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「シンデレラマン」のボクシング


 しょっぱなから言うと、私はボクシングについて何も知らない。
だが、コロセウムで戦った経験がなくても映画「グラディエーター」の戦闘場面の面白さがわかったように、「シンデレラマン」のボクシング場面も、すぐれた監督やすぐれた映画は皆そうであるように、緻密に効果が計算され、無駄がまったくなかったことに感心した。
以下にそれを書いてみる。こんな風に見ると面白さが倍増するという人もいるだろうが、逆に分析しすぎてしらけるという人もいるだろう。そこは皆さまの自己責任で読んでいただきたい。もちろん、ネタばれまくりなので、そこもご注意を。
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第1回・対フェルドマン戦−最悪の条件でもわかる強さ
 どん底の状態で金のために戦い、その金ももらえず骨折を悪化させたという、目をおおうばかりの試合。これを、まだ観客(以下、現代の映画館の「観客」と、映画の中の「観衆」と使い分けることにする)がジムにそこまで感情移入してない時点で描くから、何とか見られるのだが、もっと「いい夫、いい父」がよくわかった後でこんな悲惨な試合を見せられたら、皆ついて行けず引いてしまうだろう。まだそこまでジムのことがよくわからない段階で、このような試合を見せて、勝負の世界の苛酷さ、勝つことの困難さをしっかり観客の意識にすりこむのが、まずうまい。
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 そして、こんな見る影もないような試合でも、実はジムの強さは充分に描かれている。
 ブラドックは生涯を通してついにKOされたことのない選手である。つまり、どんなに打たれても決して倒れたままにならない。それだけ強固な筋肉と骨格を持っている。
 この試合では、それが仇となって「KOされないから観客を喜ばせず、金ももらえない」という実に皮肉な結果となるが、それだけに、そこまで「倒れない」というブラドックの本質が十二分に表現される。彼がジョンストンに抗議して「全力で戦ってる、逃げてないし、負けてない」と主張するのは負け惜しみではなく真実で、興行としては失敗でも、あの試合でさえ、彼はマットに沈まなかった。
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 肉体の強固さだけでなく、この試合を見ていると、若い相手の強力なパンチを巧みにすべてよけていることがわかる。
 カメラワークもさることながら、ラッセルの役への入魂ぶりは、ボクサーとしての美しさを完璧に表現するフットワークの軽やかさ、身体をたわめた姿勢が弓の弦をはじくように一気にのびるしなやかさだ。実際のボクサーの強さはもちろんなくても、そうした強い男たちの姿態が描く優美さを見事にすくいとって表現する、この俳優としての能力には脱帽せざるを得ない。
 それが私たちに伝えるのは、ジムが相手の動きを読む視力と、それに瞬時に応ずる反射神経と足さばきに非常に恵まれているという実感だ。これは天性か老練か、むしろ前者なのではあるまいか。ともあれ、それで彼は若い上り坂の相手をしのいでいる。
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 だから本来なら、彼は余裕でこの試合に勝てる。悲しいかな、手を痛めていてパンチがきかないから、守りつづけることはできても相手を倒せない。負けなくても勝てないのだ。
 ジョーに強くさわられただけで顔をゆがめるほどの骨折した指で彼は戦っている。コーナーにいる時、その手のグラブは痛みをこらえて小刻みに震えている。それほどの指で相手をともかくも彼は強打するが、ダメージを与えるほどの打撃が繰り出せるはずはない。
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 だが、ここでまた、それが彼の絶対的な強さを見る者に伝える。このボクサーは苦痛に強い。それを耐え抜く精神力が超人的に素晴らしい。そのことをこの試合は証明する。
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 要するに、これほどみじめなみっともない試合でも、監督は、ボクシングの大変基礎的な殴り合いのスタイルや、平凡な退屈な普通の試合がどんなものかという「常識」を私のようなボクシング初心者に教えるとともに、ジム・ブラドックという稀有な才能を持つボクサーの偉大さをきっちり伝えている。ひとつ、彼は倒れない。ふたつ、彼は相手のパンチをよける技術が高い。みっつ、彼の忍耐力と精神力は超人的である。
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 とことん、哀れに負けさせているようで、実は対フェルドマンの試合こそ、ブラドックの強さを見せつくした試合である。このように彼を紹介して、さあ、以後の試合に臨む準備は整った。
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第2回・対グリフィン戦−よみがえる勘
