表紙へもどる



その一夜  −マキシマスのとらえられた夜ー

 時代や歴史が大きく変わる時、そこにいあわせるのは、強い偉大な人たちばかりなのではない。何の力も持ち合わせない、弱い愚かな人たちも、時の歯車にまきこまれ、歴史のうずにのみこまれながら、どこかでそれを動かしもした。そんな人々の運命と思惑が入り乱れた、ある一夜の物語。一人の剣闘士が逮捕された夜の。

(マキシマスを逮捕せよという命令をうけた近衛隊は、隊長の不在にとまどいながら、任務遂行のため、全力をつくす。一方、皇女の侍女たちは、そのことをマキシマスに知らせ、待ち伏せの場所から遠ざけて脱走させようと、侍女頭のカルミオンの指揮のもと、命をかけてローマの町を走る。ガイウス議員の愛人マイアは、正妻の嫉妬におびえている。他にも、かわいがっている蛇とともに使命を果そうとする若い暗殺者、臆病な近衛兵、出世をもくろむ士官、剣闘士ファンの娘など、歴史にも文学にも名前はおろか、生きたしるしのひとかけらもとどめることなく消えていった、数知れない男や女の「その一夜」が今はじまる。)



その一夜

    (1)夕暮れ
 紀元一八一年、夏も終わりの日暮れ時、ローマのコロセウムにほど近い街路上のカフェで、二人の女が人待ち顔で、お茶を飲んでいた。姉妹ではないが、少し似ている。恰幅のいい身体つき、人のよさそうな丸顔。身なりもそこそこ豊かそうで、さしたる苦労もなさそうな、のんびり落ちついた表情をしていた。
 「何だかずいぶん遅いのね、ドルシラったら」トゥリアという女の方が、首をかしげてあたりを見回した。「どうしたのかしら。もう日が暮れてしまう」
 「七年ぶりに会うっていうのにねえ」もう一人の女ルブリアも吐息をついた。
 「あの人、田舎にいるのよね。息子に馬車でローマまで連れてきてもらうって言ってたでしょ、たしか」
 「何かあったのかしらねえ」
 「そうじゃないといいけどねえ」
 二人はちょっと不安そうな顔になった。
 「あなたの娘さん、もう大きくなったんでしょう?」気分をかえようとするように、トゥリアが聞いた。
 「元老院議員のお屋敷につとめているのよ、この春から」ルブリアはため息をついた。「でもねえ、何だかこのごろ、様子がおかしくて。私に何かかくしごとをしているようなの」
 「まあ、いい人でもできたのかしら」トゥリアは笑った。
 「そういうトゥリア、あなたの娘さんは?王宮の侍女になったって聞いたけど?」
 「ええ、何だかね、このごろは皇女さまとも気安くお話できるようになったって喜んでいたわ」
 「そう…夢みたいよねえ」ルブリアは言った。「あたしたち三人、同じお屋敷につとめてて、いつもいっしょに泣いたり笑ったりしてたけど、もうその年頃に息子や娘がなってるなんてね」
 「本当ね」うなずいたトゥリアがはっとしたように、ルブリアの腕をつついた。「見て、あれはドルシラじゃない?」
 「そうだわ。まあ、いったいどうしたのかしら?」
 髪を乱して、よろよろとよろめくように人ごみの中を歩いてきた女…ドルシラは二人の友の顔を見るなり、はりつめていたものが一気にくずれたようだった。顔をおおって彼女はわっと泣き出した。
 「どうしたの?」二人はあわてて彼女を抱きとめ、口々に聞きただした。「なにかあったの?ねえ、どうしたの?」
 「息子が逮捕されたの。殺されるのよ」涙にむせびながら、とぎれとぎれにドルシラは言った。「早めにローマについたから、あの子の店でひと休みしていたの。そうしたら兵隊たちがどやどやと来て、いきなり連れて行かれてしまって。キリスト教徒をかくまった罪で死刑になるんだって聞いたわ」
     ※
 ロンギヌスは机の向こうの若者を見た。率直そうな一本気らしい顔だちで、怒ったようにこちらを見返していた。「おれは、ただの石工です」と彼は言った。「キリスト教徒じゃありません」
 「しかし信徒をかくまって逃がしてやっただろう」
 「あいつが信者なんて知らなかったんです。そう言ってるじゃないですか」
 「気の毒だが、信用できんな」
 若者が何か言いかけた時、扉が開いて、上官のマリウスが「おい、ちょっと来てくれ」と呼んだ。「緊急の召集だ」
 ロンギヌスは吐息をついて立ち上がり、兵士に若者を牢に連れて行くように命じてから、マリウスと並んで近衛隊の詰所に向かった。
 「もう暗くなったじゃないか」外を見ながらマリウスがひとり言のように言った。「どんどん日が短くなる。夏もそろそろ終わりだな」
 「緊急の召集とは何事です?」ロンギヌスは鎧のとめ金のしまり具合をたしかめながら聞いた。
 「何だかうさんくさい命令だ」マリウスは露骨に顔をしかめた。「ある男を極秘に逮捕しろというんだが」
 「近衛隊長じきじきの命令ってわけですか」
 「近衛隊長はご存じない」マリウスはますます苦々しい顔になった。「もっと上の方からの命令らしい」
 「もっと上?まさか皇帝?」
 「おれは何も知らん」マリウスはそっけなく言って詰所の扉を開けた。「直接聞いて判断してくれ」
     ※
 廊下を歩いて行く時に、奥さまとすれちがった。険のある目でにらまれて、マイアはぞっと胸がちぢんだ。
 憎まれてもしかたがない、と思う。ガイウス議員はこのごろではもう毎晩といっていいほどに自分をベッドに呼ぶ。娘のようなマイアの若い身体を抱きしめては、若返ったと言って笑う。
 マイアもうれしい。父を早くになくした彼女は、年上の男性が好きだった。この屋敷につとめ始めてから、頭のはげた背の高い、磊落な主人のガイウスに、やさしい心のこもったことばをかけられるたびに、ほっとして心がなごんだ。
 衣のひだをつけていた時、抱きよせられてキスされた時も、夜に来るよう言われた時も、びっくりしたがいやではなかった。ベッドの中でもガイウスは、気さくで、気配りがこまやかで、おもしろい冗談を言ってはマイアを笑わせた。
 でも奥さまは、きびしくて恐い。ガイウスが手をつけている女は多くて、どの女も奥さまのことを恐がっていた。マイアはどちらかと言うと、おとなしくて素直と奥さまは気に入って下さっていたのだが、ガイウスとの関係を知ってからはむろん、マイアを見る目はがらりと変わった。
 表だっていじめたり、いやみを言ったりはなさらない。使用人ごときに嫉妬してはこけんにかかわるとでも言いたげに、きちんと対処して下さるのが逆にマイアには恐ろしいのだった。ほほえみかけて下さっても、目が氷のように笑っていない。
 今夜は身体の調子が悪いと言って、寝室に行くのを断ろうか。廊下のはしにたたずんでマイアは迷っていた。
     ※
 やせた、ちぢれっ毛の元老院議員ファルコは、若いが切れ者と評判の男である。彼は近衛兵の詰所の狭いへやの中に、ひしめくようにして立っているマリウスやロンギヌス、その他の小隊長たちをじろりと見た。「これで皆かね?」
 「呼ばれた者はそろっています」マリウスが見回して答えた。
 「なら私から、今夜の君らの任務を言う」ファルコは椅子にかけたまま、ゆっくりと居ずまいをただした。「一人の男を逮捕するのだ。殺してはならぬ。生かして、とらえて、連れて来い。コロセウムの地下牢に。その男とは」もう一度たしかめるように彼は皆を、見回した。「皇帝陛下にたてつきつづけている、あの、例の剣闘士だ」
 何人かが顔を見合わせる。「そう言えばわかるな?」とファルコはまた、椅子にもたれかかりながら念を押した。「誰のことかは」
 「わかります」仏頂面でマリウスが答えた。「これは陛下のご命令ですか?元老院は認めたのですか?」
 「皇帝陛下のご意志である。それ以上、何かが必要かね。君たちが行動するのには?」ファルコは、ねめ回すように一同を見た。「迅速に、秘密裡に、行動してほしい。近衛隊長、皇族、元老院、そのいずれにも決して知られてはならぬ」
 マリウスはせきばらいした。
 「理由をお聞かせいただけますか?」彼は言った。「このような異例のご命令を、正規の手続きもふまずにいただくからには、そのくらいのご説明はあってしかるべきかと思いますが」
 さすがはマリウス、議員ごときを恐れない。小隊長たちは感心して彼のぎょろりと目の大きい、いかつい日に焼けた顔を見た。
 「望むところだな。説明しよう」ファルコはうなずいた。「皇帝をしいしたてまつろうとする大規模な計画が進行中なのを、陛下がみずからつきとめた。元老院や、陛下ご自身の身近な方々までもまきこんで、あと一歩で成功するところまできていた、恐るべき計画だった。その中心にあの男がいたのだ。彼を除けば、蛇の頭をはねたと同じ。この計画は宙に溶けて消える」
 「一介の剣闘士にすぎない、あの男が?」一人が信じられないように聞き返した。「そんな計画の首謀者に?」
 「もとは名のある将軍だぞ」ファルコは言った。「そして今はコロセウムで連戦連勝、ローマの民衆に愛されて、市民の寵児となっている」
     ※
 たとえ皇女に仕えていても、侍女たちのへやは質素だ。彼女たちは一日の大半を皇女のそばですごしており、へやには寝に帰るだけだからだ。それでもせまいへやの中の、箱の上に重ねられ、床に散乱した衣装や、小さな鏡の前の化粧台などが甘やかな香りを放って、まるで伝説に出て来るカリプソーの洞窟のようだ、とミュリネはいつも思うのだった。先輩の侍女のセレネやタレイア、そして同じころ皇女のそばに仕えるようになった、少し年上のおとなしいシルウィアたちと、こうやって寝る前に他愛のない話をかわすのもまた楽しかった。
 「大変な人気ね、あの剣闘士ときたら」タレイアが言っていた。「皇帝陛下は自分より彼の方が人気があると、たいそう怒っておいでのようよ」 
 「ああ、もう、陛下ってそういうところ、子どもみたいでいらっしゃるから」セレネが笑った。
 「彼は、あの剣闘士はずっと昔、子どものころ、皇女さまの恋人だったって本当?」ミュリネはたずねた。
 「そのようね。皇女さま、笑ってらした。二人ともまだほんの子どもだったの、とおっしゃって」
 「どうして結婚なさらなかったのでしょう」シルウィアが首をかしげた。「お似合いだと思うのに。あの剣闘士にはとても威厳と気品があるわ。あんなに裸同然で、人々の好奇の目にさらされていても、少しも悪びれていない」
 「それだけ、意志が強いのね」タレイアがうなずいた。「誇りも高い人なのだろうと思うわ。それだからきっと、かえって、あんなに平気でいられるのだわ」
 「そう、皇女さまもおっしゃっていた」セレネが片手を優雅に宙に動かした。いつかあんなしぐさが自然にできるようになるといいのだけれど、とミュリネは思わずうっとり見とれる。「あの人はとても誇り高くて、それが私たちの別れる原因になったかもしれない、って」
 「それでお二人、別々の相手と結婚されたのね。皇女さまのご主人はもう亡くなられてしまったけど、お形見のお子さまがいらっしゃるから、せめてよね」
 「それにひきかえ、あの剣闘士は…彼の妻子は、彼が前線で反乱を企てた時、陛下が殺させてしまわれたのでしょう?」
 「そう。男の子は、皇女さまのお子さまと同じ年で八つだったって」
 「いたましい」シルウィアがうつむいて静かに首をふった。
     ※
 アンティノスは、アポロニアが幼いクリスプスの髪を切ってやっているのを見るともなくぼんやり見ていた。子どもはいやがって、首をふって逃げようとし、そのたびに金色の髪が床の上にはらはらと落ちる。
 おれもばかだよ、とアンティノスは腹の中で自嘲した。親の七光りとはいえ、やっと近衛隊に入って出世の見込みもできたのに、こんな子持ちの酒場女にあっさりひっかかっちまって、今ではいっしょに暮してる。
 兵士は結婚できないのが建前だ。しかし二人は事実上、夫婦として暮している。いずれは結婚してくれるとアポロニアは思っているらしい。そう思ったら、うっとうしかった。
 今日は非番だ。だがこうやって家にいたら、どうせその内、何か用事をたのまれる。その前に浴場にでも行くか、酒のんで寝ちまうかだな、と彼は気だるく考えていた。  
     ※
 「この話はどうも危ない」机の上に広げた地図を見つめて、各小隊の配備を決めながら、マリウスはぶつくさ言った。「皇帝の命令だ?だが、ここだけの話、あのコロセウム狂いの若僧が、この国の皇帝としていつまでもつ?それだけじゃない、やつのすることなすことは最近、常軌を逸してきている。裁判も取り調べもろくにせず、あの剣闘士を前線で処刑する時、逃がしたというかどで、二人の兵士を死刑にしたのは貴官たちも知ってのとおりだ。これもまた、ここだけの話、姉の皇女の方がよほど、皇帝としての度量も器も持っとるよ。それを言うなら、あの剣闘士もだ」
