3.嬰児、幼児、生徒・学生、若者たちに対する「差別」も一掃しましょう。
―――「差別はいつもあなたの傍に」―――
物事に対応・対処する場合当然その対象を区分・区別することが必要となります。ところがここで「霊長意識」が表に出てきて無意識の差別が発生します。
大人が嬰児、幼児、生徒・学生、若者たちに対応・対処する場合も例外ではありません。ほんの数例ですが次のような言葉の中に妥当な区分・区別のつもりの「差別」を発生させています。法律上も「差別」が無いとは言い切れません。
赤ん坊だから、こどもだから・・・まだ喋れないから、まだ解からないから・・・そんなこと言い聞かせても無理だ・・・こどものくせに・・・。
生徒・学生だから・・・生徒は生徒らしく、学生は学生らしく・・・稼ぎも無いくせに・・・生意気だ・・・。
未成年だから・・・それはまだ早すぎる・・・独り者だから・・。
だれだれの「教え子」です・・・「教え子」という言葉は、親に絶対服従で反抗しないのが親孝行の大事な美徳とされた時代にその親子関係になぞらえて生れた?というより教師側の都合で教師側によって作られました。生徒・学生もその家族側も偉い先生(先生は学識が深く経験も豊かな偉い人=御上(おかみ)の一部分)側が言い出したものですから、ああそういうものかと納得した言葉です。学校教育では生徒、学生は子ども扱いです。いまどきまだ「教え子」という言葉は生きているのです。生徒・学生が成人してもまだ「教え子」呼ばわりされます。通常、社会ではすくなくとも成人は基本的には対等です。かって担任であった教師とその生徒・学生であった成人との会話で教師側の相変わらずの教室口調も稀ではありません。
「教えてやっている」、「教鞭をとる」、「愛のムチ」なる言葉も健在です。
教師とは、学校制度があるからとは言え生徒・学生がいて成り立つ職業=「サービス業」です。とくに義務教育は、大人の都合による制度ですから大人の都合のカリキュラムを生徒に学んで戴いている制度です。教師は、とくに世(民間)のすべての「サービス業」の従事者に学ぶ必要があります。民間の「サービス業」の従事者には「・・・をしてやる」、「・・・の鞭」ましてや「名前の呼び捨て」もありません。よくない従事者はおしまいにはリストラされます。
学校は「大人の都合の場所・システム」の一つであって「聖域」ではありません。教師と生徒・学生の関係はすくなくとも対等です。
生徒・学生は「お客さま」、「お客さまはカミサマ」です。少子化で国公立の教師もリストラされる可能性が浮上する時代となりました。
入札で民間の業者に義務教育を逐次委託していくのも現状改善の有効な手段の一つです。その教育業者のもとへは「サービス精神旺盛」な、教師資格を持った人材が多数集まって来るでしょう。
さて、あなたが生れて来るにあたり
a.生れるのであれば、人間にか、それ以外の生命体にか。
b.人間に生れるのであれば、性別、身体条件・生存年数、知能指数、特技、生年月日、出生地、両親は誰であるか・両親の職業、家族・係累関係、その家族の経済条件、周辺社会の状況とその歴史、世界の状況とその歴史等々。
上記のa、bについて
あなたは何ものにも両親にも事前に注文はしなかった。
あなたには何ものからも両親からも事前の相談は無かった。
約束事は何も無かった。気が付いたら人間だった。
ですから、人間はどんな状態でどんな条件のもとに生れてきても本人に責任はないし、また、誰の責任でもありません。
この事実においてこそ人間は誰しもが100%の存在であり、したがって人間は生まれながらにしてすべて「平等」であるのです。この事実をしっかり掴んでおく事が極めて重要です。憲法の条文に規定されているから「平等」になったのではありません。
しかし、子を生むということ=人の親になるということは上記のa、bについてなんらの事前協議、約束が無いことを知っていて人の親になるわけですからその点で、なんらの事前協議、約束が無くて生まれてきた子に対しての親の責任が発生するということです。その責任は、「その子の自立の実現を有効にサポートする」ことによって果たされます。無論その前に親自身が「幻想、錯覚、妄想」から離れ、事実に即して自立していなければなりません。
みずからを 助けよ天はみずからを 助くる者を 確(しか)かと助くる
(短歌雑誌・みぎわ1999.11月号分・筆者投稿不採録)
子の自立実現を有効にサポートして行くのは実に厳しい過程です。真の愛はその内容において厳しい場合が多々あります。
成績、成果の区分・区別は、人間の集団生活の都合上やることであってそれらは人間の根源的平等とは全く別の事柄です。
嬰児、幼児、生徒・学生、若者たちは大人の本質的「差別」を直感で見抜いています。
だれであれ産声を上げた瞬間から100%の存在として認め、尊重し合ってこそそこに信頼が生れ、「お互いのハートを揺さぶる真のコミュニケーション」も成立します。
「権威」という大げさな言葉をこれからも使うのであれば「相手側のハートを揺さぶる真のコミュニケーションを成立させ得る情報発信力」という内容で使ってこそ意味があるというものです。
