「冷静に北朝鮮問題を考える」集会 に参加された皆様のお手許へ(会での発言意見の替わりとして)

日本国憲法第九条を全地球上へ輸出する会 事務局 今福利重(イマフク リジュー)
2003.11.15()  409-3823玉穂町上三條260-6  055-273-2235
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── 朝鮮人は可哀そう 何故かと言えば ・・・ ──
いかなる差別にも反対する私の考え            

1.さげすみの囃し歌

 朝鮮人は 可哀そう  何故かと言えば         
   地震のために     お家(ウチ)がメッチャクチャ  

 朝鮮人は 可哀そう 何故かと言えば
   大風吹いて      お家(ウチ)がメッチャクチャ

 朝鮮人は 可哀そう 何故かと言えば         
   そよ風吹いて    お家(ウチ)がメッチャクチャ
      ・              ・
      ・              ・
      ・              ・
 
この歌はいつか私の頭に入っていました。私が小学校1年 (BC1940=昭和15=皇紀(通算和暦)  2600) の頃です。そして何かの 折にそれを口ずさんでいました。おそらく三つ歳上の兄や近所に群 れていた兄の仲間たちが歌っていて私にもいつか知らない間に歌えるようになっていたのです。学校では上級の男子生徒が時どき歌っていました。女子生徒の歌っているのは聞いたことがありませんでした。この歌はよく何回も歌ったという ものではなかったのですが、たまに  は歌いました。
 家にいて歌ったり学校で歌ったり しました。その歌声が、「聖戦」遂行に地域でも率先していて非国民ではなかった父()の耳に入れば「そんなウター歌うジャーネー」と怒鳴られたものです。そんなわけで学校ではもちろん先生や  や朝鮮籍同級生のSHさんに聞こえるような場所では歌いませんでした。SHさんは1年生の時から同じ組でした。  
 ()2002.8.8()山日紙「私も言いたい」欄被掲載〔暑い8月と父の思い出〕

2.転校して来た同級生の朴さん

 小学校5年(1944=昭和19)のとき戦争疎開で朴・某さんが同じ組へ入って来ました。名前の方はどうしても思い出せません。口数の本当に少ない生徒でした。そして間もなくのことです。あるとき私は5、6人の仲間と一緒に校庭で、ちょっと離れていたその同級生へ聞こえるようにその歌を歌 い、はやしたつもりのイジメをやらかしました。その時の朴さんは泣き顔になっていました。
 やがて敗戦となり朴さんは引き揚げたのか、引っ越して単に転校したのか記憶ははっきりしませんがその年の内に学校からいなくなりました。時どき思い出しては、幼かったとはいえバカなことをし    たものだと後悔しています。朴さんも健在であれば、このことを一生忘れることは無いでしょう。


3.金学用(日本名=高山金一)さんとの付き合い
        金学用さん
(通称=金さん)は、昭 和の初め (1926) 頃から敗戦の1945 (昭和20)年の年末まで

                                                                          (P.1)

     日曜日ごと夫人
(アイコさん・朝鮮籍=通称アイちゃん)とともに私の生家(農業・田富町今福82)
     を手伝っていました。

  金さんは、日本通運の人力大八車による荷物配送業務に従事していました。その配送は、私が小学校へ入学した頃は荷馬車に変わっていました。勤務地は、旧国鉄身延線東花輪駅前・日本通運の支店でした。

金さんと私の父(清照)との取り決め内容はほぼ次の通りでした。それは口約束でした。

○金さん夫婦は、()日曜日ごとに私の生家の農作業を手伝う。

        ()その他、私の生家の用足しがあれば随時、可能な限りそれを行なう。

○私の父清照は、()金さんに、住まいの敷地約30(100u) を地代無料で貸与する。

()金さんに、食糧の基本的確保のため水田400(1,320u) を耕作料無料で貸与する。

(3) 上記() ()の期間は金さんが約束の敷地に居住している期間とする。

居住用敷地は、私の生家で通称「メーヤシキ(前屋敷)」と呼んでいる100(330u)ほどの桑畑の一部です。金さんが桑を抜根し、自噴の井戸を掘り、子供の目にもこぎれいな木造・鉄板葺きの平屋を建てました。畳の二部屋がありました。花や野菜も少しぐらいは作れる庭がありました。

水田は、通称「イチンダシ」という釜無川東側堤防沿いの田んぼでした。川沿いだけに砂が比較的多い湿田でした。しかし、量はほかの田んぼよりちょっと少なめでしたが砂地でしたから良い米は収穫できました。二毛作は畝(ウネ)をより高く築けば何とかできました。

金さん夫婦には実子が無くて、ハナコさんという養子がいました。同じ尋常高等小学校で私より2学年上でした。富山県に住んでいた金さんの兄弟の子供さんだと聞きました。色白で、明るく開けっぴろげのアイちゃんに感じがとてもよく似ていました。

私の家族と金さんの家族は親戚同然の付き合いをしていました。同じ集落内に200m離れて私の生家から叔母の嫁いだ親戚がありましたが、金さんの家は私の生家の南30mでした。鎮守の森や公会堂の広場への道沿いでしたから、アイちゃんの姿が見えたときはよく立ち寄っていました。金さん一家はみな日本語が達者で小学校入学前の私も会話に不自由したことはまったくありませんでした。

