「オホーツクの海」の舞台を訪ねる

(流氷のオホーツク  遠くチャシコツチャシを望む)

 

ひとくちに「オホーツクの海」といっても北は宗谷岬から南は納沙布岬まで様々なオホーツクが

存在する。更科源蔵の「オホーツクの海」はオホーツクの厳しい自然に滅びゆくアイヌ民族の

怒りと悲しみを重ね合わせた作品だ。オホーツクの最大の特徴は流氷が来る海であることだ。

またもうひとつの特徴は島国ニッポンの中で唯一国境を感じることの出来る場所であることだ。

昭和60年に国鉄の根室標津駅で降りてはじめて国後島を見たときの感想は「こんなに近いんだ」

だった。オホーツクはわれわれ大部分の日本人にとって「非日常」を感じさせてくれる数少ない「海」

なのではないだろうか。さてわたしは前々から「オホーツク」と「アイヌ」をなぜ更科氏が結び付けたの

か疑問に思っていた。なぜならオホーツク沿岸にはもともとオホーツク人と呼ばれる民族が住みつい

ており、アイヌがオホーツク沿岸に住むようになったのはかなり先の話なの

である。だからアイヌ伝説集や民話集などをみてもオホーツク沿岸地方(分

類だと根室、網走、宗谷といった地方)のものはとても少ないのだ。そんなと

ころに手に入れたのが左の写真の「三十七本のイナウ」という本だ。たぶん

更科氏はこの本に書かれているところの「クナシリ・メナシの戦い」を念頭に

置き、さらにアイヌ弾圧の歴史に想いをめぐらせて、この「オホーツクの海」

を創作されたのではないだろうか。簡単にこの「クナシリ・メナシの戦い」を

説明するとこうだ。国後や根室、知床といった地域は「奥蝦夷地」と呼ばれており飛騨屋久兵衛という

商人が場所請負人としてアイヌとの交易を一手に引受けてたのである。しかし交易とは名ばかりで事

実上の搾取といっていい状況であったようだ。また強制労働や虐待といったことが続いたため1789

年(寛政元年)ついにクナシリとメナシでアイヌが蜂起し和人71名を殺害した。松前藩は早速事態の

収拾を図るため鎮圧隊を派遣。和人殺害の加害者のアイヌ37人を処刑した。というものである。この

時アイヌ側が松前藩を迎え撃つために作ったといわれるチャシが根室標津にあるホニコイチャシである。

 

この事件を契機として和人のアイヌ弾圧に拍車がかかり

今日に至っているというわけである。現在納沙布岬には

殺害された71名の和人の記念碑があり、同じ根室半島

のノッカマップでは処刑された37人のアイヌを追悼する

行事が今も毎年9月に行われているという。われわれが

根室や標津などに行くと「返せ北方領土!」のオンパレード

 

(納沙布岬から歯舞を望む ここから歯舞まで約4q)

 

で日本とロシアの関係ばかり強調されているように感じてしまうが、それ以前の日本とアイヌとの不幸な関係が

「北方領土」で隠されてしまっているのは非常に残念である。この「オホーツクの海」はこのような奥の深い歴史が

隠された作品なのである。

  

参考文献  根室シンポジウム編  「三十七本のイナウ」 北海道出版企画センター

        宇田川洋        「アイヌ伝承とチャシ」 北海道出版企画センター