大 阪 府【和泉】

 堺市(堺、北支所管轄)  
住所 神社名 祭礼 内容 備考
 ≪堺支所≫
宿院町東2 宿院頓宮(しゅくいんとんぐう) 7/31&8/1 神輿
説明書きより要約引用すると、『宿院頓宮は住吉大社御祭神の住吉大神と大鳥大社御祭神の大鳥井瀬大神をお祭りし、堺の鎮守の神として崇敬されている。御鎮座についてはは不明ですが、堺荘が中世まで住吉大社神領であったことや、頓宮前の飯匙堀は住吉大神の潮干珠を埋めたところで、その形が飯匙に似ていることから名付けられたとの伝承もあり、古くから住吉大社との縁が深く、住吉行宮・御旅所とも称されている。
堺鑑にこの地は住吉明神毎年6月晦日の御祓御旅所也とあるようにこの御祓い祭りが今日では7月31日夜に大鳥大社から、8月1日には住吉大社から神輿を迎えて祭典が行われている。』
甲斐町東2丁1−29 開口神社 9/12までの金土日
(元9/11〜13)
神輿 あり
宮地車廃絶
布団太鼓4台 大甲浜、芦原浜、新在家浜、大南戸川
布団太鼓廃絶 中宿浜、東大甲、紺屋浜、大浜、中戸川、南半町、建築仲、あなごや仲、魚小売仲、北浜
大甲浜=3代目。平成10年(1998)9月13日、百舌鳥西之町より購入し69年ぶりの復活。
昭和10年制作(8年説もあり)。大工は柏木福平。添棟梁は吉田国一。彫師は川原啓秀。
枡合:正面は「頼朝鶴ヶ岡八幡宮参拝」、右は「川中島の合戦」、左は「村上義光錦の御旗奪還」、後ろは「神功皇后 応神天皇平産す」。
虹梁:【富士の巻狩り】正面は「頼朝本陣報償の場」、右は「勢子の活躍」、左は「勢子等の活躍」、後ろは「仁田四郎忠常猪退治」。

 初代は明治43年制作。地車に代わり作られる。大正3年まで使用され利器制作所仲へ売却。さらに大正9年に柏原市太平寺に売却。
 2代目は大正後半〜昭和7年まで使われる。
 当時は小屋が無く大寺餅河合堂の倉庫に保管されていた。慶長元年(1596)創業の大寺餅河合堂は現在は少林寺町4−1−27に移転しているが、戦災にあうまでは開口神社境内に大きな店を構えていた。

芦原濱⇒太鼓部屋は芦原会館隣接(南旅篭町西4丁2−3)。
=4代目。平成24年(2012)4月29日、新調入魂式。
【制作業者】
大工は井上工務店。彫師は木下彫刻工芸。刺繍は日本刺繍。房・金綱はサカタ商店。

 初代は大正2年制作するが、昭和20年7月10日に戦災で焼失。
 二代目は昭和28年制作。「梶内」の作。費用は85万円で昭和57年まで使われる。この太鼓台購入までの2年間は「海船浜」の太鼓台を借りる。
 三代目(先代)は昭和58年(1983)制作。費用950万円。「梶内」の作。大阪市此花区高見に売却。
高見は平成24年(2012)7月8日、購入入魂式。
新在家濱⇒太鼓部屋は新西会館併設(新在家町西4丁5−8)。解体保存されている。
=令和3年(2021)9月5日、新調入魂式。
令和4年(2022)6月5日、御披露目。
【制作業者】
本体:泉谷工務店(泉大津)。
彫刻:木彫山本(貝塚)・木彫前田工房(岸和田)・木彫古澤(岸和田)。
房・銀網:サカタ商店(京都)。錺金具:仁科旗金具製作所(京都)。
とんぼ・布団羅紗:神栄堂(淡路)。町章紋:紀繍乃や(淡路)。螺鈿:嵯峨螺鈿野村(京都)。
水引幕:三原染工(地元・新在家)

挟間:正面は「住吉大社」、右は「伊邪那岐命 禊」、左は「吉野山大問答」、後ろは「開口神社」。
虹梁:先代を継承。
持送り:地車時代の図柄を継承。
布団締め・胴綱:銀で統一。

 往古は天保年間より地車で、現・河内長野市小塩。

 布団太鼓の創建は大正2年で淡路より購入するが、昭和20年頃は太鼓を山崎グロスの倉庫に入れさせてもらっていたが、1月に新在家で大火があり、大屋の山崎氏より、明渡し要請され、空地(現・4丁公園)に野ざらしで保管。7/10の空襲では焼失しなかったが、火災による竜巻で巻き上げられ落下し大破する。
 2代目は昭和21年〜49年。
 三代目は昭和50年〜平成5年。
 先代(4代目)は平成6年「梶内」で制作。4代目。新調に伴い野遠に売却。
枡合:正面は「住吉大社反り橋と高燈篭」、右は「虎退治」、左は「大蛇退治」、後ろは「?」。

 子供太鼓台は昭和51年6月、個人が梶内だんじり店で購入し、9月の開口神社の八朔まつりに担がれた。堺まつりにも第2回から第6回まで参加した。
 その後担ぎ出されることもなく、平成3年より「梶内」に預けていたが、平成25年9月の八朔まつりに新在家浜の太鼓台購入100周年記念に里帰りし23年ぶりに担ぎだされたものの、保管場所の件で処分を決定。
平成27年4月4日に、読売旅行貝塚待合所(貝塚市北町20−9)に常設展示、さらに貝塚太鼓台資料館に。
奉納を懇願され、住吉大社太鼓台となる。
大南戸川(隅田)=平成26年(2014)7月20日、新調入魂式。大工は河合工務店。