金さんは、関東大震災の翌年28歳ぐらいの時、私の生家の一軒置いて北のKTさんの長屋をとりあえず借りました。独身でした。

金さんの以前のことは、釜山近郊の農家の子息だった以外あまりはっきりしたことは判っていません。どのようないきさつで何時来日し、それにどうして当地へ来て居住するようになったのか、当時を知る人も今はなく不明です。

さて、金さんは近隣の農家を手伝いながら定職を探し始め、やがて日本通運の配送業務に従事するようになりました。こうなると金さんの妻帯の世話が始まりました。大家のKTさんに隣り近所も協力し、その結果金さんはアイコさんと結婚しました。

手ぜまになった住まいの始末は隣り近所で話し合った挙句、私の父が条件を出し前述の約束を取り交わすこととなったのです。父がそうしたのは@妻が病弱で家事、子育てが出来なかった。Aいつも他人の手を借りている大忙しの農家であった。B神仏への信仰が篤くクソまじめと言われていたお得意の人情論で事態の収拾をはかった。と推測されます。

金さんと父の約束事の一つ=金さん夫婦は、日曜日ごとに私の生家の農作業を手伝う。・・・は敗戦年の秋の農作業が終わるまでちゃんと実行されました。

その翌年1月(当時は農閑期)下旬になると、金さん一家が故国へ帰ることになりました。ある晩、そのことで話し合いがあり、炬燵に金さんは東向き、父は西向き、私はそのときたまたま南向きに座っていました。私がちょうど満12歳のときでした。

二人の話が一通り終わり、最後に金さんから父に次のような申し出がありました。

「日本は戦争に負けた。朝鮮は日本の植民地ではなくなった。私が帰国するにつけて、住宅地とこれまで耕作してきた水田を売ってその金を餞別として贈ってくれても良さそうのものだ。」

(P.2)

父は言いました。「それはできない。しかし、帰国の噂を初めて耳にしたときから、金さんの永年のご苦労に対して私もそれ相応の餞別はすでに用意してある。決して悪いようにはしないから・・・」

どういう成り行きになるのかと私は思いましたが、この件は繰り返されることも無く父のその一言で終わってしまいました。

4月へ入って間もなく金さん一家は帰国しました。

ちなみにこの水田は、1975(昭和50)年以降、山梨県消防学校敷地(田富町今福991)の一部となっています。

私が高校2年の1950(昭和25)年6月25()朝鮮戦争が始まりました。(どうして曜日まで覚えているかといえば、お田植の真っ最中のためその作業で学校をその日に休んだからです。) 

間もなく釜山一帯は孤立してしまいました。父と私はもとより集落内は金さん一家がどうなったかたいへん心配しました。しかし、当時の情況ではそれを確かめる手がかりなどあるはずもなく、ただ気を揉むだけでした。

1953(昭和28)年7月やっと朝鮮休戦協定が締結されましたが、金さん一家の消息は依然として不明のままでした。平成に入ってようやく金さん一家全員の無事が確認されました。金さんを知る人はみんなお互い「ともあれ良かった。良かった。」と胸をなでおろしたものです。

4.朝鮮と私の責任

私は、小学校で5年5ヶ月間、徹底した軍国主義教育を受けました。1938(昭和13)年4月公布の国家総動員法のもとで「世界に冠たる神国=天皇組」の縄張り拡張のため他国、他民族に対し「盗み、火付け、人殺し」による侵略を「聖戦」とする教育を受けました。

  小学校1年の読本(トクホン=現在の国語の教科書)の第1頁は「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」でした。そしてついには八紘一宇(ハッコウイチウ)=世界中侵略のために「一億一心火の玉」の一員、小国民とはいえ恥ずかしくないその一員となるための教育を受けたのです。そればかりか、それに必要ないろいろの作業(出征兵士や戦死者の家の農作業=勤労奉仕など)は学校の命令で、また家でも同様にさせられました。野良はいつも忙しく学校は百姓仕事の合間に通っていました。

家庭内で父親から私が受けた教育も、その雰囲気も学校でのそれらと基本的には同じでした。そしてそれらは、私に物心がついた時からと言っても過言ではないでしょう。農業でただ大忙しの家でしたが「国威発揚」、「聖戦」についてとくに雰囲気的に間違いなくそうでした。

そんなこんやで私も調子に乗って、自身ではイッパチの軍国少年気取りでした。

ですから、朝鮮についての私の責任、過ちは最初に記した1.と2.(1頁)の通りです。

さげすみの囃し歌「朝鮮人は可哀そう 何故かと言えば ・・・ 」は大人の誰かが作ったに違いありません。そして流行らせたのです。上級生も歌っていました。そして大人たちはそれを十分承知していたのです。

でも朝鮮についての私の責任、過ちは最初に記した1.と2.(1頁)の通りです。

女子の生徒がその歌を歌っていたのは聞いたことがありませんでした。彼女らはその歌は差別の歌、さげすみの歌で、歌ってはいけないと本能的に直感していたのだ、と思います。

なお、その頃「チョウリンボー=センジン=朝鮮の人」、「シナチャンコロ=チャンコロ=中国人」、「ロスケ=ロシア人=ソビエト人」という言葉も覚えました。それを使ったことはありませんが。

