岩瀬順一の「日本語のわかち書きについて」

「わかち書き」とは、 「あした私は学校へ行きます」を

のように、語と語の間にスペースを置いて書くことをいう。 (「分かち書き」「分かちがき」「わかちがき」という表記もある。)

わかち書きは、カナやローマ字だけで日本語を書く場合には必須である。 漢字かなまじり文の場合も、コンピュータで処理する場合に役に立つ、 と私は確信する。

一部には、 日本語のわかち書きはむずかしい、 あるいは不可能である、との思い込みが広まっているようである。 また、常用漢字や現代かなづかいや送りがなのように、 しかるべき機関がやりかたを一つ決め、それを公表しているわけでもない。 そのため、 わかち書きは自分で調べ、自分で考えて実行しなければならない。

この文書の目的は二つある。 一つは、 日本語のわかち書きにはいろいろな流儀があるように見えるが、 実はそれほど違わないことを示すこと。 もう一つは、いろいろな流儀の中で、 私が採用しているものを紹介することである。

例文は「かな漢字まじり」「ひらがなのみ」「ローマ字」の三通りで示す。 前二者の場合、スペースは半角で十分かもしれないが、 よりはっきりさせるため、全角スペースを置くことにする。

「使い物になるわかち書き」と「私が採用しているわかち書き」の違い

いろいろなわかち書きの中で、全く使い物にならないものもある。 たとえば、上の例文を

としたら、それは使い物にならないだろう。 「は学校」「へ行きます」をひとまとまりとするのは日本語の性質に合わない。 このようなわかち書きに対しては、私は「使い物にならない」という。

一方、

のような書き方は使い物になる。 現実に、子ども向きの本で使われている。 しかし、 私がどれか一つのやり方を決めてわかち書きをせよと言われたら、 このやり方は「私は採用しない」。

この違いは大切である。 以下では、「使い物になるわかち書き」と、 その中の一つである「私が採用しているわかち書き」とを区別しつつ、 ともに論じてゆく。

日本語文法の助けを借りるのは、短い時間・少ない手間で説明するためである

わかち書きの一つのやり方を示そうとする際、 すでに書かれている日本語の文章、 および将来書かれるであろう全ての文章をわかち書きしてみせれば完全であろうが、 それは不可能である。 多くの文章をわかち書きしてみせてそれに代えるのが現実的だが、 私にはそれだけの力・時間がない。 よって、 日本語文法の助けを借りて説明することにする。

ただし、ここでいう文法とは、それほどむずかしいものではない。 問題となるのは単語の品詞分解だけである。 また、 文法の助けを借りるのはわかち書きが頭にはいるまでであり、 いったんはいってしまったら文法を思い出す必要はほとんどない。 私の経験では、自分のわかち書きが決まるまでの間、 いままでほとんど見たことがなかった、 国語辞典巻末の動詞・形容詞・形容動詞・助動詞活用表を、 頻繁に見て、印をつけた。また、 国語辞典本文でも、ふだんは滅多にひかない、助詞をよくひいた。 しかし、いったん自分のわかち書きが確立すると、 それらをしなくても済むようになった。

わかち書きされた文章を多く目にする時代になれば、 文法を何も知らない人でもわかち書きが身につくと思う。 小学生などに指導する際にはこのやり方をとるべきであろう。

付) 日本語の文法にはいろいろな流派があり、 以下とは異なる単語の分類法もあるそうだが、 それが合理的なものであるなら、 それに従ってわかち書きのしかたをまとめることが可能であろう。 そうやってまとめた結果が、わかち書きとしては同じになることも、 十分考えられる。

日本語の単語の種類

ここでは、広辞苑第五版の付録「日本文法概説」に従い、 岩波国語辞典第三版の付録を参考にして、 単語の種類(品詞)をまとめてみる。

自立語名詞・代名詞机、厚さ、わたし
動詞動く、努力する
形容詞高い、大きい
形容動詞静かだ、親切だ
副詞やがて、ちょっと
連体詞或る、あらゆる
接続詞および、けれど
感動詞ああ、おい
付属語助動詞ない、られる
助詞が、の、に、を

文章を単語に分解せよと言われた場合、 自立語の先頭を指定することはむずかしくない。 なぜなら、辞書でその単語を探すことはむずかしくないからだ。 もしもそれがむずかしければ、日本語は、 それを母語としている人にとっても辞書をひくのが極めてむずかしい言語、 ということになろう。しかし、そういう話は聞かない。 それに対し、付属語はむずかしいことがある。 例えば「考えられない」は「考え+られ+ない」だが、 日本語を母語とする人の中にも、 このような分解のできない人、忘れてしまった人がおおぜいいるだろう。

