北 海 道

【北方領土】

  1945年の終戦時、四島には1万7291人住んでいたが、1948年までにソ連政府により、強制的に退去させられてしまう。
また最近の調査では、北方領土と千島列島には少なくとも66社(内訳は国後島25社、択捉島16社、色丹島9社、歯舞諸島12社、中・北千島4社)の神社と、24寺の寺院があったことが明らかになっている。

根室支庁

 ≪根室市≫
 歯舞群島(はぼまいぐんとう)【旧・歯舞村
色丹島と根室半島に位置する諸島の総称。旧・花咲郡歯舞村。昭和34年(1959)根室市に編入。戦後は全て無人島。
 ■多楽島(たらくとう)
面積は11.69km2。周囲は24km。ロシア名「バロンスキ―島(Остров Полонского)」。納沙布岬から約45kmの距離にあり、歯舞群島の中では一番北にある。
昭和20年(1945)8月15日現在、231世帯、人口は1457人。公共施設は学校、駅逓、根室警察署駐在所、北海道水産物検査所派出所、郵便局。

現在はロシア国境警備隊が常駐。
多楽島市杵島神社=多楽島字カガマ弁天島。昭和13年(1938)鎮座。例祭日は3月第3日曜。6月最終日曜説もあり。

大海竜王神社=多楽島フレシマ。昭和7年(1932)鎮座。例祭日は10月不定。

多楽島金刀比羅神社=多楽島税庫前。明治36年(1903)鎮座。例祭日は9月20日。
 ■志発島(しぼつとう)
面積は45km2。周囲は41.6km。ロシア名「ゼリョーヌイ島(о.Зеленый)」。歯舞群島最大の島で、ほぼ平坦な島。
戦前は花咲(はなさき)郡歯舞村役場支所もあって歯舞群島の行政の中心地だった。公共施設は学校2校、駅逓2ヶ所、歯舞村役場出張所、根室警察署駐在所、北海道水産物検査所派出所、郵便局。
昭和20年(1945)8月15日現在、374世帯、人口は2249人。江戸時代はアイヌの漁場にはなっていたが、定住は無かった。
現在はロシア国境警備隊が西浦泊に常駐。
東前金刀比羅神社=志発島字東前カフェノツ。明治後期鎮座。例祭日は10月10日。

相泊金刀比羅神社=志発島字相泊。昭和2年鎮座。例祭日は10月10日。

西浦泊稲荷神社=志発島字西浦泊。昭和8年(1933)鎮座。例祭日は10月不定。
 ■水晶島(すいしょうとう)
面積は13.71km2。周囲は32.2km。ロシア名「タンフィーリエフ島(о. Танфильева)。納沙布岬から約7kmの距離にあり、ほぼ平らな島。
昭和20年(1945)8月15日現在、154世帯、人口は986人。公共施設は学校1校(分教場が1教場)、駅逓、根室警察署駐在所、北海道水産物検査所派出所、郵便局。
コンブ漁とカニ漁が盛んでカニ缶工場があった。
現在はロシア国境警備隊が西浦泊に常駐。
水晶島金刀比羅神社=水晶島字税庫。明治40年(1907)頃鎮座。例祭日は9月23日。

