大 阪 府

    ≪大阪天満宮≫

      『近来年代記』には弘化2年(1845)6月の記録に地車25番。翌3年は地車15番出たと記されている。
     また安永9年(1780)には本番地車71台、追附地車13台の記録がある。
     これは氏地の町々や市場などの仲間それに近隣などからも参加し籤に参加しない宿無し地車も含めている。

 【講社組織】 大阪天満宮講社連合会に加盟 

地車講=令和4年新調予定。大工は大下工務店。彫師は木下彫刻工芸、辰美工芸株式会社。原木祭は令和2年3月26(木)天満市場で実施。
嘉永5年(1852)制作。三ッ屋根地車。元・青物市場の地車で明治29年天神祭宵宮に天満宮に奉納。現在、天神祭で巡幸される唯一の地車。天満市場仲買連合会が母体。昭和63年に神社側より曳行復活の話が持ちかけられましたが、長年曵行していなかったため、修理の必要があるので平成元年と翌年の宵宮に「試し曳き」を行った後、大修理をして、平成3年7/25の陸渡御に曳行され復活した。
令和3年
(2021)7月26日(月)曳納め。
その後上屋根を取り外し、採寸のため大下工務店に搬出。
 天保3年(1832)6月19日(当時の祭礼は6月25日。そこで試験曳きと思われる)に天満青物市場の地車が天神橋を手で担いで渡る際に大きく東に傾き、橋梁と共に崩落したという記録がある。
   
   
太鼓中=催太鼓とも呼ばれる大きい太鼓を出して行列に参加。俗に言う枕太鼓である。もともと旧天満市場の人たちの講だが、市場の移転、新設で東部、中央、木津、天満の4つの卸売市場の若い衆が参加している。起源は不詳。享保9年(1724)の「寺井家日記」に「神輿太鼓・ねり物、宮入」とあるのが最古の記録で、この神輿太鼓と思われる。また「催太鼓」は、豊臣秀吉から大阪城の陣太鼓を拝領したものと云われている。太鼓を叩く願人は36人で6組に分け6交代で叩く。

御鳳輩講=菅原町・樋之上町氏子有志が中心。明治9年(1876)1月に菅原町と樋上町の市之側(天神橋北詰から安治川北辺まで東西に貫通する道路)の者が1500円を拠出して鳳輦を新調し設立。
 初代は素木。2代目は大正9年制作。制作者は京都松下装束店(三代目松下季清)。木地師は田中竹斎。塗師は松屋七郎右衛門。錺職は尾張勘。お迎え人形は江戸末期の作。元々は市之側町のものか?。
 渡御列は、平安時代の天皇行幸の形式を模し、警護役の随身2名に先導された御鳳輦の前方左右には、紫翳がかざされ、後方には菅翳(すげかざし)を捧持した従者がつく。蝋色塗りの神輿は、屋根の頂きに鳳凰を飾り、屋形から紫の布を張り巡らし、輿丁18名が古式ゆかしい衣装で粛々と曳いてゆく。

鳳講菅南連合八町会(此花町・市之町・天神筋町・天神橋一丁目・地下町・鳴尾町・樽屋町・菅原町)で神輿を出す。
戦前、鳳神輿は旧天満橋1丁目・地下町で守られていたが、戦後、住民が散りぢりになり菅南連合八町会で奉仕することとなる。その後、町名町域が変わり現在では、天満西町(鳴尾町・地下町・樽屋町)と天神橋1丁目(鳴尾町の一部から東へ此花町まで)と菅原町の3つの町で構成されている。神輿の上には、皇帝の誕生の瑞兆として出現するといわれる鳳凰(雄が鳳で雌が凰)の鳳がついていて、そのためにこの名がある。鳳を納める箱書には「弘化二歳(1845)乙巳四月吉日」と記されているが、神輿は天保11年(1840)に江之子島車之町から奉納されたもの。明治9年に御鳳輦が作られるまでは、神輿が御神霊の乗り物で、陸・船渡御の中心であった。

丑日講=宮本の大工町が御太刀を捧持するほか、高張提灯4本、金棒2本を持ち、お供約10人が行列に参加
寛延4年(1751)27に、「五郎兵衛」を会頭として結成。かつては天満宮の裏門筋で営業していた店舗の有志組織であったが、昭和53年から大工町丑日講として町会が運営することとなった。
 当初は、菅原道真公の御所有と伝承される御太刀を奉持したが、現在は伊勢神宮から拝領した古太刀を使用している。


