滋賀県

   ≪大津地方≫
住所  神社名 祭礼日 内容 備考

 ≪大津市≫
  平成18年(2006)3/20、大津市+滋賀郡志賀町が合併。
 ■大津地区(旧・滋賀郡)
   ⇒大津町(大津元会所町・大津御蔵町・大津湊町・大津橋本町・大津坂本町・大津新町・大津白玉町・大津鍋屋町・大津南保町・大津上堅田町・大津下堅田町・大津上平蔵町・大津下平蔵町・大津甚七町・大津肥前町・大津中堀町・大津丸屋町・大津柳町・大津太間町・大津玉屋町・大津猟師町・大津伊勢屋町・大津材木町・大津九軒町・大津高見町・大津和泉町・大津了徳町・大津上京町・大津中京町・大津上小唐崎町・大津下小唐崎町・大津井筒町・大津八幡町・大津大工町・大津後在家町・大津蛭子町・大津葭原町・大津鍛冶屋町・大津境川町・大津笹屋町・大津上栄町・大津下栄町・大津上博労町・大津下博労町・大津松屋町・大津葛原町・大津布施屋町・大津金塚町・大津寺町・大津上百石町・大津下百石町・大津四宮町・大津北町・大津西町・大津南町・大津関寺町・大津清水町・大津上関寺町・大津下片原町・大津上片原町・大津大谷町・大津一里町・大津追分町・大津船頭町・大津鍵屋町・大津菱屋町・大津石川町・大津七軒町・大津石橋町・大津上馬場町・大津土橋町・大津下馬場町・大津小川町・大津上北国町・大津中北国町・大津桝屋町・大津蔵橋町・大津西山町・大津川口町・大津中保町・大津水揚町・大津東今颪町・大津西今颪町・大津今堀町・大津下北国町・大津鹿関町・大津上大門町・大津下大門町・大津北保町・大津観音寺町・大津尾花川町)+馬場町・松本村・東浦村・藤尾村・別所村・神出村
京町3−36(旧・四宮町) 天孫神社 10/連休の土日 神輿 あり
曳山13台 西行桜狸山(鍛冶屋町)、猩々山(南保町)、西王母山(丸屋町)、西宮蛭子山(白玉町)、殺生石山(柳町)、湯立山(玉屋町)、孔明祈水山(中堀町)、郭巨山(後在家町・下小唐崎町)、石橋山(湊町)、龍門滝山(太間町)、源氏山(中京町)、神功皇后山(猟師町)、月宮殿山(上京町)
曳山廃絶 神楽山(堅田町)
神輿=宝永4年(1707)神輿洗い始まる。
享保11年(1726)神輿2基再建。文政3年(1820)神輿2基再興。
西行桜狸山(鍛冶屋町)=俗に「狸山」という。これは塩売冶兵衛の狸面の伝承による。そのため、毎年くじ取らずで先頭で巡行する。
 慶長年間(1596〜1615)の四宮祭礼に塩売冶兵衛が狸の面をかぶって采を振って風流踊を踊ったのが始まりで、やがて冶兵衛を乗せる屋台を町内で作り氏子町内をかつぎ歩き、元和8年(1622)には、年老いた冶兵衛に代わってからくりで腹鼓を打つ狸を作り屋台に乗せた。寛永12年(1635)からは二輪の曳山になった。寛永15年(1638)に三輪となる。長さ5、05m。幅2、9m。高さ6、55m。
 天井画は貼り付け鏡天井。鳳凰の絵は柳里恭。
 人形は「西行法師、都人、桜の精」。林孫之進の作。
 見送り幕(本祭り用)は嘉永4年(1851)の作。綴織。「牡丹に鳳凰図・麒麟額」。
見送り幕(宵山用)は江戸期の作。綴織。「百子嬉遊図」。
 水引幕は平成15年(2003)復元新調。「唐子嬉遊図」。以前は江戸期の作。
 「所望」は古木から桜の精が現れて西行法師と和歌問答する。
猩々山(南保町)=寛永14年(1637)制作。
 能楽の「猩々」から考案されたもので、唐の国の揚子の里に住む「高風」という親孝行な者がいた。ある夜夢に「揚子の町に出て酒を売れ」とお告げを受け、売り歩いていたら、海中に住む猩々から、「酌めども尽きず、飲めども味の味の変わらない」酒の壺を与えらたという。
 屋根は正背面切妻造。天井は化粧屋根裏
 見送り幕は中国製の綴錦。文化10年(1813)に入手。「百子嬉遊図・鳳凰日輪額」。
 胴幕も中国製。正面に竜、雲、青海波。側面に2匹の竜と雲、青海波。
 御幣は平成15年(2003)復元新調。
 「所望」は高風の酌で猩々が大杯で酒を飲め干すところを表している。 
西王母山(丸屋町)=明暦2年(1656)制作。別名は桃山。
 昔々、崑崙山に住む、西王母が天女と一緒に舞い降りてきて、君に桃に実を捧げ長寿を賀した。桃は三千年に一度花が咲き、一個しか実らない貴いものであったという話から来ていて、その後桃太郎の話に発展したと言われている。
 屋根は瓦葺を模す。軒先に飛龍の彫物。
 鬼板は「飛龍」。文政11年(1828)作。彫師は京都の加藤勘兵衛。
 人形は平成15年(2003)復元新調。以前のは安永5年(1777)制作。
 見送り幕は中国清朝初期の綴織。「龍、青海波」。
 水引幕は清代の作で寛政10年(1799)に入手。
