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象が眠る村     ーマキシマスとビービィー

 あなたは自分の生まれ育った村で一生すごしても悔いはありませんか?自分の可能性をためすために、遠い都に出ていってみたいと思ったことはないですか?これは、ローマ帝国の若い兵士の目を通して、アルプスの小さな村を舞台に、「村を出る」とはどういうことかを描くお話です。

(出世と栄達の道が約束されていながら、故郷の妻のもとへ帰ることを選んだマキシマスのまだ若い日には、こういう体験があったのではないかという物語です。登場するのは「ミステリー・アラスカ」のビービィはじめ、「クロッシング」の若者たち、「ヘヴンズ・バーニング」のコリンなどなど。故郷や家族、人生の目的などについて彼らが語り合う中に、マキシマス自身が自分の村を出た日や、「選ばないでもすんだ」彼の過去の話も登場しています。)



象が眠る村     ーマキシマスとビービィー

        ― T ―

 一寸先も見えないとはこのことだ。すさまじい吹雪だった。まだ冬には間があると甘い判断をして、このアルプスの山越えの道を選んだ自分の、指揮官としての軽率さを私は責めた。
 我々の一行は十五人。私を除けば皆十代の少年だ。ローマ軍に入りたいという希望者をつのって、私の故郷のイスパニアやガリアの各地の村々からかき集めてきた連中だが、この分では敵と戦う訓練を基地で受ける前に氷河に落ちて死にかねない。
 闇なのに、あたりが白い。積もった雪と吹きつける雪とが革の鎧や毛皮の外套のすきまから皮膚を刺して燃えるようだ。感覚のすべてが混乱していた。現実が遠ざかりつつあるようで、腹の底から恐怖が生まれた。すでにもう、この世ではないどこかに踏み込んでしまっているような。
 進むしかない。それだけがわかっていた。吹雪がやむまで待とうにも、あたりに身をかくすものかげはない。
 耳をつんざいてうなる風の中を、たがいにすがりあいながら、よろよろと私たちは歩みつづけた。
          ◇
 やわらかく重い何かが私にぶつかった。人間らしい。先頭を歩いていた私に?よろめきながら身構えて、今度は私の後ろの兵士に背中をぶつけた。
 「誰か?」と私は誰何した。たったそれだけでも凍るような空気が肺の奥までなだれこむ。
 「あんたたちは?」風の壁の向こうから声が聞きとれ、相手もこちらをすかして見ている気配がした。
 「ローマ軍だ」
 相手は驚いたように一瞬沈黙した。「まったく、あんたたちときたら」まもなく声はそう言った。「この世のどこにでもいるんだな。道に迷ったんですか?」
 「山を越えて」私は答えた。「海岸の基地に行くつもりだった。そうしたらこの吹雪にあった」風の音に負けまいとして声をはり上げた。「どこか、身をかくせそうな場所をさがしている」
 「この先に、村があります」声は言った。
 「たしかか?」
 「私はそこの出身だ」声の主はまだ若い…私と同じくらいの青年のようだった。「だから、まちがいありません」
          ◇
 私たちのやりとりの間にも氷のように冷たい風と雪が周囲にうずまき、私たちの身体の熱を奪っていた。私が考えている間に兵士の一人が「行きましょう、隊長」と、泣き声をあげた。「このままだと死んじゃう」
 そういうことば遣いは、と注意しようとしたせつな、ひときわ強い突風のような風が吹いた。何人もがよろめき、そいつか、その隣りのやつかが悲鳴をあげた。足もとの雪が大きく崩れて、暗いさけめがぽっかり口を開けたのだ。
 今までそういうことがないかと緊張していたのだが起こらなかった。それが今、気をゆるめたとたんに現実となった。悪夢を見ている気がしながら、一方で奇妙に冷静に私は二人の腕をつかんで固い地面にひきずり戻そうとした。見知らぬ声の主も手を貸してくれたようだ。だが、何とか二人をひき上げて、足をふみしめ直した時、岩の間か氷のすきまに私は足首をすべりこませてねじってしまい、脳天までつきぬけるような痛みに危うく声をあげそうになった。
 幸い誰も気がつかなかった。歩けるのだろうかとあやぶんだが、足をひきぬいて雪を踏みしめると、かかとから膝までねじれるような痛みが走るものの動かすことは動かせた。とりあえず私はほっとした。動けさえすれば痛みは何とかなる。
 「案内してくれ」と私は言った。「その村に」

        ― U ―

 暖かい闇の中のどこか遠くから、子どもの笑い声が聞こえた。一人ではなさそうだ。女の声が言っていた。「静かにしなさい。眠ってる人がいるんだから」
 ぱちぱちと火の音がした。うまそうなスープの匂いも。身うごきすると気持ちのいいシーツが身体をつつんでいるのがわかった。
 「今年は冬が早いな」おだやかな男の声がした。
 「そうですね」女が答えている。
 私は目を開けなかった。だが身動きして寝返りをうった。誰かの大きな重い手がのびて、ふとんをかけ直し、上から軽くたたくのがわかった。
 「皆は?」私は目を閉じたまま口を動かした。
 聞こえにくかったのか、誰かが私の上にかがみこみ、あたたかいその体温と、身につけているらしい毛皮の香りを感じた。「何だ?」とさっきのおだやかな声が聞いた。
 「皆は?」私はくり返した。
 「あんたの部下か。皆無事だよ」男は言った。「元気だ。何も心配いらない」
 私はうなずき、またうつらうつらした。
 この男は昨日、村に着いた時に、たいまつをかかげて我々を迎えに来てくれた男なのだろう。ぶあつい毛皮の外套を着て、皆の先頭にいた、背の高い…。凍えきった部下たちが火のそばに座りこむのを見とどけて、私がふらふら小屋の壁によりかかった時、「隊長さん、大丈夫か」と言って私を支えてくれたのもたしか、この男だった気がする。「あんたが一番まいってるんじゃないのか。どっか怪我してるのかね?」その声をどこか遠くに聞きながら私は眠りこんでしまったのだった。
          ◇
 凍傷になってたらいけないと思って、眠っちまったあんたの長靴をぬがそうとしたら、足首が二倍以上にはれ上がってたぞ。目をさました私の足の手当をしてくれながら、男は笑ってそう教えた。あんたの部下たちには教えなかった。夢うつつにあんたが知らせたくながってる様子がわかったからね。だから、おれの家にあんただけ運びこんだ。だけどかえってまずかったかな。子どもたちがうるさくって、よく眠れなかったんじゃないのかい?
 私は笑って首をふり、ふり向いて、ドアのかげから興味しんしんでこちらをのぞいている、金髪の小さな二つの頭を見た。
 「あんたの子ども?」
 「まだ小さくてな」男は唇に指をあてて、静かにしろと子どもたちに合図しながら言った。「すぐにどたどた騒ぐんだ」
 「慣れてるよ」私はほほえんだ。「うちも子どもは多かったから」
 子どもの一人がとうとうがまんできなくなったようにかけこんで来て、父親にしがみついた。男はその身体をつかんで持ち上げながら、柔和なあたたかいまなざしで笑った。
          ◇
 二日ほどして私はびっこをひきひき、家の外に出てみた。
 あの吹雪がまるきり嘘のように、空は真っ青に晴れていた。それを背景に白い雪の峯がのしかかるように輝いて大きく高くそびえている。
 あたりを見回すと、がんじょうな丸太小屋がいくつも雪になかば埋もれるようにして建っていた。家の屋根や壁は明るい緑や赤に塗られて、白い雪の中、鮮やかに目にしみいる。子どもたちがきゃっきゃっと雪の中を転げまわって遊んでいた。大きな犬も何頭か楽しそうにいっしょにかけまわって吠えていた。
 のどかで力強い光景だった。一瞬ここでのんびりと死ぬまで暮らす自分を夢みた。
 重い足音がしてふり向くと、宿の主が落ち着いた足どりで家の前の階段を下りてきていた。私と並んで立ち、家の前のたきぎ置き場の低い柵に手をかけながら彼は「雪をあまり見ると目をやられるぞ」と、私の方ではなく、家々の方を見ながら注意した。
 「そうだな」私はうなずいた。「あんまりきれいだから」
 「ローマには雪はないのか」男はやはり向こうを見たまま私に聞いた。
 「わからない。行ったことがないんだ」
 男はちょっと私を見た。「ローマ人だろ?」
 「私はイスパニア生まれだ。属州の出身で、今はゲルマニアの戦線にいる」
 「ほんとか」男は低くうなった。「まったく、やるもんだな、ローマも」そして、首をふった。「この村にいちゃ、世の中のことが何もわからない」
 私は男を見た。そんな風には見えなかった。彼は私より少しだけ背が高く、身体はずっとがっしりしていて大きかった。力強い、聡明な顔をしていた。世の中のことは皆よくわかって、すべてを知っているように見えた。そんなことを人に対して感じることはめったになく、そのことに私は自分で驚いていた。
 「この道を越えようとしたあんたの考えは悪くなかった」男は特に私をなぐさめているようでもなく、淡々としてそう言った。「吹雪にさえあわなけりゃな。あの峠を越せば、すぐ平原に出る。だが、まず足を治すことだな。それじゃ長くは歩けない」
 「ああ、そうだな」私は吐息をかみ殺した。「何だかまったくばかみたいだ。自分の足のせいで…こんな…」
 男は面白そうに私を見ていた。「あせるな」と彼はおだやかな、命令しなれた人間の自信にあふれた口調で言った。「あんたの仕事は今はそれだ。休むことだよ。氷河でもゆっくり見物してな」