 先代は平成25年(2013)11月2日、昇魂式。12月8日、河合工務店に引き渡し。
堺型太鼓台。この太鼓台は殿馬場の酒造屋の某社長2名の要請により遠里小野の大工が制作した太鼓台で明治36,37年の作である。41年に上石津(晒仲)に売却されたが、あまりの重さに明治43年に南旅籠町農人町の有志に売却され「大南戸川」と称するようになる。この地区は5丁町からなるが、南旅籠町農人町、新在家町農人町、隅田、少林寺農人町、題目堂ですが、1番地域の小さい隅田が有名となり「隅田の太鼓」と称されている。
 さて大佐の「地車請取帳」には、大正10年8月以降の項に「注文先 堺 すみ田」と書かれているが?。

枡合:【本朝二十四孝】「養老の滝(四面とも)」。
 【布団太鼓廃絶】
中宿浜(中之町・宿院町)=明治44年制作。昭和20年の戦災で焼失。太鼓倉は住吉橋東詰め南側。

大浜(栄橋町・竜神橋町・住吉橋町・大浜北町・大浜中町)=大正元年制作。昭和20年の戦災で焼失。太鼓倉は水族館の東入口。

中戸川(宿院町・中之町・寺地町の農人町)=大正元年制作。昭和20年の戦災で焼失。

南半町(みなんじょ)=大正元年制作。昭和20年の戦災で焼失。

建築仲(大工仲)=大正元年制作。太鼓蔵は寺町の塩穴寺の寺域内にあったが、昭和20年の戦災で焼失。

あなごや仲(魚仲)=大正元年制作。昭和30年代中期まで担がれた。その後担がれることも無く本座のみ残っていたが、昭和45年廃棄処分。
 太鼓蔵は大寺の饅頭屋のあたりと聞く。

魚小売仲明治44年制作。昭和20年の戦災で焼失。布団太鼓巡行のしんがり務めていた。
東大甲(大町・甲斐町の農人町)=明治44年制作。昭和3年に土師町に売却。⇒西中⇒川向。

紺屋浜(寺地町西・少林寺町西)=大正元年制作。昭和12年以降に売却。太鼓蔵は相生橋の東詰めにあった。
 【協和町】
 昭和11,2年に開口神社に御旅所(舳松神社)が出来て神輿が廻るようになったが、世話をする人がいなくなり御旅所は昭和33年再び開口神社に帰され跡地は共栄保育所となる。樽神輿は明治後期〜戦前まで。
 子供太鼓台は昭和62年大仙西団地の商店主4人が深井東町より購入し8月最終日曜に近くの保育園児に曳かせていた。保管は酒屋らしい。
 平成20年に酒屋に聞取りに行くと、平成になってからは出していない。また大仙西小学校に預けていると言われていた。
 【鉾廃絶】
久家徳三氏所蔵の「道祖神勘定帳」によると、堺の最初の鉾は元禄初年(1688)の南大小路鉾とされる。
この南大小路鉾は文政10年(1827)に京都祗園で改修し隔年ごとに曳かれたが中断することも多く大正末年より休止されたいたが、戦災で焼失した。こうして鉾は廃絶したが、市立博物館に戦災を免れた「見送り」、「水引」、「胴掛け」等を寄贈して頂いたので、鉾を復元新調して展示している。
往古は鉾、地車だった。明治29年の住吉大社の御祓い祭り(旧暦8/1)には当時地車は芦原浜、新在家浜、大甲浜、中浜、戎島、鍛冶屋町などからも出たが、午後3時頃に中之町西の大道で湊組=出島の船地車と北の包丁鍛冶組の地車が行き違いの鉢合わせとなって対立したものであったが、昔ながらの紀州街道の一筋で道幅の狭い道路で双方は容易に譲らず、双方の車の屋根より民家の屋根に移った連中が、瓦をめくって相手に投げるという瓦合戦となると同時に、下では大乱闘のケンカとなり、棒を振り礫を投げ瓦が降るの修羅場と化した。ちょうど門前にあった明治10年に明治天皇の行在所になった鈴鹿邸にも、暴徒に化した包丁鍛冶組の一人が乱入し敷台にあった大身の真槍にて、数人に突きかかり二名を殺傷させるという惨劇となり、堺警察が双方の数十人を捕まえ鎮圧したが、これより堺の地車は禁止となり、周辺の村々でも地車は廃れ堺の文化圏でない河内長野や大和等に地車は売却された。
 貝塚市の南川さんによれば、実は昭和36、7年頃まで地車1台が出ていて、地車小屋は神社境内。社務所裏にあったので、宮地車と思うとのこと
神社から新地経由で南海堺駅を往復したと言っていた。後年神社に地車はと聞くともう潰しましたと言われたとのこと。
当時の長老がこれが堺の太鼓と鳴物を聞かせてくれたという。今では聞けませんね。
 その後、湊の人に聞くと、あれは地車と言うより花車で渡御の賑わいの一部とも聞く。

戎之町東2丁1−38 菅原神社 9/12〜14
(元9/13〜15)
神輿
布団太鼓2台 北戸川、海船浜
保存中 北開仲
布団太鼓廃絶 熊野戎仲、北島、車材木仲、宿屋浜、九神浜、錦柳仲、上田仲、北浜、並松
鉾廃絶
神輿=神輿蔵にあるが、例祭日でも収納のまま。12日は子供たちによる子供みこし、樽みこし、太鼓の行列がある。
北戸川⇒柳之町東、九間町東、神明町東、宿屋町東から成る
=堺型太鼓台。平成24年(2012)7月14日(土)新調入魂式。大工は隆匠(田中隆治)。彫物は辰美工芸。
当初は彫物は再利用の予定だったが、大阪市生野区舎利寺の生野神社の地車講に売却決定のため、完全新調になる。
なお生野神社地車講は夏祭りは地車。秋祭りは布団太鼓を出す。

