27日の晩、恒例の報徳の寄合が当家の当番。儀式の後、懇親会が22時まで続く。明日から下田爪木崎で所用があるから早めに休もうとしたがしたが、カミサンとその日の反省会。床に就いたのは23時。 28日、5時前に起き諸々準備をするがあっという間に時間が経過。自宅発は5時40分だった。 清水いはらICから新東名を飛ばし、長泉ICから伊豆縦貫道、そして伊豆中央道を下り大仁南ICからR136に出る。修善寺からR414に分かれ湯ヶ島・河津経由で8時過ぎ下田へ入る。 好天に恵まれ所用は順調に進んだ。ところが帰路、河津桜祭りの渋滞に遭遇。2時間半程度だった往路だが、復路は何と4時間を要すことになった。河津から天城湯ヶ島までのR414が断続的な渋滞だった。おまけに修善寺道の料金所は、2つあるゲートを1つしか空けていないため渋滞に拍車を掛けていた。 所用は3月4日までの予定だが、訳あって毎日日帰りとなっている。ちなみに3月1日、8時に現地へ赴くと雨で作業中止。時間があるので、帰路は婆沙羅を経由して松崎へ出てR136で土肥から船原へ出る。すると午前中なのに結構な渋滞に驚く。所用時間は約3時間。 写真は爪木崎の九十九浜、オンマウスは爪木崎公園入り口。 |
20日、トヨムラ静岡店に立寄り、icomのコントロールソフトRS-BA1を打診。非在庫だが明日には届くと言うことで早々に注文。 さて青島もポンカンも殆ど片付いた。25日に「はるみ」の出荷を控え週末は撰果に忙しい。大した量ではないが、2L-4L玉を300Kg程撰果。大半を占める残りのL玉以下は次回出荷に備え貯蔵継続だ。 21日昼、RS-BA1到着の連絡が入り、カミサンと所用に出た晩ついでに引取ってきた。その夜説明書を眺めるも、何とも要領を得ない内容に困惑。A4とA3二つ折りの紙が5枚同梱されているのだが、内容が体系化されず読み込むのに四苦八苦。icomさんらしからぬ説明書に苦笑している内に日が変わってしまう。 22日、はるみの撰果に忙しい中、昼休みと夜の時間で何とかサーバーPCとクライアントPCの動作確認まで漕ぎ着けた。両者がLAN上で接続すると感激する。しかし、無線機運用で思わぬ回り道。「ID又はPW」でお叱りを受ける始末。調べるとユーザーの使用者登録を失念していた模様(i_useよりご指摘)。これで無事問題が解決し、居間のコタツから工房のIC-7600をリモート運用。初リモート運用の相手は7MHz/SSBでJA1VKV田中OMだった。写真はコタツ上の様子。 |
忘れていた。ミカンの出荷終盤になるとミカンの剪定や老木の伐採が始まる。実は「はるみ」の撰果前に、1年振りにチェンソーを取出してきた。コンプレッサでエアフィルタのゴミを飛ばし、混合油とチェーン油を注ぎエンジンの始動確認。2つあるチェンソーの内、小型の方がスロー調整が可笑しい。スロットルを戻すと止まってしまう。マイナスドライバーを調整孔へ突っ込み調整。大型はチェーン油が詰まり気味だが、まぁ使えなくな無い。そして3mm〇棒ヤスリで歯にを研ぐ。これをやらないと、ただのチェーンと化す。またチェーン油はチェーンの発熱や膨張を防ぐ重要な油だ。写真は工房前で点検を終わったチェンソー。数年前までは大きい方のハンドルを握り、片手で前方へ差し出すことが出来たが、最近は腕力が落ち小型のチェンソーがやっとだ。 これで、老木を数本伐採。カミサンは木に上り伸びた枝を詰めている。日当たりや風通し、そして作業環境を考え鋸を入れるが、剪定研修に参加しているだけあって講釈が多い。足元に散乱したミカンの木はチッパーで砕く予定だ。剪定は生産者の考えが見え隠れして面白い。狭い土地で生産量を稼ぐために、木を高くする作りを好んだ先人達の手法は、量から質と作業環境重視へと様変わりした。 |