水晶島市杵島神社=水晶島三角崎。大正6年(1917)鎮座。例祭日は9月23日。

水晶島稲荷神社=水晶島字モシリケシ。昭和10年頃鎮座。
 勇留島(ゆりとう)
面積は10.63km2。周囲は29.5km。ロシア名「ユーリ島」。
昭和20年(1945)8月15日現在、79世帯、501人。海産物加工工場もあった。公共施設は学校、駅逓、北海道水産物検査所派出所、郵便局。
勇留島金刀比羅神社=勇留島字税庫前。大正6年鎮座。例祭日は9/10。
 ■秋勇留島(あきゆりとう)
面積は2.73km2。周囲は12km。ロシア名「アヌーチナ島」。
昭和20年(1945)8月15日現在、14世帯、88人。昆布漁やタラ漁などを行なって生活していた。公共施設は学校(特別教授場)。駅逓は無し。
 ■春苅島(はるかりとう)
面積は2.73km2。周囲は12km。ロシア名「о. Харкар(ハルカル島)」。上の島、中の島、下の島からなり、戦前は中の島にのみ6人住んでいた。
 貝殻島(かいがらじま)
面積は約10m2。ロシア名「シグナーリヌイ島(о. Сигнальный)(灯台の島)満潮の時には陸地は波に隠れてしまい、島というより岩礁。
納沙布岬から3.7kmの距離にあり、納沙布岬とこの島の間に暫定国境線がある。

 色丹郡色丹村
 ■色丹島(しこたんとう
面積は255.12km2。周囲は152.3km。ロシア名「Остров Шикотан(シコタン島)」。
公共施設は診療所、斜古丹郵便局、能登呂郵便局、根室警察署巡査駐在所、北海道水産物検査所派出所、根室営林区署当区員駐在所、駅逓、色丹漁業組合、色丹島灯台。
昭和20年(1945)8月15日現在、206世帯、人口は1038人。
斜古丹神社=色丹村字斜古丹。明治20年頃鎮座。例祭日は7月30日。

色丹(稲茂尻)神社色丹村字イネモシリ。昭和12年(1937)鎮座。例祭日は10月第2日曜。昭和58年(1083)、色丹神社と改称。

チボイ神社=色丹村字チボイ。鎮座時期不祥。例祭日は5/10&9/10。

能登呂神社=色丹村字ノトロ。鎮座時期不祥。例祭日は7/5。

切通神社=色丹村字キリトオシ。鎮座時期不祥。例祭日は6/28。

相見崎神社=色丹郡色丹村字相見崎。鎮座時期不祥。

 
 ■国後島(くなしりとう)
面積は1498.56km2。周囲は352.8km。ロシア名「о.Кунашир(クナシル島) 」。最高標高は1845m(爺爺岳〔ちゃちゃぬぶり〕)。

昭和20年8月当時は7364人。
 ●国後郡泊村
昭和20年(1945)8月15日現在、894世帯、人口は4864人。郵便局は国後、古釜布、東沸、作万別、古丹消の5局。
泊神社(国後神社)=泊村大字泊村。文化年間鎮座。高田屋嘉兵衛の創祀
 例祭日は10月10日だったが、10月は寒くなるので昭和初期に根室の金毘羅神社が新築されたのを機会に6月10日か20日に行われるようになった。
渡御には神輿、手古舞があった。『元島民が語るわれらの北方四島』には昭和14年の祭り風景や神輿が載っている。
また「根室の金毘羅神社から譲り受けた神輿や山車などが、村の中を練り歩いたり、子供相撲などがあった」とある。

エカンコタン神社=泊村大字泊村エカンコタン。鎮座時期不祥。

善平古丹神社=泊村大字泊村字善平古丹。鎮座時期不祥。

ケラムイ神社=泊村大字泊村字ケラムイ。鎮座時期不祥。

古丹消神社=泊村大字泊村字古丹消。鎮座時期不祥。

セイカラホール神社=泊村大字泊村字東沸セイカラホール。鎮座時期不祥。

東沸神社=泊村大字泊村字東沸。昭和元年(1926)鎮座。
 例祭日は10/10。根室方面より浪花節語りとか旅芸人が来て学校の運動場で演芸を行ったが、戦争が激しくなる昭和18年頃まで行われた。

