ヒト類は「人殺し」が大好き
── 平和を守り、確立する活動をさらにおぎなう提案 ──
2002.9月 イマフク リジュー
目 次
まえがき⇔ 日本国憲法第九条の積極的輸出 ⇔提案
コロシのシステムによる「ヒト殺し」
1.戦争の本質・事実
2.国家=地球上の縄張りの一つ
3.「戦争」という言葉の言い換えが必要
4.天皇組だけに責任がある?・・・「身からでた錆び」は
5.何であれやってはいけないこと
6.「・・・その心根・・・」
7.結果論も重要
8.「T・Y」さんの物語
9.わが家の直系尊属・・・その戦跡
10.口にしたくないのは「身内の不都合」
11.善男善女・・・人が良すぎる
12.純粋の戦争犠牲者
またまた活性化する「ヒト殺し」
1.「平和」とは ・・・「天寿を全うすること」
2.私にとっての真の平和
3.「命あっての物種・命に過ぎたる宝なし」
4.「人殺し」はもっともおぞましい差別の極み
5.「ヒト殺し」と「ヒトのDNA 」
6.DNAに対する反逆
7.「ヒト類」から「人類」へ
8.人命の安全生存システムの 確立こそはベストのロマン
9.日本国憲法第九条の積極的輸出
そ え が き
(全13頁)
まえがき⇔ 日本国憲法第九条の積極的輸出 ⇔提案
平和を守り、確立する活動では、
●当面するすべての「システムによるヒト殺し」とその策動にきめ細かく反対する。 とともに
●「確信をもって日本国憲法第九条を地球上へ明確に、積極的に輸出し広めて行く」ことを常に併行させる。
そうしないと、もったいない活動になってしまいます。
コロシのシステムによる「ヒト殺し」
1.戦争の本質・事実
戦争・・・と言う言葉には、事実を的確に言い表し得ない甘えがあります。
戦争の本質・事実は、つまるところ次の三つです。
(1)地球上の縄張り争い。
(2)コロシのシステム(武装・軍備・軍事システム)による「ヒト殺し」。
(3)ヒト殺しの強いっこ。
(注)1.テロの本質・事実も基本的に戦争のそれと同じです。むしろ戦争こそ最大・最強・最惨酷のテロであります。
2.「ヒト殺し」と言う言葉は戦争の究極的本質・事実そのものですからその使用を遠慮してはなりません。また惨忍で暗い響きがあり人聞きが悪いからといってその使用をためらったり恐れてはなりません。
(1)「国家」は地球上の縄張りを言い表す一つの言葉にすぎません。
その政体は君主国家、むき出しの専制独裁暴力国家、民主国家、社会主義?国家・・・などなど、なんであれそんな事には関係なく、国家も縄張りの別名にすぎません。
(2)山口組、○○株式会社、○○無尽会・・・も縄張りです。
(注)1.地球上の縄張りのうち、とくに国家は最終的には信用できないし、また生まじめに信用して良いものでもありません。それは歴史がよく示しています。きりはありませんが少し例を挙げて見ますと最近では、
@第2次大戦で在中国大陸、在朝鮮半島の民間日本人は敗戦時置き去りにされた。
A沖縄は日本本土防衛の盾とされて、住民も土地もグチャグチャになり、敗戦後はアメリカのでっかいヒト殺し基地とされその撤去廃絶もまったく未定である。
B戦争中の日本国債は敗戦後紙くず同然と成り果てた。
C原爆病、水俣・四日市など公害病、ハンセン氏病等は裁判、行政レベルなどで一応の決着がなされたが、それでもそれらの最終的救済、抜本的解決、原状回復は不可能である。
D朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に拉致された日本人のうち8名は死亡と報道された(’02.9.17(火)現在)。縄張り争いに利用だけされて不都合になったから殺されてしまった、あるいは死亡したことにされてしまった可能性が極めて高い。
2.国家・縄張りは、個々人が利用すれば良いものの一つであってそれに利用されてはならない。衣食住や精神的生活に、だれもが具合・都合の良いものを取り入れ利用しているようにただそれを利用すれば良い。