14日は午前中で終わるかと思った休日出勤。結局14時ころまでかかり、帰宅は15時だった。それで太田ポンカンと青島温州のワケアリ頒布に応えるべく日没まで箱詰め作業が始まった。もちろんカミサンと協同作業だ。取り敢えずこの日の夕方、第一便が運送業者に引き取られて行った。ちなみにこの日の朝の気温は-5℃弱。当家では今シーズン一番の冷え込みだった。 そして15日、朝食前からポンカンの箱詰めを再開。朝食後、富士の友人宅まで軽トラを飛ばし戸配。軽トラに長靴姿を見て「殆ど百姓だね!」とその友人。それをカミサンが聞くと「じゃぁ私は何よ?」ときそうだから黙っていよう。有り難い事で、JA出荷落ちし行き場を失っていたミカンが大分はけた。喜んで貰え、皆さんの顔が見える様だ。 ところで写真は工房のスナップ。拾ってきたラックに怪しいキカイがマウントされ始めている。上にハリスのRF-1310A/EXCITER、その下に自作のGPSロックOCXO、さらに下にはTHAMWAYのリニアアンプDXV-501L、そしてPWM_AFアンプと一番下にRb-SG。一体何するかって・・・散らかっているので取り敢えず押し込んだだけ、と今は書いておこう。手前に僅かに見えるMRF-150x32のSSPAも組込みたい。 |
2月10日、急きょ名古屋で会議があり日帰り出張。会議は1時間半程度で終わったが、実は亡父の同級生H氏のお通夜が清水でありトンボ帰り。帰りはJR清水まで電車で戻り、カミサンの迎えで一緒にお通夜に参列した。H氏とは亡父が健在な頃、自分が運転手を買って出て、幾度か温泉巡りをしたことがあった。懐かしい。 写真はJR名古屋駅新幹線上りホーム。時間があると4号車辺りにあるきし麺の住吉に立ち寄る。もう何年も掻き揚げきし麺のファンだったが、この日はどういう訳かイカ天きし麺にした。これも良いファンになりそうだ。米原方面の雪で、関西からの電車が遅れ気味で、電光掲示板の表示が当てにならない。きし麺の器を抱えながらホームのアナウンスに耳を傾け、時折ホームを覗き込み電車の到着を気にする姿がここの風物詩の様に思える。 さて11日、JA出荷落ちしたワケあり品の頒布案内mailをすると早々に返信。喜んで貰えるならこの上ないことだと対応に励む。ところでオンマウス、昼カミサンのアッシーで静岡松坂屋を訪れた時のチョコレート売り場の様子。バレンタインデー近し!だって…ジジィにゃ関係ないか。それにしてもこのコーナーばかり大変な人出だった。カミサンが何処かに居る筈だが・・・。 |
7日、午前中青島ミカンの最後の撰果と戸配の荷造り。最後とは生食用として残せるモノを残し、残りは加工(缶詰やジュース)業者へ出荷する仕分け。加工用でも見た目を気にしなければ生食として十分通用するから気が重い。それにも落ちるモノは腐りと一緒に大峰山頂へ運び林へ廃棄。以前は全てJAが引き取ってくれたものだが、近年は方針変更し一定の品質に達しないモノ受け取らない。残りは生産者があの手この手を尽くして処理するしかない。生食用なら¥300/kg以上になるが、加工品だとその1/10。生食で売りたければ買い手を探すしかないが、ミカンは生物だから時間も限られる。この作業が、販売などやったこともない一般生産者には辛い。ところで腐りや痛みを林に放置しておくとハクビシンがやって来て食べる。彼らも、この時期林にご馳走が来ることが分かってる様だ。上手に皮を剥き、実だけ綺麗に食べる姿を見てみたい。 そして翌8日も午前中ミカンの撰果。午後からは仕事の関係の工作。PCをはじめ民生機器の氾濫に備えるトランスボックスを製作。これは、かつては考えられなかったことだが、微弱信号不平衡伝送の限界に無頓着な御仁が最近多くなったことへの警鐘か。 |