 先代は大正2年(1913)制作。大工は中村(中卯)の若衆で当時宿屋町にいた「みの音」が北庄村にある鉄工所で制作したと云われている。彫物は以前の地車のを利用。平成10年修復。
彫物:枡合は「琴高仙人、呂洞賓、豊干禅師、養老老子と天女」。
隠し額は「雲上日月」。
海船浜⇒太鼓蔵は七堂ヶ浜御旅所。
=明治42年創建。平成14年に40年ぶりに復活。昭和27年が最後の奉納だった。平成15年、井上工務店で修復。
 【布団太鼓休止】
北開仲=明治40年創建。昭和33年頃が最後の奉納。現在は七堂ヶ浜御旅所に保管。
 【布団太鼓廃絶】
熊野戎仲(熊野町・戎之町)=明治44年創建。昭和20年の戦災で焼失。

北島(戎島町)=明治42年創建。昭和20年の戦災で焼失。

車材木仲(車之町、材木町浜手一帯)大正元年創建。昭和20年の戦災で焼失。
大佐の「地車請取帳」には、大正8年〜9年の項に「堺市車之町中濱西一丁二十六番地 澤山喜平 但し佛壇屋」と書かれている。

宿屋浜大正年創建。昭和20年の戦災で焼失。
大佐の「地車請取帳」には、大正10年8月以降の項に「注文先 堺 宿屋町」と書かれている。

九神浜(九間之町、神明町浜手一帯)明治42年創建。昭和20年の戦災で焼失。

錦柳仲(柳之町、錦之町一帯)=大正年創建。戦禍をまぬがれたが、どこに売られたか消息不明。

南戸川(櫛屋町、車之町、材木町、農人町)大正年創建。昭和20年の戦災で焼失。

上田仲(高須町一帯)=大正2年創建。戦禍をまぬがれ昭和33年頃まで担がれたが、その後しばらくして売却。(戦後新調した2代目説もあり)。

並松(並松町・七道東町)現在の町会では並七第一町会と並七第二町会。
往古の太鼓は藤井寺市小山に売却。舁き方 等も伝授され今も堺風も舁き方らしい。
明治40年新調でで翌41年10月に月州神社に売却。これは八朔祭りの折に戎島の方まで担がれたが途中で、担ぎ手の若衆が抜けたので腹を立てた世話人が売却。
 しばらくの冷却期間の後で、
大正末期〜昭和初期に2代目購入と云われているが、大佐の「地車請取帳」には、大正11年〜13年の項に「堺 並松町 橋きわ 西かわ 魚留様」と書かれておりこの折りと思われる。
昭和45年より担ぐことが無くなり、平成8年6/2に譲渡契約を取り交わし百舌鳥赤畑町の個人に譲る。

 休止の理由は一説ではこう言われている。並松で選挙の時に候補者が二人出たので対立になり、今の七道並松住宅より北側の長屋街が並七第一町会。南側で風間寺のある方が並七第二町会になり祭もやめてしまったらしい。当時の並松町は長屋街で太鼓部屋も今の七道東町の団地内にあったという。そのうえ市の団地建替えで旧住民の多くが転出し太鼓部屋も七道西町に移転したが、復活はならなかった。
北浜明治40年創建で北島の太鼓台と共に夫婦太鼓の異名を持っていたが、夫婦喧嘩になり例祭巡幸時に進路を邪魔されたことにより、
遂に天神所属から開口神社祭礼に参加するようになった。その後かきてが減っていき、大正2年に百舌鳥梅町に売却。
 【鉾廃絶】
青龍寺鉾ともう1台あったが、戦災で焼失。
西湊町1丁2−18 船待神社 9/連休金土日 神輿 あり
布団太鼓3台 東湊、西湊、出島
子供布団太鼓4台
東湊=平成24年(2012)6月3日、新調入魂式。
【制作業者】
本体:板谷工務店。彫師は木下彫刻工芸。
房・金網はサカタ商店。
刺繍は挙繍。
錺金具は仁科旗金具製作所。
挟間:「唐子遊び」、「司馬温公甕割りの場」、「宝車曳き」、「雪遊び」。

 先代は大正9年(1920)制作。大工は不詳。彫師は川原啓秀。大房は京都の國井藤兵衛。昭和46〜62年までの17年間は休止していた。
 平成7年に修理。修復請負は田中忠。
平成23年(2011)10月23日、昇魂式。八尾市郡川に嫁入り。
西湊=堺型。平成16年(2004)5月23日、新調入魂式。請負は梶内だんじり梶B大工は佃明。幕は梶内だんじり梶B高さ3、827m。
彫師は狭間は開正藤。木鼻は玉井行陽。修復とその他の彫刻(虹梁、勾欄合。縁葛、土呂幕、持送り)は松本幸規。
虹梁:【天神絵巻】正面は「筑紫への遠征、浪速の津 湊の浜で船を待つ」、右は「道真死去し安楽寺を墓所と定める」、左は「青年、道真弓術に天骨を得る」。
狭間、縁葛、土呂幕は正面が【太閤記】、右が【太平記】、左は【源平盛衰記】、後ろは【太閤記】。
狭間:正面は「本能寺の変 森蘭丸の奮戦」、右は「楠公子別れ櫻井の駅」、左は「安宅の関 弁慶義経を徴打す」。後ろは「大徳寺 焼香の場」。
縁葛:正面は「長篠の合戦」、右は「湊川の合戦」、左は「義経八艘飛び」、後ろは「賤ヶ岳の合戦」。
土呂幕:正面は「桶狭間の合戦 今川義元の最期」、右は「多聞丸初陣」、左は「巴御前の勇戦」。
木鼻:「様々な柱獅子」。
勾欄合:「二十四孝のうち十六場面」。
持送り:「椿花に三尾雀」。

