「春、爛漫」

(1)
 冷たい木枯らしが吹き荒れて、窓の鎧戸はずっと、かたかた音をたてている。へやの中の火桶には赤く石炭が燃えているが、どこからともなくしのびこむ冷気は、ともすればしんしんと床に積もってくるようだ。今夜は、雪になるのかもしれない。
 「おまえのおやじに、初めて会った時のことを話せって?」
 コモドゥス叔父さまは、紅玉と真珠の指輪をはめた長い指の手の中で、ワインの杯をもてあそびながら、やや上目づかいに僕をじっと見つめた。
僕は目を伏せ、青銅の火桶の中の炭があげる小さな青い炎を見つめる。火のそばは暖かくて、長椅子の上の毛皮に頭をもたせかけていると、ついうとうとと眠くなる。
 「陽炎がゆらゆらゆれる中にあいつは立って、こっちを見て笑ってたよ」叔父さまはつまらなさそうな、そっけない声で言った。「春だったからな。春の駐屯地だ。ローマの近くで、あいつのいた軍はそこにずっと野営してた。あたりは一面、畑だったから掘り起こされた土くれの香りがただよっていた。おれは輿に長いこと乗ってたんで、まだ頭がふらふらしてて、ぼうっと歩いて行った。そうしたら、あいつがいたのさ。草の中に立って、赤味がかった茶色のチュニックの袖をひじまでたくしあげてた。白や黄色の蝶々があいつの回りをひらひら飛んでて、雲雀の声が…」叔父さまは言葉を切って、唇に薄い笑いを浮かべた。「マルクス、おまえ、いくつになった?」
 「十四だよ」
 「じゃ、あの時のあいつと同じ年だな。おれはその時、七つだったよ。ローマ帝国の皇帝の息子、押しも押されぬ皇太子さ。あいつはスペインの田舎から出てきた、ただの一介の少年兵だった」
 叔父さまは火かき棒を取って、灰になりかけた石炭をつっついた。
 「それがまあ、どうだ。今ではローマの皇帝だ。かたやおれは、元皇太子っていうだけで、次の皇帝になれる見込みもなく、こうやって毎日、宮廷でぶらぶらしている皆のやっかい者ときた。変われば変わるもんだよなあ」
 「そうやってぐちってる時って、いつも叔父さま、変に楽しそうだよ」僕は言ってやった。
 叔父さまはくすくす笑った。「そりゃそうだ。おまえのおやじが、そわそわするしな。あれをみているだけでも楽しい」
 「いい趣味じゃないと思う」僕は叔父さまをまっすぐ見て、きっぱりと言ってやった。「だいたい、そうなったのは、父のせいではないでしょう。父にあたってどうするんです?」
 「あたってるわけじゃない。面白がってるだけだったら」
 なお悪いんじゃないんだろうか。
 木枯らしがまた、窓を鳴らす。僕が宮殿の蛇使いから貰ったペットの蛇が、部屋の隅の箱の中でとぐろをまいて居眠りしている。半分冬眠してるのかもしれない。元老院議員のグラックスさまが下さった二羽のアヒルも、そのそばの木箱の中で眠っている。寒そうだったから今夜だけ、こっそり中に入れてやったのだ。
 「あいつのせいじゃないと言うが」叔父さまは新しいワインを杯に注いだ。「それはそうでもないんだぞ」
 「父が、自分が皇帝になるように画策したとでも言うんですか?」
「そうじゃない。そうでないからやっかいなんだ。画策なんてそんなことしてみろ、おれだってちゃんと気づいて、それなりに手を打ったさ」叔父さまは笑った。「姉上が、そのことで…」
 「ルッシラ叔母さまが?」
「よく、おれのことを笑い物にしたもんさ。おれたちの父上が、おまえのおやじを次の皇帝にすると言った時、おれが父上に言ったことでな。おまえもそれは、聞いてるんじゃないのか?君主には持つべき四つの徳がある、ってやつだが」
「それは家庭教師の先生から聞いたけど」僕は言った。「知恵、正義、忍耐、自制心…」
 「いい、いい、そんなのはいいんだったら」叔父さまはうるさそうに手を振って、鉢に入ったイチジクの砂糖漬をつまんで口に放り込んだ。「それが父上の口癖だった。だから、その時、おれは父上に言ったんだ。おれには、そんなものはない。でも、おれにだって、それなりの徳はある。野心とか、勇気とか、献身とか、機略の才とか。で、あとで父上にその話を聞いた姉上は、おれをさんざんからかった。他の美徳はともかくとして、あなたに野心だけはあるものですか。仮にも野心家ででもあったなら、もっとちゃんと状況を把握し、ライバルをチェックしておくものだわよ。マキシマスがあれだけ、お父さまに気に入られてかわいがられているのを見ていながら、彼が次の皇帝に指名される可能性を考えても見ず、自分が指名されるものと決め込んでいるなんて、能天気なのもいいところよね…って」
 叔父さまはルッシラ叔母さまの物まねが抜群にうまい。変な裏声を使いながら、手のひらをくねくねさせて話すその口調に、僕は思わず吹き出して、毛皮の上につっぷしてしまった。
 「いいか」叔父さまは、顔をしかめて陰気な目で、じっと火桶の火を見つめた。「そんなこと言う姉上だって、おまえのおやじが指名されるなんてこと、全然予想していなかったんだぞ。自分がびっくりして、そんなこと考えてもなかったのを他人に気づかれるのがくやしいもんで、先手を打っておれを笑い物にして、自分もアホだったことに気づかれないよう、ごまかしているだけだ。おれは心が優しいから、見逃してやっているのさ」
 もう、本当によく言うよ。でもまあ、たしかにルッシラ叔母さまにも、そんなとこ、ないとは言えないけど。
 「おれは、ちゃんと手を打ってたんだ」叔父さまは長椅子に寝転がり、宙に持ち上げた片手の指を折って数えた。「あの時、たしか六人いたんだ。待てよ、七人だったかな。おれがライバルと思ってたのは。元老院議員の若手が二人。ヴァレスの親戚の軍人が一人。前々皇帝の息子。近衛隊の隊長やってた老人。父上の親友の哲学者。まだいたっけか。姉上で女帝という線だってひょっとしたらと思ってた。あらゆる可能性を考えて、そうならないよう手を回して、これでもう万全と思ってたんだ。どいつも、まずはもう安全、だからもう、あと残るのはおれしかいない。そう結論を出していたのさ」