御羽車講12人の白丁が御羽車を曳き、菅笠をかぶった講員約50人が供奉する。
 昭和24年に
天神橋筋2〜6丁目商店街と振興町会が、滋賀県坂本の日吉(ひえ)神社から「御羽車」を譲り受け、大阪天満宮へと奉納した。そして大阪天満宮から「御羽車」を譲り受けて、当講が設立。天神橋2丁目から6丁目の振興町会と商店街の、六ブロックで形成されており、講元、各町副講元6名、各町役員数名宛で運営。毎年723正午、天満宮御本殿にて御神霊を御羽車にお遷しする神事を行ない、表門から商店街に入り巡行。天神橋筋6丁目の斎場で駐輦祭(ちゅうれんさい)を行ない、天神祭の無事斎行と商店街の繁栄を祈願した後、3時天満宮着、還御祭を斎行する。

神鉾講(正式名は西天満連合神鉾講)=西天満連合町会には、(樋之上町・若松町・真砂町・絹笠町・神明町・老松町一丁目・老松町二丁目・老松町三丁目・西堀川町・源蔵町・伊勢町・富田町・木幡町・梅ヶ枝南町・梅ヶ枝北町)の15ヶ町があり一時中断されていた由緒ある「鉾流神事」の復興が叫ばれた昭和5年に結成され、鉾流神事・渡御の奉仕をすることになった。天神祭の始まりを告げる鉾流神事の主役といわれる神童は西天満小学校の6年生より選ばれ、7月初めより家に祭壇を設け朝夕身を清めて宵祭、本祭に奉仕する習わしである。また、陸渡御に参列する鉾は、鉾流神事で流される鉾を16倍にしたもので、木製の台車に乗せ地元の若人16名によって担がれている。鉾は武器であると同時に神の依代〜そこへ神様がおりてくるものであり、悪疫を払う神器とされる。神鉾の前で渡御の道案内をする猿田彦も神鉾講が奉仕するものである。

敬神婦人会・采女講=地区在住の敬神の念篤い婦人会員で講社を結成。采女講は戦前、八乙女(やおとめ)と呼ばれ、堀江・新町・北新地から8名ずつ選ばれた女性が、それぞれ室町時代・鎌倉時代・奈良時代というように、時代ごとの衣装をまとって趣向を凝らしていたという。
 宵宮では、鉾流神事の行列のお供や自動車渡御などに奉仕している。陸渡御には、一般から選ばれた10名の采女と、約40名の男女の稚児とともに渡御列に参加する。

福梅講=此花町の氏子有志。昭和24年発足。当初は今の造幣局のところにあった川崎東照宮が廃社になり、そこの葱華輦(そうかれん)が天満宮で預かることになり、この葱華輦を翌26年より担いだ。しかし重心が高くてこけやすいし、東照宮の物をいう思いより、昭和32年より“牛曳童子”となる。
 
これは男女2名の子供が牛を曳いて渡御するものである。

玉神輿講(旧・玉神輿奉賛委員会)=平成12年改称。玉の飾り(宝珠)が付いた神輿を出す。この神輿は天保11年(1840)に江之子島東之町の町人中が船大工に発注して造らせたもので、制作者は奉納した七人の船大工である。戦前は旧江之子島町で御守りしていたが、昭和24年から大阪市中央卸売市場で御守りするようになった。これは江之子島の船大工の子孫が当時中央卸売市場の付属商組合長であったことが縁で現在も大阪市中央卸売市場本場でお守りしている。昭和34、5年頃に本場全体で「玉神輿奉賛委員会」を組織し、市場内の12団体と5つの青年会が責任をもって運営している。奉仕する5つの青年会の鉢巻きは、5色(赤は青果物、青は水産物、ピンクは乾物、黄は漬物、白は綜合直売)に色分け、総重量2トン(480貫)の神輿を約150人の舁き手によって渡御を盛り上げている。平成6年から団扇を奉じ、女性も参加するようになった。

天神講=子供たちの獅子舞、傘踊り、四つ竹、梵天など400人を越す大集団。享保9年(1724)に寺子屋に端を発し、学問の神様である菅原道真公を信奉した人々が作ったと云われている。一度廃れたが明治23年に古道具商が中心になり復活とされる。しかしながら明治21年の印刷物に名があることから、23年より獅子舞をするようになったからと思われる。
 踊りが結びつくのは明治23年、古美術商仲間を中心に伊勢太神楽の神楽師を招き、講の子供達に踊りを教えて祭に参加したことによる。獅子舞は宵宮の日中、氏地をめぐる行事「神典(しんでん)」を行なうほか、宮出しと宮入りの際、拝殿の前でダイナミックな舞を奉納し、巡行では傘をかざして華やかに踊る傘踊や、両手で竹片を打ち鳴らす四つ竹に混じって舞う。

大阪書林御文庫講出版業を営む業者.。講の始まりは。享保15年(1730)、大阪の版元(出版元)の同業組合「大阪書林」の有志たちが、出版業界の守護神とでもいうべき天満宮に、「天満宮御文庫講」を結成。その後、住吉大社の御文庫講と合併して「大阪書林御文庫講」と名称変更。天神祭には万延2年(1861)、書林講という名称で初めて参加。陸渡御には講員20名が揃いの裃(かみしも)を着て、菅原道真公が御旅所でお読みになる本をのせた「文車(ふぐるま)」のお供をする。文車は昭和初期の作。平成9年6月に大修理。
 船渡御には大阪書林御文庫講供奉船を出す。