 先代は明治40年制作。大工は大歳。平成15年まで使われる。
出島(出島ふとん保存会)⇒太鼓庫は平成11年7月18日に出島町3丁13−6に移転。かつて出島漁港内にあった。
=平成16年(2004)8/29、新調入魂式。4代目。本体はそのまま。
枡合:正面は「敦盛呼び戻す熊谷次郎直美」、右は「鵯越の坂落とし」、左は「宇治川の先陣争い」、背面は「那須の与一扇の的」。
制作陣は錺金具(隠し額・房掛け錺金具)は梶内だんじり梶B刺繍(幕・布団締め。会紋)は京美刺繍。房・伊達綱・飾物はサカタ商店。幟は三原染工梶B
 ≪飾物≫
隠し額は「七福神宝船」。房掛け錺金具は「波に濱千鳥」。
幕は「三韓征伐」。布団締めは「昇龍降龍」。

 初代は大正10年頃に淡路・志築より購入するが、(貝塚市堀之町説もあり)昭和20年7/9に戦災により太鼓蔵(出島町1丁5−1.大日庵西隣)ごと焼失。
 2代目は昭和28年出島漁業共同組合の人々が四天王寺の「梶内」より購入。平成2年新調につき下取りされ現在は八尾市神立(こうだち)へ。
 三代目は平成元年制作。「太鼓正」。彫師は田中忠(彫忠)。昇魂式は平成16年3/21。
 【子供布団太鼓】
最盛期は1つのマンションから子供布団太鼓、樽みこしと3基も出て合計15、16台が日曜の午前中に西湊小学校に校区の各子供会の子供太鼓台が集合し、校長の挨拶の後に入場し、午後は所曳きした。
 ちなみに平成3年(1991)に私が見に行くが、さゆり子供会、若竹子供会(中小)、つくし子供会、ほがらか子供会(太鼓、樽みこし)、メゾン子供会、みつわ子供会、あすなろ子供会、グレーシー子供会、湊西こまどり子供会、青空子供会、出島海岸通りなかよし子供会の9子供会が出場していたが、

少子化(現に少子化に伴う児童減少により、2007年4月に従来の堺市立湊小学校と堺市立湊西小学校を統合して新湊小学校(場所は西湊小学校)となる)と奉仕する父兄の減少により参加子供会が減り、平成26年(2014)では、ほがらか子供会、さつき子供会、グレーシー子供会の3子供会で4台となっている。
 【往古は地車】
出島(湊組)=船だんじりがあったが、明治29年の喧嘩のため禁止されてからも保存していたが、戦災により昭和20年7月9日に地車小屋(出島町1丁6−3付近)ごと焼失した。
北三国ヶ丘町2丁2−1 方違神社 9/中旬金土日
(元・16
神輿 例祭日に拝殿に飾られている。
布団太鼓1台
戦災で焼失 瓦町仲、花田口仲[北庄]
(平成9年、榎太鼓会を榎校区連合太鼓会に改組)=平成18年(2006)8月20日、新調入魂式。
業者は姫路の川村商店請負。飾り・刺繍は川村刺繍。房は京都・岡本啓助工房。金具は大阪・梅田工業。彫物 等は先代のを利用。
枡合は「鎮西太郎為朝の剛弓」、「楠公子別れ櫻井の駅」、「芦屋道満問答の場」、「真田大助初陣」。

 大佐の「地車請取帳」の大正8,9年の項に、「堺 東榎木 ゑの木 太鼓臺 青物商 平野富太郎」とあるが?
 初代太鼓台は明治42年に淡路で新調した堺型太鼓で300円以内で購入するが、昭和5年頃に瓦町に売却し現存せず。
 先代は淡路型太鼓台。昭和5年頃に購入。昭和58年改修。泥台は今もあり、いずれ練習台か子供用太鼓台を作りたいと希望されている。
 【布団太鼓廃絶】
瓦町仲
=氏地は瓦町・新町。昭和5年頃に榎仲より購入。昭和20年の戦災で焼失。太鼓庫は現・税務署の所である。
大佐の「地車請取帳」の大正8、9年の項に、「堺 東瓦町 通名小高や事 井上様」と書かれている。当時より布団太鼓あったか?

花田口仲[北庄]=大正6年頃制作するが、昭和20年の戦災で焼失。
大佐の「地車請取帳」の大正8、9年の項に、「堺市花田口 八百平様」とある。この布団太鼓か?。
栄橋町2−1−22 神明神社 9/4日曜 子供布団太鼓1台 16〜17時頃出たが、最近は出ていない
子供布団太鼓=出島海岸通りなかよし子供会奉納。
南島町2丁125−2 月洲神社 8/2、3(毎年) 神楽獅子
布団太鼓1台[休止] 昭和34年頃まで担がれた。 
太鼓台=この太鼓台は同市並松町新調で大工は不詳で明治初期の作。明治41年頃、この並松町の太鼓台を同町の「三木清」という酒屋の紹介で太鼓庫共に購入。昭和34年頃まで担がれたが、その後休止し、昭和54年頃に奉納。
月洲神社神楽獅子=大阪市浪速区日本橋西の広田神社の獅子舞(現在は行われていない)を導入し、改良を加えて月洲神社神楽獅子として受け継いでいる。
松屋町2−137 田守神社 7/最終水木金   太鼓車   
10/4、5 布団太鼓廃絶  
昭和48年頃に子供神輿を購入し飾り付けていたが、58年頃より5町会の子供会(松屋町、緑町、松屋大和川通、山本町、海山町)が輪番でトラックの台車に太鼓を乗せる形で練り回る。
農会が大正11年に購入するが、昭和39年4/28に不審火により焼失 
石津町1−15−21 石津神社 10/1金土日 神輿 あり
地車2台(岸和田型) 上石津、神石市之町
布団太鼓2台 浜石、緑ヶ丘
宵宮は11時より地車(市之町)が宮入り。19時より布団太鼓(浜石)が宮入。22時より布団太鼓小栗街道巡行。
本宮は9時より地車宮入り(上石津)。10時より子供太鼓(南陵、浜石、緑ヶ丘)樽神輿(霞ヶ丘)が宮入。
15時より小栗街道にお渡りパレード(触れ太鼓を先頭に猿田彦、獅子舞、子供太鼓、子供地車)で神社へパレード。
神輿は従来の例祭日にトラックで渡御する。
上石津⇒地車小屋は上石津2丁4−20。
=岸和田型。大正8年(1919)貝塚市津田新調。平成8年9月22日、岸和田市春木若松町より購入入魂式。
大工は中本浅吉。彫師は西本舟山。