 「それって、やっぱり甘かったんじゃないの?」僕はイチジクの砂糖漬をほおばりながら言った。「今の近衛の隊長のクイントゥス小父さまも、元老院議員のグラックス小父さまも皆、言ってたよ。父上が皇帝に指名された時、皆が当然の選択だと納得して、ちっとも違和感なかったって。それを、予測もしなかったなんて…」
 「指名された後では、そうだったんだ。誰も、不思議に思わなかった。おれだって、何で予想しなかったのか、自分で自分に唖然としたよ。それもこれも、おまえのおやじが悪いんだ。何もかも、あいつのせいだ」
 「えらく、突然の展開だよね」僕は吐息をついた。「いったい何でそうなるのさ?」
 叔父さまはけだるそうに寝返りをうって腹ばいになり、毛皮を足にかけてひきよせながら、低いうなり声をあげた。
 「おれがライバルとして目をつけた奴らは…なあ、マルクス、そういう奴らってのは、ひとりでにわかるものなんだ。ひょっとしたら、皇帝になれるかもしれん…そう思った瞬間からマルクス、人ってやつは微妙に変わる。どう隠しても、顔色やしぐさのどこかに、それが出る。変にていねいになったり、逆に傲慢になったり」
 叔父さまは意地悪そうに、楽しそうに、目を輝かせた。
「見てると、ほんとに面白いぞ。近衛隊長のじいさまがその気でいるのに気づいたのは、書類をおれに渡す時の、指の動かし方だった。元老院の議員の一人もやる気だなとわかったのは、発言の時の敬語の量が増えたからだ。なあ、マルクス、おれはそういうことを決して見逃さんのだよ。一人ひとりの心に生まれる、地位や名誉へのあざとい欲望をな。ごきげんをとり、浮かれ、落ち込む、変化のさまが、手にとるようにおれにはわかる」
 「哲学者でも?」
 「あいつが一番ひどかったぜ」叔父さまはあざ笑った。「そんなことは何も気になりませんてな顔をしながら、その手の噂が出るたびにそわそわ落ち着かなくなってな。実際、見られたもんじゃなかった。情報を持ってる奴の顔の方に、目だけがきろきろ動くんだもんな。皆、気づいて笑ってるのに、当人だけが知らないんだから。哲学なんていうものは、そんな時、くその役にもたたんものだと、おれはしみじみわかったね」
 僕はこんな時、叔父さまが恐いと同時に憎くなる。思わずにらみつける目つきになっていると、叔父さまがからからと笑った。
 「それで、おまえのおやじだが」
 僕は思わず緊張して、叔父さまを見つめた。
 「あいつは、あのバカは、もう本当に何と言ったらいいのかまったく…」
 「何なんだよ?」
 「そんな気配が、どこさがしても、まるでかけらもなかったんだよ」いまいましげに叔父さまは言った。「だからつい、おれも完全にノーマーク、ノーチェックだったわけだ。客観的に考えりゃ、一番要注意人物だったのに…何しろ、父上があいつに向ける目つきときた日にゃ、若い恋人でも見るのと同様、でれでれのとろとろ、なめこくって食べてしまいたいてな顔してたんだぜ。おまけにあいつは、元老院でも人気があったし、軍はあいつの言いなりだった。氷の穴でも火の海でも、あいつが命令すりゃ兵たちは飛び込むとさえ言われてたほど、人気の高い将軍だった。それでも、何の心配もしなかった自分が、今でも信じられないよ。あとで考えれば考えるほど、おれはバカだったが、しかし、自分でも無理もないって気もする。あの頃、姉上の夫で父上の共同統治帝だったヴァレスの葬式や、その他の何やかやで、何度かあいつに会う機会があったんだが、皆でいる時、次期の皇帝が誰かって話が出ても、まるで春風のようにのんきな顔してて、あいつの回りの空気だけは、そんな生臭い話の中でも、そよともそよいでいなかった。その一方で、おまえたちのいる、故郷のスペインの家の、桃色の石垣の話とか、ポプラの木の話になると、ほんとに楽しそうにそわそわして、帰ったら葡萄の収穫に間に合うだのどうのと目を輝かせて夢中で話すもんだから、皆思わず顔見合わせて苦笑して、ちょっとだけ権力闘争の話題忘れて妙にほのぼのした気分になっちまったりしてさ。で、ふた開けたら、その当人が皇帝だぜ。まったく、ふざけた野郎だよ。しかも、皆、あっと驚いてあんぐり口を開けた次の瞬間には、うなずきあって、それは確かに彼しかいないと一も二もなく納得したんだからな。ますますもう、とんでもない奴としか言いようがない」
 「父は、ほんとに自分でも、まったく予想していなかったんでしょうか」
 「だとしか思えん。だからあれだけ、回りもだまされたんだ。とは言え、おれもバカだった。おれだけは気づいてもよかったんだ、今思えば。あいつはそういうところがあるって、少なくともおれは知ってたはずなんだから」
「どういうこと?」
 叔父さまは、唇をゆがめてふっと笑った。
 「初めておまえのおやじに会った頃、姉上ときたら、もうメロメロでな」ちょっと鼻にしわをよせるようにして、叔父さまは言った。「まだ、あいつに会ったことのないおれをつかまえちゃ、毎晩毎晩、眠たくなるまでしつっこく、おまえのおやじの話ばかり、おれにして聞かせたもんだ。で、あいつと会ってしばらくした頃、そのことをおれがあいつに話してやると、あいつ、初め、何のこと言われてるのか全然わからない顔してた。わかった後では、おれに気づかれまいとして、超あいまいな顔でごまかしてたが、それでも、ぽかん、唖然、きょとん、あっけ、という心境なのが手にとるようにおれにはわかった」
 「それって、つまり…」
 「ああ。姉上はそれだけあいつに夢中だったのに、あいつの方はまるきりそれに気づいてなかった。おれは時々思うんだが、父上からだって、どれだけ好かれてたか、あいつ本当にわかってんのかね?あいつ、自分は一生懸命、人を大切にし、愛しもするが、人に愛されることは求めないし、相手が自分をどれだけ愛してるかなんてまるで気にせず無頓着、そういう意味じゃひょっとしたら冷たい人間かもしれん」