自立語は、たくさん存在する。 大きな辞書になればなるほど、たくさん載っている。 付属語は、それほど多くなく、 大きな辞書でも小さな辞書でも、載っている数はそれほど変わらないと思われる。

付) 形容動詞については、それを認めず、 名詞+「だ」、あるいは「に」とする流儀もある。 しかし、あとで述べるように、わかち書きには影響がない。

規則0.一つの単語の中では切らない

たとえば、「前(まえ)」の語源は「目(ま)方(へ)」だそうだが、 現代語としては一語なので mae とし、ma e とはしない。

ただし、形容動詞の最後の「だ」とその変化形、および「に」は例外とし、 切り分けることもある。

と書いてもよい。

規則1.自立語は前の語から切って書く

なぜこの規則を置くかについては、 「ほとんどの自立語は、その語で文章を始められるから」 と言えば、それ以上の説明の必要はないだろう。

これを守っていないわかち書きは使い物にならないと思う。 この規則だけで、「あした私は学校へ行きます」は

にまで分解される。

「使い物になるわかち書き」は「上の二つの規則に従うわかち書き」である

それが、ここまでの考察から導ける結論である。

よって、 わかち書きには一見したところさまざまのやり方があるが、 それらの間の違いは、

  1. 付属語を前の単語から切るかどうか、
  2. 複合語を一続きに書くか、あるいはいくつかに切って書くか、
だけ、ということになる。

規則2.付属語を前の語につけて書くか切って書くかは個別に決める

付属語は数が限られているから、こうやって決めることは可能である。 ただし、これらをどう決めるかは、人によって意見が異なるだろうと思う。 以下に示すのは、「私が採用しているわかち書き」である。

以下と異なるわかち書きをしたからといって、 文章が読みにくくなるとは思えない。上の規則0と規則1を守っていさえすれば、 以下で問題になるのは、漢字かなまじり文でもかなが並ぶところである。 そこで切るか切らないかで読めなくなってしまうなら、 現在普通に行なわれている漢字かなまじり文が読めないものであるはずである。

形容動詞について

形容動詞は、私は語幹と「だ」の変化形または「に」に切って書くことにしている。 よって、次のように書く。

それは、そうすることで、 『これは形容動詞なのか、それとも名詞+「だ」あるいは名詞+「に」なのか』 と考えずに済むからである。

このことは、私が形容動詞という品詞を認めないという意味ではない。 形容動詞を認めるかどうかは学問上の議論であり、 わかち書きのやり方を決めるという実践的な問題は、 その決着がつくのを待ってはいられない。

また、このように切って書くことにした上で、 形容動詞というものを認めることは可能である。 それは、英語の「不定詞」が、 前置詞「to」と動詞の原形とを間にスペースを入れて書くにもかかわらず、 「不定詞」と呼ばれ、その用語を使って文法が論じられていることと同じである。

助動詞のわかち書き

ここでは、岩波国語辞典第三版付録の助動詞活用表に沿って、 助動詞のわかち書きについて、順に説明する。

「せる」は四段活用動詞の未然形に続く。たとえば「書かせる」など。 これは前の動詞につけて書くのがよいと思う。

「させる」は、意味は「せる」と同じだが、四段活用以外の動詞の未然形に続く。 たとえば「見させる」「受けさせる」など。 こちらは、カ変・サ変の場合を除き、前の動詞が連用形と同じ形であるため、 切って書いてもよさそうであるが、 「せる」と同じ扱いにしたいので、私はつけて書いている。

動詞が「整えさせる」のように長い場合は、切りたくなることもある。 切らなければ

となり、切れば

となる。 漢字かなまじり文では切る必要がないように感じられ、 ローマ字書きでは切りたくなることがあるが、 それはローマ字書きは見慣れていないからかもしれない。

「しめる」は「書かしめる」などと使う。 未然形に続くこともあり、前の動詞につけて書くのがよいと思う。

「れる」は、四段動詞未然形に続き、「呼ばれる」などと使う。 前の動詞につけて書く。

「られる」は、四段動詞以外の動詞の未然形に続く。意味は「れる」と同じである。 「させる」を「せる」にならって前の動詞につけて書くように決めたのと同様の理由で、 これもつけて書く。

これも、「考え」「かんがえ」「kangae」が単独で使われるので、 切りたくなることもある。切れば次のようになる。

私は「れる」と「られる」、 「せる」と「させる」は前の語につけて書くかどうかを同じにしたいと思うが、 それに根拠はない。

また、「させる」に「られる」が続くと「考えさせられる」となるが、 それは「させる」と「られる」をつけるか切るかで決めればよい。 どちらも切れば

となるし、つければ

となる。片方をつけ、他方をつけないことも考えられる。 ローマ字書きでどちらもつけた場合、長く感じられるが、 かなでかけば一目で読みとれるので、 慣れの問題かもしれない。