令和3年(2019)8月25日、修復入魂式(地車誕生100周年記念祭)。隆匠で改修。
前回は平成21年5月17日、修復入魂式。隆匠で改修。
 ≪大屋根廻り≫
鬼板:「雲に石津神社御神紋」。
懸魚:正面は「波濤に千鳥(御来光)」、後ろは「波濤」。
垂木:(飛檐垂木)「石」の文字、(地垂木)「石」の文字、
桁鼻:「雲海」 
小屋虹梁:正面は「雲海」、
二重枡合:右は「楠木正行 如意輪堂の場」、左は「児島高徳 櫻木に歌を詠む」。
枡合:正面は「多聞丸射術修行」、右は「新田義貞 宝刀を稲村ヶ村に奉ず」、左は「楠公子別れ 桜井の駅」
虹梁:「波濤」。
木鼻:「唐獅子」。
 ≪腰廻り≫
番号持:「恵比須天」。
勾欄合:「波濤」。 
縁隅木:「石津」の文字。
松良:【賤ヶ岳の合戦】右は「加藤清正 山路将監討取り」。
縁葛:【太閤記】正面は「日吉丸 小六矢矧橋の出会い」、左は「日吉丸の才智 児童を守す」。
大連子:【源平盛衰記】正面は「敦盛を呼び戻す熊谷次郎直実」、右は「平景清の錣引き」、左は「義経八艘飛」。
小連子:【富士の巻狩】正面は「仁田四郎忠常 猪退治」、右は「頼朝本陣」、左は「勢子の活躍」。
土呂幕:【賤ヶ岳の合戦】正面は「秀吉本陣 佐久間玄蕃允の乱入」、右は「山内一豊の勇戦」、左は「脇坂甚内安治 水野助兵衛討ち取り」。 
兜桁:「石津神社御神紋」。
 ≪小屋根廻り≫
鬼板:「雲に石津神社御神紋」。
懸魚:「波濤に千鳥(浦島太郎)」。
小屋虹梁:「雲海」。
桁鼻:「雲海」。
垂木:(飛檐垂木)「石」の文字、(地垂木)「石」の文字。
枡合:【源平盛衰記】正面は「安宅の関 弁慶義経を打擲」右は「頼朝 朽木隠れ」、左は「牛若丸 鞍馬山修行の場」。
 ≪見送り廻り≫
見送り虹梁木鼻:「唐獅子」。
大脇兜桁:「石津神社御神紋」。
大脇竹の節:「立若葉」。
脇障子兜桁:「石津神社御神紋」。
見送り:「難波戦記」
 ≪見送り腰廻り≫
縁隅木:「石津」の文字。
後縁葛:「波濤」。
水板:「波濤」。

 初代?は明治28年制作。大正3年に和泉市唐国町へ売却。現・羽曳野市鍛冶町(平成12年〜)。
 先々代は淡路より小型地車購入するも、昭和14,5年頃に売却。
 先代購入以前は子供会が樽みこしを曳いていた。
 先代は昭和62年に深井北町より約500万円で購入。現・地車購入につ太鼓正に売却。購入の1年前は太鼓正よりリース地車を借りた。
 【津久野地区に参加】
神石市之町⇒地車小屋は神石市之町6−14(鎮守の正八幡宮隣り)。
=岸和田型。平成7年(1995)、5月7日、購入入魂式。
貝塚市王子より購入。大正末期制作。大工は絹井楠次郎。彫師は玉井行陽。助は金山源兵衛。
番号持ち:「勧進帳」。
土呂幕:正面は「薄田隼人の勇戦」、右は「後藤又兵衛の勇戦」、左は「真田幸村家康を追う」。
見送り:「難波戦記 木村重成」。

 大阪毎日新聞の明治40年10月4、5日の記事に地車の衝突として「10月3日、16時に船尾村の地車が小栗街道の土橋を越えようとして、市村へ挨拶なしに入ってきたので、喧嘩となり、市村は2名死亡、瀕死2名、重軽傷者7名を出し、このため警察は4名を拘留したとある」。
 大佐の「地車請取帳」には大正14年、「泉北郡上石津村字市村 會長 和田栄三郎様 金物みがきあらいさいしき代二百四十円 大正十四年九月十二日二 地車作事二よび二来ル 三人ッゝ八日」とある。
 三先代は大型地車だったが、戦災で焼失。

 先々代は戦後に淡路より購入し昭和40年頃に同市八田南之町に売却され現在は守口市八番。
 先代は平成2年岸和田市積川町西より購入し、現・地車購入につき橋本市小原田に売却。この地車以前は「太鼓正」のリース地車。その前にしばらくの御休み期間。
浜寺石津[浜寺石津町第12町会。約120世帯]=明治40年(1907)制作。彫物は平成10年新調。
平成9年に百舌鳥梅町より太鼓台の台座・布団部分等一式を購入し、彫物等を新調。購入入魂式は平成10年9/13。彫師は谷口信夫。
平成16年7/18、早朝の火災で、太鼓は焼け焦げ、綱などの装飾類も水をかぶった。そこで「梶内だんじり店」で約1、200万円かけて修復した。
経路は戎島の北浜新調⇒百舌鳥梅町
浜石へ。大太鼓の奉納は89年ぶり。