 

道修町御湯講=毎年1/8に講員が揃って参拝し、献湯神事をする。会員は道修町の製薬業者。天神祭には奉納しない。

御錦蓋講=平成15年(2003)、御錦蓋を110年ぶりに復元新調。制作費は約650万円。
 先代は明治25年7/3収納。7/9奉納により設立。前身は米屋講である。

御神酒講猩々人形を曳いて渡御に参加する。元文2年(1737)に結成された、天満の壺屋町の酒造業者の講「酒屋講」を起原としている。幕末・維新後には一時途絶えたが、明治39年に再結成。かつては、天満の壺屋町の酒造家を中心に結成していたが、明治39年に府下全域、伊丹、灘、伏見などのの酒造業や酒販売業者も参加してもらい、さらには食品メーカー・卸売業者も参加してもらい講が維持されている。

御旗=陸渡御では提灯を先頭に梅鉢と雲が描かれた金銀2本の錦旗を奉じて、約16人の講員が行列に参加。
船渡御では、2隻の船に講員と関係者が乗り込みお供する。
明治20年頃に天満や、堂島北新地の料理屋を中心に、紅白錦旗、盾鉾を奉じる講として設立されたものと伝えられている。
祭りには大正9年より参加。
戦後は、大阪料理組合連合会の協力を得て、大阪府下の料理組合の講社となる。

松風講=和琴を奉じて渡御に参加。帽子業者。講の起源は不明だが、明治44年の記録があるので、その頃にはあったといえる。

吉備講=旗と幟を持って参加。また船渡御にも供奉船を出す。大阪刺繍商工業協同組合。和裁・刺繍業者。創始年代は不明だが元文元年(1736)6/9「吉備講寄合」の記事が初見だが、それ以前よりあったと思われる。

花傘講=風流花傘を奉じる。
前身の実信講は天神祭実行委員長であり、元・府会議員の前田治一郎氏が理事長をしていた実業信用組合が、昭和29年創立。現在は組合の理事長の子息の講元が地域有志で参加している。


篝講末澤産業(株)による講。天神祭の御神燈、大川に砂船を2隻定着させLPガスを燃料として「大篝」を燃やし、舞台船や川面を照明し篝船とする。篝講創立は寛政7年(1795)。古くは薪で篝が焚かれ、代々薪炭問屋が篝講を構成していたが、薪炭からLPガスに転業。宮司からの依頼でLPガスバーナーによる「篝船」を奉納、現在に至っている。さらに昭和62年には「御鳳輦船」にも篝を復活させ、翌63年には南天満公園側、松坂屋側、毛馬公園側にLPガスによる、まるで薪が燃えているような炎を考案した衛士篝(えじかがり)を奉納する。

北信友の講=昭和30年大阪北信用組合の組合員の親睦を目的とする「北信用友の会」を母体として結成された講。
御菅蓋の奉納で陸渡御に参加する。また当初は船渡御にも供奉していたが、昭和39年より監督官庁の行政指導で祭による臨時休業が認められなくなり、母体である北信用組合職員一同の奉仕が出来なくなり、さらに昭和63年4月北信用友の講の母体である大阪北信用組合が現在の大正銀行と対等合併したため、北信用友の講を「北信友の講」と改めて存続させ現在は陸渡御のみ供奉している。

榊講=昭和23年春設立。盆踊り(8/25〜27。雨天中止)と天神祭への御奉仕がメイン。天神祭では天神橋商店街や御旅所や境内で踊りを奉納。踊りの奉仕だけにほとんどが女性の会員である。

どんどこ船=発祥は江戸時代からであるが、慶応元年(一八六五)から明治十五年(一八八三)までの船渡御の中断。その後再興されたのは、太平洋戦争までの「どんどこ船」で、今木青年会・難波島町神祇会・三軒家下之町・木津川三丁目の、主に木津川口沿岸の町々の繰り出した伝馬船「どんどこ船」四艘だったが、。昭和20年の戦災により木津川沿岸の町々が廃墟となったため、船渡御が復活した昭和二十四(一九四九)年の天神祭に「どんどこ船」を奉仕することを奉仕することは難しくなったが講元の夏凪氏の尽力で木材関係者に協力を求め、戦前の散り散りになっていた四ヵ町から漕ぎ手に多数参加していただき、祭礼の盛り上げに成功した。しかし大正区小林町の木材業者も含め住之江区平林の集団移転のため、現在は講元の夏凪さんの努力で持っている。