3.国家・縄張りは、その構成員のすべてを保障する、保障し得るなどという事は、それ以外の何ものとも同様にもともと有り得ないことなのだ。ヒトはそれぞれが孤立して生きるより群レて助け合い、協力し合った方が好都合だ。しかしいよいよとなったら、最後は自分を自分で守らなければならないのだ。
だがそれには「正当防衛論を超え、縄張りを越えた意識と行動」が不可欠である。
4.歴史を学ぶ目的・・・三つの目的
@学校でのカリキュラムにあるから、単位取得のため、あるいは受験のため。
A自分が、ある縄張りのいずれかの指導的立場に立つときのため、または立ったときのため。
B自分が絶対に縄張り争いの犠牲者にならないため、とくに縄張り争いで一命・天寿を妨害・断絶されないため。
3.「戦争」という言葉の言い換えが必要
「戦争」という言葉は、いろいろな要素、内容を含むので結果的にたいへん抽象的で曖昧な言葉となってしまいます。言い換えると、戦争の主体であるヒトを離れて、戦争自体があたかも独自の意思と力を持つもの、のような印象を与えてしまっています。そればかりかその原因、結果、わけても責任の曖昧さを促進する言葉となっています。したがって、数例にすぎませんが次のような言葉は事実に即した言い換えが必要です。
●戦争遺跡 ⇒ ヒト殺し用設備の遺跡
●軍事基地 ⇒ ヒト殺しの基地
●アラビア海北部海域派遣の自衛艦の任務 ⇒ ヒト殺しのお手伝い=ヒト殺しのオテコ(プロの職人の下働き、見習をする人)=ヒト殺しの実質的共犯、・・・。
●戦争の犠牲者 ⇒ ヒト殺しシステムで殺されたりその他マイナスの影響を受けた個人。
1頁1.の「戦争の本質・事実を確信、または結果的にせよ容認、黙認した人びと」はいわゆる「戦争の犠牲者」ではありません。加害者であると同時に犠牲者・被害者であるという言葉も事実ではありません。それは事実を直視しないで、結果を自分以外の所為にする甘えた言葉にすぎません。いわゆる「自称犠牲者」の多くは「身からでた錆び」の加害者です。
「人殺しのむごたらしさの程度」を定めた国際条約なるものがありますがこれは「この程度のむごさなら、この範囲ならヒト殺しはやってよろしい」というバカげた条約=縄張り間の取り決めです。またおためごかしの不可侵条約などもありますが、いよいよとなれば縄張り間の協定はなんの役にもたちません。「殺し屋の防犯協定」はそういうものなのです。縄張り争い、殺し合いになれば何が起きても、どんな手段がとられようと不思議ではありません。
4.天皇組だけに責任がある?・・・「身からでた錆び」は
1874(明治7)年以降1945(昭和20)年までの71年間に天皇組は他国、他地域へ「盗み、火付け、ヒト殺し」を28回も仕掛けやりたい放題のことをやりました。(乞別添参照→1999(H11).3.27(土)山日紙=私も言いたい欄「国旗国歌は新しく作れ」:今福利重)
当時の国民の大部分は確信的にせよ、マインドコントロールされて結果的にせよ、黙認的にせよそれに従いました。その国策に便乗してあわよくば一旗あげようともくろんだ者も決して少なくありませんでした。そして「国策」反対者を、「ヒト殺し」反対者を「非国民呼ばわり」する側にまわったのです。赤紙(拉致)、空襲、原爆投下、シベリア抑留、などなどの悲惨な状況、体験、そして「可哀相な犠牲者・被害者ぶった結果」も一億一心火の玉となって招き寄せたものでした。
「身からでた錆び」は決して生半可なものではありませんでした。
5.何であれやってはいけないこと
「盗み、火付け、ヒト殺し」は何であれやってはいけないことなのです。親もそのように厳しく教えました。誰が何と言ってもやってはいけないことなのです。情報が目隠し状態であろうと、エライ人・お上すなわち縄張りのドンや若頭たちがどんなにもっともらしく唱導、善導しようと「盗み、火付け、ヒト殺し」は何であれやってはいけないことなのです。