 何をほんとに言い出すのやら。
 「ルッシラ叔母さまに前に聞いたことがあるけど、叔母さまは初めて会った頃、父に意地悪ばっかり言ってたらしいよ」僕は言った。「だから父には、好かれてるなんてわからなかったんじゃないの?」
 そう言いながら、ふと思った。ひょっとして、今、叔父さまが何かというと父上に嫌味を言ってかまうのも、これは一種の愛情表現なんだろうか。
つくづく困った姉弟だなあ。


(2)
 風の音は、まだ激しい。ぱらぱらと時々鋭く窓が鳴るのは、雨か、ひょっとしたらあられがまじっているのだろうか。
コモドゥス叔父さまは毛皮の下で居心地よさそうに足をくみかえ、銀色の房のついた朽葉色の絹のクッションに頭をもたせかけながら、杯を持ち直してワインをすすった。
 「思い出すなあ…姉上とよくこうやって、冬の夜、栗やくるみをかじりながら語りあかしたもんだった。小さい時には、ひとつの毛布にくるまってな」
 ああ、そう言えば僕と母上も、僕がまだ小さい時、戦いに行って父上が留守のスペインの家の、暖炉の前で、そうやっておしゃべりをしたものだったけれど。古いおとぎ話や、ちょっと恐いお化けの話を、母上は手の指で壁に影絵を見せながら、語って下さったりしたっけ。
 「あの年…姉上がおまえのおやじと会った年は、冬中、おまえのおやじの話ばっかり聞かされたっけよ」叔父さまは言った。「もう、すごかったぞ。何の話をしていても結局は必ずそこに行くんだからな。父上のこと話してると、父上がマキシマスのことをこう言ってた、だろ。近衛兵の閲兵のこと話してたら、あの制服をマキシマスに着せたらきっと似合う、だろ。侍女たちの話をしていたはずが、マキシマスの好きな女性のタイプの話になる、明日の朝食べる果物のこと言ってたのが、マキシマスのオレンジの皮のむき方が面白いって話になる。マキシマスの手足はたくましくてしなやか、マキシマスの肌のきめは細かくてみずみずしい、目が優しくていたずらっぽい、声がものうくて甘くて、聞いてると身体がとろけそう、馬を走らせる姿のりりしいこと、すごく大人びてしっかりしているくせに、ひょっと子どもみたいに頼りきった素直な表情をするから、心臓がひっくりかえりそうになる…女がなあ、あんな口調でしゃべり出したら、もうだめだな。絶対、黙って聞くしかないよ」
 そう言われると、何だかそんなようなことが、僕にもあったような気がして、おぼろな記憶を僕はさぐる。母上は暖炉の前で、時々ふざけて僕を抱きしめ、ちょっとうわずった声で笑いながら、それまでお話をして下さっていたのとはちがう、変に浮き浮きした熱っぽく甘い口調で、僕に語りかけられることがあった。…覚えている、マルクス、父上のお顔を?おまえの目の色の方が黒いけど、でも、この睫毛の反り具合、この眉のかたち、何ておまえは父上に似ているの。耳のかたちも。鼻もそっくり。ほら、笑ってごらん。ああ、その笑顔。あら、そんな困ったしかめっつらをすると、ますます似て来てしまうのね。そして、そんな自分を恥ずかしがっておられるように、頬を染めながら笑われて、僕の目に耳に鼻に荒っぽくキスして、僕も何だか、わくわくして恥ずかしくて、実際にくすぐったくもあって、声をたてて笑いながら母上の腕を脱け出して、暖炉の前に身体を丸めて転がって逃げて。
 あれって、何だったんだろう?ちょっと人には話しにくい気がするけど、決してそんなにいやじゃなかった。そう思って、叔父さまの顔を見上げると、叔父さまは杯を手の中で回しながら黙って火を見つめていた。どこかすさんで疲れているが、美しい横顔だった。
 「嫉妬もしなかったな、考えて見ると、あの頃、おれは」
 間もなく、ぐいと杯をあおって、つぶやくように叔父さまは言った。
 「姉上の話を、あの頃おれは何でも信じた。あの人の目を通して、おれは世界を見ていたよ。あの人がバカだという召使はバカに見えたし、あの人が美しいと言ったから、すみれの花が美しいと思った。おまえは身体が弱くてやさしいんだから、乱暴なことはしてはだめと言われたら、そうなんだと思って、そのとおりにしてた」
 「今はもう、ちがうんでしょう?」
 「ああ。ちがう」叔父さまは首を振り、ゆっくりとワインを注いだ。「思えばそれも、おまえのおやじのおかげかもな。あいつは、おれを大切にしたが、姉上とはまるでちがった風にだった。初めて会った時からずっと…何て言ったらいいか、おれのことを信頼して」
 叔父さまは毛皮をはねのけ、長椅子の上に片膝たてた。
 「皇太子と兵士だからっていうだけじゃなく、対等の大人として扱ってくれたんだ。一人前の男としてな」
 「父も叔父さまも、その時、子どもじゃなかったの?」
 「おれはとにかく、おまえのおやじは、駐屯地じゃもう、ずっと年上の兵士たちからも大人扱いされてたよ」叔父さまはふっと笑った。「こう言っちゃ何だが、女も知ってたんじゃないのか?」
 「僕と同い年で?冗談でしょう?」
 「わかるものか」叔父さまは天井を見上げた。「あの頃なあ…いつだったか、雨のしとしとふる朝、駐屯地に行ったら、おまえのおやじが一目でそのへんの村の売春婦とわかる、太って汚い年増女がめそめそ泣くのを、それこそ抱かんばかりにして一生懸命なぐさめていた。川っぷちのヤナギの木のかげでな」
 「まさか、もう」
 「本当だったら」叔父さまはうれしそうな、意地悪そうな目で僕を見た。「でもまあ、そいつは、あいつの女じゃなかったらしいや(叔父さまは残念そうだった)。おれは、テントのかげに馬をとめて、どきどきしながら見てたんだが、まもなく女が泣きながらあいつになだめられて帰ってしまうと、あいつは雨の中をテントの方に走って行った。ついて行って見たら、あいつ、自分よりひと回りも大きい年上の兵士をつかまえて、どう考えても説教してるとしか思えない口調で、何か話してた。ちゃんとしてもらわないと、軍全体があんたのおかげで迷惑するんだ、みたいなことを言ってたな」