御船講=船渡御復活(昭和二十四年)当初は、富島海運がその任に当たり、やがて岸本海運に移行し現在は潟Tンオーシャンが担っている

供船講昭和58年設立。砂船組合。前身は昭和28年頃より奉仕の“砂船講”。講元の松島さんが昭和58年5月、逝去され、天神祭が迫っていたので、大阪天満宮の事務局が、砂船組合に船渡御に協力してほしいとの申し入れがあったのが始まりである。講名のとおり、鳳講・吉備講・丑日講・御羽車講・篝講の五講に船を供し、他に通船2隻、自らも2隻の船で船渡御に参加している。

大阪天満ライオンズクラブ奉仕講大阪天満ライオンズクラブでは、国内外の学生を派遣し合う青少年交換事業を行なっているが、同クラブのメンバーでもあった大阪天満宮の先代宮司が、日本の文化をより深く理解してもらうことを目的に、同事業によって来日した学生を天神祭に招待したいと提案したことが、当講発足のきっかけとなった。昭和47年からライオンズクラブとして供奉船を出していたが、昭和55年に講社以外の供奉船は許可されなくなったため、当奉仕講を結成し、以後海外の学生を招待して好評を博している。先代宮司の発案により、船の舳先には、御迎人形「羽柴(豊臣)秀吉」のレプリカを飾って、往時の御迎人形船の姿を再現している。

人形船講=当初は市内の造花組合青年部による「近代フラワー研究会」を母体で昭和56年には船渡御の参加を許される。その後都島のお祭り好きな有志が合流した。62年には「近代フラワー研究会」のメンバーが撤退し都島グループにより講の活動をするようになった。
平成4年に正式に「講社連合会」に加盟した。
菅使講=旗と提灯を持って参加。食肉業界。昭和22年創立。
花火講=花火を奉仕する業者の講。
北浜樺c網代車を牛に曳かせて参加。大阪証券取引所の株仲買人が参加。
 【戦争で中絶】
履徳会=履物商。
神衣講
=呉服。  
曳船講
  
神木講
=植木商。
盤水講
  
粟おこし講
=紅梅山車が被災。
 【江戸期の講社】
音楽講=寛文4年(1664)設立。
米屋中=享保15年(1730)設立。今の米穀商御錦蓋講につながる。
御神酒講
=元文2年(1737)設立。
提灯講
=元文4年(1739)設立。  
菅神講
=寛政7年(1795)設立。
鯛船講
=文化2年(1805)復興。  
御船講
=文政5年(1822)設立。  
二百日講
=文政5年(1822)設立。
祭礼講
=天保8年(1837)設立。  
献薪講=嘉永元年(1848)設立。  
神木講=嘉永2年(1849)設立。
久栄講
=万延二年(1860)設立。 
植木屋中=文化10年に地車1番で宮入り。
上荷茶船仲間
=天神丸保有。下記記載。
この他以下の後者がある。

南川剣先、井路川剣先、古銅古道具仲間、屋根職仲間、縄荒物仲間、新宅茶屋中、絞油屋仲間、裏門古手屋中、銅細工中、畳屋中、乾物屋古組中、東青物中、天満郷質屋中、昆布屋中、堂島米仲間、麩屋中、生魚塩魚中、手伝い中、北新地西、東芸者中、形附紺屋中、多葉粉仲買、
薪仲買中、天満与力同心中 など
 【天神丸】  
 天満宮が所蔵している船だんじり。旧・上荷茶船仲間所有「天神丸」は元禄年間(1688〜1774)から堀川浜の上荷茶船
仲間が所有していた御座船。
上荷茶船仲間とは江戸時代に大坂市中の河川において活躍した荷物運搬船の同業者仲間である。
この天神丸は、寛政4年(1792)の天満の大火によって半焼するが、後世の再建のために彫刻や残品を保管していたが、なかなか機会に恵まれなかった。
さて天満宮遷宮950年の前年の嘉永4年(1851)に茶船総代の平野屋五兵衛が主となり、寄付金を集め、細工人・倉橋平右衛門が修復に当たった。
嘉永5年(1852)には、この天神丸を市中で曳きまわし、その保護のため大坂奉行所の与力、同心が加勢したと伝えられる。

この天神丸は明治35年に天満宮に奉納された。そして大正15年に組み立てられたのを最後に天神祭に出ることは無くなった。
 さて天満宮の御好意により、博物館寄託資料として修復、保管とするために、平成13年4/26に75年ぶりに“住まいのミュージアム”展示公開するために組立られた。

そして730まで展示の後、再び修復して平成14年4/29に天満宮⇒“住まいのミュージアム”まで76年ぶりに曳行された。
 天神祭の地車の記述はおおかたこうであろう「かつての氏地各町では、地車(だんじり)を曳いて神様の渡御を悦びましたが、安永九年(1780年)には八十四輌もの地車が宮入りした記録があります。現在では、一輌だけ残った三ツ屋根地車が渡御列に御奉仕しています。」こう書かれていて、大坂には多くの地車があったんだと思うであろう。
 しかしながらあえて辛口の批評をしてみたいと思います。
天神祭には多くの地車が出た。しかしながら自町の地車は少なかった。これには大きく2つの理由がある。
@大阪には火事が多かったのでわざわざ高価な地車を保有しなった。
A大坂町民は合理的。裕福な商人のいる町、講社以外以外は地車を保有しようなどと思わなかった。