作喜神社=泊村大字泊村字東沸サクマンベツ。鎮座時期不祥。

中ノ古丹神社=泊村大字泊村字東沸中ノ古丹。鎮座時期不祥。

セセキ神社=泊村大字泊村字セセキ。鎮座時期不祥。

古釜布神社=泊村大字泊村字古釜布。鎮座時期不祥。

近布内神社=泊村大字泊村字近布内。明治31年(1898)鎮座。例祭日は6月28日。

ニキシロ神社=泊村大字泊村字ニキシロ。鎮座時期不祥。

秩苅別神社=泊村大字泊村字秩苅別。鎮座時期不祥。
 ●国後郡留夜別村
昭和20年(1945)8月15日現在、433世帯、人口は2500人。学校・郵便局は乳呑路、植内、白糠泊にあり。
白糠泊神社=留夜別村大字留夜別村字白糠泊。鎮座時期不祥。

千島神社=留夜別村大字留夜別村字乳呑路。鎮座時期不祥。

オダイバ神社=留夜別村大字留夜別村字オダイバ。鎮座時期不祥。

植内神社=留夜別村大字留夜別村字植内。大正初期鎮座。

老登山神社=留夜別村大字留夜別村チフンベツ。明治27年(1894)鎮座。例祭日は3月10日。

昌徳神社=留夜別村大字留夜別村シベトロ。鎮座時期不祥。

植沖神社=留夜別村大字留夜別村植沖。幕末鎮座。

戸野神社=留夜別村大字留夜別村字野塚。鎮座時期不祥。

 ■択捉島(えとろふとう)
面積は3182.65km2。周囲は658.5km。ロシア名「Итуруп (イトゥルップ島)」。最高標高は1629m(西単冠山〔にしひとかっぷやま〕別名は択捉富士。

昭和20年8月当時は3608人。北方領土を日本領に含めると日本最大の島。
 ●択捉郡留別村
公共施設は留別登記所、紗那警察署巡査派出所(留別、天寧、年萌)、郵便局(留別、年萌、天寧、入里節、内保)、紗那営林区署駐在所、北海道鮭鱒孵化場(留別支場、オフユ孵化場、ウルモンベツ紅鱒孵化場) など。昭和20年(1945)8月15日現在、424世帯、人口は2258人。
留別神社=択捉郡留別村大字留別字留別。鎮座時期不祥。例祭日は4/8&8/20&10/10。
8月が盛んで、青年団が中心となり盆踊りを踊ったり、時には仮装行列をした。

年萌神社=択捉郡留別村大字留別字年萌。明治40年頃鎮座。例祭日は9/15。

昭和神社=択捉郡留別村大字留別字植別。昭和3年8月鎮座。例祭日は7/30。

具谷神社=択捉郡留別村大字留別字具谷。昭和8年鎮座。例祭日は旧・7/20。

厳島神社=択捉郡留別村大字留別字入里節。大正2年鎮座。例祭日は8/15。

内保神社=択捉郡留別村大字留別字内保。鎮座時期不祥。
 ●紗那郡紗那村
昭和20年(1945)8月15日現在、226世帯、人口は1001人。
紗那神社=紗那郡紗那村大字紗那。文化3年7月鎮座。高田屋嘉兵衛の創祀。例祭日は7/10。

恵比須神社=紗那郡紗那村大字紗那。嘉永3年鎮座。

散石神社=紗那郡紗那村大字紗那。鎮座時期不祥。

散布神社=紗那郡紗那村大字紗那字散布。鎮座時期不祥。

別飛神社=紗那郡紗那村大字紗那字別飛。幕末期鎮座。例祭日は7/15。
 『元島民が語るわれらの北方四島』には「別飛には、大勢の労働者を抱えた工場や漁場があったので、祭りの行列も盛大で、大きな山車が出て市街を練り歩いた。山車の間には、当時多かった青森県の出稼ぎの人たちが、三味線に合わせて歌い踊り、賑やかに祭りの行列を繰り広げた」とある。

