京 都 府

  
住所  神社名 祭礼日 内容 備考
東山区祗園町北側625            八坂神社    7/1〜31    
【山鉾巡行】=7/17
山鉾32基    長刀鉾、凾谷鉾、菊水鉾、月鉾、鶏鉾、放下鉾、岩戸山、舩鉾、霰天神山、占出山、山伏山、木賊山、芦刈山、白楽天山、保昌山、太子山、 郭巨山、伯牙山、 孟宗山、油天神山、綾傘鉾、蟷螂山、四条傘鉾
北観音山、南観音山、橋弁慶山、鈴鹿山、浄妙山、鯉山、黒主山、役行者山、八幡山
※ 朝9:00より長刀鉾を先頭に32台の山鉾が四条烏丸を出発し、河原町通を経て御池通へ。新町通を左折して3時間かけて終着地点へ。
昭和41年に17日の前祭に24日の後祭が合同される。
 【焼山】
鷹山(三条通室町西入ル衣棚町)=元治元年(1864)の大火で懸装品の大半を焼失。御神体の人形頭など一部が難を逃れた。
応仁の乱(1467)以前より山を出していた。
天明の大火(1788)で被害を受け舁山となり、その後、寛政10年(1798)再度曳山となる。応仁の頃は釜座町と2箇所より出したが、江戸期は当町のみこれを出す。
光孝天皇仁和(886)の芹川野の行幸時の中納言行平(もしくは右大将頼朝)供奉の鷹匠姿を模したと云われている。
大きな曳山で鷹匠、犬を連れた犬飼い、樽を背負い手には粽を持つ従者という三体の人形を乗せていた。

凱旋舩鉾(新町通四条下ル四条町)=元治元年(1864)焼失するが、御神体、懸装品は残っている。平成9年よりお囃子を復活させ、13日の夜から宵山までの期間、新町通四条と綾小路の間(四条町)にて演奏を行っている。
 現存する懸装品は平成12年「大舩鉾」装飾品展目録によると、前掛は「雲龍波濤文様綴織」。後掛は「雲龍波濤文様綴織」。舵は緋羅紗地雲龍波濤文様刺繍」。水引は「緋羅紗地飛龍波濤文様刺繍」、「金地雲龍文様」、「緋羅紗地鳳凰文様刺繍。掛軸は昭和5年、中島荘陽 筆。敷物は緋羅紗地唐草文様捺染」。御神体衣裳は「立菱固綾小直衣」、「唐花顕紋紗狩衣」。御神体神功皇后の腹帯。
 寄町は北四条町では東洞院通り御池下ル笹屋町、柳馬場通り二条下ル等持寺町、高倉通り四条上ル帯屋町、高倉通り錦小路上ル貝屋町。
南四条町では東洞院通り御池上ル舟屋町、柳馬場通り御池上ル虎石町、二条通り東洞院東入ル松屋町、二条通り高倉東入ル観音町。

布袋山
(蛸薬師通室町西入ル姥柳町)=前祭。慶長年間(1596〜1615)から巡行参加するが、天明8年(1788)に焼失。
御神体を復元して宵山で公開。現在は長刀鉾の寄町になっている。
 【大火による焼失】
宝永の大火=宝永5年(1708)3/8正午、油小路通姉小路下ル、両替商伊勢屋市兵衛方より出火。この火事で後祭の山鉾の多くが焼失。