 「その兵士が、女の人の恋人だったわけ?」
 「知らんよ。そうだったんじゃないのか。兵士があいつに何かぺこぺこしながらテントの中にひっこんで行って、あいつは何かもう、やってられんわって顔しながら髪かきあげてふり向いて、おれがいるのを見つけると笑ってかけよって来て、ぬれますよと言って自分のマントをおれの頭からかぶせてくれたっけが、でもまだ時々、兵士の消えたテントの方を怒ったような目で見ていたな。どうかしたのかって聞いたら、村の商売女だって、傷つくこともあるっていうのが、全然わかってないんですよ、あいつは、って、えらいきげんが悪かった」
 叔父さまは首を振った。
 「何だかすごく、カッコよく見えた。そんなことしたり言ったりしているあいつが。そりゃ、模擬戦闘や試合の時に、ばったばったと相手をかたづけている時も、年下の少年兵たちに剣や弓の指導をしてて、回りを取り囲んだ少年たちの目があいつの動作や視線を追っていっせいに動いているような時も、それなりに見ててうっとりしたが、それ以上に、何てすごいんだと思ってな」
 「父はそんなに強かったの?」
 「ああ」叔父さまは言った。「強かった。だが、ただ強いだけではな、あんなに人はひきつけられない。年上の兵士や上官は、あいつをからかったりおもちゃにしたりしながらも、本当にかわいがってた。あいつがおれのわがままを聞いてくれなかったりして、時々おれたちが対立すると、他の年かさの兵士たちは心配して必ずそばに寄ってきて話しかけ、殿下、こいつはバカなんですから相手にしちゃいけませんとふざけて、あいつを殴るふりをして見せたりする者さえいた。けっこう、命がけの介入だとは思わんか?おれの不機嫌のとばっちりをうけることを恐れずに、そうやって守ってくれる仲間を、あいつはいつも持ってたんだ」
 叔父さまはまた首を振り、薄く笑った。
 「そして、年下の少年兵たちの、あいつに向ける目といったらなかったな。弓矢を手にして扱い方を説明している、あいつの言葉を一言も聞きもらすまいとして、回りの少年たちは息をつめてた。あいつが何か冗談を言ったり、誰かの頭や肩に軽くふれたりすると、皆が本当に楽しそうにどよめいて笑った。あいつがそこまで皆に愛されたわけは何なのか、おれはいまだによくわからない。そもそも、あいつそのものが、バカか利口かよくわからない。絶対に鈍感じゃないんだが、時々どこかがぽかっと抜ける。人の気持ちをおれでもかなわないぐらい鋭く読むかと思ってると、まるで気づかなかったりする。すごく冷たい時があるんだが、それも気づかないでそうなのか、気づいた上での意地悪なのか、わかりにくいんだよな」
 「父が、意地悪?冷たいんですか?」
 「気づかんか?そういうところ、あるだろう?あいつの気性の底は知れない。ものすごく激しいところも、荒々しい、残酷なところもあるからな。これまでのところ、そんなものを出さないでも、あいつは勝って来れたから…いや、逆か。そんなものを出さないから、出さずに抑えられるから、あいつは勝ちつづけるのかもしれん」
 年取った召使が、新しい石炭の籠を抱えて入ってきて、部屋の隅においた。いかにも農民らしい素朴な顔の老人だが、もとは百戦錬磨の勇士で、父上が皇帝に指名された時も前線で戦っていて、叔父さまの世話係をしたこともあるらしい。叔父さまはあまり、というかまるっきり奴隷や部下には優しくないのだが、この召使だけはわりと気に入ってるらしく、ちょっと目をなごませて、リューマチは最近どうなんだと聞いた。ぱっとしませんですなと召使はため息まじりに答えて、ワインをお持ちしなくていいですかと聞いた。いや、充分あると叔父さまは答え、召使はひきさがって行った。
 「こう、だらだらと平和な日々が続いたんじゃ」叔父さまはあくびをした。「おまえはおやじの戦うところなんて、ひょっとして見たことないんじゃないのか、マルクス?」
 「以前、もっとおひまだった頃に、剣の稽古とかつけていただいたことはあるけど」
 「じゃ知るまいが、おまえのおやじが戦う時っていうのは、本当に無駄な動きがないんだ。全部、何かの役に立つ動きしかしないんだ。そうするためには、相手の動きを予測しなくちゃならないわけだが、おまえのおやじは、これがもう、抜群に速い。瞬間と言っていいぐらいあっという間に、相手の動きのパターンを見てとって、それに合わせて自分の動きを変えてしまう。と言うことはだ、あいつ自身の身体の動きには、これと言った癖が何もないってことなんだ」
 「型にはまってないということ?」
 「ある意味じゃ逆だな。とことん、基本に忠実なんだよ。だから、激しく戦っている時でも、見ていると模範演技そのものの動きをしてる。まるで絵のように、ものすごく動作が美しい。だが、基本とは長い年月かかってすぐれた達人たちが作り上げてきたものだから、逆に言うと一番あらゆるパターンに対応できる、変化しやすいものでもあるんだ。おまえのおやじの戦い方を見ていると、そのことがしみじみよくわかる」
 叔父さまは、考え込むように目を細めて、ゆっくりとワインをすすった。
 「おれも剣闘試合は好きだしさ、いろんな優れた剣闘士を見てきたが、強いやつというのは必ず、自分の得意技や、このかたちに持ち込んだら勝てるというかたちがあるんだよ。だが、それが逆に命取りにもなる。そこに持っていこうとして、つい無理をしたり、そういう流れを作ることに気を取られて全体の動きを見失うからな。だけど、おまえのおやじはな、剣でも組み打ちでも、昔から、これだという得意技がないんだ。このかたちになったら勝てるという、かたちもな。だからまったく、これというこだわりがない。相手をじっと見守って、ぴたっとひたすら合わせて来る。どうかすると、相手は自分自身と…それも、自分より少しだけ強い自分自身と戦っているような錯覚に陥るぐらいだ」