朝鮮について私には基本的責任はありません。
豊臣秀吉さんの朝鮮征伐。そして西郷隆盛さん(征韓論)以降の政府関係者、韓国併呑積極派、圧倒的多数のかたぎの日本人があらゆる手を尽くして、つまり国策に従って、それを支持して、韓国の人びとを虐げてきました。さんざんカツアゲした挙句1910(明治43)年8月ついに朝鮮半島を条約で併呑してしまいました。こうなるとあとはやりたい放題です。

(P.3)

私は、自身の両親・先祖や他の日本人のご先祖様、先輩たちにそんな事を「やってください」と頼んだ覚えは無いし、そんな事の相談も全然受けていませんでした。その人たちが勝手にやった事です。それは確かなはっきりした事実です。

だから朝鮮について、私には一切基本的責任はありません。

これが、信仰的に国家(=縄張り)にはごだわらない、そして国家(=縄張り)は利用しやすいように変化させてゆくもの、とする私の立場でありポリシーです。

そうは言っても「親の因果が子に報い」朝鮮半島の人びとからあれこれ言われたり、されたりするのはしかたがありません。日本は敗戦後アメリカの子分になってそれなりのことをやって来ました。「一億総ざんげ」したけれど「仏作って魂入れず」朝鮮半島に対する「落とし前」もつけることのできなかった私たちのご先祖様が圧倒的多数でした。そしてそのご先祖様に「落とし前」をつけさせられない現在生存中の日本人選挙権者は、相変わらず圧倒的多数です。

仁義、礼儀は覚え覚え」です。他人に良くしてもらえば、次は自身がその人に対して「良くしてもらった程度、あるいはそれ以上のお返しをする」のが付き合い上の「仁義、礼儀」です。

他人に悪い待遇、ひどい仕打ち、イジメを実行すれば、次は自身がその人から「実行した仕打ちの程度、あるいはそれ以上の仕返し・リベンジを受ける」のが付き合い上の「マイナス仁義、マイナス礼儀」であって、それらの仕打ちを実行した以上相手からの仕返し・リベンジは覚悟しておかなければなりません。それをやらかした方は忘れても無視しても、やられた方は忘れません。子々孫々まで憶えています。相応の償いが実行されないと、情況によってはそれなりの、あるいはそれ以上の手ひどい仕返し・リベンジを受ける可能性はたいへん高くなります。

日本のかたぎの圧倒的多数の人びとは、拉致被害者の家族を含めてとんだ勘違いをしています。

トラブルの解決・交渉などいろんな場面で「相手の立場になって」、「先方の身にもなって」というのは「言うは易く」その実現ははなはだ困難です。

朝鮮との諸問題、わけても拉致問題を含めて根本的に、ほんとうに解決したいのであれば、次のことを実験したらどうでしょうか。

日本がかってそうしたように、日本はこれから35年間、北朝鮮の植民地になって、首都東京に日本総督府を置いてもらい、偉大なる首領・金正日(キム・ジョンイル)将軍様の統治を受ける。

そうすれば朝鮮半島、そして北朝鮮の人々の感情も立場もよく理解できるでしょう。

でも日本の選挙権者にはそんな気持はさらさらありませんネ。

58年前までの日本は現在の北朝鮮と基本的に同じでした。マスコミは北朝鮮の実態を事こまかに、正確に伝えるというカタチでそれらの報道にいそしんでいます。その中で一つだけ決定的に欠けているのは、「明治の初めころから少なくとも1945(昭和20)年8月までは、私たちのご先祖様も天皇陛下様、お上、軍部のもとで<心を一(イツ)>にして、こんにちの北朝鮮国民と基本的には同じ事をやらされ、同じ事をやっていた」という事実です。これは事実上報道されていません。大切で肝心な事を報道からはずすのは、戦前からお上の、またマスコミの得意のやり口でもありますが、同じように北朝鮮関連でもその報道ぶりは決してフェアではありません。

個々の家族では、表向き総論ではそれなりのことを言いますが、やらかして本心うしろめたいこと、マイナスのことは子供には話しませんし、まして子々孫々に伝えるということはほとんどしません。仕返し・リベンジに必要な「基話(モトバナシ)」は子供に話し、子々孫々に伝えます。

朝鮮半島についても例外ではないのです。

非国民では無かった自身のご両親やご先祖様が「朝鮮半島について」話してくれなかったこと、伝えてくれなかったこと、やらかした事をまずチェックしなければなりません。

     それが先決です。それが朝鮮半島についての真のスタートポイントです。

私たちは、非国民では無かった自身の両親やご先祖様、先輩たちに朝鮮半島に対してそんな事を「やってください」と頼んだ覚えは無いし、そんな事の相談も全然受けていませんでした。

(P.4)

その人たちが勝手にやった事です。それは確かなはっきりした事実です。

ですから朝鮮について、私には一切基本的責任(1945年以前の責任)はありません。またこんにちの選挙権者の大部分にも一切基本的責任(1945年以前の責任)はありません。

(1945年当時20歳で、現在生存中の日本人には対朝鮮国策に従順であったことによる一定の、あるいはそれの積極的推進者であったことによる相応の責任があります。)

ちなみに私の父(清照)には、〔1頁3.金学用(日本名=高山金一)さんとの付き合い〜3頁〕がありました。しかし、当時の対朝鮮政策を含む全体的な国策の積極的推進者であったことによる相応の責任は父にあった、と私は思っています。