 胴懸は江戸期の作。「竹林七賢図」。
 「所望」は二つに割れた桃の中から、唐子衣裳の童子が右手に軍配持って現れ、枝の先端まで進む。現れ所作をした後、また桃の中に入る。
西宮蛭子山(白玉町)=万冶元年(1658)制作。別名は鯛釣山。制作当時は宇治橋姫山と呼ばれていたが、延宝3年(1675)に替えられた。山蔵は中央2丁目4-4。
江戸期は塩屋町の曳山だったが、明治8年に南の米屋町と合併し白玉町となる。 
 古くから西宮の蛭子を出して飾り祀っていたが、後に曳山に載せるようになった。その後は、鯛を釣りあげた蛭子に商売繁盛を祈るという。明治28年頃に大修理。
 見送り幕は「双龍麒麟図」。
 胴懸は平成15年(2003)、復元新調「西遊記帰還図」。
 水引幕は江戸期の作。中国の故事を緋羅紗地に刺繍。
 「所望」はえべっさんが鯛を釣り上げた様子を現している。見事釣り上げて、観衆から拍手が沸きあがる。
殺生石山(柳町)=元禄6年以前(1693)制作。能の「殺生石」より取っている。鳥羽院に寵愛された玉藻前は、実は金毛九尾の狐で帝の命を狙っていたが、安部泰親に見破られ、東国の那須の殺生石となって旅人を悩ました。しかし、玄翁和尚の法力により成仏させた。
 屋根は切妻造。檜皮葺きを模す。
 天井画は享和元年(1801)松村景文筆。「金地著色 四季草花図」。
 左右の胴懸を平成19年(2007)復元新調
 見送り幕は昭和59年(1984)制作。毛綴。小倉遊亀画伯下絵。「はれゆく」。
 前懸は明代の作。刺繍。「鳳凰に牡丹図」。胴懸も同じ柄のため、1枚物を裁断したと思われる。
 「所望」は玄翁和尚の法力により岩が割れ、玉藻前の女官姿が、狐に変わる。
湯立山(玉屋町)=寛永3年(1626)制作。最初は孟宗山といわれていたが寛文年間(1661〜72)に湯立山と改称した。
 屋根は入母屋造り、柿葺。
 天井は格天井。
 人形は「市殿、巫女、称宜」。
 見送り幕は清代(18世紀)の作。綴織「婦女子嬉遊図・鳳凰日輪額」。
 胴幕は円山応挙下絵。柳糸軒刺繍。「曳馬の図」。
 胴懸は安永4年(1775)、円山応挙下絵・松屋勝蔵が刺繍。
 「所望」は禰宜がお祓いし、巫女の市殿が笹葉を上下に振り湯を立てる身振りの横で、おたふく顔の飛屋が神楽の舞を奉じる。要するに湯立て神事である。
孔明祈水山(中堀町)=元禄7年(1694)に福聚山として制作。宝永5年(1708)に釣狐山。享保7年(1722)に浦島亀釣山。延享5年(1708)に今の名前に改称。
 諸葛孔明が、曹操と戦った時、流れる水を見て「敵の大軍を押し流して下さい」と水神に祈り、大勝利を収めた故事による。
 屋根は向大唐破風造。
 欄間彫刻は「張良と黄石公」。
 人形は「諸葛孔明・趙雲」。延享5年(1748)、林孫之進の作。
 見送り幕は平成15年(2003)、208年ぶりに復元新調。「安楽庵百福図」。京都・牛ユ礼懸想品研究所の作。
以前のは寛政5年(1795)に大坂・中之島の上田氏より購入。明代・17世紀前期の作。これは安楽庵策伝が熊本・細川候に贈り、それが烏丸公へ。そして上田氏に移ったものである。
 前懸は清代の作。「岩に牡丹に蝶図」。
 「所望」は遣車に乗った孔明とその左に武将趙雲がおり、趙雲が鉾を河水に突き出すと、こんこんと水が湧き上がる。それを孔明は扇を上げて喜ぶ様である。やがて大洪水になり敵軍は押し流されたとされる。
郭巨山(後在家町・下小唐崎町)HPへ=元禄6年(1693)橋本町新調。別名釜堀山。明治19年に橋本町から鍛冶屋町に譲渡。鍛冶屋町では一時期、西行桜狸山と郭巨山の2つの曳山を巡行に出していましたが、経費がかさむこと売却を希望。そこで明治25年に、京町(後在家町と下小唐崎町を合わせて「京町」という)に住む13名が発起人となって「共愛会」を設立し、郭巨山を鍛冶屋町から購入。第二次世界大戦後共愛会は解散、京町の共有財産となって再出発し、今に至っている。
 中国二十四考より。郭巨は、貧しくて老母を養うのがやっとだった。そこへ子供が産まれ、やがて食べ盛りの三歳になると老母は自分の食事を減らして孫に食事を与えていたが、親思いの郭巨は「子供はまた得られる。母は得ることが出来ない」と、妻と相談し子供を土中に埋めようと穴を掘ったところ、そこから三尺の黄金の釜が出てきたというものです。釜の中には紙片が入っており、「天が汝の孝行をめでてこの釜を与える」と記されていた。
 格天井画は18世紀、「木彫草花図」。
 見送り幕は平成15年(2003)復元新調。川島織物の作。[書の見送り幕]。
 胴幕は平成18年、復元新調。「立花文様草花図幕」。