 それって、すごくいやなことにちがいないと僕は思った。でも、自分より少しだけ強いというのは、たとえばどんなところが?そう、叔父さまに尋ねると、叔父さまは、唇をちょっとゆがめるようにして笑った。
 「少しと言ったが、その少しは決定的なのかもしれんな。さっき、言わなかったっけか?あいつは我を忘れないんだ。火のように激しく戦っていても、水のように…ほとんど氷のように冷静な目をしてる。憎しみや怒りや恐怖で我を忘れることなんか決してないし、挑発しても動揺しない。不合理な動きを決してせず、落ち着いてこちらを見つめつづけている。そりゃ、実際にはあいつも必死なのかもしれんが、相手はそんな気がするんだ。そしてだんだん、ああ、もうこれだけ見抜かれていたらだめだという気になって、蛇ににらまれた蛙みたいに身体から力が抜けて来るって寸法さ。はたから見てて、はっきりわかる」
 叔父さまは、杯を床に置き、両腕で膝を抱えた。
 「多分な、ふだんの心の動きも、あいつはそんな風なんだ。戦ってる時と同じで、これといったこだわりが何もない。相手や回りの動きを予測するのだって、大抵の人間がやるのは予測じゃなくて、ただ単に自分がこうなったらいいなと思ってる勝手な願望さ。だから、相手や回りがそれと違った動きをすると、裏切られたって泣きわめくバカが多いんだ。あいつのはそうじゃない。都合のいい願望なんかじゃない、本当の予測だ。まったく先入観なしに、素直に相手や回りを見て、こうするだろうと結論を出す。だから、めったに間違えない…自分に関すること以外はな。そして、そういう状況を見極めたら、あいつはこれまた、何のタブーもこだわりもなく、その時一番相手にとっても自分にとっても有効と判断したやり方で、ことを解決しようとする。マルクス、あのな、おどかすわけじゃないけどな。おまえ、あいつに恋人になってくれとか寝てくれとか、冗談にでも言ってはいかんぞ」
 「何でもう!」僕はあきれて、本当に怒った。「僕ら、実の父親と息子だよ!たとえそうでなくたって、そんなこと、夢にも考えるもんか!」
 「ふうん、そうかね。頭のすみにでもなかったか?あいつのたくましい腕に抱きしめられたいとか、優しい笑顔にキスしたいとか。息子ではなく、恋人として」
 「叔父さまの頭とはちがうからね。ないよっ!」
 「怒るなって」叔父さまは手をのばして、僕の膝をたたいた。「おれが言いたかったのは、あいつの頭の中には、こういうことは絶対してはいかんという堅苦しさがあんまりというか、ほとんどないから、ひょっと、そうした方が当面、相手と自分とに一番いいと判断したら、どんなことでもけろっとして、やってしまいかねんということだ。現にそうやって、あいつはおれを抱いたんだから」
 「はあ!?」僕は長椅子から飛び上がった。
 「ちがうちがうちがう。あわてるな」叔父さまはうるさそうに手を振った。「そんな深刻な意味じゃない。あの頃、姉上は小さい頃のように夜もいっしょにいてくれなくなりはじめてた。おれはまだ子どもで、姉上にべたべたしていたかったから、それが淋しくて、時々、すきを見ちゃ姉上に抱きついちゃ怒られてた。そういう時は落ちこんだ。いつだったか、あれも春で、キンポウゲがいっぱい咲いてる草っ原だったと思うが、馬に草を食わせてて、おまえのおやじと二人で休んでる時、おれがそうして元気がなかったんで、あいつがどうしたのか聞いて、おれが姉上がかまってくれないからつまらない、抱いてキスしてくれって言うと、あいつ、まるでマントの紐を結んでくれと頼まれたみたいに平気な顔で、笑いながら力いっぱいおれを抱きしめてキスしてくれたよ。息がつまって、身体の骨が折れるんじゃないかと思ったぐらい力をこめて、強く。あいつの髪にはキンポウゲの花びらがくっついてて、身体からは花の香りがした」
 叔父さまのさっきから言おうとしてることが、少しだけわかる気がした。
 「他に、しようがないと思ったんだろうね。叔父さまを元気づけるには」考え考え、僕は言った。「それが一番、効果があると思ったから、あれこれ無駄なことしたり、ためらったりはしなかったんだ。そんなことして、時間を無駄にして効果が薄れたり、叔父さまがますます落ち込んだりするぐらいなら、さっさとキスでも何でもしちゃった方がいい、みたいな?」
 「だろうな。もっともその後、同じ顔で馬の鼻にもキスしてたけどな」叔父さまは言った。「要するに、あいつは、そういうことをあまり、深刻には考えんのだ。そういうところは、おれの父上とちょっとちがった。父上は、おれに言わせりゃ、哲学者である以上に詩人でな。たいがい、情熱的で変なところもあったんだが、それを自分で、おさえこんでた。父上は多分、恐れていたんだと思う。歴代のローマ皇帝の狂気、乱行…自分の中に流れる、そんな血を。だから、そういう点で自分に似ているおれを苦手にしていたし、自分の中のそういう危なっかしさや激しさもコントロールしようとしてたと思う。でも、おまえのおやじは、もっとのびのび、無邪気に、平気で、変だったよ。奴隷になろうと娼婦になろうと、けろっと生きていけそうな、わけのわからんところがあった。ほんとに一度、淋しくて不幸で死にそうだから恋人として抱いてくれと頼んでみろよ。他に方法がないのならしょうがないと言って、案外あっさり…」
 「もう寝るよ」僕は立ち上がった。
 「まあ待て」叔父さまは僕のベルトを後ろからつかんでひき戻し、長椅子に尻餅をつかせた。「おまえがそもそも聞きたがった、おまえのおやじと初めて会った時のことを、話してやろうじゃないか」


(3)
