推測さえするのが実ははばかられるが、あるいはオーストラリアの文化や風土の伝統もあるのかと思ったりする。実は私が若いころ、男女の関係について、仕事や性の実際の上で理想的なイメージをなかなか作れないでいた時、非常に参考になり救われもしたのが、オーストラリアの元海軍の軍人だったバートラム・チャンドラーという作家の書いた「銀河辺境シリーズ」というSF小説のシリーズだった。今思えば、どこかラッセルを思わせるジョン・グライムズというのんきで陽気で賢いが、行く先々で騒動を起こす士官が主人公だった。異星人はおろか、動物とでもロボットとでもいつの間にかベッドインしてしまう艶福家でもあったのだが、だから、というより、そのわけは、というべきか、非常に色っぽい場面の多いシリーズでもあったのだが、それがまったくレイプ的な描写や要素をともなわず、日常の仕事においてもまったく男女は差別されず、また決して女性を美化してもいなかった。何よりもそのすべてが、おそらく作者はまるで意識もしていないほど自然にのびのび描かれていた。
 このシリーズは、当時の若い、そして今ではおそらく日本のSF界を背負っているだろう作家たちに一定の影響を与えたはずで、そのことを私は本当に感謝し、救いに思っている。それより先に、私個人の精神を、この小説の男女関係、性関係の描写や設定は、どれだけいやしてくれたことか。そこで私が感じた大らかさ、無邪気さ、人なつこさ、自然さは、あまりにもラッセルから感じるそれに似ている。
 もしも、あの作品とラッセルを生み出したものが、あの国の歴史と風土であるのなら、それはそう簡単には彼の中から消えまいが、それはそれだけ、そういったものを憎む人たちから彼が攻撃を受ける理由にもなるだろう。
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 マスコミはもともと、書くネタがなかったら、取材相手を刺激しつづけ、つきまとい、いらだたせ、そこで相手が耐えかねて反応する、その行動をニュースにしようとするものだ。それでも相手が挑発にのらなかったら、今度は勝手に記事を作る。ラッセルについても、そのようなことが既に起こっているのだと思うが、その実態は知ることができない。 彼が暴力的だ、好色だ、物欲にも性欲にも、発言にも行動にもすべてにおいて自制心がない、というイメージは、くりかえしくりかえしメディアを通じて与えられ続けている。「酔ってフィアンセを殴った」などという話さえ現在発売中の雑誌には書かれており、もはや危険な状況にまで、彼についてのマスコミの報道は暴走しはじめていると私は感じる。
 まったくささいなことではあるが、先般、ある雑誌で男優の下半身の映像、画像についての特集が行われた(私は、こういう企画自体は別に全然、嫌いではないから、きちんと熱心に見た)。ラッセルのファンがこれでまず思い出すのは、「バーチュオ・シティ」の悪の権化のアンドロイドと「ハマー・アウト」の繊細な牧童の青年の、どちらも全裸場面である。後者は最近DVDが出たばかりで、どちらかと言えばこちらの方が目に入りやすい。だが、紹介されたのは、前者で、またしてもいつもの「野獣降臨!」という書き方だった。私はこのアンドロイドも好きなので、そちらが紹介されたのに別に不満は持たないし、担当者は後者を知らなかった可能性もむろんある。だが、おそらく知っていてもこうしたのではないかと私は忖度してしまうのだ。そういう、すべての細かい点においてまで、いわばみじんのすきもなく、彼の繊細さ、優しさ、賢さ、みずみずしさは抹消され、がさつさ、無神経さ、乱暴さ、思慮のなさが強調され、読む人の頭に刷り込まれて行く操作が明らかに行われている。どうかすると、私たちファンさえも、すでにかなりその影響をうけてしまっているのではないのだろうか。
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 だが、また少し、話を戻そう。
 マスコミがラッセルの次作「プルーフ・オブ・ライフ」に期待したのは、映画そのものではなく、そこに相手役のメグ・ライアンと彼との不倫関係がどのように演技として反映されているかだった。あの映画を、そういう、まるでアダルトポルノを見るような舌なめずりで期待していたマスコミの気分を、私は今思い出しても、おぞましく、不快でならない。そして、映画自体の出来には不満が残ったが、そのような不潔な空想をまったくマスコミが語ることができず、あの映画をそういう点でさかなにすることができなかったのは、ラッセルがあの映画と演技にかけた冷徹なまでの計算と覚悟のせいだったと今も思っている。そうやって彼は自分の愛する相手と、自分の愛を守ったのだと思えてならない。
 マスコミはまたここで、彼の演技に圧倒され、そのすきのなさにつけこめず、彼の私生活と結びつけて彼の作品をえじきにすることに失敗した。ラッセルは演技で彼らを黙らせたのだ。しかも映画はそれなりのヒットをし、大失敗はしなかった。(なお、この映画はラッセル演じる人質交渉人が、プロとしてのきっちりした関わり方をするのが、むしろ魅力の中心なのに、予告編では被害者の人妻に「おれのやりかたについてくるか、ハードだぞ」と「女に否応言わせない男」のイメージが不自然に強調され、映画のトーンもラッセルの演技もぼやけさせ、ゆがめる予告編となっている。これもまた、彼のそういう「強引な男」の魅力を過度に強調しようとする意識から起こったまちがいだ。ラッセル演じるテリーという男は、決して不必要に相手を自分の支配下におこうとするようなバカな人間ではないのに。)