他人が殺されたから自分も殺されても良い、という事にはならない筈です。同様に、他人がやったから自分も「盗み、火付け、ヒト殺し」をやっても良い、という事にはならない筈です。
6.「・・・その心根・・・」
それなのに時代や教育の所為にしたり、世渡りの都合上有利であれば内心はともかく結果的に長いものに巻かれて、善男善女よろしくマインドコントロールされて、最もやってはいけない事に同調して実行してしまう、いわゆる堅気の人びとのその心根こそに「盗み、火付け、ヒト殺し」の原因があるのです。
集団の中で圧倒的多数といわれる堅気の個々人が隣人と付き合うのと同様に、そんな「人でなし」は絶対にやらないと断固拒否してこそ「真っ当な人間、堅気の人間」と言うものです。
集団の中で圧倒的多数といわれる堅気の人びとこそがかって、「一億一心火の玉」となり、「非国民ではなかった」のです。
私たちの明治以降のご先祖様は、大部分が「いわゆる堅気」の人びとでした。
「堅気の人びと」って一体なんでしょう?・・・
「人のやさしさ」って一体なんでしょう?・・・
7.結果論も重要
「それは結果論だ。当時はそれがいけないと解かっていてもそんな主張もできなかった、行動もとれなかった、許されなかった。そんな事をすれば投獄されるか、しまいには殺されて生きては行けない時代だった・・・。いまだからそんな事が言える・・・。」
そんな声が私の配偶者を始めとして周囲からたくさん聞こえてきます。確かに私はセミ戦中派で、太平洋戦争敗戦時は11.6歳(1934.1生れ)でした。いわゆる戦争責任はなかったかもしれません。しかし、西も東もよく分からない頃からおさな心をもてあそばれたとは言え、軍国少年だった事も間違いないことでした。
小学校の命令で、徴用工に上履きを送るため、霜解けの校庭に藁一本の厚みの糸ごも(90cm四方の藁むしろ)を敷いてその上で藁草履を編みました。またこれも小学校の命令で、食糧増産のため、釜無川の石ころだらけの土地を開墾し、酷暑の中で水掛け、除草、あげくに結局収穫不能の大豆栽培などなどをしました。
満蒙開拓義勇軍へ入る高等科2年生(現在の中学2年生)や、出征兵士の壮行会参加そして国鉄駅頭への見送り、戦死者遺骨の国鉄駅頭への出迎え、出征兵士への慰問袋・慰問文の作成、さらに戦死者宅および出征兵士宅の桑畑の勤労奉仕除草などなどもしました。
数え上げればきりがありませんが、それもこれも「お国のため、天皇陛下様への忠義のため」と子ども心にせよ自分では本気になってやっていたものです。
ですから私にも応分の戦争責任はあったと思っています。
さて、「・・・いまだからそんな事が言える・・・。」確かにそれも尤もです。
しかしどんな時代、条件、立場であったとしても事実を直視して主張し、行動する・・・猫の首に鈴を付ける・・・ことが肝心です。「システムによるヒト殺し」に関しては特に必要です。それなのに言えるときに言わないで、やれるときに行動しないでどうするというのでしょう。やれても出来てもそうしない人が現実にはたくさんいるのです。
8.「T・Y」さんの物語
あの戦争中民間人で非国民とされた人々もいました。しかし、召集されて世界に名だたるあの帝国陸軍のなかで、ことごとに徹底的に上官に反抗したあげく、五体満足で見事生還した人「Y・T」さんがいまも私の身近に健在です。
あの時代そういう人もいたのです。その人(現在84歳)は全国的なある団体の本県支部の要職で活動しています。私はその人と近じか懇談することとなっていて、いまその準備をすすめています。追って詳しくお知らせする予定です。
9.わが家の直系尊属・・・その戦跡
私の父、曾祖父も地域では国威発揚の戦争=縄張り拡張戦争の典型的な是認者、推進者でした。祖父は放蕩の挙句、準禁治産者とされた不孝者で同時に「天皇様への不忠者」でした。
中風の祖母だけが、盛り上がった話題の「満州国の建国、満蒙開拓義勇軍」に病床から引きつるような高い声で反対しました(1934(昭和9)年1〜2月ころ)。この事実は、その話題でその場に居合わせた6〜7人はもとより近所、親戚間で有名な話として伝えられています。
