調査報告 福井県敦賀市疋田地区の疋田ずしについて
- はじめに
疋田は、加賀藩から若狭にかけて存在するイズシ(ニシンずし)の分布域と、滋賀県で古来型の代表とされるフナずしの分布域の接合点にある。
中部を中心とした古来からのスシの流れは、ナレズシ(魚のみを食す)からナマナレ(魚のほか飯も一緒に食す)イズシ(野菜などと一緒に漬け込み食す)、そして酢を使う早ずしとなる。
疋田ずしはそのうちのナマナレにあたる。
現在は失われてしまった疋田ずしの作り方とそれに伴う歴史を探ってみたい。
- 疋田ずしの背景
・鵜飼と鵜匠
福井県の鵜飼はいずれも徒鵜(かちう)といって、船に乗らずに鵜匠が鵜を1〜2羽持って川の中を歩く方法である。これの鵜匠を徒使(かちつかい)という。鵜は『指掌録』に、江州の竹生島の鵜を使用していたとある(資料1)。鮎は、村から八丁ほど下へ下がった所に献上場があり、岩があって溜まりになっていて鮎が沢山いた。そこへ小浜藩主酒井候の目付役が来て、鵜匠はその前で鮎を捕り、その場でこれをすしにしたこともある。また家へ持って帰り一晩かかってスシに漬けたこともあるといわれている。その頃の鮎ずしは鵜匠の家で漬けられていたものである。
・消費者
『敦賀志三』に「此の里人、毎年〜」とあるが、果たして民間で食べられていたかどうか信憑性は薄い。仮にスシを食べていたとしても、八幡屋の宿屋や長谷川家など、生産者に近い人々に限られていたと思われる(資料2)。
・疋田の鮎と米の特徴
疋田ずしに使用される鮎は、笙の川の支流の五位川で取られていた。五位川の周辺は花崗岩(石英:長石、雲母などから成る灰白色で黒点のある堅くて美しい火成岩。土木建築用。御影石とも呼ばれる)地帯であることから、川底が白い。そのため保護色をとる性質を持つ鮎の身は白く美しかった。その他の特徴としては、川の流れが速いので身の締まった鮎が捕れた、川藻が良いので鮎が大きく育つ等が挙げられる。
一方、疋田ずしを作るのに必要不可欠の米であるが、五位川筋の土地が粘土質ではなく砂地なので水はけが良く、また肥料も熊笹を踏み込むなど工夫されていて、疋田で生産される米は質の良い米であった。しかし、疋田での米の生産量は少なく、スシを作るのに足りないことがあったのだろう、『指掌録』に献上すしのための米が鵜匠達に無利子で貸与されていたことが記されている(資料3)。
・献上されるに至るまでの推察
北前船で敦賀の港が栄え、敦賀から京へ荷物を運ぶ行程が、疋田ずしが口コミで伝わった要因と考えられる。また、『朝倉亭御成記』のなかに鮎のスシがみられる。敦賀は朝倉一族が務めていた敦賀郡代の居館があることから、義景に縁のあるところである。そのことが疋田ずしが幕府に献上される要因となった可能性もあるかも知れない(資料4)。
疋田ずしの作り方
・献上
川役は疋田・津内の鵜匠からの納税で、慶長3年6月15日疋田鵜匠が小川の落合から鳩原の下西谷口の間、5、6町の間を永請し銀32匁を敦賀鵜症に納めた。木芽川の葉原から敦賀土橋まで粟野川魚とめ山泉落合まで寛文年間ごろにはそれぞれ納税していた。後に川役のことを鮎川役と称した。粟野川役のことは野坂領に上納したことなどからも、往時の疋田鮎鮨が名産であり、太閤秀吉に献上し、「諸国に鮎鮨多しと雖も疋田に優るものなし」と賞されたことによっても当時の名物生産が知られる。
献上は19世紀中葉までに幕府御用となり、天保年間まで続いた。
疋田ずしは、小浜藩酒井家のときに献上として上納された。
以下は『指掌録』から疋田ずしの作り方の抜粋・要約である。
御音物の馬付鮨は、数が多いので、毎年6月9、10日の両夜に鮎を捕り、9日の夜に捕ったものは10日の朝、10日の朝に捕ったものは11日の朝に漬ける。
中一日と中二日と間を空けて、13日の朝までに押し、同日に荷作り(桶を籘で縛り、菰で包む)をする。
同日の夕方に疋田を出て、14日より7日目の20日に江戸に着く。
鮎を捕った川入りより日数にして12日目に江戸に着く。
御献上の徒行持鮎は、12日の夜に鮎を捕り、13日の朝に漬ける。
15日までに押し、同日荷作りし、同日の夕方に疋田を出て、翌16日より5日目の20日に江戸に着く。
鮎を捕った川入りより日数にして9日目に江戸に着く(資料5)。
鮎は捕獲して直ぐに開腹して内臓を出し、骨も手で抜く。
これを一日塩に漬けておき、その後水で塩気を洗い出す。
丸桶(へぎ桶=曲げ物)の底に柿の葉を敷き、御飯を入れる。
御飯の上に鮎を並べ、更に上に御飯を乗せる。
御飯には味は付けない。
これを数回繰り返し、桶に一杯になったらまた柿の葉を置き、蓋をして重石を乗せる。
これを涼しいところに置いておき、発酵を待つ。
「アユずし3日」と云う言葉があるようにアユずしは漬けて3日たったら食べられるようになるが、重石を効かせれば1週間くらいからひと月くらいは保存できる。
作るのは初夏が多いが秋の落ちアユのすしも美味と云われる。