 久々にリングに立つ。しかも、かませ犬、負け役として。だが、それにしてはジムにはまったく悲壮感がない。「リラックスしすぎだ」とジョーに怒られるくらいにはしゃいでいるのは、この人ほんとにリングに立てるのがひたすらに、うれしかったとしか思えない。わくわく、生き生き、子どものように浮かれている。もちろん、「子どもたちに少し楽をさせてやれる(この言い方のつつましさとさりげなさは、いじらしくて泣ける)」金がほしいというのもあるが、彼はボクシングをしている時が一番幸福なのだとわかる。
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 それは、リングに上がって、試合開始のゴングを聞く時の、猟犬が耳をぴいんと風にそよがせて立てるような、あの表情にまた如実に見てとれる。あの時、彼の身体に何かが再び流れ出しはじめる音が、ほとんど耳に聞こえるようだ。
 グリフィンに猛烈なパンチをくらいつづけても、彼は何だか喜んでいるようにさえ見える。身体や顔への打撃のひとつひとつが、忘れかけていたものを、ゆり起こし、めざめさせていくのを、快くかみしめているようにしか見えない。長い空白があったから、最初は勝手がちがって、一度彼はダウンする。けれど次第に全身に戦い方の記憶がよみがえってくるにつれて、彼は要領を思い出し、たとえば病気や事故にあった人がリハビリで回復していくように、短い試合の中でみるみる身体の使い方を思い出して行く。
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 そこから先はもう快感だ。相手こそ災難と言いたいぐらいの、よみがえった自分の力をたしかめるような、ほとんど有頂天のしぐさで彼はパンチをたたきこむ。彼はこの時、自分の肉体を使いこなせる術を思い出した快感に文字通り酔っている。KOしても、何だかもう彼は相手を見ているように見えない。自分の動きに、力に夢中になって、自分だけしか目に入っていないようだ。
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 彼は、このような試合で最後を飾れてマジソン・スクエア・ガーデンを去れることはうれしかっただろうが、それ以上に「あー、おれって、まだやれる!」という喜びが全身をかけめぐっていただろう。これが最後の試合とあきらめてはいても、その心境はちょっと複雑だったはずだ。
 空腹や、長い空白があっても、怪我が完治し、港湾の労働で鍛えたというコンディションのよさがそのかわりにあった。何より生来の勘や能力は衰えていなかった。その喜びがふつふつとみなぎるにつれて、「でも、これで最後なんだ」というものたりなさが、こみあげてくる。
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 ジョーが次の試合の話を持ってきた時、メイに向かって「このままではまた貧乏になるし」「リングでの苦しみなら耐えられる」と彼は言うのだが、そこはやはり私としては「苦しみかい?」とちょっと突っ込んで見たくはなる。
 この映画が暗そうで暗くないのは、ジムのこの時の決意や選択が悲壮なものでも必死なものでもなく、「だって、好きなボクシングまたやれるし!」が底辺にある上に、「戦える、勝てる」という腹の底からこみあげる自信と確信が言わせているものだからだ。
 彼は、「大丈夫。やれる」という、本人にしかわからないたしかな手応えを、自分の全身に感じているのだ。手足に、胴体に、目に。
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第3回・対ルイス戦−破竹の勢い
 高校野球の一番楽しいのは準々決勝あたりだ、と言われることがある。決勝戦は緊張しすぎるし、どこか悲壮で、終わりが近い淋しさもあるから。
 このルイス戦はそれでいうなら、まさに準々決勝あたりの華やかさ、気楽さ、上り調子の快感にみちあふれて、ジムが好きな観客が多分見ていて一番楽しめる試合だろう。
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 この試合は、映画の中の五つの試合のちょうど真ん中になる。そして、これ以前は不遇な時期の苦しさが残り、これ以後は頂点に向けての苛酷さが加わってくる。その中間にあって、そのどちらでもない、この試合はジムも観客も一番のびのびと心おきなく戦えるし、見物できる。
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 この映画は、時間の感覚を混乱させる。そもそも二時間半を長いとまるで感じさせないのもそうだが、たとえばこの五つの試合の時間がそれぞれ、どれぐらいか、最後の試合が圧倒的に長いのはわかるが、あとはどれが一番短いのか、どう考えても見当がつかない。
 ルイスとの試合は比較的短いような印象がある。どちらかというと単純な試合で、ジムが一方的に押して勝つが、ファン=観客はそれが楽しいので不満を感じない。
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 対グリフィン戦で得たジムの自信はこの試合にもまっすぐにつながって、ほとばしる。正式のトレーニングを重ねた分、更にパワーアップしているといっていい。好きなことで戦える喜びが、試合前の練習風景から、ジムの全身にはみちあふれている。そのことで家族も幸せにできるという感謝と誇りがみなぎっている。