曽祖父は、日清、日露戦争で「勝ッタ勝ッタの提灯行列」の先頭に立つなどはお手のものでした。そればかりか買い物で行った隣町で、日露戦争の旅順203高地を日本軍が攻め落したニュースを聞き、帰宅するや否や部落60戸全部を回ってそれを伝え歩きました。これも有名な話として伝えられています。
父については山日紙(乞別添参照→2002(H14).8.8(木)私も言いたい欄「暑い8月と父の思い出」:今福利重)にその一部を詳述しました。
後妻だった母は日本住血吸虫病(地方病)を長く病み、農家の多忙さもあり戦争については父と違い口数の少ない人でした。その母が一度だけ戦争を口にしたことがありました。
1943(昭和18)年の4月下旬、ガダルカナルの日本軍が撤退(敗走)して2ヶ月ほど経ったころの事です。
村の小学校某女性教師が、その教師の担任生徒が我わが家にいないのに家庭訪問の途中で立ち寄りました。
そして父と交わした話のついでに「日本軍は補給が無くても屯田兵方式の自給自足で戦うから大丈夫、戦局はいま不利にみえても長期戦で最後は日本が必ず勝ちますよ」と言ったそうです。母も同席していてそれを聴いていました。
夜になって珍しく母がその事を私に話してくれました。そして「あの先生はそう言ったけどこんなになって日本が勝てるわけが無いよ」と付け加えました。母が私との間で戦争に触れたのは後にも先にもその一度だけでした。
曾祖母は内心はどうあれありきたりに夫唱婦随であったそうです。
さて、わが家の、明治以来の直系尊属の国策対応、戦争責任をも避けることなく直視すること、そしてそこからも教訓を汲みとることで不戦・平和への誓い、取り組み、行動は真に確かなものとなります。
10.口にしたくないのは「身内の不都合」
明治以来71年間三代にわたり他国、他地域へ28回も仕掛け「盗み,火付け、ヒト殺し」をさんざんやっておいて、当時の非国民でなかった大日本帝国臣民がいまさら「戦争の犠牲者」だと被害者ぶるのは、またその子孫がそのように思ったり言ったりするのは、明治以降の歴史的事実、それぞれわが家の直系尊属の国策に対応した実態を直視していないからそうできるのです。
大方が、わが家・身内の不都合な事は口にしない事にしています。だからその家庭・家族の子孫が知らなくて、世間の方でくわしく長い歳月知っているという事例はよくある話です。たてまえはともかく国策・戦争とはいえ心覚えのある不都合だった事となればなおさらであります。
当時の国策・戦争にわが家の直系尊属がどう対応し、どのように非国民でなかったのか、それらをありのままに詳しく語り伝えた家庭、家族は本当に少なかったと言って良いでしょう。
私の家でもそんな事は無く、私自身が生家・親戚の高齢者やその他の関係者にしつっこく聴いて回っているからようやくその一部分が明らかになってきたというものです。
(なお、それらについては、これまで「封入の文書記録」として私の配偶者をはじめ、子供、生家、親戚、その他の関係者へ「わが家の戦跡・語り継ぐ共通の財産」にして戴けるようお届けしています。これからの分もそのようにお届けします。)
11.善男善女・・・人が良すぎる
わが家のことでも「口にしたくない・・・」そんなことだから日本人は天皇、国家の指導者層つまり縄張りのドンや若頭たちの重大なヒト殺し責任をもみずからの力で糾弾、追及しきれていないのです。
この点でも日本の選挙権者の相当部分は、かってのご先祖様のように、「システムによるヒト殺し」を好む連中にマインドコントロールされ、善導されてのんきに無頓着になっています。有事関連立法でもマインドコントロールされるかされないか、そののんきさ・無頓着さを試されているのです。
12.純粋の戦争犠牲者
