京 都 府
≪祇園祭≫
【休み山(焼山)】 鷹山(三条通室町西入ル衣棚町)=文政9年(1826)に激しい夕立に遭い、懸装品に甚だしい汚損を被ってしまい、休山していたところに元治元年(1864)の禁門の大火で懸装品の大半を焼失。御神体の人形頭など一部が難を逃れた。現在は宵山に限って残された御神体と懸装品が同山の町内で展示されている。また寄付された見送「染彩猛禽之図」は皆川月華の作。 光孝天皇仁和2年(886)の芹川行幸時の中納言行平(もしくは右大将頼朝)供奉の鷹匠姿を模したと云われている。 『細川家絵巻』によれば、屋根が無い大きな曳山で鷹匠、犬を連れた犬飼い、樽を背負い手には粽を持つ従者という三体の人形を乗せていた。 応仁の乱(1467)以前には「鷹つかひ山」、応仁の頃は釜座町と2箇所より出したが、江戸期は当町のみこれを出す。 明応9年(1500)の籤定には「たか山」と出る。 天明の大火(1788)で被害を受け舁山となり、その後、寛政10年(1798)再度曳山となる。 |
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布袋山(蛸薬師通室町西入ル姥柳町)(公式HPへ)=前祭。鉾町内に新しく完成したマンションの1階に設けられたショーウィンドウに御神体(布袋像と左右に童子)が飾られ、14日から宵山に公開。 応仁の乱以前には名が見えない。 明応9年(1500)の籤定には「布袋山」と初見。 明治末期成立の「京都坊目誌」には『慶長年間(1596〜1615)以来毎年祇園会に布袋の像を安置した山棚を出す。 宝暦以来山として巡行に参加せず、天明8年(1788)にの大火で布袋尊と二体の童子像のみを残して焼失とある』。 天正18年(1590)頃には姥柳町は長刀鉾の寄町となっており、存在していないことが分かる。 |
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【大火による焼失】 宝永の大火=宝永5年(1708)3/8正午、油小路通姉小路下ル、両替商伊勢屋市兵衛方より出火。この火事で後祭の山鉾の多くが焼失。 天明の大火=天明8年(1788)1/30朝、宮川町団栗の新道角両替商から出火。市中の約90%を焼失。この火事では前祭の山鉾町の多くが焼失。 禁門の大火=元冶元年(1864)7/19、禁門の変による大火は三日三晩も燃えつづけた。市中の約65%を焼失。 「占出山史料」によると、ほとんど被災しなかったのは、函谷鉾、月鉾、岩戸山、霰天神山、伯牙山、保昌山の6基で、長刀鉾は被害少なし。他には車や木柄の焼失が多く、町内預けのところの多く助かっている。 |
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※ 応仁の乱の頃には58基の山鉾が出た(『祇園社記第十五』)。明応9年(1500)に36基の山鉾が出た 。 | |||||||||
【尺素往来によると】 室町地代の関白の一条兼良(1402〜81)の「尺素往来」には、 「祇園御霊会、今年殊に結構、山崎の定鉾、大舎人の鵲(笠鷺)鉾、処々の跳鉾、家々の笠車、風流の造山、八撥、曲舞、在地の所役、定めて神慮に叶うか、晩頃には、白河鉾入洛すべきの由風聞候」とある。 現代語訳では「今年の祇園御霊会はことにはなやかです。山崎の定鉾、大舎人の鵲鉾、所々の跳ね鉾、それぞれのおうちの笠車、それに風流の造山、鞨鼓の芸人の八撥、女曲舞の車、祇園会の在地のご奉仕は、きっと神さまの御心に叶っていることでしょう。晩になってから、白河鉾が京都に入ってくるということを、聞いています。」である。 これらはいわば住民の山とは違い座の山鉾であり、明応7年(1498)の再興に関しては室町幕府の奉行人奉書が出されていたが、復活しなかった。 山崎の定鉾=大山アは山城国と摂津国境にある交通の要衝。離宮八幡宮を本所とする油座商人が居住したことで有名であるが、その油座商人は、京中にも多数居住していた(在京神人という)。ちなみ永和2年(1376)の頃には京都に64人住んでいて、大方は下京だったと言われる。 そうした関係から、この鉾を祭に奉仕したと思われる。 大舎人の鵲(笠鷺)鉾=大舎人(おおとねり)は、大舎人座に所属する織物座の商人。鵲鉾(かささぎほこ)は、白鷺の格好をして舞う囃子物で、祇園会の代表的な風流の一つ。狂言の「鬮罪人」などに見える。 八撥(やつばち)=放下(ほうか)とよばれる中世の遊芸者による羯鼓の芸能で、簓などともに演じられた。 曲舞(くせまい)=叙事的な内容の歌謡を、鼓に合わせて一定の拍子に則って歌い、簡単な所作の舞を伴った。一人舞が基本だが、のちには二人舞(相舞)のこともある。男は直垂・大口姿、稚児や女は立烏帽子(たてえぼし)に水干・大口姿の男装で演じた。祇園会では女曲舞賀歌(かが)女の舞車が風流として出る。この系譜の芸は、能の観阿弥に大きな影響を与えた。 白河鉾=白河から来る鉾である。脇田晴子氏は祇園所属の女性餅商人が白河にいたので協賛したのではと言われている。 |
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≪応仁の乱以前の山鉾≫ 祗園社記第十五には、応仁の乱前の山鉾の名と所在地が58基記されている。 |