 「それはローマ市民の大半の意見。そして陛下は民衆の人気にことのほか敏感です」シモニデスという小隊長があいづちをうった。「あの剣闘士はもちろん、姉の皇女も、自分より人々の支持を得ていると思ったら、葬らずにはいられないのでしょう。だが、剣闘士はともかく、皇女はどうやって?スキャンダルでも広めるのですかな」
 「そんなところだろうが、それは我々の関知するところでない」マリウスはゆううつそうに首をふった。「今夜の我々はローマを敵に回すぞ。前線を脱走して死んだと思われていた彼が、剣闘士としてコロセウムに最初に現れた時、殺そうとした皇帝に全観衆が抗議してあの男の命を守ったのを、よもや諸君は忘れまい。それと同じだ。今夜、我々のしていることがわかったら、全地区で市民が暴動を起こす。ファルコ議員の言うとおり、迅速かつ秘密裡にことを運ばなくてはならん」
 「元老院がそのことに気づいて、彼が逮捕されようとしていることを市民に訴え、救出を呼びかけるとすれば、はなはだやっかいなことになります」ロンギヌスは言った。「あるいは皇女がそれをなさると」
 「さて、そこまで彼らが民衆を信頼できるか」マリウスは言った。「ローマ市民を信ずると口では常に言いながら、議員たちはもう、民衆の力を信じて彼らに判断をまかせるほどの信頼と愛をとっくに失っている。やれるとしたら、共和政を今もがんこに主張しつづける時代おくれのガイウス議員ぐらいだろうが」
 「いずれにせよ、おもだった議員はもう、逮捕したのでしょう?」ウルバヌスという小隊長が言った。「グラックス議員をはじめとして」
 「ガイウス議員は逮捕していない」マリウスは顔をしかめた。「皇帝陛下に何か別のお考えがあるとみえる」
 シモニデスが皮肉に唇をゆがめた。「なるほど。こんな夜には、地下牢の格子の中が案外一番安全だってこともありますな」
 「あの剣闘士は優秀な軍人だった。危険を察知する能力があります」ラテニウスという小隊長が口をはさんだ。「議員らが逮捕されたという情報を得れば、機が熟していなくても何か行動を起こすのでは?」
     ※
 「密偵のケリアリスが言っていたことでは」マリウスが別の新しい地図をあわただしく広げながら答えた。「やつの昔の従僕が今、都にいる。彼としばしば連絡をとって、どうやら脱走の準備を進めているようだ。おそらく、やつは自分が指揮していたかつての軍と合流し、指揮権をにぎる魂胆だろう」
 「それが今夜に早まるのでは?」ラテニウスが心配した。「脱走が?」
 「ケリアリスの報告では、従僕は今、城壁のそばの酒場にいる。特にいつもと変わった様子もないそうだ」
 「彼の持ち主の興行師の老人が、誰かに説得されてやつを自由にするという可能性はないのでしょうな」ウルバヌスが言った。「そんな噂も聞きましたが」
 「ふむ」シモニデスが応じた。「だが、誰が説得する?皇女か?議員か?」
 「彼自身かも。無口だが人を説得する技能にもたけた男のようですから」
 「そうなると、あの老人と彼の仲間が、彼をひきわたさないと言って抵抗する可能性もあるわけだ」
 「諸君、もうやめろ。臆病風に吹かれた推測はたくさんだ」マリウスが舌打ちした。「さあ、各隊の配置を今から言うから聞いてくれ」
 「あとひとつだけ聞かせて下さい」シモニデスが机の上に手をついた。
 「手早く言えよ。何だ?」
 「近衛隊長が蚊帳の外ってことは、彼も謀反の計画に関わってたということで?」
 マリウスは目をそらした。「それは、おれは知らん。知りたくもない」
 彼は目を皆に戻した。「おれは今の皇帝は好かん。信用もできない。やつが今夜しようとしているのは、いちかばちかの大ばくちだ。今夜の仕事が危ないと言ったのは、そこだ。支配者の首がすげかわり、一夜明ければ反逆者は反逆者じゃなくなるかもしれん。だが、それはおれたちの知ったことではない。帝国と皇帝に仕えるのがおれたちの仕事だ。ファルコは皇帝陛下じきじきの命令書を持ってきた。なら、もう何も言うことはない。質問はそれだけか?」
 シモニデスはうなずいて身を起こし、ゆっくりかぶとの紐をしめた。皆、黙っている。マリウスの合図にしたがって、机に歩み寄りながらロンギヌスは、一本気なマリウスは気づいてないだろうが、シモニデスが本当に気にしていることは別にあると思った。近衛隊長が謀反計画にからんでいて、失脚するなら、どうなるか?シモニデスがねらっているのは、次期近衛隊長の座だ。そのために今夜、絶対にあの男を自分がとらえて功績をあげようと彼は決意しているにちがいない。
 それでもいいが、全体の統率を乱すようなぬけがけはしないでほしいものだ、とロンギヌスは思った。まあ、彼もそれほど馬鹿ではあるまいが。
     ※
 宮殿の奥まった、誰も知らない小さな一室で、スカイアスはひっそりと、赤いルビーのような斑点が全身にかがやく、黒い長い蛇を見つめていた。金の指輪をはめた手で、その毒を持った三角形の頭をそっとなでた。
 今夜の仕事には、この蛇を使おう。
 蛇は頭をもたげて、じっとスカイアスを見る。卵から生まれた時から世話をしてここまで育てたスカイアスを蛇は見分けて、なついていた。
 使命を果たし、ねらった相手の命を奪えば、おそらくこの蛇もまた無事に生きては帰れまい。皇帝直属の暗殺係として生きてきたスカイアスの端正な冷たい若い顔に、ふと深い悲しみがただよった。
     ※
 廊下に立ちどまったまま、ぐずぐずしていたマイアは、後ろからそっと腕に手をかけられて、危うく叫び声をたてるところだった。
 「ネメシス!」彼女はふり向き、胸に手をあててあえぎながら、やせて厳しい顔をした仕事仲間の若い女の顔を見た。「お願い、びっくりさせないで」
 「ガイウスさまのお寝間に行くのね」ネメシスはいつものどこか熱にうかされたような黒い目をきらきらと光らせていた。「それだったらまた、あの剣闘士のことを聞いてきてね。解放される望みはないのか。恋人はいないのか。他のことでも何でもいいから」
 マイアはあいまいにうなずいた。「あなたは?今夜もまた、あの剣闘士の訓練所に行くの?」
 ネメシスはうなずいた。「何かが見えるか、聞こえるかしれないでしょ」
 「夜の町は危ないわ」マイアは言った。「あなたがそんなに出歩いて、どうして無事でいられるのか、本当に不思議でならない」
 「夜歩きになれると、それなりの知恵もつくのよ」
 「あの剣闘士はすてきとは思うけど」マイアは力なく笑った。「私にはとても、そこまではできない」
 「あなたにはガイウスさまがいるじゃない」ネメシスはあっさり言った。「じゃね」
 さっさと背を向け、立ち去って行くネメシスをマイアは見送る。あの人は自分の恋しか考えていない。だから人のことなど気にしないのだ。それがかえって、今はさわやかに思えた。私ももっと気軽に生きた方がいいのかも。回りのことなど考えず、奥さまのことなど気にせず、先のことなどくよくよしないで。そう思いながら、のろのろとマイアは向きを変え、ガイウスの寝室の方へと歩きだした。
     ※
 「非番の連中も皆呼び出せ」マリウスが命令した。「従僕のいる酒場の見張りも二倍にふやせ。だが、気づかれないように気をつけろ。仮にやつがそれらしい動きをしても、決して途中で逮捕してはならん。剣闘士とどこで待ち合わせしているのか、約束の場所がまだわからない。やつがそこに行き着くまでは、手を出してはならん」
 「非番の者まで呼び出すと、何事かと噂が広がり、逆に警戒されるのでは?」ウルバヌスが異を唱えた。
 「むずかしいところだな。だが、おれは万全の体勢でのぞみたいのだ」マリウスは言った。「その方が何があっても、あきらめがつくってもんだ。諸君も知っているとおり、あの剣闘士は奇跡を起こす。前線で皇帝と対決し、処刑されようとした時も、両手をしばられ、処刑係は四人もいたのに、一瞬のすきをついて逆襲し、全員をほふって逃走した。剣闘士奴隷となってコロセウムに登場した時は、殺され役で戦車八台を相手に、粗末な盾と槍で武装した徒歩の男たちしか仲間はなかった。誰が見ても生き残る可能性などなかったのに、それでもやつは戦車を破砕し、勝利したのだ。あらゆる常識があの男には通用しない。鉄の鎖や網からも何とかして抜け出しかねない男だぞ。何をするかの予想もつかない」
 ファルコがまた早足で入ってきた。「今、届いた知らせでは」と彼は言った。「皇女が陛下に計画を白状した。従僕と剣闘士が待ち合わせることにしている場所と時刻がわかったぞ。時刻は真夜中、場所は城壁のすぐ外だ」
 「皇女!?」雷にうたれたように、皆が顔を見合わせた。
 「あの男が昔の恋人だったから」ファルコは悲しげな顔をして首をふった。「お心が迷ってしまわれたのだろう。しかし、心を入れかえられて、弟君に先ほどすべてを打ちあけられたとのことだ」彼は一同を見回した。「私はいったん、王宮に戻る。あとはよろしく頼んだぞ。吉報を陛下とともに待っているからな」
 彼が純白のトーガをひるがえして去るのを、小隊長たちは見送っていた。
 「これで、皇女は死刑にはならないまでも、政治の表舞台からは完全に失脚だ」シモニデスがつぶやいた。「皇帝陛下も、やるもんですな」
 「従僕を逮捕しますか?」一人が聞いた。
 「冗談じゃない。最初の予定どおりに動け」苦々しげにマリウスが言った。「皇女さまの自白なぞ、どこまで信用できるものか。せっぱつまって計画を話したにしても、細かいところでまだいくらでも嘘をついておられる可能性がある」
     ※
 「ミュリネって、ほんとにみごとな金髪ねえ」セレネが身をのり出して、年下の同僚の頭にそっとふれた。
 「セレネのだって、きれいな金色」ミュリネはうっとり言い返した。
 「私のは色が薄すぎるのよ。量だって少ない。あなたの髪はまるで黄金を溶かしたよう。豊かで濃くて、輝いていて」
 「亡くなったおばあちゃんが、こんな髪の色だったらしいの。おじいちゃんがよく言ってたわ」ミュリネはため息をついた。「おじいちゃんが死ぬ時、私があんまり泣くものだから、おじいちゃんはとぎれとぎれの声で私をなぐさめてくれて、おばあちゃんとお墓の中で待ってるからって言ってくれた。そこはいつも春で、皆が幸福で、死んでしまった家族が皆でいっしょにいつまでも楽しく暮してるんだよって」
 「すてきなお祖父さまでいらしたのね」タレイアがほほえんだ。
 「皇女さまのことを、いつもとても、ほめていたわ。立派な方だと言って。私がこうしてお仕えしていると知ったら、どんなに喜んだかしら」
 「お墓の中できっと、あなたから皇女さまのお話をいろいろ聞くのを楽しみにしていらしてよ」セレネが言った。
 「本当はちょっと皇女さまのこと、恐かったの」ミュリネは恥ずかしそうに笑って打ちあけた。「厳しいし、冷たいところもおありのようで。でも、ちがったわ。とても明るい、楽しい、ほんとに少女のような方」
 「おきれいすぎるから、近づきにくく見えるのね」シルウィアがうなずいた。「私もびっくりしたわ。こんなにお優しい、生き生きとした心をお持ちの方だなんて」
 「人の悪口や噂話もお好きよね」タレイアが首をすくめた。
 「そうそう!人まねもお上手だし」
 皆がくすくす笑いながら、目をかがやかせて話していると、廊下を足早に近づく音がして、侍女のコルネリアがそっととばりをかかげて、へやの中をのぞいた。「ああ、よかったわ。皆さんここにいらしたのね」
 「何かあったの?どうかして?」タレイアとセレネが軽く腰を浮かせた。
 「侍女頭のカルミオンさまが、すぐ来るようにとおっしゃっているわ」コルネリアの顔は緊張していた。「大変なことが何か起こったみたいだわ」

    (2)夜更け
 今夜は非番のはずだったのに、と鎧のとめ金をとめながらアンティノスは、ため息をついた。こんな深夜の呼び出しは、少し不吉な予感もした。またどこかで強盗団が暴れていて、町の警備隊長たちでは手におえなくなったのか?皇帝が怪しい人影を見たとおびえて、宮殿のいっせい捜査を命じたので、人手がたりなくなったのか?