純粋の戦争犠牲者とは、被侵略国・地域の人びとおよび戦争の本質・事実(1頁1.)に身をもって反対しそれを拒否した日本人、日本人の未成年者(20歳未満または18歳未満)で、ヒト殺しシステムで殺されたりその他マイナスの影響を受けた個人です。ただし、その未成年者の多くは、国策に結果的にせよ従順だった両親・祖父母・曾祖父母、教師による直接の犠牲者だったと言えます。
またまた活性化する「ヒト殺し」
さて、2001.9.11の米中枢同時多発テロで、ヒト類の「ヒト殺し」はまたまた活性化しています。
「平和」の定義については、数え切れないほどいろいろありますがそんなに難しく複雑に思い悩むことはありません。
「平和」とは、その基礎は、地球上の個々人がそれぞれの天寿を全うすることです。「平和の実現」とは、その「天寿の全う」を妨害、断絶するすべての「ヒト殺しシステム」を廃絶することに尽きます。
●そのための最も重要な基礎は日本国憲法第九条であります。それを地球上で実行し合うことによって「平和」は保障されます。
たったこれだけのことです。
「平和」を問題にする場合は、個々人それぞれの「天寿を全うする」ことを中心に置いて考慮すれば良く、国家・縄張りなどはどうなろうとそれらの都合は二の次で良いのです。「国敗れて山河あり」です。
(ただし、ランダムで突発的な個人レベルの「人殺し」、たとえば「人殺しの通り魔」を防ぐのは至難の極み、まず不可能です。)
私にとっての「真の平和とは、私の天寿を全うすることであります。私の天寿は戦争、テロなどによって妨害、断絶されてはならないのです。同時に私は、地球上の私以外のすべての他人の天寿を妨害、断絶しない。」に尽きます。
戦争、テロなどにより戦闘員、非戦闘員を問わず、唯一かけがえのない命を奪われ、天寿を断絶されたときその個々人にとってすべては終わってしまいます。
殺された者にとっては善も悪も、どんなに崇高?な目的、理由、正義などいかなる大義名分も、そして国家・縄張りなどがどうなろうともすべては無意味です。国家・縄張りの興亡など歴史上枚挙にいとまがありません。すべてに始まりがあり終わりがあるのです。国家の政治体制がなんであれ殺された者にとってはすべては無意味です。
死んで名誉だの、有意義だったなど、それは生き残った人々の、また「システムによるヒト殺し」に平チャラな連中のたわごとにすぎません。
一例ですが、靖国神社に祀られた?個々人=英霊?を見てみましょう。何のことはありません。天皇組に、その縄張り拡張のために体よく、いいように利用されて、唯一かけがえのない命を断絶させられたのです。事実はただそれだけです。
しかし、天皇、天皇組を信奉する人びと、「システムによるヒト殺し」をやりたくて仕方のない連中、憲法第九条改定論者にとってそんな事実が、国民の大多数に当たり前に理解されてしまったらトテモトテモ都合ガ悪イ・コワイこととなります。学習指導要領からの「お呼び」はもちろんありません。
また遺族にしてもその大多数は「天皇陛下様のために、お国のために命を捧げたのだ。意味のある名誉の事だったんだ。」とすなおに思い込んでいる、あるいは無理やりその様に自分に思い込ませているのです。
生きている者が英霊に祈り、捧げる哀悼のどのような言葉も、思いも折角ですが生きている者の気休めでしかありません。その気休めは英霊には解かるわけでも伝わるわけでもありません。まったく無意味です。伝わるものであれば、「おれが生きていた間に英霊にならないように口をきき行動して欲しかった、これからでも遅くは無い。」と応えるでしょう。
すべては「命あっての物種・命に過ぎたる宝なし」であります。
4.「人殺し」はもっともおぞましい差別の極み
「ヒト殺し」をする側は「他人を、尊重し対等に接するに価しない者として扱い、平和、友好、共生の対象外、殺してもよい対象」として差別します。この差別を良しとするから「人殺し」はできるのです。
「人殺し」はもっともおぞましい差別の極みであります。
ヒト類は「ヒト殺し」をいつまで、あるいはヒト類が存続する限り続ければ気が済むというのでしょうか。