「たい」は動詞の連用形に続き、「書きたい」「考えたい」などとなる。 私はつけてかく。

「らしい」は動詞・形容詞の終止形、形容動詞の語幹、名詞に続く。私は切って書く。

「ようだ」は動詞・形容詞・形容動詞の連体形に続く。私は切って書く。 また、「よう」と「だ」の間も切って書く。 それは、「ようだ」は「よう」と「だ」に切り分けられると私には思われ、 後で述べるように、「だ」は切って書くからである。

「そうだ」(推定)は、動詞の連用形、形容詞・形容動詞の語幹に続く。 私は前の語につけて書き、「そう」と「だ」の間は切って書く。

「そうだ」(伝聞)は、動詞・形容詞・形容動詞の終止形に続く。私は切って書く。 「そう」と「だ」の間も切って書く。

「だ」は切って書く。 名詞に続く場合。

連体形は「な」、仮定形は「なら」だが、これらも同様に切って書く。 (下の例に現れる「ので」と「ば」については、後で助詞のところで述べる。)

動詞・形容詞に続く場合。「晴れるだ」「早いだ」とは言わないが、 「晴れるだろう」「早いだろう」とは言う。この場合、連体形に接続する。 この「だろう」は「だ」の未然形「だろ」に 後で述べる「う」が続いた形である。後で述べるように、「う」の前は切らない。 しかし「だろ」は、上で述べたように、切って書く。

「です」は切って書く。 動詞の連体形に続く場合。

名詞に続く場合。

「ます」はつけて書く。動詞の連用形に続く。

「ない」はつけて書く。動詞の未然形に続く。

「ぬ」はつけて書く。動詞の未然形に続く。

「た」はつけて書く。動詞・形容詞・形容動詞の連用形に続く。

(すぐ上の例の、ローマ字で書いたものについて。 atatakakatta の途中で字体を変えたが、 つけて書くと決めたので、どこで変えるか、にはあまり意味がない。 この先にも同様の例が現れる。)

「う」はつけて書く。四段動詞・形容詞・形容動詞の未然形に続く。

「よう」はつけて書く。四段活用以外の動詞の未然形に続く。

「まい」はつけて書く。四段動詞の終止形、その他の動詞の未然形につく。

ただし、四段動詞に続く場合は、終止形に続くため、切りたくなることもある。

助詞のわかち書き

「ば」「て」「たり」の三つは、前の単語につけて書くべきだと思われる。

この三つをつなげて「ばてたり」と唱えると覚えやすい。

注) 前にある動詞によっては、「て」は「で」に、「たり」は「だり」になる。

私は、これ以外の助詞は全て前の語から切って書くことにしている。 また、国語辞典で「複合した形」「連語」となっているものは、 切りわけて書く。

「なので」は、動詞「だ」の連体形+助詞「ので」であり、 「ので」は「の」と「で」に切り分けて書くので、次のようになる。

「……ないで」「……ないでも」のわかち書き

「ないで」は、 広辞苑第六版には 《成立未詳。助動詞ナイの連用形とする説、 助動詞ナイに助詞テが付いたものとする説などがある》とある。 岩波国語辞典第三版は 《「なくて」と同じ》なので、後者の説をとったことになる。 上で、助詞の「て」は前の単語につけて書くと決めたので、 どちらにせよ、つけて書くことになる。

しかし、「ない」と「で」の間で切れるという感じが強いのであれば、 切って二語にすることもできよう。私はどちらかといえばこちらにしたい。

(「飛んで」の場合、「飛ん」と「で」には分けにくいから続けて書いたのだった。)

「ないでも」についても同様である。 「でも」を分けて書くなら、「で」と「も」に分けたい。

形容詞の未然形・仮定形について

「赤い」「正しい」の未然形は「赤かろ」「正しかろ」である。 「赤かろう」「正しかろう」のように使う。 元をたどれば「赤くあろう」「正しくあろう」かもしれないので、 ローマ字で akak arô, tadasik arô, あるいは「'」を「何かが省略された」の印として akak' arô, tadasik' arô としたくなるかもしれないが、 私は特別扱いせず、akakarô, tadasikarô としている。

「赤い」「正しい」の仮定形は「赤けれ」「正しけれ」である。 「赤ければ」「正しければ」のように使う。 「赤」が名詞として使われること、 「正し」が人名「正(ただし)」を連想させることから、 ローマ字で aka kereba, tadasi kereba としたくなるかもしれないが、 私は akakereba, tadasikereba としている。