        ― V ―

 私の部下たちは元気にしていた。元気すぎるぐらいだった。氷河見物をしたり、村の娘たちとはしゃいだりして。私だってそんなに彼らと年は変わらないはずなのに、何だか見ていて疲れてしまう。
 「皆、まだほんの子どもだな」私といっしょに村の中を歩いて彼らを見ながら、私の宿の主はぽっつり言った。
 かすかなかげりが、その声にあったような気がして、私は彼の顔を見た。だが彼はもうおだやかに笑って私を見返し、「鷲の軍団は人気がある」と言った。
 「うん」私は口ごもった。
 「人集めに苦労はいらないんだろうな」男は静かにそう続けた。「あんたの故郷の連中か?」
 「でもない」私は軽く息をついた。「イスパニア、ガリア、ダキア…いろんなところから彼らは来てる」
 「この村からも時々そうやって出て行く者がいる。何かを求めて…めざしてな」男は言った。「あんたたちをここへ案内してきた、彼もそうだったよ」
          ◇
 その若者なら、あれから何度か村の中で会った。髪型も服装もどことなく村の者とはちがっているから、すぐわかった。いや、顔立ちも身体つきも村の若者のようではない。一種の危険なひらめき、すさんだというのと紙一重のような鋭さが、微笑にもまなざしにも感じられた。それが生まれつきなのか、外の世界で暮らしてきたせいなのか、私にはわからなかった。彼はどことなく、山の斜面で草を食べている黒い山羊に似ていて、私はひそかに心の中で彼を黒山羊と呼んでいた。
 彼が何をしに村に帰ってきたのか私にはわからなかった。彼は村の同い年ぐらいの若者たちや、私の部下の兵士たちと、よく楽しげに談笑していた。誰といても彼は目だった。どこか異質で華やかで、そして少し淋しげだった。
          ◇
 ある日、私はモミの木の下で、黒山羊が若い娘と顔をくっつけんばかりにして何かひそひそ話しているのを遠くから見た。そんなに遠くからでもわかるほど、牛乳のように白い肌とまぶしい金髪の娘で、ふっくらと愛らしい身体つきは素朴で健康そうだった。
 あの子に会いに帰って来たのかな。
 何となくそう思ってながめていると、もう一人別の若者が通りかかって、いらいらと娘の顔を見ている。
 黒山羊と反対に、見るからにこの村の若者だった。ぼさぼさの茶色の髪に毛皮の服をもこもこと着込み、すり気味の足どりで歩く様子は大人になりかけの栗毛の子馬のようだった。
 娘は彼に気がつくと、黒山羊からはなれて、彼の腕をとり、いっしょに帰って行った。ただそれだけで栗毛はとても勝ちほこった、うれしそうな様子をしていた。

        ― W ―
          
 自分はあの二人の若者…黒山羊と栗毛のどちらに似ているのだろう?
 ふっと、そんなことを思った。
 この村に若者はあまり多くない。むしろ年寄りの顔がめだった。それだけに栗毛は、人々にかわいがられて大事にされており、あの金髪の娘と彼がいっしょにいると、人々は好意のこもった目を向けていた。
 村を出て行く者、村に残る者。
 黒山羊は、何をしに帰ってきたのだろう?
 足をかばってゆっくりと村の中を歩きながら、私はそんなことをとりとめもなく思いめぐらしていた。
 自分が二人の若者のどちらに似ているのだろうと気になった理由は、すぐには気づかなかったが、そのうちにわかった。
 あの宿の主の男が、私をどう見ているかが気になっていたのだ。それでふと、彼の目から見たら自分はどちらの若者に似て見えるのだろうと、そんなことも思ったのだ。     
          ◇
 男が私を特に見ていたというのではない。ベッドから起きて彼の家の中を歩いた、そもそもの最初の日から、彼はまるで昔から私がそこにいたように、私のいることを全く気にかける風がなかった。二人の小さい男の子ははにかみながら私になつき、彼に似て無口な妻は食事のたびに私にあたたかく笑いかけてパンやチーズを回してくれた。彼らの様子には自然なものめずらしさがあり、私がいることで感じている軽く快い興奮があった。だが、男はまるで長いこといっしょに住んでいる者のように私をうけいれ、何ひとつとまどう風がなかった。
 「あれを出してやれよ」と、ある日の朝食の時、彼は妻に言った。私を見ながら。
 妻がちょっと首をかしげると、彼はほほえんで「うん」とうなずいた。
 すると妻は立ち上がって、男がいつも手首につけているのとよく似た毛皮を持ってきて男に渡し、男はテーブルの向こうから立ってきて私の手首にそれを巻いて紐で結んだ。
 二人のしぐさはまるで一人の人間のように、ひとつらなりで、そのしめくくりに自分がいたことが、びっくりするほど幸福に思えた。
 「前におれが使ってたやつで古いが」と男はスープの上にかがみこみながら言った。「当座の役にはたつだろう」
 食事のあと、その毛皮を手首につけて、男といっしょに暖炉に燃やすまきを、村の共同のたきぎ置き場から運びに出かけた。小さいそりにまきの束を二人して積みながら、この男のようになりたいと思っている自分に気づいた。この厚い胸板、この太い腕、そしてこの落ち着いてあたたかいのに、どこか冷たく厳しく相手を射すくめるような目を、いつか自分も持てるようになるのだろうか。何だか無理なような気がした。この男のどっしりとゆらがない力強さは、私が今いる世界と生き方からは得られないもののような気がなぜかした。
          ◇
 「私たちを村に案内してくれたあの若者が」私はまきの束を重ねながら男に向かって話しかけた。「金髪の娘とモミの木の下で話しているのを見た」
 「ルドとヘルガか」男はすぐにそう言った。「昔、恋人どうしだったからな」
 「今はちがうのか?」
 「ルドは村を出て」男はまきの山にもたれるようにひじをついて、私の方に顔を向けた。「ヘルガは今、ウーリとつきあってる。いずれ結婚するんだろう」
 「ウーリって?」
 「いつもヘルガといっしょにいる、茶色の髪の若者さ。母親と二人で暮らしてる。働き者のいい子だ。ルドとも友だちだった。母親が病気でな。この村をはなれられない」
 彼はまだ何か言いたそうに私をじっと見たが、すぐにまた身体を起こして、たきぎをつみはじめた。
 私も彼を手伝いながら、「ウーリは村を出たかったのか?」と聞いた。「そして娘は…ルドがいなくなったからウーリとつきあったんだろうか?」
 男は大きなまきの束をどさりと私の腕にのせて、私をよろめかせた。わざとやったのがはっきりわかる笑顔で笑いかけながら、眉の上にたれかかる前髪をはねのけて「いろんなことをいっぺんに聞くなよ」と言った。