疋田ずしの献上過程からも明らかなように、このスシは鵜飼と密接に関わっている。よく似た事情を有する例として岐阜長良川の鵜飼と献上鮎ずしの関係があるが、岐阜の献上鮎ずしは、鮎の捕獲は鵜匠が行うものの、スシの調整は「御鮨所」なる機関に移管された。これに対し疋田のアユずしは調理そのものを鵜匠が行うこととされている。
・民間
疋田の庶民にとっての鮎は、春から夏にかけて捕れる日常的な食べ物のひとつだった。鮎の旬は5〜9月で、この時期になると五位川では鮎が手掴みで捕れるくらい沢山居たらしい。
明治11(1878)年10月 明治天皇が疋田を行幸した折りに、土地の名豪家で旅宿商を営む森田家(屋号 八幡屋)の鮎ずしが献上された。八幡屋では森田和夫氏の祖母の代まで鮎ずしを作っていたらしい(資料6)。また、長谷川利一郎(明治末年没)家は、疋田で最後まで鵜飼をしており、献上ずしの略式の様な鮎ずし(熊笹に包み、曲げ物の丸桶にごく短期間漬ける)を作っていたらしい。明治の初め、鉄道が通ったときに鮎ずしは駅売りされていたということも考えられる。
現在のナレズシ
・東南アジアにおけるナレズシについて
東南アジアにおいて、ナレズシは食品としてどの様な性格を持っているのか。ナレズシの発展について石毛直道氏とケネス・ラドル氏の『魚醤とナレズシの研究・モンスーン・アジアの食事文化』には次のように記されている。
まず始めにナレズシを「主として、魚介類ときには鳥獣肉を主な材料として、それに塩と加熱した澱粉・多くの場合、米飯・を混ぜることによって、乳酸発酵をさせた保存食品」と定義付けている。
保存食品という面ではナレズシと共通しているが、日常の食事に供される副食品である塩辛に対して、ナレズシはむしろ上等な食品としての地位を占めてきた。例えば中国の少数民族の場合、ミャオ族やトン族のナレズシは宴会料理に欠かせないものとされており、高山諸族のナレズシは「番人ハみなこれ皆之ヲ非常ノ珍味トス」と述べられている。
東アジア、東南アジアの食習慣では肉と並んで魚は価値の高い食品とされているが、漁獲は常に得られるとは限らない。特定の時期に捕れた魚を独特の風味を持つ食品に加工・貯蔵がされたナレズシは不意の来客をもてなす際にも好都合である。そこでナレズシは儀礼の際の行事食として用いられる。国立歴史民族博物館の田辺繁治氏によると、北タイの精霊を祀る儀礼には、ナレズシは欠かせないと云う。我が国の琵琶湖周辺の神社の神事に伴う神饌にはフナズシが供えられることが多い。そこで神事や宴会の際には食べ頃になるように計画してナレズシ作りが行われる。
ナレズシは魚や肉を保存する技術として成立した食品である。西南中国や台湾の少数民族、サラクワのイバン族の様な自給自足の生活様式の社会ではいまもって食生活における保存食品の必要性が高いので昔ながらのナレズシが続いている。しかし、商業網の発達や冷蔵・冷凍技術、輸送手段の発達により新鮮な魚や肉がいつでもどこでも入手可能になれば、ナレズシに対する需要が減少するのは当然であろう。保存食品としてのナレズシの重要性が低くなるとその独特の風味を賞味する嗜好食品としての側面が強調されるようになる。
・疋田ずしが残らなかった理由
疋田ずしが今日まで残らなかった理由として以下のことが考えられる。
1:秀吉の頃から続いてきた献上が、5代将軍徳川綱吉の代で、生類憐れみの令によって取り止めになった。
2:元々、疋田宿を出入りする人々の口コミで広まっていた鮎ずしは、
北前船の廃止・敦賀港の衰退に伴い、疋田宿が利用されなくなると同時に、鮎ずしも作られることが少なくなった。
3:大正12年頃、笙の川に鳩原発電所が出来て、支流である五位川も影響を受け鮎の捕獲量が激減した。
現在はこの様な諸々の理由で環境が変わってしまい、疋田ずしはおろか、当時と同じ条件の鮎は存在しない。地元の人も鮎を捕ることはしていないようである。
むすびにかえて
既に疋田ずしは現在に伝わることなく消えてしまった。当時を知る人からの話しを訊くにつれ、これだけ素晴らしい鮎であったなら、その鮎で作られた疋田ずしはどんなにか美味しかったのだろうか、と私達は思いをつのらせていくようになった。疋田ずしが今日まで残らなかった事が残念でならない。
最後に調査を行うにあたり、ご指導頂いた森田和夫氏、日比野光敏氏、当時のことを詳しく話して下さった坂上弥氏、長谷川靖氏、小島丈太郎氏に心から感謝いたします。
参考資料一覧
資料1:敦賀市史 史料編 第5巻 『指掌録』p383 下段 L2〜5
資料2:敦賀志 『敦賀志 三』p75 L8途中〜L11
資料3:敦賀市史 史料編 第5巻 『指掌録』p510 下段 L16〜
資料4:群書類従 22 『朝倉亭御成記』p378
資料5:敦賀市史 史料編 第5巻 『指掌録』p383
L6〜p384 L2
資料6:谷村文庫 『金の草鞋』十返舎一九 京都大学図書館蔵 4-43-シ2
福井県敦賀女子短期大学
多仁研究室 1996年度調査記録より
飯野敦子 八尋紗矢香
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