 目をさましたクリスプスがむずかって泣いている。近所をはばかったアポロニアがケーキをにぎらせてごきげんをとっているが、いっかな機嫌が直らない。アンティノスはちょっとうんざりしながらも、子どもを抱き上げ、ほおずりした。クリスプスは少しおとなしくなって、ひくひくしゃくり泣きながらアンティノスの肩に首をもたせかけた。
 「お父さまが好きなのね」アポロニアが、おくれ毛をかきあげながら、ちょっと疲れた顔で笑った。
 おれの子じゃない、と腹の中でののしりながら、アンティノスはクリスプスが口に押し込んでくれようとするケーキを、それでもひと口かじってから、アポロニアに子どもを返した。抱きとりながらアポロニアが「夜明けには帰れる?」と聞いた。
 「わからん」ぞんざいにアンティノスは答えて、眠い目をこすりながらそのまま家を出た。
     ※
 侍女頭のカルミオンは、いつもと同じ落ちついた様子に見えた。しかし、その目は決然とした光をたたえて、回りに集まった十数人の侍女たちにそそがれていた。「よいですか」と彼女は念を押すように言った。「今も言った通りです。お子さまを殺すと脅迫されて皇女さまは、すべての計画を陛下にお告げになりました。このままだと、皇女さまは、わが子かわいさのために愛する人を裏切り、仲間を敵に売り、ローマの未来をふみにじった、愚かで弱い女として、そのお名は永遠に汚れます。さっきも言った通り、それは事実ではないのです。皇帝はもう知っていた。その上で皇女さまの口からそれを言わせた。少しでも早く、皇帝の前から去って、しかるべき対応をする時間をかせぐために、皇女さまはあえてご自分の名誉を危険にさらされ、白状なさった。そのお志を無駄にするかどうかは、今夜のおまえたちの行動にかかっています。あの男を救いなさい。危険を知らせ、新たな待ち合わせの場所で馬を渡し、かねての手はずどおりに脱走させるのです。おまえたちが救うのは、あの男の命だけではない。ローマの命運だけではない。皇女さまの誇りと真実のお姿です」
 侍女たちの誰もが、息をのんでいた。
 「おまえたちしか、頼れる者は誰もない」カルミオンの声はかくそうとしてかくしきれない、深い苦衷にみちていた。「信じられる者は今や、王宮の中にも外にも、一人もいません。皇女さまは孤立しておられ、孤独です。おまえたちも今夜一夜は、誰も信じてはなりません。家族も、恋人も、頼ることはなりません。近衛兵も奴隷も役人も、皆、敵です。覚悟を決めて、気位を捨て、弱い女の心を捨て、兵士のように、英雄のように行動しなさい。目的はただ一つ。何をしてもいいから、あの男を逃がすこと。そうすれば、すべては変わる望みがあります。おまえたちの肩にすべてがかかっています」
 「ご命令下さい!」はりつめた声でミュリネが言った。「何をすればいいのか、早くおっしゃって下さい」
 皆がミュリネを見つめる。年上の侍女たちのほおに、初めてかすかな微笑がうかんだ。
 「この子の言うとおりです、カルミオンさま」アントニアという年配の侍女が言った。「私たちの言いたいことを言ってくれました。皇女さまのためなら、私たちは命も捨てます。どうぞ、するべきことをお話し下さいますように」
 「では、近くへ」カルミオンは言った。「このことは、決して誰にも知られてはならない。絶対に誰からもかくしとおすのです」
 その時、セレネがさっとふりむいた。「そこにいるのは誰!?」
 とばりがかすかに、ゆれたようだ。だが、それっきり、何の気配もしなかった。皆はまた、視線を戻した。
 「説明しましょう」乾いた声でカルミオンが言って、皆を見回した。
     ※
 ガイウスはマイアのほおに唇をよせ、彼女の髪をもてあそんだ。
 「共和政は美しい思想だ」ものうい声で彼は言った。「私はそれを知っている。だが、それを人々に伝える力を、私の舌も心臓も長い年月の間に少しづつ失って行った」
 ゆっくりと寝返りをうって枕に頭をのせて、彼は天井を見つめた。
 「ローマは腐りかけている」彼は疲れた、どこかゆうゆうとした声で言った。「私自身も、民衆も。あの皇帝を私はさげすむが、この時代とこの民衆には、彼こそが実はふさわしいのかもしれない。狂った民衆には狂った支配者が似合う。いや、民衆を理解し愛するならば、狂うしか腐るしかないのかもしれぬ。それが、この時代なのかもな」
 マイアは黙ってガイウスの肩に手を回して、じっと耳を傾けていた。
 「私とて、そうだ。だからこそ、彼の気持ちがわかるのだ」ガイウスは話しつづけた。「清らかな生き方を保っていては、民衆の心はわからない。コロセウムに行って、あの血なまぐさい殺戮に狂喜する民衆を見るたびに、私は自分に言い聞かせた。これでも彼らを愛するのか?これでも彼らを信じるのか?そして私は、いつも、そうだ、と自分自身に答えてきた。そして、いつか、その民衆と同じように、だらしなく、弱くなり、なすこともなく日々の快楽に溺れている。それでも、民衆を信じることだけは、私はやめたことはなかった」
 しばらく黙っていてから、彼はまた口を開いた。
 「あの剣闘士・・・」
 マイアは目を開け、耳をすませた。ネメシスに頼まれたことを思い出したからだ。ガイウスがいつまでも黙っていたので、彼女はそっとたずねてみた。「あの剣闘士がどうかいたしましたか」 
 「あの男が、コロセウムに現れ、奇跡を起こした時、私の中で何かが変わった。いや、よみがえったというべきかもしれない」ガイウスはつぶやいた。「民衆は、あの男を殺そうとした皇帝に従わなかった。近衛兵の剣はあの男たちにつきつけられていた。皇帝の指は死刑を宣告しようとして宙にあげられていた。だが、コロセウムをゆるがした民衆の抗議の叫びは、その剣先をも指をも止めた。何ひとつ武器を持たない、多数というだけの人間の力が」
 ガイウスの声は低かったが、かつて元老院をゆるがしたにちがいない、力強く深い響きを持っていた。
 「あれは、民主主義の夢だった。最も美しい夢を、あの時に見たような気がする。そして何より重要なのは、それは夢ではなく現実だったことなのだ。愚かで、軽薄で、凡庸で、血に飢えていると思った民衆たちの賢さと強さ。あの男はそれを引き出し、私の前に見せつけてくれた。あの日以来、私は、民衆は真実を見抜き、正しいものを選ぶという、さびついた信念が徐々にまた心の中で輝き出しているのを感じている。民衆に支持されるのに、訴える必要はない。もとより、こびる必要もない。おのれのしたことを声高に宣伝することもいらない。恐れることも、遠慮も配慮も無用なのだ。ただ、全力をあげて努力し、信じるところを語り、行う、それを誠実に勇気をもって行えば、民衆は理解する。そして、ついてくる。あの男を見ていると、そんな簡単なことが、あらためてはっきりわかってくる。そんな困難なことが、自分にも何とかできそうな気がしてくる。今なら私は、民衆に率直に、呼びかけることができるだろう。おまえたちは何を選ぶのかと。おまえたちにとって、誇りと希望と幸福をもたらす未来は何なのかと。信念を持って語れる、彼らを信じて、まかせられる。そして、彼らはわかってくれるという自信まで、今の私は持っているのだ。こんなに疲れた、愚かで、弱い老人にも、あの剣闘士は、そんなにまで恐ろしいほどに大きい信念と夢を与えてくれる」
 「だんなさまはまだ老人ではいらっしゃいません」マイアは言った。「愚かでも、弱くもありません。お身体も。お心も」
 「うれしいことを言ってくれる」ガイウスはふざけて、腰をマイアにこすりつけた。「そう言われると、そんな気になる。今夜ひと晩、おまえを楽しませてやるぐらいの力はまだ私にも残っているかな」
 ガイウスの唇が肩に小さいくちづけをくりかえすのを、マイアはくすぐったがって笑った。だんなさまは、とても元気で明るくなられて、ごきげんがいい、と漠然と感じる。それが自分のせいかどうかはわからなかったけれど、こんなに楽しそうにしていただけるのなら、やっぱり今夜、来てよかったとマイアは思った。
     ※
 手首のひとひねりで音もなく、スカイアスは、門番の首の骨を折った。低くうなって近づいた大きな犬を、すぐ後ろについて来ていた彼の助手のザイアスが短剣の一刺しで急所をついて、ほふった。うなずきあって、すべるように二人は建物に近づいた。夜に溶け込む赤褐色の衣の下にかくした小さいかごの中には、赤と黒のまだらの蛇が三角形の頭をとぐろの中に埋めるようにして、うつらうつらと眠っていた。
     ※
 「ケリアリスからの報告が入った」マリウスがシモニデスに言った。「従僕が酒場を出た。店の中にいた時はわからなかったが、馬を二頭つれている。怪しいな」
 「私がそちらに行きましょう」シモニデスは即座に言った。「彼の行方を見定めたら、即刻逮捕するとともに、位置をこちらに報告します」
 「よし、そちらは君にたのもう。おれは自分の隊をひきいて剣闘士の訓練所に向かう」マリウスは言った。「他の者は市街の要所に配置して、怪しい者を検問する」
 アンティノスは二人の小隊長の会話をそばで聞いていた。とんだことになるらしい、と思った。武者ぶるいなどではない、ただのふるえが膝をがくがく言わせた。あの剣闘士をとらえろだって?夜中とはいえ、人々に知られたら、どんな騒ぎになることか。暴徒の群に呑みこまれたら、こんな鎧も剣も盾も何の役にもたちはしない。
 「大丈夫かい?」ゲミヌスがそっと声をかけてきた。
 アンティノスは何とかうなずいた。同期で同じくらいの年だが、しっかりしていて親切なゲミヌスは、ことあるたびにアンティノスのへまをかばってくれるのだ。いつか、新皇帝の凱旋の儀式の時、かりだされて長いこと暑い陽射しの中に立っていたアンティノスが立ったまま居眠りをして大失敗をしそうになった時も、うまくごまかして、とがめられないようにしてくれた。「おまえは背が高くてみばがいいから、あんな儀式の時はいつも、ひっぱり出されて苦労するよな」とあとでなぐさめてくれまでした。
 ゲミヌスはいい男だ。いずれ小隊長になり、近衛隊長にだってなるかもしれない。元老院議員になるのは確実だろう。家柄もいいし。おれとは何もかもちがう、とアンティノスは思う。あまりにちがいすぎていて嫉妬する気にさえなりゃしない。だが、そんなゲミヌスだって、そうそうは、おれをかばえるはずがない。今夜、暴徒に襲われたら、あの剣闘士と戦わなくちゃならなくなったら、いくらゲミヌスだって、おれを救うことはできない。
 アンティノスは吐き気がしてきた。となりで、やはり同期の若いルフィウスとプリニウスがひそひそ何か、緊張した小声で話している。
     ※
 「疑うのですか?」タレイアが言った。「私の話を?」
 「疑わぬ。残念ながらな」興行師の老人は、大きな白髪頭をゆっくりと左右にふった。「そんなことではないかと思っておった」
 「彼を、近衛隊にひきわたしたりはなさらないわね?」タレイアは鋭く言った。「あの剣闘士を逃がす、と皇女さまにあなた約束したのでしょう?」
 老人は黙って、驚くほどの青い目でじっとタレイアを見つめていた。
 ああ、まずかった、失敗したかもしれない。タレイアは唇をかんだ。計画がばれたことなど言わないで、ただ、今すぐにあの男を逃がすようにと言った方がよかったのだ。この老人、おびえている。どう言って説得しよう?
 「おまえをなぐるか、しばるかするわ」彼女は必死で考えて、そう言ってみた。「だから、彼らの監房の鍵を私によこして。そして近衛兵が来たら、力づくで鍵を奪われたと言うのよ。そうすればおまえは何の罪にも問われない」
 老人は笑ったようだった。「名案じゃな、お嬢さん。じゃが、もう間にあわんよ」
 彼は注意をうながすように、右手の指をたてて見せ、その時タレイアもはっきりと、入り乱れるひずめの音がこちらに次第に近づいて来るのを聞いた。
 「あれは?」声のふるえをおさえようと彼女はこぶしをにぎりしめた。
 老人は立ち上がり、鍵束を手に取った。「わしにまかせておくがいい。約束は守る」その目にどこか躍るようなきらめきがあるのを見て、タレイアはこの老人も昔、人気の高い剣闘士だったという噂を思い出した。
 「あんたはすぐに帰れ。ここから離れなされ」老人はそう言って、ふとテーブルの上にあった、何かの書類に目をとめた。「これを持って行け」とタレイアに彼はそれを押しつけた。「あの男を自由にするという証書だ。少し前に作っていたものだ。もう今となっては意味がない。あんたが持っていてくれ」
 それを握りしめたタレイアが階段をかけ下りた時、激しいひずめの音が門の前にあふれ、ひしめく鎧が青く月の光に光った。近衛兵たちが到着したのだ。退路を断たれ、逃げ場を失った彼女は、建物のかげの狭いすき間に必死で身体をすべりこませて、かくれた。
 だが、すぐにぎょっとして向き直った。その狭いすき間の奥に、誰かいる。
     ※
 近衛兵の指揮官が門の前でわれるような大声で、あの老人の名を呼んでいるのを聞きながら、タレイアは帯の短剣に指をはわせた。いざとなったら、使ってやる。
 「心配…しないで…」低いしわがれ声が聞こえた。若い女のようだとわかってタレイアは少し緊張を解いた。「何をしているの、こんなところで?」
 「あの剣闘士のファンなの」おどおどと声は続いた。「彼を見に来たの」
 すさまじい音をたてて、門に鎖がかけられている。引き倒される準備なのだ。
 「こんな夜更けに、こんな所に?」タレイアはあきれたが、納得し、安心した。剣闘士に熱を上げる、特に若い女性たちときたら、どんな非常識なことでも平気でやってのけるのを知っていた。
 老人が監房の戸を開けたのだろう。剣闘士たちが走り出してくる気配がした。同時に地響きをたてて、鉄格子の門が倒れた。
 近衛兵たちがなだれこんでくる。
 「こっちに来て」ふるえる声が、そう呼んだ。「この奥にいれば、誰にも見つからないわ」
     ※
 シモニデスたちが近づいて行った時、若者は抵抗する様子も逃亡する様子も見せなかった。二頭の馬をつないだ木の下で、立ちつくしたままこちらを見ていた。「誰を待っている?」とシモニデスが聞くと、答えないままじっと鋭い目を向けて動かなかった。持ち場を離れない兵士のように。
 「あの剣闘士の従僕だな?」シモニデスは聞いた。「彼はいつ来る?どちらから来る?」
 しばしの沈黙があってから、従僕は小さく首をふった。「ここで待つように言われただけです。真夜中までには来るようにと」
 落ちついて静かな声には、何の感情もこもっていない。背の高い若者だったが、何だか彼は機械じかけの小さな人形のように見えた。
     ※
 シモニデスは馬をつないだ木に近寄り、梢を見上げた。「おまえを、ここからつるそうか」彼は上を見たまま、ゆっくり言った。「そうしたら、やってきた時にあの男はさぞ、びっくりすることだろう」
 「そして、一目散に逃げ去るでしょう」若者は冷やかに応じた。「それより、彼が来た時に、私をそうすると脅かして、降服を呼びかけた方が賢明な方法なのではないのでしょうか」
 シモニデスは思わず振り返った。従僕は深い傷あとの残る、意志の強そうな聡明らしい顔に、小さく微笑をうかべていた。
     ※
 「おまえを?」シモニデスは、さげすみといぶかりをたたえた声で聞き返した。「ただの従僕のおまえの命を救うために、あの男がおめおめ降服すると言うのか?」
 「あなたは、ご存じありますまい。おわかりにもなれますまい」こいつ何者、とシモニデスが不安になりつつ圧倒されたほど、気品さえたたえて昂然と若者は言い切った。「だが、あの方はそういう方です。それが、あの方の弱点です」
 「おまえは、それを知っているというのか」シモニデスは、得体のしれぬ従僕の顔をじっと見つめて、考えこんだ。「それを承知で、あの男を我々に売ろうというのか」
 「高貴な者には高貴ななりの、卑しい者にはまたそれなりの、生きていく道がある」若者は哲学者のような口調で淡々と語った。「ともかくも私は、とりあえず生きたい」
 それはそうだろう。シモニデスは思った。この一風変わった若者の考え方がよく読めないのが不安だが、たしかにやってみて、悪い方法ではない。
     ※
 少し離れた建物のかげから、ミュリネは怒りとくやしさにわななきながら、その情景を見つめていた。
 間にあわなかった!通りから通りへと、酔っぱらいやならず者におびえ、近衛兵たちの検問をさけながら、あんなに必死で走って来たのに。
 空き地いっぱいに近衛兵の銀色の鎧があふれている。どうしたらいいのだろう。まもなくあの剣闘士がここに来るかもしれないのに。何とかしてそのことを、彼に教える方法は?