かつては殿馬場の酒造屋の某社長2名の要請により遠里小野の大工が制作した太鼓台で明治36,37年の作である。41年に上石津(晒仲)に売却されたが、あまりの重さに(42年1年のみ説もあり)明治43年に南旅籠町農人町の有志に売却され「大南戸川」と称するようになり、平成25年(2013)まで担がれた。
 昭和60年、湊の個人所有の子供太鼓(現・小太鼓)を購入し、50数年ぶりの復活となる。
 続いて昭和63年に石津若仲より中太鼓を購入。10年使われたのち、緑ヶ丘へ。
緑ヶ丘⇒ハピネス神石保育園の敷地の一部を借りて太鼓蔵を建造。
緑ヶ丘ふとん太鼓実行委員会主催。緑ヶ丘・霞ヶ丘・南陵町各自治会協力。
=太鼓正の作。平成9年浜寺石津より購入。昭和51年、石津若仲購入。59年改造。

 以前は樽神輿。


 ≪北支所≫
百舌鳥赤畑町5丁706 百舌鳥八幡宮 旧8/15頃の土日 神輿 あり
布団太鼓大小16台 百舌鳥赤畑町、百舌鳥本町、百舌鳥西之町、百舌鳥梅町、百舌鳥梅北町、百舌鳥陵南町、中百舌鳥町、土師[はぜ]町、土塔町
神輿=昭和30年代前半までは宮司たちに担がれて、神輿蔵から鳥居脇の御旅所まで御渡りしたが、現在は神輿蔵の扉を開けるのみ。
百舌鳥赤畑町=平成22年(2010)9/19、新調入魂式。80年ぶり新調。川原啓秀の彫物はそのまま受け継ぐ。
枡合:正面は「神功皇后応神天皇平産」、右は「敦盛呼び戻す熊谷次郎直実」、左は「曽我五郎大磯驀進」、後ろは「楠公子別れ櫻井の駅」。
虹梁:正面は「源頼朝本陣褒賞の場」、右は「仁田四郎忠常猪退治」、左は「狩場風景勢子の活躍」、後ろは「頼朝公鹿を射る」。

飾り幕は「藍色に赤畑の白抜き文字」。
 先代は昭和5年(1930)10月制作。大工は柏木福平。
百舌鳥本町(旧称は高田)=平成29年(2017)5月21日、新調入魂式。小太鼓も合わせて新調。
大工は井上工務店(井上英明)。彫師h木彫山本。衣装は近隣。

 初代は市立博物館へ。
先代は昭和55年制作。請負は「太鼓正」。大工&彫師は田中忠。
枡合:正面は「義経鵯越え」、右は「川中島の合戦」、左は「義経八艘飛び」、後ろは「牛若丸鞍馬山の修業」。
虹梁:正面は「百舌鳥八幡宮」、右は「住吉大社」、左は「石清水八幡宮」、後ろは「春日大社」。
飾り幕は「紫地に白抜き向い鳩」。

 小太鼓先代は昭和53年、梶内だんじり店より購入。
百舌鳥西之町⇒平成20年(2008)7/21、自治会館&太鼓台蔵竣工。
=平成10年(1998)制作。三代目。大工は大下工務店(大下孝司)。彫師は木下賢治。
枡合:正面は「川中島の合戦」、右は「楠公子別れ櫻井の駅」、左は「牛若弁慶五条大橋の出会い」、後ろは「幸村家康本陣急襲」。
虹梁:正面は「武田家勇将 軍評定」、右は「如意輪堂」、左は「須磨寺の高札」、後ろは「九度山の場」。

 初代は昭和5年制作で下取りされる。
 先代は昭和8年制作で現・大甲浜へ。
百舌鳥梅町=大正天皇御大典記念として大正2年に菅原神社氏地の北浜(現・北波止浜町)より800円で購入。この太鼓台がきっかけとなり地車⇒太鼓台へ転換。明治中期以降の作。大工は堺の大工か?彫師は平間勝利、玉井行陽。平成6年、滑%烽セんじり店で大改修。
狭間:正面は「天の岩戸」、右は「日露戦争 南山の戦い」、左は「楠公子別れ櫻井の駅」、後ろは「安宅の関 弁慶義経徴打」。

虹梁:【富士の巻狩り】正面は「頼朝本陣報償の場」、右は「仁田四郎忠常猪退治」、左は「勢子の活躍」、後ろは「狩場風景」。
飾り幕は「藍色に白抜き梅文字」。
百舌鳥梅北町=昭和45年(1970)制作。二代目。「梶内」。彫師は松田正幸。
枡合:正面は「川中島の合戦」、右は「平景清錣引き」、左は「頼朝鶴ケ岡八幡宮参拝」、後ろは「秀吉本陣佐久間の乱入」。
虹梁:【太閤記】、正面は「藤吉郎墨俣一夜城」、右は「日吉丸小六矢矧橋の出会い」、左は「尼ケ崎危難の場」、後ろは「修行僧懸想を見る」。
飾り幕は「紫地に白抜き梅鉢に北文字」。
 初代は昭和3年購入。
百舌鳥陵南町(旧称は百済)=昭和7年(1932)制作。大工は柏木福平。彫師は開 生みん、正藤。平成11年、吉為工務店にて彫物、四本柱以外を新調。
枡合:正面は「新田義貞稲村ヶ崎」、右は「源頼朝鶴ケ岡八幡宮戦勝祈願」、左は「巴御前の勇戦」、後ろは「村上義光 錦の御旗奪還」。
虹梁:【太閤記】正面は「日吉丸小六矢矧橋の出会い」、右は「藤吉郎初陣」、左は「材木切り出しの場」、後ろは「藤吉郎墨俣一夜城」。
飾り幕は「藍色に白抜き 違い鳩」。
 初代は昭和3年に旧市か八尾より購入するが、小さいと青年団より文句でたので買い換えるに至った。