もう2月になってしまった…。最近PC操作をすると何故か反応が鈍い。特にNAS(NetworkAttachedStrage)に保管したデータを覗こうとしたり、NAS内でファイル移動しようとすると、全く動かなくなったりする。HamLogや日記等のデータもNAS内に有り、読み出したり書き込んだりする時、ドライブを見つけられなくなったりしていた。無線ルータのUSBポートにHDDをぶら下げた簡易NASのため、てっきり無線ルータがNGと思い込み、電源再投入で凌いでいたつもりだった。しかし全くのお門違いだった。NASのHDD(2台共)が死にかけていたのだ。連日の不具合にはホトホト疲れ、結局本日5日、会社の帰りにPCショップを尋ねRAID+MIRROR対応の2TBのNASを買ってきた。何時ものことだが良くできていて、早くからこれにすりゃ良かったと内心呟いた。10年近く前より、現役引退NOTE-PCにFreeNASを組み込んでNASを構築してきたが、トラブル対策やそれに掛かる時間や労力を考えると限界。市販品が出回り、もう買う時代だなぁと認識。無線ルータのUSBポートに依存する必要が無くなり、そのルータも撤去(無線はNTTルータPR-401Mで対応)となった。写真は壊れる前にバックアップするHDD。オンマウスは新調したNAS…もう市販品の時代だ。 |
静岡市葵区西草深で駿府城公園の堀端の歩道を歩いたら写真の如きマンホールに遭遇した。実は以前からこの「絵画マンホール」はこの付近の名物だったのだが、最近新調された様で見るからにど新品。公園内やその周辺を歩いてみると幾つも確認できる。益体も無いと言う頭の固い御仁の声が聞こえてきそうだが、見ていると楽しくなり果たしてそうだろうかと反論したくなる。折りしも今年は徳川家康公没後400年と言うことで、マンホールの絵柄や内容にそれが反映されている。なんとも穏やかな感じがして静岡らしく思うがどうだろう。 因みにこのマンホールには「大御所家康公 顕彰四百年」と記されている。400年も昔の徳川時代の人々には現在の社会など想像もつかないだろうが、我々は当時の人々の暮らしに思いを馳せることが出来る。ところが、400年後の人々は今の我々の時代に思いを馳せることが出来るのだろうか…。そもそも日本国が今のまま存在するのだろうか…。昨今の国際事情を見ると、穏やかさに欠けた、理解に苦しむ価値観による「いざこざ」がやたらと多い。平和と安定は誰しも望んでいる筈なのにいったいどうしたものか。大局を見誤らず、異文化を理解し、そして穏やかな時代が末永く続く事を願っている。 |
余りの訃報の多さに困惑しながらも時間は流れていく。先週の日本平に関係する仕事が23日(浜松)、24〜27日(静岡)、そして28日再び日本平と続いた。31日に親父の四十九日忌の法要を控えるも、休日出勤でその準備もままならない。元々修羅場で力を発揮する性格か、間際にならないとエンジンが掛からない。と言うより目の前の仕事やお客さんが先ずは優先で、後のことはその大小に関わらず、その時に考えようとする悪い性格とも言える。 さて、休日出勤の甲斐あって予定内に作業が完了したが、29日はその事務処理でアッと言う間に時間が経過。30日はさすがに休みを貰い、朝からお菓子屋・花屋・銀行などをカミサンと手分けして回り法要の準備。晩にはお寺へ赴き挨拶と届け物など多数。女将さんが話好きでいつも話が長くなるが、愉快で楽しい。そして当日。朝からお菓子屋を往復し、引き出物の準備等に時間を取られていると、気の早い親戚衆が集まり出した。墓が自宅にあるものだから、自宅→寺→墓→自宅と4回もお経と線香を上げた。その後場所を変えて2時間程の昼食会。親戚衆は自宅に戻りお茶会(写真)。結局解散は15時半頃か。長い一日だったが、ようやく一区切りついた感ありとカミサンと胸をなで下ろす。 |