国家(=縄張り)を信仰的に信頼するのであれば、なおさらのこと「親の因果は子が始末する」羽目を覚悟しなければならないのです。

政府、文部科学省、学校、そしてマスコミだって昔と同じで肝心の本当のことは言いません。教えません。「まずは欺け味方から」が縄張りのキャップテン、若頭、それに便乗する人たちの大昔からのやり口です。

5.朝鮮半島も日本の先生

先年(1999.11)韓国旅行に小学校の同級生9名・2泊で行ってきました。2日目ソウルの南30q・民俗村を訪ねてびっくりしました。その1画に一軒の農家の屋敷がありました。子供の頃の私の生家と真そっくりでした。母屋の間取り・台所、庭先の井戸・便所、鶏小屋・農機具小屋・家畜小屋・納屋それに堆肥作りのエリア、植えられた果樹などの構造・配置はまるで私の生家へ帰ってきたようでした。これはショックに近い強烈な印象でした。

  日本列島は、古来アジア大陸や朝鮮半島からも多くの影響を受け、学び摂ったと学校でも教わりましたが現地のそれを見て「ああ朝鮮半島も大昔から私たちの先生だったんだ。」とつくづく実感しました。

6.朝鮮半島に落とし前をつける方策の基本

日本の選挙権者は4頁の実験はしません。ですから少なくとも次の5項目は実行する必要があります。

(1) 徹底した非暴力(=日本国憲法前文、とくに第九条)の立場での辛抱強い話し合い。

(2) とくに明治以降(1868〜現在)の朝鮮半島に対する「落とし前」、けじめをつける。

(3) 「過ちを改むるに憚ること無かれ」で「朝鮮半島・日本列島間の関係再勉強」の徹底的展開。

(4) 経済上の後退、落ち込みがあってもアメリカの干渉(セータラ)は許さない。

(5) 以上の()()が出来得る国会、政府を選挙権利用・活用を中心に作る。

7.拉致問題の最終的解決

 以上の6.()()を全体的、並行的に実現することによって、あるいはその実現が確かなものだと朝鮮半島側が納得・確信したとき、はじめて拉致問題の最終的解決は実現します。

やることをやらないで、欲しい結果だけを望み、それがすぐに実現しないからといっていくらイライラしてみたところで、感情的になったところでそれは無理というものです。

まして軍事的圧力、経済制裁などで「備えあれば憂いなし」などとまるっきり見当違いのことを言って北朝鮮を挑発してみたところで、敗戦前の「国家総動員体制」、「一億一心火の玉」と同じです。問題が解決するどころかろくなことにはなりません。歴史はそれを正直に教えてくれています。私はそれをすなおに学びます。

(P.5)

私が「探り、気づいたこと」

私が、子供の頃および敗戦直後から「探り、気づいたこと」を概略羅列してみます。

1.人間は「人命に優る価値がこの世の中にある」と錯覚しています。

これはともすれば、美徳とされる伝統的な気高い錯覚です。またそのようにマインドコントロールされています。

「命惜しむな名を惜しめ」、「命は鴻毛より軽し」、「命をかけて ・・・ 」、「死ぬ気になれば出来ぬ事はない」、「死を怖れず ・・・ 」、「死をかえりみず ・・・ 」、「死を知りて避けざるは勇なり」、「死をもって ・・・

2.いつの世も「人殺しに平ちゃらな人で無しの連中」がいます。

@通り魔による殺人あるいは保険金殺人などの「個人的レベルの人殺し」

A戦争、○○独立運動、○○解放戦線、○○ゲリラ闘争、テロなど「システムによる人殺し」

いずれにせよ「人殺し」はやってはならない事です。

情報が無いか、豊かか、有ってもそれがごくごく乏しいか、あるいは言論・表現が統制されているか、自由であるか、は「人殺し」に影響するものでは有りません。

あなたは何らかの理由、名分が有れば「人殺し」をやりますか、やりたいですか。

あなたは「人殺し」を他人から勧められたいですか、他人にお勧めしますか。

あなたは「人殺し」を他人がやるのであればかまわない、ですか。

「人殺し」は、なんであれやってはならないことです。

文書に記録された歴史を見るまでもなく、国家をはじめとする縄張りのドン(キャップテン)やその若頭(取り巻き)たちが特に「人殺しに平ちゃらな人で無しの連中」です。

郷土甲斐の“英雄武田信玄公”も「人殺しに平ちゃらな人で無しの連中」のうちの立派なドンでした。武田24将もその信玄公の頼もしい若頭(取り巻き)たちでした。

信濃(シナノ)の国(長野県)、伊豆・駿河・遠江(トウトウミ)の国(静岡県)、三河の国(愛知県東部)、上野(コウヅケ)の国(群馬県)、相模(サガミ)の国(神奈川県)などは、武田信玄公・武田軍にずいぶんと干渉(セータラ)され、人が殺され、拉致され、荒らされました。信濃の国はとくにひどいものでした。

三分一水、将棋頭、石積み出し、霞堤などは「人殺しに平ちゃら」でなくても作れたはずです。たとえば徳島堰(カミツブライ〜クルワダシンデン)、両村(リョウソン)(ウエデ・アサヒガオカ〜オガサワラ)のように。