子供太鼓=平成17年(2005)7月17日、新調入魂式。
中百舌鳥町(昭和34年金口町と東之町が合併して成立)⇒太鼓会館は平成13年4月建造。施工は進和建設工業梶B鉄筋コンクリート3階建て。住所は中百舌鳥町6丁910、924。
 以前の太鼓部屋は自治公民館が所在。住所は中百舌鳥町5丁796。
=平成16年(2004)5/23、新調入魂式。搬入は2/15。
大工は吉為工務店。彫師は狭間、虹梁、力神、烏天狗は岸田恭司。木鼻は山本仲伸。
枡合(挟間):【源氏の英雄】正面は「金沢柵攻略」、右は「為朝 白縫を娶る」、左は「堀川夜討ち」、後ろは「大江山酒盛」。
虹梁:【信長公記】正面は「信長 道三の会見」、右は「桶狭間の戦い」、左は「長篠の合戦」、後ろは「信長相撲興行」。
木鼻:「親子唐獅子と牡丹」。
伊達幕は梶内だんじり店作。【川中島の合戦】「鬼小嶋弥太郎」、「武田信玄」、「上杉謙信」、「原大隅守」。
房は岡本啓助商店(岡本宏一)。
錺金具は京都市の宮村製作所の作。

 昭和46年(1971)創建。しかし1年で土師町へ売却。
 先代は昭和47年制作。梶内だんじり店の作。彫師は松田正幸。

 子供太鼓は詳細不詳。
土師[はぜ]町=平成10年(1998)制作。四代目。「梶内」。彫師は狭間は藤崎秀胤、虹梁は南部寿宣。
枡合:正面は「赤穂義士吉良邸討入り」、右は「刃傷松の廊下」、左は「両国橋引揚げ 服部彦七の温情」、後ろは「兜改め」。

虹梁:
正面は「内蔵助 山科一力茶屋で遊ぶ」、右は「赤穂城明け渡し」、左は「南部坂雪の別れ」、後ろは「田村右京太夫邸にて浅野内匠頭切腹」。
飾り幕は「紺色に白抜き 土師文字」。

 初代は昭和3年、昭和天皇の御大典が執り行われるのと、府道(現・バス道路)開通に合わせ、
開口神社(大寺さん)に奉納されていた東大甲太鼓(現在の瓦町。旧市の大町・甲斐之町の農人町)を約1050円で購入。
昭和24年に同市福田(西中)に売却。平成5年西中が地車に転換につき下取りされ現・同市石津の川向へ。
2代目(先々代は)昭和46年、中百舌鳥町新調。翌年購入。梶内だんじり店の作。彫師は松田正幸。最後は下取り。
3代目は昭和49年(1974)、梶内だんじり店の作。


 子供太鼓は平成27年(2015)制作。梶内だんじり店の作。現・布団太鼓新調に合わせ新調。
昭和49年(1974)、3代目布団太鼓新調に合わせ、梶内だんじり店から寄贈を受ける。昭和52年(1977)まで4年奉納。
二代目は梶内だんじり店新調。
土塔町=平成15年(2003)7/20、新調入魂式。7/11搬入。43年ぶりの復活。「梶内だんじり店」制作。
令和4年(2022)修復入魂式。泥台を欅から花梨に変更。金綱を新調。房を太くする。施工は梶内だんじり店。
水引幕は紀繍乃やで新調。
狭間:【源平合戦】正面は「牛若弁慶五条大橋の出会い」、右は「義経鵯越え」、左は「那須与一扇の的」、後ろは「宇治川の先陣争い」。
虹梁:【囃子唄】「風神雷神」、「竹に虎」、「牡丹に唐獅子」、「石山の秋の月」。

 先代は昭和30年8月に梶内だんじり店新調だったが、昭和36年の第二室戸台風で破損のため廃絶。太鼓庫は現在の公民館の敷地。

復活に先だちリースの太鼓台を出した。
子供太鼓は平成25年(2013)創建。7月21日入魂式。
 【往古は地車】
百舌鳥赤畑町=明治期に制作。大正末期か昭和初期に和泉市富秋に売却。現・大阪市平野区加美北東へ。

百舌鳥本町=布団太鼓に転換されてからもしばらく保存。昭和22年に東大阪市若江東之町に売却。「大佐」の名地車。
大佐の「地車請取帳」には明治15年〜25年の項に「大鳥郡百舌鳥村大字高田村 小西久吉様 高松善七様」と地車売却が分かる。

百舌鳥西之町=明治30年代に同市八田北町(新在家)に売却された。この地車はその後焼却処分。

百舌鳥梅町あったらしい。

百舌鳥梅北町=同村の石田氏が親類の奈良の3台地車所有の豪農より1台わけてもらう。昭和5年に大阪狭山市山本に500円で売却。
その後、高石市6区(高師浜)。平成26年9月11日より東大阪市新家西町。

百舌鳥陵南町=大正4年11/4に奈良県御所市より地車を牛に曳かせて持って帰ってきた。

中百舌鳥町=金口と東村で昭和初期まで3台あったらしい。

土師[はぜ]
=あったらしい。

土塔町=大正13年頃まで曳いていた。近隣の村に売却と伝わる。
宮本町57 華表神社 10/4、5 布団太鼓1台 奥本太鼓会
10/1土日 手作り山車 長尾、船堂
奥本太鼓会=祭礼日順守している。16時〜20時まで。布団太鼓は平成3年に「太鼓正」より購入。
 先代は昭和25、6年頃まで担がれ国鉄金岡駅(現・JR堺市駅)まで練った。
 地車は百済(現・百舌鳥陵南町)より借りたことがある。 
長尾子供会=祭礼日は10/1日曜。“長尾こどもみこし祭り”として町会も応援。布団太鼓の神輿を出す。
昭和40年代後半より樽神輿から始まる。祝詞は宮司さんが来られる。
 しかし往古は大豆塚(まめずか)として地車が大正末期まであった。また戦後1回だけ旧市より布団太鼓を借りたことがあるらしい。
 大佐の「地車請取帳」には大正8〜9年の項に「泉北郡五ヶ庄村大字大豆塚 山口恒三様」とあり大佐が地車売却と思われる。