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 一度ジムと対戦して勝ったことのあるルイスが、試合中にコーナーで「別人だ」とうめくように、この試合にはジムの長所のすべてが示される。最初のあのみじめなフェルドマン戦で監督がしっかりと伏線として見せてくれていた、ジムの強さ…倒れない打たれ強さ、相手のパンチをよける運動神経、がいかんなく発揮され、そこに負傷も完治した左右の強固なパンチが加わる。彼の最強の能力である精神力と忍耐力は、この試合では発揮する必要さえない。戦える喜びに身をまかせる彼の姿は、ほとんど崇高にさえ見える。
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 これだけの試合を見せられると、どんなに殴り合いが苦手で片目をつぶって見ている人でも、否応なしにそろそろ、このジムというボクサーの強さがどこにあるのかわかってくる。少々打たれてもダメージを受けない強靱な肉体と、相手の攻撃をピンポイントでかわす俊敏な足さばきと視力とが、とても安心して見られる要因だと何となく感じられるようになる。
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 現実のジム・ブラドックがどんな選手だったのかは知らない。生涯一度もKOされなかった「倒れない」男、というのはたしかだ。それを最も重要な要素として、監督と役者は、このボクサー像をつくりあげ、観客に何度もくりかえし、その選手としての特徴を見せている。
 カッコいいボクシングの場面をいくつも重ねることはできるだろう。派手な要素や、面白い材料で組み立てた試合を作ってみせることもできるだろう。だが、この映画は、そういうことより何より最優先したのは、基本的な事実は実話を下敷きにしながら、観客が見ていてわかりやすい、いくつかの特徴をはっきりそなえた一人のボクサーを描き、そのようなボクサーならするような戦い方を、その心理の変化もふくめて実在の人物のように再現することだった。そのようなことを成功させるのは、奇跡に近いと私は思う。現実のジム・ブラドックとの差はともかくとして、この映画のジム・ブラドックは確実に実在する存在として描き出されている。適当なボクシング場面ではなく、カッコいい迫力あるだけのボクシング場面ではなく、リアルさだけを追求するボクシング場面ではなく、この映画が作り出しているのは、「ジム・ブラドックというボクサーならこう戦う」ボクシング場面なのだ。それはほんとに、不可能に近いほどすごいことだ。
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 そのようなジムというリアルな存在が、最も理想的に勝利するのがこの試合だ。同じボクサーの同じ資質が、最低の場合にはフェルドマンとの試合になり、最高の場合にはルイスとの試合になるのだ。
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第4回・対ラスキー戦−お祭りは終わりだ
 ルイスとの戦いの勝利をかみしめる余韻など、監督は与えてくれない。そのまま場面は次のラスキー戦に移行する。そして、前の試合でようやく観客の中に定着しかけたジムの強さのより所…それが次々、この試合では破壊されていく。
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 ラスキーは、それまでの対戦相手とちがって大柄な分、スタミナがあり、簡単にはダメージを与えられない。ややあせって弱音を吐くジムをジョーは励ますが、その内に観客が頼りにしていたジムの胴体が強烈なパンチで、逆にダメージを受ける。レントゲン写真?を用いて強調しだめ押しの確認をする肋骨への激しい一撃。更にもう一つのジムの強さ…相手の動きを素早くみてとる視力が怪しくなる。
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 観客は動揺し不安になる。ジムは明らかに弱って疲労がつのっている。だが、ここでジョーが危険かもしれない賭けに出る。休憩するジムをコーナーで椅子に座らせない。立ったままでいさせることによって、相手に心理的圧力をかける。
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 ボクシングが力だけでなく精神的なかけひきも要する競技であることが、この試合で初めてわかる。他の試合でも当然そういう要素はあったはずだが、監督はここまではあえてそれを見せない。それぞれの試合で集中して見せるテーマがあるのだ。非常に親切かつ効果的な整理のしかただ。
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 果たしてラスキーは、座らないジムを気にする。ジョーの工夫は成功したかに見えるが、試合再開後まもなく、ジムはパンチを受けて倒れる。