 水引幕は平成19年、復元新調。刺繍。「二十四孝図」。
 「所望」は郭巨が鍬を持って立ち、その前に盛り上がった地面がある。右手には子を抱いた郭巨の妻が立っている。鍬で穴を掘り進んでいくと、黄金の釜が出てきて郭巨が驚く様子を現している。  
石橋山(湊町)=宝永2年(1705)制作。当初は「靱猿山」と称した。
 謡曲の「石橋」よりきたもので、大江定基入道寂明が、宋に渡り、天呂山に入山し、文殊菩薩の浄土とされている険しい岩の橋を渡ろうとしたときに獅子が現れて、牡丹の花に舞い戯れるのを見た。
 屋根は唐破風。懸魚は牡丹。
 天井は格子、草花の絵。
 人形は「大江定基入道寂明」。
 水引幕は平成15年(2003)復元新調。以前のは安政3年(1856)の作。「飛翔鶴図」。下絵は円山派の中島来章。
 水引前幕を平成19年(2007)復元新調。
 胴幕は安政3年(1856)、中島来章「雪景」下絵。
 見送り幕はベルギー・ブリュッセル製の毛綴織。宵山用は「紺地雲竜宝散図」。
 「所望」は岩山から唐獅子が出てきて廻れ右をして岩戸に入る。以前は牡丹の花に遊び戯れるていたが今は使われていない。
龍門滝山(太間町)=享保2年(1717)制作。通称は鯉山。鯉のからくりは宝暦12年(1762)の銘があり、わが国最古のものである。
黄河上流の竜門山の瀧は、どんな魚も登れない。もし上るものがあれば、直ちに昇天して龍になるという故事に因む。登竜門もこれからきた。
 天井は雲の金細工。
 見送り幕は16世紀後半の作。ベルギー製の毛綴。「トロイア陥落図」。
宵山用は中国・明時代初期の作。 
 「所望」は龍門の瀧を鯉が登る様を見せるからくりで、わが国最古のもので、宝暦12年(1762)製である。
源氏山(中京町)=享保3年(1718)制作。別名は紫式部山。紫式部人形のからくりは全国二番目に古い。
 紫式部が石山寺で、「源氏物語」を書いた故事による。
 格天井画は慶応元年(1865)長谷川玉峰の筆による「金地著色四季草花図」。
 欄間彫刻は「近江八景」。箱蓋表に享保3年とあり、制作時の彫物と分かる。
 人形は「紫式部」。
 見送り幕(本祭り用)は清代の作で、享保11年(1726)に京都の万屋弥右衛門より購入。「百子遊嬉図」。
見送り幕(宵宮用)は嘉永年間(1848〜54)に本祭り用見送り幕を模倣した物。
 前懸は清代の作。「蝶に草花図」。
 「所望」は石山寺で、紫式部が物語を書いていて、うたた寝している時に夢を見た。岩の中から「塩汲みしている男」「御所車の行列」「傘持ちの男」「木履持ちの男」などが現れては消えていく。それをヒントに物語を作ったのでは?と云われている。
神功皇后山(猟師町)=寛延2年(1749)制作。略して神功山ともいう。
 昔は鮎で戦の勝ち負けを占っていた。神宮皇后も御懐妊されていたが、肥前国松浦で、戦いに先立ち鮎を釣り、戦勝を占った。勝利を収め、その後ご無事に応神天皇を出産されたことから、安産の山として信仰されている。
 屋根は唐破風にさらに左右にも唐破風。懸魚は枝菊
 格天井画は19世紀、広瀬柏園筆で「金地著色 花鳥図」。
 人形は「神功皇后、武内宿禰」。
 見送り幕は「百子嬉遊図・鳳凰額」。
 胴幕は無地の赤。
 「所望」は皇后が岩に弓で字を書く動作をすると次々と字が彫られ「三韓の王者」と、字が出てくる。
月宮殿山(上京町)=安永5年(1776)制作。別名は鶴亀山。初めは鳳凰台山と称していたが、寛政3年(1791)に今の名となる。
謡曲の「鶴亀」(喜多流では月宮殿)から取っている。唐の皇帝が不老門に立って、立派な庭で春を祝う会を催し王位を継承した。
 
屋根は唐破風。懸魚は金箔牡丹彫刻。
 格天井は安政5年(1776)、「金銅星宿図」。
 見送り幕は二枚。本宮用は平成11年10月復元新調。ベルギ―にて制作。トロイア戦争物語「トロイア陥落図」。以前のは16世紀、ベルギー・ブリュッセル製の毛綴。文化4年(1807)に三井本店から銀8貫600匁で購入。
宵宮用は綴織「八仙人図」。大正12年購入。
 前懸は平成19年(2007)復元新調。「八仙人図」。以前のは中国清代初期の作。
 胴幕は側面に大黒、毘沙門、弁天。逆側にえびす、寿老人、婦人。正面に布袋。
 「所望」は頭に鶴と亀の冠をつけた男女の舞人が、皇帝の前で踊っている様子を現している。
神楽山(堅田町)⇒現在の中央3丁目と島の関の一部に当る。
=三輪山ともいう。「永代伝記」によると、西行桜狸山に次いで古く寛永14年(1637)に作られた。享保16年(1731)に屋台造りに替わったが、万延元年(1860)の巡行を最後に姿を消し、種々の事情で処分された。