天明の大火=天明8年(1788)130朝、宮川町団栗の新道角両替商から出火。市中の約90%を焼失。この火事では前祭の山鉾町の多くが焼失。

禁門の大火=元冶元年(1864)7/19、禁門の変による大火は三日三晩も燃えつづけた。市中の約65%を焼失。
「占出山史料」によると、ほとんど被災しなかったのは、函谷鉾、月鉾、岩戸山、霰天神山、伯牙山、保昌山の6基で、長刀鉾は被害少なし。他には車や木柄の焼失が多く、町内預けのところの多く助かっている。
 ※ 応仁の乱の頃には58基の山鉾が出た(『祇園社記第十五』)。明応9年(1500)に36基の山鉾が出た 。
 【尺素往来によると】
 室町地代の関白の一条兼良(1402〜81)の「尺素往来」には、
「祇園御霊会、今年殊に結構、山崎の定鉾、大舎人の鵲(笠鷺)鉾、処々の跳鉾、家々の笠車、風流の造山、八撥、曲舞、在地の所役、定めて神慮に叶うか、晩頃には、白河鉾入洛すべきの由風聞候」とある。 
八坂神社   7/24
【花傘巡行
花車10台 傘鉾十数基、馬長稚児、児武者等列を整えて、八坂神社(10時)⇒四条⇒河原町⇒御池⇒寺町⇒四条⇒神社に12時頃に帰社する到着後舞踊等の奉納行う。
昭和41年に前祭と後祭が統合され7/17に山鉾巡行が行われることになり、7/24の後祭を補う形で出来た。
平安時代の山鉾の形式を再現。550町、17の団体が参加し、花車や太鼓の行列などが10時に八坂神社を出発し、昼12時頃に帰社する。
 ≪参加団体≫
八坂神社清々講社、八坂神社婦人会、八坂神社清風会、八坂神社青年会、ボーイスカウト京都第65団、ガールスカウト京都府第15・16団、祗園万灯会、祗園太鼓研究会、鷺舞保存会、祗園田楽保存会、先斗町お茶屋組合、祗園東お茶屋組合、祗園甲部お茶屋組合、宮川町お茶屋組合、久世六斎保存会、京都織物卸商業組合、祗園祭山鉾連合会、
 ≪巡行列≫
先祓―花傘巡行旗―神饌行列―神饌花車―祗園太鼓旗―祗園太鼓―八坂神社青年会旗―花傘―金獅子―銀獅子―幌武者―児武者―こうじ―馬長旗―馬長―八坂神社清々講社旗―供奉員―八坂神社婦人―会旗―供奉員―鷺舞保存会旗―花傘―棒振―さぎ―鞨鼓―堤燈―供奉員―祗園田楽旗―花傘―田楽―供奉員―久世六斎保存会旗―六斎―供奉員―京都織物卸商業組合花傘―花傘娘旗―花傘娘―供奉員―花傘―宮川町お茶屋組合コンチキ音頭―花傘―祗園甲部お茶屋組合雀踊―祗園万燈会旗―花傘―万燈踊旗―万燈踊―鷺踊旗―鷺踊―供奉員―山鉾連合会―祗園囃子―押―子供神輿
 ≪応仁の乱以前の山鉾≫
祗園社記第十五には、応仁の乱前の山鉾の名と所在地が58基記されている。 
祗園会山ほこの次第
      7日
山鉾名、場所、現在の山。?は廃絶とお思い下さい の順
長刀ほく〔四条東洞院烏丸間〕=現・長刀鉾。

かんこくほく〔四条烏丸と室町間〕=現・函谷鉾。

かつら男ほく〔四条室町と町間〕=現・月鉾。

かんたかうふきぬ山〔四条東洞院と高倉間〕=「源太が産衣」か?。八幡太郎にちなむ鎧より取ったか?

こきやこはやし物〔四条油小路と西洞院間〕=現・四条傘鉾。

あしかり山〔四条猪熊〕=?

まうそ山〔錦小路万里小路と高倉間〕=?