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 この時にジムの脳裏には家族の映像が浮かぶのだが、それは、この試合の時だけということではないと思う。他の試合でも思い浮かべる瞬間や、それで力をふりしぼる瞬間はあったのではないか。ただ、それをここでだけあえて描くのは、この試合は心理戦としてのボクシングを描く試合であり、特にこの瞬間は両者のそのかけひきと対決がピークに達するので、ボクサーの内面を示す映像が登場したのだと思う。
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 ジムは、肉体が強固なだけでなく、精神もまたしたたかな人だったことを観客はここで思い知らされる。ジムは、マウスピースが飛ぶほどの打撃を受けて倒れたこの瞬間こそが、「そんなことは、何もこたえてないんだぞ」と強烈に相手に見せつけることによって、逆に相手を圧倒し、戦況をひっくりかえせる最大のチャンスと気がつく。だから彼は苦痛と疲労の極限にあるにもかかわらず、大芝居をうつ。血まみれの口でにやりと笑い、ゆっくりとマウスピースを拾ってはめる。
 これでラスキーは決定的に動揺する。「こいつは何をしてもこたえないのか?何をしても倒せないのか?」という畏怖が彼をとらえてしまう。マラソンランナーもそうだが、荒々しい格闘技こそ、ぎりぎりの瞬間に相手を制するのは精神的な迫力だ。圧倒されてひるんだラスキーに、すかさずジムはおそいかかって勝利をもぎとる。
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 忍耐力、精神力と同じことだが、ジムの強さのひとつは冷静さでもある。それが、ここでこれだけの分析と判断をさせた。むろんそれは、その前にあえて彼を立ったままにさせたジョーの行動と発言にヒントを得たものでもあり、ジョーの果たした役割もまた大きい。
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第5回・対マックス・ベア戦−すべての集大成
 興行としてのボクシング、観衆との関係、家族との関係、すべてがこの試合にはもつれこんで、一つの大きな流れとなる。語り尽くそうとすれば何日あっても足りないので、なるべく試合のことに限って話そう。
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 この試合がそれまでのものと決定的にちがうのは、勝敗や金が問題だけが問題ではなく、命の危険が生まれたことである。そのために、常にジムを支えてきた妻が戦いをやめてほしいと要求し、支持を表明しない。
 それでも戦うというジムも、もうボクシングが楽しいからという理由ではないだろう。
 少しきれいに整理できすぎて面はゆいのだが、私はやはりここでジムに戦うと決意させたのは、マイクをはじめとした「フーヴァー村で死んだ」貧しい人たちへ、夢を与えた者の責任感としか思えない。
 最終的には、妻もそんな彼を認める。おそらく、最後の戦いで彼が守るのは家族ではなく、ボクシングへの愛でもないだろう。このような世の中に対し、神に対し(「祈りもつきた」とつぶやいて妻ととりあっていた手を離す場面が最初の方である)、マイクたちとはまた別の静かな怒りをこめて彼はリングに上がっている。妻はただ、それを許しただけだろう。
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 さて、この試合だが、もちろん現実の試合がこんなに都合よく面白いわけはないが、それでも、この映画の中でこの試合が一番、現実に近い描かれ方をされている。いや、そうではなくて、現実の試合を見ているのと同じ時間の長さや重さの実感を観客に味わわそうと思って作っているとでも言ったらいいのか。巧緻に工夫をこらして作られていながら、与えられる感覚は、限りなく生の試合に近いのではないか。緊張の持続からくる疲労感、虚脱感、放心、興奮などなどが。
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 ラスキー戦の負傷が完治していなくて、ジムはベストの状態ではない。それが観客を不安にさせ、大船にのった気になれない。
 試合が始まると、もっといやなことが起こる。マックス・ベアの実力が見えない。
 打たれても打たれても倒れないジムが、相手に与えていたはずの底なし沼のような無気味さが、そのままベアにあてはまる。しかも、ふざけて挑発し、攪乱するという心理作戦も熟知している。
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 爆弾を抱えているような、ベストではないジムの肉体にベアの強力なパンチが襲いかかるたびに観客はおびえ、一方ジムのパンチがどれだけ効果的なのかまったく読めない不安がつづく。しかもベアはルール違反をする可能性も高く、勝敗どころか命の危険さえもある。
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 「ミリオンダラー・ベイビー」とよく比較されたり、公開が近かったのは損だ得だと議論されるが、私はあの映画の卑怯な相手のパンチ一発で、形勢も運命もひっくりかえる、ということを観客が見せつけられているのは、「シンデレラマン」の予習としては最高じゃないかと喜んでいる。