いくら民主的手続きで選ばれたドンでも、いよいよとなるとその本性を現します。

本年3月米英がイラクへ「火付け、壊し、人殺し」の殴り込みを掛けた時、日本国のドン(首相)小泉純一郎さんは世界で一番早く、即日それを支持しました。つまり「火付け、壊し、人殺し」をお手伝いしますと即日世界中へ宣言したのです。

その「火付け、壊し、人殺し」のお手伝いは国益だ、と言っているのです。血が流れる「他人の痛みは百年、千年でも我慢できる」のが「国益」で、それが歓迎されています。

かって朝鮮戦争も、グチャグチャにされた敗戦日本の経済的立ち直りにとって「天佑」、「神風」、「国益」だと公言して憚らない人が多数いました。今でもそう公言する人はたくさんいます。

小泉純一郎さんの属する政党とそれに連立している二つの政党の代議士(若頭)たちがその小泉さんを、得々顔の平ちゃらで支持しています。もっともその代議士(若頭)たちを選び出したのは“かたぎの選挙民”ではありますが。(その連立与党のひとつ保守新党はこのたびの第43回衆院選の結果自民党に吸収されます。その正式予定日は20031117()です。)

○○独立運動、○○解放戦線、○○ゲリラの指導者つまりドン(キャップテン)やその若頭(取り巻き)たちだってとどのつまり同じです。「止むを得ない」こととして相手側や仲間うちに「人殺し」が発生するのを結果的にせよ容認しています。ガンジーの「どこまでも非暴力に徹した活動」が思い起こされます。

                                                                            (P.6)

3.人間は「目くそ鼻くそを笑う」差別を楽しんでいます。

ちょっとした違いにも目くじら立てて、あるいはナンセンスの優越感で、ヤキモチ、サゲスミに忙しく果ては相手を対等、平等に扱わず相互尊重で共生するに値しないと差別しています。()

そして個人間、国家間、民族間の、そして宗教にも根ざす「人殺し」に励んでいます。

()2003.5.8()山日紙「私も言いたい」欄被掲載〔児童虐待をなくしたい〕

4.「長いものには巻かれろ」、「寄らば大樹の陰」

さしあたり「泣く子と地頭には勝てない」から「人殺しに平ちゃらな人で無しの連中」には逆らわず、あるいはマインドコントロールされて時代の流れに身を任せ、ついでに「寄らば大樹の核の傘」もありがたく重宝させてもらいます。なかには、進んで巻かれて大樹の陰で一旗揚げようとする者も少なくありません。

5.「国家はジャガイモ」、「国家信仰」

  「人殺しに平ちゃらな人で無しの連中」が執り仕切る縄張りの一つ、つまり国家とは利用するものであって、人びと、とくに庶民はその犠牲になるために存在しているのではありません。

「人命の価値は、国家、縄張り、社会、集団などすべてに優先するもの」です。おだてられて、それらに体よく利用されてはなりません。それらの犠牲となってはそれこそ元も子も失います。

この世に存在するものすべては、たとえば食材などと同様に、「ジャガイモ」と同様に、良く吟味し、工夫を凝らして、

 「自分の心身の快適さを増進するため、快適さを悪化させないために利用すれば良い」のです。

これは利己主義ではありません。すべての人びとは、その人なりに一瞬一瞬を、その生涯を、上記の原則で奮励、努力しています。この原則以外の「○○○のために・・・」という都合よく多用される言葉は物事の本質を見ない、本質をそらす「錯覚の言葉」です。

この上記の原則が、「安全生存の権利」であり、基本的人権の根源であります。

「安全生存の権利」は地球上でその実現がもっとも必要とされる原則です。

でも、それに気がつかず縄張りに、国家、お上に対してなんとなく無批判に従ってしまう、そうしておけば間違いないという「国家信仰」が相変わらず蔓延しています。

「命あっての物種」、「命に過ぎたる宝無し」、「死んでは一文にもならぬ」、「死んで花実が咲くものか」、「身ありての奉公」。「国家もジャガイモ」も上手に育て、上手に利用すれば良いのです。

6.組織の御都合主義と泣き寝入り

時代を超えて「責任逃れと責任の押し付け」は「上位者の保身」のために組織の御都合主義の柱となっています。より下位の者、末端の者、組織の目的により忠実な者が最終的には割を喰わされ、ほとんどは「泣き寝入り」してしまいます。

私も38年5カ月にわたるサラリーマン生活でそれらをよく見てきました。

7.「英雄待望・他力本願」

それやこれやで不条理が渦巻けば、人間が宇宙で活動するという時代に、情報が豊かに溢れるIT時代に自立もできず「鬱憤、鬱屈を晴らし、閉塞を開いてくれる誰かえらい人」が現れてくれないものか、そして自分たちを引っ張って行ってくれないものかとお得意の「他力本願」が頭を擡げてきます。(IT=information technology)

8.女は売れるが「男は売れない1銭5厘」

私が敗戦前の小学生時代に聞いた話です。

<農山村の貧しい子沢山の家では、跡取り息子以外の息子なら1銭5厘(切手、ハガキ代)の入営、赤紙召集は本当のところ有りがたかった。とりあえず衣食住は保障され、「口減らし」になるというものだ。戦死ということもあるが、それはお国のための、天皇陛下様のための「名誉の戦死」だ。売られた女に「名誉」は無い。>

                                                                         (P.7) 

大人たちがどこからか聞いてきた話として喋っていたのです。私は跡取り息子ではありませんでしたから、そのときはただ「へーそういうモンカナー」と思いました。

悲しくむごい話です。        (1銭=1円の100分の1・1厘=1銭の10分の1)