 「所望」は禰宜、飛屋、市殿の三体で太鼓や鉦を叩き鈴を振りながら神楽を舞っていた。

現在人形4体(三輪明神、禰宜、飛屋、市殿)、見送り幕「数頭の龍」、安永4年(1775)制作の胴幕が飾られる。

 なお2015年6月6日産経新聞に幻の「神楽山」が描かれた3枚1組の「四宮祭礼摺物」発見の記事があり、神楽山の外見も見られる。
布袋(新町)=文化7年(1810)制作。「永代伝記」には元禄6年(1693)にねりものと書かれている。町内当番の家に布袋と唐子人形が飾られる。
 ≪ねりもの≫
造り物による仮装行列で、「永代伝記」によると、元禄6年(1693)には17ヶ町出したが、次々と曳山に変わり次第に巡行する町が無くなり、文久3年(1863)頃より休みがちになり、多くは明治5年以降は姿を消した。
 ≪ねりものの記録≫
元禄6年(1693)⇒寛政9年(1797)⇒現在の順
中堀町=鷹匠⇒孔明祈水山=元禄7年(1694)曳山へ。
湊町=河狩⇒石橋山=宝永2年(1705)に曳山へ。
太間町=大具足⇒龍門瀧山=享保2年(1717)曳山へ。
中京町=小具足⇒源氏山=享保3年(1718)曳山へ。
猟師町=鵺⇒神功皇后山=寛延2年(1749)曳山へ。
上京町
 「元禄六年の牽山練物番列の”ねりもの”の中に「小具足 上京町」。
   享保十九(甲寅)年 「一、上京町小具足 木曽願書ねりものに替る」。
   宝暦十(庚辰)年 「一、上京町木曽願書練物 玉井に替る」。
   安永五(丙申)年の番列に「十四番 上京町 鳳凰臺山」。
   寛政三(辛亥)年「一、上京町鳳凰臺山 月宮殿に替る」

下小唐崎町=大具足⇒鉾⇒現・郭巨山(共有)
上小唐崎町=鉾⇒鉾⇒―
後在家町=大具足⇒―⇒現・郭巨山(共有)
元会所町=雪山⇒道祖神⇒―
坂本町=花⇒花⇒―。牽山永代伝記の大正2年の項に「宵山で坂本町の花が飾られていた」という記述から、大正年間まで「坂本町の花」が出ていた可能性がある。
葭原町=俵藤太⇒―⇒―
新町=布袋⇒唐子遊⇒布袋(現存)
八幡町=さんげい⇒獅子⇒―
下東八町=大名⇒御供(1835年の記録には出ていたが)⇒―
米屋町=汐汲⇒汐汲み⇒西宮蛭子山=万冶元年(1658)曳山へ。
境川町=大江山⇒頼光峯入⇒―
三井寺町4 長等神社 5/5 神輿(大宮、二宮)
逢坂1−11−2 若宮八幡神社 5/2日曜 例祭
園城寺町251 三尾神社 5/3 渡御 神輿、兎の山車
兎の山車=平成11年の卯年を記念して制作。ちなみに三尾明神のお使いはうさぎである。
逢坂1−15−5 関蝉丸神社 5/24 神輿 旧・郷社
大谷町23−11 蝉丸神社 5/3日曜(元・23) 神輿 氏地は大谷町・追分町
剣鉾
宮神輿・剣鉾は飾付け。子供神輿は昭和12年、京都・岡崎より3000円?で購入。
松本1−8−25 平野神社 5/5 神輿(自動車) 神楽踊り
8/9 蹴鞠
藤尾奥町1−1 藤尾神社 10/16 例祭
10/連休 子供神輿6基
神宮町13 宇佐八幡宮 9/14 神輿2基
 ■滋賀地区(旧・滋賀郡)
   ⇒山上、漣、錦織、南志賀、山中、滋賀里
山上町736 早尾神社 5/5 神輿(大、子供、樽)
1/14 蛇まつり
正午から大神輿と男女の稚児などがトラックで渡御した後、大神輿が町内を3ブロックに分けて渡御。子供神輿と樽神輿は別ルートでに練り歩く。
蛇まつり=1/14の夜、子供たちが藁で作った蛇を担ぎ、町内各家をまわる。
氏神の早尾神社の祭神が蛇体であるため、雨乞いに龍頭の冠をつけて祈願したことに始まると伝えられる。
錦織1−15 宇佐八幡神社 9/15 神輿2基
南志賀2−19−1 福王子神社 10/16 例祭
南志賀2−24−1 黒主神社 10/16 例祭
山中町2−22 樹下神社 5/2日曜 神輿(大小) 御前持ち
御前持ち=神輿渡御の後、船と呼ばれる木製の台に御神酒、赤飯などを並べ、御前持ちの女性が頭に乗せて神社まで運ぶ儀式。
滋賀里1−17−1 滋賀里八幡神社 9/15 神輿2基 子供みこし、樽みこし約15基
剣鉾3本 滋賀里、南滋賀、蟻の内
滋賀里3−223 倭神社 9/23 例祭
神宮町1−1 近江神宮公式HPへ 4/20頃の日曜 子供神輿18基
 ■膳所地区(旧・滋賀郡)
   ⇒別保、中ノ庄、膳所、錦
中庄1−14−24 篠津神社 5/5 神輿
中庄1−21−17 粟津神社 8/2 神輿
膳所1−14−14 膳所神社 5/3(元・15) 神輿
平尾町自治会(秋葉台)=昭和54年に子供神輿新調から春祭りを始める。
自治会長が膳所神社のお祓いを受けて帰ると神輿(子供、手作り)の渡御をする。