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祗園会山ほこの次第 7日 |
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山鉾名、場所、現在の山。?は廃絶とお思い下さい の順。黒字は現存しない。 | |||||||||
長刀ほく〔四条東洞院烏丸間〕=現・長刀鉾。 かんこくほく〔四条烏丸と室町間〕=現・函谷鉾。 かつら男ほく〔四条室町と町間〕=現・月鉾。 かんたかうふきぬ山〔四条東洞院と高倉間〕=「源太が産衣」か?。八幡太郎にちなむ鎧より取ったか? こきやこはやし物〔四条油小路と西洞院間〕=現・四条傘鉾。 あしかり山〔四条猪熊〕=? まうそ山〔錦小路万里小路と高倉間〕=? いたてん山〔錦東洞院と高倉間〕=韋駄天山。 弁慶衣川山〔錦烏丸と東洞院間〕=?。「義経記」より取る。 天神山〔錦と室町間〕=現・霰天神山 こかうのたい松山〔錦西洞院と町間〕=平家物語から取った能楽「小督(こごう)」から取ったと思われる。乱後は「ほうか山」に変えて再興している。ただし放下鉾とは別物。 すみよし山〔綾小路油小路と西洞院間〕=現・芦刈山。当時は住吉山。応仁の乱以前は別の二ヶ所より「芦刈山」が出ていた。 地さうほく〔綾小路町とと西洞院間〕=現・伯牙山。明応9年には琴割山に変わっている。 こはんもち山〔五条高倉と高辻間〕=小判もち山。 花ぬす人山〔五条東洞院高倉間〕=現・保昌山。 うかひ舟山〔四条高倉と綾小路間〕=? ひむろ山〔綾小路万里小路と高辻間〕=丹波の氷室から氷を運ぶ話か? あしかり山〔錦小路東洞院〕=? はねつるべ山〔四条東洞院と綾小路間〕=? もうそ山〔錦小路烏丸と四条間〕=現・孟宗山。 花見の中将山〔綾小路と四条間〕=? 山ふしほく〔四条坊門むろ町〕四条坊門とは現・蛸薬師通。=現・山伏山。 菊水ほく〔錦小路と四条間〕=現・菊水鉾 庭とりほく〔綾小路室町と四条間〕=現・鶏鉾。 はうかほく〔錦小路町と四条間〕=現・放下鉾。 しんくくわうくうの舟〔四条と綾小路間〕=現・船鉾。 岩戸山〔五条坊門町と高辻間〕=現・岩戸山。 おかひき山〔五条と高辻間〕=? かまきり山〔四条西洞院と錦小路間〕=現・蟷螂山。 たるまほく〔油小路通錦小路上ル〕=室町時代に現在の山田町がある地から、応仁の乱以前は「だるま鉾」、以後は「だるま山」として再興したいう記録が残っている。 明応9年(1500)に再興した際、くじ取りによりだるま山が前祭の7番目に巡行したとあり、当時は前祭26基、後祭10基の計36基だったらしい。 太子ほく〔五条坊門油小路と高辻間〕=現・太子山 |
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前祭 計31基 | |||||||||
14日 | |||||||||
山鉾名、場所、現在?の順 | |||||||||
すて物ほく〔二条町と押小路間〕=? たいしほく〔押小路と三条坊門前〕=応仁の乱後の記録には見当たらない。 弓矢ほく〔姉小路と三条間〕=? くけつのかい山〔山高辻猪熊〕=? 甲ほく〔所々のくら役〕=? 八幡山〔三条町と六角間〕=八幡山。 普陀落山〔錦小路町と四条坊門間〕=現・南観音山。応仁の乱以前にはあったという記録あり。 しんくくわうくう舟〔新町通四条と綾小路間〕=凱旋舩鉾 やうゆう山〔三条烏丸と室町間〕=現・北観音山 すすか山〔三条烏丸と姉小路間〕=現・鈴鹿山 鷹つかひ山〔三条室町と西洞院間〕=鷹山 山〔三条西洞院と油小路間〕=? ふすま僧山〔鷹つかさ猪熊兵衛と油小路間〕=? なすの与一山〔五条坊門猪熊と高辻間〕=「平家物語」の那須の与一の扇の的の話から取ったと思われる。 うし若弁慶山〔四条坊門烏丸と室町間〕=現・橋弁慶山。 しゃうめう山〔四条坊門烏丸と室町間)=現・浄妙山。 泉の小二郎山〔二条室町と押小路間〕=? ゑんの行者山〔姉小路室町と三条間〕=現・役行者山。 れうもんの瀧山〔三条町と六角間〕=現・鯉山。 あさいなもん山〔綾小路猪熊〕=「朝比奈もん山」。朝比奈三郎義秀の地獄破りから取ったと思われる。 柳の六しゃく山〔山四条高倉と綾〕=? 西行山〔?〕=現・黒主山か?。遊女屋に宿を借りようとした西行が断られる話から取ったと思われる。 じねんこし山〔?〕=謡曲「自然居士」から取ったと思われる。 てんこ山〔?〕=「天鼓山」。 柴かり山〔?〕=? 小原木の山〔?〕=果報者が野辺に出て、来合わせた小原女たちと酒を酌みあわせ、小唄を謡って遊ぶという狂言「若菜」より取ったと云われる。 かさほく 大との房=大舎人(おおとねり)は、大舎人座に所属する織物座の商人。鵲鉾(かささぎほこ)は、白鷺の格好をして舞う囃子物で、祇園会の代表的な風流の一つ。狂言の「鬮罪人」などに見える。 |
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後祭 計27基 | |||||||||
二条近くに1つの山・1つの鉾があり、猪熊通にも4つの山があるが、明応9年の再興後はこれらの山鉾は無くなってしまった。 |