9.天皇制

() 西のオッチャン

 私に物心がついたころ生まれ在所(農村)の標準語(=方言)で、西隣の家の戸主は「西のオッチャン」と呼ばれていました。その顔は当然見知っていましたし、大人と子供の間柄とはいえそれなりの会話もありました。それ以外の家の戸主にも似たようなそれぞれの呼び名があり、父の代理でいろんな言づてなどの用足しをしました。電話の無かった時代、忙しい父の代理として子供にできる用足しは当然のことでした。

 天皇陛下様(昭和天皇様)については小学1年生になってから教えられました。

家の中で、とくに父からいろいろ教えられたはずですが、「・・・とにかく偉いんだ」以外は何がどうのとはっきりした記憶はありません。

学校では、天皇陛下様をはじめ明治天皇様、皇室、皇室の系図、皇族などについてほとんどのことを教えられました。でも大正天皇様にはいろんなマイナスの噂がありました。

登校すれば毎朝校庭に入ってまず奉安殿(額入り御真影、白房付紐結い・黒漆塗桐箱入り教育勅語を安置)拝礼。卒業式、天長節などの式典では全員が御真影(昭和天皇・皇后両陛下様のお写真)拝礼、校長先生教育勅語奉読、君が代斉唱がありました。

校長先生の勅語奉読のあいだ中は最敬礼で頭を下げさせられ、体はくるしくそのうちに鼻をズーズーすする音が間仕切りはずしの講堂中に充満しました。当時の田富尋常高等小学校は生徒数約千人でしたから鼻すすりの音はすごいものでした。ある式典のときはその最敬礼中にだれかが放屁したものですから、こらえてはいたもののクスクス笑いのさざ波が起こりました。上目遣いで見た来賓の方々、先生の横顔は困惑し笑をこらえて苦しそうでした。

父母から「先生の言うことはなんでも良く聞いて・・・」と常々言われていましたから、先生が折に触れて教えてくれた、神話に始まる天皇様などのことは「・・・そういうものか」程度に思い込んでいました。

しかし、「・・・ウンコハスルズラカ」、「チンオモワズヘヲタレタ、オクニタメダガマンシロ」など兄、姉、同級生などと喋れば、それが父の耳に入った時はさあたいへん、父から「ソンナコターイウモンジャネー」と怒鳴られたものです。

小学5年生(昭和19)頃いろんな替え歌が流行ってきました。下記の替え歌もよく唄いました。在郷軍人会の役員をしていて何時も小針竹の鞭を持ち歩いていたHW教諭に、同級生TK君だけは、運悪く唄っているところを背後から忍び寄られ最後は正面から強烈な平手打ちを一発喰いました。同時に「なにが名誉の戦死だーコノバカメッ」とHW教諭の大声が響きわたりました。その時は休み時間でいちばん北側と真中の校舎の中庭で、私もTK君ら仲間5〜6人と一緒にその替え歌を唄っていたのです。みんなの顔は青ざめ、からだは硬直してしまいました。

きのう生まれた豚の仔が   ←    山のさみしい湖に

蜂に刺されて名誉の戦死  ←     一人来たのも悲しい心

豚の遺骨はいつ還る     ←    胸の痛みに耐えかねて

四月八日の朝かえる    ←     昨日の夢と焚きすてる

豚の母さん悲しかろ     ←    古い手紙の薄けむり

曲名=湖畔の宿  唄=高峰三枝子

そんなたぐいの替え歌を当時よく歌っていました。イッパチ軍国少年を気取っていた小学校時代のひとこまです。

御真影はともかく本当の顔は見たことがなく、話もしたことが無い、父や先生が言うから「偉いもん」の天皇陛下様より「西のオッチャン」たちの方が父以外では、ずーっと身近で朝な夕なの現実でした。

                                                                         (P.8)

 () 屋敷神さん

西南隣の「搗き屋のオッチャン」の家には「昭和天皇、皇后両陛下様のお写真」が鴨居に掲げられ、床の間に大きく立派な「天照皇大神」の掛け軸が吊るされていました。

わが家にはその二つともありませんでした。あったのは神棚へアゲモース「天照皇大神」の小さなお札だけでした。

屋敷神さんはわが家に有りませんでしたが近隣のあちこちの家には有りました。神棚、仏壇、先祖のお墓、在所の神社、道祖神、お地蔵さんは就学前から、その後は奉安殿、御真影、皇居(宮城遥拝)なども拝まされましたが、他家の屋敷神さんを拝むということはありませんでした。

戦争に負けてなおいろいろ「父、先生、大人の、それも学校の諸行事によく顔を見せていた大人のウソッパチ」に気がついたのですが、それまで学校で習った伊勢神宮は「実は天皇家の屋敷神さんに過ぎない」ことにも気がつきました。それを父に言うと「トンデモネー、ソンナコターネー」と言われました。「ホンドッテン天照皇大神の紙を拝ンドッテン神風は吹かなかっトージャンケ」と私はウテーゲーシ(反論)を言いました。父は言いました。「いちいちグタグタ屁理屈こいて・・・ブキッチョ(不器用)のクセにパンパン(素早く)仕事をしろ