ヒトによる「ヒト殺し」は、進化がヒトの「思考システム」に仕組み、インプットしたことによる避けがたい営みであります。
たしかにDNAは自身の進化に安定的で、より永続的・恒久的存続の方向へ自己中心的に進化します。(本文では便宜的に遺伝子をDNAと表記します。以下同じ。)
DNAは自身のそのような進化に有害なもの、マイナスとなるものを排除しながら進化してきたし、またそのように進化します。
だからヒトは、自身の、また自身の属する群レ・縄張りの当面の存在に有害なもの、マイナスとなるものを排除する一つの手段として「ヒト殺し」を飽きもせず、懲りもせず繰り返してきたし、もっとハデに繰り返そうとしているのです。つまりヒトによる「ヒト殺し」は、ヒトを組み立てているDNAの仕業であってどうにも止める事はできないのです。
この実績は、「ヒト類もDNAのロボットにすぎない」ことを示しています。ではどうするか?・・・。ここでストップしてしまう選択もあるのです。
6.DNAに対する反逆
ここでストップしないでさらに進むこととしましょう。
ヒト類が「万物の霊長」を僭称するなら、DNAのロボットではないとムキになって言うなら、DNAに反逆して「ヒト殺し」を絶滅・根絶しようではありませんか。
ヒト類はとうの昔からDNAに反逆しています。去勢、自殺、避妊、妊娠中絶、最近ではバイオテクノロジーなどなど。
(ちなみに、日本では335年前の1667(寛文7)年5月、徳川幕府が堕胎業を禁止しています。妊娠中絶は当時もすでにかなり盛んだったのです。)
このDNAへの反逆は、これまでの進化のままだったらかえって「DNA自身の進化に安定的で、より永続的・恒久的存続」にマイナスとなりますからDNAが自滅の方向にブレーキを掛けるため、「ヒトの思考システム」へ追加でインプットした進化の一つ、であると言えます。
さあこれで、決して少なくない、マインドコントロールされやすい善男善女・堅気の人たちの心根(4頁13行目の6.)とそれへの対応の道筋がはっきり見えてきました。
そうだとするなら尚更のことこの「反逆の思考システム」を活用して「避妊」、「妊娠中絶」と同じように「避ヒト殺し」、「ヒト殺し根絶」は、DNAに沿って無理なく実行、実現することが可能となります。どうにも不可能の事では無いことがこれで明確となりました。
日本国憲法第九条の草案を誰たちが創ったにせよ、その人たちが意識していなかったにせよ、その人たちの作業はDNAに沿った営みであったのです。これは「ヒト類史上何よりも最高の評価を受ける得る作業」であったと断言できます。
(注)上記5.と6.は「利己的な遺伝子」、「延長された表現型」(双方ともR・ドーキンス著)の一部を参照。
7.「ヒト類」から「人類」へ
ヒト類と他の生命体との相違は、@直立二足歩行、A火をコントロール出来る、B道具を作りそれを使うことが出来る、などと説明され教えられたりしますがそれは本質的な事実でも回答でもありません。
その相違をうんぬんするなら「避ヒト殺し」、「ヒト殺し根絶」を実現した時初めて他の生命体との本当の相違を説明出来るのです。
そしてその時こそ「ヒト類」は文字通り「人類」となります。
8.人命の安全生存システムの 確立こそはベストのロマン
日本国憲法第九条の草案を誰たちが創り持ち込んだにせよそんな事はどうでもよい事です。まさしく「日本国憲法第九条はヒト類の救い」であります。
日本国憲法第九条を地球上で実行し合うことによって「すべてのヒト殺しシステムの廃絶」、「避ヒト殺し」、「ヒト殺し根絶」という人類最高、最善のロマンは実現可能となります。
そ え が き
●システムによる「ヒト殺し」の一つである死刑は廃止すべきである。
死刑判決が確定された犯人を殺して一体何になるんでしょう?・・・。
犯人の対象となった被害者はもとよりその家族・親族は、文字通りまったく不運であり同情に値します。