     ※
 「馬は、きらい」セレネはべそをかきながら、言うことをきかない黒い大きな雌馬をひっぱっていた。「こんなの城壁まで、どうやって引いて行くの?おとなしくして待たせておけるの?」
 「文句言わない」コルネリアも、おっかなびっくりで、ひいている栗毛の馬の鼻をなでた。「とにかく行って、待つしかないわ。タレイアやミュリネが何とかあの剣闘士に警告して、新しい待ち合わせの場所まで彼を連れてきてくれるまで。そうしたら、彼と従者をこの馬に乗せ、オスティアめざして送り出し、私たちは帰って寝る、と」
 「そんなにうまく行くものかしらね?」
 「だめ、ものごとはいい方に考えるものよ」コルネリアはきっぱり言った。「あらやだ、どうしよう、この馬ったらまた動かなくなって。いったい何が気にくわないの?」
 「考えるだけむだだわよ。私たちのこと、馬鹿にしてるんでしょう。鞭でも見せたら少しはぴりっとしないかしら?」
 「怒ってかけ出して行ってしまったらどうするの」コルネリアは手首で額の汗をぬぐった。「とにかく早く行かなくちゃ。こんなところでぐずぐずしていて、ならず者にでもからまれたら大変よ」
 「そんなことなら、まかせておいて」セレネは帯の短剣をたたいた。「ナイフの扱いなら自信があるの」
 「でも馬の扱いはだめなのね」
 「タレイアは得意だったのに」セレネはため息をついた。「彼女がここにいてくれたら、どんなによかったかしら」
     ※
 剣闘士たちと近衛兵のすさまじい戦いがくりひろげられている物音を聞きながら、見知らぬ女と耳を押さえて、建物の間のすき間にうずくまっていたタレイアは、すぐ近くで馬がいななくのを聞いて、目を上げた。つながれていたのが放れたのか、鞍もつけない一頭が手綱をひきずりながら、タレイアの目の前の空き地をうろうろ歩いている。
 戦いはもう終わりに近づきかけているようだった。「やつをさがせ!」「やつを見つけろ!」と叫びかわす近衛兵たちの声がする。
 あの剣闘士は逃げたのかしら。それともまだ、この訓練所のどこかにひそんでいるのかしら。逃げたのなら、待ち合わせの場所に行くかもしれない。ここにいるなら、見つかるのは時間の問題。タレイアはうずくまっているままの女の耳に口をつけて「彼のファンって言ったわね?」と聞いた。「では、彼を助けるのを手伝ってくれる?」
 はじかれたように女は目を上げ、くいいるようにタレイアを見た。
 「あの人は、城壁の外の、水道が通っている橋の下まで行くはずだわ」タレイアは早口で女に告げた。「そこで、仲間が待っていて、一緒に逃げる予定なの。でも、もう兵士たちが先回りして待ち伏せしているかもしれない。何とかそこに行って、彼に警告して。お願い」
 女はおびえたように、後ずさりし、片手を中庭にあふれた近衛兵たちの方へ振ってみせた。もう剣闘士たちの多くは倒れ、あるいはしばりあげられて、どこかに連れて行かれようとしている。あんなに兵士たちがいるのに出て行けない、と女は言いたいのだろう。唇をかみしめてタレイアはうなずいた。「わかっているわ」と、くいしばった歯の間から、ことばを押し出した。「それは私が、何とかするわ」
 女の返事を聞かないで、身体をかがめるようにして彼女はそっと、建物の間からすべり出た。低く舌を鳴らして馬を呼び寄せ、大きなマントを羽織ったままでひらりとそれにまたがった。ことさらに、大きくひずめの音をたてて中庭の方へ向かい、兵士たちの間をつっきって、一散に門に向かって走った。
 「いたぞ!」誰かが叫ぶのが聞こえた。「やつだ、逃げるぞ!」
 矢が飛んでくる音がした。タレイアはぴったり馬の背に身を伏せた。門の外に出、城壁とは反対の方角へ向かって激しく馬を駆る。
 背後で叫び声が上がり、また矢が飛んでくるのがわかった。ひずめの音も追ってきた。恐怖で大きく目を見ひらき、狂ったように馬を走らせながら、必死になってタレイアはあまり引き離しちゃいけない、と自分に言い聞かせた。ひきつけて、追わせなきゃ。あきらめさせてはいけない。
 「いたぞ、こっちだ!」
 思いがけなく、すぐ近くの横の道から声がして、タレイアははっとした。すばやくまた、馬の向きをかえて、別の小路へ躍り込み、前へ前へと、ひた走った。どこかでいよいよ追いつめられたら、馬から飛び下り、そのまま走ってどこかへ隠れてしまえばいい。そんなことを、ちらと思っていた。

    (3)真夜中
 「いない!」
 「あの男はいないぞ!」
 剣闘士たちの死体がけちらされ、彼らの住んでいた小部屋のとびらが次々に荒々しく開かれていた。たいまつをかかげて中庭の死体を一つ一つ点検している近衛兵たちの表情に、あせりの色が濃くなっていた。
 「やはりさっき走って行った馬が…」
 「あれは誰も乗ってなかった。馬だけを、川の近くでとらえたが」
 「門のところで見たろう?乗り手がいたよ!」
 「目の迷いだ!」
 吐き捨てるように言った一人が突然たいまつをかかげて、「おい、ここに道がある!」と叫んだ。
 何人もがかけよって、馬つなぎ場の近くにめだたないよう作られている細い通路をのぞきこんだ。
 「地下に下りて、建物の下をくぐっている」一人が言った。「ここに入ったのなら、もう遠くまで行ってるぞ」
 「いや、この道なら知っている」マリウスが言った。「曲がりくねって最後は川に出るはずだ。先回りすればまだ間にあう」
 彼はふり向き、「ロンギヌス!」と叫んだ。「君の部隊をひきいて、川へ行ってくれ。河岸でやつを待ち伏せるんだ!」
     ※
 ミュリネは泣きそうになりながら、あの従僕の青年が馬に乗せられ、木の下に連れて行かれるのを見守っていた。あそこで首をくくって殺す気なんだろうか、と思っていたが、兵士たちはそうしなかった。彼の首に縄をかけて木の枝に投げ上げて結び、馬がのいたら首がしまるようにして、従僕をそのままにした。そうしておいて兵士たちは空き地の四方に散開し、皆がひっそりと物陰に身を沈めた。頭上の橋の上で何かが動く気がして見上げると、そこにも兵士たちがずんずん登って行っていて、橋の上はいっぱいになった。そして彼らもまた、手すりのかげに身をひそめ、あとはもう黒々とした橋のかげしか見えなくなった。
 今や、空き地はまるで無人のようだった。
 ミュリネはくやしさと恐ろしさに細かく身をふるわせながら、どうしていいかわからないまま、建物のかげに立ちつくしていた。
     ※
 夢の中でガイウスの恐ろしい叫び声を聞いて、マイアは目をさました。ろうそくの燃え残った赤い光の中、ガイウスの悲鳴はまだ続いていた。空気に生臭い香りがまじっている。肩先にぞっとするような冷たい感触がよみがえった。何かが自分の胸の上にいたと思った。その時にすぐそばにガイウスのひきつって紫色になった、別人のような顔を見て、マイアは恐ろしさに凍りついた。
 ガイウスの大きな手は長い、赤と黒のひものようなものを、わしづかみにし、ひきちぎろうとしていた。それはガイウスの太い腕にからみつき、頭をくいいらせていた。蛇。毒蛇。マイアは声を限りに悲鳴を上げた。奥さまだわ、ととっさに思った。それが自分の身体の上をはい、気がついたガイウスが自分がかまれるのもかまわずに、とっさにつかんで、ひきちぎろうとしてくれたのだということも理解した。彼女はガイウスにとりすがった。
 「だんなさま!」
 「近づいてはならん、マイア!」あえぎながらガイウスは叫んだ。「どいていろ!」
 蛇の身体が二つにちぎれ、血が点々と毛布に散った。だが、ガイウスの命ももう絶えようとしていた。彼自身がそのことをよく知っていた。かっと目をむき、虚空をにらんで彼は叫んだ。「皇帝め!ふざけたまねを!」
 人々が廊下を走ってくる音がする。「共和政治を守れ!」とガイウスが絶叫するのをマイアは聞いた。「民衆よ、信じているぞ、君たちの力を!賢さと勇気を!あの剣闘士を暴君の手に渡すな!彼を守れ!守りぬけ!」
 二つにちぎれた蛇の身体をわしづかみにしたまま、その手がぐったりとたれた。大きく見開いた目で何かをにらみすえたまま、ガイウスの息は絶え、頭が枕にどっと落ちた。
 「だんなさま!だんなさま!」マイアは泣きながらその胸にとりすがった。
 ガイウスの身体はまだあたたかく、やわらかい。しかし返事は返らず、かわりにぐいと髪をつかまれ、荒々しく引き起こされて、マイアは思わずまた悲鳴をあげた。
 そのまま後ろ向きに床に投げ出された。奥さまだった。使用人たちを後ろに従え、恐ろしい目でマイアをにらみすえていた。「ばいた!」と狂ったように奥さまは叫んだ。「殺したんだね、だんなさまを…あんなに…あんなに愛されていて!」
 血を吐くようなその声と、身をもむようにしてガイウスにとりすがっている姿とに、身ぶるいしながらマイアは知った。奥さまはだんなさまを、はかりしれないほど強く、ずっと愛しておられたのだと。
     ※
 マイアは狭い一室にとじこめられた。衣を着るのも許してもらえず、ほとんど裸のままだった。泣いて説明しても誰も信じてくれなかった。だんなさまを殺したのだと言われ、明日は役人にひきわたすと言われた。
 一人になった部屋の中で、マイアは寒さにふるえながら泣いた。ガイウスが死んだのも悲しかったが、主殺しの罪で罰されるのも恐ろしかった。死刑になるのはまちがいなかった。コロセウムにひき出され、野獣のえさにされるのかもしれなかった。その前に兵士たちからさんざんにいたぶられて。
 母親の顔が目に浮かんだ。父親や妹たちの顔も。おまえの結婚式の日が楽しみだよ、といつも言ってくれていた母さん。私の無実を信じてくれるのかしら?私の気持ちをわかってくれるのかしら?
     ※
 やつは逃げて、どこに行くつもりなんだろう、と空き地のはしの草むらの中にうずくまりながら、アンティノスは思っていた。一度、コロセウムですぐ近くにあの男を見たことがあった。虎と闘って勝ったあと、皇帝が彼に言葉をかけにアリーナに下りてきたのだ。よく聞こえなかったが、彼の妻子の死んだ時のことを笑いながら何か言っていて、その時剣闘士は黙って一礼しただけで、皇帝に背を向けて帰って行った。静かな顔にはりつめた悲しみと威厳があふれていて、皇帝に背を向けた無礼をとがめるのも忘れて、マリウスはじめ兵士たちは道をあけて彼を通したのだ。
 皇帝もひどいことを言う、と後で仲間の兵士たちが話していた。声を低めもせずに皆、憤慨していた。あの男には故郷にきれいな奥さんとかわいい子どもがいたんだが、彼が反抗したのに怒った皇帝が、命令を下して残酷に二人を殺してしまったんだ。彼は前線の処刑場から間一髪逃げ出して故郷へ帰ったんだが、そこで見たのは焼けた我が家と、妻子の無残な死体だった。そこで疲れと悲しみで気を失っているところを奴隷商人につかまって、剣闘士として売られたんだ。彼は奥さんをとても愛して、子どものこともかわいがっていた。それを知っててその死にざまをことさら話していたぶるなんて、いくらあの男を恐れて憎んでいたからって、皇帝ともあろうお方のすることとも思えない。
 やつは、どこに行くつもりなんだろう、とアンティノスはまた思った。何をするつもりなんだろう?