 バカみたいによく晴れた春の朝だった。(と、コモドゥス叔父さまは話した。)暑くもなし、寒くもなし。川では女たちが笑いながら洗濯をしていた。畑の上には雲雀が黒い点になって、ころがるようにまっしぐらに天に昇って行くのが見えた。風はそよそよ暖かかった。土と木の芽の香りがその風に乗って、どこからともなく漂って来る。見渡す限りの空の色は、やわらかい、どこかくすんだ青だった。白い雲が羽毛のように、その空のあちこちに飛んで、太陽に輝きながら動いて行った。
 ローマから駐屯地までは少し遠くて、おれはまだ馬によく乗れなかったから、輿に乗って、ゆられていた。川っぷちの道を走っていて、川の波がふくらんでは砕けるのが日の光にきらきら光って、それを見てると頭がくらくらして、気分が悪くなりそうだった。
 それでなくても、おれはきげんが悪かった。本当は姉上といっしょに来るはずだったんだ。だが姉上は急に身体の調子が悪くなったんで、おれに一人で駐屯地に行って、あいつに会って来いと言った。もう行くことは伝えてあるし、あいつは今日一日、おれたちの世話をすることになってて、他の訓練や仕事を免除されてるはずだから、二人とも行かなきゃ、予定が変わって駐屯地の皆が困るだろうと言うんだ。
 おれも、あいつには会って見たかった。でも、それまで一人で外出したことはほとんどなかったし、一人で誰かと初めて会って話をしたことも実はなかった。わくわくもしたが、緊張もして、そんな気持ちが何もかもいっしょになって、それで気分が悪かった。
◇◆◇
 今思うと、おれはあの時、幸せに向かって走っていたんだ。そのことに、その時はもちろん気がつかなかったが。
 あいつと会って、過ごした時間。それはいつも、どうしてこんなに楽しくて幸福なんだろうと思うほど、すべてが自然で快かった。
 あの日、同じ道を帰る時、夕暮れの紫がかった靄のただよう風景の中をゆられて行く輿の中で、おれは生まれて初めてといっていいほど、のびのびとくつろいだ気持ちでいた。別れる時に、あいつは輿の中に上半身を入れて、おれが寒くないように毛布で膝をくるんでくれて、そして、輿の屋根を軽くたたいて、「行っていいぞ」と、かごかきたちに叫んだ。おれは、そのことを思い出し、あいつがかけてくれた毛布の下でとろとろと半分眠りながら、口の中で時々あいつの真似をして、「行っていいぞ」とつぶやいてみたりしながら、本当にどうしてこんなに幸せなのかと思いつづけた。
◇◆◇
 あいつがおれに、その日何にも大したことをしてくれたわけではない。基地のあちこちを案内してくれ、昼飯をいっしょに食べた。兵士たちがやっていた槍投げの競技に参加させて、少年兵用の小さな槍を投げさせてくれ、大きな馬に乗せて、川上まで連れて行ってくれた。
 おれはその間中ずっと、気持ちが落ち着いていて、きげんがよかった。だから、付き添っていた奴隷や侍女たちが、ほっとしていたのもわかってた。おれはいつも、何かがカンにさわっては、しょっちゅう彼らにあたりちらしていたからな。彼らはいつも、びくびくしていた。
 姉上とだって、いっしょにいると、おれはイライラすることが多かった。ただ姉上は、おれのきげんが悪くても平気だったし、逆に自分がキレたりするから、それがかえって気が楽だったが。
 何となくおれは、人といるのは、そういうように、腹の立つ不愉快なことだと思い込んでいた。回りの者が皆ぺこぺこおれの言うこと聞いて、きげんをとって、それでも、そう思うなんてとんでもないみたいだが、しかし実際そうだったんだ。
◇◆◇
 それなのに、あいつといると、そういう腹の立つことが本当に何もなかった。
 どう見てもあいつはそんなに、おれに気をつかってはいないのにだ。
 あいつはまるで、ひとりでに、おれの気持ちがわかるようだったんだ。馬を見せてもらっている時、おれが馬の匂いにうんざりして、いやになっているのに気がつくと、途中で打ち切ってさっさと馬つなぎ場から出てしまった。昼食の時、おれが、奴隷たちが宮廷から運んで来た豪勢な弁当よりも、あいつが食べてるパンとチーズの方が何だかうまそうで、ちらちらながめていると、笑って、食べます?と言って、おれの皿の上に、自分のチーズの大きな切れをのせてくれた。うれしかったな。食べ物をもらってあんなにうれしかったことは、あの時ぐらいしかないなあ。ほんとに、その濃いクリーム色でところどころに穴のあいた大きなチーズの一切れの、少しゆがんだ四角形と五角形の中間みたいなかたちまで、おれは今でもはっきり思い出せるんだ。
 あいつといると、まるでいっしょに呼吸しているように、おれはのびのびしていられた。手足がひとりでに自由に動いて、何をするのもとても楽な気がした。
◇◆◇
 昼食の後、川原で罠をしかけて魚を捕って遊んだんだが、その時あいつは、川へ下りて行く急な道でも、大きな石と石の間をすりぬけて行く場所でも、まるっきりおれに手を貸そうとしなかった。おれが、川に入りたいと言い出して、奴隷たちに長靴を脱がせてもらっているのを、何だかふしぎなものでも見るような目でながめていた。
 今でもそうだが、あいつはほんとに目でものを言う。だから、今でも、おれがいろいろと皮肉や厭味を言ってる時、おれに向けてくる目を見ていると、あいつのいろんな心の動きが…好きで皇帝になったのじゃありませんとか、そんなこと言って恥ずかしくないんですかとか、いっそそこまでアホになれたら気分がいいでしょうねとか思ってるのが、いちいち手にとるようにありありわかって、おれは楽しくてしかたがないよ。
 で、その時の川原で、おれが奴隷や侍女たちに世話をやかれているのを黙って見ていたあいつの目は、決しておれをバカにしても責めてもいなかったんだが、ただ、もろに不思議がってた。あなたは、ちゃんとした強い男の子で、何でも一人でできるはずなのに、どうしてそんなことさせとくのかなあ?何かわけでもあるのかなあ?