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 次の「ビューティフル・マインド」もまた、もちろん「ラッセルは野獣」というイメージを定着させたい人たちにとっては困った映画だったろう。もともと、俳優なら誰でも望むように、ラッセルはあらゆる役柄に挑戦し、イメージを固定化させないし、それを可能にする演技力を持っている。
 それは「インサイダー」の演技ですでに十二分に示されていた。だが、「野獣」のイメージが強調されて行く中で、そのことは黙殺され忘れられており、彼が天才数学者の演技に成功し、みたびアカデミー賞の候補にまでなった時、マスコミが感じたのはむしろ不快な当惑ではなかったかと私は思っている。
 それが彼のアカデミー賞受賞をさまたげたとまでは、いくら何でも私は言わない。そこまで言うなら、ついでに「グラディエーター」の受賞までが、「強い男」を待ち望む社会や国家やマスコミの要望に後押しされたとまでも言わなくてはならないだろう。どちらにしろ私は、賞というものはその程度のものと思っているから、それはそれでよい。
 ただ、ラッセルの「インサイダー」「ビューティフル・マインド」で見せたすぐれた演技力、そのかげにあった彼の血のにじむような努力は、充分に語られることなく忘れられて行っているように見える。できればマスコミは彼の演技をくさして、「天才数学者の演技なんて、あの『野獣』には無理だったのさ。とっととコロセウムに戻れよ」と言いたかったのだと思う。だがこれまたラッセルの演技は、せいぜい「腕の太さが不自然」などという、言ってる方がなさけなくならないかい、と言いたいような批判しか出ないほど、多くの人を納得させ、感動させるものだった。
 その感動を見た人と共有し、増幅する言葉をマスコミは語らない。もっともこれは、ラッセルに対してだけではないのかもしれない。最近の映画雑誌を見ていると、俳優の演技や映画の出来についての記事がほとんどない。ただの紹介、何かの受け売り、短い勝手な感想、あとは俳優へのインタビューとゴシップ。だから、この点だけでは、ラッセルが不当に扱われているとは言えないかもしれない。
 そして、結局は、惰性のようにくりかえされる「ラッセルは乱暴、無神経、だらしない」の記事だけが残る。そういうイメージができあがっているということでは、彼は記事が書きやすい俳優であり、逆にこれを否定するような記事を書くのには勇気がいる図式さえ、記者たちの間にはもうできあがっているのかもしれない。
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    (8)苦しい予感

 ラッセルが絶対の自信があるのは、何を言われようと、作品が公開されれば、それを見た人は感動させられる、という確信だろう。事実、これまではそうなってきている。これからもそうであると信じたいし、祈りたい。
 私がそれでも不安なのは、男女の性のあり方をめぐる現在の状況の不安定さと激動ぶりの中で、ラッセルがおかれている位置、果す役割をめぐっての動きである。
 マスコミはしばしば、愛したものに裏切られたと感じたときに、信じられないほどなりふりかまわぬ感情的な牙をむく。私は山口百恵が好きだったので、彼女のことが印象に残っているのだが、ある著名な週刊誌が、ある時期から彼女を激しく攻撃しはじめ、自伝の「蒼い時」を「作文集」などとどう見ても感情的な悪口で批判していたことがあった。それまではむしろ彼女に好意的な週刊誌であり、何も知らない私でも「何か彼女に裏切られ、捨てられたと感じた記者が書いているな」と察することができた。
 これも余談だが、彼女の引退直前のインタビューで堺正章が「女の幸福は結婚ですよね」と水を何度も向けるのに対し「私はそうだが、人によってそれはちがう、いちがいに言えない」とくりかえして譲らなかった彼女に、堺が最後に「引退したからには二度と戻って来ないで下さい」と強い口調で明らかに腹いせで言ったのも忘れられない。あら、と軽く驚いたように静かに笑った彼女を見て、「もう、こんな状況だったら、こんな心境の時だったら、『それが女にとって幸福』とあなたが言っても私は許す。嫌いにはならない」と弱気にあきらめかけていた私は、何と激しく彼女を愛したことだったろう。何とすぐれた芸能人を失おうとしているのだろうとあらためて痛感したことだったろう。
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 マスコミの思うように制御できない、望んだ枠にはまろうとしない人間に対する、その人間がそもそもどんな思いから信念から、そうしないかさえ、まったく理解できない人たちの攻撃は執拗で強引だ。時には、そのような人間を愛するファンまでが、それと気づかずマスコミに協力する役割を負わされてしまう。そんな時、その人間は孤立し、人が自分に押しつけてくるイメージと実際の自分とのギャップに混乱し、悩む。
 マリリン・モンローについて私はほとんど知らない。彼女の最後についても他殺説まであるとのことで、何が彼女を自殺か事故死か、あのような悲劇的な突然の死にいたらしめたのかもわからない。
 だが、ひとつ言えるのは、ある時代が要求するある種のセックス・シンボルとして期待され、それが本来の自分と重なる部分が多いものの、決定的にちがう部分もあるにもかかわらず、それを認めてもらえずに虚像が一人歩きして行くときに、当人が感じる絶望と苦しみの大きさは想像もできない、ということだ。その点でラッセルと彼女とがどこかで重なる気がしてならない。
 私がそう思う一番苦しい原因は、モンローについて人が語るときに、しばしば口にされる彼女の「無邪気さ、無垢さ、いちずさ、無防備さ」である。
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 すべてが私の思い過ごし、杞憂であればいいと思う。推測に推測を重ねた部分が多く、証拠と言っても何もない。反論されても弁明はおそらく、できまい。ただ、このような可能性もありはしないかということで、心のどこかにとめておいていただけたらと思っている。