まず@火事については、江戸期には三度の大火があった。
享保9年(1724)の妙智焼け、天保8年(1837)の大塩焼け、文久3年(1863)の大火である。
 明治になっても多かった。「大阪のお地蔵さん」の45ページには
明治8年の座摩焼けは2,000余戸。同11年の新町焼けは650戸。同13年の島の内焼けは、3,300余戸。同14年の堀江焼けは600余戸。同17年の新町焼けは2,100戸と続き、明治42年の北区の大火(天満焼け)1万1365戸までも焼失した。
そこで翌43年に「大阪消防署規定」が生まれようやく消防が近代化されるが、これでは自分らの地車はなかなか持てない。

A合理的。実際当時も相当高価で、自町で地車が持てない町は天王寺椎寺町にあった数軒の地車賃貸業者から借りたり、郊外の他町から借りてきた。だから年によって台数が増減し、大火で業者も保有している地車も焼けたのであろうか。明治維新以降は電線架設もあり復活はなかった。これを裏付ける記述がある。喜田川 守貞著の「近世風俗志(守貞謾稿)」がそれである。
 巻二十七(夏冬)の六月七日 
 京都祗園祭祀で「大坂の段尻および神輿・太鼓、美なるありといへども京・江の精美に及ばず。その謂れは、当地は富町よりこれを出すなく、また官制なく、ただ中以下市民、臨時の物多し。これ故に祭祀ははなはだ麁(そ)なり。」
 大坂諸神社祭礼
 「また天神その他諸神とともに渡御には、諸所より、だんじりと云う車を出す。 (中略) 惣槻(そうけやき)造り、彫造等あれども、美といふに及ばず。道修町および堂島等の楽車(だんじり)中にも、精製と云ふに近きのみ。あるひは道具屋に所蔵するものありて、神祭中、損料と号して費を出して借用する等は、特に粗製なり。(中略)
 大坂の祭礼、京・江戸のごとく盛んに美ならざることは、両地のごとく、某町より何を出し、某地より何を勤むと云える定制更にこれなく、ただ臨時のごとく町内若輩より云ひ出し、もし年寄ら諾せざれば止み、承引にはこれを出すのみ。この故に楽車等出す、堂島・ざこば・うつぼ・市の側などの盛り場のみ。その他には道修町等美に近く、これ中富の商人ある故なり。その他は専ら船舟の生業、あるいは車夫、馬士(まご)らの党よりこれを出すをもって、美なること能はず。北辺富家多き町は元より、さもなきこじん多き所より、楽車・御輿・太鼓など出すこと、更にこれなし。」
天満宮は享保9年(1724)3月21日の妙知焼きで全焼して、それ以前の史料は無い。その後の火災(安政6年、寛政4年<惣嫁火事>、天保8年<大塩焼>では史料が焼け残った。そのため享保9年以降の地車宮入り順番を記した帳面が6冊残っている。また大阪大学所蔵の天満宮の宮司職であった滋岡家の「滋岡家文書」にも記録帳があるらしい。しかしながら一般には公開されていない。
唯一「大阪春秋」55号に大阪天満宮文化研究所の近江晴子氏の発表文献「天神祭の地車 part 1」があるくらいでこれを元に「往古の地車」と「年代別地車宮入り台数」を記してみた。
【往古の地車】
天神祭にはかつて数多くの地車が宮入りしたが、この宮入りした町、講を1番、2番に絞って書き込んだ。
地車を出しているのは氏地町々以外に職人集団、商人集団、市場などの同業者集団があり盛大を極めた。
 ≪氏地≫
宮之前町(天神橋筋1〜4丁目)=享保17年(1732)は地車2番。万延元年(1860)は地車1番。
 また享保19年(1734)、元文元年(1736)、延享元年(1744)、寛延2年(1749)、宝暦元年(1751)、宝暦4年(1754)、明和3年(1766)、嘉永3年(1850)、万延元年(1860)、安永元 年(1772)も記録あり。

