国歌 君が代
今から千数十年ほど前、延喜五年に出た歌集「古今和歌集」の巻7、賀歌の初めに「題しらず」「読み人知らず」として載っているのが初めです。その後、新撰和歌集にも、和漢朗詠集にも、その他数々の歌集にも載せられました。また、神様のお祭りにも、仏様の供養にも、酒宴の席でも、そして、盲目の乙女の物乞いにも歌われました。
これに曲がつけられたのは、明治2年10月ごろ、当時横浜の英国公使館を護衛するために、日本に来ていたイギリス歩兵隊の軍楽長、ジョン・ウィリアム・フェントンが言い出したからということです。
彼は、
「儀礼音楽が必要だから、何かふさわしい曲を選んだらどうでしょうか。」
と、当時薩摩藩の大山巌に進言し、それに基づいて、大山が数人と相談して、平素自分が、愛唱している琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている「君が代」を選び、その作曲をフェントンに頼んだということとなっています。
しかし、その曲は、日本人の音感にふさわしくないということになりました。1880年(明治13年)、宮内省雅樂課に委嘱し、課員数名の中から奥好義の作品が選ばれ、一等伶人(雅楽を奏する人)の林広守が補作して、発表されたのがこの曲です。これに洋楽の和声をつけたのは、当時教師として日本に滞在していたドイツ人の音楽家フランツ・エッケルトです。
この曲については、次のようなエピソードがあります。日本の代表的作曲家山田耕作氏は、若い頃ドイツに留学していました。その頃ドイツの大学の音楽教授たちが、世界の主な国歌についてコンクールをしました。その結果第一位に選ばれたのが日本の「君が代」でした。
(1)「さざれ石の巌となりて」について
「さざれ石というのは、細かい石のことです。さざれ石が固結した岩石を礫(れき)岩といいます。つまり、さざれ石は巌になるのです。その順序はこうです。
日本列島やアルプスやヒマラヤ山脈などのできかたをみると、大陸の周辺に地向斜という細長い海ができる。そこに大陸から運ばれてきた小さな石(さざれ石)が堆積を続け何千万年という長い間に、圧力で固結して岩石となる。そこが、やがて地殻変動で、隆起して山脈となる。・・・という一連の現象が、地質学の造山論の骨子であります。地質学発達以前にできた「君が代」が科学的にみて、現代の地質学の理論にピタリと合っているのは不思議なくらいで、歌詞には非科学的なところは少しもないというのが地質学者の見解です。
これは、「天皇の御代がいついつまでも」と言うような意味です。現代は、民主主義の時代であるのに、天皇を讃える歌を歌うのは矛盾しているという考えもありますが、それは、表面的な解釈と申せましょう。
現憲法の第一条には、
「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」
とあります。象徴という言葉を考えてみましょう。「鳩は、平和の象徴である。」というように象徴とは、目に見えないもの表現しにくいものを、目に見えるような形に表したものです。天皇は、日本国民が一つに統合されるシンボルということになっています。したがって、「君が代は、千代に八千代に・・・」の意味は、現憲法に照らしてみても「日本及び日本国民が、いついつまでも平和で栄えますように」という意味になります。ですから、民主主義とは少しも矛盾しないことになります。
イギリスの国歌は、世界で最も古く有名なものですが、労働党内閣ができても、「神よ、守れ、女王を」と歌っています。それで、民主主義と少しも矛盾しないことを、イギリス人は知っているのです。
小学校の校歌でも、一年生や二年生にも全部意味が分かって歌えるような歌でなければならないということになると、ある意味では、非常に幼稚な歌にならざるを得ません。だから、必ずしも歌というものは、全員が意味を完全に理解してから歌わなくてはならないというものではなく、歌っていくうちに、だんだんその意味が分かってくるというものでよいでしょう。国歌は童謡ではないのですからただ分かりやすい歌詞というだけでは充分ではありません。