膳所平尾町987 菅原神社 3/25 例祭
木下町7−13 和田神社 5/3 神輿
杉浦町20−20 若宮八幡神社 9/2日曜 子供神輿5基 担がれるのは2基
 【富士見台2区】
かつては若宮八幡神社の例祭に参加していたが、昭和51年に子供神輿基新調して独自の春祭りを行っている。5月3日に建部大社から御神体を移して行われる。
西の庄15−16 石坐(いわい)神社 5/3 例祭
 ■石山地区(旧・滋賀郡)
   ⇒外畑、内畑、赤尾、南郷、千町、平津、寺辺、国分、鳥居川、北大路
石山寺2丁目13−16 新宮神社 5/3(昭和51年変更) 神幸式 神輿(大小)
神輿が石山寺の境内に参入するという神仏混合の形式である。行列は神官、法螺貝、獅子舞、稚児、天狗の面をつけた榊の枝、宝刀、御幣、舞姫、愚足、子供みこし、大人神輿。
石山内畑町242 春日神社 5/5 例祭
南郷5−4−9 御霊神社 5/5 南郷鯉まつり 鯉みこし、神輿3基
南郷鯉まつり昔天皇が病にかかり占いを立てたところ、目の下1尺3寸(約39cm)の生鯉を献上すれば治るとのことで、早速南郷衆が瀬田川へ登ってきた鯉をとらえ献上したところ、即座に病が治り、そこで漁業権が与えられたと伝わる。鯉を捕らえた場所が「供御の瀬」と云われている。この伝説を基に、貞明皇后が大正11年11月に当地を行啓されその記念碑の除幕式が昭和9年5月2日が行われ、奉祝の為始まったとされる。
鯉神輿=昭和12年作。長さ3.2m。胴廻り2.7m。欅で作られた。
当初は南郷の竹細工師清水風外師の製作による、長さ25尺(7.5m)の
竹製。

神輿は3基。南郷と千町、子供用。
平津2−9−13 戸隠神社 5/5 神輿 氏子は平津、赤尾
国分2−442 近津尾神社 5/5 子供神輿、樽みこし
鳥居川町14−13 御霊神社 5/5 渡御 神輿、猿田彦、弓や矢、刀、鉾、衣冠束帯の左右大臣、稚児 など
北大路1−6−26 御霊神社 5/5 渡御 子供武者、稚児、子供神輿3基
 ■雄琴地区(旧・滋賀郡)
   ⇒雄琴、苗鹿、千野
雄琴2−10−1 雄琴神社 4/29 神輿
苗鹿1−8−1 那波加神社 4/29 神輿
千野1−12−13 若宮神社 5/4 子供神輿2基
 ■坂本地区(旧・滋賀郡)
   ⇒坂本・穴太
坂本5−1−1 日吉大社公式HPへ 3/1〜4/15 神輿7基 重要文化財
神輿7基(祭礼使用) 西本宮、東本宮、宇佐宮白山宮、樹下宮、牛尾宮、三ノ宮
祭礼は、神輿上げ・大榊の神事・午の神事・献茶祭・花渡り・宵宮落とし・粟津の御供・神輿の還御・酉の神事・船路の御供と続き、1ヵ月半にも祭りは及ぶ。
西本宮=祭神は大巳貴命(大国主命)。大津京遷都にあたって奈良県の三輪山より勧請。
東本宮
=祭神は大山咋神。元々の地主神。
宇佐宮=祭神は田心姫神。西本宮大巳貴命の妃神。
白山宮=祭神は菊理姫神。加賀の白山姫盗_社の主祭神。平安時代に勧請。
樹下宮
=祭神は鴨玉依姫。
牛尾宮=祭神は大山咋神荒魂。大山咋神の妃神。八王子山(牛尾山)の奥宮(山宮)に安置。
三ノ宮
=祭神は鴨玉依姫荒魂。八王子山(牛尾山)の奥宮(山宮)に安置。
坂本4丁目2−12 日吉東照宮 6/1 例祭 創建時は延暦寺の末寺であったが明治9年(1876)より日吉大社の末社となる。
坂本1−8−31 倭神社 5/3 例祭 日吉大社境外百八社の一社
坂本3−8−27 石動神社 5/3 神輿 通称は河原のお不動さん。河原町の氏神
神輿は滋賀院門跡に行き、僧侶にお経をあげてもらう。
坂本3−11−5 杉生神社 5/3 例祭 日吉大社境外百八社の一社
坂本3−16−10 和泉神社 和泉町の氏神
坂本3−16−41 石占井(いしらい)神社 10/3 例祭
坂本4−9−57 榊宮社 5/3 神輿 日吉大社境外百八社の一社
坂本4−12−9 福成神社 5/3 例祭 日吉大社境外百八社の一社。作り道町の氏神。
坂本5−3−12 流護因神社 5/3 神輿
坂本5−15−2 興玉神社 5/3 神輿 坂本本町第8区の氏神
坂本5−24−46 冠者殿神社 5/3 例祭 日吉大社境外百八社の一社
坂本6−1−19 大将軍神社 5/3 例祭 日吉大社境外百八社の一社
坂本6−2−28 百枝天満神社 5/3 例祭
坂本6−3−35 倉園神社 5/3 神輿
坂本6−27−14 日吉御田神社 5/3 神輿 日吉大社境外百八社の一社
1/15 綱引き神事
綱引き神事=一年を表す十二間の大綱を氏子で編んで、大綱の一方を社殿の屋根上に結んで、もう一方を地面にたらしてとぐろをまき蛇に見立てる。その後東西に別れて綱引きが始まり、三回勝負が行われます。東が勝つと豊作と言い、東が坂下になっていて東が勝つようになっている。
