第19 山梨平和を語る会 に参加された皆様のお手許へ(会での発表意見の替わりとして)

── 人命を 超える価値なく 法も無し ──

いかなる人殺しにも反対する私の考え

日本国憲法第九条を全地球上へ輸出する会 事務局

2003.8.3() 玉穂町 今福利重(イマフク リジュー) 055-273-2235

 テレビは連日「ヒト殺し」のサスペンスドラマを放映しています。テレビ、ラジオ、新聞、インターネットも「ヒト殺し」を連日報道しています。ヤクザさんの「ヒト殺し」もよくニュースになっています。こんな話はいまさらこれ以上聞きたくない、という気分です。でもそればかりではありません。戦争、テロ、ゲリラなど組織的な「ヒト殺し」、つまり「システムによるヒト殺し」も相変わらず盛んです。

 人間の究極的、全面的解放をうたいあげた共産党宣言も、その中へ実質的に「システムによるヒト殺し」を含んでいました。ですから「社会主義国家」と称していたソビエト連邦も倒産しました。「システムによるヒト殺し」を実質的、実態的に含んでいては、人びとの最終的納得と支持を得ることは不可能であって、どのように崇高?な目的も最終的には実現できるものではありません。

 「人命は地球より重い」という言葉をよそに、また、反戦・平和の活動の広がりをよそに「人類はヒト殺しが大好き」という事実を、日々相変わらず歴史の上に積み重ねています。

 これは「賢く?伝統的に美しい錯覚」がその原動力になっています。それは「人命を超える価値がこの世の中にある」という錯覚です。人類のすくなくとも半数以上はそのように錯覚しています。あるいはそのようにマインドコントロールされています。こんな錯覚は、知恵を絞り、徹底した非暴力によって、この世の中から取り除いていかなければならないと思っています。

 さて、そんなわけで有事関連法やイラクへの自衛隊派遣法も成立しました。

 しかし、どれほど民主的手続きがとられたにしても「こと人の命にかかわると予想される法律」に従う必要は全くありません。ヒトは卵子・精子の段階で両親や両親の属する国家、縄張り、社会、集団から何の相談も受けていません。それらと何の約束も契約も取り交わしてはいません。そうした法律はすべて当然の権利として自由に拒否できるのです。法治国家、法律遵守という言葉や考え方は「ヒト殺しに平ちゃらな人で無しの連中」が造り出し、広めたものに過ぎません。それを受け入れる人は率先して自分の身を危険にさらし、投げ出せば良いのです。しかし、それを他人に勧めたり強制する権利、またそれによって人びとを危険にさらす権利はもともとありません。お互いに大好きな自由主義社会であってもそんな権利はあってはならないのです。あるのは「まず、地球上のだれしもがおだやかにその天寿をまっとうする、という不可侵の権利」です。

 「人命の価値を超える法律はあってはならない」のです。人命に懸念のあるそれらの法律はすべて、当然の根源的、超法規の権利として自由に拒否できるのです。拒否しなければなりません。

 「人命の価値は、国家、縄張り、社会、集団などすべてに優先するもの」です。それらに体よく利用されたり、それらの犠牲となってはなりません。すべては、たとえば食材などと同様に、よく吟味し、工夫を凝らして「自分の心身の快適さを増進するため」に利用すれば良いのです。

 人類が「システムによるヒト殺し」から抜け出す道は、それら一つひとつの企みを的確にあばき、それに反対しながら「最終的に、日本国憲法第九条を地球上で実行しあう以外に無い」と私は考えています。そしてその実現に微力を注ぎ続けています。

 一つしか無い、かけがえの無い命を国家、縄張り、社会、集団などに断絶された人びとの無念さに、その視線にできるだけ近づけて、私の思いをめぐらせてみました。

 みなさまのご検討、ご批判、反論をよろしくお願い申し上げます。

以 

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