地下町=享保16年(1731)は地車1番。天保7年(1836)は地車1番。
 また元文元年(1736)、元文4年(1739)、寛保2年(1742)、延享元年(1744)、寛延2年(1749)、宝暦12年(1763)、明和4年(1767)、安永2年(1773)、安永9 年(1780)、寛政2年(1790)も記録あり。
長柄町(天満橋北詰から北へ3丁目の町)=享保20年(1736)は地車1番。
臼屋町(大川に架かる天満橋北詰めから東へ3筋目めの南北の町)=延享2年(1745)は地車1番。
戎島町(西区川口1丁目・本田1丁目)=元文2年((1737)は地車1番。
堂島浜
安政2年(1855)は地車1番。明治6年にも出す。
 また文化2年(1805)、文化12年(1815)も記録あり。
堂島船大工町=享保18年(1734)は地車2番。寛政6年(1794)年は地車2番。
  宝暦2年(1752)、寛政3年(1791)も記録あり。
堂島上浜若=宝暦元年(1751)は地車2番。、
堂島新地北町=
享保19年(1734)は地車2番。文政5年(1822)は地車2番。
堂島五番組番匠中
=明和6年(1769)は地車1番。
堂島一二若中=明和7年(1770)は地車1番。
堂島中三丁目
=元文3年(1738)は地車1番。安政6年(1859)は地車1番。
 また宝暦2年(1752)、明和4年(1767)も記録あり。
堂島北町辻合=明治15年は地車1番。
信保町(天満橋北詰から西へ5筋目浜から北へ入る町)=安永3年(1774)は地車1番。天保3年(1832)は地車1番。
福島野中町=天保4年(1833)は地車1番。
上福島さかろ(上福島は福島区福島1〜8丁目・玉川1丁目・吉野1丁目、北区堂島3丁目にあたる)=明治6年は地車2番。明治24年の北の大火で焼失したと云われている。
上福島中之町=天明2年(1782)は地車1番。
上福島明島町天明5年(1785)は地車1番。
上福島天道中天明8年(1788)は地車1番。
福島砂町=安永7年(1778)は地車2番。享和元年(1801)は地車1番。
 また天明2年(1782)、寛政12年(1800)も記録あり。明治24年の北の大火で焼失したと云われている。

福島宮之前町=安永3年(1774)は地車2番。
中福島若=享和3年(1803)は地車1番。文政元年(1818)は地車2番。
下福島若中=宝暦9年(1759)は地車1番。文化元年(1804)は地車2番。
下福島中之町=享和2年(1802)は地車2番。
堀川表門筋東西南
=天明6年(1786)は地車1番。
堀川東ふけ筋若中=
元文4年(1739)に地車2番。
堀川西番匠中=天保8年(1837)は地車2番。
堀川東番匠中=文化5年(1808)は地車2番。
堀川東四番組番匠中=寛政2年(1790)は地車2番。
堀川堤若中=天保13年(1842)は唯一の地車。
堀川かりこ中=嘉永5年(1852)は地車1番。
曽根崎う中=宝暦5年(17559は地車1番。
曽根崎若中=宝暦13年(1764)は地車2番。
曽根崎二
丁目=文政元年(1818)は地車1番。嘉永3年(1850)は地車2番。
曽根崎三丁目
天明8年(1788)は地車1番。

曽根崎新地一丁目
=元文5年(1740)は地車1番。
曽根崎新地二丁目文化2年(1805)は地車2番。嘉永3年(1850)は地車2番。
曽根崎新地三丁目=寛政5年(1793)は地車1番。
曽根崎樋の上若=明和6年(1769)は地車2番。
空心町南=寛政6年(1794)は地車1番。
津国町=天明6年(1786)は地車1番。文化元年(1804)は地車1番。
緑橋筋若中=明和7年(1770)地車2番。
一丁目=延享4年(1747)は地車1番。弘化3年(1845)は地車2番。
二丁目
=文政7年(1824)は地車2番。
三丁目明和3年(1766)は地車2番。文化5年(1808)は地車1番。
 また安永4年(1775)も記録あり。
四丁目=文化13年(1816)は地車2番。弘化2年(1845)は地車2番。
五丁目=嘉永6年(1853)は地車2番。
六丁目=寛延元年(1748)は地車1番。安政2年(1855)は地車2番。
八丁目嘉永2年(1849)は地車2番。文久3年(1863)は地車1番。
九丁目=享保18年(1734)は地車1番。文政3年(1820)は地車1番。
 また元文3年(1738)、明和8年(1771)も記録あり。
十丁目
=文久2年(1862)は地車2番。明和8年(1771)は地車1番。
十一丁目=宝暦8年(1758)は地車1番。安政3年(1856)は地車1番。
 また天明5年(1785)、天保10年(1839)も記録あり。