 ここにはどうか来ないでほしい、と祈っている自分にアンティノスは気がついた。ここにだけは、やって来ないでほしい。
     ※
 ティベレ川は月の光の下をゆるやかに流れていた。
 「遅いな」河岸に固まって立っている兵士の誰かがつぶやいた。「もうそろそろ、来るはずだがな」
 突然、誰かがひそめた声で「あれを見ろよ!」と言った。
 ぽっかり開いたトンネルから何かが飛び出し、川に向かって突進した。兵士たちは退路を断とうと飛び出した。「殺すな!」とロンギヌスの声が飛んだ。
 兵士たちの前を黒い影が横切る。四つんばいになって、すべるように。おびえて一瞬ふりむいた、かげになった黒い顔の中にきらりと青く目が光った。たちまち水音がして、それは川にとびこみ、波の間を泳いで行った。
 矢をかまえた若い兵士の腕を、年かさの兵士が押さえた。
 「ありゃ、人間じゃない」彼は首を振って言った。「ハイエナか、野犬か、何かそんなもんだ」
 「訓練所で飼われてたのが逃げ出したんだ」別の一人が言った。「それとも、あの男が目くらましのために、わざとこっちに走らせたのか」
 皆が顔を見合わせた時、別の一隊が息を切らせて通りを走って来た。
 「おい、何事だ!?」ロンギヌスが鋭く聞いた。
 「あの男の姿を見たと思って…」先頭の兵士が息もたえだえにそう報告した。「いや、たしかに見たのです。さっき、広場を走って行った。だから手分けして後を追ったのですが、見失いました」
 「途中で一人、こちらの兵士が見えなくなって、戻って見たら殺されていました。彼のしわざか、浮浪者にやられたのか、わかりません」
 「馬を走らせて、北へ向かったという報告も入っています」憔悴しきった表情で、また別の一人が言った。「何がどうなっているのやらもう…」
 トンネルの入り口で何かが動く。はっと振り返った数名が思わず弓に矢をつがえて放った。「撃つな!」と怒った声が叫んで、また一隊の兵士がそこからかけ出して来た。「やつはこっちに来なかったか?たしかにこの通路にかけこんだと情報があって追ってきたのだ!」
     ※
 呆然とロンギヌスは立ちつくす。
 戦っている相手は王者だ。そう感じた。
 たとえ孤独で傷ついていて、あらゆる望みを断たれているにしても、この動き、この対応、この速度は、最高級の戦士、指揮官、支配者のそれだ。
 コロセウムにつづいて、ローマの町が戦場になった。この都など、ろくに知らないはずなのに、やつはこちらを翻弄している。
 マリウスの恐れていた意味が、ぞっとする実感をもってかみしめられた。やつに常識は通用しない。どんなことでも、起こり得る。
 部下を見回して、鋭く彼は命じた。
 「動揺するな。それこそが、やつのねらいだ。城壁へ行け!シモニデスの部隊と合流する!」
     ※
 あれは何?
 ミュリネは闇に目をこらした。月が雲に隠れていてあたりは暗い。その中を誰かが歩いてくるのが見えた。女だ。若い。ミュリネと同じくらいに若い。黒い髪の、やせた、厳しい顔だちの女だ。
 こそこそと歩いている。従僕の方をしばしば見るので、彼に気づいているのがわかる。助けに来たのだろうか?
 突然、草が動いた。近衛兵たちが現れたので女は驚き、高く両手をあげたまま立ちすくんだ。
 「何者だ?」隊長が誰何している。
 「ネメシスと言います」女がふるえる声で名乗るのが聞こえた。
 「ここで何してる?何をしに来た?」
 「大切なことを、お知らせに」女は近づいて来る隊長らしい男に向かって、ふるえる声でそう言った。
 「何事だ?言ってみろ」
 「あの剣闘士はもうつかまりました」女は熱を帯びたようにふるえる声でしゃべっていた。「訓練所で。でも、彼と仲間が抵抗したので、近衛隊の皆さまにも大勢の負傷者が出ました。あの男を護送して帰る人手がありません。すぐ、ここから戻って、あちらに合流して下さいとのこと。私はあそこの近所の者で、負傷者の手当てのために呼び出されたのです」女の声が涙に曇った。「どうかすぐ、行ってあげて下さい。あちらはほんとに大変なのです。市民たちも集まりはじめていて、今にも騒ぎが起こりそうです」
 「わかった」隊長は緊張した顔でうなずいた。「ご苦労だった」
 彼はあわてているようだった。剣闘士がつかまったと聞いて一瞬目の前が暗くなったミュリネも、群衆が集まり出しているという女の言葉に再び胸がどきどきと鳴りはじめるのを感じた。そうだ、ローマの群衆がいた。あの男がつかまって死刑になると知ったなら、彼らは決して黙っていない。コロセウムで救ったように、またあの男を救おうとする。夜にまぎれて。力にまかせて。
 その時、入り乱れて大勢のひずめの音が近づいて来た。
     ※
 「剣闘士はつかまったのか?」
 シモニデスに大声で聞かれて、ロンギヌスは驚いた。
 「そんな話は聞いてない」馬を飛び下りながら彼は答えた。「どこでだ?」
 「訓練所で。たった今、知らせが来た。負傷者が多く、群衆が集まり出していて危険だから、すぐに合流しろと」
 「ちっ、誰がそんなことを!」ロンギヌスは叫んだ。「おれはそこから来た。剣闘士たちは皆とらえたが、やつだけは逃げた。行方がまだわからない」
 はじかれたようにシモニデスは振り向き、目の前にいた女の腕をわしづかみにした。
 「女」彼は歯ぎしりした。「何者だ?」
 女は答えない。ぎらぎらと燃える目が狂人のような激しさで、シモニデスを見返している。舌打ちしてシモニデスは女をそばの兵士の方へと突き飛ばした。
 「地下牢に連れて行き、徹底的にとり調べろ」彼は命じた。「危ないところだ」と連れて行かれる女を見ながら、彼はロンギヌスに向かって言った。
 「あの女は何者だ?」見送りながらロンギヌスが聞く。
 「わからん。だが拷問係のコッセイオスの手にかかれば、夜明けまでには何もかも吐くだろう」シモニデスは肩をすくめた。
     ※
 馬から下りて合流した兵士の中に、プリニウスを見つけて近寄ったアンティノスは、彼の鎧についている血の匂いや、一晩で年をとってしまったようなうつろな険しい表情を見て、息をのみ、声をかけるのをためらった。
 「ゲミヌスは?」おそるおそる聞いてみた。
 「やられた。ルフィウスもだ」吐きすてるようにプリニウスは言った。「あっちは、ひどかった」
 アンティノスは涙がにじみ、胸が苦しくなってきた。本当に人が死ぬのだ。自分ももうすぐ、そんな戦いにまきこまれるかもしれないのだ。
 死にたくないと突然思った。アポロニアをもう一度抱きたい。クリスプスのやわらかいほおにふれたい。帰りたい。あの家へ。あたたかい寝床へ。
 「やつをつかまえたら」プリニウスは歯をくいしばりながら言った。「おれは、ただじゃおかない」
 そして、他の兵士が渡す弓を受け取ると、橋の上へとかけ上がって行った。
 おれも、あっちに行きたかった。木の葉のようにふるえながら、アンティノスは思った。橋の上ならまだあの男と、直接向き合う危険はないのに。
 汗にしめった手のひらをチュニカのすそにこすりつけ、落ちつかない目で仲間の兵士たちが上官の指示に従って、再び、空き地中に散開するのを見守っていた。これだけ人が多いのだ、と必死で自分に言い聞かせた。そして、あっちは一人のはずだ。よりによって、この中から、よりによっておれが、そいつと向き合う一人になるなんてこと、ないはずだ。
     ※
 隊長らしい二人の男は従僕の方を見たり、橋の上を見たりしながらことばをかわしていたが、やがてまた、兵士たちとともに草の中にかくれて、空き地に再び静寂が戻った。
 ミュリネはふるえていた。さっきより激しく、歯まで小さくかちかちと鳴らして。
 あの剣闘士は逃げた。
 タレイアは間にあっただろうか。彼に新しい待ち合わせの場所を教える時間があっただろうか。今ごろ彼はセレネやコルネリアと会って、馬をもらって、遠くにかけ去っているのだろうか。
 たとえそうだとしても、あの男が従僕を見殺しにして逃げるだろうか。
 戻ってきそうな気がしてならない。彼は、ここへ。
 もし、そうだとしたら、それはきっと、もうすぐだ。
 彼に警告しなければ。何とかして。
 ネメシスという、あの女の、あんなに大胆で無茶な計画でも、成功しかけた。
 それならきっと、私にも何かができる。
 ミュリネは汗でびっしょりと冷たくぬれた手を固くにぎりしめた。
     ※
 あの男は来るのか?それとも逃げたのか?
 じりじりといらだちと不安が高まってくる。ロンギヌスは月光に今は明るく照らされている空き地をじっと見つめた。
 その時、どきりとした。空き地のはしの方で何かが動いている。
 まちがいない。黒いマントを頭からかぶった人影だ。それが空き地に入ってきた。従僕のそばに近づいて行った。
 シモニデスとロンギヌスは顔を見合わせてうなずき、シモニデスが立って大声で呼びかけた。
 「止まれ!こっちを向け!」
 人影はぴたりと止まった。こちらをうかがうように身体を少し丸めて、じっとしている。シモニデスは立ち上がり、また大声で言った。
 「剣を捨てろ!もし抵抗すれば、その従僕は木の枝にぶらさがることになるが、いいか?」
 答えはなく、かわりに人影は空き地のはしに向かって走った。
 すぐにそちらの物かげから、隠れていた兵士たちがいっせいに立ち上がる。
 人影はあわてたように後ずさり、反対側へまた走った。
 そちらの方からも兵士たちの列が立った。数秒の間に空き地を走り回った人影は、ぐるりをすべて兵士たちの盾と剣とに囲まれてしまった。
 「あきらめろ、望みはない」シモニデスはまた大声で言った。「上を見ろ。矢がねらっているぞ」
 人影は橋の方を見上げた。そこにずらりと姿をあらわし、矢をつがえている兵士たちを。「あきらめろ!」とくり返しながら、シモニデスは人影に歩みよって行って、剣を抜き、刃の先で人影のマントのフードをひっかけて、はねのけた。
     ※
 まぶしい金色の滝のように、豊かな金髪が流れおちた。青ざめた美しい若い女の顔がシモニデスを見返している。
 はっと気づいてロンギヌスは橋の上を見上げ、周囲を見回した。わなが作動して、はねてしまったと同様に、待ち伏せの体制があらわになってしまったことに突然、気づいた。もし、あの男が近くに来ていて、これを見たら…
 「おい!」シモニデスをこづいて、彼は回りと上を指で回すように指して、教えた。
 シモニデスもはっと気づいたようだった。「畜生!」と彼は口の中で激しく毒づいた。「何てこった!」
 「ごめんなさい。私は何かしてしまったのかしら?」おどおどと女が二人を交互に見た。健康そうで賢そうな、若い、みずみずしい魅力があふれおちんばかりの娘だ。「恋人に会おうとして、ここに来たけれど、誰もいないようだったので、どこかにかくれてびっくりさせようとしているのかと思って、さがして見ようかと…」
 やれやれ。ことの重大さにもかかわらず、ロンギヌスはちょっと苦笑したくなった。シモニデスも火のように怒ってはいるものの、娘のあまりの無邪気さと美しさとに、ふりあげたこぶしのやり場に困ったように、どうしていいのかわからなくなっているようだ。
 その時、兵士の一人が叫んだ。
 「こいつ、皇女の侍女ですよ!」
     ※
 二人の隊長の顔がみるみる緊張し、ショックと怒りでゆがんで行くのをミュリネは見た。もうおしまいだわ、とひとごとのように冷静に思った。
 「名前は何だ?」隊長の一人が厳しい口調で聞いた。「家はどこだ?待っていたという男の名は?」
 ミュリネは答えなかった。本当は彼女の家は、ここから近い。だがもう、自分に家はない。名前もないのだとミュリネは思った。
     ※
 ミュリネは縛られ、馬に乗せられた。隊長の一人がじきじきに護送するつもりらしく、彼女の後ろに乗った。ミュリネは頭を高く上げた。どんな死に方をするにしろ、私は恥ずかしいことをしたのではない。
 ふと気づくと同じ目の高さに従僕の青年がいて、少し離れた木の下で首に太い縄をかけられ、馬の上に乗せられたまま、じっとミュリネを見つめていた。
 ミュリネは明るい、輝くような微笑を彼にそそぎかけた。彼女はまだ恋らしい恋をしたことがなかった。男に抱かれたこともなかった。けれど、その一瞬、その青年と抱き合ってくちづけをかわし、すべてを許しあったような気持ちがした。それほどに青年が彼女に返してきた、まぶしげにひかえめな賞賛のまなざしはあたたかく強く、率直な愛に満ちていた。
     ※
 今夜のこの計画は、どこからどこまで失敗だったかもしれない。敗北の予感のようなものが払いのけても払いのけても、ロンギヌスの心には重く沈みはじめていた。出世にめざといシモニデスがさっさとここから離れて皇女の侍女をとり調べに連れて行ってしまったのも、もうここに残っていても、あの男をとらえる可能性は薄いと判断したからだろう。そして、そういう勘は、あれは鋭い男なのだ。おおかた、自分はここで朝まで、あの首に縄を巻いた妙に生意気なふざけた従僕を見守ってすることもなく過ごすのだろう。残るのは、こわばった手足と背中の痛みだけだ。
 仕事だからやむを得ないとは言え、これはまったく、たまらんな。
 そう思った時、空き地のどこからか、美しい鳥の鳴き声がした。
 夜明けにはまだ早い。先ほどからの自分たちの動きやざわめきで、寝ぼけた鳥がいるのかなと思った瞬間、ロンギヌスは声を限りにあの従僕の若者が何かを叫んだのを聞いた。それが、あの剣闘士の名前とわかったのは一瞬後だ。従僕が警告したとわかったのも同時だった。
 やつは近くだ。どこにいる?鳥の声と思ったのは、やつの合図だったのか?
