Oct 24. 2004 小川ロンさんからの便り

知る人ぞ知るシンガーソングライター小川ロンさんから手紙が届いた。小川さんは1974年、金海たかひろさんとJUNKというデュオバンドを組み、「鵜戸参り」と言う曲でCBSソニーよりデビューした。その後「恋路ヶ浜」「都会の旅人」や「恋人よ」などを唄っていたが知らないうちに解散し、その後ソロ活動を開始し今でも全国を唄い歩いている。
昨年11月にそのJUNKが一夜だけの復活コンサートを静岡市で行ったとき、昔コンサートでPAミキシングを担当した事が縁で祝電を打った。そのお返しに小川さんからツアーの度に案内が届くようになった。最近届いた案内を見てビックリ!。JUNK復活コンサートのチラシが入っていた。今回は11月20日(土)、場所は昨年と同じ静岡市鷹匠の「蔵KURA」である。写真は送られてきた案内やチラシ・・・一度覗いてみたい。興奮して眠れない夜を過ごすかもしれない・・・。オンマウスカーソルすると小川ロンさんのロゴが見える。小川さんからの手紙にはいつもこのロゴがスタンプされていて楽しくなる。
JUNKのコンサートに興味のある方・・・是非ご参加下さい。「蔵KURA」の連絡先が不明の方は当方にお尋ね下さい。

Oct 22-23. 2004 またしても三国山へ

10月21日、台風23号は平成に入って最大の死者・行方不明者を出して通り過ぎていった。日本各地で水害に遭われたり犠牲になられた方々にお見舞いとお悔やみを申し上げたい。
幸い当地名古屋は大した被害もなく済んだが、それでも強風によりまた仮設したアンテナの方向がずれてしまった。 その復旧作業のために再び三国山に登った。ところが台風一過の22日の三国山山頂は、地上では考えられないような強風が吹き荒れ満足な作業が出来る状況ではなかった。止む無く下山し、翌23日に再び登り作業を完了させた。
写真は22日朝8時頃に撮影した模様だが、この写真からは余り強風感は伝わってこない。三国山山頂はこのように行政を始めとする多くの機関が無線鉄塔を設置しこの地方の無線通信の要となっている。しかし最近は通信の主役は衛星と光ファイバーに移行しており、山頂は何となく寂しさが漂う。オンマウスカーソルすると三国山山頂から見た瀬戸デジタルタワーとその周辺が見える。タワーの左手が南で右手が北。名古屋市は右手奥方向になる。

Oct 17. 2004 名古屋市守山区大森「八剣神社」の秋祭り

秋と言ったら守山区大森八剣神社秋祭りの「棒の手」と「鉄砲隊」だろう。子供たちは中学までこの棒の手にお世話になった。この春卒業した3男は参加したそうだったが、学校の用事があるため朝6時半に家を出て(棒の手の)師匠に挨拶してから登校した。今年は5年に一度の大祭で関係者の皆さんが町内を練り歩いたが、飾り付けられた5頭の馬も行列に参加し雰囲気を盛り上げた。
写真は13時頃から始まった棒の手の奉納の様子。各島でこの一ヶ月程の間に稽古を積み、今日が晴れ舞台と言う段取り。周りに散る白い袋は華と呼ばれ、祝儀袋に小銭を入れ名前を書いたものを、演技が始まったら景気付けに客席からばらまく。子供たちが参加していた西島地区では1人について10枚をまく事になっている。メンバーが30名いると300袋で、兄弟3人がお世話になっていた頃は300枚x3=900枚を作っていた。ちょっとした夜なべ仕事で、心意気の世界が理解できない方にはこの作業は辛いかもしれない。オンマウスカーソルで見えるのはもうひとつの楽しみである鉄砲隊の実演。数十丁の火縄銃が一斉に火を放つ・・・数mの至近距離で見る迫力は言葉や写真では説明できないほどだ。是非一度お越し願いたい。

Oct 16. 2004 プロ野球日本シリーズ「中日-西武」戦開幕

プロ野球日本シリーズが始まった。仕事帰りにカミサンと待ち合わせて初戦を観戦してきた。ゲームは中日が2安打しかできず2-0で西武が初戦を飾った。エース川上は西武の和田にソロホームランを浴び、見方のタイムリィエラーで2失点したが、7回を好投をして降板した。中日は西武の石井投手を打ち崩せなかった。このゲームは勝負より5回裏に起きた審判の判定をめぐる49分間の中段の方が印象に残った。1アウト、ランナー1塁から打者の捕手ゴロをめぐる騒ぎである。打者は1塁に走ったが審判は捕手がボールを拾ってタッチしたと見てその時点でアウト宣言し2アウト。続いて捕手は2塁に送球したが、他の野手や審判それに観客には最初から併殺を狙っているように見えた。その結果2塁ベースに入った遊撃手はホースアウトと思い込み1塁走者にタッチせず1塁に送球した。塁審はフォースアウトと勘違いしてアウト宣言して3アウト。とまぁざっとその経過だが、結局2塁にランナーを残し2アウトからゲームが再開した。写真は中断途中ホームプレート付近に集まった審判団と落合監督と伊東監督。観客は一時総立ちになった。試合以外の音が大きすぎ野球観戦に集中できないのが残念である・・・ドームは演奏会場ではないと思う。