 そうだよな。いつも、その目だった。あのまなざしは、今思えば本当に強烈だった。父上のお説教より、姉上のこまごまとした注意より、あいつのあの無言のまなざしが、おれを包んで、おれを作り上げて行ったような気さえする。
 …あなたは強い男の子です。何でもお出来になれるはずです。あなたを信頼しています。あなたにおまかせしています。
 あいつの目は、いつもはっきりそう言って、まっすぐおれに向けられていた。信頼しきって、ためらいも疑いもなく。おれが皇太子で、主君だったから?それも確かにあったかしれない。だがあいつは、わりと誰にでも、そんな目を向け、そのことで相手を支える人間でもあったんだ。
 大丈夫。できるさ。木剣を握り締めた、見るからにひよわな少年兵たちをそう言って励まして、自分はその後ろで何の武器も持たずに平気で腕組みして、訓練用の矢や槍が飛んで来る前に平然と立ってるあいつを見たことがある。少年兵たちが危なっかしい手つきで必死に剣をふるって矢や槍をはねのけなければ、自分もけっこうな傷を負う恐れがあるというのに、あいつは落ち着き払っていた。自分が訓練した、その少年たちが防御に失敗するはずはなく、もし失敗したらそれはまあしかたがないと言わんばかりの、のんきな、まかせきった表情。少年たちにとってみれば、これほどに強い人が、これだけ自分を頼りきっているという実感が、そのまま、頼られている自分への強烈な自信を生み出す。
 その日のおれが、そうだった。あいつにふしぎそうに見られて、ちっとも恥じたり、反省したりしたのじゃない。そういうのとはちがって、ただ、身体の底から、それまで一度も感じたことのなかった力が、本当に、うねるように、わきおこったんだ。大げさじゃない、実際そんな感じだった。おれは自分で何でもできる、誰の力も借りなくていい…そのことが突然わかった、とでも言ったらいいんだろうか。
 その日の午後ずっとおれは、奴隷や侍女に身の回りのことをさせなかった。川原では気がつくと半分裸になって水の中に入って、ぐしょぬれになりながらあいつと二人で、木の蔓で編んだ網や籠を流れにしかけて引っ張って、川の中を走り回ってた。小魚の群れが日光にきらめきながら網の上を通過した瞬間、網をはねあげると、銀色の魚が数十ぴきも、まるで宝石のようにかがやいてはねた。奴隷たちが歓声を上げ、おれとあいつは夢中で蔓をひっぱって、網をあげようとやっきになって、叫びあい、指示しあった。その後、川原でたき火をして、その魚を焼いて食べながら、ぬれた身体に吹きつける、薄ら寒い春の風が、おれにはちっとも気にならなかった。あいつは一度、手をのばして、魚の油でべたべたになってるおれの口を荒っぽく手のひらで拭ってくれた。それだけだった、あいつがおれの面倒を見たのは。
◇◆◇
 「何だか、叔父さま…」僕はつい、言いかけた。
叔父さまはことばを切って、寒そうに毛皮を背中にひっかけて身体を丸めていたのだが…それはちょっと変だった。新しい石炭が赤々と燃え上がって、部屋の中は少し暑いぐらいだったんだから…僕を見ないまま、「何だ?」と聞いた。
 「いいよ、何でもない」
 「言えよ。どうせ悪口だろう?」
 「悪口っていうか…そんなだったんじゃ、叔父さま、今でも父上に頭が上がんないわけだね」
 「ふふん」叔父さまは笑ってワインの杯を引き寄せた。「そう思うか?そうでもないんだぞ。その後、何年間かはおれはずっと、おまえのおやじをいじめまくっていたんだからな」
 風がかんだかく唸りを上げて、窓の外を吹きまくっている。また、しんしんと寒さが厳しくなったようだ。
 「何で、そんな風になったのさ?」僕は聞いてみた。
 「覚えてないな。…いや、理由はわかってるんだが」叔父さまは言った。「あいつと二人でいる時はいい。姉上と二人で、あいつのことを話してても、楽しい。幸せだったと言っていい。どっちと居てもな。昼間に基地に行ってあいつと遊び、夜には姉上と話をした日など、幸福がぎっしりつまった一日という感じで、満足しきって、眠る前から、枕の上で目を閉じると楽しい夢の中にいるようだった。それがな…三人いっしょにいると、そういかんのだよな」
 「楽しくないってこと?でも、叔父さま、その二人ともを好きだったんでしょう?」
 「ああ」叔父さまは、ひとごとのような、どこかふざけた口調で答えた。「それはもう、大好きだったさ。どちらもな」
 「なのに、三人でいると、楽しくないの?」
 「わからん。その気持ちが何だったのかは、今でもな」叔父さまは毛皮を身体にまきつけて、風の音に耳をすませるような顔をした。「腹が立つというのとは、少しちがうかもしれん。ただ、恐ろしい。いらだつのさ。真っ暗い穴に落ちて行くような…見慣れた回りの風景が一気に遠ざかって、同じなのにまるで見覚えのないものに変わってしまうような、そんな感じといったらいいか…おれは多分…いや、わからんな…」


(4)
 三人…と僕は、握りに彫刻のついた火かき棒をもてあそんでいる叔父さまの顔を見ながら考える。三人でいる時?