        ― X ―

 「すまない」私はわびた。
 男はいいんだというように手をふり、じっと曇り空の下、灰色の雲をまとって村にのしかかっているような巨大な白い雪の山を見上げた。雲が刻々動くにつれて山もまた身じろぎし、かたちを変えて行くようだった。
 「あんたが連れてきた、あの連中ぐらいの年になると」彼は言った。「この村でも皆、若者は、村を出たがるようになる。実際、かなりのやつが出て行く。戻ってくるやつも中にはいるが、ルドが戻ったのは意外だったな。この村よりもっと広い世界で華やかに生きていくのが似あいそうに見えたんだが」
 私が黙って考えていると男は、「ウーリの方の気持ちはわからんな」と言った。「あれは、優しい若者だ。少し優しすぎるくらいだ。あれじゃ町では生きていけないだろうし、本人もそのことは知っているかもしれない」
 「彼は、ここなら暮らせるのか?」
 「彼でも、誰でも、ひとまずはな」男はあたりまえのようにあっさりと、少し上の空のような調子で言った。「冬は厳しいが、食べ物は何とか確保できるし、ぜいたくを言わなければ何とか暮らしてはいける」
 「危険といったらなだれぐらいか」
 男は笑った。「そんな所に村はできない。あの尾根が氷をさえぎる。この谷は大丈夫だよ。ただ寒さが厳しくて牧草が充分でない年がある。すると家畜が倒れ出す。疫病の年も同じだ。それが重なるとお手上げだ。村人の中には娘を町に売る者も出る。おれがあんたぐらいの年のころまでは何年に一回かそうしたことがあった。姉や妹が売られたときのことを覚えている者も多い」男は唇を結んで、雲にかくれようとしている巨大な山の頂きを見た。「もうそういうことは」と彼は約束するように言った。「ないだろうが」
 彼は私に目を戻した。「それであんたはどうなんだね?」と彼は聞いてきた。
          ◇
 おだやかで、まっすぐな口調だった。まるで私がそう聞いてほしがっているとわかっているように。そう聞いてほしかったというわけではないのだが、たとえば鈍い痛みともうずきともわからない、ぼんやりと熱っぽくほてっている身体の部分に、突然しっかり手をおかれたような気がして、私はまばたきした。「何が?」
 「あんたは村を出たんだろ?」彼は言った。「おれたちとちがって」
 「ああ」
 「できたら話してくれないか」男はほほえんで私を見ていた。「村を出た時の気持ちを。どうやって決意したのか」
 「わからない」私は口ごもった。「あまり覚えていなくって」
 男はちょっとけげんそうに私を見、私は恥ずかしくなってまたまばたきした。
 「話したくないなら」男はあっさり、ごく自然に言った。「別にいいんだ」
 「そうじゃなくて、本当に覚えてないんだよ」私は言った。「村を出たのは六つの時だ。兄たち二人が軍に入りたがって、家を逃げ出した。その時私も連れて行かれた」
 男は面白がっているように、ちょっと眉を上げた。「それは…さらわれたって言わんかな、ふつう」
 「どうかな」私は口ごもった。「兄たちがこっそり家を出て行くので、何か面白いことがあるのかと思ってついて行ったんだよ。夜明けだった…村を出て少し行ったところの十字路で二人はおれを見つけて、びっくりして、そこにいるんだぞと言って近くの石の上におれを座らせて、何かひそひそ言いあってた。それから二人でおれの前に来て、いっしょに来るかと聞いたんだ。いやなら一人で帰れって」
 「それであんたは行くって言った」
 「夜明けで、暗くて、寒かった。そんなに遠くまで一人で来たことなかったから…一人で家まで帰れるか自信がなかった」
 男はくっくっ笑った。「かわいそうに」と彼は言った。「だがまあ、そんなもんかもしれんな。村を出る時の気持ちなんてものは」
 「何も考えなかった。何もわかってなかった」私はうなずいた。
 「あんたじゃなくって、兄さんたちだ」男は言った。「おれにはわかる気がする。あんたを家までつれて帰って行ってたら、そうしたら…もう旅だつ勇気が出ない。そんな気がしたと思う。もう一度家を見る。もう夜があけたし、時間が遅くなった。出発は明日にしよう。そう思うのさ。そして、おしまいだ。永遠に彼は村から出て行けない」
 彼は遠い目をしていた。そしてまた雪の山を見ていた。雲は晴れて山は今、巨大な峰のすべてのかたちをあらわしていた。そびえたつ白い先端、そこにつながる灰色のうねった谷や峡谷の筋がくっきりとうかびあがっていた。男はそれを見上げながら、なつかしく優しいまなざしで笑っていた。
 私も雪の山を見た。「白い城壁のようだ」と思ったままを言った。
 男はうなずいた。「あれが、おれたちをはばむ。ここに閉じ込める。そして、おれたちを守る。ローマから。世界から」
 彼はほほえんだ。「昔、ここを象が通ったんだよ」彼は言った。
 「象?」
 「大きな…」彼は手で示した。「けものだ。南の国の」
 「本で見たことがある」私は言った。
 「それがここを通ったんだ。ハンニバルって将軍がつれてきた。アルプスを越えてローマを滅ぼそうとして、大軍勢を率いてな。戦いの結果がどうなったかは知らない。ローマがまだ栄えてるんだから、彼は負けたんだろう。ずっと昔の、大昔の話だよ。だが、おれはそれを聞いた時、目まいがするような気がした。そんなに遠くから、そんな大軍をひきいて、こんな山の中の村にまで来た人間もいたのかと」
 彼は私を見て笑った。「礼儀正しい軍隊だったそうだ。乱暴はしなかった。村の娘たちの中には兵士たちと恋をして、みごもった者もいたらしい。彼らの血がこの村には流れてる。もしかしたら、おれの中にもね」
 「ハンニバルの血が?」
 「それはどうだか」男は首をすくめて笑った。一瞬、少年のように見えた。 

        ― Y ―

 私の部下たちは、村のあちこちの家に数人づつ世話になって、すっかりくつろいでいた。くつろぐ、などという大人っぽいことばが、この羽もそろわぬ子スズメのような連中にふさわしいとするならばだが。彼らは年かさでも十五才で、中には十二才の者もいた。それさえもあるいは少しサバをよんでいるのではないかと私はひそかに疑っていた。図体はでかいが、顔は子どもの顔だった。
 この連中が一人前の兵士らしくするとは何かと彼らなりに考えているらしいことと言ったら、それはまず、私が見えるところに現れるといっせいに顔をこちらに向けることだった。そして何がうれしいのか笑い出し、「隊長」「隊長」と意味もなく呼びかけることだった。うなずいてやると大喜びし、ほほえんでやると飛び上がらんばかりだ。
 ほとほと、疲れた。私は六人兄弟の末っ子で兄たちからさんざんいじめられたりおもちゃにされたりしたことはあるが、年下の子の世話をしたことはあまりない。都に近い駐屯地にいる時、皇太子が時々遊びに来て一日私にまつわって帰ることはあった。だがあの皇太子も考えてみれば一応皇太子ではあるわけなので、私に甘えながらもいばりたがったし、私にあれこれ命令したり困らせるのが好きだった。
 それは私にとって楽だった。私は人に支配されたりいじめられたり言うことを聞かされたりするのが、あまり気にならない性質と自分で感じることがある。奴隷根性といおうか怠け者といおうか。
 支配されていると、支配している相手のことがよく見えるのだ。好みも人柄も能力もはっきりわかる。命令し、決断するのだから、それが当然だ。皇太子などは年下で目上だから、もう何を望んでいるか何を恐れているかが刻々すべて見え見えだった。
 逆に人の上に立ってしまうと、支配する相手は見えにくい。警戒するし、本心をかくされる。何よりこちらに従っていればいいのだから、自分をあらわにしなくてもすむ。そして、こちらは常に見られているのだ。命令しては、決定しては、常に自分の望むこと、できることを人前にさらしつづけている。
          ◇
 特にこの幼い部下たちは、古参兵とちがって顔色をかくせない。私に対する不安や失望が、すぐ表情や声に出る。これはけっこう私を疲れさせていて、それがあの夜の吹雪で限界に来たらしかった。足のけがを口実に私は男の家の中にこもりがちになっていたが、何となく男はそれを笑って見ているようだった。
 「あんたもまだ子どもみたいなもんなのに」と、ある時ふっと彼は言った。「子どもの世話は疲れるよな」
 ふしぎに腹はたたなかった。この男に言われたら、その通りだと思った。だが男はすぐに「失礼した」と言った。「あんたは立派な隊長さんだ。ただ…」
 「ただ?」
 その時、彼の幼い息子の一人が寒さにほほを真っ赤にしてかけこんできて、彼にもつれかかりはじめたので、男が何を言おうとしたのかはわからないままになった。
          ◇
 雪はあれから降らなかった。陽射しがまぶしく村に注いで、屋根や木々につもった雪や、垂れ下がったつららをまぶしくきらめかせる日がつづいた。けれども寒さはきびしくて雪も氷も溶ける気配はなかった。このままもう一度大雪がふれば、峠の道はとざされはしないかと私はあせりはじめたが、宿の主の男は私の足を調べて、まだ無理はしない方がいいと言った。「心配しなくても」と私の心を見ぬいたように空をあおいで男は言った。「雪はもうしばらくはふらない」
 「なぜそんなことがわかるんだ?」足の痛みがなかなかとれずにいらいらしていたこともあって、少しだけ私はくってかかる口調になった。
 男は冷たいからかうような目を私に向けた。彼の方もその日は何かむしゃくしゃすることがあったのかもしれない。いつものどっしりした安定がなくて、それが私を動揺させ、またつけこませて、そんな口調にさせたのかもしれない。彼が私の小さな無礼を見逃さなかったのも、その不機嫌のせいだったろうか。「ここには長く住んでるからな、隊長さん」と彼は言った。「あんたみたいに何も選ばずに生きてきた人間とはちがうんだよ」
 「どういう意味だ?」わけがわからないなりに私も少しけんかごしになった。
 「自分が求めるものは、じっと待ってたらひとりでに与えられる人生をあんたは選んでるってことさ」男は座っていた両ひざを手のひらでたたいて立ち上がった。「さて、そりの調子でも見てくるか」
 「待てよ」私は彼を押しとめた。「どういうことか、はっきり言えよ」
          ◇
 男は軽く首をすくめた。「あんたはいつでも生きてるその場で、せいいっぱいの努力をする。そして、むくわれる。それ以外のものはあんたはほしがらない。だからいつでも満ち足りてる。ちがうのか?」
 私の返事を聞かずに彼は目をそらした。「だが、大抵の人間はそうじゃない。自分の努力や持って生まれたものにふさわしいものを得ているとは思わないのさ。手に入らなかったものがほしいんだ」
 「おれだってそうだ」
 「そうかな?」彼はそそのかすように私を見た。「あんたは自分から村を出なかった。兄さんたちにつれ出された」
 「だから?」
 「ずっとそんな人生なのじゃないのかい?あんたはすぐれた、いい若者だ。見てくれもいい。性格もいい」言っている内容とはまったく裏腹の鋭いあざけりがこもる口調だった。「汚いことをしないでも、まじめに努力さえしてりゃ、ほしいものは皆手に入る。そういう人生なんだろう?いつも誰かがつれ出して、ひき上げてくれる。あんたが無邪気に目をみはってると」
 「何が言いたいんだ?」
 「そんな人生に価値はないぞって言いたいね」
 気がつくと私たちは、雪の広場のかたすみで、突っ立ってにらみあっていた。白い息を吐きながら、二ひきの獣のように向かい合って。
 「人があんたに与えたいと思うものだけうけとって生きていて、面白いのか?楽しいか?」男は言った。「それともあれか、それがあんたのやり方か?うまく立ち回って、自分のほしいものを人がくれるようにしむけるのが。だとしたら、なかなかの腕だが」
 「ほんとに何が言いたいんだ?」
 「あんたのようには生きられないやつがたくさんいるってことだよ。いや、あんた自身だって、そのうち生きていられなくなるんじゃないかってことだよ。本当にほしいものをあんたは手に入れてるのか?それが何なのかわかってるのか?」
          ◇
 どうしてあの時、あんなに腹をたてたのだろう?気がつくと私は彼がくれた毛皮を手首からひきちぎっていた。ほどけない紐を夢中で歯でかみちぎって。雪の中にそれを投げすてると彼に背を向けて歩き出した。
 寒風のせいか、目に涙がにじんできて、私はこぶしでそれをこすった。部下たちがどこから見ているかわからないから、それ以上泣くわけにはいかなかった。
 重い足音が後ろから近づいてきて、男が追ってきたのがわかった。走ってはいなかった。大またの急ぎ足でずんずんせまってくる。私も足を速めたが、それでもすぐに追いつかれた。
 「悪かった」並んで速足で歩きながら息もきらせずに男は言った。
 「あやまることなんか、何もない」私は言い返した。
 気づくと、もう村のはずれだった。何て狭い村なんだと私はかんしゃくをおこしながら、あたりを見回した。やみくもに歩き出そうとすると、「そっちに行くと危ない」と男が後ろからおだやかに言った。「氷河に落っこちるぞ」
 私が歩きつづけようとすると男は初めて私の腕を後ろから、すくうようにしてつかんでとめた。「もういい」と彼は静かに力をこめて言った。「帰ろう」
 彼にひっぱられるままに私は黙って向きを変えた。だが、そうしながら振り返って男がとめた方向に白くのびている雪庇を見た。そこにまっしぐらに走って行って、はるか下に冷たく光る氷河の割れ目に身を躍らせてしまいたい。そんな思いがどこかにあって、かすかに身体をよじった。
 男は私を無理にひきずろうとはしなかった。釣った魚を泳がせながらたぐるようなゆるやかさで、手をゆるめながらまた引いて、ひとりでのように私に向きを変えさせた。そしてそのままゆっくりと注意深く私を歩かせ、村の方へとつれ戻した。私が何度か氷河の方にふり返るたび、しんぼうづよく足をとめて待ちながら。