船堂=祭礼日は10/5までの日曜で所曳き。平成14年(2002)9/24新調入魂式。一つ屋根の町内地車(船堂子供太鼓と称す)を曳く。大阪刑務所の作。
 初代は昭和29年に手作り太鼓作るが5年ほどで傷む。
 2代目は村の大工の作で、昭和58年10月に25年ぶりに(かつぎ)太鼓として25年ぶりに復活。
北花田=明治36年生まれの長老によると、昭和3,4年頃に(御大典のためか?)南わけより購入するが、1度曳いただけですぐに売却した.。

新堀=昭和初期まで地車が曳かれていた。
野尻町441 金峯神社 10/連休土日 地車廃絶
地車は大正末期かそれ以前に廃絶。地車小屋は神社横の旧・野尻公民館の地にあったと伝わる。
大佐の「地車請取帳」の明治15年9月の項に、
野尻村 地車壱本 但シ ねじ金 又 二重虹梁 代 三百九十五円也 明治十五年午九月」とある。
南花田町545 八坂神社 10/連休土日 神輿休止
町内地車 南花田町
子供布団太鼓休止 南花田東町
神輿=八坂神社は明治41年(1909)4月23日、金岡神社に合祀。昭和22年復社。
そのため一時期神輿で金岡神社に宮入り。
南花田町⇒地車小屋は神社境内。以前は公民館。
=昭和56年(1981)に「太鼓正」より購入。
 往古は昭和以前に地車があったと言われる。


南花田東町
=平成3年手作りの布団太鼓制作。その後休止。
令和5年(2023)から南花田町と合同で地車を曳いている。
蔵前町1608 須牟地曽根神社 10/1土日 町内地車1台 昭和54年10月に太鼓正より購入。
戦後は子供布団太鼓が登場したが27、28年頃に中止。
地車は大正10年頃に藤井寺市
小山?に売却。また空白時に八尾市太田より借りてきたこともあると言う。
金岡2866 金岡神社 10/連休土日 子供布団太鼓 最近は出ていない
地車廃絶 明治16年の「未年の大旱魃」で売却
8/14、15 大太鼓11基 “盆踊り”
 【子供布団太鼓】
最近は出していないらしい。

連合町会=昭和55年8/8購入。
西御坊町昭和51年9月購入。
堂之辻町昭和53年8月購入。
 【地車廃絶】
明治16年の「未年の大旱魃」で売却と云われる。
馬場町=大正初期まで馬場先に地車小屋が残っていた。

大道町=明治16年売却。

御坊町=東・西両町合同。


御方町=大佐の「地車請取帳」には明治9年「金田村 御方町 地車作事(修復)」とある。内容は金物取替。い奈ほ 四本、持送り6枚の取替で代金は45円である。

中之町=大佐の「地車請取帳」には明治10年「金田村中之町 地車作事(修復)」とある。内容は「阿らい支候 取替物 柱巻 二本 同人形 二ッ 高彫 三方 同 出人形 七ッ 三枚板 前 高彫 三枚 二 角障子 二枚 きり 一ッ 桝合 三枚 此外二 すかし金物  金物みがき直し支候」。代金は55円である。
 【盆踊り】
 8月14日の17:00から、11町が台に太鼓を乗せ、それを担いで金岡神社に宮入する。20:30頃までに宮入りが済み境内に11台揃った後、盆踊りが始まる。
  8月15日は昨日の逆順で17:30から宮入りする。

盆踊りの太鼓を担いで宮入りさせる様になったのは、大正期に入ってからで、大道町が最初と言われている。

芝之内町、堂の辻町=詳細不祥。

東御坊町
=彫師は木彫 山本。

井之尻町
=詳細不祥。

二軒茶屋町
=2015年、彫物付ける。彫師は木彫 片山。

中之町=2014年、木枠の彫物付ける。彫師は木彫り 山本。「力神」。

大道町=台は平成22年(2010)制作。板谷工務店の作。新調を機会に彫物追加。「牡丹に唐獅子、竹に虎」。彫師は木下彫刻工芸。

馬場町、西之辻町、西御坊町=詳細不祥。
長曽根町3014 長曽根神社 10/1土日 子供布団太鼓 祭礼時に境内に展示
東西の2台あったが、大正7年の米騒動の時に布団太鼓を担いで米屋に押し入ったことから売却になった。
菩提町 熊野神社 地車廃絶 戦前には神社に地車小屋が残っていた
中村町1109 八坂神社 10/連休土日 神輿 会館に飾付け
町内地車1台 子供会
布団太鼓 青年団
 ■10/1日曜
試験曳き
 ■土曜(宵宮)
だんじり(子供中心に町内曳行)
(7:00〜)例祭
(8:00〜)餅まき
(8:30〜12:00)地車の町内曳行
 ■日曜(本宮)布団太鼓
(8:00〜11:00)子供乗せて町内廻り
(13:00〜)八坂神社(中村町)へ
(14:00〜)野遠町と中村町会館前合流→2台揃って八坂神社(中村町)へ→2台揃って八坂神社(野遠町)
(18:00〜)八坂神社(中村町)に帰着。餅投げ
町内地車=平成2年に「梶内」より購入。土曜に子供会が曳いている。
往古は地車があったが、大正末期〜昭和初期に伯太の業者に売却。
戦前は馬力に飾り物をした地車を曳いた。昭和55年に京都より神輿購入が祭り復活の始まり。
布団太鼓=青年団の布団太鼓。平成15年(2003)制作。欄間は平成19年(2007)追加。
野遠町441 八坂神社 10/連休土日 神輿
町内地車、布団太鼓
町内地車=昭和57年太鼓正の作。

布団太鼓=令和4年1月16日、購入入魂式。2代目。平成6年、新在家濱新調。「梶内だんじり店の作。
枡合:正面は「住吉大社反り橋と高燈篭」、右は「虎退治」、左は「大蛇退治」、後ろは「?」。
 先代は町内地車の後で作られたので昭和末期の作と思われる。当初は土台のみ。平成に入ってから布団、房を付ける。
野遠東町=野遠地内にある新興町会。宮入りせず。神輿をトラックに乗せ町内を廻る。