日本を代表する歌の歌詞として、日本文化の中から生まれたもの、古くから人々に親しまれ、しかも、格調の高いものであることが望ましいのでしょう。その意味でも、この歌は、ふさわしいと言えるでしょう。
どこの国でも、戦争のときは国歌を歌い、その軍隊は、国旗を掲げて戦争をします。ですから、どこの国の国歌も国旗もみな戦争につながることになり、特に日本の国だけ戦争の時、国歌を歌ったというわけではありません。戦争というものは、国の総力を尽くしてするものですから、どこの国でも国民の力を結集するために国歌を歌います。
また、当然のことですが、「君が代」を歌えば、日本が再び軍国主義化するとか、戦争につながるという議論は成り立ちません。日本以外の国でも戦争をしています。それどころか、日本は世界の中でも戦争の少ない国なのです。
竹山道雄氏の「剣と十字架」によれば、1480年(文明12年-室町時代)から、1941年(昭16年)までの戦争の回数は、次のようになっています。
イギリス 78回、 フランス 71回、 ドイツ 23回、 日本 9回
これによっても、日本は平和の続いた国だということが分かると思います。
天皇陛下が、平和を願っておられたことは、陛下の御製を詠むとよく分かります。アメリカとの開戦前、陛下のお気持ち尋ねられた時、日露戦争前に明治天皇が詠まれた御製を繰り返し詠まれました。その御製とは、次のような和歌です。
四方の海、みなはらから(同胞)と思う世に、など波風の立ちさわぐらむ
(海をへだてた我が国のまわりの国々は、皆兄弟だと思っているののに、どうして、互いに敵として,憎み合い、戦争をしょうとさわぐのだろうか。)
フランスの国歌は、初めから国歌として作られたものでも、定められたものでもないのです。だんだん多くの人に用いられていくうちに定まったものです。
これは、一例にすぎませんが、我が国の「君が代」の場合は、一つの法令が発せられているから国歌であるとかその法令が見当たらないから国歌でないなどと議論してことを決すべき性質のものではないでしょう。
幾百年にわたって、広い地域で多くの先人に歌い継がれてきた「君が代」の和歌が、興るべき時に際会して、稀世のメロディを得、世界に認められる儀礼曲となったものです。一千年を越す歴史の所産なのです。洋楽となってからも100年以上用いられて今日に至ったのです。
外国の国歌と比べてみましょう。外国の国歌は、戦争や血や敵などという戦闘的なイメージが多いのです。それに比べて、日本の国歌は、なんと平和な歌でしょう。
初代の天皇陛下より、代々の天皇陛下は、日本国民を愛し、その幸せと日本国の発展とを祈って来られました。それに対し、国民は、天皇様を尊敬し、お慕い申し上げてきました。だからこそ、2千年以上もの間、この関係は続いてきたのです。
日本国歌
君が代は、千代に八千代に
さざれ石の巌となりて
こけのむすまで
6,外国の国歌
アメリカ国歌 中国国歌
見よや 朝の薄明かりに
たそがれゆく み空に浮かぶ
われらが旗 星条旗を
弾丸降る 戦の庭に
頭上高く ひるがえる
堂々たる星条旗よ
おお われらが旗のあるところ
自由と勇気共にあり
たて、奴隷となるな
血と肉もて 築かん
よき国 われらが危機迫りぬ
今こそ 戦う時は来ぬ
立て立て 心合わせ敵に当たらん
進め進め 進めよやフランス国歌 イタリア 国歌 ゆけ祖国の国民 時こそいたれり
正義は我らに 旗はひるがえる
聞かずや 野に山に 敵の叫ぶを
悪魔のごとく 敵は血に飢えたり
立て国民 いざ ほこをとり進め
あだなす 敵をほうむらん
友よ立てよ イタリー目覚めぬ
シビオの兜を 頭にいただき
勝利はいずこぞ 勝利は神に
常にローマの手の中に
剣をとれ 命捧げん
命捧げん 国のため
剣をとれ 命捧げん
命捧げん 国のため
おお!
イギリス国歌 ロシア国歌
おお神よ 我らが慈悲深き
女王を守りたまへ
我らが気高き女王よ 永久にあれ
神よ女王を守りたまえ
君に勝利を
幸福と栄光を賜わせ
御代の長からんことを
神よ女王を守りたまえ
ロシア 聖なる我らの国よ
ロシア 愛しき我らの国よ
力強き意志、大いなる栄光
汝が持てるものは世々にあり
南の海より極地のはてへと
広がりし 我らが森と草原よ
世界に唯一なる汝
真に唯一なる汝
神に守られた祖国の大地よ