ボスニア・ヘルツエゴビナ戦争から7年が経ち

〜サラエボの今〜

サラエボ事件が発生した、ラティンスキー橋。オーストリアの皇太子が、セルビア人青年に暗殺され、第一次世界大戦が勃発した

 

2003年6月28日〜7月5日、東欧3カ国(ハンガリー、クロアチア、ボスニア・ヘルツエゴビナ)を旅しました。今回の目的地は言うまでも無く、ボスニア・ヘルツエゴビナ共和国の首都サラエボ。1992年にユーゴスラビアから独立した後、カトリック・イスラム教・セルビア正教の3つの宗教的背景を持つ民族が、「民族浄化」という名のもと、悲惨な戦争を行った。1995年の停戦までの3年半で、サラエボ市内だけでも死者1万人以上を数えたといわれる。

あの戦争から7年が経とうとしている今、ボスニア・ヘルツエゴビナ共和国は、NATO軍の和平安定部隊が駐留し、治安の維持にあたっている。廃墟となったサラエボ市街も、復興が進み、市民生活にもようやく笑顔が見られるようになった。ボスニア・ヘルツエゴビナ共和国は、いまだ、一般の旅行者が気軽に訪問するという状態ではないが、サラエボ市内に関しては徐々に人々を受け入れる準備を整えている。そもそも、1984年にオリンピックまでやったので、それなりの都市基盤は整備されており、観光資源もそこそこある。そんなサラエボの今を見てきた。

←サラエボ市内のビルの外壁には、今も弾丸の跡が残っている

 ↑クロアチアのザグレブから、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボへ向かうバス。バスは山岳地帯を走り、約8時間で両都市を結ぶ。乗客は10名程度と少なかった。

 

 

 

 

サラエボ一日目

クロアチアの首都ザグレブのユースホステルを午前5時にチェックアウトした。サラエボへ向かうバスは6時半発。クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境付近には危険度情報で2段階が出ているため、空路でサラエボに入ろうかと考えたが、料金がかなり高かったこともあり、思い切って陸路を取ることにした。サラエボへのバスは1日2便。早朝6時半と13時。明るいうちに移動しようと、午前中の便を選んだ。

バスが走り出して2時間ほどで、クロアチア−ボスニア・ヘルツェゴビナ国境に着く。国境付近は激戦地だったため、周囲の民家にはいまだに砲弾の跡が見られる。現在では治安が維持されているものの、戦争が現実のものとして実感させられる瞬間である。国境ではパスポートのチェックのみで、取り立てて入国に必要なビザもいらなければ、荷物の検査もない。銃を持った係官(警察官)がバスに乗り込み、一人づつパスポートをチェックする。日本のパスポート珍しかったのだろうか、それともパスポートに押された大量のスタンプが怪しかったのだろうか、パスポートをいったん事務所へ持ち帰って、チェックをかけていたようだ。3分後、係官が戻ってきて、パスポートを返され、バスは再び走り出した。もう、ボスニアヘルツエゴビナ共和国の領土である。曇り空の中、バスはサラエボへ向けて走る。

サラエボ到着

サラエボは、他のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の街と比べると、治安もよく安定しているため、外務省の危険度も1(注意喚起)にとどまっている。バスはサラエボ鉄道駅横のバスターミナルに到着。平日だったため、駅横の郵便局で持ってきたユーロを、この国の通貨である「コンベンティブ・マルク(兌換マルク、KM)」に両替する。市内の物価はさほど高くは無いが、ホテルなどは最低でも1泊日本円で5000円は出さなくてはならない。私は、ハルバット・ゲストハウスに泊まる。

↑サラエボ旧市街(バシチャルシア)はトルコ風の町並み。石畳の町並み、モスク、金細工を売る店、ボスニア風コーヒー、チェバブチチ(ケバブ)といったものから、イスラム文化を感じることができる。

 

↑バシチャルシアから数分歩いたところにカトリックの教会がある。イスラム教、カトリック、セルビア正教の教会が市内にはいたるところにあり、サラエボの民族構成が複雑であることが伺える。

 

↑旧市街(バシチャルシア)の水のみ場。

 

サラエボには3日間滞在した。行きは陸路だったが、帰りは空路でハンガリーのブタペストへ抜けることにした。サラエボは1984年にオリンピックが開かれた都市だけあって、都市基盤などは比較的整っているが、やはり戦争の爪痕が市内各所で見受けられる。あの戦争から7年が経ち、復興も進んでいるが、まだ大量の観光客が訪れるというまでには至っていない。

今後の動向が気になる街である。