内岡神社=紗那郡紗那村大字紗那字内岡。昭和14年10月鎮座。

有萌神社=紗那郡紗那村大字紗那字有萌。文化3年鎮座。高田屋嘉兵衛の創祀。
 ●蘂取(しべとろ)郡蘂取村
昭和20年(1945)8月15日現在、89世帯、人口は349人。
蘂取神社=蘂取郡蘂取村大字蘂取。文化11年頃鎮座。高田屋嘉兵衛の創祀。例祭日は7/15。
 『元島民が語るわれらの北方四島』には「相撲大会の写真」「担ぎ神輿と住民の化粧した仮装や、男女が金具をしゃんしゃんとついて市街を練り歩いた」とある。
 【領有権は未定】
 ≪北千島≫
サンフランシスコ平和条約以後、日本政府は国際法的には所属未定地と主張しているが、ロシア連邦が実効支配している。またロシアではサハリン州北クリル地区に属すると認識している。占守郡にあたる。
 ■志林規島(しりんきとう)
面積は7km2。最高標高は761m(蓮華岳。ロシア名はシリンキ山)。
 ■幌筵島(ぱらむしるとう/ほろむしろとう)
面積は2053km2。択捉島につぐ千島第2の大きい島で、明治の初めまでは千島アイヌが一番居住していた島。
昭和の初めは鮭・蟹・鱈・鯨などの漁業基地として栄え漁期には万を超える人々がやってきた。加熊別、村上、摺鉢などの集落があった。
北上神社=幌筵島加熊別。大正11年3月鎮座。
 ■占守島(しゅむしゅとう)
面積は388km2。ロシア名「о.Шумшу(シュムシュ島)」。
千島列島最東端の島ですぐにカムチャッカ半島が迫っている。ロシア名バイコーヴ
(Байково)という集落があるが、民間人の人口は 100人以下であり、しかも定住人口ではないという。
 明治24年(1891)侍従の片岡利和が択捉島で越冬、翌年夏、占守島に上陸、小屋掛け(露営)して付近を探検・調査した。
明治26年(1893)に、海軍退役軍人の郡司成忠は千島報効義会を結成、千島の開拓と防衛を目的に、占守島に拠点を築いたが、同会は多くの犠牲者を出し、その後も大きな発展を見ず、日露戦争後にこの開拓団は別所佐吉の1家族を残して解散した。その一族の別所治郎蔵は昭和52年に『わが北千島記』を著している。
また明治17年(1884)7月6日、占守島の千島アイヌ全員((97人、20世帯)を、色丹島へ定住させた。
占守神社=占守島片岡湾郡司ヶ丘。明治26年頃鎮座。
 ■阿頼度島(あらいどとう)
面積は150km2。千島列島最北端の島。ロシア名「о.остров Атласова(アトラーソフ島)」。
千島最北の島で島の最北にある最北岬は北緯50度55分で占守島の国境岬より北に位置し日本の最北端。島にあるアライト山は2339mの富士山型の立派な山で北海道最高峰の旭岳より高い山である。