Oct 11. 2004 清水の温州ミカン(mandarin orange)の味

この日の午後早々にVK(Australia)へ旅行に行く両親(80歳)と隣の叔母さんを見送り名古屋の自宅に向かった。午前中は台風一過2日目というのに雨が残り、家の前のミカン畑には多量の露が残った。そんな中オフクロが温州ミカンの早生を幾つか摘んで来て土産に持たせてくれた。それから自家製のサトイモとさらに35年程前に家のミカン切りの手伝いに来てくれていた新潟のMさんから届いたコシヒカリも一緒だ。しかしこの季節からは何といっても私にはミカンである。
写真はオフクロが持たせてくれた温州ミカンの早生だが、同じ早生でも畑の中の土壌の状態や日当たりの関係で木によって、或いは同じ木の中でも位置によってまるっきり甘さが異なる。子供の頃からの感覚でそれが何となく分かり、自分の好きなミカンの木が必ずあったのが面白い。色の付き具合、皮の柔らかさ等など。程よく酸味が残る当地のミカンに慣れ親しんで来たから、甘さだけで売っているミカンには新鮮さを感じる事ができず、缶詰のように思えてならない。オンマウスカーソルすると土を落とした(赤目)サトイモが見える。このサトイモに油揚げとネギを入れた味噌汁が好物で、帰省すると必ずオフクロが作ってくれる。

Oct 10. 2004 台風(22号)一過の帰省

台風22号が9日に伊豆半島南部に上陸し関東方面へ抜けていった。石廊崎では最大瞬間風速67.6m/sを記録。伊東では関東大震災で屋根瓦の重さで家がつぶれた苦い経験から軽量のトタン屋根の家が多いが、これが運悪く突風で飛ばされる被害が続出。伊豆内陸部からは雨で土砂や流木が流され、修善寺では文化財の中をそれが流れていった。流木はかつて有益な資源だったが今はただのゴミ。この地方では伊豆大島近海地震(1978)以来の被害ではなかろうか。
10日は台風一過と言っても雨が残った。名古屋はまずまずの天気だったが、東名高速を静岡県に入るといきなり雨に遭遇。路肩には前日の強風を物語る小枝や落ち葉の散乱が吉田辺りまで続いていた。
写真は実家の静岡市清水山切で栽培している地元名産の太田ポンカン。朝露と言うより雨に打たれてみずみずしい。幸いにも実家周辺は台風のルートから反れ、被害は殆ど無かった。農林水産業である第一次産業は自然と直結しており、収穫までの苦労は都会の価値観では測れない。温州ミカンも太田ポンカンも鳥獣に悪戯されないで無事収穫され ることを願っている。

Oct 1. 2004 再び三国山へ・・・そしてドラゴンズ優勝!

所用で再び三国山に登った。9月29〜30日にかけて通過した台風21号の強風でずれたアンテナの芯を修正するためだ。台風一過の三国山からは、渥美半島はもとより遠く志摩半島まで臨める快晴であった。今朝の名古屋はこの秋一番気温が下がったが、これだけ天気が良いと気温の上昇で空気中の屈折率が変わりμ波ではフェージングを生じ易い。写真は8時半の撮影であるが、この1枚を撮ったらバッテリーが上がってしまい、その後の写真を撮れなかった。暖めたら復旧するかと思い、バッテリーを日干しにしたがダメだった・・・トホホだが、まぁ1枚取れたからと自分に言い聞かせた。
夜ナゴヤドームではD-C戦が行われた。1-1で延長になった頃、G-Y戦で2位のYが破れドラゴンズの優勝が決まってしまった。町にはドラファンが繰り出し、ドラチキの店ではオンマウスカーソルで見る如きシーンが夜更けまであちこちで見られた。この写真は同僚と立ち寄った中華料理店の模様。閉店時間を過ぎてもドラのユニホームを着たお姉さん達が気勢を上げていた。ドラファンにはたまらない一日だったが、マリナーズイチロー選手の記録も気になって仕方ない。