いたてん山〔錦東洞院と高倉間〕=韋駄天山。

弁慶衣川山〔錦烏丸と東洞院間〕=?。「義経記」より取る。

天神山〔錦と室町間〕=霰天神山

こかうのたい松山〔錦西洞院と町間〕=平家物語から取った能楽「小督(こごう)」から取ったと思われる。乱後は「ほうか山」に変えて再興している。ただし放下鉾とは別物。

すみよし山〔綾小路油小路と西洞院間〕=現・芦刈山。当時は住吉山。応仁の乱以前は別の二ヶ所より「芦刈山」が出ていた。
地さうほく〔綾小路町とと西洞院間〕=現・伯牙山。明応9年には琴割山に変わっている。

こはんもち山〔五条高倉と高辻間〕=小判もち山。

花ぬす人山〔五条東洞院高倉間〕=現・保昌山。

うかひ舟山〔四条高倉と綾小路間〕=?

ひむろ山〔綾小路万里小路と高辻間〕=丹波の氷室から氷を運ぶ話か?

あしかり山〔錦小路東洞院〕=?

はねつるべ山〔四条東洞院と綾小路間〕=?

もうそ山〔錦小路烏丸と四条間〕=現・孟宗山。

花見の中将山〔綾小路と四条間〕=?

山ふしほく〔四条坊門むろ町〕四条坊門とは現・蛸薬師通。=現・山伏山。

菊水ほく〔錦小路と四条間〕=現・菊水鉾

庭とりほく〔綾小路室町と四条間〕=現・鶏鉾。

はうかほく〔錦小路町と四条間〕=現・放下鉾。

しんくくわうくうの舟〔四条と綾小路間〕=現・船鉾。

岩戸山〔五条坊門町と高辻間〕=現・岩戸山。

おかひき山〔五条と高辻間〕=?

かまきり山〔四条西洞院と錦小路間〕=現・蟷螂山。

たるまほく〔錦小路油小路〕=?]

太子ほく〔五条坊門油小路と高辻間〕=現・太子山
   前祭  計31基
   14日
山鉾名、場所、現在?の順
すて物ほく〔二条町と押小路間〕=?

たいしほく〔押小路と三条坊門前〕=応仁の乱後の記録には見当たらない。

弓矢ほく〔姉小路と三条間〕=?

くけつのかい〔山高辻猪熊〕=?

甲ほく〔所々のくら役〕=?

八幡山〔三条町と六角間〕=八幡山。

普陀落山〔錦小路町と四条坊門間〕=現・南観音山。応仁の乱以前にはあったという記録あり。

しんくくわうくう舟〔新町通四条と綾小路間〕=凱旋舩鉾

やうゆう山〔三条烏丸と室町間〕=現・北観音山

すすか山〔三条烏丸と姉小路間〕=現・鈴鹿山

鷹つかひ山〔三条室町と西洞院間〕=鷹山

山〔三条西洞院と油小路間〕=?

ふすま僧山〔鷹つかさ猪熊兵衛と油小路間〕=?

なすの与一山〔五条坊門猪熊と高辻間〕=「平家物語」の那須の与一の扇の的の話から取ったと思われる。

うし若弁慶山〔四条坊門烏丸と室町間〕=?

しゃうめう山〔四条坊門烏丸と室町間)=?

泉の小二郎山〔二条室町と押小路間〕=現・橋弁慶山

ゑんの行者山〔姉小路室町と三条間〕=現・役行者山

れうもんの瀧山〔三条町と六角間〕=?

あさいなもん山〔綾小路猪熊〕=「朝比奈もん山」。朝比奈三郎義秀の地獄破りから取ったと思われる。

柳の六しゃく〔山四条高倉と綾〕=現・鯉山

西行山〔?〕=遊女屋に宿を借りようとした西行が断られる話から取ったと思われる。

じねんこし山〔?〕=「自然居士」とは鎌倉時代の説教師で、ささら太郎とも云われた。

てんこ山〔?〕=「天鼓山」。

柴かり山〔?〕=?

小原木の山〔?〕=果報者が野辺に出て、来合わせた小原女たちと酒を酌みあわせ、小唄を謡って遊ぶという狂言「若菜」より取ったと云われる。

かさほく 大との房〔?〕=?
 後祭  計27基