        ― Z ―

 次の日私は、自分でも恥ずかしいと思いながら昼過ぎまでベッドにもぐってふて寝した。男が入って来て気分が悪いのかと聞くので、そうだとふとんの中から答えると、彼は私の顔や首に手をあてて熱のないのをたしかめるとそのまま黙って出て行った。
 昼をかなり過ぎると、私は退屈になった。第一、腹がへった。窓の外では日がさして小鳥の声がして、子どもたちが遠くではしゃいでいるのが聞こえる。
 ドアをノックする音がして男の妻が顔をのぞかせ、「ねえ、何か食べられそう?」と言った時、私はしんそこ、ほっとした。
 「うちの人は皆といっしょに、そり道の雪かきに行ったわ」焼きたてのほかほかのパンをほおばっている私に熱いお茶をさし出しながら妻は言った。「仕事はもう一段落しているころよ。行ってみる?」
 私はうなずいて立ち上がった。テーブルのはしに、あの毛皮がおいてあったので、黙ってとって手首にまいた。私がかみちぎった紐はきれいに修理してあった。
          ◇
 山が鳴る、というのだろうか。空気が震えるのか風の音か、白い峰が突っ立つ、その上にはもう何もない空から、いつも何かはりつめた音にならない音がひびいているような気がする。何かがいつもささやいて、歌っているような、そんな静けさの中に耳をすますと、それとはちがった本当のざわざわとにぎやかな人声が空気を伝ってきて、私の足はひとりでにそちらに向かった。
 村の中央の広場から、少し見晴らしのいいモミの木のある空き地まで、ゆるやかに登って行く道は、雪がきれいに両側にかきあげられてぴかぴか光る白い土手のようになっていた。かたわらの大きな小屋からざわめきと笑い声とオレンジ色の光が流れ出していた。夕暮れの青みがかった雪の上に、光は太い金色の筋を投げている。
 私はそちらに歩いて行った。
 重い木のとびらは少し開いていた。のぞくと、中は赤々と火がたかれ、村人たちがいくつかのかたまりにわかれて、しゃべったり、酒をつぎあったりしていた。入口にいた男たちはのぞいている私に気づくと、珍しいけものでも見たようにうれしそうに笑って顔を見合わせ、酒の入った杯を手にしたまま、ゆっくりと身体を動かして場所をあけ、私が中に入るまで戸口のたれ布を押し開けていてくれた。
 「火のそばへ行きなよ」一人があごをしゃくって言った。
 仕事が終わって一休みしているところらしい。私の宿の主の男は、くつろいで腰かけがわりの丸太に座って皆の話に耳をかたむけていた。私が彼を見つけるのと、彼が私に気づくのとはほとんど同時だった。
 反射的に私は目を伏せたので彼がどういう表情をしたかはわからない。
 彼のそばに行きたくなくて、どうしようかと迷ったが、例によって私を見つけた部下たちが口々に私を呼び、飛んできて私の手をつかみ、ひっぱって行って、結局私は彼とあまり遠くない、同じ話の輪の中に入ってしまった。
 と言っても彼は若者たちの後ろにいて、話を聞いていただけだ。中心になってしゃべっているのは例の黒山羊…ルドという若者で、私を見ると如才なく話を切って軽く頭を下げた。
 私はうなずき、「話をつづけてくれ」と言った。「私にかまわないで」
 そうは言っても部下たちが私に杯を押しつけ、酒をなみなみとつぐ間、ちょっと話は中断した。「隊長、ぐっと飲んで下さい、この酒なかなかいけます」と、耳まで真っ赤になった部下が私に言い、「おまえ、酒なんか飲んでいいのか?」と思わず私がまだ子どもにしか見えないその顔に向かって言い返すと、回りの村人たちの中からどっと笑い声が起こった。「そう言わずに隊長さん」「この酒は特別だ」「薬みたいなもんだから子どもだって飲んでいい」皆がそんな勝手なことをてんでに私に向かって言った。
 私はあきらめて杯に口をつけた。酒はたしかにうまかった。モミの木の葉の香りがただようような、野趣にあふれた舌ざわりだった。
          ◇
 「で、その男なんだが」ルドはとぎれていた話を続けた。「その女が人妻だってことはむろんわかってたんだ」
 回りの皆がため息をついた。「しかもローマの軍人のか」と一人があごをかきながら言った。
 「だから、関わるまいとしたんだ」ルドは首をふった。「だけど、女の方がなぜか彼から離れなかった。命を助けてもらったてのも、むろんある。だけど、それだけじゃなかった。女は彼にほれたんだ。夫にはないものが、彼にはきっとあったんだろうな」
 「だが、あんたの話じゃ、へまばかりしてるやつなんだろ」私の部下の一人が言った。
 「ああ、そうだよ」ルドはうなずいた。「でも、どう言ったらいいのかな。そいつ、こう、腕もいいしバカじゃないのに、どっかがんこなとこがあってな。損をする生き方ばかりするんだ。要領が悪いっていうのか。まるで、ものすごく強い人間みたいな生き方をする。それほどの力も運もないくせにな。その時もそうで、彼は女を見捨てられなかった。かと言って、ローマ軍人の妻を自分のものにして、行くとこなんてあるわけはない。とうとう彼は、ずっと昔に捨てて離れた、自分の部族の村に帰った。もう、そこしか自分を守ってくれるところはないと感じたんだろうよ」
          ◇ 
 ルドは長いしなやかな指先で、たきぎを火にくべ直した。
 「部族の仲間は彼が美しい女を連れて帰ってきたのを喜んで、心から彼を歓迎した。だが村はもう…昔のようじゃなかった。彼が捨てて離れた時も時間がとまったような村だったが、今はもう、時間が逆に流れているようで、すべてがよどんで、さびれていた。寒い陽射しの中にうずくまっている、病気の牛のように…滅びるのを待っているようで、そのことを知っているようで。彼を守る力も、うけとめる力もありそうになかった。そんな村に救いを求めて、彼は帰ってきてしまったんだ。救いを求めているのは村だったのに、彼にその力はなかった。自分は村に、何もしてあげられない。でもせめて、迷惑はかけないようにするしかない。そう思って彼はすぐ女を連れて村を離れた。村人たちは皆彼を村はずれまで見送ってくれた。何かを予感しているように、優しく笑って、淋しそうに」
 皆は話に夢中になって気にとめなかったが、その時、私の宿の主のあの男が不愉快そうにふと、顔をそむけて立ち上がった。それは、この男には珍しい、これまで見せたことのない表情としぐさだった。男はそっと輪からぬけ出し、入口のたれ布を上げて、外へ出て行った。
 私はちょっと腰を浮かせた。隣りにいた部下がけげんそうに私を見て「隊長、どうかしたんですか?」と聞いた。
 「何でもない」私はまた腰を落とした。
 「はたして、それから間もなく、妻を奪われて怒ったローマの将校は、部隊をひきいて村を攻め、村はあっけなく全滅した。村人たちは皆殺しになった。それで…そいつはよく、酔うとおれに言ったんだ」ルドは話し続けていた。「おれは死神だ。村にローマ軍を連れて来て、ほろぼさせてしまった死神だよ、って」
 「そんな村なら、放っといてもその内ほろびたんじゃないのか」私の部下の一人が言った。
 「それに、死神っていうなら、男じゃなくて女の方だろ?」
 「それで結局、その二人はどうなったんだい?」
 皆がわいわいざわめきはじめたのをしおに、私はそっと立ち上がって小屋を出た。