父上が戦いに行っている間、スペインの家で僕はずっと、母上と二人で暮らしていた。楽しい、静かな、幸せな日々。沼の面が夕陽に輝き、いっせいに水鳥が舞い上がる。風にそよぐポプラの大木。その下をどこかとりすました顔で、とことこ歩いていた野生のポニー。
 どの風景も美しい。なつかしい。けれども、胸をしめつけるほど美しいそういった風景は、いつもかすかに、どこか淋しい。そこには何かが欠けていた。父上がいてくれて、母上といっしょに声をあげて笑っているのを聞きながら、二人の膝の間の暖炉の前で、とろとろと眠る時、僕の幸せは初めていつも完全になった。僕がうつらうつらしているのを邪魔しないように、暖かく低くかわされていた二人の声がふっと止まる。父上のひそめた声がする。
 「眠っちゃったのか?」
 「いえ、この顔は、まだ起きてる」
 母上の指がほおを突っついて、目を閉じたまま寝返りをうって僕が笑うと、なあんだ、というような父上と、ほらね、というような母上と、二つの笑い声がやわらかく入り乱れて僕の上からかぶさってきて、まるで大きなケープのように、すっぽりと僕を包み込むのだ。
 三人でいる、というのは僕にとってはいつもそういうことだったのに。
真っ暗い穴?遠ざかる風景?どういうことなんだろう?
気がつくと、叔父さまの目がじっと僕を見つめていた。冷たく静かな、刺すような光をたたえて。
 「幸せなやつだな、マルクス」どこかぞっとするような声で、叔父さまは言った。「おまえには、わからんのだな」
 僕は長椅子から立ち上がり、叔父さまのそばに座った。毛皮をとって引き寄せて、叔父さまと身体をくっつけた。まるで目に見えない手にひかれるように、そうしないではいられなかった。
 「くっつくな」叔父さまはうるさそうに、僕を押しのけた。
 「寒いんだよ」僕は言った。
 「おれにくっついても、あったかくはならん」叔父さまは火を見つめたまま、せせら笑うように言った。「あっちに行けよ」
 「行かない」僕は言い張った。
 「たのむから泣くなよ」叔父さまは言った。「それとも、もう泣いてるのか?」
 「泣いてなんかいない」僕は火を見たまま言った。
 しばらくそうして二人で黙って風の音を聞いていてから、叔父さまは吐息をついた。
 「そうだな。まったく、どういう気持ちだったんだろうな、あれは」
◇◆◇
 そうさ。あいつと二人でいる時はいいのさ。(叔父さまは言った。)いつでも幸せだった。姉上と二人でいても、幸福だった。姉上と、あいつの話をしていると、何時間でも本当に飽きない。あいつと姉上の話をするのも楽しくてたまらなかった。やれやれ、こうして並べあげてると、まるで哲学の命題だ。AはB、CはD、AはC、BはD、しかしてAはDなのか?ってやつだぜ。まるでな。
 「今日の試合でマキシマスが何人敵を倒したか知ってる?」
 「五人は確実」
 「七人だよ」
 「まだ全部、言ってないじゃないの!ピンを口にくわえてたから、返事ができなかったんだわ」
 「年上の兵士とかもいたのに、本当に彼、強いんだ。かすり傷ひとつ、してなかった。すごいよねえ」
 「ええ、すごいわ。でもね、前はけがしたことあるのよ。ひざの所に傷痕があるでしょ、知ってる?」
 「ううん…あ、白い、稲妻みたいなかたちの?」
 「そうよ。さわって見たことある?」
 「ないよ。姉上は?」
 「あるわよ。くすぐったがってたけど」
 洗ったあとの、黒く長い髪を広げて乾かしている姉上と、ベッドの上でそんな話をしていると、夏の暑い夜はすぐ更けて行った。
 「姉上って、つまらないことに怒っちゃうんだよなあ」
 「どんなことにですか?」
 「今日は、花瓶の花が黄色だと言って…」
 「黄色、お嫌いなんじゃ…あ、そんなことないか。この前、黄色のドレス着ておられましたね」
 「だから、いやだったのかもな。ドレスの色と同じ花の色で」
 「なぜ?ご自分が目だたないから?」
 「うん。女ってそういうとこあるだろ?」
 「そうですねえ。でも、何着てらっしゃっても目だつのになあ」
 「着てないともっといいのにと思ってないか?」
 「殿下。いけませんよ」
 いっしょに馬を走らせながら、そんなこと話して笑いあってると、長い道のりもあっという間だった。
 どちらと話していても、そんなに幸福なのに、本当に、なぜなのか。
 三人でいると、だめだった。
◇◆◇
 最初、おれは自分でもそれに気づかなかった。何だか楽しくなかったり、何だか自分でも気づかず二人にあたりちらしたりして、今日は寒かったからだ、とか、犬が吠えたからいらいらしたんだ、とか、自分で理屈をつけていた。
 だが、それも結局、あいつがおれに気づかせた。何回かそういうことがあったあと、三人で木陰に座ろうとした時、あいつは姉上が、そばに座りなさい、というように見上げたのに、気づかないふりして避けて、おれの横に回り込んで来て、おれを挟んで姉上と離れて腰を下ろしたんだ。
 わざとらしさはちっともなかった。現に姉上は全然気づいてなかった。姉上はそもそも、おれが不機嫌になること自体、慣れてたし、気にしてなかった。だが、おれは初めて会った時以来、あいつの前ではいつもきげんがよかったからな。おれの様子が変なのは、あいつの方がこたえてたんだと思う。
 あいつのその、何気なく姉上を避けた様子が、逆におれに気づかせた。自分が何で不機嫌だったか。おれは、あの二人が仲良くしているのを見るのが、いやだったんだ。恐かった。
 そして、そのことを自分より先にあいつに気づかれたことで、おれはあいつを憎んだ。恐れたんだよ。