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 ジムの能力も総動員される。スタミナ、フットワーク、冷静さ。
 そうやって彼がひたすらに耐えて、打ち返しつづけているのは、とても地味な場面のようだが、なぜかまったく退屈しない。こちらが不安でどきどきしているだけではなくて、場面そのものの持つ力のような気もする。時に観衆の声もアナウンサーの声もすべて消え、打ち合う音だけが響く。戦う二人の見ている世界なのだろう。家族の反応、客席、ラジオを聞くバー、教会と視点をさまざまに移動させながら、決して混乱も無駄もない。
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 ベアが中盤から真剣になってくると、観客は今度は怒り狂った彼にジムが殺されるのではないかという心配をしなくてはならない。ジムはあいかわらず、ひたすらに受けて耐える。その単調な息苦しさが、逆にリアルな臨場感を生む。子どもたちのまなざし、妻の表情は、応援している人の姿というよりは、戦っているジムの別の姿、内面描写のようだ。祈るように目を閉じ、やがて苦痛に耐える放心の表情になり、最後は全身を小刻みに動かして夫と一体化していくレネーの演技は見る者の魂をゆさぶる。
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 荒っぽい言葉や指示でジムをひっぱりつづけてきたジョーが、それはもう、おそらく計算ではない「どうなっても自分は満足だから」と言ってジムを手放す場面で、最初の登場の時の勝利直後の会心の笑みと似ていてまたちがう、虚心な笑顔をリングの上で初めてジムは浮かべる。すべてを洗い流したような透明で清浄なその笑顔は、リングを一瞬、聖域のように見せる。
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 転機は、ベアのパンチで倒れたジムが最大の危機の瞬間、フィルムで見た場面を思い出し、ベアの攻撃の裏をかく時に訪れる。冷静さとともに、データ分析も行える、すぐれて知的なボクサーとしての性質が発揮され、これをきっかけに形勢はジムに有利に傾いて、ベアの得体のしれない強さには、ほころびが見え始める。ジムが耐えたと同じ持久戦を制した喜びを、つらい場面を見続けた観客もまた共有する。
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 勝利が見えた、スコアで勝っている、と判断したジョーの「あとはもう、近づくな、時間をかせいで逃げ切れ」の指示をジムは完全に無視して最後のラウンド、果敢にベアを攻撃しつづける。だがこれは、実は少しも意外ではない。ジムはそういうボクサーなのだということこそが、すでに最初のフェルドマン戦で描かれていたのではなかったか。疲労と苦痛の極限で、金のためだけに戦っている時でさえも、ジムは決して自分の愛したボクシングというスポーツを裏切ろうとはしなかった。あっさりとKOされれば金がもらえるとわかっていても、いや、そんなことは思い浮かびもしないほど、彼はいつも全力をふりしぼって手抜きをせず、ボクシングを卑しめも汚しもしなかった。たとえミルクのためにでも。たとえチャンピオンの地位のためにでも。最低の時も。最高の時も。彼の戦い方は終始一貫、自分の仕事への、ボクシングへの敬意と愛に貫かれていた。それが彼だった。それが、この映画の描くジム・ブラドックというボクサーだった。
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 戦いが終わったあとも、緊張はつづく。事実に基づく話だから、ここでのジムの勝利は「判定勝ち」でなくてはならない。その描写の難しさを逆手にとって監督は、ボクシングが採点によって左右される微妙さを持ち、時にはごまかしもあり得ることを表現して、ジムの勝利に深みを与える。
 だが、この時、いらだって判定を待つジョーやベアに対し、ジムはさばさばとまた、子どものような無心な顔に戻っている。満足しきって安らぎきったその顔には、判定も結果もまったく問題にしていない、明るいふてぶてしささえ漂う。それはそのまま、新チャンピオンにふさわしい貫禄さえも感じさせる。
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 この映画は家族との関係もさることながら、何よりもボクシングの試合そのものを通して、ジム・ブラドックという一人の人間の人格や人生を描いて見せたことに大きな特徴がある。試合としてのリアルさや迫力もだが、最終的に追求し表現するのは、あくまで「ブラドックとはどういう人間だったのか」である。これは至難の業である。だが、それにこの映画は成功している。



(この文章は、3回めの鑑賞の後に書いた。その後、何度か見て、本も読むうち、ブラドックは少なくとも一度はKOされているなど、誤りがいくつかわかった。だが、おおむねの流れや基本的な把握は間違ってないと思うので、書いた当時の興奮を伝えるためにも、あえてこのまま掲載する。お許し願いたい。)

(2005.10.1.)