物見遊山で「お伊勢さん」へ行くのは勝手です。信仰で行くのも自由です。でも総理大臣など政府高官、代議士、財界の大物たちのお偉いさんが参拝し、それをマスコミが大きく取り上げるのには、国民に対するうんくさいマインドコントロールが感じられてなりません。他家の屋敷神さん参拝を何でそのように大騒ぎする必要があるのでしょう。

(3)         天皇の利用価値

聖徳太子(BC574622)の後、縄張り「やまと」のドンは概略、藤原氏、平氏、源氏、北条氏、足利氏、豊臣氏、徳川氏と続きました。それぞれのドンは天皇を無き者にすることもたやすかったのですが、もともと実力の無い天皇をそうする必要は無く、むしろおのれの縄張り支配に天皇が有効と考えました。そしていいように天皇を利用したのです。

徳川氏の藩体制が終わり明治(1868)以降、天皇を持ち上げた薩長を中心とする実力派の面々が、若頭を自任する形で縄張り支配を画策しました。一方、天皇はこれを絶好のチャンスとばかり、俺もぼつぼつこの辺で縄張りの本当の実力者になろうと決意したのです。

若頭=取り巻き連の画策は天皇の思惑と一致することとなりました。

そして天皇の一家一門すなわち天皇組の縄張り護持とその拡張のために努力、狂奔しました。内には治安維持法など、外へはアイヌ、琉球を手始めの侵略に明け暮れ、ついには世界に冠たる「神国」だからと八紘一宇=世界中侵略へと突き進みました。()

無条件降伏の日本を占領した連合軍のドン(最高司令官)マッカサーもいろいろ検討、研究した結果、占領政策上好都合だとして「天皇を日本の象徴に規定」し利用する方針を採用、天皇制を廃止することはしませんでした。

ドンは戦いで殺されて新しいドンに替わる、または戦いに勝った方のドンがそれまでのドンを殺しあるいは切腹させる、負けた方のドンはそうされる前に自決する、どのみち負けた方のドンは生きていられないというのが縄張りのセオリーです。おまけで命だけは助けられても、実力・実権は剥ぎ取られます。流刑にもなります。

万権の長・大元帥の昭和天皇陛下様は負けても退位、切腹・自決はしませんでした。「人間宣言」をして「侵すべからざる神」から「人間」に、そして「象徴」になりました。

()1999.3.27()山日紙「私も言いたい」欄被掲載〔国旗国歌は新しく作れ〕

(4)         万世一系の天皇

学説によれば哺乳類が人類になってからは500万年とされています。1代を平均20年とすれば25万代続いていることなります。いま地球上に生きている個々人は、そのご先祖の初代から数えてすべて25万代目の子孫に当たります。途中で1代切れているといまのあなた様もこの地球上に存在していないのです。25万代前のご先祖様に若干の違いはあっても、地球上の人びとはその源をたどればみんな親類・親戚です。

人間の妬み、そねみ、憎悪が相変わらず盛んなのは、お互い親類・親戚の肉親同士だから

                                                                      (P.9)

でしょうか。

こんにち天皇家は系図によれば神武天皇を第1代として、愛子さんで127代目です。(最新歴史年表・岩城隆利編・鰍゙さし書房版 など)

25万分の127はたったの0.0005080.0508%です。249,873代はわからないのです。少なくともお互い249,873代にわたるご先祖様は「どこの馬の骨かわからない」のです。

系図にどのような意味を持たせるかは自由ですが、学説では最初の有機体・遺伝子からは約35億年経ったのが現在のすべての生命体です。

(5)         皇室大好き日本人、「皇国史観」

「皇室もの」は金になります。テレビ、ラジオの視聴率が高くなりますからスポンサーも喜んで金を払います。出版物も「皇室もの」を掲載すれば売れ行きは好調となります。

本年の10月に入り連日“有栖川識仁殿下(アルスガワ サトヒト デンカ) =北野康行氏(41)および“有栖川晴美妃殿下(アルスガワ ハルミ ヒデンカ)”=坂本晴美氏(45)と称するお方の結婚披露パーティーにまつわる話題がとても賑やかです。

これらは明治に入り、天皇の若頭たちがでっち上げ、時の天皇も承認した「皇国史観」でのマインドコントロール効果が上々だったからです。

当時の「かたぎの人びと」も、人がいいものですからすっかりマインドコントロールされてしまいました。

「いったん緩急あれば義勇公に奉ず」る「忠良なる汝臣民」にマインドコントロールされ、「ドン天皇陛下様のため」その縄張りである「神国=お国のため」に命を投げ出す「名誉の赤子(セキシ)」に育て上げられました。

「こども」はおさな心をいいように弄ばれ、すっかり教育されてしまいました。

昭和天皇陛下様が敗戦直後、人間宣言をされて「侵すべからざる神」ではなくなりましたがマインドコントロールの効果は、現在でもしっかり生きている、といって良いでしょう。

敗戦をみずからの手で始末できなかった日本人にとって「個人として自立する」ことの大切さが強調されるこんにち皇室、皇族、天皇制から自立できない人びとがまだまだ多勢おります。皇室、皇族、天皇制か無くても主権者は自治を十分やって行くことができます。とくに明治以降圧倒的多数のかたぎの人びとにとって〔天皇制はわざわいの因〕でした。

1931(昭和6)年の満州事変から敗戦までの、いわゆる15年戦争における犠牲者(死亡者)は戦闘員、民間人合わせて国外2,000万人、国内310万人を超えるといわれています。