「私が採用しているわかち書き」のまとめ

このようにまとめられるが、 それを理論的に支える何かを考えようとは思わない。

「使い物になるわかち書き」を比べてみよう

以上、「私が採用しているわかち書き」を述べてきた。 ここで、「使い物になるわかち書き」の範囲内で短い文章を書く場合でも、 いかに多くのやり方があるかを見ておこう。

「考えさせられたので」を考える。 品詞分解すれば「考え」「させ」「られ」「た」「の」「で」 と六つの単語に分かれる。 間は五箇所だから、全部で 32 通りの書き方がありえる。

  1. kangae sase rare ta no de
  2. kangae sase rare ta node
  3. kangae sase rare tano de
  4. kangae sase rare tanode
  5. kangae sase rareta no de
  6. kangae sase rareta node
  7. kangae sase raretano de
  8. kangae sase raretanode
  9. kangae saserare ta no de
  10. kangae saserare ta node
  11. kangae saserare tano de
  12. kangae saserare tanode
  13. kangae saserareta no de
  14. kangae saserareta node
  15. kangae saseraretano de
  16. kangae saseraretanode
  17. kangaesase rare ta no de
  18. kangaesase rare ta node
  19. kangaesase rare tano de
  20. kangaesase rare tanode
  21. kangaesase rareta no de
  22. kangaesase rareta node
  23. kangaesase raretano de
  24. kangaesase raretanode
  25. kangaesaserare ta no de
  26. kangaesaserare ta node
  27. kangaesaserare tano de
  28. kangaesaserare tanode
  29. kangaesaserareta no de
  30. kangaesaserareta node
  31. kangaesaseraretano de
  32. kangaesaseraretanode

たくさんの書き方があるが、結局はこれらのうちのどれかにすぎないのである。

規則3.複合語を一続きに書くか、区切って書くか、は急いで決めない

たとえば、「高等学校」を

のように二語に書くか、

のように一語に書くか、あるいは

のように「-」を入れて書くか、などは、急いで決めないことにする。 このような語は無数といってよいほどある。 それをすべて決めることは不可能である。 これらの書き方がまちまちだからといって、 かなやローマ字だけで書かれた文章が読みにくくなるとは思われない。 大切なことは、名詞であれば、その前の語から切って書くことである。

(私の採用しているわかち書きでは、名詞に続くものはすべて切ることになるので、 結果として、名詞の後ろも切ることになる。)

動詞についても同様である。 「考えつかなかった」を

のどちらにするかは、すぐに決めなければならない問題ではない。

(これは「考えつく」に「なかった」がついたものである。 前者の書き方では「考え」と「つかなかった」 に分かれてしまっておかしい、と考えるのは気が早すぎると思う。 あとの「付」をお読みいただきたい。)

「きちんと」は、「きちん」に「と」がついたものと理解されるが、 「きちん」だけでは使われない。このような場合でも、 「と」が別の語と感じられるなら、また、辞書がそのように扱っているのなら、 kicin to と切って書いてよいと思う。

それぞれの付属語を前の語につけて書くかどうかについて、 統一的な理論ができる可能性を否定しているわけではない。 できないなら適当に決めればよい、というのが私の考えである。

以上で示した、わかち書きの規則0、規則1、規則2、規則3は、 日本語の文語文にも適用できる。 一般人が文語文、特に古文を読むのは、 専門家が活字にしてくれたテキストに限られる。 その際、わかち書きをしてくれたら、 どんなに解釈が楽になるだろう、と私は思う。

複合語の書き方については、外国語のわかち書きを参考にできる。 ドイツ語には eine Alt- und eine Tenorstimme という書き方がある。 「-」を、前は単語につけ、後ろは切って書くのである。 これはマーラー作曲「大地の歌」の副題の一部で、 この部分は「アルトとテノールの独唱」の意味になる。 省略しなければ eine Altstimme und eine Tenorstimme となったところであろう。 こういう「-」の使い方もありえる。 「小中学校」を syô- cyûgakkô と書くことが考えられよう。 また、英語では、「千一番目の」を the thousand and first と言う。 the thousand and first man は「『千』と『第一の男』」ではなく、 「千一番目の男」である。(この場合、定冠詞 the があることで、 その間の部分が一つの序数詞であることが理解しやすくなる、という面もある。)

日本語の漢字かなまじり文では、一つの語を書くのに何通りもの書き方がある。 例えば、この文章のテーマである語については 「分かち書き」「分かちがき」「分ち書き」「分ちがき」「わかち書き」「わかちがき」 と、少なくとも六種類の書き方がある。 われわれはこのような“多様性”に慣れているのだから、 わかち書きにも“多様性”を認めるべきだと思う。


岩瀬順一