「差別」の一例ですが、このところ表沙汰になってきた医療ミスも、患者(お客様=カミサマ)に対する医療機関側の「差別・蔑視」が真の原因です。医療機関側は、難しい高度な専門知識を習得し国家試験にパスした権威のある要員で対処している、だから総べて任せておきなさい・・・プライドはしばしば「差別・蔑視」を発生させます。「ミスチェックのマニュアルが無い、要員が足りない」事態はその「差別・蔑視」から発生しているのです。
関連してここで「自由」を見てみましょう。上記のa、bでみた通り、生れてくる人間はなんらの注文、約束、事前協議はしていないという事実に基づいてやりたい事はすべてできます。嫌な事は13頁の「その子の自立の実現を有効にサポートする責任」を除いてすべて拒否できます。したがって人間は生まれながらにしてすべて「自由」であるのです。この事実もしっかり掴んでおく事が極めて重要です。これも「平等」と同様憲法の条文に規定されているから人間は「自由」であるのではありません。
ただし、人間は大なり小なりの集団の中で無いと生きて行くのが極めて困難です(以前横井庄一さんの例がありました。)。そこでその集団の都合の良し悪しという問題が出てきます。その都合とはオキテ、法度、法律、習慣、慣習、倫理、モラル、道徳なるものになっています。これらの都合からのしっぺ返しを覚悟さえすれば人間は何でも自由にできるし、何でも拒否することができます。もっともその覚悟をしてもしなくても何でも自由にやる人間の絶えない現実は五右衛門の言った?通りです。
すでにみてきた「差別」も「ヒトのdna:遺伝子」が自身のより恒久的生存を実現して行くためその進化のより有利さ=他の固体(リレーマシン)、他の生命体以上の繁殖優位性を促進するよう、「ヒトのdna:遺伝子」へ組み込んだプログラムにより発生します
「イジメ、ケナシ、コキオロシ」もこの「差別」から発生しています。「差別」する側はそうすることが都合が良いというか、具合が良いというか、結局楽しいからやっているのです。
誰しも人から陰口を言われることは避けられない「陰では殿の事も言う」、その通りで誰しもが陰口を言っているということです。これも具合が良いというか、結局楽しいからやっているのです。
「具合が良い」は心身(=思考、肉体)のバランスが適当にとれている状態、「楽しい」は心身がハイレベルでバランスのとれているつまり快適バランスの状態です。
宇宙の物質は絶え間ないランダムな変化の過程で、時空の歪みに沿って(=即応して)運動します。
滔滔と流れる大河も結局は海、湖、砂漠などへ行き着きますが、大河の岸辺のあたりには水の一部分が逆流したり、淀んで静かに停滞したりしています。この停滞は物質の一時(いっとき)の相対的安定状態=物質のバランス状態の一例です。変形しない、消えない雲はありませんが雲も大気中の、変転極まりないいろんな分子や塵などの一時いっとき)の相対的安定状態=バランス状態です。
ヒトもいずれ訪れる死までの、心身の絶え間なく変転する流れの中で相対的安定、秩序のある状態を作り出そうとしています。
ヒトもヒトそれぞれに日々の瞬間瞬間を「心身の適当バランス、快適バランス」実現のために運動(奮励、努力)しています。これが「人間の営み」のすべてです。
一方、ある課題を実行しようとすると心のバランスが大いに崩れるから、つまりうんと嫌だからそれを実行したくない場合がしばしばあるものです。しかしそれを実行しないと先行きもっともっと心のバランスが崩れることが確実に予測できる場合には、その嫌な課題も実行します。こうすることによりバランスの崩れ、悪化を防ぎ適当バランス,快適バランスを保とうとします。
「差別」から発生する「イジメ、ケナシ、コキオロシ」もそのためにインプットされたプログラムです。
「ヤキモチ、ネタミ」も同様にこの「差別」から発生していて「イジメ、ケナシ、コキオロシ」の裏返しです。
「リレーマシン」を活性化するために「ヒトのdna:遺伝子」は、ヒトをオチョクルいろんなプログラムを「差別」プログラムとともに「ヒトの思考システム」にインップトしています。
ここでも「幻想、錯覚、妄想」を削ぎ落として「ヒトのdna:遺伝子」に対することさらの反逆が求められています。
長くなりましたが、諸問題を有効に改善・解決して行く上で「ヒトのdna:遺伝子」に反逆し「幻想、錯覚、妄想」を削ぎ落として「新しい時代の新しい基本的センスを確立する」ための必要最低条件として次の三つを2頁〜17頁でみてきました。
1.事実をありのままに認め、「幻想、錯覚、妄想」を削ぎ落としませんか。
2.「戦争・紛争、個人によるすべての人殺し」をブラックホールへ封じ込めましょう
3.嬰児、幼児、生徒・学生、若者たちに対する「差別」も一掃しましょう―――「差別はいつもあなたの傍に」―――
そしてこれら三つは、差し迫った諸問題の改善・解決のためどうしても実現する必要があります。繰り返しになりますが、これらの実現は大人のアイデンティティーの根底のある部分(人によっては大部分)を突き崩すおそれがあります。それでも大人のあなたにはそれを実現しようとする勇気があるでしょう。
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