北富田町(天満堀川橋西詰から2筋目を北へ入る町)=安永元年(1772)は地車2番。
西樽屋町(天満堀川樽屋橋西詰の町。現・老松町)=安永4年(1775)は地車2番。
木津川町(西区千代崎1丁目)=寛保3年(1743)は地車1番。
安治川上一丁目安永9年(1780)は地車2番。安政3年(1856)は地車2番。
安治川上一丁目新堀
=弘化3年(1846)は地車1番。
上安治川二丁目=文化7年(1810)は地車1番。
難波橋西浜若中=宝暦13年(1764)は地車1番。
南森町=明和元年(1764)は地車1番。
池田町(天神橋筋北の出口にあたる町)万延元年(1860)は地車2番。安政元年(1854)は地車2番。
  また嘉永4年(1851)の記録もあり。
難波橋北詰水上ヶ中=明和2年(1765)は地車1番。
天満馬持中=寛保3年(1743)は地車2番。
天満橋西樽屋中
=享保16年(1731)は地車2番。寛延3年(1750)は地車1番。
天満橋北詰東西若中=宝暦3年(1753)は地車2番。
天満橋北詰若中=明治4年は地車1番。
寺町橋西若中=享保20年(1735)は地車2番。
寺町橋西詰若中=延享2年(1745)は地車2番。
御旅所戎島町=元文2年(1737)に地車1番。
壺屋町(天神裏門前から東へ3筋目北への町)=元文2年(1737)に地車2番。
北木幡町=寛保元年(1741)に地車2番。
有馬町(堀川橋東詰から1筋東を北へ入る町)=寛保2年(1742)に地車2番。安政元年(1854)は地車1番。
蜆橋上浜中=延享3年(1746)に地車2番。
高島町(天神裏門前通りを東へ2・3筋目南へ入る町)=延享4年(1747)地車2番。
東耕作中=寛延元年(1748)は地車2番。
今井町(天満橋北詰2筋北の町。正覚寺がある)=寛延3年(1750)は地車2番。寛政10年(1798)は地車2番。
池田町(天神橋北の出口に当たる町)=寛政元年(1789)は地車2番。安政元年(1854)は地車2番。
 他に嘉永4年(1851)の記録あり。
富田町=宝暦9年(1759)は地車2番。
北富田町=享和元年(1801)は地車2番。
南富田町
=寛政9年(1797)は地車2番。
竜田町(天満橋北詰から西へ7筋目の町。天満青物市場あり)=寛政5年(1793)は地車2番。
宮屋敷=宝暦11年(1761)は地車1番。
社内植木町=宝暦11年(1761)は地車2番。
田蓑橋=宝暦5年(1755)は地車は2番。
梅田橋北詰=宝暦6年(1756)は地車2番。
天神橋筋表門北若
=天明元年(1781)は地車2番。

表門橋東西南辻合=文化4年(1807)は地車は当地区のみ奉納。
天神小橋から樽屋橋まで=天保7年(1836)は地車2番。
西寺町辻合=寛政12年(1800)は地車2番。
綿屋町文政6年(1823)は地車1番。
新地1丁目=嘉永4年(1851)は地車2番。
空心町天保12年(1840)は地車2番。元治元年(1864)は地車1番。
伊勢町
(難波橋を北へ行く町)=文久3年(1863)は地車2番。安政5年(1858)は地車2番。

さかろ安政6年(1859)は地車2番。
北野口西川崎=文政7年(1824)は地車1番。
椋橋町=文政11年(1828)は地車1番。
東寺町前=天保6年(1835)は地車1番。
越後町(天満堀川橋東詰浜側)=文政6年(1823)は地車2番。天保7年(1836)は地車1番。
永来町(曽根崎の一部)=天保11年(1840)は地車1番。
三番組番匠中=天保12年(1841)は地車1番。
樋之上町嘉永元年(1848)は地車1番。
典薬町(仏照寺がある)=弘化4年(1847)は地車2番。
又次郎町
(天神橋筋沿い、天満宮表門前通りから北への町)=天保14年(1843)は地車1番。嘉永5年(1852)は地車2番。