        ― [ ―

 あたりはもう、とっぷりと暮れていた。星明りの下、雪はほのかに輝いていた。モミの木のある高台の方をすかして見ると、木の下に誰かがいるような気がして、私はそちらに道を登って行った。
 木の根もとの人影は、近づいて行くとほっそりしていて、私と同じ若者とわかった。もっと近づくと向こうも私に気がついて、ちょっと身構え、すぐ誰かわかったらしく肩の力を抜くのが見えた。
 「ウーリか?」私は声をかけた。
 「隊長さんかい?」
 ウーリの声を初めて聞いた。思ったよりも落ち着いた、深みのある低い声だった。そう言えばあの娘はさっきの人の輪の中にいたろうかと思ったが、思い出せなかった。
 「何してるんだ?」私は歩み寄りながら聞いた。「こんなとこで、一人で」
 星の光のせいだろうか、彼はいつものぼうっとした村の若者に見えなかった。傷つきやすい、もろい妖精のようだった。ひかれるように私は彼が座っていたモミの木の根っこの、雪の穴のようなくぼみの中に、彼と並んで腰を下ろした。
 そしてちょっとびっくりした。ウーリはそんな私に気づいた。
 「どうかした?」
 「思ったよりも暖かいんだな」
 「雪の中ってそうなんですよ」ウーリは笑った。「知らなかった?」
 「私の故郷じゃ、雪はほとんど降らないから」
 「ほんとか。すごいな」ウーリは目をかがやかせた。「いろんな国があるんだろうね。いろんなものを見たんだろうな」
 「そうでもないよ」私は言った。「兄たちに連れられて、軍に入ってしまったから…軍の生活なんて、どこでも、ほんとに同じなんだ。だから、どこに行ってもちっとも困らないんだが。風呂においてある石鹸までが皆同じで」
 ウーリはまた低く楽しそうに笑ってから「兄さんたちは村を出る時、あんたをつれて行ったのかい?」と、たしかめるように聞いた。
 「そう」
 「ああ、いいな」ウーリはため息をついて首をふった。「誰かそんな風にして、おれもつれ出してくれないかな。ここから、どこかへ。おれも気がつかないうちに」
          ◇
 私は何だかどきりとして黙っていた。これがあの男の言おうとしていたことなのかなと思った。だがウーリはやがて、年上のようなやさしさで私の顔を横から見て、「でもきっと、あんた皆にかわいがられていたんだね」と言った。「だから兄さんたちもきっと、あんたを連れてけば、うちや故郷を離れる気がしないですむと思ったんだ」
 「そうかな」私は肩を丸めて空の星を見た。「そんなに幸せな家でもなかったんだが。父はよく兄たちをなぐってたし、母は無口でめったに笑わない人だったし」
 そしてウーリが目をくるくるさせて、ふしぎそうに見つめている顔を見ていると、ふとあることに気づいて自分でも驚きながら言った。「そう言えば、でも、私には皆、やさしかった。末っ子だったせいだろうか」
 「多分ね」ウーリは言った。「皆はきっと、あんたをかわいがることで、まともでいようとしたんだよ。何かにやさしくしてないと、人って変になっちまうから」
 「もっとおたがいにやさしくした方がいいのにって、時々思ったもんだった」私は吐息をついた。「私をそんなにかわいがるなら」
 「孤独で、強い人たちのやさしさってそうだよね」ウーリは立てたひざを抱えるようにして腕を回し、そのひざの上にあごをのせて、きらきら光る目で前方の雪の道をじっとながめていた。「誰にも与えずにたまりにたまって、岩の間からしみ出る山の清水のように、ひとりでににじんで来る。あんたはそれをたっぷり飲んで育ったんだね。だからそんなにみちたりて見えるのに…そんなに淋しそうなんだ」
 私は驚いてウーリを見つめた。ウーリは前を見たままで、私を驚かせたことにも気づいていないようだった。「あんたがほしがってるのは、自分への愛じゃなくって、他の人どうしの愛なんだ。他の皆の幸せなんだ」
 何と言っていいかわからず、私は黙っていた。見上げると私たちの頭上で、星座が大きくゆっくりと、さっきから向きを変えていた。
 ウーリは低くため息をついた。「どっちみち、僕はもうだめだ」と彼は特に口調も変えないままで言った。「僕のやさしさは、もともとあまりなかったんだろうけど、この村に吸いとられて、もう枯れはてる寸前だ」
          ◇
 坂の下の小屋の方から、にぎやかに笑う声がかすかに雪の上を伝ってきた。
 「お母さんと二人ぐらしだったか?」私は聞いた。「そして、恋人がいるんだね」
 ウーリは苦笑し、「こんな小さな村では何でも知られちまう」と言った。「そんなら、僕の母が酒びたりで、恋人が僕を捨てかけてるってことも知ってるんじゃ?」
 私は首をふった。彼が黙っていたので聞いた。「お母さんは何かつらいことがあったのか?」
 「父が亡くなったんです」彼はそっけなく、さらりと言った。「ローマとの小ぜりあいで、七年前に」彼は私を見て笑った。「この村も、その頃は覇気があった。土地の権利をめぐって、ローマの役人と争ったんです。攻めてきた兵士たちを氷河に追いおとして、そして勝った…調停が結ばれて、村の権利は守られました。年寄り連中はそれが誇りです。年に一度…もうすぐだな…それを記念した祭りをして、村の広場で男たちが力だめしの集団戦をする。あ…」彼は目をさまよわせた。「そう言えば、その祭りの道具が見あたらないや。もうこの時期になると、とっくに村の角々に飾られているはずなのに。きっと年寄り連中がかくしたんだな。あなたたちに気をつかって」
 私は笑った。「そんなことしなくていいのにな」
 「ここはそういう村なんです。世界から忘れられて、次第にさびれて行って、その内誰にも知られないまま、ひっそりと消えて行くんだ…そうやって、村全体が死ぬのをただ待ってる」ウーリは言った。「過去の栄光にしがみついて…それだって、ローマや、よその村や町から見れば、覚えてもいないほど、ちっぽけな戦い…戦いとも言えないほどのごたごただって言うのにね」
 「ローマ軍に勝ったのなら大したものだよ」私は言った。「たとえ、地の利があっても、小ぜりあいでも。指揮官は誰だったのかな?」
 ウーリはちょっと驚いたように私を見た。「知らなかった?」と彼は言った。「あなたが宿にしてる、あの家の男ですよ」