 書けなかったこともまだ多い。たとえば、ゲイの人たちのラッセルへの好意や反感についても、ここではまだ分析できなかった。その人たちの傾向を一つにまとめて論じることがそもそも無理だろうけれど、そのような人たちが、ラッセルの中の女性的な部分(この定義自体もいささか乱暴すぎるのだが)にどのように反応するのかということの検討は、もう、今の私の能力を超える。、
 彼のために何をしたらいいのか、何をしないでいたらいいのかということも私にはわからない。ラッセルのファンは、彼に似ている気がする。皆、聡明で、センスがよく、開放的で、大らかだ。彼の悪口を聞いても怒らず、自分たちもいっしょになって笑いとばそうとする人が多い。その心の余裕は私も失いたくない。どうやったらそれを、マスコミに利用されず、彼を傷つけずにやれるかは、めいめいが判断する他ないのではないかと思う。自分がどれだけ彼を愛し、どのように愛しているのかも、基本的にはその人にしかわからない、他人が判断、評価しようはないことだ。
 彼を傷つけるネタに困ったマスコミが、ファンサイトまでのぞきに来て、私のこの文章や他の書いたものを題材にして、「ラッセル・クロウに狂った妄想家の老女の世迷言」と笑いものにする可能性も、まさかとは思いつつ一応は考えた。自分がそう言われるのはともかく、そんなおかしなファンがいるとラッセルまでがはずかしめられるのは避けたいという思いもあった。しかし、たとえ反感や憫笑しか生まなくても、それでも何かは読んだ人の印象に残るだろうと判断した。
 逆にもし、この文章が何かの役にたつのなら、どんなかたちでもいいから、どうか利用していただきたい。
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    (9)要約すると
 長すぎる、ややこしすぎる、との声もあると思うので、最後にもう一度、まとめておく。
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 ラッセル・クロウについて、乱暴者、傲慢、といった悪口が最近ひどくなっているのは、いくつかの原因がある。
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 ひとつは、彼がアメリカやハリウッドに同化せず、独自の生き方を崩さないのを納得し容認しようと思ったら、「無知で素朴な田舎者」と笑いものにしておくのが一番好都合だからである。
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 ひとつには、彼が自分の演技を中心とした作品の制作に全力投球し、ファンが求め、それゆえにマスコミが欲しがる、作品以外の情報の公開にはあまり応じてくれないからである。
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 そのような情報が得られないと、マスコミは彼を攻撃、刺激することで彼に事件を起こさせようとする。起こさなければ捏造も辞さない。
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 ファンは、作品だけではなく彼個人も愛しており、自分たちの交流を深めるためにも、彼に関する情報はほしいので、このようなマスコミと気持ちの上で一致してしまいやすい。
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 マスコミはそれを利用し、口実にしてさらに彼を追いつめる。そこにはファンとはまたちがった、ジャーナリストの心理があり、「相手を獲物として狩りたて、滅ぼすまで満足しない」本能も働く。これがある程度まで行くと、もう誰にもとめられなくなる。
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 ラッセルは、あるいは自分個人を愛するファンとの交流の場としては、音楽活動をそれにあてていたのかもしれないが、彼の私生活、特に婚約者への反応が過熱したことによって、彼はそのような交流を中止したふしがある。
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 「自分にとって大切な人を傷つけた」ということは、彼が周囲や相手に対し、断固たる行動をとる一つの基準になっている可能性がある。このことに限らず、彼の行動や発言は常に衝動的ではなく、冷静な判断のもとに行われている。
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 彼が悪口を言われる、もうひとつの大きな理由は、現代は「女性化」が進みすぎたために行き詰まったと感じている人たちが、「たくましい男性像の復権」のシンボルとして彼をまつりあげようとしているのに、彼は必ずしもそれにふさわしくはなく、フェミニズムと敵対するのではなく共存する存在であることに、その人たちが気づきはじめているからである。
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 これらのすべては、かなり深刻な、予断を許さぬ状況であり、ラッセルを愛する人たちは、何らかの対応をそれぞれに考えるべき時だと思う。
















































2003/02/07より
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