 ロンギヌスが立ち上がる間もなく、木の下から馬が走り出したのが見えた。従僕の身体が縄につるされてぶらさがり、大きく振り子のようにゆれた。
 やられた!しまった!ロンギヌスは脳髄が焼ける気がした。従僕は自分で馬の腹を蹴り、走り出させたのだ。自分の命を絶つことで主人に警告し、人質としての価値もなくした。
 やられた!やられた!これでもう、おしまいだ。いまいましさにロンギヌスはその場でおどり上がった。もう、これであの男は永遠につかまらない。あの男は逃げる。ローマの闇の中へ。我々の手の届かぬ場所へ。民衆たちのふところへ。
 歯ぎしりした時、ロンギヌスの目に予想もしなかったものが飛び込んできた。城壁に近いやぶのかげから、黒い人影が一つ、まっすぐに若者の方へと走ったのだ。夜目にもはっきりわかる、たくましい手足、しなやかな動き。まさか、とロンギヌスは息をのんだ。
 人影は若者に飛びつき、足を抱えて持ち上げた。助けようとしている。若者の叫びが耳を打った。驚きと苦しみに満ちた、血を吐くような声だった。
 「すみません!」彼は叫んだ。
 彼も予期していなかったのだ。ロンギヌスにはそれがわかった。そこまで望みのない状態なのに、主人が逃げ去ろうとせず、自分を救おうとするとは。もっと大きな目的のためには自分など捨てて逃げてくれる強さと冷たさが主人にあると信じていたのだ。
 だがそれは、彼の主人にはなかった。
 この時にロンギヌスは、初めて勝利を確信した。
 やつの心は弱っている。どこかで、やる気をなくしている。目的のために愛するものをふみにじって前進する気概はもはや、彼にはない。
 それとも、やつは、何とかしてこの若者を救う気か?二人いっしょに逃げるつもりか?そんなことはできるはずがない、と思ったのと、やりかねない、この男なら、と思ったのが同時だった。そう思った瞬間に、夢中で橋の上に向かって「撃て!」と合図の叫びをロンギヌスは放っていた。
 ひきしぼられていた矢がいっせいに空を切って飛び、若者の胸に何本も音をたててくいいった。男は何か叫んだが、さすがに今度はすぐに若者の身体をはなして振り返り、矢の飛んできた方を見上げた。
     ※
 やった!ロンギヌスは思わず、のどの奥で快哉の叫びを低くあげた。男は今、完璧に包囲の輪の中にいる。ロンギヌスは手を上げた。それがふるえているのに自分でも驚きながら、大きくそれを振り下ろす。待ちに待った瞬間だった。
 ゆっくりと、兵士たちの輪が動き出した。石壁の下から、空き地のはしから、いっせいに、進みはじめた。男も気づいて、ふり向いた。腰を落として身がまえながら、剣の柄に手をかけた。
 もう間にあわない。もう遅い。おまえはもう逃げられない。ロンギヌスのほおに微笑が浮かんだ。
 兵士たちの輪がちぢんで行く。男はそれでも逃げようとして、剣を抜き、四方に目を配りながら身がまえている。少しでも、すきのある部分があれば、そこを切りひらいて逃げ出そうというのだろう。
 大丈夫か?ロンギヌスはふと不安になって、橋の上の方に目をやった。あちらに人を上げすぎた。もっと、この空き地に残しておくべきだった。そんなことをちらと思った。
     ※
 こちらを向かないでくれ。たのむから、おれの方を見るな。
 剣をかまえて男に近づいて行きながら、アンティノスは必死で祈っていた。すぐ両側に仲間がいる。正面にも側面にもいる。男のぐるりに皆、兵士がいて、次第に男との間をつめて行っている。
 絶体絶命。それでも男は望みを捨てているようには見えなかった。剣をかまえて、やわらかく腰をかがめているその全身は、ばねのようにしなやかで、ひきしまった手足の筋肉がはりつめて、力づよく動くのが月の光でも見えるようだった。
 回りにいくら人がいても、面と向かいあったら、その瞬間は一対一だ。そう思うと身体がふるえた。こんな相手と向き合いたくない。大柄な方だが、決して巨大というほどの男ではないのに、近づくにつれ、彼はずんずん大きくなっていくようだった。
 もう、あと数歩にせまった時、美しい、むだのない足さばきで男がくるりと向きを変えた。アンティノスは男の正面にいた。月を背にして、男の顔は影の中だった。それでも、涼しくひきしまり、何の恐れも、迷いもない表情の清々しい顔が見えた。恐ろしいほど落ち着いて、湖のように深い光をたたえた目がきらきらと光って射通すようにアンティノスを見た。獲物を見る鷹の目だ。アンティノスの舌はしびれ、口の中がからからになった。剣をかまえた手が、力がぬけて、ぶるぶる動いた。おれは殺される、そう思った。今夜ここで、この男に。
 男は動かなかった。アンティノスを見たまま、じっとしている。かまえた剣の先がわずかに下がったようだった。ほんの一秒か二秒、彼は何かを考えたようだった。
 その一瞬のすきをついて、横合いから一人の兵士がおどりかかり、彼の剣をたたき落とした。後ろから別の一人が首に腕を回してはがいじめにし、もう一人が動けなくなった男の顔を力まかせになぐりつけた。
 「殺すな!殺すな!」上官がどなっているのが聞こえる。
 兵士たちが剣をさやにおさめる音が、あちこちで響いた。アンティノスも剣をおさめたが、その手がまだふるえているのに自分でかっとした。まだ恐怖にかられているのがわかった。自分でも気づかずに歯ががちがちと鳴っていた。こいつを何とかしないと、早く何とかしないと安心できない。そんな思いにかられて男の腕を彼もつかんだ。兵士たちの何人もがそうやって男の腕を肩をつかんでおり、押さえつけられ、なぐられて、男の身体は右に左にゆれていた。
 「縄!縄!」と誰かが勝ちほこったようにうわずった声で叫んでいた。
 男は静かに立っていた。なだらかな厚い肩が大きく上下していたが、それほど激しく息をきらせてはいなかった。戦いらしい戦いをしたわけではないからな、とアンティノスは思った。むしろ回りの兵士たちの方が乱れた荒い呼吸をしていた。
 何本もの手がかわるがわるに男をつかまえ、男にふれた。そうやって、皆がとらえたことをたしかめるように、彼にさわりたがった。縄が手渡されてきた。兵士たちは男の腕をつかんでいた手をすべらせて、手首をつかみ、後ろに回して縛ろうとした。「待て、鎧を脱がせるのが先だ」と一人が言った。      
     ※
 ロンギヌスは兵士たちが男の鎧を脱がせている時、近づいて行って、男をよく見た。大丈夫とは思ったが、念のためと思って、兵士たちの手をとめさせて、男の顔に手をそえて明るい方に向けさせた。男はされるままになっていた。目を動かしてロンギヌスをちらと見た。おだやかに澄んだ目の色だった。
 コロセウムで何度も見た顔にまちがいないことを確かめたロンギヌスは、うなずいて手を離して後ずさり、兵士たちに仕事を続けるよう、目で合図した。兵士たちはもうどうにか落ち着いてきていて、皆てきぱきと動いていた。男の鎧がはずされて、草の上に投げ出された。しなやかな腕ができるだけ高く後ろにねじあげられ、手首とひじがきつく縛られ、更に胸の上から幾重にもぐるぐるまきにした縄が、左右からぎりぎり引かれてしめつけられた。男は声ひとつ上げず、表情も変えず、黙ってされるままになっていた。
 ロンギヌスは兵士たちに命じて男を馬に押し上げて乗せた。そして、後ろから、ほれぼれと男を見つめた。その広い肩、すらりと伸びた足、形のいい丸い頭を。最高の獲物だな、と彼は思って、満足のため息を押し殺した。何度見てもあきない気がした。

    (4)夜明け
 「むほんの計画の詳細を」コッセイアスは、うずうずしたように聞いた。「白状させなくていいのか?」
 「必要ない」ロンギヌスは書類をめくりながら、つっぱねた。
 「皇帝は彼の自白をお望みではないのか?」
 「そんな命令はうけておらん」
 「わしの手にかかれば」コッセイアスはねばった。「どんな自白でも、すぐにさせてみせるが。たとえ、まったくやっておらぬことでもな」
 「まったく、そうにちがいない」ロンギヌスは心から賛成した。「だが、あの男にはかまわないでもらおう。とらえたままの姿で皇帝にひきわたしたいのだ。その方がきっと、お喜びになるはずだ」
 「身体に傷をつけないようにして責めることもできるのだがな」コッセイアスは、こだわっていた。「見た目は少しも今とはちがわないままにしておけるぞ」
 「もういい」ロンギヌスは首をふった。「それより、あの女たちは何か白状したのか?」
 「ネメシスという女は死んだ」コッセイアスは答えた。「もう一人の娘の方は、虫の息だが、まだ生かしてある。皇女との取り引きに使えるかもしれんということでな」
     ※
 カルミオンは侍女頭にしては異例に若い。だが、この夜の彼女はまるで老人のように厳しい冷たい顔をしていた。近衛軍の士官と密偵のケリアリスが彼女の前に立っており、一方彼女の背後には十数人の侍女たちが、青ざめた、だが毅然とした表情で立っていた。
 「そんな侍女はこちらにはおらぬ」氷のように冷やかな声で彼女は言った。「何かのおまちがいでしょう」
 「ミュリネという侍女ではないのですか?濃い金髪の色白の、大柄な美しい女です」士官はくりかえした。「もちろん、今は責めさいなまれておりますから、顔も姿も以前のようではありますまいが」
 「気の毒に」カルミオンはまったくのひとごとといった調子で応じた。「ですが、こちらには心当たりの者はおりませんから、どうともいたしかねますね」
 「こちらで見かけたことがあると言う兵士たちが何人もいる」
 「侍女でもないのに侍女のような顔をして、宮殿をうろつく奴隷女もおりますから」
 「ならば、あの女をどのようにしてもよろしいのですな?五体をばらばらにした上で、ティベレ川に投げ捨てても、野獣のえじきにしても?墓に葬られることもなく、彼女の魂は安らぐことなく永遠に暗黒の虚空をさまようことになりますぞ」
 侍女たちの前列にいた金髪のほっそりとした女が、うっと低い声をもらして口を手でおおったのを士官は見た。
 「セレネ。何を泣くのです?」振り向きもせずカルミオンは、鞭のような鋭い声でたしなめた。
 「お許しください」セレネは顔から手を離し、こわばった仮面のような顔をまっすぐ前に向けた。「何でもございません。お忘れください」   
 「まだ何か、お話が?」カルミオンは士官を見返して聞いた。
 「皇女さまにじきじきに、お話をおうかがいすることはかないませんか」
 「こんな夜更けに?いえ、夜明けに?」さげすみきった目でカルミオンは相手をじっと見守った。「本気でおっしゃっているのですか?」
     ※
 密偵のケリアリスが進み出た。利口そうな鋭い目が輝いていた。「カルミオンさま。ひとつ、おうかがいしたいことがございます」
 「何でしょう?」おまえに何の権限があって、という響きを露骨ににじませながらカルミオンが答えた。
 「あなたは今朝、侍女たちに死んでもかくせ、これだけは誰にも知られてはならない、とおっしゃっていたそうで」
 「女の身の回りにはさまざまな秘密があります。殿方のあずかり知らぬこと」
 「ふだんならそれで、言い開きはできても、こんな時にそれではすみますまい。恐れながらそのお言葉を耳にした者もいるのです」
 「それはまた」カルミオンははっきり、あざ笑った。「どなたです?」
 「暗殺係のスカイアス」ケリアリスはずばりと言った。「今朝、とばりのかげで聞いたと言っている。必要ならば、どこででもはっきり証言すると。その秘密が何なのか、あなた自身を地下牢にお招きしてお尋ねすることもできますよ」
 「密偵風情が思い上がりもほどほどにするがいい」カルミオンの目に炎が走った。「今すぐここから消えるならよし、さもないと…」
 「さもないと、どうなさる?現実を直視なさい、高慢な侍女頭さま。あなたにも、皇女さまにも、もう実権はないのですぞ。お命すらも、いやしい我々の手の中にあることを自覚なさってはいかがです?」
 カルミオンが青ざめて沈黙した時、侍女たちの中から涼しい、やさしい声が流れた。
 「カルミオンさまや皆さまは、私のことをかばって下さっていたのです、ケリアリス。それも罪にはちがいなかろうが、当の私が自分の身をあなた方に引き渡せば、それで話は終わりにしてはもらえませぬか?」
 「シルウィア!」女たちは息をのんで、つつましそうな栗色の髪とはしばみ色の目をした小柄な侍女を見つめた。
 「この取引きはいかがです?」シルウィアは微笑んでいた。
 「あなたの秘密とやらが、どれほどのものかにもよりますな」ケリアリスはせせら笑った。「どんなご大層な秘密なのです?」
 シルウィアは静かな、自然な足どりで、ケリアリスと士官の前に歩み出た。栗色の髪を後ろに払いのけ、衣のえりを大きくはだけた。雪のように純白の胸元に燦然と金色の十字架が光った。