金屋町=嘉永6年(1853)は地車1番。
市之町=安政4年(1857)は地車1番。
岩井町(もと魚屋町と称した)=文政8年(1825)は地車2番。
魚屋町(天神橋筋1筋西、天満宮裏門前通りから南の町)=天保7年(1836)は地車2番。
大江橋より難波橋まで蔵入中=文久元年(1861)は地車1番。
鈴鹿町(天神橋筋沿い、天満宮裏筋から北へ入る町)=天保2年1831)は地車2番。元治元年(1864)は地車2番。
源蔵町=天保元年(1830)は地車2番。
富島町二丁目天保元年(1830)は地車1番。
菅原町(天神橋北詰浜側を西へ、堀川東側北までの町)=明治5年は地車1番。
龍田町=明治5年は地車2番。
天神筋町=文久2年(1862)は地車1番。
天神橋筋三丁目=明治14年は地車2番。
天神橋筋四丁目=明治14年は地車1番。
北区五丁組=明治15年は地車2番。
天社有志中=明治24年は地車1台のみ。
空心町2丁目=明治25年は地車1台のみで境内飾付け。 
など。
 ≪職人・商人集団≫
社地商人中
=延享3年(1746)に地車1番。
堂島東西細工人中=安永2年(1773)は地車2番。
川西手伝中=安永8年(1779)は地車1番。天明元年(1781)は地車1番。
川東道具屋中=文化3年(1805)は地車1番。
下福島手伝中=安永5年(1776)は地車1番。安永7年(1778)は地車1番。
堀川東手伝中=文化6年(1809)は地車1番。
堀川西手伝中=安永5年(1776)は地車2番。
東油働人中=寛政元年(1789)は地車1番。
おぼこ=元文5年(1740)に地車2番。明治4年は地車2番。
 また明和元年(1764)、安永8年(1779)、寛政3年(1791)、寛政8年(1796)、寛政10年(1798)、文化7年(1810)、嘉永2年(1849)も記録  あり。
青物中、西青物中=寛政7年(1795)は3台しか奉納なかった。西が1番。東が2番。
寺町橋仲仕中=寛政8年(1796)は地車1番。享和3年(1803)は地車2番。
寺町橋働人中=寛政9年(1797)は地車1番。
夫婦町青物中
=寛政11年(1799)は地車1番。
十丁目東樽屋中
=寛延3年(1750)は地車1番。
天満橋西樽屋中=享保16年(1732)に地車2番。
天満馬持中=寛保3年(1743)地車2番。
永来町米仲買=明和2年(1765)は地車2番。
檜皮屋中=文化6年(1809)は地車2番。
かりこ=享和2年(1802)は地車2番。文化3年(1806)は地車2番。
難波橋浜舟働人中=文化9年(1812)は地車2番。
植木屋中=文化10年(1813)は地車1番。文政5年(1822)は地車1番。
荒物屋中=文政9年(1826)は地車2番
乾物屋中
=文政12年(1829)は当地車のみ。
市場子児中=天保8年(1837)は大塩焼きのためか1台のみ。
川東一二番匠中嘉永元年(1848)は地車2番。安政4年(1857)は地車2番。
銅仲間=明治22年は地車1番。
薪屋仲
=明治22年は地車2番。
 【北の大火】
明治42年7月31日未明の4時20分に発生した。北区空心町2丁目のメリヤス工場(玉田方)から出火した火の手は強風にあおられて丸一昼夜燃え続け、ようやく福島方面で鎮火した。
罹災町数51町。焼失戸数11365戸。官公署11、学校8、銀行4、公社10、神社4、寺院16、派出所9、橋21 など。被災地を流れる曾根崎川(
川)、は、大火後、焼失家屋のがれきの捨て場として使われ埋め立てられた。
この火事で焼失したと明らかな地車は逆櫓と砂町の2台であるが、罹災町数51町。焼失戸数11365戸もあるのだから、多くの地車が燃えたと思われる。
 ≪年代別地車宮入り台数≫
年号 西暦 地車番数
享保9年〜20年 1724〜1735 3、0、11、6、48、12、48、42、42、50、14、39、36
元文元年〜5年 1736〜1740 8、47、39、26、36
寛保元年〜3年 1741〜1743 23、32、38
延享元年〜4年 1744〜1747 29、24、21、37
寛延元年〜3年 1748〜1750 36、50、34
宝暦元年〜13年 1751〜1762 35、25、35、49、30、14、30、37、49、43、14、31、21
明和元年〜8年 1763〜1771 37、51、38、21(宿無15番あり)、0、20、52、32
安永元年〜9年 1772〜1780 51、52、59、54、24、0、32、62、71(+13)
天明元年〜8年 1781〜1788 47、25、0、0、55、48、0、6
寛政元年〜12年 1789〜1800 5、50、4、0、4、29、3、2、24、23、30、18
享和元年〜3年 1801〜1803 27、19、22
文化元年〜14年 1804〜1817 26、23、9、1、20、17、12、17、17、10、0、15、4、0
文政元年〜12年 1818〜1829 19、21、4、22、13、16、9、13、13、20、12、1
天保元年〜14年 1830〜1843 12、12、14、18、8、10、9、1、9、5、11、9、1、2
弘化元年〜4年 1844〜1847 19、22、14、7
嘉永元年〜6年 1848〜1853 8、6、5、3、12、9
安政元年〜6年 1854〜1859 6、12、7、7、13、11
万延元年 1860
文久元年〜3年 1861〜1863 2、2、6
元治元年 1864
慶応元年〜3年 1865〜1867 0、0、0
慶応元年から明治3年までの6年間は天神祭りそのものが、途絶える。
明治元年〜29年 1868〜1896 0、0、0、4、2、5、?、0、?、?、?、?、?、6(番外もあり)、?、?、?、?、?、?、9(番外3、臨時1)、?、1(番外1)、1、?、?、?、1
これ以降平成3年の修復までは境内で飾り置きであった。
 ★展示場     
 【大阪くらしの今昔館 住まいのミュージアム
北区天神橋6丁目4−20。рO6−6242−1170。天神丸は当館の寄託資料。