坂本6−29−1 福大夫神社 5/3 神輿 日吉大社境外百八社の一社
坂本8−27−1 下野天神社 5/3 神輿
穴太1−3−1 高穴穂神社 5/3 神輿
 ■下阪本地区(旧・滋賀郡)
   ⇒下阪本、比叡辻
下阪本1−24−1 志津若宮神社 5/3 神輿2柱 大山祇神、菊理姫神
下阪本3−10−29 両社神社 5/3 神輿
御旅所(下阪本二丁目馬場町)からお渡り行列が出発。神輿の駕興丁が互いに腕組みをして前を進む。その後を御幣、神主、さらに大人、子供の武士が続き、西近江路を北上し、両社神社まで歩く。両社神社で御霊移しが行われ渡御が始まる。出発した神輿は馬場町の御旅所でおり返し、数ヶ所の御旅所を経由し、神社に還御する。
下阪本4−9−18 酒井神社 5/3 神輿
5/22、23 まいどこ神事
まいどこ神事=『滋賀の百祭』によると、祭礼日は「11月22・23日」で概要は「22日午後4時頃になると町内の子供たちが酒井神社に集まってくる。その年長者の2人が神前に置かれた魔除けの仮面の顎を手に持ち、顔面をおおって先頭に立つ。他の子供たちは御巾と楓を手に行列。「まいどこ、まいどこ、ワラ三把(ば)出さんものは、ツラに毛が一杯ハヨ、ハヨー」と唱えながら町内をまわり、再び神社に戻ってくる。「まいどこ」は「まいろうか」を意味し、子供の仮面は阿吽(あうん)の一対で、悪魔から安全を守る。神事は一種の神迎えで、子供が手にする楓に神が降臨するといわれている。翌23日午前5時になると、昨夜、拝殿に用意された藁を燃やして神の降来を迎え、天下泰平、五穀豊穣、家内安全を願う。」とある。
下阪本4−22−1 幸神神社 5/3 神輿
下阪本6−5−1 若宮神社 5/3 神輿
下阪本6−8−10 磯成神社 5/3 神輿
比叡辻1−4−11 供所神社 5/3 神輿 餅米を蒸した御供が神輿に供えられる
比叡辻1−6−9 大崎神社 5/3 例祭
唐崎1−7−1 唐崎神社 4/28&10/28 湯立神楽 日吉大社の摂社
 ■大石地区(旧・栗太郡)
   ⇒曽束、小田原、竜門、淀、大石中、東、富川
大石曽束町197 貴船御霊神社 4/16頃の日曜 渡御 稚児、子供神輿、獅子頭、太鼓 など
大石小田原町263 八幡神社 4/16 例祭、福引き
大石龍門461 八幡神社 4/16 例祭
大石中1−2−1 佐久奈度神社
公式HPへ
4/16頃の日曜 神輿2基
4/3:13時〜。春の大祭始まる。神輿が御旅所まで渡御し還幸祭の日まで御旅所に祀る。
4/16:10:00〜。本殿にて祭典を行う。
4/16に近い日曜:御旅所に渡御した神輿が氏子町内を巡幸し、本社に還幸する。
大石富川1−9−2 春日神社 4/16頃の日曜 子供みこし
 ■下田上地区(旧・栗太郡)
   ⇒羽栗、森、枝、里、石居、稲津、黒津、太子、関津
田上羽栗町201 須賀神社 5/1 神輿
田上森町153 白山神社 5/1 湯立て
田上森町579 八幡神社 5/1 例祭
田上枝町465 天満神社 5/5 例祭
田上里町4 毛知比神社 5/5 神輿4基 大小、子供
1/9 草木祭
草木祭=『近江の祭礼』によると、祭礼日は「一月九日昼」で、概要は「「だいひょう」ともいう。天平宝字元年(757)に鎮座した時、村人が餅を供えて以来、連綿として続いているという。
延餅(30cm・15cm)二枚を一組として、その家の男子の数を供え、家内安全・五穀豊饒を祈願する祭りである。毎年一月九日、役員はじめ氏子が出席し、祭儀を執り行う。」とある。
石居1−9−25 神立神社 5/5 神輿
八角型神輿、樽神輿、榊が御旅所の大将軍神社(石居1−7−16)を通って戻ってくる。
田上稲津町2−6−1 上津神社 5/1日曜 例祭
太子1−2−12 上津神社
田上関津町1 白山神社 5/1 例祭
田上関津町1−9−11 諏訪神社 5/4 例祭
関津町4−8−1 新茂智神社 5/4 神輿
 ■堅田地区(旧・滋賀郡)
   ⇒本堅田、今堅田、衣川
「本堅田村諸色留帳」によると、寛政6年(1794)7月と9年7月の雨乞い行事に6ヶ町より「鯉の滝登り」のからくり屋台、女形壱人ぼうず三僧による歌舞伎もどきの踊り「鳴神不動」の屋台などが出たとある。
本堅田1丁目9−27 神田神社 4/20 子供みこし、樽みこし
本堅田1丁目19−26 伊豆神社 4/20(毎年) 子供みこし、樽みこし
本堅田2丁目 智鎮神社 4月 例祭
今堅田1−16−18 伊豆神田神社 4/20 子供みこし、樽みこし