        ― \ ―

 「その戦いの話はしたくないんだ」男は言った。
 「ローマ軍に勝ったから?」
 男は、そんなことは考えてもいなかったというように、目を見はって私を見、「いや」とほほえんで首をふった。「そういうことではないんだが」
 「あんたでもしたくない話ってのがあるのか」私はつっかかった。
 男はほほえみを消したが、目は笑っていた。「ああ」と彼は言った。「これでもな」
 そして彼はいたわるような、面白がっているような、いやなものを見るような、何とも言えない目で私をながめ、「六つの時に村を出たって?」とひとりごとのように言った。「それじゃまあ、たしかに、おやじとけんかする間はなかったんだろうな」
 何のことかよくわからず、私はただいらいらしながら彼を見つめていた。どうしてこんなにこの男に腹が立つのか、よくわからなかった。この男のことが好きなのだ。なのに、攻撃したくてたまらなくなる変な気持を、自分の中でもてあましていた。妙に悲しくて、それをこの男が何とかしてくれそうな気がして、でもどうもしてくれないのが、また腹が立つのだ。
 多分私は、もどかしそうな情けない顔をしながら男をにらんでいたのかもしれない。男はふいと眉を上げ、「あいつらも、すぐにそうなるんだろうな」とつぶやいた。
 「あいつらって?」
 「おれの子どもたちだ。じきに今のあんたみたいな目つきで、おれをにらむようになるんだろうなあ」
 私はまたいらいらし、「あんたたちはこの村で、ローマ軍に勝った祝いの祭りをするんじゃないのか」と吐き出すように言った。「飾りものとか、いろいろあるんだろ。おれたちに気つかってかくしてないで、きちんと飾れよ」 
 男は苦笑した。「別にかくしちゃいないさ。まだその時期じゃないってだけで」そして人をひきつけずにはおかない落ち着いた微笑を浮かべながら、ものは相談というように軽くこちらに身体をかがめた。「それどころか、実は年寄りたちと話してたんだが…あんた、おれたちと戦わないか?もちろん命のやりとりはない…祭りの催し、ただの競技だ。村の広場で十五人づつの集団戦で戦う。本物の戦争みたいにな」
 「おれたちが勝ってもいいのか」私はせいいっぱい冷やかに聞き返した。
 男は短いやわらかいひげに包まれた形のいい口をゆがめて笑いをこらえたようだったが、とうとう笑い出し、最後はのけぞって笑った。
 「そりゃいいとも」彼はあの妙に冷やかな目で、まじめくさって私を見つめてうなずいた。
          ◇
 私のひきいるローマ兵たちと、男が指揮する村の男たちとが祭りの日、村の広場で戦うことになったという噂は、あっという間に野火のように、雪におおわれた村中に広がった。
 何より夢中になって興奮したのは、私の部下たちだった。子どものように(ほんとに子どもだからしかたがない)興奮し、朝から晩までそのことを私に言ったり聞いたりしつづけたので、うんざりしきった私はとうとう、モミの木の下に彼らを集めて説教した。
 「遊びだと思ってるんだろうが、大まちがいだぞ」私はしかつめらしく言い出した。「七年前にローマ軍はこの村に一度負けた。遊びとはいえ、我々がまた負けたら、この村にはローマは勝てないと村のやつらは思いこむ。それが噂になって広まる。この村に勝てないなら、他の村にも町にも勝てないんじゃないか。そう思うやつらがあちこちで、きっと出てくる。そういうのが積もり積もって、辺境や属州での反乱を招くんだぞ。いいか。この戦いは絶対に負けられない。遊びであって、遊びじゃないんだ。我々が守るのは伝説だ。ローマは決して負けないという。それがローマを支えている。我々ひとり一人の肩に、ローマの威信と運命がかかっているんだと思え」
          ◇
 彼らの心をひきしめるために、少しはったりをきかせてしゃべったつもりだった。だが口にしてみると、私自身がたしかにそうだという気持になってきて、思わず知らず、こぶしをにぎりしめていた。唇を固く結び、目を強く輝かせた私の様子に、少年たちはみるみる反応して、緊張してきた。皆が私をうっとり見つめ、何人もが小さくうなずいている。
 「負けてはならない。また、勝てる」私は彼らの腕をとり、彼らの顔を見回して言った。「ローマは光だ。私たちの肩に、ローマがかかっている」
          ◇
 ウーリが言ったように私たちに気をつかってかくしていたのか、それともそういう時期だったのか、あっという間の数日で、村のあちこちに祭りのためらしいローマ兵のかっこうをしたかかしや、飾り物の大きな槍や剣が並んだ。そして私が部下たちの訓練をまだ充分にすませない内に、祭りの日はやってきた。

        ― ] ―

 村のいたるところで、華やかな刺繍の帯や飾り紐のついた上着などの晴れ着を着た人々が笑いさざめき、酒をくみかわし、思い思いに楽しんでいた。子どもたちは村長の家の前で菓子を焼いて、配ってもらい、目を輝かせてかじっていた。モミの木のある高台では、若い男女が何組も仲間たちの手拍子や歌にあわせて踊っていた。けれども一番たくさんの人が集まり、いくつものたき火を囲んで目を輝かせて待っていたのは、私たちの模擬戦闘競技だった。
 だが…部下たちをひきいて、男とその仲間たちが待つ広場に人垣をわけて出て行った瞬間、私は唖然としてあいた口がふさがらなかった。
          ◇
 村の広場は雪をかかれて、きれいに平たくされていた。その上に、ごていねいに誰かがたっぷりと水をまいていた。毛皮姿のたくましい男たちを後ろにひきいて、広場の向こう側に立っている、私の宿の主のあの男が私を見てかすかに浮かべた静かないたずらっぽい笑いを見て、誰がやったことかはすぐわかったが。
 まかれた水は凍りつき、広場全体は鏡のように光っていた。
 「隊長…」部下の一人がつるつるすべる氷の上に足をふみしめながら、おぼつかなげな泣き声でささやいた。「これじゃ…」
 「よくあることさ」私は明るい落ち着き払った声で…そう聞こえればいいがと願いながら…答えた。「あわてることは何もない。教えたとおりに戦えば勝てる」
 「そうですよね」一人が鼻をすすりながら、けなげに返事した。
 私たちは転ばないよう足をふみしめながら進んで行って、相手の男たちと向き合って立った。
 村長のあいさつは長かった。永遠に続くんじゃないかと思うほどだった。私の右でも左でも部下たちががちがち歯を鳴らしはじめ、私自身も槍をにぎった手の指がかじかんできた。それよりも、こみ上げてくる怒りをかみ殺すのに骨が折れた。もちろん、村長は、身軽さを重視して軽装で来た私たちを思う存分凍え上がらせるために、話をわざとひきのばしているのだ。向かい合っている宿の主の男の、ぬくぬくと幾重にも毛皮を着こんで神妙そうにすました顔の、笑いをこらえて私を見ている目を見ると、いやというほどそのことがよくわかった。
 村長は、この村の歴史を長々と語っている。ハンニバルがつれてきた象の一頭がこの村で死んで、手あつく葬られたことだの何だのと、どうでもいいようなことを。その間も足もとの氷からしんしんと冷気がたちのぼり、冷たさが肌をさし、熱いのか寒いのかだんだんわからなくなってきた。頭がぼうっとしてきて、村長の声が遠のき、熱い砂の上に立って、おまえはハンニバルだ、と言われているような気がした。さあ、ローマ軍の戦車と戦うんだ…
 一瞬の幻だった。はっと気がつくと村長の声がやんで、目の前の男たちがいっせいに荒々しい喚声をあげたところだった。そしてたちまち彼らは武器をふりかざして私たちにおそいかかって来た。
          ◇
 「迎えうて!」私は叫んだ。
 数は互角だ。相手は皆大男だが、その分動きが鈍い。私の部下たちのすばやい動きについて来れまい。そこがつけめ、というよりも、勝ち目はそれしかなかった。
 武器は木剣と、先を丸めた槍だが、うけそこねれば充分死ねる。
 敵の一人の腕をねらって剣をたたきつけ、武器を落として、部下たちの方につきとばした時、横あいから宿の主の男が槍を力いっぱいつき出して来た。危うくかわしてたぐりよせたが、槍ごとふり回されて剣を落とした。私は槍をすべり下りて、男の手もとにとびこんだ。
          ◇
 彼はまっすぐ私の足をねらってきた。自分が手当し、具合を見て治してくれたその足を。手にしていた木剣で力まかせに横なぎに払い、とびのいてよけるはずみに私が足をすべらすと、すかさず私の足に自分の足をからめて、ねじろうとした。傷の痛みがまだ忘れられず、私が最もひるんで恐がることをよく知りぬいた者にしかできないやり方で。
 つるつるすべる氷の上を、口を開けてあえぎながら、四つんばいになって必死で私は逃げた。彼をけりはなし、身体を回転させてころがる。それだけすばやい動きだと、さすがに彼はついて来れない。だが、はなれていては勝ちめがない。私は体勢をたて直すと、両手を氷の上について身体を低くし、男の胸元にとびこんで押し倒した。
 男は落ち着いて私をつかまえ、ゆっくりとねじふせにかかった。すさまじい力が否応なしに肩に腕にかかってくる。息が吐き出されて肺がからっぽになり、目の前が暗くなってきた。
 溺れて行く者のように、やみくもに足でけとばしつづけていると、彼の手が少しゆるんだ。すかさず身体をよじって肩をはめこむようにしながら彼をつきはなす。彼のうなり声が聞こえ、「ウナギのようにやわらかなやつだな」とののしる声が低くした。「いいかげんに降参しろ」
 思いきり身体を縮めてのばし、その反動で彼の腕から手を抜いた。力いっぱいなぐりつけると、彼のかぶっていたふかふかの毛皮の帽子が飛んで、茶色の髪が波打って顔に乱れかかる間から、あの冷たい青い目が私を見下ろして笑うのが見えた。
 人を殺す時でもこの男は、こんな風に笑うのにちがいない。
 私の力はつきかけていた。他の連中はどうしたろうと、ちらと思った。かん高い声で何か叫んでいるのは、あれはうちのやつだと思うがはっきりしない。彼の首にかけてしめつけている手がぶるぶるとふるえ出した。彼の手がかかった私の肩はめりめりと音をたてるようだ。
 その時、かん高い女の叫び声が突然あたりのどよめきや歓声をつんざくように、高くひびいた。