 「私はキリスト教徒です」静かな、相手を圧倒する威厳にみちた声で彼女は言った。「私を連れて行き、死刑になさい。その前にどんな残酷な目にでもあわせなさい。けれど、もう、この人たちや皇女さまにはかまわないでおいでなさい。信者には、信者でない友人も多いし、私の信仰はまだ未熟です。思いがけない知り合いに頼んで、あなた方をこの世から消すことだって、できるかもしれない、するかもしれないわ」
     ※
 コロセウムの地下牢はごったがえしていた。とらえられてきた剣闘士や元老院議員たちがあちこちの監房に、手あたり次第に押しこまれていた。近衛隊長が現れて、いつもの厳しい顔で、きびきびと指揮をとっているのを見て、ロンギヌスはほっとした。
 「彼は一味ではなかったのですね」と、そっとマリウスに聞いた。
 「ん?ああ、前線であの剣闘士が将軍だった頃、副官だったから、皇帝が配慮したらしい」マリウスは手で顔をこすった。「シモニデスはがっかりしとるだろうな」
 何だ、気づいてたのかと思いながらロンギヌスは「何のことです?」と聞き返した。
 「とぼけるな」マリウスは鼻を鳴らした。「非番の連中はもう帰したな?」
 「今朝からの勤務になっていた者を除いては。その連中はひきつづき残ってもらうことにしています。あとはあらかた、もう帰しました」
 「よし。君も夜が明けたら帰ってひと休みしていいぞ」マリウスはロンギヌスの肩を軽くたたいた。「今夜はご苦労だったな。あの男をとらえた時のことは、いずれ近衛隊長か陛下がじきじきに聞かれるだろうから、報告する用意をしておけよ」
     ※
 アポロニアは寝ないで待っていたらしい。アンティノスの顔を見てほっとしたように顔をほころばせ、ワインと果物を出してくれた。
 もうひと眠りしようかどうしようかと迷いながら、ぼんやりしていると、アポロニアが「あら、いやだ」と小声でつぶやいた。「あなた、誰にも怒られなかった?」
 寝椅子に寝ころがったまま梨をかじりながら、アンティノスはふり向いた。「何だ?」
 「この鎧、ほら、見える?坊やの手のあとがついちゃってた。出かける前にあなたに抱っこされた時、ケーキをかじってたもんだから、お手手の油がくっついたんだわ」
 アンティノスは首をねじって黒っぽく光る銀色の鎧を見つめた。「何だい?何も見えないぞ」
 「光のかげんなのね。こうしたらわかる?」
 金髪の頭をぐったり肩にもたせかけて眠りこんでいるクリスプスを抱えたまま、アポロニアは片手で鎧の向きを少し変えた。
 アンティノスは息をのんだ。
 たしかに光の加減だった。今、ここからだとはっきり見える。自分の鎧の肩の上に小さい、もみじのような手形がはっきりついて、うかび上がっていた。父親に抱かれた幼い子どもしかつけようのない、位置と、かたち。
 アンティノスの目にまざまざと、月光に照らされた空き地がうかんだ。せばまりつくした包囲の輪。一瞬自分と向き合ったあの男の、獲物をねらう鷹のような目。その目が、何かを考えているようにアンティノスをじっと見つめ、かまえられた剣の先がわずかに下ろされ、そして、なすすべもなく男はとらえられたのだ。
 …故郷に、妻と幼い子どもがいたそうだ。
 …二人は残酷に殺されて。
 …その子をとても、かわいがっていた。
 「どうしたの?」
 アポロニアが驚いたように声をあげた。
 しぼり出すようにアンティノスが低い声でうめいたのだ。梨を手から落とし、両手で頭をつかむように、かかえて。
 「どうしたの?」アポロニアがくり返した。「ねえ、あなた…」
 「その子が」アンティノスは押しひしがれた声でつぶやいた。「おれの命を救った」
 「何ですって?」
 「その手のあとを見たから、やつは…彼は…あの人は」自分でもびっくりするほど突然に、噴き上がるような涙がアンティノスの目にあふれはじめた。「おれを殺さなかったんだ」
 「何のこと?」
 「おれみたいなつまらない、とるにたらない人間を」彼は髪をかきむしった。「あの人に、何もしてあげられないのに。おれみたいな人間を」
 逃げられたかもしれないのに。おれを殺して、囲みを切りひらけば、まだ、ひょっとして。
 いや、無理だったろうか。それにしても何人かは倒せたかもしれないのに。憎い皇帝の手先に最後に一矢むくいたかったはずなのに。
 なのに、これを見ただけで、あの人は戦うのをやめた。
 なぜか、涙がとまらない。
 そんなにして救ってもらっても、あの人にも、世の中にも、おれは何もできないのに。
 この女だって、この子だって、どこかでやっかい者に思っていて、うっとうしがって、捨てようとしていた。重荷で、じゃまと思っていた。捨てないでいたのは、捨てる勇気さえなかったからだ。そんな真剣ささえ、この女と子どもに自分は持っていなかった。
 それなのに、あの人は。たくさんの人の希望、未来、ローマという国や世界の運命までも背負っていたあの人が。この手のあとを見ただけで、戦うことも、生きる努力をすることもやめた。一人の子どもから父親を奪わないで、無事に帰してやるために。
 アンティノスのすすり泣きは、いつの間にかむせび泣きに変わっていた。
     ※
 何ひとつ考えられないまま、マイアはただわななきつづけていた。眠っていたのか?気を失っていたのだろうか?どこか遠くでとびらが開き、人が走って行く音がした。何人かの大きな声も。私をとらえる役人がもう到着したのだろうか?
 コロセウムで見聞きした残酷な処刑の数々が、次から次へと思い出された。あんな目にあわされるぐらいなら死んだ方がいいとマイアは思った。そう、死んだ方が。
 顔を上げ、へやの中を見回した。何かひものようなもの、何か釘のようなもの。そう、とりとめもなく思いながら目をさまよわせていると、また物音がした。今度は近く、しかもあちこちで同時に起こった。人の声も近づいて来る。聞いたことのない叫び声も。ガイウスの屋敷は主人の性格を反映してか陽気でにぎやかで、歌声や笑い声がよくひびいていたが、これはそんな声とはちがう。マイアが両手を胸でかきあわせたままふるえていると、いきなり大きく、とびらが開いた。
    ※
 「女!何をしている?」
 大柄な近衛兵だった。わななきながら後ずさりするマイアを見て、彼は身体を引き、とびらの入り口を大きく開けた。
 「ここの者か?」彼はたずねた。
 マイアはうなずき、それからあわてて、また首をふった。私はきっと、もう「ここの者」じゃない。
 「どちらでもいい、早く出て行け」兵士は舌打ちして、門の方をさした。「この屋敷は没収される」
 「没収?没収ってあの…」
 「皇帝への反逆者の屋敷だ」兵士は廊下の向こうをすかして見るようにした。「急げ。暴徒がもう掠奪を始めている。残っていると危険だぞ」
 そして大またに去って行った。
 マイアはよろめきながら外へ出た。へやというへやの戸があけはなされ、ぼろをまとった貧しげな男や女が、手あたり次第に美しい布や高価なつぼをかかえて走り回っている。マイアの仕事仲間の女たちはとっくに逃げてしまったのか、もう誰の姿もない。
 かけ出しかけて裸同然の自分の姿に気づいて、マイアは立ちどまった。覚えのあるへやのひとつにかけこんで、男のチュニカと大きなマントをあわただしく身につけた。なるべく目だたない廊下を通って、中庭を横切り、門に向かって走った。
 美しかった建物は窓がこわされ、手すりがたたき折られていた。マイアがいつも恐がっていた大きな番犬が血を流して庭のすみで死んでいた。中庭を通りすぎかけた時、絹を裂くような悲鳴を聞いて、思わずマイアはふりむいた。
 ガイウスの死体が草の上をひきずり回されている。髪をふり乱した奥さまが狂ったように走って追いすがっているが、男や女たちはそれをとりまいて、おもしろがって、とびはね、はしゃいでいた。
 「皇帝ばんざい!」
 「帝国ばんざい!」
 口々に彼らは叫んでいた。
 涙でのどをつまらせながらマイアはまた走り出し、門の方へと逃げて行った。近くの通りに知っている髪かざり職人の家がある。とにかくそこへかけこんで、夜明けまでいさせてもらおう。
 たまぎるように鋭い奥さまの叫び声が、また二度、三度、ひびきわたって、走るマイアを追ってきた。
     ※
 皇女はうつむき、机の上においた、タレイアが持ちかえった、あの老人が渡した書類をじっとながめていた。あの剣闘士を自由にするという証明書を。しわになり、折れ曲がったその紙のはしを、いとおしむように長い美しい指で皇女は何度もそっとなでた。
 カルミオンが入ってきた。
 「ミュリネとシルウィアがどうなったかは、まだわかりませんか」背を向けたまま、皇女はそう聞いた。
 答えがないのでふり向くと、カルミオンは小さくただ首をふった。皇女の前でだけ見せる、どこかまだ少女のような、はかない年相応の顔を彼女はしていた。「私どもの力がたりませんでした」と、はりつめた低い声で彼女は言った。「おわびのしようもございません」
 皇女は強く首をふった。「おまえたちがこの一夜、私にしてくれたことには、一生かかっても私は礼ができないでしょう」
 カルミオンは何も言わずに一礼し、すべるように静かにへやを出て行った。
     ※
 しらじらと明るくなるローマの町の通りを、大きな荷車ががらがらと疾駆してきた。郊外に近い、荒れ果てた野原で、速度を少しゆるめた馬車から、黒髪と金髪の二人の女のぐにゃりとゆがんで血まみれの死体が放り出された。二つの身体はからみあって重なり合うように草の中に落ち、馬車はそのまま、また速度を速めて走り去った。遠巻きに見ていた野犬の群が、すぐにかけよってきて、どっと死体に群がった。
     ※
 何かのわなか、とアンティノスは思った。それとも、こういうものなのだろうか。悪事をするということは。自分は幼い時からこれまで、へまばかりしてきたが、規則を破ったことや言いつけにそむいたことは一度もない。そうしようと思ったことさえも。逆らったり逃げたりするような大きな仕事や命令をもらったことさえ、なかったのかもしれないと初めて気づいた。
 ともかく、すべては拍子抜けするほど簡単だった。戦闘や逮捕につづく混乱は一段落し、コロセウムの地下は疲れた眠りと休息につつまれていた。誰にも見つからず、廊下を進めた。詰所の壁から鍵束を盗めた。そして今、あの男のいる監房のとびらを開けて、また後ろ手にそれを閉めて、自分は立っているのだった。
 高い窓から入ってくるおぼろな光の中に、高く両手を左右に上げてつるされている人影がぼんやり浮かびあがっていた。
 アンティノスは前進した。人影が緊張しているのがわかって、何か言わねばならないと知った。
 「ありがとう」彼はつぶやくように言った。そしてあわててつけ加えた。「静かに。何もしないから」
 そう聞いて、たくましい身体が逆にかすかにこわばったのがわかった。男は闇に目をこらしてアンティノスを見ているようだった。こんな男なら、とアンティノスは思った。きっと闇でも、おれのことがきちんと見えているのにちがいない。
 彼はまた前進し、手さぐりで男の身体にふれた。それがまだあたたかく、しっかりしていて、血にぬれてもいないようなのに安心した。「おまえを助ける」とアンティノスは自分にたしかめるようにつぶやいた。「逃がしてやるから、じっとしていろ」
 男は黙って動かなかった。だが、その呼吸が抑えようとしながらもかすかに荒くなったのがわかった。はりつめた皮膚の下で波立っている力強い血と肉が空気を伝って感じられた。
 そろそろと背伸びしてアンティノスは男の手首をさぐってとらえる。自分が背が高くてよかった、と初めて思った。囚人に何度か手かせをはめた時のことを必死で思い出しながら指を動かすと、鎖ははずれて男の手と腕が、ぐったりとアンティノスの上に落ちてきた。
 「大丈夫か?」アンティノスは小声ではげました。「しっかりしてくれ」
 男は無言で足を踏みかえ、力強くまっすぐに立った。ほっとしながらアンティノスは、もう一方の手かせも、今度はずっと手際よくはずした。肩にかけてきたマントをとって、男の身体をすっぽりくるんだ。「顔を見せるな」と耳もとでささやいた。「外に出て、廊下を左にまっすぐ行って、階段を上れ。右手の小さいくぐり戸を出ろ。そこを進めば外に出られる」彼は男の背を押した。「どうか、やってくれ」彼はつぶやいた。「おれにはできないことを。おまえしかできないことを。皆のために。世の中のために」
 男が何か言おうとするようにふりむいたので、アンティノスはその肩を強く押した。「何も言わなくていい。行ってくれ!」
 男はまた大きく肩をはずませて息をしていた。一瞬彼は、じっとしていた。だがすぐに決心したように、そのままとびらを開けて出て行った。
 少し待ってアンティノスもその後から廊下に出た。男の姿はもうなかった。廊下はしんと静まって、まるで、すべてが夢のようだった。
 ふりむいて、とびらの鍵をかけた。手がふるえていて、なかなかうまくかからない。詰所に行って鍵を戻した。その後、男に教えたと別の通路を通って外に出た。