衣川1−25−29 梅宮神社 3/3 例祭
衣川2−28−1 鞍掛神社 7/23 例祭
衣川3−4−1 天満神社 4月 例祭
 ■仰木地区(旧・滋賀郡)
   ⇒上仰木、下仰木、辻ヶ下、平尾
仰木町4丁目38−55(4737) 小椋神社 5/3 神輿5基
小椋神社は、五社大権現とも呼ばれ、仰木(上仰木・下仰木・辻ヶ下・平尾)と雄琴の千野地区の氏神である。本社の他に大宮・若宮・新宮・今宮の四社が摂社としてあり、その各社に神輿がある。
本社(田所社)=慶安2年(1649)9月制作。
大宮社=延宝6年(1678)5月制作。菊田美作守の作。賀子内親王奉納。
若宮社
=慶安2年(1649)9月制作。仰木村の守護。
新宮社
=慶安2年(1649)9月制作。仰木村の守護。
今宮社
=寛文13年(1673)3月制作。作者不詳。賀子内親王奉納。
仰木5丁目13−9 八坂神社 8/15 笹神輿3基 京滋地区唯一と言われる
 ■真野地区(旧・滋賀郡)
   ⇒家田、大野、谷口、真野、普門、佐川
真野大野1−10−5 河内神社 5/5 稚児祭り 神輿
真野谷口町309 八幡神社 5/5 稚児祭り
真野4−7−2 神田神社 5/5 稚児祭り 真野の沢、中、浜、北の氏神
1/17 さんやれ祭り
さんやれ祭り=1月17日夜、神田神社で行われる。真野の沢、中、浜、北の3組が参加。鉦・太鼓を打ち、百数十本の松明が境内に集まる。
由来は神田神社が水害を避けて現住所に移った時に、集落の人々が松明を持って付き従ったことに始まる。
真野普門942 神田神社 5/5 例祭
真野佐川町515 樹下神社 5/5 例祭
 【稚児祭り】
氏子の中から選ばれた駒と呼ばれる12、3歳の少年6人と、2人の稚児が主役。駒は冠に裃という姿で竹のムチを持ち、正午ごろ稚児や榊と御供を携えた大人たちと共に行列を組んで神社へ上がる。
 神社では本殿前に立てられた長さ2mの榊に神移しが行われる。この榊は「神輿」と呼ばれており、本来の神輿の原型だと云われる。その榊への神移しが終わると榊は「ワッショイ、ワッショイ」という掛け声で神社横の馬場にある御供所に運ばれ立てかけられる。
 用意した御供が置かれており、それを六人の駒がてんでに持って御供台の方にわれ先にと走りだす。途中、駒たちは供物を石垣や地面にたたきつけて大あばれ。大人たちはそれを拾って供物台に置くのだが、駒は手にしたムチで供物や供物台をいっそう激しくたたく。大人は見物するだけで制止する権限はなく、駒たちは暴れ放題。
 やがて駒たちは供物台をひっくり返してしまうが、この駒が暴れるほど、その年は豊作であるとされる。そこでいつしかこの稚児祭りを、別名「あばれ祭り」と呼び、田植え前の豊作祈願祭だとも云われる。榊をミコシと呼び、童子の暴れを主役にした、いにしえの伝統行事として伝えられている。
 ■伊香立(いかたち)地区(旧・滋賀郡)
   ⇒南庄、生津、上在地、下在地、北在地、向在地、途中、上竜華、下竜華
伊香立南庄町1846 融(とおる)神社 4/29 例祭
伊香立下在地町1316 八所神社 10/9 祇園囃子奉納
5/5 例祭
19時頃より、伊香立の五ヶ町(北在地、上在地、下在地、向在地、生津)の人々が、お囃子を奏でながら行列を組んで各町から八所神社に参集する行列から始まる。行列は町名を書いた高張提灯を先頭に、家紋入りの小さな提灯を持った宮総代、きれいな飾り付きの花笠をかぶった小中学生の太鼓と鉦、笛を受け持つ若衆などからなる。
 一行が20時ごろ神社の前に到着すると宮の年番町を先頭に五ヶ町の行列が宮入する。
 そして拝殿の前で年番町を最初に各町が順番にお囃子を奉納し、神主のお祓いを受けて秋祭りが終わる。
伊香立途中町518 還来(もどろぎ)神社 5/5 子供みこし
 ■葛川地区(旧・滋賀郡)
   ⇒坂下、木戸口、中村、坊村、町居村・梅ノ木、貫井、細川
葛川坊村町116 地主神社 7/18 葛川祭り
『近江の祭礼』によると、祭礼日は「七月十八日午後八時」で、概要は「地主神社は平安時代前期に明王院の鎮守・守護神として創建され、当祭りは神仏習合の形態を現在に残している。日が暮れると氏子の各地区から集まった高張提灯の列が、伊勢音頭と共に参道を進み境内に献灯される。次いで氏子の若衆が参拝の後、天台宗山門派などの行者と一体となって、明王院において太鼓まわしを行う。提灯のうす暗いなかで行者が太鼓に乗り、前方に勢いよく飛び跳ねるという壮観なものである。」とある。
 ■瀬田地区(旧・栗太郡)
   ⇒大江、橋本、神領、南大萱、月輪、栗林新田
大江2−9−1 若松神社 5/5 神輿