しかし、犯人の方がもっともっと不運でありより同情に値します。そしてそのマイナス影響を長年にわたってまぬがれ得ない犯人の家族・親族も同様であります。
人は「その時その瞬間、その場所」でそうすることが
「その人にとって心身の最適バランスを実現できる、あるいは、バランスの悪化防止を実現できる」
からそのように運動(努力、行動)するのです。
ところで、
宇宙のすべての物質は、間断なき変化の過程で、時空(時間・空間)のゆがみに沿って、最短距離を運動しながら最適バランスを実現しています。(注)「一般相対性原理」(アインシュタイン)の一部を参照
人も同様に運動(努力、行動)しています。
ヒト類が特別の事=運動をしているわけではありません。「特別の事」というのは、ヒト類がかってにそう思っているだけです(天動説 ⇒ 地球中心 ⇒ ヒト類中心)。
その運動(努力、行動)が縄張りなどのオキテに触れなければそれでよし、触れると判決確定で犯罪となります。同時にその運動をした人は犯人となります。
犯人はなぜ犯罪を実行するのでしょうか。
それは犯人が、その時その瞬間、その場所でそうする=その運動(努力、行動)をする=その犯罪を実行することで「犯人自身の心身の最適バランスを実現できる、あるいは、バランスの悪化防止を実現できる」からです。
ほかにもっと良い運動(努力、行動)があれば、その人はその時その瞬間、その場所でその運動(努力、行動)を実行します。あるいは、その時その瞬間、その場所にはいないで、別の場所でそれなりの良しとする運動(努力、行動)を実行します。
つまり、犯行と言う運動(努力、行動)はその人にとってそれが最適であったのです。その人の「思考システム」がそのように決定をくだしたのです。
「意思」や「意識」という言葉がありますが、それらは「思考システム」が生み出すものです。その「思考システム」は、その人が卵子・精子の段階で注文したものでもないし、両親から相談のあったものでもありません。ましてや、「そのような思考システムでOKです」と了承したものでもないし、契約したものでもありません。DNAの進化がその人の「思考システム」をも、その人の体などと同様に組み立てているのです。
したがって、その人の「思考システム」とその運動(努力、行動)はその人のいわゆる「責任」ではありません。
人は群レて生きた方が都合がよい存在ですから群レて縄張りをつくります。そこにはそれなりの都合があり、不都合はオキテとなって特定の運動(努力、行動)=犯行に「オキテ上の責任」が発生し、相応の処理がなされることとなります。
大部分の人はオキテに触れることも無く一生を終えて行きます。
一方、少数のいわゆる犯罪者は、DNAの進化=頼みもしないDNAのイタズラでその「思考システム」を、「オキテに触れるようにも」組み立てられインプットされてしまった気の毒な人びとです。
犯罪者が、縄張りの・世間の、常識・良識・道徳・オキテをわきまえず、他人の意見・助言・忠告・戒めに耳をかさなかったのが、いけないこととなってしまったのです。その通りでもありますが、その人の「思考システム」の一部分である「感受性」がDNAによって、そのように組み立てられインプットされてしまっていたのです。気の毒なことこの上無しです。
そのなかのさらに少数の、死刑が確定した犯罪者はもっと気の毒な人びとです。
死刑執行により恨み・つらみ、無念さを晴らして、それを被害者の霊前に報告して、また世の懲らしめ戒めとしたところで「五右衛門の法則」が健在なのは、歴史と死刑を廃止した縄張りの実績が示す通りであります。
最も気の毒な人びとに死刑を執行してなんになるのでしょう。無期懲役で十分です。
以 上
連絡先:〒409-3823玉穂町上三條260-6 055-273-2235
(初稿:2002.9月)
(補筆:2003.3月)
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