        ― ]T ―

 男はぱっと私をはなして、いきなり上半身を起こした。男の首をつかんだまま私もひきおこされて、やむなくあたりを見回した。
 人々が走っている。口々に何か叫びながら。鏡のように光る氷の広場にとり残されて、ぽかんとあたりを見ているのは皆、私の部下ばかりだ。
 「何だ?敵か?」男にひき上げるように立たされながら、私はあえぎあえぎ聞いた。
 男は首をふった。「ちがう」そして私の肩をたたいた。「来い」
 私たちは走り出した。すべって、つんのめりそうになりながら。
 行く手の雪庇で悲鳴が上がった。いくつもいくつも重なって。
          ◇
 私たちがかけつけた時には、すべてが終わっていた。
          ◇
 転がったそり。その中で抱き合ったまま気を失っているウーリとあの娘、ヘルガ。ルドの姿はなかった。深くえぐられた雪の上のそりの跡はまっすぐに氷河の裂け目へ進んだまま、雪庇のはしで絶えていた。
          ◇
 「ヘルガは、ただ踊ろうとしたのよ」男の妻はその夜、眠った子どもの一人をひざに抱き、一人をひざによりかからせてゆすってやりながら、私と男に話して聞かせた。「彼女はルドに別れを告げたの。いっしょには行けない、ウーリと、この村で暮らすって。ルドはそれをうけ入れて、あきらめた。明日、村を出て行って二度とは帰らないと言った。でも最後の思い出に、もう一度だけ踊ってくれと頼んだ。それで二人はダンスをしたの。モミの木の下で、二人だけで。でもウーリはそれを見て、絶望した。泣いて、そりに飛びのって、氷河めざしてつっこんで行った」
 「ヘルガは?」男が聞いた。「どうして…」
 「ヘルガはウーリを追って行って、動き出す前にそりに飛び乗ったのよ」妻は首をふった。「彼をとめようとした。でもウーリは半狂乱のようになって泣きながら、彼女を乗せたまま、そりを走らせた。ルドは別のそりで、それを追った。先回りしてウーリのそりに自分のそりをぶつけて止め、勢いあまって…氷河の底へ」
 沈黙の中にぱちぱちと、まきの燃える音だけがしていた。
 「ルドの家族は?」私は聞いた。
 男はぶるっと首をふった。「誰もいない」
 「ウーリとヘルガは」妻がつぶやくように言った。「どうなるのかしら。どうするのかしら」
 「二人が決めることだ」男は炉の火を見たまま低い声で言った。

        ― ]U ―

 その夜、眠れないままにベッドで寝返りをうっていると、となりの食堂に人の気配がした。起き上がってのぞいて見ると、主の男が一人、火に手をかざしていた。私の方を見もせずに、「こっちに来るなら、着こんでこい」と言った。「火をたいていても、夜あけは冷えこむ」
 私は急いでベッドに戻り、毛皮と毛布を服の上からしっかり身体にまきつけて、彼のそばに行った。天井の煙り出しの穴から煙が流れ出し、へやの中はあたたかかった。男は私を見て感心したように「またしっかりと着たもんだ」と言った。「まるでさなぎだ。ころぶなよ」
 私は男の隣りに座った。火の前のしきものの上だ。男は片手をのばして、私の背中にたれ下がっている毛皮のはしをしっかり首にまきつけてくれた。だが、そうしながらいたずら気を起こしたらしく、私をこぶしで突いたので、私はしきものの上にころげた。男は声を殺してくっくっと笑い出し、私ももがいて起き上がりながら、その笑いにつられた。
 「あんたのようになりたい」彼に支えられながら私はつぶやいた。
 「何?」男は聞き返してきた。
 私はくり返すのが恥ずかしくて黙っていた。
 「ばかだな」男は片手で髪をかきあげながら火を見て言った。
 「あんたのように、こんな村に住んで」私はつぶやいた。「家族を持って」
 「ただそれだけの人生」男は笑った。
 「それでもいい」私は言った。「きっと後悔はしない」
          ◇
 男はゆっくりと長い吐息をついた。「おまえはそう言いながら、あの子どもたちをひきいて軍に戻るだろう」彼は言った。「戦いつづけ、出世する。いつか村に戻ろうと思いながら、司令官になり、将軍になり…皇帝にだってなるかもしれん」
 「そうなる前に村に帰る」私は言った。「好きな娘を見つけて結婚し…あんたのようになるために」
 男は答えず、長いこと黙って炎を見つめていた。
 「あんたがそうなるかどうかはわからん。おれがそうだと言ってるのでもない」男はやがて口を開いて言った。「だが、こんな村で木を切ったり山羊の世話をしたりして暮らしていると、人ってやつは思いがちだ。もしも村を出ていたら自分はどうなっていたろう。今ごろは才能を認められ、ひとかどの存在になっていたのかも。それを夢みる、そして悲しむ。時には酒に溺れてしまう。何人もそういったやつを見てきた。氷河に身を投げて死んだ者もいる。耐えられなくなるのさ、村の何かに。自分は今の自分とちがった何かになれたんじゃないかと思うことに」
 「あんたはそんな風には見えない」私は言った。「それにそんなの、どこにいたって同じだろう?」
 「そうかもしれん」男は言った。「だが、それがわかるのは村を出て自分の力と限界をためした者だけなんだよ。村を出なかったら、その見きわめはつかないままだ。だから、あきらめがつかない。自分は将軍になれたかもしれない。皇帝になれたかもしれない。ずっとそう思いつづける。おれは、自分はそうならないと思っていたし、たしかにそうはならなかった。この村で、若者を戦士として訓練し、狩りや戦いの指揮をとるのはずっとおれの役目だった。おまえよりもっと若い時、普通よりずっと早い年令でその地位についた。それ以来、おれはそれに打ち込んできた。何も考えるひまがないくらいに」
 「あんたはローマ軍にも勝った」私は言った。その声にあこがれがにじんでいたのに自分で気づいたが、かくす気はもうしなかった。
 「そんなことよりな」男は笑った。「おれが皆を指揮して森を切り開いて牧草地を作り、狩りをして山羊や馬をとらえて増やしたのをほめてくれ。ローマ軍は戦う以上に道や町を作り、荒地を切り開く作業をすると聞いている。おれもそれをやってきた。それで村は豊かになった。もう売られて行く娘はいない」
 私は黙って男を見つめた。男は手をのばして私の耳のあたりにあて、ゆっくり押して私の顔の向きを変えた。そして「だがな」と言った。「この数年、人も増え、それも年寄りがふえて、村の活気は失われてきた。皆は豊かさに慣れているが、どこかでそれが失われはじめているのにも気がついている。そしておまえたちが来てまもないころ、おれは村長に呼ばれて、戦士の訓練役をやめるよう言われた。もっと若いやつにやらせた方がいいってな」
          ◇
 男は片手を火にかざした。
 「そういう時はいつか来る」落ち着いた声で男は言った。「何をしていても、どこにいてもな。村長にそう言われておれはとっさに考えてみていた。おれに訓練されてる若者、おれを見ていたやつらの誰かが、何かを言ったのだろうか。どこを問題にされたのだろう?息をきらせたか?走るのが遅かったか?すばやさが足りなくなったか?思い当たるところはおれにはなかった。だが、誰かの目か、皆の目には見えたんだ。そういうことが何か」
 ちょっと言葉を切ってから彼はつづけた。
 「誰にもいつかはそういう日が来る。衰えて、腕が鈍って、若いやつに座をあけわたす。問題は、ただその地位がローマ皇帝か、一国を預かる将軍か、誰も知らないちっぽけな村の、ちゃちな集団のリーダーか…そのちがいだけだ」
 火に照らされた男の顔には青銅のような重々しい輝きがあった。
 「おれはな」彼は言った。「いつかその日が来ることは知ってた。理屈ではわかってたつもりだ。だが、村長にそう言われて気づいたが、まだまだ先と思ってたんだ。心の準備はできてなかった」
 「あんたはまだまだ引退しなきゃならないようには見えない」私は言った。
 「それはいいんだ」男は首をふった。「今でなきゃ、いつかだ。足腰たたないよぼよぼの歯ぬけじじいいになってそう言われても、やっぱり驚き、そして不満に思うんだろう。気がついた時、おれは必死で村長に、まだやれる、と言いはっていた。言いはったのはそれだけだ。だが、言わなかったが思ってたことがある。…こんな村の、戦士の頭ぐらい、ってことだ」
 男は首をめぐらして、初めて私をじっと見、笑った。
 「おれは力がある。そう思ってた自分に気づいた。ずっとそう思ってた。村を出て、軍に入って、都に行けば、おれは相当なところまでやれる」
 「そう思う」私はうなずいた。
 「だが、村を出なかった」彼は言った。「おれは、村を選んだ。世界に通用する力を、このちっぽけな村に捧げ、つぎこむことを選んだ。おれの持つ最高のものを、ここの連中に与えてやろう。自分も、訓練する相手も、決して甘やかしはしない。どこに行っても通用する力を、ここで私が、彼らに与える」
 背中がぞくぞくするような興奮に私は思わず身じろぎした。「あんたはそうした」そう言った時、我知らず声がかすれた。
 「だが、それにも終わりは来る」男は言った。「そして、世界の支配者でも、名の知られた大軍団の指揮官でもなく、こんな、名もない村の、肩書きすらもはっきりしない役目さえも、ついて行けなくなって、拒絶される。誰も、おれがいたことなんて、知らないし、覚えてもいない。歴史にも、どんな本にも、名前さえ残らない。おれの名どころか、この村の名さえもな。おれが一生をそれに捧げたこの村さえも、やがては衰え、あとかたもなく消えてゆくのさ」
 「不満かい?」
 男は静かに笑った。「おまえに言ってるんだ。そんな人生だよ。おまえがめざそうとしてるのは」
          ◇
 「後悔しない」私は言った。「そんな一生でも。どんなに偉大な仕事をしたって、それはいつか終わる。人は衰えて、消えて行って、忘れられる。やった仕事だって大抵はそうだし、残ったからって、本人が死んでしまったら、そんなの大して意味はない」
 男はくっくっと笑った。「若いのに」とからかうように彼は言った。「年寄りみたいなことを言うな」
 「いつかはおれを子どもって言った」
 「気にしてたのか」男はおかしそうに、あたたかな目で私を見た。「あやまるよ。あの時だったかな。おまえは何も選ばないで生きて来ているって言ったのは」
 「別の時だ」私は小さい声で言った。
 「そうか」男はうなずいた。「二つは同じことだった。だが、おれはあの時何だかいらいらしてたから、多分、意地悪な言い方をしたかもしれんな。おまえに嫉妬してたのかもしれん。おまえはおれと似てると思った。でもまたどこかちがう気もした。そのとき、ふっと感じたのが、おまえはおれより子どもっぽいってことだった。それは年をとっても同じだろう。わがままで、無邪気で、人にされるままになって平気でいる。だから運命はおまえにいろんなものを与える。人が求めて得られないものを、おまえにだけは、むぞうさに。あの時言おうとしたことは、ほんとは、そういうことだった」
 「そんなにぼうっとして見える?」
 男は私をもう一度見つめ、そして突然、声を殺して大笑いした。「他のやつにも言われるのか、よく?」
 「何を?」
 「ぼうっとしてるとか、何も考えてないとか」
 私は吐息をついて笑った。「皆はいったい、そんなにいろいろ、どんなことを考えているのかなあ?」
 男はひくひく腹を波打たせて笑いをこらえているようだった。
 白くなったまきが、かさりとくずれ落ち、金色の火花が小さく上がった。