剣鉾3本 大中小
大江6−13−28 御霊神社 5/5 例祭
神領1−16−1 建部大社(公式HPへ 4/15頃の日曜 例祭 神輿、稚児行列
8/17 船幸祭 神輿(大1、小3)
船幸祭=大正4年の御大典記念事業として始められた。本殿前より出輿(大1、小3)し、唐橋より船に乗せ、南郷渡御ノ瀬に至り往復する。
神輿=昭和50年制作。
大萱2−21−1 萱野神社 5/5 神輿
月輪1−5−12 八坂神社 5/3 神輿、子供神輿3基
神輿、大太鼓、獅子頭が御旅所である八幡神社(大鳥居813−43)まで渡御される。
 ■上田上地区(旧・栗太郡)
   ⇒牧、平野、中野、芝原、堂、新免、桐生、大鳥居
牧1−12−10 八幡神社 5/1 例祭
平野1−13−7 天満宮 5/1 例祭
中野町3−2−2 荒戸神社 5/5(元・1) 渡御
祭の行列は獅子、猿田彦、社旗、唐櫃、太鼓、盾、鉄矛、太刀、木矛、弓矢、稚児、子供神輿、神輿 など。御旅所は柴原町の波穂神社(芝原1−4−15)。前日に同社にお渡りした神輿が荒戸神社に戻る。
堂1−1−2(上田上堂町552) 若宮八幡神社 5/3 神輿(大小、樽)
上田上新免2−12−5 新宮神社 5/1 例祭
上田上桐生町201 やの神社 5/1 お渡り 氏子は桐生町、大鳥居町桐生辻
大鳥居10−37 稲荷神社 5/1 神幸祭

 ◎旧・志賀町
 ■和邇地区
   ⇒小野、和邇中、今宿、高城、南浜、中浜、北浜、栗原
小野1031 小野神社 10/3土曜 例祭
11/2 しとぎ祭り
しとぎ祭り=しとぎとは餅米を水に浸して、生のまま木臼で搗き固めた「しとぎ餅」のことで、文献によると応神天皇の時、わが国で初めて餅や菓子の元である「しとぎ」を米餅搗大使主命が作り、米餅搗大使主命の姓を賜ったとある。
5月10日は神社の境内の神田(通称浮ヶの谷)に於いて、餅米を作る御田植祭が斎行される。
10月2日は「ぬき穂祭」が行われる。
10月20日は菓子製造業者の代表が小野神社に集まって小野神社奉賛会しとぎ祭が行われる。
11月2日の本祭では、午前中は氏子代表の十二人衆という長老が参列して神事が行われる。
午後は商店街の協力などで、つくりものではあるが紅白の大きな二段重ねの餅の神輿を青年が担ぎ、地域を練り歩く。
和邇中145 天皇神社 5/2日曜(元・8) 神輿5基
和邇南浜185 木元神社
「和邇祭り」は、和邇の6地区(和邇中を中心に今宿、高城、南浜、中浜、北浜の各区)によって行われる。祭りの起源は織田信長の比叡山焼打ち以降といわれている。大津市坂本の日吉大社の神輿が難を逃れて、この和邇地区に来たもので、この神輿の返還を求めて争いが起こったことも記録に残されている。
宵宮の夕刻、神輿の渡りが行われ、本宮は午前6時に出発し木元神社神輿の卯の刻渡りがなされる。続いて天皇神社での御供献上式、神役たちは国道161号線を渡って天皇神社へ。着飾った5人の母親もおこわの入った櫃を持ち、稚児を連れ参宮する。
 このあと、大宮、若宮、樹下、木元、三ノ宮の各神社の櫃は拝殿に安置。午後1時から5基の神輿が和邇川の堤防を下り、南浜川尻の御旅所まで神輿を駆けて渡御する。午後からは御旅所への神輿渡御が行われる。御旅所での神事が終わると神輿の還御となり、祭典は終了する。
栗原446 水分神社 9/1 八朔踊 県選択無形民俗文化財
 ■木戸地区
   ⇒南船路、八屋戸、木戸、荒川、大物、南比良
南船路321 八所神社 5/5 神輿
八屋戸306 若宮神社 5/5 例祭
八屋戸1074 八所神社 5/5 例祭
木戸680−1 樹下神社 5/5 神輿5基 木戸、守山、大物、北船路、荒川
木戸=安政五年(1858)に、坂本の日吉大社二宮神輿が木戸村に譲渡されたもの。現在は収蔵庫に保管され、新しい神輿が巡幸している。

北船路、守山
=神輿あり。

荒川=神輿あり。
 鎮守の湯島神社(荒川647−1)の例祭は9/15。現在は子供相撲。
昭和50年頃までは子供神輿。午後に相撲(大人・子供)、夜に盆踊りをした。

大物
=神輿あり。

南比良98 樹下神社 4月 神輿
 ■小松地区
   ⇒北比良、南小松、北小松
北比良381 天満神社 4/25頃の日曜 神輿
南小松397 八幡神社 9/1 神輿 平成7年新調
奉納相撲 子供による宮相撲
北小松914 樹下神社 4月 例祭
 ★展示場     
 【大津祭曳山展示館
大津市中央一丁目2−27(丸屋町商店街内)。 0775−21−1013。10:00〜19:00。
平成3年(1991)開館。西王母山の実物大模型や13基のからくりを紹介する映像装置などがある。