たとえ話半分にしても、これは「皇国史観」のもたらした効果の一つです。

オウム教祖麻原彰晃(=松本智津夫42) 氏のマインドコントロールなどてんで足元にも及びません。

明治以前、庶民の間にはこんにちのような「皇国史観」にもとづく、あるいはそれをすり込まれた天皇崇拝、皇室大好きはありませんでした。天皇や皇室の存在は知っていたとしても日常生活でそれらをそれほど意識していたか、本当のところはよく判らないのです。

天皇制研究のため「皇国史観」をよく調べ勉強して、結果的に「皇国史観」に乗せられた格好の著述、論文も少なくありません。なかには、明治以後もそれ以前も天皇崇拝、皇室大好きは同じであるとする著述、論文も結構あります。

(天皇制についての以上の叙述は、概略です。さらに私なりの研究、検討を進め叙述を詳細にして行く予定です。)

10.天に唾して身から出た錆び

 明治維新から敗戦までの「人殺しに平ちゃらな人で無しの連中」つまり国家という縄張りのドンやその若頭たちの仕出かした事の内容、責任は徹底的に調査し、分析し、追及しなければなりません。しかし、そのやり口にマインドコントロールされ、それらを許し「一億一心火の玉」と

                                                                         (P.10)

なった私たちのご先祖様の責任をも見逃すことはできないと思われてなりません。

 たとえば、私があなた様の持ち物を盗んだり、家を壊しそれに火をかけたり、あなた様とその家族を殺したりしたらどうでしょう。その動機、原因、理由、そして大義名分が何であれとんでもない事です。とんでもない「人で無しのしわざ」です。

それなのに、日本という縄張りのよその地域、国家、縄張りに対してなら「盗み、火付け、人殺し」は名誉のこととして褒めそやされ、それを上手にやればやるほど良い勲章が授けられて出世となる「人で無し」の気持、へ簡単に切り替わってしまう、それらが実行できる、そして実行できたのです。ですから内輪の縄張り=国内でも「1銭5厘の命」扱いをされ、物の質と量とを無視した精神力万能の「大和魂」をすり込まれて締め上げられ、追い立てられたのです。

それでも「人間のつもり」だったのです。非国民で無かった「忠良なる汝臣民」は普通の、まともな人間では無かったのです。それがお上(カミ)好みの「かたぎの人間・臣民」だったのです。

なんという空恐ろしさ、おぞましさでしょう。

いいかえれば、それがあなた様に対してもできた、ということなのです。当然のことながら私たちのご先祖様にも責任はあったのです。

私にも応分の戦争責任はありました。幼かったとはいえ、また大人から見ればハンパでも本人はイッパチの軍国少年でした。

私が多分小学校1年の時(皇紀2600(昭和15)年=BC1940)だったと記憶しています。父がたまに買ってきてくれる講談社の子供向けの絵本、あるいは雑誌「家の光」のどちらかだったかも知れません。爆弾三勇士の攻撃に向かう場面、乃木保典203高地攻撃中敵弾に倒れる場面などとともに張鼓峰の戦い、そしてノモンハン大勝利の空中戦、戦車戦の絵を見ました。その時から「ノモンハン」という言葉も「日本軍大勝利のノモンハン事件」として「張鼓峰」という地名とともに、私の頭の中に入っていたのです。

小学2年生の12月8日、その私は真珠湾奇襲大勝利のニュースをラジオで聞いて嬉しくなり、公会堂の広場で登校集合のみんなに興奮しながらそれを喋りました。

その直後、父が買ってきた、これも多分「朝日グラフ」だったと思いますが特集別冊「九軍神」を何回も何回もくりかえし読んだものです。ただ、特殊潜航艇4隻は2人乗りで1隻だけ1人乗りというのは、また偶数の十または八ではなくて奇数の九だったのが不思議でした。しかし、特殊潜航艇に、1人乗りでも精神力・大和魂でやれるのだ、と思ったりしました。

「非国民では無かった」圧倒的多数の“かたぎ”のご先祖様たちはついに「一億一心火の玉」となって大和魂を研ぎ澄まし、玉砕、神風自爆特攻、空襲、原爆投下、シベリア抑留、残留孤児、浮浪児などを、そしてとうとう占領軍、東京裁判をも招き寄せてしまいました。「一億総ざんげ」は「仏作って魂いれず」の結果におわり、それはこんにちに尾を引いています。

「悲惨な・・・」すべては起こるべくして起きました。それも「天に唾して身から出た錆び」でした。

以上かいつまんで見てきた「庶民の歴史的事実」を率直に認めなければなりません。

それを「時代のせい(責任)」にしたり、「情報が無かったせい」、「天皇、軍部、政府、指導者だけのせい」にするのは、本当に責任のある始末の仕方では無いと思います。

現在、日本国憲法第九条の改悪・廃絶が「人殺しに平ちゃらな人で無しの連中」によって根気よく画策されており、その実現はかなり可能性の高い情況となっています。

選挙権があり言論の自由があってもこんにちの人びとは、ご先祖様たちと同じようになってしまうのでしょうか。選挙権者の圧倒的多数を占める“かたぎ”の人びとは再び「錆び」をその身から出すのでしょうか。

                                                                                                                                                         以 

                                                                               (P.11)
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