 初めてどっと恐怖が押し寄せ、汗が身体にふき出してきた。何も考えられなかった。さえない下働きばかりして、いつもあちこち行ったり来たりさせられていて、文句も言えず何も考えずにそれに従っていた自分だからこそ、何となくどうすれば人目をさけられ、どの通路を行けばいいかが自然にわかってしまったのだということさえも、彼は気づいていなかった。自分が多分、疑われないことだけはぼんやりとわかっていた。自分はどこにいても何をしていても、誰も気にとめない人間なのだ。ずっとそうだったし、これからもそうだろう。
 それでも恐ろしくて恐ろしくて、自分が何をしたのかを忘れてしまいたかった。だがその一方、身体のどこかに、何かをかなぐり捨て、ときはなったような奇妙な快感もこみあげてきていた。
     ※
 ロンギヌスはふっと、不思議な不安を感じた。
 あの男がまだ無事に監房にいるのか、突然気になりはじめた。
 よくあることとは知っていた。大きな仕事をしあげたあと、単純なミスをしていないかと心配になって、たしかめずにはいられなくなる。あるいは、ひょっとしたら、それは口実で、そうやってもう一度、自分の仕事の成果を見直して満足したいだけなのかもしれなかったが。
 どのみち、家に帰る前に、もう一度、あの男を見ておいて悪くはあるまい、とロンギヌスは思った。明日、コロセウムで処刑されるならもう二度と見ないままになるのかもしれないのだし。
 彼は立ち上がり、男のいる監房に向かった。
     ※
 男が天井からつるされている監房は、廊下の奥の小さいへやだ。上から下がった鎖に両手を大きく開くように上げて、男はつり下げられるようにして立っていた。落ち着いた目で、ちらとロンギヌスを見たが、すぐまた思いにふけるように静かに視線を天井の方に向けてしまった。
 近づいて行きながらロンギヌスはまた男を観察した。そうやって両手を高く上げていると、肩からひじにかけてのすばらしい筋肉が腕にからみつくように、はっきりと浮かび上がっているのがわかった。チュニカもはぎとられて下着だけの身体の、あらわな脇腹も足も、気持ちよいほどにつりあいがとれ、ひきしまって、肌はみずみずしかった。コロセウムで遠くから見ている時も思ったことだが、この男の筋肉には、ごつごつとした荒々しさがなく、息苦しさを感じさせない。若い鹿のようにやわらかくしなやかで、絹のようにしっとりと優美だ。
 手首の鎖がしっかりととまっているか、手をのばしてたしかめながら、それとなくロンギヌスは男の腕にふれてみた。あたたかくなめらかな手ざわりがあったが、男はロンギヌスがふれても、まったく気にしていないようで、無関心な静かな表情を少しもくずさなかった。ととのった素朴な顔は、老成と円熟を見せ、威厳と品位をたたえているのに、どこか少年のように初々しかった。彼が気にしてないようなので、ロンギヌスもつくづくと、その顔をながめた。耳のかたちも、鼻のかたちもいい。口もきれいで、目も美しい。殺されるのは惜しいことだと思った。コッセイアスなどに傷つけさせてたまるものかと思った。
 だが、この男が、ほんのわずかなすきをとらえて、四人の士官をたちどころに殺して処刑場から脱走したという話もあった。油断は禁物だと思い、注意深く身体を離しながら、かがんで足元を見ると、男は少しつま先立ち気味にしていた。足をさわると、力を入れているのがわかる。これはつらいだろうと思ったのでロンギヌスは壁際に行き、滑車を回して男の鎖を少しゆるめて下げてやり、楽に立てるようにした。男のそばに戻って、もう一度身体をかがめ、さっきより足が楽になっているのをさわってたしかめていると、男がロンギヌスを見下ろしていた。だが目が合うと無表情のまま、黙ってまた目を上げた。
 殺すのは惜しいな、とロンギヌスはまた思った。もっとも、美しい女や立派な男の囚人に対してそう思うことは時々あるので、特にそれ以上、何かを思ったわけではなかった。もう一度、男をながめてから、彼は黙って監房を出た。
     ※
 涙を流しつくしてドルシラは眠っていた。息子の仕事場の固い寝椅子の上で。息子の匂いがかすかにして、もう二度と会えない、この手に抱けないと思うと、悲しみで身体が動かないほどだった。眠りつづけて死にたいと思った。夢の中で何度も彼女は息子の名前を呼んだ。何度目かにそれに答えて、息子が返事をしてくれた。母さん、母さん、母さん。
 「母さん、母さん…起きるんだ!」
 雷にうたれたようにドルシラは、息子の声が夢の中ではなく、すぐそばで現実に聞こえていたことを知った。でも、なぜ?どうして?血走った目で自分を見つめ、あえぎながら寝椅子のそばにひざまずいている息子の顔を、まばたきしながら彼女は見上げた。
 「ブラシダス!生きて…おまえかい?釈放されたの?」
 若者は首をふった。「ちがう。でも、何が何だかわからない。すぐに逃げよう、母さん。ここを離れるんだ」
 「でも、おまえ…」ひきおこされるままにドルシラは立ち上がり、息子があわただしく床石の一枚をはがし、かくしていた金や大事らしい品物を袋の中に放りこんでいるのを見つめながら、ぼんやり髪をかきなで、着たままで寝た服をととのえた。「どこにいたの?どこから来たの?」
 「あとで話すよ。誰かがおれを…牢から逃がしてくれたんだ」息子は床石をもとに戻し、砂を手でなでてきれいにすると、あたりを点検するように見回し、荒々しくドルシラの腕をつかんだ。「身支度なんかどうでもいいから。まだ夜明けで暗いし、誰も見やしない。明るくなる前に都を出よう」その手の手首がすりきれて、血にまみれているのを見たドルシラが叫び声をあげて身をふりはなし、薬をつけなきゃと口の中で言いながら傷の様子を調べ始めたのを見て、息子はようやく、いつもの、困った母さんだなあというような優しい笑顔をちらりと見せた。「こんなの気にしてる場合じゃないよ。あとでゆっくり手当てをするよ。殺されるところだったんだ。誰かが夜明けにやってきて、おれの鎖をはずしてくれて、自分にはできない仕事をおれにしてくれと言った。皆のために、世の中のためにって」ブラシダスは袋を肩に放り上げ、母の手をしっかり握った。「さあ、急ごう。早く、母さん!」
 夢ではない。そう言い聞かせて歩き出しながら、今聞いた息子のことばをドルシラは思い出し、つぶやいた。「おまえを逃がして下さった、その方がどうか幸せでありますように。神々がその方にありとあらゆるお恵みをお与え下さいますように」
 「感謝するのは、無事に都を出てからでいいよ」ブラシダスはいつもの、ぶっきらぼうな口調で言った。
     ※
 ロンギヌスは机に手をかけて、ゆっくり大きく身体をのばし、あくびをした。そろそろ帰ろう。思いきり熱い風呂に入って、ぐっすり眠るとしよう。昨夜はあのごたごたの中で、コロセウムの地下牢から囚人が一人脱走したそうだが、それは自分の管轄ではないし、どのみち大した罪人ではない。あの剣闘士は皇帝の望んだまま、無傷で彼にひきわたされるだろう。何もかも、きちんとしている。一仕事終わったあとの満足感が、何とも言えず快く、彼の身体を満たしていた。
     ※
 ローマの町に陽が昇った。
 コロセウムの巨大な建物が朝の光に金色にかがやく中、鳥の群がいっせいにはばたいて、その回りを舞い上がって行く。
 夜は明けた。


 (その一夜・・・・・終      2003.1.22.)







「トラフィック」が、なんぼのもんじゃい(笑)
             ーあとがきにかえてー

 映画「グラディエーター」は2000年のアカデミー賞を、作品・主演男優はじめ、いくつかの部門で受賞した。私は人にしろ、作品にしろ、もらった賞では価値を決めない。むしろ私が評価した人や物に与えられたことを、その賞の価値を高めたものとして喜ぶ(傲慢なのである)。そういう意味で、この結果には大変満足した。そしてまた、同じ理由から、監督賞と助演男優賞を受賞しなかったことが、今でも強い不満である。リドリー・スコット監督とホアキン・フェニックスは、絶対に他の映画ではなく、この映画で受賞すべきだったと今でも、思っている。
     ◇
 その時に、その二つを受賞したのが「トラフィック」という映画で、どんなにいい作品かと思って期待して見たら、いろんな理由でまったく気に食わなかったので、私の不満は倍加した。だいたいハリウッドの社会派映画となぜか私は性が合わないとか、理由はいろいろあるのだが、ここで一つだけあげると、私はこの映画が「いくつもの関係ない人の話を混乱させないように交錯させて作っている」ということが「さすが才人監督」と高く評価されてるのが、さっぱり理解できなかった。そんなことは小説であれ、映画であれ、あたりまえのことであって、むしろそれを目だたないようにするのがプロの気概というもんであり、そういう誰でもできる初歩的なイロハみたいなテクニックを、別にどう見ても必要もないのに、これ見よがしに前面に押し出し、「私、こんなことができるんです」と得意面しているセンスにあきれた。才人どころかアホじゃないか、このセンスの悪さたるや尋常ではないと思った。鼻につくとはこのことで…とまあ、どうせ監督に会うこともないからと思って悪口並べていると、きりがないのでもうやめる。でも、私の周囲でも、けっこう、この手法が面白かったと感心している人がいて、私は「そんなんでいいんだったら、誰でもやれる。私だって、すぐできる」と豪語したのだった。
     ◇
 「その一夜」は、その時生まれたアイディアで、二年ほど放っておいたのは、やっぱり、そういう、人をバカにするために作品を作るのはいかんのではないかと思ったのと、マキシマスの最後の夜の彼の姿を書く勇気があるかどうか、自信がなかったからだった。だから、いろいろあって、それがふっきれ、書き出したら、ほんとに一週間であっという間に書けた。いっそ、「トラフィック」が画面の色を話によって変えていた(それだって、あたりまえだろう!?)のを真似して、場面ごとに文体も変えてやろうかとも思ったのだが、そこまであんな映画のことを意識するのは汚らわしいから、もうやめておいた。
     ◇
 でも、この話を書くきっかけ、エネルギーとなったものは実はもう一つあって、それはいささか恥ずかしいが、読めばどうせわかるから言ってしまうと、マキシマスがとらえられ、死にいたらしめられる悲劇の夜を苦しい思いで見つめつつ、心のどこかに「狩られるものを見つめている」快感、興奮もたしかに感じてしまうのである。これは「シートン動物記」の「狼王ロボ」の話に共通する心理で、そのようなかたちでのマキシマスへの愛は、大変よこしまな部分であるとは知りながら、やはりそれがある以上、私は書いておきたかった。もちろん、書こうとしたこと、思わず書けてしまったことは他にもたくさんあるけれど、この小説の根本をかたちづくる小さいけれど熱いマグマは、やはりその感情である。
     ◇
 近衛隊の組織も、宮中のしきたりも、例によってほとんどまだ調べないまま書いている。嘘やまちがいも多いだろう。だが、話の勢い、人物の心理の流れ、そういった最も大切な部分では、この作品に嘘はない。まあ、ひょっともし、映画化でもされる時には、考証して直していただければいい(笑)。そういう部分のまちがいしかないはずと、自負している。
     ◇
 以下はネタばれです。本編を読んでない方はご注意を。
 マリウスは映画のあちこちで顔を見せているぎょろりとした目の近衛兵。アンティノスも時々見えている、のっぽのとろんとした顔の兵士。凱旋の儀式の時には居眠りしてると映画のファンサイトで指摘した人もいる。
 これも聞かれそうだから言うと、最初に出てくるトゥリアとルブリアの娘が、マイアとネメシス、ミュリネとシルウィアのどっちなのかは私にもわからない。シルウィアは「冬空」に登場していて、命が助かって幸福になるので、どっちかはかなり重要と思う人もいるだろうが、何しろ作者も決めていないので、わからない。しかし、それは問題ではないだろうとも思う。彼女たち四人の誰が二人の女の娘であったとしても、残りの二人にもまた母があり家族があり、愛する人と未来とがあったはずなのだから。ジョン・ダンの詩ではないけれど、「されば問うなかれ、誰がために鐘は鳴るやと」である。
 ネメシスも「マキシマス日和」に登場する、きびしい顔の女である。「海の歌」でグラックスが「ネメシスという皇女の侍女が死んだ」と言っているのは、ミュリネが名前を言わないまま死んだため、二人のことが後の人々の噂の中ではごっちゃになったのだと思ってほしい。
 ブラシダスが後でマキシマスの話を聞いて、あの夜、自分に話しかけたのはマキシマスではなかったかと思いながら、その後の人生を生きたとか、まだまだ話は続きそうでもありますが、ひとまずは、このへんで。書いてしまえば、実はとても好きな小説で、こういうものを私に書かせたということでは、「トラフィック」という映画と監督には、やっぱり深く感謝しなくてはいけないのかも。