ソ連統治下では1953年まで、女性囚流刑地だった。
阿頼度神社=阿頼度島東京湾。明治以降鎮座。

 ≪中部千島≫
中部千島は山岳起伏し殆ど平地無く・濃霧多く開拓の難しい場所であり、明治44年(1911)、日本はアメリカ、イギリス、ロシアとの間に「オットセイ保護条約」を結んで、中部千島での一般人の上陸、居住を禁じた。居住を許可されたのは監視員とキツネの養殖者だけで、いずれも農林省の職員であった。
中部千島の行政区分は得撫郡、新知郡と占守郡の一部で、昭和18年の定住者は18世帯、人口40名であった
 ●占守
町村制が施行されなかったので、所属町村はない。昭和15年の国勢調査では1805人(男1729人、女76人)、世帯数104。
北千島と中部千島の一部。
 ■牟知列岩(むしるれつがん)
4つの岩礁の総称。
 ■捨子古丹島(しゃすこたんとう)
面積は122km2。ロシア名「о. Шиашкотан(シアシュコタン島)」。最高標高は944m(黒岳)。
古来より、本島の高さ約200mの崖の上に千島アイヌの集落があったが、明治8年(1875)の噴火で全滅した。
 ■知林古丹島(ちりんこたんとう)
面積は6km2。ロシア名「о. Чиринкотан(チリンコタン島)」最高標高は742m。
 ■越渇磨島(えかるまとう)
面積は30km2。ロシア名「o. Экарма(エカマル島)」。最高標高は1170m(越渇磨岳)。
安山岩質の火山から成る東西約 7.4km 、幅約5.5km の長方形の島。湖水や顕著な河川はなく、淡水源は雨水に頼るほかない。
 ■春牟古丹島(はりむこたんとう)
面積は68km2。ロシア名「о. Харимкотан(ハリムコタン島)」。最高標高は1157m(春牟古丹岳)。
戦前にはキツネの養殖のため農林省から派遣された島守が越年舎で生活するのみだった。
 ■音禰古丹島(おんねこたんとう)
面積は425km2。ロシア名は「o.Онекотан(オネコタン島)」。最高標高は1324m(黒石山)。戦前にはキツネが養殖されていた。
 ■磨勘留島(まかんるとう)
面積は49km2。最高標高は1171m(三高山。ロシア名はマカンルシ山)。
 ●新知郡
 明治10年(1877)条約附録に従い、新知島にあった千島アイヌの村落がロシア領へ移転、郡内は無人島となる
町村制が施行されなかったので、所属町村はない。昭和15年の国勢調査では82人(男65人、女17人)、世帯数24。
 ■宇志知島(うししるとう)
最高標高は401m(御笠山)。定住者はいないが、羅処和島に住んでいた千島アイヌの人々が鷲や鴨の猟のために渡り、越年をすることも度々あったと云われる。
 ■摺出岩(すりでいわ)
摺手海峡にある平岩、黒岩、海猟島、紐岩などの岩礁群を総称して摺手岩と呼ぶ場合と、その中で最大の平岩(長径約500m、短径約250m、高さ36m)を指す場合とがある。
 ■羅処和島(らすつあとう)
面積は63、2km2。最高標高は956m(幌茶々登山)。
かつては穴居生活の千島アイヌが約40人いたが、国の施策により明治15年(1883)に8家族が色丹島に移る。その後はキツネの養殖のため農林省から派遣された島守が越年舎で生活するのみだった。
 ■松輪島(まつあとう)
面積は52km2。ロシア名「o.Матуа(マト島)」。最高標高は1496m(芙蓉山。別名は松輪富士。ロシア名はサリチェフ山)。
戦前は日本軍の基地や飛行場があり最大時で約8千人の守備隊が駐屯していたらしい。
松輪神社=松輪島大和湾。鎮座時期不祥。
 ■雷公計島(らいこけとう)
面積は4、6km2。ロシア名「o.Райкоке(ライコケ島)」。最高標高は551m(ライコケ山)。
 ■計吐夷島(けといとう)
面積は63、2km2。最高標高は1172m(計吐夷岳)。
定住者はいないが、羅処和島に住んでいた千島アイヌの人々が冬季に来島して猟をしたと云われる。
 ■新知島(しむしるとう)
面積は227、6km2。最高標高は1540m(新知岳)。
中心部に新知
集落があったが、この集落に定住者はいなかった。また、戦前には狐やトナカイが養殖されており、昭和20年(1945)まで捕鯨基地もあった。
 ●得撫郡
町村制が施行されなかったので、所属町村はない。昭和15年の国勢調査では46人(男41人、女5人)、世帯数8。
 ■武魯頓島(ぶろとんとう)
面積は7km2。最高標高は801m。
 ■智理保以島(ちぇるぽいとう)
面積は北島が21km2。南島が16km2。ロシア名「o.Остров Чирпой(チルボイ島)」。実際には隣接した二つの島(北島と南島)だが、通常は両者を総称して知理保以島と呼ばれる。
 ■得撫島(うるっぷとう)
面積は1450km2。ロシア名「o.Остров Уруп(ウループ島)」。最高標高は1426m(白妙山)。
アイヌがいたが、国の施策により明治8年(1875)に色丹島へ定住させた。