        ― ]V ―

 うつらうつらしたのかもしれない。気がつくと男が身体を前こごみにして、新しいたきぎを暖炉の中にさし入れていた。はばの広い厚い大きな肩が、赤い火の光を黒々とさえぎっていた。首をかしげて見ていると、その肩先に白い雪がいくつかとまっていて、ふっと溶けた。
 「雪がふっているのか?」私はぼんやりした声で聞いた。
 「少しな。朝にはやむよ」男はふり向かないまま答えた。
 私はあくびをして起き直り、火の前に身体を丸くしてうずくまった。新しい丸太に火が燃えついてぱちぱちと音がして炎が上がった。男は手をはたきながら身体を引いて、再び私と並んで座った。
 「あとひとつ話しておこう」彼は炎を見ながら、ゆっくりと言った。「あんたがいつか聞きたがった、ローマ軍との戦いのことだ。いや、戦いというよりも…その時に起こった、ちょっとしたことだ」
 男はかすかに息を吸った。
 「おれには友だちがいた。ちょうどルドとウーリみたいに、一人の娘を愛してた。彼は村を出、おれは残った。そして娘と結婚した」彼は私を見て、目もとを笑わせた。「今の家内さ」
 長いこと黙っていてから彼は「奇妙なことだが」と言った。「おれはよく覚えていない。彼女がおれを選んだから、やつが村を出たのだったか、やつが村を出たから、彼女がおれを選んだのか、彼女が村を出ないと言ったから、おれは残って、彼は行ってしまったのか」
 「…それって、大事なことじゃないのか」
 「そうなんだが、わからない」彼は言った。「いろんなことが入りまじってしまってな。彼女は村を出たくなかったと思う。そして、おれが好きだったのは、村にいる彼女、彼女のいる村だった。でも、よく考えたら、彼女といっしょに村にいるおれ…それが一番好きだったのかもな」
 「その友だちは、それっきり?」
 男は首をふった。
          ◇
 「やつは、戻って来たんだよ」彼は言った。「その戦いの時に。ローマ軍の斥候になって。やつは妻に手紙をよこした。この村はいずれほろびる。だからいっしょに逃げようと。子どもたちもつれてきていい、いっしょにローマに行って、ぜいたくをして楽しく暮らそうと」
 男は深い吐息をついた。
 「妻は、ここの暮らしに疲れてた。おれも疲れてた。見えるのはいつも、雪と山と空。同じ顔、同じあいさつ。あの時も戦いながらいつも思った。おれは何を守ってるんだろう、ほんとにこんな村、守りたいのかって。村がほろびて、おれが死ねば、妻は子どもをつれて、あの男とローマに行く…そして、幸せに暮らすだろう」
 「それはどうだろうな」私は言った。
 男は手をふった。「妻がおれと、この村を選んだのは、ずっと昔だ…若いころだ。まだ何も知らなかったころだ。変化のない、長い、長い日々。村の、酒びたりのやる気のない老人たちと次第に似て、疲れて、年とってくる夫。同じように自分も疲れて、老いて、魅力がなくなってくる」男は自嘲的に低く笑った。「似合いの二人だ」
 私が何か言いかけたのを男は制した。
 「もちろん、子どもたちがいる。その時は二人めが生まれたばかりだった。上の子もまだ赤ん坊だったがな。おれたちの暮らしの中で、何も変わらない村の中で、変わってゆく唯一のもの…育ってゆくもの。だが、それが、他ならぬそれが、戦いになれば村とともに滅ぼされる。二人を救うためには、あの男といっしょになるしかない。そのことも妻は思ったにちがいない」
 「奥さんはその手紙をあんたに見せたのか?」
 「まさか」男は首をふった。「聞いたのはずっとあとになってからだ。だが、おれは何となく、あいつが近くにいるんじゃないかと感じてた。妻の様子を見ているとわかるんだ…昔から、何となく。それからやつが村に来た。ローマ軍の使者として交渉に来た。おれは、彼の持ち出した要求をけった。彼が努力してくれたことはわかってたが、それでも到底のめる条件じゃなかった。そして戦さがはじまって…おれたちは勝った。彼がどうなったかは知らない」
 そんな結果になったなら、その男は責任をとらされたはずだ。命にかかわりはなかったにしても、出世の道はまずとざされたろうなと私は思った。男はそんなことには気づかないのだろう。黙って考えこんでいた。
          ◇ 
 「あの戦いは、あんたにとって」私は言った。「そういう戦いだったのか」
 「村長から引退をすすめられた時、なぜかその時のことを思い出した」男は片手で顔をこすった。「そのために、他のすべてをあきらめ、捨てて、自分の命も心も捧げてきたもの…それがいつの間にか、抱きしめた腕の中で、にぎりしめた指の中で変わって行く。昔選んだものと似ているようで、似ても似つかぬ見知らぬものに。くたびれて、すりきれて、汚れて行く。それを抱きしめ、にぎりしめている自分自身も、力強さやみずみずしさを失って、昔のようにそれをよみがえさせられないし、力も喜びも与えてやれない。そして突然、もっとすぐれた誰かがやってきて、ひからびたそれを、かじかんだおれの指からもぎとって行く。その誰かが、それをまた美しくよみがえらせるのを、おれは黙って見ている他ない。からっぽの腕を胸に組んだままで」
 「奥さんはあんたのようには思ってない」私は言った。「だからあんたを選んだんだろ、その時だって」
 「ああ。それがまちがってないと思いつづけてほしかった。いつでも最高の男でいたかった」男は小さくあくびをしてみせた。「だから引退をすすめられて、あんなにむきになったのかもな」
 「奥さんはきっと今でも、あんたのことをそう思ってる」私は言った。「これからだって、ずっとそうだ」
 男は横目で私を見て笑い、私は深く息を吸いこんだ。
 「あんたみたいな人は、他に一人もいない」吸いこんでいた息といっしょに、その言葉を私は一気に吐き出した。
 男は軽く顔をそらして、また火の方に目を戻した。私たちはしばらく黙って、火の燃える音と、風の音とを聞いていた。
          ◇
 「こんな夜、おれはよく」男はやがて静かな低い声で言った。「象のことを考える。遠い国からやってきて、この山の中で死んだ象たちのことを。山を越え平原に下りてローマ軍と戦うこともなく、死んだ彼らのことを。この村にも昔の象の墓と言われている石がある。おれはその象たちのことを考える。こうやって火を見ながら、風の音を聞いて。彼らがどんな声で吠えるのか、おれは知らない。だが、目を閉じていると風の音が彼らの声のようだ」
 炉の火の光が男の力強い目の中や、ひきしまったほほの上におどっていた。私たちの回りで時はゆるやかになり、とまってしまっているようだ。となりの部屋では、男の妻と子どもたちが、安らかに眠っているのだろう。家の外では風の中に雪が光り、青みがかった夜空一面にすごいほどきらきらと星が輝き、それを背に巨大な白い峰が音もなくそびえているのだろう。幸福なのか、淋しいのか、よくわからないままに、この時間がいつまでも続けばいいと私はぼんやり思っていた。

        ― ]W ―

 その数日後、私は部下たちとともに村をはなれた。
 三人の村の若者が、私たちと同行すると申し出てきた。そのかわり、二人の兵士がここにとどまると言い出した。私はそれを許した。ハンニバルの象が眠るこの村、英雄たちの血すじが流れつづけるこの村には、どこかそういう、人をひきつけるところがあるのだろう。
 出発の日、男は妻と肩を並べて、他の村人たちとともに、私たちの一行を村はずれまで見送ってきた。私がつけた傷の痕が赤く額に残っていたが元気そうで、あの、あたたかい力強い笑顔を見せていた。
 ウーリとヘルガの姿は見えなかったが、どこか村の中にいるのはまちがいなかった。私は朝日にさんらんと輝く雪の峰を見上げ、村のどこかで彼らもこれをながめているのかとふと思った。
 村人たちが手をふって送ってくれる中、私たちの隊列はゆっくりと山を下って行った。



  象が眠る村(終)・・・・・2004.2.21.04:25